一夜だけの約束? 4
一夜だけの約束? 4 Promise of One night only コーヒーとクリーム入りのドーナツと果物を載せたトレイを持ってベッドに戻ってきた時、 花道は依然としてヘッドボードに密着したままのどまで引き上げたシーツにしがみついていた。 マットレスの、花道の隣に腰を下ろした。 「朝食です」 少しおどけた呼びかけにも反応がないのでため息をついた。「…謝るべき?」 むすっとした花道。 今朝の花道はしどけなく乱れていてご機嫌斜めのようだ。 「…何をかによる」 こみ上げた笑いを必死で抑えたが容易ではなかった。 まったくこいつはいろんな手段で楽しませてくれる。 「寝込みを襲ったことさもちろん。だけどまあ、夜のあいだは襲わないって約束したけどもう朝だし…」 流し目を送る。 「おまえを求めたことを謝るとは思ってないだろ? だからおまえを見ようとしたことも。だって仕方ないだろ? 我慢できなくてさ。 あ、それとゆうべいっぱい泣かしちゃったことも。あとあんなに『やだ』って言ってんのにあんなに……」 「もういい!」 聞いてられなくなって叫んでいた。真っ赤になって猛烈に怒っている。けれど…やっぱりかわいい。どうしたらいいのかわからないくらいかわいい。 仙道にとってはドーナツなんかよりよっぽどおいしそうな花道だった。花道が非常に不愉快そうに搾り出すように言った。 「…もうてめーの相手なんてやってらんねぇ。コーヒーよこせ」 「オレが入れるよ。ミルクと砂糖は?」 「全部!」 怒鳴る声の勢いに苦笑を噛み殺しながら時計を見る。電気式だったので昨夜の停電のせいでチカチカと点滅を繰り返しているだけだった。 花道はぶすっとしたまま仙道が差し出したコーヒーを受け取るとゆっくりと口に含む。熱い液体が喉をじんわりと伝わる快感に、 ふううううう…とひとつ息をついた。 「…おいしい?」 少し落ち着いたくせに、聞かれるとわざともう一度ぶすっとし、そのまましぶしぶコクンとうなずく。どうしてこんなにかわいんだろう。 「福ちゃんはコーヒーを煎れるのもうまくてね。ドーナツもうまいよ。食うだろ?」 チョコレートコーティングされたクリーム入りのドーナツだ。花道が誘惑に勝てるはずがない。 仙道はコーヒーとシーツとドーナツをなんとか危なっかしく支える花道を見て、またもや笑いを噛み殺していた。 豪快な一口がドーナツにぱくりと噛み付くと、そのままシアワセそうに目をくるりと回す。 ジーンズを圧迫する痛みにもかかわらずうれしくなった仙道は、フォークにイチゴを突き刺して花道の口許に運んだ。「あけて」 一瞬、咀嚼も止まって渋い顔で仙を凝視した花道だが、結局ぶすっとしつつもすなおに口をあけ受け入れてくれた。 うれしい。 艶めくその口唇を仙道の方が食べてしまいたかった。 「ふん。寝床でメシなんて、ギョーギわりぃのに、みんなやりたがるハズだ」 声を落として仙道は言った。 「オレはおまえの世話をする方がいい」 本当は相手がどんな女でも世話をするのは好きだが、花道の世話は格別だった。底の浅い楽しみではなかった。 シーツを剥ぎ取って今にも押し倒し、もう一度脚を開いて深くひと突きしたかった。と同時にもっとおしゃべりして最後まで食事の世話をしたかった。 それからからかって抱きしめたかった。それから………とにかくなんでもやりたかった。 ドーナツはあっという間にすべて花道の胃袋に消えていった。どんなに腹を立てていても食欲にはまったく支障がないらしい。 「てめーが世話したくねぇオンナノヒトなんてこの世にいんのかよ」 べとべとになった花道の指が目に留まったので、手首をつかんでその手を口許に引き寄せた。 「…なに? 引っかけ問題?」 人差し指を口に含み、舌をからめてまとわりついたコーティングを舐め取った。 甘い。おいしい。多分いつもより。 指をなぞる舌の感覚に花道の表情が陶然とし、きゅ…と眉が寄せられる。瞬く間にけんか腰は消え去り意識が高まっていた。震える声が囁いた。 「…ンド…」 『セックスでコントロールできたら…』と言ったのは冗談のつもりだったが、発想自体は悪くなかったようだ。現に今の花道を見ていても、 できなくはない気がしてくる。 すでに瞳は濃くもの憂げで、頬が染まっている。ほんのちょっとふれるだけで、花道はすっかり熱くなりそのときを待ちわびえている。 こんな立場の逆転も珍しい。 男の方がセックスを武器にして主導権を握る。もちろん悪くない。うんと焦らして焦らして焦らして、もうオレから片時も離れられなくしてやりたい。 「や…せん…ど…」 花道がもう一度呼んだ。 コーヒーを零さずに懸命に手を引っ込めようとする。もちろん仙道はそれを許さず、今度は中指を咥えた。 やさしくしゃぶっていると花道が鼻の奥ですすり泣くような声を洩らした。 見つめ合ったまま指を舐め下ろし、中指と薬指のあいだの繊細な肌に舌先でふれた。花道が震える息を吸い込む。 いまや震えたまままぶたが閉じ、眉根が寄り、吐息が漏れる口唇はやや開いている。半分空になったコーヒーカップが震える手の中でぐらついていた。 カップを受け取ってナイトテーブルに置くと花道をベッドに横たわらせて上にのしかかった。頬を染めた花道が、震えたまま、 うすく開いたまぶたからおそるおそる仙道を見上げた。 「やあ」 かがんでゆっくりと深いキスをした。 そのまま熱い自身をお腹にこすりつける。もうわけなくイってしまいそうだった。すっかり準備ができていたから おそらく息をふきかけられただけでも果ててしまうだろう。 