一夜だけの約束? 2



一夜だけの約束? 2
Promise of One night only



 全身ずぶ濡れで、興奮に震えながら仙道は食堂に入った。口もきけないくらい驚いていた。
 たった一度のキスで、もしかしたら小学生でも平気でするようなキスで、勃ってしまった。

 信じられない。ワクワクする。

 あんなに軽いキスでここまで熱くなるのなら、アイツを組み敷いたらどうなることか。
 この手で、口唇で、触れたら?
 きっと正気じゃいられない。
 待ちきれない。
 じれったくて欲しくて息がつまりそうだ。
 いずれアイツを手に入れる、とまでは確信していた。だが、待つのは地獄の思いだろう。目を閉じて自制心を取り戻そうとした。

 食堂に残っていたウェイトレスに声をかける。
「帰っていいよ。鍵はかけとくから」
「いいんですか?」
「ああ」
 まだとても落ちつく気分ではなかった。いまも昂ぶり疼いていた。あの、扇情的な軽いキスで。
 戸締りを確認してまわる。花道と同じく仙道も職場と同じ場所に住んでいる。生活の場は食堂とホテルの両方に繋がっていて間に位置していた。
 騒音とプライバシーの欠如に慣れるには少しの時間がかかったが、別に部屋を持つよりはずっと安上がりだし、 ホテルに必要だった改良点を考えると安いに越したことはなかった。
 食堂の裏口から出て鍵をかけ、フロントへ向かう廊下を歩き出した。二人のフロント係がつめていた。藤井は書類の整理をしており、 池上は電話中だった。二人に手を振ってから、自室である続き部屋へのドアの鍵を開けた。
 ほかの部屋とちがって、カードキーではない普通の鍵を使っていた。経験から学んだのだ。女性従業員の中には、カードキーを利用して、 彼を部屋で待ち構えている者がいるということを。しかも裸で。
 思い出しただけで笑えてきた。あの時は死ぬほど驚いた。繰り返したくない経験だ。もちろん裸の女は悪いものではないし、 確かに見学して楽しんだ。しかし仙道の場合、従業員は『手出し禁止』なのだ。 それにベッドの中にいる人間は、知らないところで勝手に決められるより自分で選びたい。
 仙道が住まいにする前のこの部屋は、ドアで繋がったふたつの別の部屋だった。一方の部屋からツインベッドを撤去し、 テレビとコンポ、もっぱら機能重視の机とコンピューターを入れ、バスルームがあったところには簡易キッチンを取り付けた。 キッチンには便宜上オーブンとミニ冷蔵庫があるが、食事は大抵ホテルの厨房で済ませるのでそれ以上のものは必要ない。 それから円形テーブルと椅子も運び込んでいた。
 祖母が持っているような広々としたお屋敷ではないし、兄の新居のような洒落た家でもない。だがここは仙道のものであり、 彼にとって重要なのはその点だけだった。
 濡れたシャツを脱ぎ、バスルームの洗濯籠に放り込む。タオルで勢いよく髪を拭いていたとき、突然、 すべての窓が目もくらむような稲光でピカッと輝いた。ほぼ同時に大きな雷鳴。

 …落ちた?

 仙道はすばやく窓に駆け寄った。
 駐車場には被害はなさそうだが…。
 そのとき頭上の電灯がチカチカッと明滅し、消えた。墨のような闇のカーテンがあたり一面に垂れ込めた。
「くそ」
 部屋を横切って廊下側のドアを目指す。ありがたいことに嵐は閃光を放ち続け仙道を導いてくれた。ドアをぐいと引き開けたが、 どこまでも暗闇が広がっているだけだった。
「非常灯…どっかに…」
 言い終わらないうちに、非常扉とエレベーターの上に寝ぼけたような明かりが灯った。懐中電灯を探して部屋を出た。 フロントの二人は凍り付き目を丸くしていたが、藤井が不安げに声をかけた。
「仙道さん。どこも停電です。通り全体がやられたみたい」
「まったくありがたいね」
 二人の方を向いた。
「もしこの天気の中に出て行こうとする向こう見ずがいたら、カードキーが作用しなくなるかもしれないと教えてやって。 部屋に入れなくなるかもしれないって」
「わかりました」
 藤井の声は静まり返ったホテル内に不気味に響いた。
「私たちは何をしたら?」
 仙道は肩をすくめた。フロントロビーの窓から、花道の駐車場が真っ暗なのが見えた。急に花道のことが心配になった。

