一夜だけの約束? 5
一夜だけの約束? 5 Promise of One night only おかしな食い物で性別が変わってしまったとはいえ、洋平は花道を『オンナ』として見たことは一度もなかった。 そもそもそれまでの男同士としてのつながりが濃すぎたし深すぎた。 ちょうど洋平が目を離した隙に花道につらい思いをさせてしまったが、人生を一からやり直すのをできる限り支えてきたし、 その過程でもふたりは変わらずお互いを無二の親友として思ってきた。ただし、ふたりのあいだにセックスが割り込むことはありえなかった。 テーブル越しの距離を狭めてぼそぼそ訊いた。 「なんて言ったんだよ」 花道が口を開きかけたそのとき、仙道の声が響いた。 「お取り込み中?」 首をまわすと、仙道とその母がすでにテーブルのそばにいた。 疑いとかすかな嫉妬で仙道の目が曇っている。洋平と花道が顔を寄せ合い、囁きあっていた様子が気に入らなかったのは明らかだ。 態度も目つきも洋平に挑んでいた。 一方、操の方は洋平の方をかたくなに見るまいとでも決めているようだった。 おもしろい。かわいい。 「もうまた会えた」 洋平の声にぴくっと操が反応した。視線が合うともう反らせなくなっていた。 なんてきれいな女だ。しかも品がある。しかも… 年齢は洋平にとって、ほとんどまったく問題にならなかった。 「おふくろから依頼があるそうでね」 「へえ」 洋平はにこやかに応じた。 「どんな依頼っすか?」 慎重な操は洋平を無視し花道の方を向いた。 「新しい庭造りなの」 「へ?」 操が咳払いした。洋平が楽しそうに操を見つめ続けているからだ。もどかしくなった仙道が説明を買って出た。 「おふくろは2年ほど前に新しい家を買ったんだけど、庭造りが遅れてるんだ。見積もりを出してもらえるかどうか知りたいって」 瞬時に、花道は断るだろうと洋平は思った。これが正当な仕事の依頼ではなく施しだと勘ぐって。だが、そうされてはオレが困る。 「そいつはオレの仕事だな。喜んで引き受けますよ」 操が慌てて下がった。 「だけど…」 母親の困惑のサインに息子が顔をしかめ割って入ろうとしたので洋平は続けた。 「花道には昨日の嵐のせいで今日は荷ほどきと敷地のかたづけがある。オレならちょっと行ってどれくらいの予算になるか、 いつごろ出来上がるかも教えられるし、そういうのはコイツよりよっぽどはやいっす」 「私は…その…」 洋平は満面の笑顔をぱっと仙道に向けた。 「そうだ仙道サン。もしそんなに忙しくなかったら、花道の家の窓をはめなおす手配をしてやってくれませんかね?」 「…あ?」 話の流れがよくわからず、花道は洋平を凝視した。がようやくわかると途端に声を張り上げた。 「ななななに言い出してんだてめぇ!」 「もちろん喜んで手を貸すよ」 仙道が遮ったが花道は耳も貸さなかった。 「てめぇこの野郎! オレがそんなこともヒトリでできねぇとでも思ってやがんのか! フザケんな!」 洋平の胸倉をつかみ食ってかかる花道に、苦笑しながら降参のしるしに手をあげた。 「違う違う。誤解すんなよ。おめぇほど自分でなんでもできる人間は知らねぇがな、おまえはここへ移ってきたばっかだし、 仙道サンはここで長く商売やってんなら、評判よくて信頼できて値段も手ごろな業者サンを知ってんじゃねぇかなって思っただけだ」 「その通りだな」 仙道がありがたく餌に食いついて加勢する。 「2,3本電話すれば、今日誰に来てもらえるかすぐわかる」 仙道が花道を手伝って忙しくしていれば、母親の番犬をしている時間はない。 「決まりだな」 オンナふたりがすさまじい形相(特に花道)で睨んでいるが、そんなものはオトコふたりにとってはへでもなかった。 *** 「ここからだと二十分ぐらい。道路の混み具合で5分前後変わるかな。白い二階建ての角の家だ。たぶんすぐわかる。表札も出てる」 洋平が仙道から紙を受け取り尻ポケットに突っ込んだ。 「了解」 操の用事が済んだ後、2時ごろに洋平が現地に行くことが決まった。操が息子に声をかけた。 「遅れるからそろそろ行くわね」 仙道が母親に腕をまわし、床から抱き上げてきつく抱きしめると、操は声を立てて笑った。仙道にしがみついて抱擁を返しながら息子を戒めた。 ふたりが自然に抱き合う様子から察すると、これはきっと恒例行事なのだろう。母親の愛を知らない花道は、ふたりの自然な愛情表現を、 切なさ交じりの憂鬱そうな顔で眺めていた。 花道は自分の過去をどれだけ仙道に打ち明けたのだろう。たぶんゼロだ。花道がどのくらい秘密主義者になれるかを洋平は知っている。 仙道から受けた忠告をそのまま返すこともできるが、そんなことをしたら花道が引きつけを起こす。花道は苦労して今の生活を手に入れたし、 たとえ善意からでも干渉は絶対に受けつけない。洋平が花道と親しい友人でいられる理由のひとつは、 女になったって洋平は決して花道の強さを見くびらないからだ。それに花道のプライドを尊重している――前夫にはできなかったようだが。 まったく。あの馬鹿野郎を何度殺してやりたいと思ったことか。残念ながら実行には移せなかったが。 「桜木さん、会えて本当に嬉しかったわ」 操に声をかけられると、花道が懲りずにぽーっとなって硬直する。 「コ、コ、コ、コチラコソ」 「またお話できるわね? 絶対よ?」 「え…ええ? ええ、ええ、ええ、ハイ」 たぶん何もわかってないんだろう。自分が何を承諾したのかも。いろんなオクターブの『ええ』に笑いがこらえきれなかった。 「水戸…さん?」 不意に声をかけられた。 