何を当てられているかわからないはずがない元オトコの花道は、さらに真っ赤になって恥ずかしそうに震えていた。 花道の息は、コーヒーのせいで温かく、ドーナツのせいで甘かった。 いや違う。 『花道』だから。花道がなんの努力もしなくても、仙道はすっかり興奮させられてしまう。花道の下唇を噛んで白状した。 「…おまえが朝寝してる姿を見るのは拷問だった」 力なく逃れようともがく花道に、どれほどつらかったかをわからせるように、切なく激しいくちづけをおくり続ける。次第に仙道の巧みな口唇と舌の愛撫に、 すっかり抵抗の力も奪われ、恥ずかしさを堪えるように応じていた花道が急にはた、と動きを止めた。 マットレスに沈んで首をひねり窓の方を見る。 太陽がさんさんと差し込んでいる。 花道が息を呑んだ。つぶやいた。 「…朝寝って…おい、今何時だ」 のどが脈打つのを見て仙道はうっとりとそこに口唇を当てようとした。 「…たぶん…八時半…くらい?」 花道がさっと仙道の下から抜け出したので仙道は宙にキスするはめになった。「…桜木?」 逃げた拍子にシーツをベッドに置き去りにしていた。 「八時半?! だからこんなのヤだったんだ! てめぇが悩みの種になるってわかってたのに!」 仙道をギラッとにらみつけたが、一瞬だったのでほとんど効果はなかった。それから悲鳴に近い声を上げた。 「オレ様の服はドコだーー!」 『悩みの種になるってわかってた』って、いったいどういう意味だろう。 「桜木、ちょっと落ち着いて…」 きれいな裸身で部屋を賭けまわり、ショートパンツとTシャツを探す様子を仙道はとくと見物させてもらった。 ベッドで裸で眠っているのを見るのと、動くのを眺めるのでは大違いだった。その女性的な筋肉の伸縮や飾らない美しさ、 そしてほれぼれするようなお尻と胸の弾みを見るのとでは。運がよければベッドに戻るよう説き伏せられるかもしれない。 「なんでそんなに急ぐんだ? 一晩中雨だったんだから焦って仕事に行くことはないだろ? こんなに地面がズブズブじゃ 何にも植えられないんじゃないのか?」 返事がない。 さらにわかりきっていることを指摘した。 「どっちを向いても水溜りだらけだと思うけど…」 仙道を無視して腰をかがめ、椅子の下に半分隠れていたショートパンツをやっと見つけると、ひったくるようにして拾った。 花道が突然提供してくれた光景に仙道の心臓は止まりかけたが、楽しむ時間はまったく与えてもらえなかった。 下着も忘れてショートパンツを引っ張り上げると焦った手つきでしっかりと腰ひもを結わえた。 「今朝は洋平と会う約束だったんだよ! あいつぜってームダに心配してる!」 暗くて卑しくて鋭い何かを胸の奥で感じ、仙道はゆっくりとベッドの上で起き上がった。 「…『洋平』?」 実は女のことで嫉妬したことは一度もない。が、これがそれではないだろうか。氷のような指ではらわたをつかみ、淫らな欲望に影を落とすこれが。 そんな胸糞悪い予感がした。 「…その洋平って野郎はどこのどいつだ?」 花道が少し驚いた顔で仙道を見た。少し笑った。Tシャツをかぶり布の向こうからもごもご言った。 「意外とクチ、悪ぃのな」 やわらかくてしわだらけの木綿に魅惑的な胸が隠れていった。 「その男は誰なんだ? 桜木」 「ダチだ。仕事も一緒にやってるし、あと…とにかく時間がねぇから。そのいろいろ…」 花道は急に言いよどみ、赤面し、すばやく首を振った。 「いろいろ、全部、たすかった。じゃあな」 言い捨てるように言うと、隣の部屋を足早に通り抜け、ドアを引き開けると、はだしで、くしゃくしゃの髪で、よれよれの服で出て行った。 花道がはかなかった小さなパンツをまたぎ超えて、仙道はすぐさまあとを追った。 ショートパンツの下はすっぽんぽんで、ほかの男のところへ向かってる、だと? 冗談じゃない。 幸いフロント係は裏で何かしてるらしく目撃されずにすんだ。花道が玄関を出る。すぐに仙道が続く。同様にはだしで、おまけに上半身は裸だ。 『洋平』とやらに会ったら腹をくくるしかない。 花道が歩道に踏み出す前に腕をつかまえた。 「ちょっと待てったら」 通りの向かいでは花道の家の駐車場で、黒いTシャツに古びたジーンズを穿いたワルっぽい男が顔を上げた。 これだけ離れていてもその男がそれなりにいい男なのがわかる。嫉妬で焼き切れそうだった。 「あれがそうか?」 あごが痛むのは花道に蹴られたせいでもあり、歯を食いしばっているせいでもあった。だけどかまわない。 花道をほかの男のところに行かせるわけにはいかない。 「ああ」 花道がぶんぶんと手を振った。 「ここだ、洋平ー!」 不審そうな様子で問題の男がこちらへ向かってきた。花道と仙道を見比べている。近づくにつれ足取りが速くなる。 花道がそいつを出迎えようとして仙道の手を振りほどこうとしたが仙道は放さなかった。 「そうはいかない」 花道が眉をひそめて見上げた。ふっくらとした口唇がもどかしそうに引き結ばれた。 「どうするってんだ」 男がふたりの前で立ち止まった。黒いサングラスをしているがおそらく同世代。引き締まった筋肉。敏捷そうな体つき。 髪はリーゼントでいわゆる『不良』っぽいくずれた雰囲気をもっているが、やはりあきらかに魅力的な男だった。 ゆっくりとサングラスをはずして尻ポケットに入れた。すがめた瞳は、仙道に負けないくらい不機嫌そうに見えた。 上等だ。対決する覚悟はできている。 男は腰に両手をあて、仙道を無視して言った。 