一夜だけの約束? 6
一夜だけの約束? 6 Promise of One night only また花道が身を引いて仙道の顔を見た。 「おめぇのことは拒んだのかよ?」 そんなことは信じられない、と言いたげな顔だった。 「きっぱりとね。確かにオレはけんか腰だった。おばあちゃんに会いたいなんて思ってもなかったけどおふくろに勧められてね。 家族は多い方がいいんだから瑠璃子さんにチャンスをあげなさいって」 「…家族なんてヒトリもいねぇ方がいいこともあるけどな」 その言い方を耳にして、花道の家族関係はどうなんだろうと思わずにはいられなかった。今の口調はひどく深刻でひどく……傷ついていた。 一人っ子だったのか? 両親から引き離されたのか? 花道に心を奪われていた。完全に。花道のことならなんでも知りたかった。 喜ばせるものは何か。悲しませるものは何か。なぜこんなに感じやすい身体なのに頑なに快楽を拒むのか。 しかしもっとよく知ろうとする度に、花道は心の扉を閉めてしまう。その扉を開いて欲しいなら、まずは信頼を得なければ。 そのための最良の方法は、先にこちらが扉を開くことのように思われた。 「…たぶんおふくろは、自分にもしものことがあったらオレが独りぼっちになるってことを心配したんだろうな。 牧さんがずっとそうだったように。だからオレは瑠璃子さんに会った――たった一人の兄貴にも…」 牧紳一に抱いた少年時代の憧憬を思い出して仙道は微笑んだ。 「牧さんとはすぐ仲良くなったんだ。オレはその頃、ヒーローを見つけては崇拝するっていう傾向にあったし。 牧さんはストリートバスケしかしたことなかったのに、オレは一度も勝てなかった。歳はひとつしかオレと違わなかったけど、 牧さんはとっくに『男』だった。物静かで、強くて……なんだろう。説明するのは難しいけど、牧さんには昔から野生の生き物みたいなところがあってね。 無謀ってことじゃなく、危険? それに力もある。瑠璃子さんの金と威光があろうとなかろうとね。牧さんには誰だって怖気づく。まあ彩子さんは別としてね」 ぼんやりとした花道が仙道の胸に弧を描くので説明から気が逸れてしまった。花道は何か考え込んでいるように見えた。 「そのときからニイチャンとは仲がいいのか…」 「すごくね。瑠璃子さんのことでは意見が分かれるけど、オレは牧さんを尊敬してる」 「ふうん…」 仙道の胸を撫でる手は止まらなかったが、当人はまったく頓着していないように、ほとんど無意識のように見えた。 仙道の方はもはやとてつもなく意識しているというのに。 「ニイチャンはバアチャンとうまくやってんだよな?」 仙道は笑った。 「というより、家族だから調子を合わせてるって感じかな。牧さんは家族をすごく大切に考えるから。 それになんたって瑠璃子さんは家と安定をくれたわけだし、牧さんにとってはそれも大きなことだから。 で、牧さんが結婚した後、彩子さんのお陰もあって、瑠璃子さんはだいぶ丸くなってきた」 花道の指がシャツの襟の内側に滑り込み、指先がのどにふれた。 「…おめぇが協力すりゃあ、もっと丸くなんじゃねぇか?」 仙道は目を閉じてなんとか会話に集中しようとした。 実際に花道が自ら膝に乗り、いまや進んで愛撫してくれているわけで、それはもう非常に気持ちよくて仕方ないわけだが、 仙道の身体はそれよりも多くを欲しがっている。はるかに多くを。 「オレたちは敵としてスタートしてまだその状況を乗り越えてない。完全には。瑠璃子さんだけのせいとは言わないけど…」 ついにふとどきな指をつかまえ指で包んだ。 「十四の頃、オレはとてつもなくケンカ腰だったし。チャンスさえあればおばあちゃんを怒らせるように仕向けたしね」 「ホントかよ」 花道がおどけたように笑った。 「おめぇがわざとオンナノヒトを怒らせるなんて。あの頃?…信じらんねぇな。いや今だって。さっきのアレだってホントに意外だったぜ?」 そんなにおもしろがるな、と軽くつねると花道が声を立てて笑った。 「じゃあ、そうゆーんがずっと引っ張っていまだに尾を引いてんだな」 「…もうちょっと複雑かな。瑠璃子さんは、…オレに、その、血液検査を受けろって言ったんだ。オレがほんとに孫かどうかを調べるためにね。 おふくろの言葉を、信じようとしなかった」 仙道の手の中で花道がきゅ…と指を丸めた。 「…てめぇが怒るのもムリねぇな。けど、今はもう孫だって認めてんだろ? はっきりそう言ってたじゃねぇか」 「まあね。でもおふくろのことではまだ我を張ってる。いくらかあさんが、そんなことはどうでもいいって言っても、オレには全然どうでもよくない」 「そりゃソウダ」 トーゼンだという強い語調だった。仙道は深く息を吸い込んだ。わかってもらえてホッとした。 「瑠璃子さんからは何も受け取らない。向こうが関係を修復しようとしてるのはわかってる。 さっきも言ったけど牧さんが結婚してかなり丸くなったし、いくつか健康にも問題を抱えてるから。歳も意識しはじめてるしね。 たまにはオレたちも、仲良くやれるときもある」 空いている方の手で髪をかきあげた。 「いや、どうしたもんかな。おばあちゃんにやさしくなれないオレはひどい人間だとも思うけど、どうしても瑠璃子さんはオレを怒らせてばかりだし…」 花道がもう一度仙道にしがみついてきた。 「…一度じっくり腰据えて話してみろよ。まあ、オレだっておめぇのことはよく知ってるわけじゃねぇけど……知ってることといえば――その、 そんなんカゾクカンケーには応用できねぇし!」 仙道はにやりとした。 