「え? あ、はい」 「じゃあ2時に」 そう言うと、目も合わさずすたすたと出て行った。 洋平がその後姿を見ていると、仙道に小突かれた。 「オレのおふくろにそんなに見とれるなよ。落ち着かない」 「そうすか?」 窓の外に目をやるとちょうど彼女が車に乗り込むところだった。 「じゃあ慣れたほうがいいっすよ。これからもうんと見るだろうから」 仙道は呆れたように首を振った。 「…悪いけど絶対フラれるよ」 「何か賭けましょうか」 その強気に驚いて、仙道はどっと笑い出した。 「まいったな。おふくろに殺されるぞ」 依然ぼーっとしている花道に手を伸ばして抵抗を封じ込め強く短いキスをすると、一言「あとで」と言って仙道も去っていった。 毛を逆立てた猫のような花道を見て、洋平は笑った。 「オレたちも仕事をはじめようぜ。敷地がめちゃくちゃだ」 花道と洋平は外に出た。 *** すでに湿度は高く、空気が汗をかいているようだった。あまりの暑さで我に返り、花道が洋平に後ろから首ワザをかけた。口唇をとがらせて耳元にボソボソ言った。 「てめぇ、みっともねぇくれぇあからさまだったぞ。あんなふうにオンナノヒトにからむのはじめて見た」 「そうか?」 自分のことは棚に上げてよく言ったもんだ。 「お互いさまだ」 しかし、いつもの花道ならその尽きることのないエネルギーで洋平に後塵を拝させるのだが、今日の花道はすっかり足取りも重い。 洋平は花道の肩をギュッと抱いた。 「そんな悩むことねぇだろ? 何も今すぐ決めることじゃねぇ」 それに仙道が決定を花道に一任するとは思えない。 「あの人にチャンスをやってもいいじゃねぇか」 花道は一瞬考えた。がすぐにきっぱりと首を振った。 「いや、やっぱりオレはバカじゃねぇ。あいつはただの余計な厄介の種だ」 洋平は笑った。 「どうとでも」 ギロリと睨まれたが、もちろん微塵も堪えなかった。 「一晩で十分だ。それ以上はメンドーなだけだ」 そう言うと洋平を置いてずんずん歩いていった。 見られる心配がなくなったので洋平はにんまりと笑った。花道が人生最大の驚きに出会う予感がした。 *** 午後一時半、仙道がやってきたとき、花道は敷地の裏で四つんばいになって、 色とりどりの花が植えられたばかりの花壇のまわりから雑草を抜いているところだった。 赤い髪は特に午後の陽光にきらめいていた。ひとつにしばってあるが、今はこめかみとうなじの辺りが汗で湿っている。 灰色のシャツは土で汚れ、2サイズは大きいのだろう。小さな身体からだらりと垂れている。 ボロボロのカットオフジーンズは形のいいお尻がギリギリ隠れるくらいの長さなので、すでに限界に近い仙道の渇望はまたかき立てられた。 数分のあいだ、自分の『花道を眺めたい欲求』を満たしてやることにした。花道はときどきひとりごとをつぶやき作業を続けていた。 口調は明らかに「オレは天才」「疲労に負けるな」といった類だった。 女は大勢知っているが、その誰一人として、花道のように昔ながらの重労働を楽しむとは思えなかった。 それに仙道が難題に挑むのが好きな一方で、本人は認めないかもしれないが、花道は難題をけしかけるのが好きなようだ。 主導権を失った途端、あのいきいきとした目を挑戦的に輝かせる。つま先を誰かに踏んづけられたと思ったら、瞬時にけんか腰になる。 どちらかというと好ましい性質だ。とりわけ、媚びるばかりの女たちに慣れてしまったから。 仙道の機嫌をとろうとするばかりの女たちに。その点、花道は逆に、ヒマさえあれば仙道を言葉と行動で追い払おうとする。 ようやく花道が四つんばいから起き上がって膝だけついた格好になり、手の甲で額を横に拭うと目の前の空間を眺めた。 嵐でメチャクチャにされた低木の列が、今は元通りきちんと整列している。根株を土で丸くまとめられた若木は種類ごとに並べられ、 造園用の石はそちこちにこんもりと積み上げられている。 重いものを運ぶのは洋平がやったのかと思うとまた焦れたが、花道が自分でやったに違いない気もした。 花道は花壇に色鮮やかな花を植え終えていたが、雑草はまだ固い地面からちらほらと顔を出していた。 背中に手をあてウーンとうめきながら花道が立ち上がった。太陽を見上げ伸びをする。 花道を見つめているうちに仙道の血は騒ぎ出した。 まったく。なんて素朴な『大地の子』だ。 「昼飯は済んだ?」 花道がぱっと仙道の方を向いた。もう、少し日に焼けたようだ。 「…てめぇ、ここでなにしてやがる」 照りつける日差しの下では花道の目は信じられないくらい非難がましかった。仙道が慎重に一歩近づくと花道があとじさった。 「おい、そんなにうろたえるなよ。こっちは喜ばせたいだけなんだから」 「ナニ?」 むっとしたように眉根が寄る。 「うろたえてなんかねぇよ! 言っただろ。オレはシゴトが忙しいって!」 花道に近づく度に笑いをこらえなくてはならない。 「オレがなにをしたがってると思うんだ?」 花道が仙道の顔を探り、下唇を噛む。仙道の向こうを見て、またヤツを見る。 「テ、テ、テメェが…さっき言ったこと…」 途切れがちな声が、かすかな震えが、すでに桜色に染まった全身が、動かぬ証拠だった。 「ああ、『おまえを悦ばせる』ってやつ?」 花道が警戒した様子で眉をひそめる。 「…お、おうだ」 今朝、パンツを穿く最中の花道に、仙道はある提案を持ちかけた。 絶頂に到達するあれやこれやの方法をすべて手ほどきしてあげる――セックスそのものは抜きで、と。 もちろん無碍に断られたが、敵の動揺を深部まで誘ったのは間違いない。 仙道はゆっくりと花道の全身を眺めまわした。 