 来たばかりで、家の中にも不慣れなはずだ。あの桜木が一人きり…。

 藤井に微笑みかけた。
「特に何もないから…、トランプでも、いちゃいちゃでも、勝手にやってくれていいよ。ただし砦は守ってね」
 ドアの外へ向かう。「すぐに戻る」
 池上がいやらしい声で笑った。藤井が少し怒ったように小声で言うのが聞こえた。
「仙道さんは冗談を言ったのよ、池上さん。なに考えてるの」


   ***


 やはり今日は満月なのかもしれない。
 この自分の異様なまでの惚れこみを説明するにはそれしかない。どうかそうであってくれ。
 シャツを着ないまま仙道は嵐の中へ踏み出した。またずぶ濡れになるのだから、服を着る意味はない。雨が激しく打ちつけ、 風が凄まじい勢いで吹くので、前かがみにならなくては通りを渡れないくらいだった。懐中電灯の細い光の帯は、闇の中ではほとんど無力とも言えた。
 すでにゴミが路上に散らかっていて、ようやく花道の家の玄関にたどり着くと、ドアはふさがれ正面の窓ガラスには倒れた木が突っ込み粉々だった。

 時間は遅く、夜は暗く、嵐は猛々しい。

 心配でたまらない。
 懐中電灯でポーチのあたりを照らしながら花道の名を呼んだ。返事はなかった。
 一瞬の迷いもなく、仙道は小さな枝を拾って残っていた窓ガラスを打ち砕くと、破片で切らないように、 濡れた靴でベッドを踏まないように気をつけながらよじ登り中へ入った。気をつける必要はなかった――すでにマットレスは濡れていた。
 嵐の咆哮を縫ってかすかな音が聞こえたので、それを追って短い廊下を進む。箱や細々した荷物をよけながら。

「桜木?」

 閉じたドアの向こうから、ドサリという物音と小さく罵る声が聞こえてきた。はっとしてドアを引き開け、懐中電灯の光を向けた―― シャワー室のすぐ外であられもない姿の花道(女)が仰向けになっていた。

 仙道は食い入るように見つめた。

 見つめるつもりはなかったが、視線が離れなかった。花道はタオルを手にしていたが、その布はむき出しの濡れた身体をまったく覆っていなかった。
 仙道は息をするのも忘れていた。先ほど作業着が隠していたのはとびきりきれいな小さな肉体だった。
 花道が仙道を見上げ、それが誰だか認めた瞬間、懐中電灯で照らされたその瞳が怒りでぱっと見開いた。
「見んな!」
 まだ呆然としたまま、それでも仙道はくるっと背を向けた。向けたくはなかった。誰が向けたいものか。
 唾を飲み込んで心を鎮めようとしたが、花道の姿が焼きついて頭から消えない。

 まっすぐに伸びた脚。
 濡れて光るまるい胸。
 そしてあのお腹。
 唾を呑み込む。

 …すごくセクシーだ。

 服を着ていない時の方が、着ている時よりさらに素敵に見えた。「…桜木?」
「み…み…見たらぶっ殺す」
 相変わらず恐ろしい声も出せるようだ。しかし警告は遅すぎた。もう見てしまった。花道の姿は死ぬまで脳みそに焼き付いていることだろう。 仙道の中で欲望が渦巻き始めた。
「…それだけの価値はあるかも」
 そう言うと、花道の殺気が仙道にまでビリッと伝わった。すさまじい。仙道は仕方なく首を振り折れることにした。
「からかっただけ。だから撃つなよ。服を着るまで振り返らないから」
 花道が動き、なにやら悪態をついているのが聞こえた。

 花道が、裸で、後ろに、いる。

 仙道は咳払いした。
「…けが、しなかった?」
 心配だったから――そう、心配だったから振り返ろうとした。「…センドー」
 熊の唸り声のようだった。
「はい、すみません」
 紳士なわが身を呪ったことは何度かある。いまもそのうちの一回。「ほら、これ使えば?」
 振り向かずに懐中電灯を差し出すと、手からひったくられた。仙道は身構えた。それで滅多打ちにされそうな気がして。
 特に動きを感じないまま数秒が経ち、仙道はもどかしくなってきた。「まだ終わらない?」
 さらに数秒経ってから、小さいけれどケンカ腰の声が帰ってきた。
「ここには…タオルしかねぇんだよ」

