一夜だけの約束? 7



一夜だけの約束? 7
Promise of One night only



 仙道は食堂に駆け込んだ――が、母もその場にいて、水戸にちやほやされているのが目に入っただけだった。 花道はその脇に、疲れた機嫌の悪そうな顔で立っていたが、ふたりに腹をたてている様子はなかった。三人はテーブルのそばにいたが、 まだ座ってはいなかった。
「くそっ」
 遅れをとった。
 それにも増して嫌なのがこの嫉妬心だ。これまで感じたことがないし、今感じてみても気に入らない。 足を床から引き剥がすようにして、なにげないふうを装って三人に近づくと、三者三様の態度で迎えられた。
 花道は不機嫌そうな視線をチラリとよこした。確かにカフェインが必要そうに見える。

 一晩中起きてたのか?
 何をして?

 母は頬を染めていた。水戸に何を言われたのだろう。というか、おふくろは何を想像したんだろう。落ち着きを失った母を見たことがなかったから、 もし桜木と水戸のことで疑惑を抱いてなかったら、この状況をおもしろいと思えただろうに。
 あきらかに操を口説いていた最中の洋平は仙道を百パーセント無視した。操しか眼中になかった。

 …いったいどうなってんだ?

「おはよう、みんな」
 花道が眉をひそめ、操がきょとんとするのを見て、仙道は自分の笑顔が今にも飛び掛りそうな狂犬のように見えることを悟った。
 水戸が全身をじろじろ眺めて、珍しく髪をちゃんと整えていなかったこと、髭剃りを忘れたことを思い出させてくれた。
「…ベッドの間違った側から出てきたから、虫の居所が悪い、…ってトコっすかね?」
 仙道は目を細めた。
「まちがったベッドから出てきたってとこだ」
 ギョッとして操が言った。
「彰!」
 花道はぎゅっと口をつぐみ、文句を言いたそうな、火を噴きそうな怒った顔になった。
「ハッ、ちょうどよかったぜ。これでアトが楽になる」
 その言い方が気に入らなかった。
「これ?」
「オメェがゆうべ、浮かれ騒いだってわかったことだよ!」
「…浮かれ騒ぐ?」
 花道の誤解に面食らって仙道は首をふった。
「違うよ。オレが言いたかったのは、自分のじゃなく、おまえのベッドから出てきたかったっていうこと」
 操にいきなりギュッとつねられた。

「うわっ」

 仙道は飛び上がりわき腹をさすった。
「痛いなあ」
「自業自得よ。お行儀ってものを知らないの?」
 食堂にいる全員が息子の言葉に耳を傾けているとでも思っているのか、気ぜわしく周囲を見まわす。
「私たちにまで恥ずかしい思いをさせるつもり?」
 洋平は恥ずかしがっているどころか、今にも笑い出しそうに見えた。
 花道は怒っているように見えた。おでこをこすり、小声でなにかつぶやく。今日の花道はつややかな赤い髪をやや上のほうでくくっていて、 ジーンズは比較的新しそうだ。
 その花道が息を吸い込むと、誰にともなく告げた。
「シゴトに行かねぇと」
 仙道は椅子を引いた。
「まずはコーヒーを一杯飲んでから」
 昨夜何があったかわかるまでは、花道を目の届かないところに行かせてなるものか。
「ダメだ、オレは…」
 まさしく兄弟のように遠慮なく、洋平が花道の肩をつかんで、無理矢理椅子に座らせた。「コーヒーだ。花道」
 洋平が押さえていなかったら、花道はさっさと立ち上がっていただろう。
「おまえがいらなくてもオレが飲みたいからな」
「だからオレが今朝煎れるっつったのに!」
 苦虫を噛み潰したような顔で仙道を見ながら花道がつぶやいた。が、ようやく降参して椅子の背に寄りかかった。
「オレは胃の中のものを取っておきたいからエンリョしとく」
 操に椅子を引きながら洋平は補足した。
「コイツの煎れるコーヒーは最悪なんだ」
 仙道がじっと洋平を睨んだ。
「…一晩泊まったんなら、あんたが煎れればよかっただろ」
 花道がぱっと顔を上げた。驚きに目が細まっている。操の顔から血の気が引き、すぐに真っ赤になった。
 洋平が両手を掲げた。
「おいおい。誰かが銃に飛びつく前に説明させてくれよ。オレは…」

 次の瞬間、洋平がびくんとしてギャッと叫び、それからしゃがんで脛をさすりながら花道を睨んだ。花道はぷいっと顔を逸らした。
 仙道はずばり核心に迫ることにした。
「水戸と寝たのか?」
 今度は操も息子の行儀の悪さがまったく気にならなかったらしい。花道が偽りの甘い笑顔を仙道に向けた。
「テメェにはぜぇんぜんカンケーねぇなあ」
 仙道が口を開きかけた時、洋平が言った。
「おい花道、何かあったみてえな言い方はよせ。仙道サンをいじめてぇだけなんだろ。お陰でオレまで迷惑する」
 操の手を取り、彼女が必死で振り払おうとするのも無視して包み込む。
「花道とオレは友人だ。終わり。それだけ。いままでもこれからも単なる友人でしかない。わかりました?」
 仙道はその言葉を信じたかった。
「…じゃあどうしてゆうべは泊まった?」
 まだコーヒーは注がれてなかったので花道は椅子を引いた。
「立ち入りすぎだセンドー。最初に言っただろ。オレの生活に踏み込むなって。オレが『オーケー』したからって……その、 ホカのことを……だからってなんでもかんでも訊いていいってことじゃねえ」

 その激しさ、その震えながらの反応に、仙道は驚いた。
 ゆうべ、なにかとてつもなく悪いことが起きたのだと直感で悟った。花道と再会して一週間ちょっと経つが、こんなに打ちのめされた声ははじめて聞いた。
 嫉妬も好奇心も、心配の陰に消えた。ゆっくりと花道に近づいた。