暑さに参っていても、誇らしげにシャンと背筋を伸ばし、胸をはってまっすぐ前を見ている。 深呼吸で胸が上下している――重労働のせいか、興奮のせいか。両方か。 ところどころ、シャツが汗で身体に張り付いている――胸元、乳房の下、お腹。 ショートパンツの脚の付け根にできたしわは湿っていて、花道に時間を与えようと決めたにもかかわらず、 それに気づいたからにはもうふれずにはいられなくなった。 そして決め手は花道のその表情。 ふたりが互いに与えあう影響は信じがたいほどだった。 「昼飯はあとまわしだ」 仙道が前に出た。花道がまたあとじさった。 「あ…あとまわし?」 「ああ」 頬にふれた。 ビクッと花道が身を固くする。 「だってほら、震えてる」 花道が息を呑む音が聞こえ、瞳の色が深みを増すのがわかった。 「オ…オ…オレぁ疲れてんだ」 「興奮もしてるだろ?」 「だ…だからなんだってんだ! オ…オレがこここここういうのに慣れてねぇだけだ! テッ…テメェみてぇなオッ…オッ…『オンナったらし』に!」 懸命に言葉をつなぐ花道にふれ続ける。 頬から耳へ、首筋へと指先を這わせる。軽くふれているだけなのに、花道は首を振って払おうとした。また口を開いたとき、 花道の声はさっきより低く、とげとげしさも減っていた。 「オ…オレだって…オ…オレだって、テメェなんかといると…」 肌はやわらかく、湿っていた。 もうこらえきれず、震える花道は瞳を閉じ、息遣いを乱していた。 すごい。 こんなにセクシーで、こんなに反応がいいなんて。 指先をあごのラインに這わせ、のどを伝って胸まで降りた。切なげな表情の花道を見つめながら、 すでに固く勃った突起の片方を、布越しにくるくるとなぞった。 「…オレといると?」 花道がビクビクッと震え息を呑む。すでにガクガク震える膝ではこの場を逃げ出すこともできない。 「あ…やっ…」 震える涙声は無視して、空いているもう片方のまるみも、そっとふれて包み込むという同じ待遇を施した。 「…水戸はでかけた?」 花道が短く震える吐息の合間に頷き、ごくりと唾を呑む。 「あいつ…すげぇ入れ込んじまった」 仙道の手が止まった。 「入れ込むって、…何に?」 甘い拷問が中断したので、花道はやっと潤んだ瞳をやや開くことができた。吐息混じりにこう告げた。 「テ…テメェのかあちゃんだろが。あいつとは長い付き合いだけど、あんなんハジメテだ」 仙道は顔をしかめた。 「その話はまたあとにしよう。同時進行が難しいものもある。今はこっちに集中して…」 『こっち』を強調するために親指で突起をかするようにこすった。ふたつの突起がいまやしっかりとシャツの湿った木綿を押し上げているのを確認すると、 仙道にとって他のことにまで気をまわすことは容易ではなくなった。 軍手をはめた花道の手が拳をにぎり、低い喘ぎ声はかすれて生々しい。 仙道はしたり顔で微笑んだ。 「もうココ、我慢できないんだ?」 「…んなこと…ねぇっ」 必死の涙声は仙道を煽るだけだった。 「なんで自分の身体に逆らおうとする? すごく気持ちよくなれるのに…」 「だ…め、だ…セッ…」 そう言いながらも身体は素直だ。 もっとふれてほしいかのように前に突き出されたまま硬直している。花道が悔しそうに下唇を噛んだ。 「オレたちはどっちも大人で、どっちも独身だ」 太陽のぬくもりが残る鼻に、頬に、くちづける。 「いま、ここで、特別なことが起きてる。どうして気づかないふりをするの?」 花道が必死で首を振った。 「…わかったよ。心の中にしまっておいていい」 この場の盛り上がりを壊したくなかった。 しっとりと口唇を重ね、高まった花道の香りを吸い込んだ。 「いまのところは」 敏感なかわいい胸を手の中に包みこみ、やわらかく愛撫したまま言った。 「…今日は何をしてたの?」 二度深呼吸をしてから花道がささやくように答えた。 「こ…ここを、か…片付けてた…い…いろいろ…整理し…しなおしたり…たてなお……あっ」 また固い突起を、愛しみ、こすり、転がしていた。 「…それから?」 「……ムッ…ムリだっ…ろっ」 なじる花道の手が仙道の手首を握ってギュッとつかんだ。 「テ…テメェが…こんな…」 敷地には誰もいないし、よく見なければふたりが何をしているかはわからないだろう。それでも仙道は花道を小屋の裏に、 影の中に、通行人の視界の外に下がらせた。 膝を少し曲げて身体を押し付け、自分の固く張りつめたそれが花道の弱い箇所にぴったりと当たるように押し当てる。 花道が喘ぎ、開いた口唇に口唇を重ね、むさぼるように求めた。花道はあらがいながらも、すぐに舌は互いを求め合った。 片手を胸から放して尻にあてがうと、仙道が生んだゆるやかなリズムに乗せて、重なった服越しに花道自身と仙道自身をこすりあわせていった。 軍手をはめた手がひきつけを起こしたように空をつかむ。花道の身体がわななき、こわばりはじめたので、花道が到達する早さに、 こちらはほとんど努力しなくていいことに、仙道は驚嘆した。 花道はセックスの火薬樽。 そしてオレは幸運な男。 あっという間に高まってきた感覚に、花道は必死で身体を放そうとしたが仙道は自由にはさせなかった。密着したまま小さな悲鳴を口唇で受け止め、 なお強く、なお速くこすりつけすべてを味わおうとした。 突然花道がきつく硬直した。 口唇をもぎはなすと、必死で息を継ぎ、全身を大きくわななかせながら甘く切ない泣き声を断続的に洩らし続けた。 仙道は花道の顔に浮かぶ官能の苦悶を見つめ、肩に食いこむ爪の感触に酔った。 見とれる仙道もまた、花道の一部を強く感じていたためもう少しで達きそうになっていた。