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第五書・第五章

聖母が御子を永遠なる御父に犠牲として捧げる。
イエズスはナザレトを離れる。

 私たちの偉大な女王である聖母の神の御子に対する愛は、聖母の感情や行動を計る標準の尺度です。この標準は、人間も天使も測れません。一応の説明をしますと、聖母はイエズスを永遠なる御父の御子、つまり神として愛しました。自分の息子として愛しました。また、イエズスを聖人中の一番偉大な聖人として愛しました。御子は御母の孝行息子であり、最も壮大な恩恵者でもありました。御子は御母をあらゆる被造物よりももっと高め、神の宝を贈り、被造物を支配する権利もお与えになりました。他のどの被造物にも与えられないこの御恵みについては、御母だけが理解できます。御母の御心は至純、謙遜、信心深く、注意深く、最も熱心、絶えず主の愛を思い、主の愛の学校で主である先生を見習いました。御母は、正義の太陽である主の光を受け、輝く満月のようです。御母は、あらゆる被造物に対する執着心をなくし、太陽の光により全く変容しました。神から受けた愛のお返しとして、御母の全ての愛と希望を神に差し出すことになります。永遠の御父がアブラハムに独り息子イサクをいけにえとして捧げるように命令された(創世22・2)ように、御子を犠牲として捧げることです。 その犠牲の時が近づいてくるのを御母は御承知でした。その時、御子は三十歳になっておられましたので、御子が人類の聴いをする時は迫っていました。御母は幻視の中に包まれ、聖三位一体の御前に呼ばれたように思えました。次のような御言葉がありました、「マリア、我が娘にして浄配よ、我に汝の独り子を犠牲として献げよ。」 全能の神の御旨が伝わり、至聖なる御子の御受難と御死去による人類の救いの御命令と、救い主の説教と公生活の間に起こるであろう全ての事柄が見てとれました。この知識が御母の霊魂の中で更新・完結すると、従順、謙遜、神と人に対する愛、御子が苦しまれることの同情と、優しい悲しみに満たされました。

 しかし、決してうろたえない高潔な心で御母はいと高き神に返事をしました、「永遠の王、無限の智恵と善の全能の神、全ては御身の慈悲と善のお陰で存在しております。御身は全ての不滅なる主でございます。御子を犠牲として引き渡すよう命令されるのはいかなることでしょうか? 永遠の御父よ、御子は御身のものでございます。永遠に御子を産み、永遠に所有されておられます。私の胎内で私の血により、一人間としての御子を形作り、私が御子に哺乳し、母としての役目を果たしたとしても、御子の聖なる人間性も御身のものでございます。私の存在の全てと私が御子に与えたものは御身より頂きました。御身のものでないものを私が御身に捧げられるでしょうか? いと高き王よ、壮大にして慈悲なる御身は被造物に無限の宝を山ほど下さいましたので、御身御自身の御独り子を御身に贈ることを御身はお望みになります。御子は私の徳の中の徳、私の霊魂の命、私の喜びの全てでございます。御子の真価を知るただ一人の御身に御子をお渡しすることは甘美なる犠牲となりますが、御子を残酷な敵の手に渡し、被造物よりも貴重な御命を失わせることは、母親の私に取叶大きな犠牲でございます。しかしながら、私の意志ではなく、御旨が行なわれますように。人類に神の子の自由が戻されますように。御身の御名が全被造物に知られ、尊まれますように。私の胎内より生れた御子を献げ、御身の不変の御命令に従います。御子がアダムの子らの過失による罰を正しますように。御身の聖なる預言者が書き、予告したことが、御子の死により成就されますように。」

 この犠牲は天地創造以来、世の終わりに至るまで唯一最大、最も効果のある犠牲です。御母の犠牲は御子の犠牲に関連しています。御母にとり、御子の命の方が自分の命よりも大事でした。御母の御子に対する愛の深さは、永遠の御父の御子への愛を尺度として測ることができます。我らの主イエズス・キリストがニコデモに、神は人々を愛するが故に御独り子を人々に引き渡し、神を信じる者は誰も滅びないようになさったと言われました(ヨハネ3・16)。私たちの救いは、同様に御母のお陰です。御母が私たちを大変愛して下さったので、私たちの救いのため、御子を私たちに与えて下さったのです。御母の御意志は永遠の御父の御意志と一致したのです。御母の犠牲に報いるため、聖三位一体は悲しみの御母を慰め、永遠の御父の御意志について説明しました。そのため、御母は神の幻視の中に包まれ、神を直感的に幻視しました。人となられた御言葉の御業を理解し、御業が神となることを見て歓喜し、自分の御子を御父に捧げる御約束を更新しました。誰にも負けない堅忍を持って、御子の共媚者と助手となるよう、神から助けて頂きました。