「…花道?」 けげんそうな声だった。花道がまた腕を振りほどこうとした。それでも仙道が放さないでいると男がじれったそうに尋ねた。 「………おまえ、…なにしてんだ?」 それから眉を上げ、明らかに寝起きで乱れまくった花道の姿を、そして独占欲丸出しの仙道のつかみ方を、しげしげと眺めた。 仙道にはその男が笑いをこらえようとしているように見えた。 「おいおい、どうなってんだよ」 仙道は身構えた。 「あんたが『洋平』…さん?」 「そうだけど…」 また仙道をそっちのけにして花道に愛情深いまなざしを注いだ。 「いったい、ドコでナニしてたんだよおめぇは…」 途端花道が火を噴くように真っ赤になった。もじもじして、また仙道から逃れようとする。大声で怒鳴った。 「ナ、ナニも!」 「そうか。だろうな」 その口調は、花道の言うことなど一言も信じていないと語っていた。 「その格好、まるでひと晩………」 言葉が途切れ、やがてゆっくりと、堪え切れなかったらしい笑みが浮かんだ。低く笑いさえした。 「へーえ。こいつは驚いた」 楽しそうな男の態度に、仙道の緊張はやや解けた。が、花道は違った。ぐいっと力まかせに腕を振りほどくと仙道を思い切り肩で突き、若干よろけさせた。 「いったいなんだってんだ、てめぇ!」 花道の威勢のいい噛み付きっぷりに、『洋平』は吹き出した勢いで前かがみになった。冗談めかして目を輝かせ楽しそうに言う。 「オレにはどう見ても妬いてるように見えるぞ?」 「フ、フザケんな!」 花道が真っ赤になって怒鳴った。 「妬かれるほどこんなヤツとそんなんじゃねぇ!」 「そうなのか?」 洋平がまた花道を眺めまわし、それから仙道の裸の胸をちらりと見る。 「見た感じじゃあメチャメチャ『そんなん』みたいだがなあ」 「ゴ、ゴカイすんじゃねぇ!」 わめきちらす花道。やましさからすでに赤を通り越してどす黒くなっていた。『てめぇは黙ってろ!』と言わんばかりの顔でギラッと仙道を睨みつけた。 「て、てめぇは何にもわかっちゃいねぇ!」 「いやぁ、だって、彼にはわかってるみいだけどなあ」 「てめぇ!」みぞおちに強烈な肘鉄を食らわされた。 洋平がまた笑った。それから手を伸ばして花道のもつれた赤い髪をつまんだ。 「おいおいその辺でやめとけって。そんな乱暴にあたると、嫌ってると思われるぞ?」 花道がうんざりしたようにうめいた。 仙道にはふたりが兄弟のように見えた。『ただの友達』でもなく、『ただの仕事仲間』でもなく。 洋平の態度にはなわばり意識がまったく感じられない。それどころか、花道が「男とアヤしい」という事実を心から楽しんでいるように見える。 …どういうことだ? 嫉妬心がいくらか好奇心に変わったが全部ではなかった。 ゆうべは花道に、生まれてハジメテの『女の快楽』の一部を教え、一糸まとわぬ身体を抱き寄せ、眠る姿を眺めたけれど、花道について知っているのは、 昔バスケをやっていて、気が短くて、自立心が強くて、自分を大いに興奮させるということだけだ。 「桜木とは…すごく親しい?」 洋平が答えた。 「うーん。まあそう言えるな。オレたちは…」 そのとき近づいてくる車に洋平の気が逸れた。仙道はその視線を追って、勘弁してくれというような声を洩らした。 花道と再会してからというもの、まともに考えることができなくなっていた。ことの運ぶスピードがあまりに速い。 と同時に仙道にとって都合がいいほどには早くなかった。 今一番やりたくないことは、普通とは言えない一夜のあとに花道を母に紹介することだ。が、もう手遅れだった。 仙道操はスポーティで小型の黒のセリカを、三人がいるところから数メートル離れた場所に停めて降り立った。 やわらかい茶色の髪は編みこみに結われ、濃い目のサングラス、普段着の白いサンドレスとサンダルを身につけていた。 いつもどおりだ。そう思った仙道は洋平が低い口笛を鳴らしたのでギョッとした。 「ぐっとクるなあ」 仙道はぽかんと口を開けて洋平を見た。どう反応していいのかわからなかった。この男はオレのおふくろに男として関心を示してる。 ――まあ確かに美人ではあるが……四十半ばだぞ? 正気か? 操が三人の方に歩いてくる。 確信するように洋平がつぶやいた。 「う〜ん、いい女だ」 咳き込んだ仙道に洋平が目を向けた。困った顔を見て眉をひそめる。 「…知り合い?」 「ああ」 仙道は首の後ろをこすった。いくつかの点で少々落ち着かなかった。「そう言える」 「彰」 とうとう母がそばまでやってきた。ためらいなく親しげに抱きしめられたので、温かい抱擁を返すしかなかった。「心配したのよ?」 肩越しに見ると今度は逆に洋平が口を開けてぽかんとし、花道は今にも吐きそうな顔をしていた。 操がやや身体を離し、両手を息子のたくましいむき出しの肩に載せた。 「大丈夫だったの? ゆうべは心配で居ても立ってもいられなかったけど、携帯も混んでて全然繋がらなかった」 仙道は母に腕を回して観客の方を向かせた。 花道はいまや凄まじいほどに渋い顔をしており、洋平は半ば唖然とし半ばきまり悪く思っているように見えた。 仙道はにんまりした。 ちょっとおもしろくなりそうだ。 「桜木、洋平…クン、紹介するよ。オレのかあさん。仙道ミサオさん。貞操の操っていう字」 洋平が驚きに目をしばたき、もう一度操をしげしげと見つめた。「…ウソだろ?」 花道もおもしろいほど(ホントにおもしろかった)衝撃的な顔をしていた。「マ、マジかよ?」 ふたりの反応に仙道はほくそ笑んだ。 