 タオル、だけ。

 仙道は誘惑に負けまいとして腿をぎゅっと締め、かろうじてうめき声を呑み込んだ。
「…シャツを貸すべきなんだろうけど、ご覧の通り、着てないんでね」
「そのようだな」
 懐中電灯の光が仙道の背中を舐める。ゆっくりと。
「なんで?」ドスの利いた声。
「シャワーを浴びようとした時、停電になった」
 落ち着かなくてもぞもぞ動いた。
「おまえも真っ暗闇の中にいると思ったら、服を着なおしてる場合じゃなかった」
 花道の不審が伝わってくる。
「…じゃあオレ様を『助けに来た』ってわけか」
「他に何があると思う?」
 欲望にもかかわらず笑みが浮かび、説得を試みる。
「おまえが裸でシャワーを浴びてるなんて、オレが知るわけないだろ?」
 花道が近づいてくるのを感じた仙道は、すべてを考慮すると寛大といえる申し出をした。
「パジャマのある場所を教えてくれたら取ってきてあげるよ」
 さらに沈黙。
 服は着ないことにしたのかもしれない。
 この、神の与えたもうた瞬間を利用することにしたのかもしれな…
「…パジャマは、もってねぇ」
 仙道のまぶたは閉じ、両手は拳を握った。

 オレは何も聞かなかった。
 聞かなかったぞ。
 寝るときは…………裸だなんて。

 たまらず身じろぐ。
「持ってない?」
「もういい。バカみてぇだ」
 自分にさえ腹を立てているような声だった。
「オレらはもともと男同士で、それにオトナだ」
 花道が何を言いたいのかわからなかったので慎重に答えた。「そうだな」
「じゃあこっちを向いてもいい。ただし絶対イヤらしい目で見るんじゃねぇ」
 仙道はゆっくり振り返った。
 懐中電灯の光を目に向けられていたので見るどころではなかった。
「つぶされそうな時にいやらしい目なんてできないよ」


   ***


 花道が光を脇へ下げて床を照らすと、二人ともすっかり闇に包まれた。
「てめぇ、どーやって入ってきた」
 誠意に逆らうかのごとく、目は花道を眺めまわし、胸の鼓動は加速する。
 タオルは白く、暗がりに浮かび上がっている。
「木の枝が窓ガラスを突き破ってた。くぐるとき、怪我しないために残った破片を少し壊したけど」
「窓から忍び込んだのかよ」
「そんなところ。呼んでも返事がなかったたから」
「……心配、だったから? オレのことが? 赤の他人が?」
 不信感に満ち満ちた声だった。
「ご名答。あと玄関も大きな木の枝に塞がれてるよ。屋根からも侵入可能だ」
 花道は非常に渋い顔をすると仙道を押しのけて通り過ぎた。そうして背中を向けられた今、花道をじっくり眺めたいという欲求を満たすことにした。 白い肩はとても女らしくすべすべして見える。タオルは丸い腰をぴったりと包み、下からはあの形のいい脚がのぞいている。
 ちょっとひっぱればタオルは床の上だ。手がむずむずする。
 花道は愕然としていた。
「ウソだろ…」
 懐中電灯の光を、窓に、ベッドに、周囲の箱に向ける。雨が降りこみ、マットレスを濡らし、床に水たまりをこしらえていた。
「どーすんだこれ…」
 疲れにすっかりくじけ、打ちのめされた声だった。さっきまでしゃんとしていた肩も丸まっていた。

 桜木…

 きゅ…と胸の奥で何かが焦れる。暗闇の中、その頼りない身体を支えてやりたくて、思わずその小さな肩にそっと手を載せた――感触に震えが走った。
 まったく、オレも落ちぶれたもんだ。肩くらいオレにだってあるじゃないか。もちろん、花道のように柔らかでもなめらかでもないが。
 これじゃあまるで触れたのが、胸とか、セクシーなお腹とか、脚のあいだみたいじゃないか。