「おまえが知ってるオレのことと言えば…」 仙道の胸に腕を突き身を放すと、遮るように花道は続けた。 「けどセンドー! おめぇは…その、なんだ、そんなに悪ぃヤツじゃあねえ。それに、…う〜ん、そうだな、そうだ! どんなオンナノヒトでもイチコロでウットリさせる才能がある!」 「…ほんとに?」 仙道は苦笑した。搾り出した末の褒め言葉がソレか。 「働かなきゃなんねぇオレ様がこんなとこにいんだ。間違いねぇ」 「それって…もしかして…」 手を握り、身を寄せる。 「おまえもうっとりさせたってこと?」 そのままくちづけようとすると押し返された。が、花道は笑いをこらえていた。さらなる進歩。 「おめぇならもっと大らかになれるハズだぜ? それにバアチャンは若くねぇ。あっちが偏屈でぜってぇ折れねぇってわかってんだったら、 男のテメェがなんとかしてやれ」 言葉を止めて首を振る。 「…相手が死んじまったら、仲直りするチャンスなんてもうねぇんだぜ? おめぇが後悔すんのは、見たくねぇ」 *** 一言一句に深い意味があるように聞こえた。これまで会ったこともないくらい複雑で秘密が多く、『普通』でない相手だが、 いらいらするどころか逆に心を惹かれるばかりだった。 もう一度膝に手を載せて、ほつれた裂け目から指をいれ、なめらかな肌に触れた。身をぐっと寄せ耳に直接囁く。 「今夜も一緒に食事しよ。話はそのときに…」 花道がくすぐったそうに身をすくめた。 「ひ、昼食ったばっかじゃねぇか」 「おいしかっただろ?」 仙道の策略などお見通しだ。 「だからなんだよ」 「…うっとりする?」 花道が助けを求めるように天を仰いだ。 「あのなぁセンドー、そりゃたしかにうまかった。けど問題はそこじゃねぇ。てめぇだって事業やってんなら、 うちの店が軌道に乗るまで、オレがどんだけタイヘンかわかるだろうが!」 どこまでも強情。 仙道はやれやれと首を振ったが、花道の抵抗にひるむ気はなかった。もっとよくオレのことを知ったら抗うのをやめるはずだ。教えてやらなくては。 「もちろんわかる。だから手伝わせてくれって言ってるんだ」 「手伝うってナニを」 「できることならなんでも。荷ほどきとか片付けとか。仕事に有利な情報を教えるとか。な?」 花道は揺らがなかった。 「てめぇ、オンナノヒトを自分の思い通りにするのが当たり前になっちまって、『いらねぇ』っつー言葉の意味もわかんなくなっちまったのか?」 花道がぶすっと見つめていた。仙道は宥めにかかった。 「いいじゃん桜木。オレを使えよ。絶対役に立つから。な? 頼む。この通り!」 花道は目を反らしため息をついてげんなりした。 キリがねぇ…。 こいつホントに頑固野郎だ。ついに花道が降参した。 「…わかった。けど、シゴトだけだかんな?」 「もちろん」 仙道は花道のあとについて部屋を出た。花道の後姿と大きな歩幅を眺めながらつぶやいた。小さな声で。聞こえないように。 「…いまのところは」 *** むかむかするような欲求不満を抱えて、牧瑠璃子は書斎を行ったりきたりしていた。 いまいましい。 紳一にもかつて行ったり来たりさせられたが、瑠璃子は行ったり来たりすることが大嫌いなのだ。いらいらさせられるのが大嫌い。 孫息子たち――揃いも揃ってハンサムな悪魔――とかかわりを持つ前は、自分の考えがわかっていたし、自分の望みも、 何が正しくて何が適切かもすべてわかっていた。 なのにいまでは常に自問自答を繰り返している。 友人の多くは年かさの孫息子、紳一を、恵まれない環境で育ったがゆえに警戒している。紳一にはどこか陰があり、 幼い頃に貧困と暴力にまみれた生活のなかで培われた、抑えようのない力が漂っていた。 それを考え、瑠璃子が顧みなかったせいでどれほど孫息子が苦しんだかと思うと、老いた身体の奥深くがズキッと痛んだ。 少し足取りの活気を加え、自分自身の悪魔から逃れようとした。 紳一は今では味方だし、大事なのはそれだけだ。ただし彰も百パーセント味方にしなくては。 彰のことを思うと、思わず笑みが浮かんだ。瞬時に気分が明るくなった。彰と紳一はちょっと違う。ふたりとも仕事が好きでよく働くけれど、 まじめな紳一に対して彰は屈託がなく、いつも先のことまで考えている紳一に対して彰は遊び心を忘れない。 腹違いとはいえ、今のふたりは一緒に育ったかのように切っても切れない関係だ。 型破りで生意気で、いたずらっぽい魅力にあふれた彰は、まったく手に余る。女はもちろんそんな彼を愛し、彼の方も女を心から愛してる。 遊ぶ時はとことん享楽主義者になるが、父親と違っていつも分別を忘れなかった。 ただし、今日は別だった。 先ほど会った赤い髪の女の子といるときは。 場所も気にせず、彰が無理強いするように彼女にキスするところを目撃した。 とはいえ、どれだけ一人の女に心を奪われても、どれだけ熱中しても、彼は必ず責任をもって行動する。 彰が女の気持ちを軽んじることは絶対にないし、自分の子どもを見捨てることも絶対にないだろう――瑠璃子の息子がやったように。二度も。 羞恥心で息がつまりそうになった。 いや、もし彰が女を妊娠させたら、結婚すると言うだろうし、最低でも経済的な義務を果たすと言ってきかないだろう。 とことんお調子者に思える仮面の下には、嘘偽りのない自尊心が隠れている。 母親譲りなのはわかっている。息子から受け継いだのではないことは明らかなのだから。息子には失望させられたが、それでも愛していた。心から。 瑠璃子はため息をついた。 過去を変えることはできないが、未来をよいものにするためにできるだけのことをしなくては。 