「かあさん、こちらは…えっと、高校んときバスケで知り合った桜木と…」目で名乗れと合図する。 「…水戸です。水戸洋平」 「ふたりとも通りの向かいに新しくできた造園店で働いてる」 「そうなの? まあ…」 女性らしい、かわいらしい声だった。年を感じさせない…というか操は、少なく見積もっても実年齢の十は若く見える容姿をしていた。 しかし見た目はそうでも年の功だ。瞳がサングラス越しに花道を一瞥した。なるほど、と言わんばかりの表情が浮かんだ。 花道がベッドから出てきたばかりなのは誰の目にも明らかだったし、操は息子のことをよくわかっているから、 それが息子のベッドに違いない、という正しい結論を導き出した。 「はじめまして。よろしくね」 にこっと笑って挨拶した。 元オトコの花道は、自分の立場も忘れてそのヒトの美しさとかわいらしさにぽーっと赤くなりどぎまぎした。 「コ、コチラコソ。よ、よ、よ、よろしくおね…おね…」 いつまでも終わらない挨拶に、洋平が花道の赤い頭に手を置き無理矢理下げさせる。 「こちらこそ。よろしくお願いします」 操はやや息を呑んだ。 洋平はアイソよく笑っているものの、操を見つめる目は獲物を狙う男のソレだったのだ。瞳の熱さに呑まれるように、操はぼうっと立ち尽くしていた。 仙道は洋平の様子にやや戸惑いながらも少々感心した。 どうやら酔狂ではなく本気らしい。 仙道は母の向こうに手を伸ばし、花道の手をつかんでさっさと歩き出した。 「ちょっと桜木を借りていいかな? そっちはふたりでコーヒーでも飲んでてよ。すぐに追いかけるから」 目を丸くして操が口を開いた。 「で、でも…」 洋平が遮った。 「ああ、いいすよ。ぜひ…」 *** ふたりに声を聞かれないところまでくると、仙道に引きずられるまま花道がつないでいるその手をほどこうとした。 「もおなんなんだよてめぇは!」 「おまえのパンツ」 花道がこけそうになった。 「オレの、……ナニ?」 花道をちゃんと立たせてからまた歩き出した。 「おまえのパンツがまだオレの部屋にあって、その白いショートパンツからかわいいお尻が透けて見える」 お尻をぽんと叩いてよりわからせる。 「オレの無礼なふるまいには自分でもあきれるよ。でもね、おまえも出かける前にはちゃんと服を着るべきだ」 みるみる花道が赤くなった。 「ど…ど…どうしよう…」 「だね」 笑いをこらえるだけで精一杯だった。 「おふくろはあれで結構冷静な方だし、オレの生活にはあんまり干渉しないけど、おまえのことでいくつか訊かれるのは確かだな。 そんな状況、着るものを着てからにしたいだろ?」 花道がようやく自分の立場に気づいたようだった。 「どっ、どうしよう…!」 今度はガンの宣告でも受けたように真っ青になっていた。 仙道は笑った。 かがんでキスをした。 なんておもしろくて強情でプライドが高くてかわいいんだろう。 一緒にいるだけで楽しくなる。 花道はすでにすっかり放心状態になってしまったので、何度も声をかけなければ歩みがお留守になっていた。 横目で花道を見た。 さっき部屋を出て行ったときは、ふたりがゆうべしたことは一度限りの出来事だと、釘を差すように礼を言った。 これで終わりだ、と。 本気でそう思っているみたいに。 バカな。こっちには終わらせる気などさらさらない。 絶対に。 じゃあどうすれば考え直してくれるだろう。 花道が唯一仙道を遠ざけようとしなかったのは、彼にふれられていたときだけだ。もしかしたら常に淫らな気持ちにさせておけばいいのか? 自分にあきれるように苦笑が浮かんだ。 もう花道をエッチでコントロールするというアイデアとその甘美な可能性以外頭の中には何もなくなった。 きっと鉄のように強固な自制心が必要になるだろうし、これほど花道を欲していては自制なんてできるかどうか自信がない。 しかし、一緒にいる時間が増えるし、入ってくるなと言われた花道の生活に入り込むこともできる。そういえばオレのことを『悩みの種だ』とも言っていた。 仙道は首を振った。 そのうち必ず花道の心を全部開かせる。仙道を求めていることは間違いないのだから――それも一晩限りのことでなく。 ああ、花道にしたいことや花道としたいことを全部やるには少なくとも一ヶ月はかかる。いやもっとか。 ホテルの部屋に引っ張り込みながら期待で興奮してきた。頭の中にはすでにいくつかのシナリオが出来上がっていた。そのすべてを花道に気に入らせる。 今から待ちきれない。 この挑戦にはなんとしてでも勝ってやる。 花道を見ると、ちょうどひったくるようにして床から下着を拾うところだった。怒っているのと恥ずかしいので張りつめた顔は真っ赤だ。 キョロキョロするのを見て、どこで穿こうか考えているのがわかった。 「桜木?」 うわの空でバスルームに向かいながら花道が答えた。 「ああ?」 「おまえに提案があるんだけど…」 ぴたりと足が止まり、搾るように声を出しながらゆっくり振り向いた。 「あんま聞きたくねぇな…」 期待が血管をうねった。 「そうかな。聞きたいどころか絶対乗りたいと思うはずだけどね」 恐ろしい顔で仙道をにらんだまま、さささ…とバスルームに逃げ込んだ。 仙道は笑った。 好きなだけ逃げるといい。風向きは良好だ。 *** 操は面食らっていた。目の前にいる若い男(息子と同年代だ)があからさまに自分を品定めしている。 息を呑むしかなかった。こんなあからさまな色目を使われたことは一度もない。 操が住んでいるのは閑静で古めかしい地域。 