「…桜木、どうしたの?」

 愛情のこもったやさしい口調に、涙をこらえようとしてか、花道がぎゅっと目を閉じて、それから仙道の予想通り、誇りの詰まった胸を張った。
 搾り出すような声で、仙道の視線を避けたままこう言った。

「もう、やめようぜセンドー。もう…二度とオレ、オメェに会いたくねぇんだ」

 当惑に暮れて洋平の方を向くと、まだ操の手をにぎったまま、こわばった顔に暗い表情を浮かべていた。
「…洋平。コーヒー飲んでから来いよ。オレ…先に作業場に行ってる」
「おい花道」
 洋平が呼びかける。
「そんなつもりじゃ…」
「こうすんのがイチバンいんだ」
 頭を高く掲げ、背筋をまっすぐ伸ばして花道は出て行った。このときばかりは仙道も引き止めなかった。
「彰」
 母の声は心配で和らいでいた。
「もしかしたら追いかけた方が…」
 洋平が咳払いして遮るように言った。
「アイツにはいろいろ考える時間が必要なんだ。それだけだ。オレの言葉を信じてください、仙道サン」
 仙道は何も言わなかった。何を言えばいいのかわからなかった。

 これまでの人生で女に振られたことは一度もない。
 嫉妬を『好きではない』とすれば、これは『大嫌い』と言えた。

 うんざりした声を洩らしつつ拳を握った。
 時間? そんなに必要ならいくらでもくれてやる。

 洋平が操の手を口許に寄せ、指の関節にくちづけた。
「悪いけどオレもいかねぇと。花道は……混乱してるから」
 操はうなずき、そこではたと自分が何をされているかに気がついて手を振りほどき、洋平を追い払うようなしぐさをした。
「ええ。もちろん。どうぞ。私の許可をとる必要はないわ」
 洋平が仙道のほうを向き、まじまじと見つめてから天を仰いだ。

「おいおい、頼むぜ。どっぷり暗くなってるじゃないすか。そんな必要ないのに。男のエゴにひたる代わりに、ちょっと冷静に考えてくださいよ」
 今朝はとうてい侮辱を見過ごす気分ではなかった。
「…何を考えろって言うんだ?」
「そうだな。花道は自分が気にかけてる人間全員を守りたがってるっていう事実とか」
 花道は自分を見せようとしないから、その『事実』を知るほど花道を知らない仙道はイライラが増しただけだった。
「あいつはアンタを守ろうとしてるのか?」
 洋平が首を振った。

「オレやあんた、本人以外の全員を、だ」

 とがめるように指を仙道に突きつける。
「オレが思ってる半分でもあんたが賢けりゃ、アイツは諦めていいヤツじゃないってわかるはずだぜ?」
 怒りと苛立ちが全身に広がり、仙道はわなわなと震え、爆発しそうになった。
「暗号みたいなことばかり言いやがって、説明してくれるんだろうな?」
 洋平はうつむき、鼻の付け根をつまんだ。低い声で罵るのが仙道にも聞こえた。
「それはできねえ。しようものならオレが花道に殺される」
 顔を上げて仙道を見る。
「あいつはみんなを守りたがるけど、自分の秘密も守りたがるから…」
「あんたには打ち明ける」
「ああ、そりゃ、まあ、オレらは特別だから…」
「一緒に寝るくらい?」
「違いますって。そういう意味じゃない」
 操の方を向く。
「あとで電話します。話しするから」
 黙ってやりとりを聞いていた操は首を振った。
「そんな…私は…」
「電話します」
 洋平も出て行った。
 操は心配そうに息子の方を向いた。
「なにかよくないことが起きたみたいね」
 仙道の視線はふたりが出て行ったドアに向けられたままだった。

「ああ、オレもそう思う」


   ***


 花道といると、日々新たな挑戦が生じるように思えた。

「水戸の言ったこと、本当だと思う?」
「ただの友人ってこと? ええ…」
「『でも』?」
「彰」
 息子の前腕にふれた。
「あの娘があなたにとって特別っていうのはわかるわ」
「わかるの?」
「私は母親よ。はっきりわかるわ」
 それを聞いて息子は顔をしかめた。
「ただね、すごく厄介な問題を抱えている人と深く関わりあうのは賢いことかしら」
 働き者の自立心の強い二十四歳の女が、どんな『すごく厄介な問題』を抱えているというのだろう。それになぜ花道はみんなを守ろうとするのか。 なぜ秘密だらけなのか。仙道にはとにかくわからなかったが、水戸の言うことは正しい。花道をあきらめる気になんてさらさらなれない。
「賢い? たぶんちがうね」
 母の手をぽんぽんと叩く。
「でもオレには他に選択肢がないみたいだ」
「何言ってるの。おばかさんを育てた覚えはないわよ。あなたはいつだって状況をコントロールしてきたじゃない」
 ゆっくりと、暗い気分は晴れていった。

 コントロール。
 ああ、桜木をコントロールすることはできる――セックスで――その夢が叶えば王様になれる。 そういうコントロールをあえてせずにこの一週間を過ごしたのは、妙な話だが、仙道の求めている降伏はセックス方面だけに限られていないからだ。

 いくつか前進もあった。
 仙道とふたりきりでも花道自身、徐々に警戒心を解いてきた。甘く囁いて寄り添うと、それだけでキンチョーするのは変わらないが、 いつまでも恥ずかしそうにそれでもキスに応じ、身体にふれさせ、ついにはオレを求めていると認めた。
 だがゆうべ何かが起きて、花道の気分は変わってしまった。
 はじめて再会したときから何度となく、花道の瞳に深い秘密を、攻撃的なプライドには防御を見てきた。