 …そう思っただけでゾクゾクした。

 二度咳払いをしないとまともに話せなかったが、花道の方は仙道の存在をほとんど忘れたかのようだった。
「大丈夫だよ」
 仙道が言った。
「これ以上ダメージが広がる前に窓を塞いでやるから。それに片付けるのも手伝うよ」
「いんや、いい」
 花道がため息をついて額をこする。
「オメーはもう帰って寝ろ。オレは一人でダイジョーブだから」
 不快感がチクリと刺した。
「…絶対に手伝う」
 花道が仙道を見もせずに言った。
「へー、そーかよ」
 その言い方に居心地が悪くなり仙道は理屈をこねた。
「桜木、お向かいさんじゃないか。手を貸したいんだよ」
 そして言いくるめるように言った。
「手伝わせてくれないか?」
 返事をしないことであっさり申し出を退けると、花道は懐中電灯の光を窓の方に投げかけた。
「んだよ、ベッドまでびしゃびしゃじゃねーか…」

(オレは運命の神に愛されてる。)

 花道の肩をぎゅっとつかんだ。
「うちのホテルで寝ればいいじゃん」
「なぬ?」
 花道がゆっくりコチラを向いたので、仙道は肩から手を放した。目が闇に慣れてきたし、窓のそばにいると稲光のおかげで見えやすかった。
 花道の身体はタオルに覆われているが、それでも覆っているものはタオルだけでその下は裸だ。そして仙道はその裸体を知っている。
 説得力のある理論がドッと頭に浮かんだ。
「考えてもみろよ桜木。ここにはいられない。おまえの言ったとおりベッドはびしょびしょ。あの箱のどれかにもう一枚マットレスが入ってるなら話は別だけど、 おまえには寝る場所がない。それに窓だって開いてるし危ないぞ。嵐だってもっとひどくなるかもしれない」
 花道は腕組をして顔をしかめた。
 赤い髪は濡れ、湿った束になって肩にかかっている。過剰に恵まれているというわけではないが、実に魅力的な胸だった。 ふくらみの上の突起がタオル越しにも感じ取れる気がする。

 それにこの脚…。

 仙道は花道に気づかれぬよう、静かに唾を呑んだ。
 顔をしかめたまま、花道は向きを変えもう一度惨状を見渡し、小さなタオルにくるまれた文句のつけようがない後ろ姿をもう一度仙道に拝ませてくれた。

 あと5センチでお尻が見える。

 いつか花道を裸にしてその気にさせられたら、かわいいお尻をじっくりたっぷり堪能させてもらおう。
「…ヘ…ヘンなまねしねぇって約束するか?」

 約束しない。

 仙道はからかうようにたずねた。
「…しなきゃだめ?」
 花道が苛立ちを爆発させた。
「もういい。帰れ」
 どすどすと行こうとした――どこへだかはわからないが――ので、肩をつかまえて自分に向き直らせた。
「センドー!」
 暗闇の中、花道が怒りで(?)顔を真っ赤にしたままタオルをひしとつかんだ。はずれかけていた。 おびえたように怒った瞳が仙道をなじるように見上げていた。欲望に火がつく。きっと花道はわかっていない。
 仙道の方がなんとか顔を逸らし息を吐かなければ声もかけられなかった。
「…わかった。悪い冗談だった。謝るよ」
 瞳が闇の中で輝いた。
「ジョ…ジョーダンだったのかよ」
 仙道はちょっと上を向き、暗い天井を見つめながら嘘をつくことのメリットを考えた。が、嘘はやめることにした。 花道の信頼を得たいなら、正直になった方がよさそうだ。

 うまく言えるかわからない。
 けれど伝えたい。
 わかってほしい。
 このいたみを、本当は奥までわからせたい。

「オレが…おまえを求めてることは知ってるよな?」
 親指を肩の肌に這わせ、喉まで撫で上げる。
 熱く見つめる仙道の表情につられるように、花道の瞳に切なさが宿る。そのまままぶたは重くなり、口唇が短い吐息を洩らした。
 不機嫌から興奮への変わり身の早さ。さっきも同じことが起きた。ポーチでキスをした時も。
 あの時は強引に進めたくなかったが、花道の瞳の中にくすぶる熱を確かに見た。
「おまえがしてほしくないことは絶対にやらない。神に誓って」
 それでもどうしたらいいのか決めかね、途方に暮れているようだった。励ましたくなった。身体が触れ合うようにそっと引き寄せようとした。 その小さな身体が腕の中に収まりかけた時、花道が言った。