あとは彰が瑠璃子の経済的な援助を拒絶するのをやめてさえくれれば。瑠璃子のお金があれば、彰の生活はずっと楽に、安全に、快適になるのだ。 それなのに彰は拒絶することに無上の喜びを見出している。それに瑠璃子を見くびることが多すぎる。目が見えないとでも? 目の前で起きていることが見えないくらい年を食ったと思っているの? 「ハ!」 聞く者のいない部屋で吐き捨てるように言った。 なにひとつ瑠璃子様の目を逃れるものはない。なにひとつ。 彰は知らないかもしれないが、ふたりがテーブル下で足をふれあわせていたことにも、ふたりが交わした親密な表情にも、ちゃんと気がついた。 紳一も彩子に同じような反応を示したものだ――おかげで、孫息子との関係を修復できた。白状すれば、 いざこざの反動を和らげる緩衝剤として彩子を利用させてもらった。 普段の彰らしからぬ行動を考えると、もしかしたら今回も……。あの娘はなんという名前だった? そう、桜木…とか。あのぼろい服を着た赤毛の娘。 瑠璃子の顔に笑みが浮かんだ。 あの娘は適切な服装に欠けていたものを、威勢で補っていた。なにものにも動じないように見えた。瑠璃子と彰が口論するあいだ、 一度も巻き添えを食わずにその場にいた。 彰の相手は気骨のある女性でないと。でないととてもじゃないが、あのとんでもないほど女好きのする孫息子を牛耳れない。 どうあっても彰を遺産相続人に指定しなくては。好意は受け取ってくれるはずだ。あの子がなんと言おうとも、どう感じていようとも、 あの子が受け取るべきものなのだから。お金や株券が見知らぬ他人に渡るなんてまっぴらだし、紳一に一人占めさせることもない。 瑠璃子は微笑んだ。 紳一には実際必要でもない。自力で成功を収めた。けれど、瑠璃子が与えなくてはならないものは、孫息子たちに受け取ってもらわなければ。 たとえ姑息な手を使って無理矢理押し付けることになっても。 不意にあることに思いついた。 ちょっと時間を与えて彰の気持ちを確かめ、もしあのひどい身なりの小娘にまだ熱を上げたままだったら、彼女を訪ねてみよう。 あの娘は味方になってくれるかもしれない。かつての彩子と同じように。 すべてうまくいくかもしれない。 うまくいかせなくては。 悔しいけれど、若返ることはできないのだから。 *** まぎれもない誇りを持って、花道は小さな家の中を見回した。この七日間、夜明けから夜更けまで働きづめだったが、今日やっと一息つけそうだった。 誰の基準から見ても感動的な家とは呼べない。 わずかな家具に仕事で使う机とコンピュータを除けば、何もないに等しい。 だけどそれで十分だった。居間のスペースは狭いので、どうせ多くは置けないし、そもそも花道はモノが溢れている状況が好きではなかった。 そしていま、花道の努力――と、仙道のたゆまぬ協力――のおかげで、なにもかも清潔になり、きちんと整えられ、いつでも使えるようになった。 なにより全部オレのもの。 自分の家を持つのはこれがハジメテだった。 気の合わない叔父のもとで、結婚してからは夫の歪んだ束縛のもとで生きてきた。離婚後はつましい生活を送ってきたから、どんなに狭い家でもありがたかった。 とうとう自由になれる。 命令してくるヤツもいないし、指図してくるヤツもいない。 誰一人。 仙道が背後にやってきた。 「…何を考えてるの?」 ドキッとして振り返った。 …いた。 ヒトリいた。 ヤツのことは、その圧倒的な存在感はいつでも見逃しようがなかった。けれど仙道の望みは知っている――そのことと生活上で花道に大きな顔をするのとは、 まったく別の問題だった。 ふりかえるといつもヤツがいる感じだった。 微笑みかけ、冗談を言ってからかい、食事をさせようとしたり、キスしようとしたり、くすぐろうとしたり、手を貸そうとしたり。 頭がヘンになりそうだったが、どうしようもなく熱くもさせられた。気が散ってしょうがなかった。だけど邪魔はされてない。 それどころか、素直に認めれば……随分助かった。 引っ越してからというもの、空いている時間というのはないも同然だったが、花道が休憩する度に仙道はなぜか都合よく現れ、 しかも大抵は食料を持ってきた。 本当に、『心を射止めるならまずは胃袋』…を実践しているらしい。 さらなる驚きは、仙道がアレ以来まったく花道をベッドに連れ込もうとしなかったことだ。始終さわるし、キスするし、 花道本人がそれ以上耐えられないほど、求めていることをはっきりさせもする。が、一線を越えようとはしない。 仙道と、仙道のもたらす効果に慣れるまで、花道には時間がかかることを汲んでくれたようだ。 問題は、徐々にわかってきたのだが、花道にとって仙道に慣れる、ということは決してなさそうだということだった。 仙道の存在を意識すると、途端すっかり心を乱され、他のことは何も考えることすらできなくなる。ヤツのこと以外は。 今日仙道がやってきたのは、花道がコンピュータに帳簿を入力しようと、そのソフトに手こずっている時だった。 事務作業はダイスキから程遠い仕事だったから、機嫌も『いい』から程遠かった。 プライバシーなどまったく意に介さないで、仙道は花道の肩越しに画面を覗くと、瞬時にそのソフトをゴミだと断罪、 おすすめの会計ソフトを教えてくれた。 花道がその会計ソフトを気に入り、いままでのよりずっと使いやすいと言うと、すぐにインストールしてくれた。 データをすべて移してもくれた。同じことを花道がやろうとしたら何倍時間がかかったろう。