仕事は落ち着いた法律事務所の弁護士秘書。知り合いの男はみんな…礼儀正しい。控え目。 彰とふたりになったら、こんな気まずい状況に置き去りにしたことをみっちり抗議しなければ。 「…ウソだろう?」 操は驚いて洋平を見た。 とてもわかりやすい『不良っぽい』スタイル。けれど、安っぽくはない。 何かしら。何なのかしら。彼が外見だけではなく、中身も非常に『格好いい』ように感じるのは。 ああ、年甲斐もなさすぎる… 話しかけられたことを思い出し、上品に咳払いをした。 「…今、なんて?」 「あんたが一人前の男の親だなんてありえない。若すぎる」 長年の習慣から操の防衛本能は強かった。この若い男の子がどんなにすてきでも関係ない。 あごを上げると見え透いたお世辞を言えなくなるような真実を伝えた。 「私は四十三よ?」 その瞳がもう一度操を眺めまわした。さっきよりもゆっくりと。そして表情がやさしくなった。 「すごく若いときに母親になったんすね」 「ええ、若くてだまされやすい時にね。だけど後悔はしてないわ。彰はいつだって私の人生の中心よ」 「信じられない」 話題を変えようとする操の試みを無視して洋平がより近づこうとした。 「とてもじゃないが三十越えてるようには見えない」 肩紐が細くすっきりしたサンドレスは今朝には適度に上品に見えたのに今ではまるで頼りなく思えた。 近寄る若い男に身体がほてっている自分にぞっとした。その事実に動揺した。 「一番マシな口説き文句がそれ? がっかりね」 声が震えるのがどうかばれないように。 プライドを傷つけるために発したセリフにも、洋平は怒るどころか、ははっと楽しそうに笑った。 そのまま余裕のしぐさで手を伸ばすと操の鼻に載っかっているサングラスをさらっていた。あまりの図々しさにキッと見返した。 「何をするの?」 洋平はサングラスを指先でつまんだまま腰に手をあてた。 「まあまあ。そんなに隠れなくてもいいんじゃないすか」 また息を呑みそうになった。 「…か、隠れたりしてないわ」 が、それが嘘だということは洋平にだけではなく操にもわかっていた。こんな若い男からこんなにじっと見つめられるのは何十年ぶりのことか。 「オレ、決まった口説き文句なんて持ってないっす。いままで必要だったこともないし…」 それもそうだろう。 ひとまわり以上も年下の彼が、どれほど若い女にも魅力的かわからないほど鈍くはない。 彼の笑顔ときたらいたずらっ子そのものだ。いたずらっ子タイプの男に惹かれる悪い癖は、とうに治したはずだった。 「サングラスを返してもらえる?」 「いいっすよ」 言葉とは裏腹に返さないまま時計を見た。 「…立ち話もなんなんで、息子さんの提案どおりコーヒーでも飲みません? 今日はまだカフェインを一滴もとってないから死にそうなんです」 断る理由が見つけられない。 彼を怖がっているとも思われたくない。 「そうね。彰が来るまで。私はあの子に用があるんだから…」 あまりに下手な言い訳にうめきたくなった。二人はホテルの方へと歩き出した。 *** 彰はどこへ行ったの? 早く帰ってきて。この子と一緒にいる時間を長引かせるのだけは避けたかった。 だけど… だけど、彰がひとりの女の子に入れ込んでいるなんて本当に嬉しい。あの娘に抱いている感情が、 自分から身を投げ出してくる女たちへのものとは違うことくらい、二秒もかからないうちにわかった。 あの娘を見つめるまなざしが物語っていた。こんなに嬉しいことはない。 「…なにか嬉しいことでも?」 その声に顔を上げると彼が見つめていた。 何十年ぶりかに顔が真っ赤になった。なぜ? 「いえ別に」 洋平がカップを置くと、操もついしたがってしまった。咳払いをして緊張を破るような話題を探した。 心を読んだかのように洋平がテーブルに両肘をついて身を乗り出した。 「失礼ですが今思いついたんで…」 眉根が寄り瞳は澄んでいるのに熱い気がした。 「『仙道氏』はおそばに?」 操はうなずいた。 「ええもちろん」 彰が母親を見捨てるはずがない。 洋平が低く唸り窓の外の焼け付くような太陽に目を向けた。「そりゃそうっすね」 視線を操の方に投げかける。 「で、今はどこに?」 戸惑って手でホテルを示した。 「ここに。ホテルに住んでるのよ。だけどすぐ戻ってくるはず。桜木さんと約束でもあったの?」 もしそうなら彰を探しに行って急き立てる格好の言い訳になる。 ちゃめっけのある笑みが返ってきた。 「…なんだ、息子サンの話か」 「ええ、もちろん」 そこで言葉を止めたが、ぴりぴりと沈黙につつまれてじっと座っているよりも、素直に話でもしている方がよさそうだと感じた。 「お向かいのお店で働いてるんですって?」 「ええ。はなみ…いやさっきの彼女がオーナーで、オレは彼女の手伝いみたいなもんなんすけど」 「どういうお仕事?」 「やんなきゃなんないことはなんでも。力仕事、負担のでかい穴掘り、種まき。そんなとこっすかね」 「そうなの」 もういい年頃なのに学生がやるような仕事をしているということね。 彼を裁くような真似はしたくはなかったがどうしようもなかった。自分を保っていられなかった。 洋平の表情は、あんたは何にもわかってないがそれでもかまわない、と語っていた。 「ほかに、『仙道さん』はいますか? たとえば、あんたを「奥さん」といえるような男は…」 背中がこわばった。最初に訊ねられたときわからなかった。「いいえ」 それからつい続けた。 「あなたには関係ないことだけれど」 洋平は困ったように、それでも安心したように一息ついて笑っていた。 