 この幻視により、御母は御子と別れる準備ができました。御子は洗礼を受け、そして砂漠に行き断食することになりました。御子は御母に申し上げました、「母上、私はあなたから生れ、人間となりました。あなたの胎内で人間という僕になりました。あなたは私に授乳し、私を育て、苦労しました。ですから、私は普通の意味での息子以上に母上の息子です。私が永遠の御父の御旨に従うことに同意して下さい。母上の許を離れ、救世の業を始める時が来ました。休息の時は終わり、アダムの子らを助けるため、苦しむ時が来たのです。母上のお助けを得て、御父の御業を成就したいのです。受難と十字架上の死を準備する時、母上は私の伴侶・助手になることになっております。私が今別れても、私の祝福と保護は母上に残ります。後に帰って来た時、母上の助けと同伴をお願いします。」この時、御二人は大泣きしました。主なる御子は御腕を御母のうなじに回し、御二人とも苦しみを耐え忍ぶ大家としての威厳と気風を備えていました。御母は御子の足許に続き、答えました、「私の主なる永遠の神、御身は正真正銘の我が子です。御身は愛に充ち満ち、私はそれを授かっております。御身の命を私が助けられるならば、または、私が御身のために何回も何回も死ぬことができるなら、私の命はどうなっても構いません。私の意志ではなく、永遠の御父の御旨が成就されますように。そのために私の意志を犠牲にいたします。私の犠牲をどうぞ受け取って下さい。御身の受難と十字架の死に私が参加できないことほど私にとって辛いことはありません。」 御母は御子に、旅の食料を渡したかったのですが、御子は同意しませんでした。聖家族の見すぼらしい家の出口で御母はもう一度続き、御子の祝福を頂き、御足に接吻しました。御子はヨルダンに向かって∴歩き始めました。迷った羊を探し、肩に乗せ、永遠の生命に向かって連れて行くためです。

 その時、我らの救い主は三十歳と一ヶ月になったばかりでした。洗礼者聖ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けました。私たちの先生である神は、救世の目標に向かい、歩みを早めて苦しみの時間を短くしようとしませんでした。救い主が受けるべき受難と十字架により、私たちに幸福を獲得して下さったのは、主の計り知れない愛と善により、私たちの幸福を重んじて下さったからに他なりません。

元后の御言葉

 私の娘よ、御子の御受難と十字架には大変な価値があり、十字架の道行きに参加する人々にもその価値があることを私は理解しました。従って、私自身も御子に付き添い、御子の悲しみと苦しみ全てを共に受ける許可を御子に願い、頂きました。その苦しみの期間、神がいつも下さる喜びを抹消して下さることもお願いし、そうして措きました。御子は私を心から愛しておられるので、私のこの願いは御子の希望でもあったのです。喜びが消えると御子はよそよそしくなり、私をカナの婚宴や十字架刑の時、私を母と呼ばず、婦人と呼ばれたのです。御子自身の苦しみと私の苦しみを一致同化するための印です。

 私たちの内、ほとんど全員は、自己犠牲と十字架への本当の道を嫌がり、怖がります。そして、この世の真の最高の祝福を失います。受難は、罪からの回復のための唯一の手段ですから、苦しみを避ける限り、回復は不可能となります。苦しみと悲しみにより、罪の湯気は減り、情欲は押し潰され、誇りと高慢は引き下ろされ、感覚はコントロールされ、霊への傾向はなくなります。自由意志は理性による枠の中に入れられ、情欲に我が身を任すことはなくなるでしょう。神の慈愛は、苦しみ悲しむ人々の上に注がれます。この苦しみの意味を知らない人や、苦しみから逃れる人は、愚かか気違いです。

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