 信頼して打ち明けて欲しかった。
 信頼して差し出して欲しかった……すべてを。

 仙道は母を抱きしめ、額にキスした。
「かあさんの言うとおりだ。オレは状況をコントロールできる。だから今夜は完全にオレが主導権を取ってみせる」
 息子の言葉を聞いて、操の眉間にしわが寄った。
「ねえ彰、過剰反応しなさいという意味じゃなかったのよ?」
「しないよ」
 首をかしげて母をしげしげと見る。
「仕事をはじめなくちゃならないから教えてよ。ここへ来たのは用があったから? それとも水戸に会えるかもしれないと思って寄っただけ?」
 操の表情を見た瞬間、尻尾を捕まえたと思い、驚いたふりをして言った。
「だって母さん、その気を見せてたじゃないか」
 ハンドバックのストラップをグイと肩にかけ、恐ろしい形相で息子を睨むとこぼしはじめた。
「息子に会いに来たらいやみを言われるなんて、悲しいご時世ね」
 操はくるりと向きを変え、すたすたと出て行った。
 母の背中を見送りながら、仙道はくっくっと笑った。


   ***


 いくつかのことがはっきりしたように思った。

 そう、桜木と水戸のあいだに何があるにせよ、それは性的なものじゃない。が、特別なことに変わりはなく、うらやまずにはいられなかった。
 水戸にはなんでも話すのに、オレには話そうとしない。

 そのあとは一日中、気がつけば花道の帰りを見張っていた。最新の作戦を実行に移したくてウズウズしていた。

 なんとかして桜木にわからせてみせる。
 手も足も出ない女になどこれまで会ったこともないが、花道はいままでに出会ったどの女よりも群を抜いて難問だった。
 身体のことを言えば、秒を追うごとにますます欲しくなった。花道はとにかく、いまや根っからの女で、とにかく……生々しい。人工的なところは微塵もなく、 化粧気もなければ香水もつけていない。肉体的な魅力を感じるのは、そのプライドと感じやすさ、やわらかい肌と赤い髪、 そしてほかでは見たこともないくらいセクシーでキスしたくなる口唇。あの口唇を思い出しただけで体温が上昇した。
 一緒にいるのも楽しかった。
 独特の感性があって、自立していて、気の短さでは祖母に引けをとらない。どうしたらいいのかわからなくなるほどかわいいのに恐ろしいくらい手厳しくて、 たまにその赤い髪からは想像もつかないほどまじめすぎるけれど、切なくなるほどのいじらしさがある。そして謎めいた秘密を隠している。
 そのすべてが、花道を独特な存在に、そして母が指摘したように、仙道にとって『特別な女』にしていた。


   ***


 花道が帰宅するのは遅くなるだろうと思っていたが、夕方の五時、フロントに詰めていた彦一がレストランに駆け込んできて、 花道が戻ったとやかましく告げた。
 従業員に花道を見張らせるなんて間抜けもいいところかもしれないが、決意の前には常識的な理由など蹴散らされた。
 花道がやってくるかどうか確かめもしなかった。来ないのはわかっていた。手ぶらで、捧げるものはなにひとつなく、 サンドウィッチすら持たずに、仙道は足早に通りを渡った。
 花道はトラックの後ろから金物の入った袋を持ち上げるところだった。
 仙道を見たが何も言わなかった。
 無言の拒絶を無視して、仙道は花道に追いつき、隣を歩きながら袋の中を覗き込んだ。
 鍵だった。大量の。

「オレを閉め出そうってのか?」
「チガウ」
 花道は顔をしかめ、首を振った。
「…つーか、確かにテメェをイエに入れる気はねえ。けどこれは、テメェ用じゃねえ」
 またしても謎。
 仙道は袋のてっぺんに載っていた小袋をつまみ上げた。
 防犯性を高くする頑丈そうなデッドボルト。

「…夜が怖い?」

 花道がギュッと口をつぐみ、それからまた同じ言葉を返した。
「チガウ」
 が、それは嘘だと仙道にはわかった。どうしてわかるのかわからないが、ただ、わかった。
 花道は、いまや『一人暮らしの若い女性』なのだから慎重になるのは当然だ。だけど、なぜ『いま』?
 誰かに、あるいは何かに、怯えているのか?

 玄関の前までくると、大きな袋をあぶなっかしく片手に抱え、鍵を通したリングをカチャカチャやって玄関の鍵を探り出した。 仙道は手を貸そうとしなかった。いつも混乱させられているくらい、花道を混乱させたかった。
 玄関を開けると、花道は中に入って仙道のほうを振り返り、入ってこられないように立ちふさがった。その表情から察するに、 花道が家の中にいて、仙道が家の外にいると安心できるのだろう。
「センドー…何が望みだ」
「おまえ」

 花道が口を開き、パチンと閉じた。眉間にしわが寄った。仙道は花道の戦闘態勢を眺めた。
「これは、中には入れてもらえないってことだよな?」
 こういう礼を失するのは、花道の性格には合わないようだった。一瞬やましさが顔に浮かんだが、すぐに決意を固めたようだ。
「…ワリィがやることがたくさんあんだ」
「鍵を取り付けるの?」
 花道があごを上げる。
「ああ」

 仙道は礼を失するのも平気だった。
 欲しいものが――この場合は人が――あるときは。
 ずいと前へ進み、花道に道を空けさせた。反射的にそうしてしまった花道は、すぐに自分が何をしたかに気がついて、仙道に向かってキーキー言いはじめた。
 仙道は花道の腕から袋をもぎ取ると、傍らへ置いた。そのとき、毛布と枕がソファの上に載っているのに気がついて、眉を上げてゆっくりと花道を見た。

「…水戸はここで寝たの?」

 花道の目が危険な光を放った。
「テメェには・ぜんっぜん・カンケー・ねえ!」
 仙道は口笛を鳴らした。
 ご丁寧にひとつひとつの語を区切ったのは仙道を後退させたいがためだ。が、仙道がそんなもので退くわけがなかった。にっこり笑った。
「今日は怒りっぽい気分?」
 花道の顔に呆れが、続いて怒りが訪れた。胸の前で腕組をした。
「いい加減にしろセンドー。朝、言っただろ。もう会いたくねえって!」
「覚えてるよ」
 穏やかな口調は、叫びに近い花道の声と対極をなしていた。
「お陰でオレは、自分の職場ですっかり恥をかかされた」