「スイマセン。関係あることにしたいんです」 *** 花道と仙道がテーブルに近づいてきたとき洋平はカップの中を覗き込んでまだニヤニヤしていた。 混乱しきったような表情を真っ赤な顔に浮かべた花道が、操の空けた席にするりと腰掛けた。 なんだか興味がわいて洋平は仙道を見上げた。仙道の方は何か非常に満足しているように見えた。 「…なにがあった?」 仙道がフロントの方を指差した。 「同じ質問をしようと思ってた。あんなに怒らせるなんておふくろに何を言ったんだ? あんな歩き方はじめて見た」 洋平は肩をすくめた。必死でこらえなければ笑ってしまいそうだった。そんなに感情を爆発させたということは、 彼女もこちらに男を意識しているのだと確信した。 「夕飯に誘っただけ」 マンガのような驚きの顔で仙道がまじまじと見つめたので、また別の考えが浮かんだ。 母親がデートに誘われるのがそんなに珍しいのか? あんな魅力的な独身の女が。 ぶっちゃけ年のことを含めても、フツウの男にとっちゃ彼女は花道の百倍は魅力的だ。 それとも仙道サン(年上だとわかった)はオレが気に入らないのか? まあいずれにしても干渉を受ける気はないが。 そう思う間もなく仙道の方がその疑問にのんきな答えをくれた。 「おふくろはデートしないよ」 洋平は笑った。 「オレとはすんじゃねぇかな」 とげとげしい断り文句だったが、どうにかして承諾に変えさせてやる。 「へえ」 仙道が顔をしかめ肩をすくめるとやにわに片手をテーブルに突いた。 「そういうことならしょうがない。けど、おふくろを傷つけたらオレも黙ってない」 新たな敬意とかなりの滑稽さを感じつつこの青年を眺めた。母親は男との戦いにひとりで対処できる年齢だが、 息子が立ちはだかろうとするのを見るのは悪いものではなかった。 「そうっすか」 「ああ。おふくろを泣かせたり、どういうかたちであれ傷つけたりしたら、あんたの脚をへし折って、ほかにもいろいろ、まあどこでもいいんだけど…」 「オイオイオイオイ」 冗談の雰囲気を持たない物騒な話に花道が慌てて腰を浮かせた。 コイツ洋平の強さをしらねぇから。返り討ちに合うぞ。 まあまあと手振りで抑えて洋平は笑った。 「ハイハイ。肝に銘じておきますよ」 仙道がやや安心したように笑った。 「まあでもオレに言わせてもらえば、おふくろは男には関心ゼロだけどね」 「どこの世界でも息子ってヤツは、母親には男に関心がないと思うもんでしょ」 一口コーヒーをすすってから付け足した。 「あんたの母親はたぶん違うけど…」 仙道は言い返そうとしたが、ぐっと口を閉じて渋面をつくった。 「そりゃどうも。わざわざ教えてくれて」 洋平はまた笑った。 「なんで『おかあさん』は男とデートしないんすか?」 「そんなの直接きいてくれよ」 仙道が洋平の肩に手を載せた。 「だけどちょっとアドバイスするとね、もし気に入られたいなら急かさないことだ。十分時間をあげて。おふくろは自分の品のよさに、 いつも行儀よくしてることに誇りを持ってる。おふくろにとっては大事なことだからね」 花道が咳き込み口に含んだコーヒーをもう少しでテーブルの向こうまで飛ばしそうになった。そんな花道を、 仙道はただ訳知り顔で見ただけだったので、洋平はこの二人がどの程度まで行儀悪いことをしたのだろうと思った。 と同時に息子の助言にはしたがわないことにした。仙道操は狂おしくて焼けるような熱い情事を心の底から欲している。 息子はそんなこと知るわけがないしそうあるべきだが。洋平には有史以来、男が感じ取ってきたのと同じ方法で、 研ぎ澄まされた動物的直感で、彼女の中の行き場のない渇望を感じ取れた。それだけだ。 「で、今日の仕事は? なんにしてもゆうべの大雨じゃ植え付けはムリだろうし…」 「地面はドロドロだな」 花道がおでこを片手で支えため息をついた。 「運がよくて明日も晴れれば明日には植えられるんじゃねぇかな。…つうわけで今日は新しい家を片付ける日にする」 「窓が結構やられてたな」 まだテーブルのそばを離れようとしない男を花道があごでしゃくって示した。 「…こいつがゆうべ手伝ってくれた。ビニールシートでふさいでくれたのは…こいつだ」 『こいつ』はビニールシートで窓をふさいだだけでなく、もうちょっと別のこともしたのではないかと思ったが、口にしたのはこれだけだった。 「それであっちにいちゃ危ないからこっちに来たってわけか」 「まあ……そんなとこだ」 無視され続けるのは心躍ることではなかったのだろう。仙道が身体の重心を少々ずらした。 「全体の半分も語られてないけど、今はそれでよしとするよ」 ウェイトレスがコーヒーポットと新しいカップを手に近づいてきた。仙道にお尻をぶつけウィンクした。仙道も笑顔でウィンクを返した。 花道が唖然として白目を剥いているのが洋平の目に映った。が、そんなスゴイ顔の花道に気づかないのか、 注文を訊ね洋平のカップを再び満たしながらウェイトレスが仙道に言った。 「あなたに電話よ彩子さんから。瑠璃子さんのことで話があるんですって」 「ありがとう」 ウェイトレスが去ると仙道は屈んで花道にささやいた。 「ごめんね、電話に出た方がよさそうだ」 身を寄せてくる仙道から逃れようと身を引き、故郷を出て以来見せたこともないくらい渋い表情を浮かべていた。 「…ダレだオイ」 低い声で花道が訊いた。 「てめぇ何人オンナノヒトが出てくんだ」 おやおや。 コーヒーカップで薄笑いを隠しつつ洋平は思った。