仙道のコンピュータ技能は、花道のソレをはるかに上回っていた。 毎日、ヤツについて新しいことを知るような感じだった。そのどれもが、知りたくもないヤツの魅力に磨きをかけるような気がした。 「…なんでそんなふうにオレを見てるの?」 すっかり物思い耽っていた花道は首を振った。 「ベツに」 「なに考えてるか訊いたんだけど」 「そうかよ」 ゆっくりとふりかえった仙道の視線が花道の口唇を見つめていたので、ヤツが何をするつもりか見当がついた。あわてて答えた。 「ジ、ジユウだ」 「…え?」 「考えてた……オレはジユウだって」 仙道が親指で花道のあごをこすった。始終どこかしらにふれられている――それだけで、おかしくなりそうなのに。 「…いったいどういう意味?」 言い過ぎた自分に腹が立ったが、首をすくめて言った。 「なんでもねぇよ。ジブンの家に居られてシアワセだっつったんだ」 いやになるほどするどい仙道が言った。 「…きみら夫婦はお舅さんとくらしてたの?」 「いや」 首を振るのが少々激しすぎたが、思い出したくもなかった。 「ミッチーの父ちゃんがイエのアタマ金を出したから…」 コンピュータ作業をしていた仙道は、床や流しの下の掃除をし終えた花道を自分の脚のあいだに引き寄せた。 はじめのうちは抵抗していたものの、いまでは花道も諦め、おなじみとなったスタイルだ。その仙道お気に入りの配置でゆったりと腕を花道の肩に回して言った。 「『ミッチー』? それが別れた旦那の名前?」 「ああ」 「そいつのことはちっとも話さないね」 花道の今後の計画、とくに造園の仕事にかかわることはあれこれと話してきた。仙道のほうも、いつか家を買ってホテルから離れたところに住むという計画を聞かせた。 が、花道は過去にふれる事柄を一切避けてきたし、仙道も詮索しなかった。いままでは。 「話す必要ねぇだろ? 終わったことだ」 「離婚したとき、家は彼が取ったの?」 「ああ」 仙道から遠ざかろうとしたが、両手にうなじを押さえられ、こわばった筋肉をほぐされた。 ヤツにふれられて反応しない場所なんて、ない。いまも踏ん張らなければ冷静さを失いそうだ。気持ち…よすぎるから。 「…なんでいま、んなこと訊くん、だよ」 「ただの好奇心」 花道は顔をしかめた。するりと仙道の手を逃れ、狭い台所の反対側に歩いて行き、冷蔵庫を開けた。 「スーパーで買うもののリストを作ったほうがいいよな?」 話題を変えようという試みは、重い沈黙をもたらした。 ふりむいてちらりと仙道を見た。じっと花道を見ていた。探るような、胸を騒がせる瞳で。 花道の心を読もうとしている。秘密をすべて解き明かそうとしている。そんなことをさせるわけにはいかない。そこまで近寄らせてはいけない。 仙道に背中を向けた。 「こっちへ来いよ、桜木」 有無を言わさぬ声に凍りついた。仙道を見ないままうつむいて小さな声で訊いた。 「…んでだよ」 「オレがキスしたいから」 胸がドキンと跳ね上がる。 仙道のキス。 毎回おかしくなりそうな甘いキス。 病みつきになり、重ねる度にもっと欲しくなった。 震える手で冷蔵庫を閉める。疑わしそうな顔でヤツを盗み見た。 「…キス、だけ?」 仙道の微笑みは誘い、瞳は色を増した。 「いや。もちろん違う。キスだけなんて全然足りない。おまえだって、もう知ってるだろ?」 確かに。 ヤツにキスされると、花道はもっともっと欲しくなって、しまいには仙道がストップをかけなくてはならなくなっていた。 だって花道にはもう止められなかったから。 全身グニャグニャになり、簡単にヤツの声音と表情だけで興奮させられた。自分にこれほど性欲があるなんて思いもしなかった。 吸い込んだ息はおぼつかなくて、心の内をさらしていた。 ふらふらと足が勝手に仙道に向かう。 仙道が、自ら進んで、念入りに、徹底的に、キスの快楽を花道の身体に教え込んだのだ。くちづける度に花道の感度はよくなった。 満足感で仙道の口唇の端が上がる。たまらなく魅力的な笑顔。同時に瞳には暗い炎が宿り、絶大な効果をもたらす。 最後はじれったそうに花道を引き寄せると耳の下に鼻をこすりつけて囁いた。 「今夜はもう、水戸は帰ってこない?」 花道が震えたままコクンと小さくうなずく。 洋平は空き時間すべてを仙道操のところで過ごしている。そこで過ごすことに異常な喜びを見出しているようだった。仙道が微笑んだ。 「水戸のせいで、おふくろは気が狂いそうになってる」 「…オタガイサマだ」 仙道が笑った。 「水戸を好きなんだと思うよ。ただ、好きになりたくないんだな」 操の心境はわかる。同じ悩みを花道も持っているから。 「…洋平はいいヤツだゾ」 「オレもそう思うよ」 いたずらっ子のような笑みを浮かべて花道の顔から髪を払う。 「そう思ってなかったら、こんなにおもしろがってらんないよ。あんなにおたおたしてるおふくろ見たことない。けど、おふくろにとってもいいことだよ」 仙道を見つめることしかできなかった。 魂も抜かれそうだった。いったいドコのドンナ女ならこんなヤツを拒めるんだろう。 さわられればいつも気持ちよすぎて、面倒なこともさっさとこなす。心から母親を愛していて、過剰なほど気前がいい。 気持ちを何度も打ち明けられたが、それを真剣に受け止めるには、仙道は明らかにできすぎた男だ。 やさしく温かい息がかかり、舌に耳を舐められると身体は簡単に蕩けた。 大事なのは、心を奪われないまま、純粋に楽しむこと。 仙道のような男には、一生に一度、会えるか会えないかだ。太陽はもう地平に傾きはじめていた。 