絶頂の波がおさまって身体の力が抜けた花道は、 依然仙道がこわばったまま歯を食いしばり、自分の尻をわしづかみにしていることに気づくとうろたえたような顔になった。 仙道は花道の首筋に顔を埋めて、息をすることに、昂揚を抑えることに意識を集中させていた。下着の中で達して花道を驚かせたくなかった。 そうして自制心を取り戻す前の最後の瞬間、これ以上ないくらいにそっと、花道のこめかみにキスをした。 鈍った頭がまた働きはじめると、仙道はなんとか笑ってみせたが、その声はかすれて弱々しかった。 「ふうっ、あぶない。もうちょっとでイっちまいそうだった…」 まだ急には動けそうにない。ことが手に負えなくなってきた。花道をものにしなければ――できるだけ早く。 花道が軍手をはずして地面に落とし、その指で仙道のうしろ髪をそっと梳いていた。 「イガイとやらかいのな…」 驚いたような声でつぶやかれても、仙道はどう答えたらいいのかわからなかった。 まだ汗ばんだ顔も身体も火照らせたまま、花道はつまらなそうに口唇をとがらせてつぶやいた。 「…ダイジョブかよ?」 「ああ…」 顔を上げて、花道の困惑し魅入られたような表情を見ると心臓がよじれるのを感じた。 「…ごめん。おまえが達くのを見たらオレもものすごく達きたくなっただけ」 微笑んでしまわないように気をつけながら、言った。 「軽蔑しないでくれよ? オレだってただの男だし、おまえはオレにとってはたまらなく魅力的なんだから」 花道は仙道の言葉を真剣に受け止めたらしく、眉をひそめて考え込んだ。 「べ…別に軽蔑なんてしねぇよ。ただ、テメェがんなに興奮するなんて……しんじらんてねっつーか、嘘くせっつーか…」 花道は結婚していたと言ったが、亭主は興奮しなかったのだろうか。花道と一緒にいて、 その自然な色気に我を忘れない男がいるなんてこと自体が信じられなかった。 なにもかもわけがわからない。 あるときの花道は自信たっぷりで何も恐れない。だがほかのときは、とりわけセックスがからんだときは、人妻だったなんてとても思えないくらいうぶだ。 疑問が頭の中を埋め尽くしたが、今のところはそこに閉じ込めておくおことにした。一日にしてはもう十分すぎるほど花道を困らせた。 花道が今度は不快そうにうなり仙道の肩を押した。 「くっそう、すっかり時間をムダにしちまったじゃねぇか! どうしてくれんだこの野郎!」 もっとヤワな男だったらプライドをずたずたにされていただろう。 「もうちょっとやさしくしてくれないかな。一触即発の事態を抑えてるんだから」 「ダ、ダ、ダレのせーだ!」 ふたりの香りが、性的に高められた香りが混じりあう。花道の火照った頬を親指で撫でた。 「仕方ないだろ? おまえと汗をかくのが好きなんだ」 花道が首を振った。 「てめぇがわからねぇ…」 苛立ちも、戸惑いも、声によく表れていた。 「…そんなにタイヘンならもうやめりゃあいいじゃねぇか」 最後にはベッドに連れ込めると確信してるから。 が、それを言うほどバカではない。 「ざっとシャワーでも浴びてきたら? それからオレのトコで昼飯を食いながらそのことを話し合おう」 「センドー」 まだ花道の肩をつかんだまま、お互いに心を鎮められるよう一歩下がった。 「本日のスペシャルはとびきりうまいクロワッサンのチキンサラダサンドと新鮮なフルーツと…」 食べ物でなら釣れるかもしれない。 性の技術では虜にできなくても。とりあえず技術を行使しているとき以外は。だが言い終わらないうちに花道は首を振った。 「ダメだ」 軍手を拾いはめなおした。 「まだやることがたくさんある」 「午前中ずっと働いてたんだろ?」 「まあな。でも中は手もつけてねぇ。荷物をほどいてちゃんとするまで一週間はかかると思ったけど、寝床よりまず台所を使えるようにしねぇと…」 朝になってもオレのホテルの食堂に来なくてもいいように? 仙道は顔をしかめた。ムッとしたのと、性的に満たされていなかったのとで。 彼の悩みなどつゆしらず、花道が顔をぬぐって、湿った前髪を顔から払った。 「最初に手ぇつけとくんだったけど、ちょっと外にいたくてよ。中にいると、…ヘンなことばっかり考えちまうから」 「オレのことを考えてた?」 ギ…ギ…ギ…と顔を向け、死んだような目で花道は仙道を見た。 「日に当たるのはキモチいいし、雨が降ったから雑草も抜きやすい」 「食事はしなきゃいけないだろ?」 相も変わらず拒絶されて機嫌を損ねつつ、仙道は理屈をこねにかかった。こちらが前進したと思う度に、花道は仙道をはねつける新たな理由を見つける。 「昼飯のあとで手伝ってやるから。ふたりがかりなら時間も短縮できるだろ?」 「ダメだ」 仙道はじっと花道を見つめた。 「あのさ、断る以外の声も聞かせてくれない?」 花道が腰に手を当て、しばらく地面を見下ろしてから答えた。 「あのなセンドー、オレを手伝わなきゃなんねーなんて思ってもらいたくねーんだ。たとえオレらが……その…」 ちらりと仙道を見て、途方に暮れたように腕を掻く。 「…アソビでじゃれあってるからって」 「誰が遊びだって?」 仙道は前かがみになって、両頬を両手にとらえしっとりと口唇を重ねた。低い囁き声で言った。 「悶えさせたいって、真剣に思ってるのに…」 花道が再び目を開くまで数秒かかった。ため息をついてから、やや赤くなって聞こえるか聞こえないかというややイライラしたような声で言った。 「…てめぇは十分…うめぇよ」 「どうも」 「だけどソレはソレだ」 花道が向きを変え、通りの方へ歩き出した。 「てめぇがうろちょろしてやがったら全然シゴトがはかどらねぇじゃねぇか!」 