 仙道の言葉に、はじめて気づいた罪悪感で花道の顔が赤くなった。
「…………そ…そんなツモリじゃ、なかった」
 つらそうな顔は、そのまま言葉を搾り出した。
「ただその……いろんなことを考え直して、気…気が、変わったんだ」
「そのことを話したかったんだ。話すまで帰らないから黙って聞いてくれる?」
 花道の目が嫌悪感でいっぱいになった。
「『オンナ』に選ぶ権利を与えないなんて、いかにもオトコのやりそうなことだな」
 きつい言葉。
 数々の疑問がむくむくと湧いてきたが、ひとつとして快いものはなかった。

 どこのどいつが桜木から選択肢を奪った?
 自分自身と目下の行動は除外した。花道を傷つけたことはないとわかっていたから。
 訊きたいことは山ほどあったが、質問は水戸にぶつけた方がいいかもしれないと結論を下した。
「なあ桜木、そんなつもりじゃ…」
 電話の音で遮られた。
 ヘッドライトに照らされた鹿のように花道は凍りついたが、それも一瞬のことだった。
 くるりと向きを変えて台所へ駆け込んだ。仙道はあとを追った。応じたときの花道の声はひどくためらいがちだった。

「…もしもし?」

 花道の表情をつぶさに見つめていた仙道は、浮かんだ恐怖がすぐに隠されたのに気がついた。何も言わずに花道は受話器を戻した。
「…まちがい電話?」
「ああ」
 のどで脈が打っている。花道が二回深呼吸した。
「…で? ハナシってなんだ?」
 作業着と固い決意をまとっていても、花道はとても頼りなくとても小さく繊細に見えたので、腕の中に抱きしめて、 どんなことでも約束してやりたくなった。が、なんとかその衝動を呑み込んでこう言った。

「友達になろう」

 花道の目が一瞬意味を探った。
 が、直後にすがりつきそうな瞳を見せる前にさっと伏せ、かろうじてせせら笑った。
「…今更ナニ言ってやがんだ」
「どうして?」
 実際の心境より無邪気に見えることを祈った。
「オレたちのあいだには『男と女の緊張感』がありすぎる?」
 花道は身構えるように胸の前で腕を交差させ、返事を拒んだ。どうにかして説得しなければ。
「オレは自制できるし、おまえだってできるだろ?」
 反射的にむっとするように花道は言った。
「た…、たりめーだ」
 降伏のしるしに仙道は両手を差し出し肩をすくめた。
「今後オレはおまえには一切手を出さない。二度とふれない。もちろんキスもしない。…だけど話はする」
 膝を曲げ、身体を低くして目を見つめようと、花道の複雑な表情を読み取ろうとした。
「桜木、いいだろう? おまえといると楽しいんだ。ほんとに。それにご近所じゃないか。それは変わらない。…だろ?」
「たりめーだ!」
 ガラリと好戦的な態度になると、あたかも仙道が花道の人生における悪の権化であるように、小さなあごを突き出した。
「オレはどこにもイカネェからな!」
 仙道は驚いてあとじさった。
「『出てけ』なんて言ってないよ」
 笑おうとしたがうつろに響いた。
「誓ってもいい。オレはおまえの『敵』じゃない」

 小さな身体が動揺で震えていた。必死さを物語る口調で言った。
「…センドー、オレ、ほんとに、…やることがたくさん…あんだ…」
「もうオレを追い出すのか? わかったよ。だけど休戦協定は結べたのかな」
「ああ結んだ」
 今度の笑いは本物だった。
「同意するのが早すぎる。信じていいのか?」
 電話がまた鳴った。
 花道はびくっとしたが、すぐに口唇を引き結び、仙道の目を見つめて電話を無視した。
 仙道は問いかけるように花道を見つめた。

「…出ないの?」
「かけ直すだろ」
「そうか。オレがステキすぎて離れられないんだな?」
 低い唸り声が花道ののどの奥から噴出した。くるりと背を向けて受話器をむしりとった。「もしもし」
 今回は恐怖も憤怒の陰に消えた。
「チガウっつってんだろ!」
 そして悲鳴に近い声。「チガウ!」
 仙道はその反応に仰天し、花道が受話器を架台に振り下ろし、さらに二回叩きつけるのを見つめた。 背中を仙道に向けたまま、花道は身体をこわばらせ、苦しげな息遣いを静かな部屋に響かせた。

 水戸の言葉が蘇ってきた。大きく。はっきりと。
『花道はみんなを守りたがる』

 いまは、……オレを守ろうとしているのか?

 花道を抱きしめ慰めたいという思いで胸が張り裂けそうになりながら、それを必死に堪えて、そっと声をかけた。
「また、まちがい電話?」
 花道は限界にきていた。答えた声はおぼつかなかった。

「…頼む、センドー。帰ってくれ」
「冗談じゃない」
 こんな状況で置いて帰れるわけがなかった。『帰る』という発想すら、男たるもののあり方に真っ向から反する。
 花道がいまや完全に女性で、自分より小さくて、華奢で、守るべき存在なのは言うまでもないが、それ以前に花道のことが気にかかった。とても。
 水戸には近寄ることを許している。遅かれ早かれオレにも同じ権利を与えることになるのだ。
 肩にふれても花道は飛びのかなかったので、小さな骨に沿って両手を滑らせ、肩先の丸い骨を手のひらで包んだ。とても固く張りつめていた。
「センドー…」
「シーッ、だいじょうぶ。せまってるんじゃないから」
 花道が疲れたように笑い、背後の壁にゴツンと頭をぶつけた。
 仙道は同情に顔をしかめ、壁からそっと花道を離して、かわいそうな頭蓋骨にこれ以上ダメージを加えられないようにした。
「桜木…。おまえが気に入ろうが入るまいが、オレたちは『友達』だ。オレがおまえを欲しい気持ちは変わらないし、たぶんおまえもオレを求め続けるだろう。 でもオレはおまえから離れはしない」
「…テメーは自分が何をしてるかわかってねんだ」
「性的に?」
 そう訊ねたのは、こんなに近くにいて、守ってやりたい、かばってやりたいと思っているのに、いつもにも増して男としての本能を意識したからだった。
 また笑って花道は顔を向けた。がしかし今度は息遣いが荒く、目はギラギラしていた。
「…そんなにオレと寝てぇのか? そうすればテメーを追い払えんのか?」