「…今日の仕事はもう終わりにしない?」 低く重い声が言う。 「おまえと横になりたくて死にそうだ」 すでにぼうっとなっていた花道は、そのかすれた声に我を忘れた。のどの奥から賛成の声を絞り出そうとしたとき、 やかましい音で電話が鳴った。営業時間外は滅多に鳴らなかったからもう少しで飛び上がりそうになった。 電話に出ようとして花道が離れると、仙道が諦めのため息をついた。 「もしもし?」 耳を傾け、眉間にしわを寄せる。 「はい。ええと、ちょっと待ってください」 受話器を仙道に差し出した。「てめぇにだ」 「オレに?」 顔をしかめて受話器を受け取った。「はい」 しかめ面が消えて温かい笑みが浮かんだ。 「なんだ彩子さんか。どうしたの?」 『彩子さん』? その名前は聞き覚えがある。仙道の義理のネエチャン。 仙道が耳を傾け、眉をひそめて舌打ちをした。 「まいったな。じゃあ……そうか。それなら……なるほど」 落胆のため息を聞いて花道もなんとなく落胆した。 「ああ、わかった。すぐ行くよ。ありがとう」 花道をチラリと見て受話器を戻した。 「義理の姉さんはうちの従業員なんだ。彩子さんはうちでウェイトレスをやってるから」 その情報に花道は驚いた。 「ニイチャンは金持ちだって言ってなかったか?」 「そうだよ」 信じられないという思いを声から隠しきれなかった。 「それなのに奥サンにウェイトレスさんをやらせてんのか?」 「彩子さんにウェイトレスを『やらせる』?」 仙道が花道に目を向けた。 「まさか、ちがうよ。彩子さんになにかをやらせるなんてできっこない。一度でも彼女に会えばそれがどんなに無謀なことかわかる」 首を傾けて花道をじろじろ眺めた。 「牧さんは彩子さんがいやがることはやらせようとも思わないよ。ほんとに。だけど彼女を愛してるから、 うちで働きたいって言い張った時――言い張ったのはマジで彩子さんなんだけど――まあ、あんまり文句を言わないことにしたってわけ」 またしても言い過ぎたと気づいて花道はブスっと赤くなった。 仙道が花道の腰に手を回してきて、お尻に両手を載せた。拒もうとしたが、何気なく、だけどしっかりと、 腰に腰を押し当てられるともう拒むことなどできなくなった。 「どうしてそんな的外れな思い込みをしたか、聞かせてくれる?」 気分を害するよりも、問いをかわすので精一杯だった。「…イヤダ」 仙道の表情に、穏やかではいられなくなった。 「桜木」 そっと揺すぶられる。 「どうして男が女に無理強いしようとするって思う…」 「寝ようぜ」 口をついて出た言葉はふたりのあいだに重くのしかかった。花道はすくんだ。仙道の気を逸らしたかっただけだ。自分の大胆さに唖然とした。全身真っ赤になった。 驚き。熱い欲望。そして未練が、順々に仙道の顔に浮かんだ。 仙道が花道の額に自分の額をくっつけて搾り出すように言った。 「…まいったな。ひどいよ。こんなにすてきな誘いは受けたことがないし、おまえとふたりでここにいて、 耳の先からつま先まで味わうより他にやりたいことなんてないのに…」 味わう? 「だけど従業員ふたりから病気で休むって電話があって、彩子さんがてんてこまいしてるんだ。ピンチヒッターも空振りで…」 花道のうなじをさする。 「ほんとにごめん。でも行かなくちゃ」 首の皮一枚で生き延びた。 花道は内心安堵でひーふー言っていた。アホなこの口がこれ以上おかしなことを口走る前に、コイツにはさっさと帰ってもらったほうがいい。 身体をまだぴったりとつけたまま仙道が訊ねた。 「明日は…何してる?」 花道が口唇をとがらせた。予定を思い出しているのだ。 「………天気予報が当たれば…、一日中働いてる。岬の仕上げをしたら、診療所の見積もりだ」 いまのところシゴトは至極順調で、診療所の次の予定も入っている。 「家に帰ってくんのは…夜中だな」 「しかもくたくたで」 認めたくはないが否定はしなかった。 仙道が微笑んだ。 「おまえが帰ってきたら何か食べるものを持ってこようか?」 「センドー」 反射的に拒もうとした。コイツのしつこさに笑いがこぼれた。 「もういいっつってんダロ」 「よくない。だって明日は裏に目的があるんだ」 ドキリとする。 「な…なんだよ」 口唇で口唇をこする。 「おまえに食事をさせてね」 耳にくちづけ、くすぐるように舌を這わせると、鳥肌の立つような低い声で囁いた。 「そのあと、オレがおまえを食べる」 花道が真っ赤になって小さくなり、仙道にきゅ…としがみついた。息ができなくなった。 花道の髪にうなじに、口唇を埋め何度もくちづける。 愛しくて、かわいくて、たまらない。 そのまま頬のラインをたどり、あご先、口唇へと移る。 「イかせてあげるよ桜木。最低でも3回。もしかしたらもっと…。待ち遠しくない? オレは待ち遠しいんだけど…」 身体の奥からうめき声が湧き上がってきた。 「センドー…でもオレ、ほんとに…」 続きを塞いだキスが激しくなった。 仙道の両手がお尻まで下がってきて撫でまわし、腰と腰をこすりつける。固くなってきた勃起を感じさせられる。 ようやく息を継がせてもらえたときには、欲望のあまり眩暈がした。 おそらく、一度許せば仙道の『挑戦』は終わる。 二度と求められることはない。 そう思うと胸が苦しくなったが、それが一番だとも思った。 ダチではいられるだろう。 仙道は誰にでもやさしく、親しいオンナノヒトには特にそうだから。そしてコイツを頭の中から追い出してしまえば、 将来の計画にもっと専念できる。そしてふたりは『親しいご近所』に行き着くのだ。