ムッとして仙道は後を追った。肉体的にも精神的にも花道はふたりの間に距離を置こうとしている。だがこちらは二倍の意思で阻止してやる。 花道がちょうど玄関にたどり着いたとき、肩をつかんで振り向かせ、その身体を腕の中にしっかりと抱き締めた。 痛いほど。骨が軋むほど。 その衝撃に不満そうな声を洩らし文句を言いかけたが、仙道がうなじに手を当ててかがみ、逃げられる前に再び口唇を塞いだ。 はじめは頑なに口唇を引き結んでいた花道だが、きつく抱きしめられ情熱的に施されるくちづけに、結局とろけてしまうのに時間はかからなかった。 甘い悲鳴があがる頃には、互いの舌が互いをなぞりあっていた。 くちづけは次第に深く熱く激しくなる。 やめたくはなかったがやめなければならなかった。 口唇を重ねたまま囁いた。切々と訴えた。 「わがままを聞いてくれ、桜木。オレと昼飯を食べて。荷ほどきの手伝いをさせて」 花道が荒い息を吐く。シャツの襟元に温かい息を肌に感じた。身体が震えた。 花道が、押しのける、というより遠慮する、という感じで力なく身体を離し一歩下がった。 花道はぼうっとしていた。不思議そうな、困ったような顔をしていた。きれいだった。 「十五分でおいで。ご近所だろう? がっかりさせないでくれよ」 それ以上言う前にその場を立ち去った。 頼み込むのはもとより、言いくるめようなどとは思ってもいなかった。 こちらが差し出すものを欲してもらいたかっただけ。 オレが言うことを聞いてしまうくらい。 どんなことでも。 ホテルに足を踏み入れたとき、振り向いて窓の外を見た。おぼろげに見える花道は、仙道が去ったときと同じ場所に立っていた。 一ミリも動いていなかった。胸の奥に新たな愛しさが滾々と湧き上がった。 しかしそれも、耳障りで腹立たしげな祖母の声が背後から聞こえてくるまでのことだった。 「仙道彰。おまえは日増しに品を失っていくね。ちょっとは礼儀ってものを知らないのかい?」 仙道はすぐに顔からあらゆる表情を拭った。 振り向いて、作り笑いを浮かべ言った。 「おや瑠璃子さん。こんなところで何してるの?」 *** 花道の軍手は、仙道のシャツと髪の毛に土を残していった。時間をかけてシャツを替え、土を落としたが、怒りはちっともおさまらなかった。 今一番避けたいことが、つむじまがりの祖母の来訪だった。 花道とふたりきりで親密な昼食をとるあいだ、甘い言葉をうんと囁いて、もう少々言葉の前戯を施してあいつを徹底的に蕩かすつもりだった。 それなのに祖母、瑠璃子と手合わせをしなければならなくなった。 花道が来る前に用件が終わることを祈りつつ、仙道はホテルの中を足早に抜け、厨房を通って食堂に入った。 花道が居心地悪そうに入り口にいるのを見つけて、がっくりきたがうれしくもあった。すぐに目が合った。 花道がむすっとしたままつまらなそうに仙道の方へやってきた。 やれやれ。 ようやく向こうから来させることができたというのに全神経を向けられないとは。 隅のブースに座った瑠璃子は、ピンと背を伸ばし、シャンと胸を張り、「ゴキブリを見つける」とでも思っているかのようにプライドの高そうな顔を歪めていた。 孫息子が自分の店でゴキブリを飼っているといわんばかりに。 仙道は歯を食いしばり、瑠璃子のそばを通り過ぎて花道の方へ向かった。花道は食堂の中ほどまで来たところで仙道の渋面に気づき足を止めた。 仙道がそばにくるやいなや訊いた。 「…なんかあったんか?」 花道はシャワーを浴び、膝に穴の開いたくたくたのジーンズと白いTシャツを着てボロボロのスニーカーを履いていた。 湿った髪が束になって肩にかかっている。仙道が思ったとおり日に当たりすぎたらしい。鼻もおでこも頬もピンク色になっていた。さらにかわいく見えた。 「おばあちゃんが現れた」 「なぬ?」 渡りに船とばかりに花道が言った。 「そりゃゆっくりハナシがしてぇよな。昼飯はまた今度にしようぜ。オレぁどうせシゴトがあるし…」 そう言われると思った。言ってくれとさえ思った。しかしセリフは勝手に口を突いて出た。 「いや、話はすぐ終わるから。休憩室で待ってて。いいね?」 答えようとしたとき、花道の視線が仙道の顔から肩の向こうへ移った。その表情だけで花道が何を――というか誰を――見つけたのかすぐわかった。 もどかしさに首まで埋まった思いで仙道は振り返った。 「瑠璃子さん」 これでもか、というほどの無表情を装って花道を前に出した。友好的な態度を示せば、この訪問も血を見ずに終わるかもしれない。 必ずしもうまくいく手ではないが。なぜなら瑠璃子はわざと仙道を怒らせているのではないかとさえ思えるときがあるからだ。 「こちらは桜木さん。通りの向かいで働いてる」 瑠璃子の鋭い観察の目が花道に留まり、仙道は思わず身を固くした。 「おや、そうかい。どうやらおまえは『働く』という言葉の定義を学びなおした方がいいようだね」 花道がムッとして眉をひそめた。仙道と瑠璃子を見比べる。 「どういう意味だ、バアチャン」 「瑠璃子さん」 食堂のど真ん中にいることを考えて、声にできるだけ警告をこめた。瑠璃子は予測がつかないし(花道もだが)、三人はすでに客の注目を集めはじめている。 花道は新規で店をはじめたばかりだ。花道の名前に傷がつくようなことをこんなところで祖母に言わせるわけにはいかない。祖母の腕をとり、 厨房の方へうながした。 「行こう。桜木も。裏で話そう」 戦闘態勢で怒りも露に花道がふたりのあとからついてくる。瑠璃子はフンと鼻で笑い、女王のように先導させた。 *** 休憩室に人気はなく、花道はすぐさまどかっと腰を下ろした。仙道は片目だけは祖母から離さないまま、コックに指示をして三人にそれぞれ、 飲み物と本日のスペシャルを運んでくるよう頼んだ。 コックが出て行くやいなや、花道が誇りの表れとしてテーブルに腕をダンと載せ身を乗り出した。 「あのなバアチャン、冗談じゃねぇぜ?…デスぜ? うちの店がまだ見られたモンじゃねぇのはわかってっけど昨日開いたばっかでしかも昨日の嵐だ。 これだけは言えっけど、昨日と今日のオレ以上に働いたヤツなんてこの世にいねぇ!……んデスだぜ?」 花道もサスガにもう社会人であり、敬語(のようなもの)を身につけるように誰かに言われたらしい。 しかしそれ以前に祖母のイヤミをすっかり勘違いしている。仙道はいろんな意味で咳き込んだ。 しかしすぐに瑠璃子は訂正した(ガラの悪いおかしな日本語はスルーだった…)。 「ホテルの窓からあなたがたが見えたのよ。恥も外聞もないふるまいだね。どこからでも見える場所であんないちゃいちゃと…」 花道がすっくと立ち上がった。 「…イチャイチャ?」 大きな目がゆっくりと仙道を見やり、それから恐ろしげに狭まる。 「…ヒトに見られた?」 花道の反応に満足した様子で、瑠璃子が座りなさいと手で示した。 「気づいたのは私だけですよ。誰に見られてもおかしくはないけれどね」 赤黒く変色した花道は全身から猛烈な湯気を出していた。このままでは殺される。息の根を止められる。仙道がうなるように言った。 「キスしてただけだ」 瑠璃子に見られたのがそれだけならいいが。 「そんなもの人に見られないところでおやりなさい」 瑠璃子が花道を見つめる。 「忠告しておきますけどね、彰に堕落させられないように気をつけなさい。こと女性に関しては『いい加減』というものを知らないのだから。 それに女性の方も進んで身を投げ出すものだから始末に悪い」 祖母は花道を追い払おうとしている。 仙道は怒り心頭に発し、拳をテーブルに叩き付けた。突然の仙道の豹変ぶりに花道はビビッたが瑠璃子はどこ吹く風というふうだった。 「…それ以上言わないでくれる? 瑠璃子さん。女性に手を上げるわけにはいかないからね」 堕落した男について語りたいならすぐにでも父の名を出してやる。あんたの息子の名を。瑠璃子が冷たい表情で見つめた。 「紳一が驚くだろうねぇ」 「驚くもんか。牧さんならわかってくれる」 腹違いの兄は結婚する前にたっぷり彩子を堕落させた。彩子はその一分一秒を堪能した。 「紳一は」 瑠璃子が依然として仙道に言う。 「あの子を愛してた。おまえも同じ言い訳ができると思うの?」 とっさに適当な返事が思い浮かばなくて仙道はグッと詰まった――その時コック(福田)が現れて、 彼が働いている場所と食堂の気さくな雰囲気を考えると滑稽なくらいうやうやしい手つきで料理を瑠璃子たちに差し出した。花道が思わず声を上げた。 「うへ〜。うまそうだな。お? おめーが福ちゃんだな?」 福田はちらりとそのうるさいのを見た。 「『うまそう』じゃなく『うまい』だ。それに年下なら『福ちゃん』じゃなく『福田さん』と呼べ」 花道がとっさに言い返せず渋面で呆然としているあいだに、福田はエプロンで両手を拭いながら、さっさとドアを抜けて厨房へ戻っていった。 瑠璃子は自分の皿に載っている料理をジロジロと眺め、チキンサラダをちょっぴりフォークですくい、じっくり噛んでから、 『よろしい』と言わんばかりにうなずいた。 「たいへんおいしい」 祖母に認められることがどれだけ嬉しいかに気づいて、仙道は驚いた。椅子に深く身を沈めた。 「病人食でも出てくると思った?」 瑠璃子がまたフォークですくう。 「彩子から私に電話するように言われなかったかい?」 「言われた」 「じゃあどうしてかけてこなかったの」 仙道は手を伸ばし、丸くくりぬいた熟れたメロンを指でつまんだ。それから口に放り込んだ。 「電話はどっちからでもかけられるんだよ? それにオレは忙しかった」 溢れんばかりの軽蔑を込めて瑠璃子が言った。 「世の中にはすばらしい文明の利器があるんだよ、彰。フォークという名のね」 花道が吹き出しそうになった。仙道が睨むとおもしろそうに花道は訊ねた。 「紳一ってダレだ?」 「オレの兄貴」 それから瑠璃子に、このことについてこれ以上言うなと目で警告した。瑠璃子はギュッと口をつぐんだ。無邪気に花道が訊く。 「家族で盛大に集まったりすんのか?」 仙道は笑った。 「ありえない」 不愉快なことに、瑠璃子が傷ついたような表情を浮かべ、仙道はあざ笑ったことを後悔した。 紳一と彩子が結婚してからというもの瑠璃子は意地悪ではなくなろうと努力してきた。そして公に彰も認めた。 問題は、彰のほうがまだ許す気になれないことだ。瑠璃子が彰の母親を認めないうちは。過去をきちんと話し合わないうちは。 「家族は多くはありませんよ」 瑠璃子が説明した。 「私の息子、この子の父親も随分前に死んでね」 花道がしゅんとなって言った。 「ゴ、ゴシュウショウサマです」 仙道の方を向いて言った。 「かあちゃんは旦那サン亡くしてタイヘンだったんだな」 「いや」 仙道は首を振り、どう説明したものかと考えたが、やがて諦めた。 「おふくろはオレの父親と結婚しなかったんだ」 瑠璃子が息を呑んだ。 「彰! 私たちの内輪の恥をさらすつもり!?」 「あんたの恥だろ?」 いつものことだがこの話には、渦を巻く恨みがこみ上げてきた。 「おふくろには恥じるところなんてなにもない」 ふたりの視線はしばらく火花を散らしていたが、やがて瑠璃子が花道の方を向いた。