 破れかぶれな声に、仙道の胃はよじれた。
 どうにか落ち着いた声で言った。
「言っただろう? オレを追い払うことなんてできないって」
「テメェにとってオレは『挑戦しがいがあるもの』っつったよな? だったら挑戦が終われば…」
「桜木」
 太陽にやかれた頬にふれ、説得にかかった。
「そうやってオレを遠ざけようっていう固い決意に挑発されてばかりなのに、終わると思う? まさか」
 仙道は自信たっぷりに首を振った。
「おまえは矛盾だらけで、いつまでたっても容赦ない挑戦状だ。で、オレはその挑戦ひとつひとつを楽しんでるよ」
「…くだらねぇ」
 花道が態度を和らげ、新しい戦術を試みた。
「センドー、テメェはオレのことをよく知らねんだから、進んでオレのモンダイに巻き込まれるこたぁねえだろが」

 花道の言ったことは正しい。普通なら。
 だが、花道との関係ははじめから『普通』ではなかった。一目見ただけで、苦しいくらいに欲しくなった。本当を言えば高校時代のあの日から。 ただ、打ち明けなかっただけ。

 花道は本当にわかっていないのだろうか。
 仙道がどれだけ花道にどっぷりハマってしまったかを。

 反論できない事実を投げかけてみた。
「…ほかのどの男より、おまえのことを知ってる」
 声を落とし、改めて思い出させるように言った。
「オレは、はじめておまえをイかせた男だろ?」
 花道が目を丸くし、グッと詰まった。
「っ…あれは…カンチガイだった」
「何言ってる。自分が何をしてるかくらい、ちゃんとわかったぞ」
 悔しさと疑いの混じり合ったような滑稽な表情が浮かんだと思うやいなや、花道は爆発した。

「いい! わかった。帰りたくねんだな。ケッコウ」

 ドスドスと向こうへ歩いていくと、台所の引き出しを力任せに開け、もぎ取るように金槌をつかんで仙道の方へ放った。少なくとも仙道は、 意図的に危害を加えようとしたのではなく『放った』のだと解釈することにした。反射神経がよいので、腹を直撃する前に金槌をつかめた。
「そうまで言うんならいりゃあいい。だけどカギを取り付ける手伝いをしろよな。ボサッと突っ立ってテメェとゴチャゴチャやってるヒマぁねぇんだ!」
 それからイヤミを言うためだけに付け加えた。
「どっかのダレカと違ってオレは忙しんだからな!」
 そして別の金槌とドライバー一式を見つけ出した。
 花道のこきおろしにはちっともめげなかった。

 ここにいろと、手を貸せと、言ってくれたのだからほかのことは何でも許せた。それに、腹立ちまぎれに言ったのはわかっている。 おまけに怒っているときの花道は、…すごくかわいかった。
 ひとりでにやにやしながら仙道は金槌を手に、道具を持った花道について小さな居間へ入っていった。


   ***


「窓は全部?」
 ありがたいことに数は多くない。
「ああ」
 花道が仙道をじっと見て、文句を言い出すのを待つ。仙道が黙っていると花道は眉間にしわを寄せた。
「…手先はキヨウなんだろうな?」
 仙道は余裕の笑みで笑った。
「かなり」
 ドライバーを数本仙道に突きつけた。
「じゃあナニをしたらいいかちゃんとわかるな?」
「もちろん」

 疑わしそうな目で、真っ赤な顔で仙道を睨んだ。
「…てめぇ、イヤラシイことじゃねぇぞ? わかってんのか?」
 おやおや。そんなことを考えてたのか。
 仙道はほがらかな笑顔を向けた。
「このオレに、ホテル専任の大工を雇う余裕があると思う?」
 その打ち明け話に花道がびっくりしたのがわかった。花道はふんと鼻を鳴らしうなずいた。
「いいだろう。テメェはこっからはじめろ。オレは台所からはじめる」
 ふたり並んで作業ができたらすてきだったろうが、そんなのは問題外というところか。それに花道の今の機嫌では、おそらく離れている方が安全だ。 金槌を持った怒れる桜木…というのはあまり歓迎すべきものではない。

 必要以上の力で小袋を引きちぎる音が聞こえた。壁の向こうにいるので、見ることはできないが話すことは容易にできる。
「どんな問題を抱えてるのか、教えてくれないんだろうな」
「オシエナイ」
 そう言うと思った。
「教えてくれたらいろいろ気をつけてあげられるんだけど」
「エンリョする」
 居間の窓に付けられたグラグラする錠は、三層のペンキで覆われていた。仙道は顔をしかめた。
「どっちにしても気は配るけどね」

 沈黙。

 ドライバーを錠に押し当て、その端を金槌で三回慎重にたたいた。錠はふたつに割れ、ねじが一本埋まっているだけになった。
「…役立たずめ」
 ひとりごとをつぶやきながら、桜木に、鍵を付け替えるだけの思い付きがあったことを嬉しく思った。
 何もかも歪んで錆びていたから作業は思ったより時間がかかった。どの部屋にも窓はひとつだけ。花道が風呂場を手がけるあいだ、仙道は寝室を引き受けた。
 ひとりだったので、好奇心のままに見まわした。
 小さなこの家には何度か上がったが、この部屋には入ったことがなかった。
 余計な装飾は一切ない部屋だった。
 ベッドを構成しているのはマットレスとボックススプリングとフレーム。以上。ヘッドボードもフットボードもなければ。 色とりどりのベッドカバーもない。白いシーツにところどころ擦り切れた毛布。そして何の変哲もない枕がマットレスにぽんと置かれている。 ソファの上にあった枕と毛布を思い出し、桜木は枕ふたつで寝ているのだなと思ったが、それを贅沢とは呼べなかった。
 プライバシーを守る安っぽいブラインド。ひび割れたリノリウムの床を覆う絨毯やラグもない。壁には何もかかっておらず鏡すらない。 手巻きぜんまい式の時計が載っているナイトテーブル。他には鍵束と、小銭が少しと、そっけないヘアゴムが数本、それだけ。 化粧品も香水も華やかな髪留めもない。
 ベッドの下からはサンダルがのぞき、シャツ数枚と上着が一着カーテンレールにかかっていた。
 花道の寝室はいわゆる『女性の部屋』からは程遠く、むしろ仙道の思い描く刑務所に近かった。
 花道の暮らしぶりは、たいていの人には耐えられないくらい無味乾燥だった。心が麻痺した状態で、仙道はマットレスに腰を下ろしそこにじっとしていた。 奇妙な、痛みに近い感情が胸のうちで膨れ上がり、心臓が破裂したような気がした。
 花道が戸口からひょいと顔を出し、仙道がベッドに座っているのを見て眉をひそめるとこう言った。