花道にはそれでまったく問題ない。 もっともな理由ばかりだ。そう思って口を開いた。 「いイぜ」 苦しいのどで息を飲み込んだ。 「ス、す、すんげー、楽しミダな」 仙道の目が大きくなり、手に力が篭った。 「楽しいさ」 満足感をちらつかせながらじっと花道を愛しげに見つめ続けた。嬉しさを噛み締めるように鼻と鼻をこすりあわす。 「ようやく少しはオレのことを信用してくれるようになって嬉しいよ。後悔はさせないから…」 花道はポカンと口を開けた。 「…信用?」 仙道がすばやくうなずく。 「テメェを信用するなんて言ってねぇぞ? 『寝る』っつっただけだ」 「同じことじゃないか」 「ちげぇよ」 花道の頬にふれて辛抱強さを表しつつ説明した。 「…信用してなかったら、関係を持とうと思わないだろ?」 引き止めてわからせようとした。 「カ、カンケーなんてオレらは…」 仙道がじっと睨む。 「もってる」 「もってねぇ!」 イチャついてるだけだ。 ちょっとだけ。…というかしょっちゅう。正直に言えば毎日。そして仙道は「遊びじゃない」と断言した。 それでも…もちろんだからといって真剣な関係ということにはならない。 「そ、そんなのもった覚えはねえ! オレはただ…」 かかとが浮くほど抱き寄せられ、くちづけられた。 「落ち着いて。駆け落ちしてくれなんて言ってない」 んなこと言われて、どうしてオレ様が赤くならなきゃならねんだ! 「…だけどね。一般的なルールじゃ、こうしてふたりのあいだの激しい反応を探ってるあいだは、ほかの人とデートとかしないものだろ?」 てめぇが他のオンナノヒトを全部切り捨てるなんて本気で思うわけねぇだろ。 ありえねえ。 こいつは恋の戯れが生きがいなのだ。昔から。そんなのオレだってちゃんと知ってる。追い詰められた気分で言った。 「…んなことまで頼んでねえ」 「頼む必要はないよ。他の人なんていらないし、それはおまえもだろ?」 仙道は返事を待ったが、花道がただじっと見つめ、『他の人』などいないことを認めるのをしぶっていると言葉を続けた。 「ということは一対一ってことだし、オレたちは関係をもってるってことじゃないか。それなら、オレを信用してなくちゃおかしい」 なにも認められない心境だった。 「…………………ちょっと考えさせろ」 仙道がゆっくりと笑みを浮かべた。 「どうぞどうぞ。だけど考える時はこれのことを思い出して…」 そう言うと、やさしいけれど貪るように口唇を奪い、舌を絡ませ、両手で至るところを撫で、興奮を駆り立て、花道に拒むことを忘れさせた。 痛みを伴うほどに自分を刻みつける愛撫を施し続けた。 花道の気が遠くなるまで。 潮が引くようにゆっくりとくちづけが終わると、花道はどうにか重いまぶたを開いた。すると、同じくらい感化された仙道が目に入った。 「ふう。こいつはすぐには消えないぞ。それくらいは認めてくれ」 花道の腫れた下唇に申し訳なさそうにふれる。 「彩子さんがお手上げになる前に行くよ」 視線が絡まる。 「今夜は…一緒にいられなくて寂しいな」 切なく熱い瞳。 容易ではなかったが、どうにか気力を奮い起こし鼻で笑った。 こいつがオンナひとりに会えなくて寂しいなんて思うわけがないのだから、ありえないことを考えるのはもうやめねえと。ツライのだ。 「つれないなあ、桜木は」 仙道が笑いながらからかった。 つれないかもしれないが、ちゃんと理由はある。 男女の関係は本当に苦手だ。わからない。 花道は本当に初心者なのだ。 「…じゃあなセンドー」 仙道が外に出た。 「今夜はオレのことを考えるんだぞ」 返事をしないまま、後姿が長くなってきた影に呑まれるまで見送った。 胸の奥がこんなにも切ない。苦しい。 「…まるでオレ様が、ほかのことを考えられるみてぇじゃねぇか」 仙道の姿が見えなくなってから、花道は独り言のようにつぶやいた。 *** ドアを閉めてもたれかかり、花道はぼんやりしていた。 仙道の気持ちはわからない。 いくら言葉で、態度で、何度、何をどう言われても。 では自分自身の気持ちは? 自分が欲しているもの、必要なものはわかっている。が、仙道はそれに当てはまらない。アイツとのことは結局一時のお遊びでしかない。 なのになんでもうこんなに…… ため息をついた瞬間、また電話が鳴って跳び上がった。仙道を急かそうとして、『彩子さん』がまたかけてきたんだろう。そう思って笑顔で受話器をとった。 「もしもし」 「よう桜木。オレがいなくて寂しかったか?」 苦くつらい思い出がガラガラと降って来て、押しつぶされそうになった。笑顔は凍りつき、受話器を握る手も震えていた。 ミッチーに見つかった。 真っ先に考えた。――よかった、センドーが帰ったあとで。今はあれこれ訊かれたくない。 次に思ったのは、三井がどれくらい近くにいるのだろうかということだった。 この地域内にいるのか? オレを追ってきたのか? 影が降りた窓に目をやると、すぐ外に前夫のまぼろしが、家の中を覗き込んでいる姿が見えてゾッとした。 「電話をもらったのが嬉しくて、声も出ねぇのか」 勇気と誇りと自信を奮い立たせた。 「相変わらずめでてぇ野郎だな、ミッチー」 口汚い罵声を無視して受話器を下ろし、叩きつけるのではなく、そっと架台に戻した。 花道は自分を抱きしめ、目を見開いて壁にもたれた。 頭の中を思いが駆け巡っていた。 もう見つかっちまった。 アイツがそんな手間をかけるわけがないと思ってたのに。 どうしてわざわざ? なんの得があるんだ。わけがわからねぇ。 花道が県から出て行けば、三井は厄介払いできて満足すると思っていた。