どうにか落ち着きを取り戻してこう言った。 「家族は孫息子がふたり、彩子という義理の孫娘がひとり、それにわたしで全部です」 花道は、同情しているようにも不安そうにも見えた。 無理もない。 以前から続いている身内の口論に思いがけなく巻き込まれてしまったのだから――仙道は自分が瑠璃子の身内だとは思っていないけれど。 テーブルの下で花道の足が仙道の足にそっとふれた。 険しいまなざしをさっと上げると、花道の視線とぶつかり、そのつまらなそうな表情にやさしく撫でられた気がした。 花道は何も言わなかったし無言のやりとりはささいなものだった。が、ここに、そばにいるという、その存在だけで癒された。 そんな気持ちにさせてくれた相手はこれまで一人も思い出せなかった。 仙道は落ち着こうとして息を吸い込み、瑠璃子を見つめた。 「今日のうちには電話するつもりだった。何か用だったの?」 瑠璃子がとげとげしい目で花道を見た。 「内輪の話があるんだよ」 「…あ? あ…ああ! だよな」 花道は椅子を引きかけたが、退散する前に仙道がその手をつかんだ。「どうぞ。聞くよ」 「センドーほんとに…」 花道が焦った声で言った。 「オレぁやっぱ…」 「オレたちのあいだに内輪の話なんてない。そうでしょ? 瑠璃子さん」 瑠璃子は怖気づくような女ではなかった。 「…いいでしょう」 皿を脇へ押しやると、テーブルの上で両手を組んだ。 「私の弁護士に会うからおまえもきておくれ」 仙道の身はこわばり、あやうく花道の手を握りつぶしそうになった。 「どうして?」 慎重な警戒心のようなものが瑠璃子の顔を這い上がったが、祖母は虚勢をはって隠そうとした。 「遺言状を書きかえたから、仕上げる前に目を通してもらいたい」 「やめてくれ!」 花道の手を強く握りすぎていることに気がついて手を放した。荒々しいものがこみ上げてきて立ち上がって行ったり来たりしはじめた。 「やめるものですか」 瑠璃子も立ち上がった。 「おまえは強情になってるだけですよ。ちょっと考えれば…」 怒った目で睨んだ。 「聞く気もないね」 テーブル越しに睨みあう二人はどちらも身をこわばらせ、どちらもプライドが高すぎた。仙道には折れることなどできなかったから、 最後にはしかたなく瑠璃子が折れた。 「おまえほど頑固で短気で高慢ちきな人間は見たことがないよ」 「へえ。あんたと血がつながってるってバレるかな」 瑠璃子がムッとして横柄な口調で言った。 「わかりました。だけどこれだけは言っておくよ。私は私のいいと思うように遺言書を書きかえます。おまえがなんと言おうとね」 瑠璃子があごを上げた。怒っていても女王然としていた。 「蚊帳の外にいるほうを選ぶというなら、好きにしなさい」 「ドブに捨てるから」と仙道は宣言した。祖母のしつこさにユーモア感覚も鈍っていた。瑠璃子が仙道を孫息子と認めたのはつい最近のことだし、 操にはいまだによそよそしい口をきく。仙道が祖母に望んでいるものを――母に対する敬意と息子が母にしたことを完全に認めることを ――祖母は与えたがっていない。だから仙道は何も受け取らない。 「捨てるなんて許しません」 感情的な言葉には瑠璃子も見るからに驚いたようだった。 「ばかなことを言うんじゃないよ」 「それがなんだろうと、あんたがオレに何を遺そうと、いいか瑠璃子さん、オレは絶対に放棄する」 「か、勝手にしなさい」 声は低くなり、怒りはくすぶっていた。 「どうとでも好きにするがいい。そんなもったいないことがしたいならそうなさい。だけどね、私の財産の一部は絶対おまえに遺しますからね」 女王然とした怒りに包まれて、瑠璃子は背を向けるとさっさと出て行った。 仙道は後姿を見送った。イライラし、むしゃくしゃし、叩きつけるように椅子をテーブルに戻した。 花道がギョッとして仙道を見た。仙道はなんとか気持ちを落ち着けようとしていた。 「くそ。なんだってんだ」 怒りを追い払おうとしたがどうにもならなくて片手でグイと髪をかき上げた。花道の視線に気づくと、じっと見られていたのでうめきたくなった。 「…ごめん、桜木。ただその、瑠璃ちゃんはこれまでもヒマさえあればオレを怒らそうとするから…」 角氷をカランと言わせながら花道がコーラを取り、呑み終えてもしばらくズズズーっとすすった。 「ふたりとも相手を怒らせんのはうまく見えたぜ?」 仙道は顔をしかめた。花道に今見せたのが自分のいい面ではないことは明らかだ。 「わざわざおばあちゃんの機嫌を取らないのはオレだけらしくてね」 昼飯を平らげたのは花道だけだった。椅子の背にもたれ、満たされた腹の上に両手を載せ花道が言った。 「…だからバアチャンにとって特別なんだろな」 もう少しで笑いそうになった。 「特別? 冗談じゃない。いつもオレの耳をちょん切りたがってるような人なのに」 花道が笑った。 「かもな。でもおめぇをダイジに思ってるのも確かだろ。でなかったらあんなに怒らせんのもムリだ」 その可能性を考えることはまだ自分でも許せなかった。 「…同席者はともかく、食事は楽しめた?」 「メシはうまかったし、正直言って同席者も……おもしれかった」 にかっと笑った。 「おめぇ、意外とおもしれぇ」 花道は気を悪くするどころか逆に今の騒動を、仙道の意外な一面を好意的に楽しんだらしい。しげしげと仙道を見る。 「バアチャンは金持ちなんだろうとは思ってたけど、ナマで見て『やっぱり』って思ったぜ」 「金持ち? ああ恐ろしくね。兄貴もそうだよ。牧さんね」 「おめぇは違うのかよ」 仙道は話題を変えたい一心で花道の隣に椅子を引き寄せた。甘く囁く。 