「…ナニしてんだ?」
 疑いでいっぱいの声だった。仙道はすっくと立ち上がった。
「なんにも」
 桜木はその言葉を信用したようには見えず、不埒な行いの痕跡を発見すると思っているかのごとく、部屋を見回した。なにも見つからないと、 しぶしぶといった様子で訊ねた。
「つめてぇモンでも飲むか? 麦茶しかねぇけど…」
 仙道は新たな目で花道を見た。すると胸の中の感情は変化し、危険で騒がしいものになった。あまりにも熱心に見つめていたので花道が身じろぎした。
「なんだよ。カンタンな質問だろ? なんでそんなにジロジロ見てやがんだ」

 仙道は肩をすくめた。一体何が言える?
 腰に手を当て花道が言った。
「じゃあ見るんじゃねえよ。わかったな?」
 花道を甘やかしたい思いで身体がこわばったが、かろうじてかすかな笑みを浮かべた。今日の花道はひどくご機嫌斜めだった。
「麦茶をもらえるかな。ありがとう」
 ゆっくりと、あたかも視線を引き剥がさなければならないかのように、花道が窓の方を向いた。
「…終わったんか?」
「ちょっと一息入れてた」
 仙道の声はやさしく、心はさらにやさしかった。

 なんてこった。
 心のうちをさらすつもりはなかったのに、いろんな思いが駆け巡って理性では抑えられなかった。
 慎重に無関心を装って、花道がつぶやいた。
「じゃあそのヘンで終わりにしろよ。あとはオレがやるから」
 仙道は窓の方を向いた。
「いや。すぐ終わらせる」
 そして、そのあとは?
 明日もここへくる理由を見つけなくてはならない。明後日も。明々後日も。
 どういうわけか男と女の化学反応にもかかわらず花道は仙道を追い払いたがっている。だが、性的な作用は強い。 だからゆっくりと、確実にそこに積み重ね、やがて花道をモノにする。
 低い声でボヤくように花道が言った。
「…そーかよ。好きにしろよ」
 花道の足音が台所のほうへ遠ざかるまで待ってから、仙道は凄みのある笑みを浮かべた。

「もちろんするさ、桜木」

 やけ気味に古い錠を打ち付けた。錠は割れ、仙道はそれを脇へ放った。
「絶対に」
 好きなようにして、ついにはおまえを手に入れる。


   ***


 月が明るいので、トラックに荷物を積む花道の影は地面に長く伸びていた。一時間ほど前に帰宅し、もうシャワーも浴びて、 ゆるいショートパンツと大きくて楽なTシャツに着替えていた。だけど落ち着かないし、どうせ眠れないとわかっていたから明日の朝の準備をすることにしたのだ。
 通りの向こうに目をやって、ホテルと食堂から洩れる光をちらちら見ずにいられなかった。夜もこの時間だから、いまは飲み物しか出していないはずだ。 低いガヤガヤいう話し声や笑い声が、有線の音楽と一緒に風に乗って漂ってくる。

 アイツは毎晩あそこで人に囲まれている。常連客だけでなく、地元の人や、トラック運転手や……オンナノヒトに。

 花道は無理矢理目を逸らした。
 あれだけ長時間働いてるのに、仙道は疲れた顔を見せたことがない。ホテルと食堂のあらゆる面を管理しているのに、愚痴ひとつこぼさない。 逆にそのすべてを楽しんでいるように見えた。特にオンナノヒト方面を。

 花道は日が過ぎていくのを見守った。
 三日、四日、一週間、一週間半――
 仙道の『友達』になってから十日。
 鍵を取り付けてから十日。
 最後にキスされてから十日。

 約束どおり、仙道は性欲を一時保留にした。というかヨソで処理しているのだろう。
 まったくアタマにきた。もし『友達以上』がどんなコトかまだ教わっていなかったら、花道は今の状況に十分満足していたのに。

 花道は頭を振った。

 一日に何度もヘンなことばかり考える。自分がキライになりそうだった。
 一日中働いて家に帰り、明日の準備をして仙道に会う、というのが当たり前の日課になってしまった。徹底的に生活に入り込まれたせいで、 今ではヤツに会うのを期待するまでになっていた。自分にはそんな権利などないのに。
 この十日間、全力で仕事に向かったのは、忙しくしていれば考える時間がなくなると思ったからだ。センドーのことも。ミッチーのことも。
 ヘトヘトになって骨まで痛んだが、それでも一晩中寝返りを打ってばかりいた。
 仕事ははかどっているし、新しい依頼もいくつか入ったし事業はうまくいきそうなのに。
 意外なことに、あのあと三井が電話をかけてきたのはほんの二、三回。花道が想像していた不安は、 身体的なものも仕事に対するものも現実のものにはならなかった。
 安堵のあまり力が抜けそうになったが、一瞬も気を緩めようとは思わなかった。苦労の末に学んだことがあるとすれば、 三井の行動は先が読めないということ、そして復讐心の強さが、想像をはるかに超えるということだ。
 どうして三井がそんなに復讐心を燃やすのか、花道には理解できなかった。夫婦だった頃でさえ、花道に愛情など抱いていなかったはずだ。 が、市長をしている父親と、吐いて捨てるほどの金を持っている有力な親戚が揃っているから、どんな作戦でも実行に移せば常に勝つ方法を備えている。
 かつて三井は、花道が大切に思っている人を傷つけることで花道を傷つけた。それを忘れてはいけない。
 なぜなら、もはや花道は仙道を、タイセツに思っているから。