ところが電話をかけてきた。それはつまり……どういうことだ? ヤツの言い分では、花道がヤツを結婚に追い込んで人生を奪ったばかりか、離婚して恥をかかせたということだった。 だけどアイツは他にどんな選択肢を用意した? ゼロだ。 もう一度受話器を架台からはずした。 負けるものか。 人生を台無しにされてたまるか。二度も。 決意を新たにすると、戸外の電灯がすべて点いていることを確かめた。闇に目を凝らしたが、前庭はいつもどおりガランとしていた。 ドアと窓の鍵を確認したところ、早急に対処しなくてはならないことがわかった。だけどそれまでは……… 花道はためらい、それでもダイヤルトーンが聞こえるのに足りるだけのあいだ受話器を架台に戻してから、洋平の番号をかけた。 電話に出た声を聞いただけですぐ、洋平がぐっすり眠っていたことがわかった。 「…もしもし…?」 「洋平か? 起こしてわりぃ」 なにかを察知した声が返ってきた。 「どうした?」 自分が憎かった。 いやしく執拗な三井が憎かった。 かつてのダチのほとんどは、みんな三井に追い払われた。洋平だけが、動じずに花道を支え続けた。 「アイツが…電話してきた」 「三井サンか?」 「ああ。オレの居場所を知ってるみてぇだ」 「んだと?」 「脅されたとかじゃねぇ。ただ『寂しかったか』って訊かれただけだ。けど……」 「すぐ行く。オレが着くまで絶対に玄関を開けるな」 涙がこみ上げてきた。ずっと長いあいだ泣かなかったのに。 「…洋平。ゴメンな」 「それ以上言うと尻をひっぱたくぞ花道」 花道は涙声のまま笑った。 「しっかりしろよ。今家を出る」 電話が切れ、花道は受話器をはずしたままにしておいた。 *** 小さな聖域の明かりをすべて消し、窓の前に立って前庭を眺めた。洋平はまもなくやってきた。 荷物を満載したままの黒いバンが、常軌を逸したスピードで敷地内に入ってきた。花道はドアを開けた。 洋平の表情はいかめしく、態度はなおさらだった。家に入るとドアをバタンと閉じた。 「今度こそあのバカ野郎を殺してやる」 「ダメだ!」 新たな恐怖に襲われた。 「洋平。おめぇが何されるかわからねぇ。アイツのジンミャクは知ってんだろ?」 「人脈なんてクソくらえだ」 花道は涙を溜めて口唇を噛んだ。 「とにかく、あの洟垂れの卑怯者にはもううんざりだ」 自責の念がこみ上げてきて、花道は目を閉じた。 三井にはいろいろなことができる。そのことは当人が証明してくれた。花道のせいで、何人もが職を失い、借金をつくり、家を奪われた。 洋平まで同じ目にあわせるわけにはいかない。 洋平に頼り、いつも守られている自分が、どうにかして守らなければ。少なくとも今夜は。 「バカなことはしねぇってヤクソクしろ! でねぇと困ってももう二度と電話しねえ!」 涙を散らす花道の叫び。 手も足も出せないフラストレーションで洋平の顔は曇り、首と肩の筋肉がくっきりと浮かび上がった。両手を拳に握って腰にあて、 うつむいたまま腹立たしげに小さな居間を行ったり来たりする。 「洋平!」 額を手の甲で擦り、視線を合わせた。無情で澄んだ目だった。ようやく洋平がうなずいた。 「…努力はする。が、約束できるのはそれだけだ」 花道は小さく安堵の息を吐いた。 洋平は家の中を歩き回って電気をつけなおすと、ベッドからひとつ枕を拝借して、押入れの中から上にかける毛布を探し出した。 「でもな」と、ついてまわる花道に言った。 「今はオレの心配をしてる場合じゃねぇだろ」 「すぐに何かしてくると思うか?」 洋平は小さなソファのそばへ行き、枕を置いて毛布を広げると、胸の前で腕組をして花道の方を向いた。 「はっきり言うと、オレが言ってんのは仙道サンのことだ」 面食らって花道は洋平を見張った。 「センドーがどうかしたんか?」 洋平がしかめ面で言った。 「あの人はおまえを自分のものだと思ってる。あのニイチャンは、おまえの元旦那がうろちょろしてたら、それが悪意からだろうと好意からだろうと、 よしとするわけがねえ」 緊張で声が鋭くなった。 「な、何言ってんだよ。あんなヤツ、なんもカンケーねえじゃねえか!」 「向こうはそうは思ってねえぞ?」 怒りが、そして大量の不安が、急に湧いてきた。 「オ…オレ様のジンセエだ。あんなヤツなんのカンケーも…」 「一週間そばにいて、手を貸して、関係あることにしちまったのさ」 「そ、そんなんじゃ…ねえ!」 「そうか。じゃあ本人にそう言えよ」 他にどうしようもなく、花道はけんか腰に言った。 「ああ言うぜ!」 「はいはい。だがな、オレみたいにあっさりあの人の意見が揺らぐとは期待しない方がいいぞ」 花道の鼻の先をちょんとつついた。 「とにかくあの人は猛烈におまえを手に入れたがってるし、オレの勘じゃ誰にも邪魔はさせないだろうからな」 心拍数が倍になるのを感じながら洋平を見つめた。 どうしよう。 センドーとのつながりをすべて断ち切らなければ。 いますぐ。 でないとアイツまで危険にさらすことになる。 仙道はのんきで、開けっぴろげで、素直で、人がいい。三井寿のような人間と渡り合う方法など見当もつかないはずだ。 花道は心を決め、その瞬間、激しい喪失感に襲われた。 胃がよじれ、胸が空っぽになった。 自分がどれほど仙道を求めていたか、まるでわかっていなかった。 アイツとの『関係』を、すべて断ち切る決心をするまで。 *** 伸びをしながら仙道はシャワーを出た。 ゆうべは夜も半ばまで起きて仕事をしたあげく、ベッドに入ったときにはまったく寝付けなかった。 