このふたりはどっちもやきもちを焼いている。背もたれに寄りかかって楽しむことにした。 仙道が花道の頬に指先でふれた。 「彩子さんは……義理の姉さんですごくいい人。おまえもきっと好きになる。すてきな人だから」 少しは機嫌を直したか? 「…あとは?」 「え? 瑠璃子さん? ああ、上流社会のリーダー的存在で、まあ一応、血縁的にはオレのおばあちゃん」 「おばあちゃん?」 「いや、オレが認めれば、だけど。まだ認めてないし。まあちょっといろいろあってね」 仙道の話を聞いて、花道は洋平に負けないくらい驚いたようだ。 どうやら瑠璃子様は大層裕福な女性らしいが、仙道には富める人々に特有の偉そうなところがまったく見られない。 まず第一に彼が経営してるこのホテルは、中流の食堂つきホテルだ。第二に裕福な家庭環境で育ったにしては、あまりに気さくであまりにも気負いがない。 それでも仙道は苦労することになるだろう。いくつかひどい経験をしたせいで、富裕な家族とそういう人種が行使する力に、花道は特別な反感を持っているから。 しかし仙道を見ているうちに、彼ならうまくやりそうだと洋平は思った。 イヤそうに身をかわされ続けることで、逆にムキなった仙道が花道の肩をつかんで逃げられる前にキスをした。 「今は行かなきゃならないけど、あとで会おう。いいね?」 人前なのに平気でこんなことをしてくる仙道に、花道が真っ赤になってわめいていた。 「オレはシゴトで忙しい!」 「じゃあ終わってからでいいよ」 きいいいいーっと花道が睨み上げている。 「最低でも一週間は死ぬほど忙しんだ! いんやもっとだ。エイエンだ!」 洋平は天井を見上げた。花道には男を袖にする技術が恐ろしく欠けている。機微というものをもう少し学んだ方がいい。 仙道がかがんで有無をいわさぬ迫力で花道に迫り、鼻と鼻を突き合わせると、花道はむぎゅうっと押し黙って背もたれに背中を押し付けた。 仙道が花道のあごをすくい、親指で下唇を撫でた。穏やかな、かすれた声で言った。 「…あとで会おう。いいね?」 それから短い、やさしいキスをした。 花道の激怒が爆発するのを洋平は待ちかまえた。 花道は女にはなったが、フツウのオンナではないのだ。もしかしたらそんな押しの強い仙道を、気絶する程度にはぶん殴るかもしれない。 ところが花道は、まるで気が遠くなったようにとろんとした瞳で吐息をついただけだった。 仙道がふたりに会釈して出て行った。 十分距離が離れてから、夢から醒めるように徐々に正気を取り戻してきた花道が、洋平の好奇の視線にもさらされて、 はらわたが煮えくり返るような憤怒の声を上げていた。 「あ…あ…あんの野郎ぉぉぉぉぉ〜〜〜」 「おおっと。放蕩にふける一夜を過ごしておいてもう悪口か?」 花道の顔は真っ赤だった。が、そのまま眉間にしわを寄せた。「…ホウトウ? 山形の名産だな?」 クイズの正解を言い当てたかのようにきらーんと星をきらめかせる花道にがっくりした。ソレ山梨だし… 「ヤラシーことしまくったんだろーがっつってんだ、今の人と…」 洋平の指摘にあらためて花道の顔が出火した。 「しっしっしてねーよ!!!!」 「…ホントに? 全然?」 『たりめーだ!』と即座に追認の言葉が返ってくると思っていた。 花道はかつてひどい目に遭い、以来そういう興味を持って近づいてくる男をことごとくはねつけてきたのだ。 ちなみに男の興味に気がついた時は…ということだが(たいていの場合、鈍い花道は気づきもしなかった)。 しかし追認の言葉は即座には返ってこなかった。 「それは…」 花道が言いよどんだので、洋平の背中が自然と伸びた。花道が困った顔で首を振った。 「…………………ソウダ」 「うーん、その返事はくせぇなあ」 首を傾けて花道を眺める。 結局ひそひそ声で訊ねていた。 「それでゆうべは? 何があったんだよ?」 花道は真っ赤な顔で腕をぶんぶん振ってひそひそ声ながら力説しだした。 「いっいっ言ったじゃねぇか! だから嵐で窓が割れて電気も切れちまってアイツが助けに来たから! でホテルなら部屋がいっぱいあるし泊まらせてくれるって言うから!」 「…でもなのに同じ部屋に?」 もう花道は目を合わせようとしなかった。 「…や、やつぁホテルに住んでんだ! 空き部屋のカードキーは電気式だから全部使えなくて…だからアイツの部屋しかなかったんだ! そこだけフツウの鍵だから!」 「ははあ、なるほどな。それは仕方ねぇよ。で、一晩アノ人の部屋で寝て、よからぬことはひとつも起きなかったと。」 自分も男だからあまり信じられる話ではなかったが。 花道が途方に暮れたように頭を抱えた。 「アイツ…『そーゆーこと』はぜってぇしねぇって約束したんだ。だから…ほんとに…なにも…なかっ…た…」 洋平はじっと見つめた。 花道とは長いつきあいで、身内という重荷もなく、単なるダチ以上に親しい。花道のことなら誰よりもわかっている。 こいつが「なにもなかった」と言うんだからそれを信じた。だが、今朝の花道の態度はまちがいなくアノ人となにかあったと語っている。 そしてそのなにかを、全面的によろこんでいるわけではなさそうだった。 ケッコンとリコンを経験して、花道はひどく傷つきやすくなった。自分では面の皮が厚いと思っているようだが、 洋平は本当の花道を知っている。たいていの人間よりはるかに繊細なのだ。 もう男に戻れないのなら、オトコに関心らしきものを抱くようになったのは大いに喜ばしいことだが、それと同時に、 花道がまた傷ついたらと思うと耐えられなかった。