 そう。心が痛くなるくらい。


  ***


 最悪なのは夜だった。

 寂しいベッドに横たわり、慰めてくれるものは小さな家の静寂しかない夜。
 働いて身体がくたくたになれば仙道のことも考えなくなると思ったがダメだった。神経は昂ぶり、気は短くなり、落ち着きを失い、自分で自分がイヤになった。
 それもこれも、一ヶ月前には存在すら知らなかった『性的欲求不満』のせいだった。

 家に帰ってくると、たいてい仙道が待っていて、友人として話に耳を傾け、おだやかな笑みを見せた。朝はコーヒーを飲みに行けば会えた。 会話はあたりさわりがなく、ふれるときも相手が姪であるかのよう。そして花道はひとりで少しずつ、欲望で発狂しそうになってきた。

 もしミッチーが嫌がらせを本当にやめたんなら、なんでセンドーと『そーゆーコト』をしちゃいけねんだ?

 背後に人の気配を感じて、仙道だと思った。
 隠さなければならない嬉しさを隠しきれぬまま、それでも笑顔を消しながら、振り向いた――そこにいたのは三井寿だった。

 元夫の姿に驚愕した。
 とりわけ、なかば仙道ではないかと思っていたから。
 混乱がどっと押し寄せ、一瞬息もできなくなった。三井はそれに気がついた。ヤツの笑みは感じのいいものではなく、安心できるものでもなかった。
「よう桜木、オレに会えて嬉しそうだな」
 花道は気を静めた。

「…出てけ」

 怒鳴ったつもりだったが出てきた声は囁きに近かった。
 三井に笑みが広がる。
「おいおい。旦那に向かってたいしたご挨拶じゃねえか」
 ロン毛の三井からは残忍な匂いがした。

 三井などには負けなかったはずだ。男だった頃は。

 花道は筋肉を緩めようとした。肩をまわし両手を握っては開く。
 三井は花道の努力をあざ笑うかのように、ただ眺めていた。
 ヤツとヤツの与える効果をモノともしないためには、肉体より精神の強さが必要だ。嫌悪も露に言った。
「テメェはもう『ダンナ』じゃねぇだろう、ミッチー。オレは何もかも捨ててテメェから逃げ出した。その価値は十分あったがな」
「何言ってんだ。おまえは何も捨てちゃいない。もともと何も持ってなかったからな。違うか?」
 三井の蛇のような瞳が花道を睨んだ。
「もうわかってんだろう。オレから逃げられやしねぇって。テメェはオレの人生をメチャクチャにした。オレにゃソレが我慢できねんだよ」

 三井の動きは速かった。数メートルも離れていたのに次の瞬間には目の前にいて、花道の両の二の腕をつかむと、じわじわと、痣ができるくらい強く締め上げた。
 痛みにたじろぐ花道を見るのが三井は好きだった。そのことは結婚してすぐ気がついた。
 引っ張り上げられて爪先立ちになると、三井の熱い息がかかり、ヤツが飲んだビールと、憎しみのすえた匂いを感じた。

「テメェは昔からバカだったが、少しでも頭があれば、いい加減オレに親切にすることを覚える筈だがな」
 聞きなれた雑言はいつもあとに暴力を伴ったから、花道の身体は身構えることを覚えた。しかし今回は奇妙な効果が現れた。 少しずつ恐怖は退いていった。かつては三井に怯え、目も合わせられなかった。いま、花道は真っ向からヤツの目を見据え大胆にも微笑んだ。

「…テメェが男だと思いたくて女に手を上げるのは、哀れな虫ケラくれえだな」

 そしてヤツの顔に唾を吐いた。
 こみ上げる怒りで三井の身体が震えた。
 ひん剥いた残忍な目が、顔で脈打つくらい青白く映えた。花道をつかんでいた左腕を放し、ぶとうとして手を振り上げた――花道はじっとしていなかった。 身をひねり、かわした拍子に右手がねじれたが、それでも狙い通り逃れることができた。自分の非力さに舌打ちしながらも、 トラックに積んだばかりの先のとがったシャベルをひったくった。
 力を手にした感覚とアドレナリンが全身を駆け巡り、怒りにも煽られて花道は大胆になった。
「おうミッチー、来いよ、このろくでなし」
 木の柄を持った手が汗ばむ。
 強く握りなおして、バッターボックスに入った野球選手のように振って見せた。
「もう一度でもオレにさわってみろ。今度こそテメェの頭を吹っ飛ばす」
 三井はやがてゆっくりと手を上げて、頬を伝う花道の唾液を拭った。怒りのあまり歯を食いしばり、口唇を引き結んでいたから言葉は不明瞭だった。
「このクソアマ」
「ああ、それにアタマもイカれてる。喜んでテメェに危害を加えるぜ?」
 三井は一度息を吸い、もう一度吸い込んだ。
「そんなマネしてみろ、どうなるかわかってんのか?」
「どうなるんだよ。ああ、また『パパ』に泣きつくのか。テメェは一体いつになったらオトナになれるんだ?」
 口唇を歪める。
「…ミッチー。今オレが住んでんのは『ココ』だ。テメェの手の届かないトコだ」
 三井がゆっくりと微笑んだ。
「本気でそう思ってんなら、思ったとおりめでてぇな。忘れたか? うちの身内はあちこちの銀行の頭取に大きな顔ができるってことを」
 今は戸外の明かりで照らされている周囲の土地を手で示す。
「こんなゴミ溜めみてぇな土地のために、ローンを組んだなんて信じらんねぇが、テメェは信じた方がいいぜ? オレには金をはやく返せと催促できる知り合いが、 腐るほどいるってことをな」