「…気になる?」 花道の目がややうつろになった。 「…まあな。世界を動かしてるのは自分だと思ってる奴らってあんま好きじゃねぇから」 仙道は花道を見つめた。ということは… 「…何人か知ってるってこと?」 口唇が引き結ばれたので答える気がないのだとわかった。またしても秘密。花道は仙道の好奇心を掻きたて、 決意を新たにさせる極意を知っているようだ。遅かれ早かれ秘密は明かしてみせる。 仙道は両手を差し出した。 「まあ、それに関しては安心していいよ。オレはこれでもかってほど貧乏だからね」 花道が鼻で笑った。 「だろうな。なんたってココのオーナーだもんな」 「いまはまだホテルがオレのオーナーってとこかな」と笑いかける。 「それから金持ち連中のことだけど、桜木の言ったことは瑠璃子さんには当てはまるよ。 金さえあれば何でも思い通りにできると信じてる――オレさえも。だけどたまに瑠璃子さんもちょっとは繊細なところがある人間なんだとわかるときがあるんだよな。 それに死ぬほど牧さんを愛してる。牧さんは金持ちだけどまったく裏表がない。とにかくすごくいい人なんだ」 花道がまた眉をひそめた。が、仙道が思いつくような理由からではなかった。ブツブツ不満そうに洩らしていた。 「…んなもんテメェもだろ。ばあちゃんはソレに気づいてねぇのか?」 仙道はきょとんとした。 おやまあ。桜木がオレをかばってる。大きな進歩じゃないか。 つつつ…と寄り添い甘く囁きかける。 「話すと長くなるから、家族の欠点を語り合うよりおまえを誘惑したいんだけど…」 仙道の手が膝に着地する前に花道がその甲をつねり上げた。 「オレぁシゴトがあるっつってんダロ。忘れんな」 忘れさせてくれるとでも言うのか。 仙道はからかうような笑みを浮かべて訊ねた。 「もしかして休憩室のテーブルに押し倒されるとでも思ってる? 従業員がここで食事するんだよ?」 花道は真っ赤になったがボソボソとやり返した。 「て、て、てめぇなら何しでかすかわからねぇ…」 ピタリと仙道はテーブルを眺めた。真顔で言った。 「…悪くないな」 花道が吹き出して笑い出した。仙道は意表を突かれ、またしても熱くなった。 花道はもっと笑うべきだ。そのためにオレには何ができるだろう。 「カアチャンはバアチャンと随分チガウんだな」 花道は感想としてそれを口にしたが、仙道には言葉にされない問いが聞こえた。 「おふくろのことでオレと瑠璃子さんがちょっとやりあったことを考えてる?」 花道は空のグラスに視線を移した。 「…詮索はしたくねぇ」 つまらなそうに口をとがらせた。仙道は微笑んだ。 「手短に話すとね。オレの父親で瑠璃子さんの息子はオレのおふくろがまだ十六歳の時に妊娠させた。そして捨てた。 おふくろにもオレにも一切かかわりを持ちたがらなかった」 できるだけ簡単に、感情を交えずに語ろうとした。 「でもそいつが自分の子供を見捨てたのはそれが最初じゃなかった。だけどオレには、生まれたとき面倒を見てくれるおふくろがいた」 花道はやや複雑な顔をしたがつぶやいた。 「カアチャンとメチャクチャ仲いいもんな、おめぇ…」 「ああ」 それは誰の目にも明らかだろうと思うと顔がほころんだ。操は息子に惜しげもなく愛情を注ぐし、抱きしめたり褒めたたえたりするのが大好きなのだ。 「親父に会ったことはないし、瑠璃子さんにも十四になるまで会ったことはなかったけど、ほったらかしにされてるとか、 大事なものが欠けてるとか、そんなふうに思ったことは一度もない」 花道が見上げる。 「けど、牧さんはそんなに恵まれてなかった。そばに誰もいなかった。たまに、牧さんがこどものころどんな経験をしてきたかと思うと胸が張り裂けそうになる」 花道が椅子から身を乗り出し仙道の胸に寄り添った。そんな慰めを花道の方から示したことに驚いて、(とりわけいつも押しのけられてばかりいるから) 思わず押し戻しそうになってしまった。なのでその腕のやり場に困った。いずれにしても花道はそうさせなかったが。しがみつくように仙道に寄り添っていたから。 「…で『牧さん』はどうなったんだよ」 花道を抱いているのは楽しいのだからどうして抗う? 小さな背中と肩にそっと手のひらを当て、頭のてっぺんにあごをこすりつけた。赤い髪はとてもやわらかく、洗いたてのシャンプーの香りがした。 「牧さんは里親を転々として、ときには路上で育ったことを考えると、あんなにいい人なのが不思議だよ」 思い出すとまた心が震えた。 兄がくぐりぬけてきたことや、どんなに苦しい生活をしてきたかを考えるだけで、文字通り吐き気がした。 それもこれも父親である男がわがままで無責任でろくでなしだったせい。花道がさらに仙道にしがみついた。 「ひでぇな…」 花道の声に嘘偽りのない本音を聞き取って、仙道は抱擁を返した。 「ずっと天涯孤独で生きてきたところに親父が死んで、瑠璃子さんには跡継ぎが必要になった」 驚いた花道が身を引き、仙道を見つめた。 「ガキがいるって知ってたのに何もしなかったのか?」 仙道は肩をすくめた。 「息子が、立派とは言えないことをやってるんじゃないかと瑠璃子さんは前から疑ってたから、探偵を雇って調べさせてた」 花道の背中を撫でて再び自分の胸に寄り添わせる。 「跡継ぎは一人でよかったんだ。オレを見つけようなんて思ってなかったんだけど、私立探偵に捜査を打ち切らせる前にオレの存在を知ってしまってね。 一人よけいな孫息子を背負い込むことになったのさ」 つづく
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