花道が欲しかったから。ものすごく。 しゃくにさわるのだが、花道にはまったく馴染みのない感情を呼び覚まされた。女のことで頭がいっぱいになったことはこれまで一度もなかったが、 花道のことを考えるのはいつでも楽しかった。笑顔になれた。 ちくしょう。いまも微笑んでる。 仙道は声に出して笑い、手早くタオルで水気を拭うと、ベージュのチノパンに手を伸ばした。 へとへとに疲れているはずなのに、そうではなかった。目標意識とエネルギーではち切れそうだった。そして欲望で。 花道がオレを信用してくれた。やっと。 本人はそれを望んでいないが、少しずつ傾いているのは間違いない。手櫛で髪を整え、食堂にかけようと電話へ向かった。 花道がコーヒーを飲みに来ているか知りたかった。 確かに仙道には睡眠が足りない。それに、花道と一緒にいたくてたまらないそぶりをこれ以上見せるな、と自分の経験が叫んでいる。 このところ花道を追い回してばかりで、ひまさえあれば花道のそばにいる。この調子では、意のままに操れると向こうに見抜かれてお楽しみが終わってしまう。 もちろん逆もまたしかりだ。花道は仙道と一緒にいたがるそぶりを一度も見せたことがなかったが、ゆうべは画期的だった。 彩子さんから電話がかかってこなかったら、花道を一晩中腕に抱いて目覚めていたかもしれないのだ。 望みの反応を得るのは――言葉からも肉体からも――正しくふれてさえいればたやすい。桜木はオレを求めてる。待ってろ。もうすぐ手に入るから。 ウェイトレスのひとりが四回目の呼出音で受話器を取り、迷惑そうな声で言った。 「はい?」 あとで電話のマナーについて説教をしなくては。 「仙道ですが」 「お、おはようございます。オーナー」 その声に深い後悔を聞き取って仙道はにっこりした。 このウェイトレス、松井は、最近入ったばかりでまだ仕事を覚えている最中だし、積極的には客に色目を使わないよい性質の持ち主だ。 おまけに家の頭金を貯めているところなので、仙道に言われれば何時からでも働く。今朝は五時からのシフトだ。手放せない人材。 「松井さん、悪いけど桜木が来てるか見てくれない?」 一週間にわたって仙道がコーヒーをふるまい、おしゃべりをし、しょっちゅう笑顔を浮かべていたので、従業員は皆花道を知っていた。 そしてボスがメロメロだということも。 「さっき来ました。仙道さんがいないか訊かれたけど『まだベッドの中です』と答えました」 オレがいないか訊いただと? 花道に会いそこねたかもしれないと思うと腹が立ち、それを気にする自分に嫌気が差した。だが、向こうから探してきたのはこれがはじめてなのだ。 花道が来た時には、仙道はもう起きていて花道を待っているのが常だったから。 「もう帰った?」 「いえ。お連れの彼にコーヒーを飲めってしつこく言われてます」 一瞬、なんだと、と思って固まったが、すぐにその男が水戸だと気づいた。たいてい水戸は仕事場に直行し、花道を迎えに来ることはない。 きっと今日は操に会えることを期待してここへ来たのだろう。 シャツを出そうと、電話を持ったままクローゼットの方へ向かった。 「待つように言って。すぐ行くから」 それから、コトをはっきりさせずにいられなくて、こう付け足した。 「それと松井さん、その男は桜木んとこの従業員だから」 松井が言った。 「そうですよねぇ」 その言い方に含みを感じてカチンときた。シャツに手をかけた手が凍りついた。 「どういう意味?」 怒りが声に表れたのだろう。松井が口ごもった。 「えっと、仙道さん。もう切らないと。朝は大忙しだから…」 かろうじて声を和らげた。 「そうだね。どういう意味かだけ話して仕事に戻ってくれる?」 松井がおろおろしているのが見える気がした。とうとう彼女は白状した。 「あの、その、やだな……彼、ゆうべ泊まったみたいなんです。眠れなかったのも機嫌が悪いのも、全部彼のせいだってぼやいてるのが聞こえちゃって。 彼氏の方が笑うと、いびきが貨物列車みたいだったってやり返してたし…」 赤い靄が仙道のまわりにたちこめた。 受話器を握り締める。 水戸がいびきをかくことを花道が知るには、ふたりはかなり接近していなくてはならない。歯を食いしばったまま言った。 「ありがとう。すぐ行く」 松井の返事も待たずに電話を切った。 水戸が桜木の家に泊まった。 ドアに向かったところで、シャツも靴下もつけていないことに気がついた。悪態をつきながらシャツをつかんで、ヤケクソ気味に腕を通し、 焦る手でベルトを締めて、靴下と靴に足を突っ込んだ。一分もしないうちに部屋を出た。 やっぱり。 最初からふたりのつながりは強すぎる、深すぎると思っていたんだ。なにかがあると気づくべきだった。 男と女がトモダチだと? ありえない。 あんなふうでは。 あんなに親しくては。 とりわけ、女のほうが恐ろしく可愛い場合は。 そしてもちろん、花道が仙道に及ぼす効果を考えれば、花道はたいがいの女よりはるかにセクシーだということになる。 確かに水戸は母にモーションをかけた。それもみんなの目の前で。花道に妬いている様子はなかった。 ドカドカ歩いていた足取りをゆるめ、それがいったいどういうことか頭の中で答えを導き出そうとした。が、ふたりが一夜をともに過ごしたという 事実が頭から離れなかった。 どんな理由がある? オレが桜木と一夜を過ごしたいと思うのと同じ理由のほかに。 仙道は食堂に駆け込んだ。 つづく
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