 ヤツは本気だ。

 ずっと遠くへ引っ越せば、三井の手から逃れられると思っていた。ヤツの影響力は距離で制限されると。
 後悔で吐き気がした。怒りで泣きたくなった。
 どちらかひとつでも見せれば、ヤツを喜ばせることになる。

「テメェには吐き気しか覚えねぇな、クソ野郎」

「…桜木?」

 三井も花道もビクッとした。三井は罵り、花道は警戒を新たにして。
 まぶしい街灯に手をかざしながら、仙道が急ぎ足で通りを渡ってきた。花道は影の中にいながら、仙道にこの状況を悟られないよう祈った。
 三井が花道の方を向いた。
「あいつは誰だ?」
「タダのお向かいだ」
 答えるのが早すぎて焦りを見せてしまった。三井がいわくありげな目で見る。
 今の反応を差し引こうと、花道はシャベルを下ろして寄りかかり、何気ないふうを装った。
「おい、ダレカが警察を呼ぶ前に出てったらどうだ」
「いや、おまえのお向かいさんに会っとこう。おまえの新しい生活とやらについて、知っておくべきことは全部知っておきてぇからな」

 メチャクチャにできるように、だ。

「ミッチー!」
 手遅れだった。仙道がずかずかとやって来た。どういうわけか身体が妙に大きく見え、その態度もいつもとは別人のように恐ろしく映った。
 花道は、どうということもないふりをした。仙道によく見えるよう、明かりの中に進みさえした。が、仙道は花道を見ていなかった。三井を睨んでいた。
 花道の前に立ったので、三井の姿がまったく見えなくなった。見えるものといったら怒りでピンと張った広い背中だけだった。

「…いったい何事だ?」

 花道はため息をついた。
 花道と三井が物理的にやりあうところを仙道は見ていないという確信はあった。が、それでも空気中に漂う悪意は見落としようがない。 そのせいで花道も息が詰まりそうだった。
「センドー…」
 仙道が背後に左手をまわし花道の腰に当て、前に来させないようにした。態度と行為の両方で、三井に、ふたりが単なる知り合いではないと教えてしまった。 仙道をぶちのめしたかった。
 今は仙道をこらしめるときではないとなんとか諦めて、花道は後ろにとどまったが、広い肩の向こうに目を凝らした。三井がにやりとした。

「ささやかな身内の再会。それだけだ」

 花道が自分の問題に他人を巻き込みたがらないことを知っているので、花道を見て同意を求める。
「そうだろう? 桜木」
 そのときまで花道は、仙道が怒るところを見たことがなかった。
 もちろん、ムッとしたり、いらいらしたり、機嫌を損ねたりしたのは見たことがある。だけど本当の怒りは、身体から湯気が立ち上る、 爆発しそうな憤怒ははじめてだった。
 威嚇するように三井の方へ一歩進んだ。
 背は仙道のほうが大きい。けれど、三井の狡猾さ、残忍さを花道は知っている。

「誰? あんた」

 三井の目が細まった。

 どうしよう。

 後ろから仙道の腕にふれた。
 怒りと不安を隠そうとして、抑揚のない声で言った。
「センドー、頼むからやめろ」
 仙道が花道の手を振りほどくと、三井が笑った。
「コイツの亭主さ。オレのこと聞いてねぇか?」
「聞く必要はないね。桜木の土地から出て行け」
 仙道に縋りつきたいのかシャベルで殴りたいのか自分でもわからなかった。

「センドー、オレはひとりでダイジョウブだ。それからミッチー、頼むからその少ない脳みそを使って、オレらがとっくにリコンしたってことを覚えてくれ」

 三井が仙道から花道に目を移し、警告した。
「最後に会った時に比べると、随分生意気な口をきくようになったもんだな」
 小さい瞳がギラリと光り、声が落ちる。
「こいつは放っておけないな」
 うなずいて微笑み、不意に力を抜いたように見えた仙道が次の瞬間三井に飛びかかろうとした。
「センドー、バカ! やめろ!」
 花道は仙道のシャツの背中を両手でむんずとつかみ全体重で引っ張った。が、仙道は止まろうとしなかったので、花道は砂利で足がすべり、 仙道の背中にぶつかって転びそうになった。仙道がぼやきながら足を止め、手を貸そうとしたのをチャンスとばかりにヤツの前にまわりこみ 必死にその胸にしがみついた。

「桜木、やめろって」
 仙道は引き剥がそうとしたが、三井と違って花道に怪我をさせることを望んではいなかった。花道はてこでも離れまいとしがみつき、 それからヤツの胸を両のこぶしでドンと叩いた。

「いんや、やめんのはテメェだ!」

 仙道がびっくりした顔で花道を見た。
 おまけとばかりに、もう一回こぶしを叩き付けた。
 花道は今にも涙が零れそうだった。自制心はガタガタ、感情はボロボロだった。そして三井と再会してはじめて、心からの恐怖を感じていた。

「なんでこんなことすんだよ! なんでこんな――」

 たちまち仙道はやさしくなった。
「桜木…どうした? 大丈夫。大丈夫だよ」
 車のドアがバタンと閉じる音に首をまわすと、三井が通りを渡って派手なカマロに乗り込んだところだった。

 安堵のあまり、花道はその場にへたりそうになった。

 よかった。仙道が殴る前に行ってくれて。

 三井はまだ仙道の住所も知らないし、どこで働いてるかも知らない。
 センドーは安全だ。今のところは。





つづく


2007.2か3 脱稿


はいどうも。
しばらく焦らしましたが、ハーレクインロマンスエロ『一夜だけの約束?7』お届けです。
珍しくエロスのない回ですが、そんななかで私の好きなシーンは、
「凄みのある笑みを浮かべる仙道」のとこと、
「必死で止めようとして拳で仙道の胸を叩く花道」のとこです。 後者はイメージ的には「前代未聞」や「Version Up!」の ヒトコマを思い出します。
今回いつも以上にマメに改行入れました。が、 いずれにしろ暫定です。推敲途中ですので、一緒に頑張りましょう(どうやって(笑))
(by Z様)








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