仙道のような男と関わり合いになるのなら、 花道もしっかり目を開けておかなくては。ダチとして忠告する義務を感じた。 「いいか? 花道。よく聞けよ? あの人は間違いなくおまえと寝たがってる」 花道がその言葉を払うように手を振った。 「…知ってる。じかにそう言われた」 洋平は驚いてたじろいだ。 「じかに?」 「何度も」と顔をしかめる。 「オレを……口説き落とせると思ってるらしい」 すばらしい。 「…どうやって?」 花道はうろたえ、コーヒーをスプーンでがちゃがちゃとかき回し下唇を噛んだ。しばらくしてようやく白状した。 「アイツ…オレに…その…いろいろ………シテくれたんだ」 意味がわかってもらえただろうかと問いたげに洋平の顔をおそるおそる伺った。もちろんわかりすぎるくらいわかった。 「ほほおおおお」 「けど…自分のためには…なにも…シなかったんだ…」 洋平は背もたれに寄りかかった。花道は花道史上最高にドス赤くなっていた。冗談のような話だが、この様子では冗談ではないのだろう。 そして妙に興奮した。自分もさっき新しい恋に落ちたばかりなのだ。 洋平はなんとか咳払いをした。 「つまり…おまえが悦くなることだけに専念したってことだな?」 花道は両手で頭を抱えてうなずいた。 「予想は…ついたけど、すんげぇ、その…よ…よ……スゲかった。じゃないなら…オレが、すっげぇカンタンなんだと思う。オレにはよく…わかんねぇけど…」 泣きそうな顔のまましばらくそのことを考えているようだった。 「だけど、カンタンだったことなんて、オレ、今まで一度もねぇから…」 「もしかしたら、運命の相手にめぐり合ったってだけかもしんねぇぞ?」 花道がぱっと顔を上げた。 「そんなんあるかっ!」 「…なんでそう言い切れる」 「見ただろ? アイツはただのオンナ好きだ!」 「んなもんオレだって好きだ。あの人は自分のしてることがよくわかってるオンナ好き、だな」 花道が小声でぶつくさつぶやいてからこう言った。 「…ソウダ。アイツはオンナノヒトと見れば片っ端からちょっかい出してんだ。全人類のオンナノヒトを食おうとしてんだ! 高校んときからそうだった!」 そりゃ、あの人のカラダがもたねぇよ…と洋平は花道の壮大な想像力に苦笑した。 「だいたいウェイトレスさんにまであんな…さっき洋平だって見ただろ!?」 洋平は肩をすくめた。 「ただ仲がいいだけだろ? 信用しろって。おまえを見るのと同じようにウェイトレスさんを見ちゃいなかった」 花道のため息は腹立ち紛れに聞こえた。 「…ヒトツ訊いていいか?」 どうぞどうぞ。「いいぜ?」 「…アイツがしたことって…オレにしたことって、当たり前のことか? だってほら、野郎ってのはああゆーことになるとフツウむしろ 自分ばっかりっつーか自分さえよけりゃあいいっつーか…」 ひどく混乱した様子に洋平は苦笑した。正直聞いちゃいられない。 「オレは、おまえの経験はすごく限られたもんだと思うね」 「…だよな? けど、ほかの男でもするもんなのか? その…オンナノヒトを満足させられるように、自分は何も…つーかそれ以前に一回も…その………」 おいおい。あの人は一体コイツにナニしてくれたんだ? もう自分を抑えられなかった。想像が手に負えない。ついに笑い声がぶふーっと吹き出した。 「…ナ・ナ・ナ・ナニがおかしんだよ」 「おまえはほんとに楽しませてくれるよ花道。もしあの人ともこの調子でしゃべってたんなら、あの人がショック死しなかったのが不思議だ」 花道が気を悪くしたような顔になった。 「ふん! あの野郎がショックを受けることなんてあるわけねぇだろ。アイツはいつだってへらへらへらへらおちゃらけてやがるんだから!」 が、考え直した。 「…………なんで?」 「こういうセックスがらみの話は、男はそういうのに影響を受けやすいからな。想像力もたくましい。オレだっていま頭ン中には結構な光景が浮かんでる」 花道が度肝を抜かれたような顔をしたから申し訳なくて肩をすくめた。「すまんね」 花道の顔が真っ赤になったかと思うと、悔しさをにじませた恐ろしい形相に変わった。テーブルに身を乗り出して距離を縮め、洋平の胸倉をぎゅっとつかんだ。 「バカヤロウ。想像すんな…ソンナこと」 「ムリムリ。もう抑えられない」 仙道が花道に快楽を与えたことは十分にわかった。彼が施したかもしれないあの手この手が、すでに頭の中を猛スピードで駆け巡っていた。 今日のあの人がなわばり意識むき出しだったのも無理はない。 花道がため息をついてずん…とテーブルに突っ伏した。「死ネ…」 こんなにがっくりきた花道は久しぶりに見たから、気の毒になってきた。軽く笑うと花道の肩をたたいてできるだけ事務的に話した。 「わかった。悪かった。質問に答えるぞ。男ってのはどこまでいっても男だ(おまえは変わってたけど)。度量が広くて思いやりがあるヤツもいれば、 ブタ野郎もいる。話を聞いたかぎりじゃ、あの人は最初のグループの人だ。それから………、そうだな。なにがなんでもおまえを檻に閉じ込めて、 そこにいたいと思わせようとしてるらしい」 花道がテーブルから半分ほど身体を起こした。 「サスガだ洋平…天才の友………」 どす赤い花道はふるふる震えていた。 「……アイツ、オレになんて言ったと思う?」 洋平はこの会話に耐えられるかどうか、自信がなくなってきた。 つづく
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