「…わかった」

 懐中電灯を仙道の胸に押し付け、そうすることで二人のあいだに多少の距離を作った。
「でも、言っとくがあとでオレが何を言っても…」
 仙道が困ったように笑った。
「おいおい。あとで何を言うつもり?」
 花道は仙道の口出しを無視し、声のボリュームを上げて続けた。
「てめーとそ、そ、そーゆーコトはしたくねぇ」
「…………一生?」
 仙道は尋ねた。それくらいは明かしてもらわないと夜を越せそうにない。花道は答えに窮していた。ようやく回答を搾り出した。「…こ、今夜は」
 膝が萎えそうになった。どもらないでしゃべれるよう息を吸い込んだ。
「わかった」
 あごにふれて上を向かせ視線を絡める。
「『そーゆーコト』はしないよ。今夜は…」

 だけど明日の朝のことは約束しない。


   ***


 花道は、仙道に誓わせてもあまり安心はできなかった。信じられないのは『仙道』ではなくむしろ自分自身だった。
 高校の頃から『仙道彰』はやたらと女にモテていた。その姿は同性としては「腹が立つ」以外の何物でもなかったが、 実際ナゼあれほどに仙道が女を惹きつけるのかまったく理解できなかった。

 確かに見た目は悪くない(かもしれん)。
 親切そうでもある。
 アイソもいいだろう。
 …それが何か?(怒)

 というか、そのどの点でも自分が負けているとは思えなかった(実際明らかに負けていたのだが)。
 しかし今夜、女の身でまざまざと体験させられた。
 仙道のすべてにゾクッ…とする。
 仙道がじっと見つめるだけで、雨に濡れただけで、そして微笑み寄り添い語りかけるだけで、明らかに自分はおかしくなっている。
 わけがわからない。
「……………」

 欲求不満か…。

 がっくりうなだれた。
 確かにこの身体になって以来、恋という恋は一度もしていない。だからむろん「そういうこと」もあの事件以外何もない。
 仙道が背後に近づいてきてこめかみに温かい息を感じた。

 好意。

 仙道が異常なまでの好意を自分に持っているような錯覚を始終覚える。それでなのだろうか。そのせいで、 あれほど多くの女がコイツに群がっていたのだろうか。コイツは単に、女にそう思わせるのがうまいだけなのだろうか。

 きっとそうだ。
 でなければこんな些細なことに、このオレ様までもがここまでドキドキするわけがない。

 右手に懐中電灯を握っていた仙道が、左手を何気なく花道の腰に載せた。分厚いタオル越しでも、その感触がぞくっと芯まで響く。 ヤツ自身、効果てきめんだと知っているに違いない、低いからかうような声で言った。
「こんなこと言うなんて自分でも信じられないけど…、何か着た方がいいんじゃない? 無理にとは言わないけどね。だって桜木、 タオル一枚のおまえはものすごく素敵だ。でもホテルのロビーを通らなくちゃならないし…」
「ああ」
 もはや裸で寝るなど問題外だ。何も着ないで寝ることに慣れてしまったから、何かを着て寝るのは容易なことではないだろうが。
 向きを変えて床の上の箱を手で示した。
「服はこの中のどれかに入ってる」
 仙道が『それで?』と言いたげに見つめるので、花道はさらに目を細めて睨みつけた。
「…オレにてめぇの前で屈めっつーのか」
 仙道はなるほど、とうなずくと、ゴメンと笑い、懐中電灯を持ったまま向きを変え箱を漁り始めた。しばらくして箱のひとつを持ち上げた。 ありがたいことに濡れてはいなかった。
「ほら」
 箱を差し出してくれたので、片手でしっかりタオルを押さえたまま、もう片方の手で箱のなかをごそごそと探った。 小さなパンツを見つけると仙道がふーん、と軽く唸った。それからTシャツとゆるい木綿のショートパンツ。 どこで着替えようかと考えた。仙道が咳払いをした。
「ちょっとプライバシーが欲しいよな?」
「…たりめーだ」
 仙道がうなずく。「わかった。ホテルに戻って窓をふさぐものを探してくる」
「うちの裏にでっかいビニールシートがある。造園で雑草防止に使うやつだ。それで間に合うんじゃねぇかな」
 花道は頭をこすった。頼るのはいやだったが助けが必要だった。
「釘とか鋲とかはひとつもねぇんだけど…」
「…桜木?」
 呼ばれて顔を上げた。
 仙道がやさしく笑っていた。
「大丈夫だから。やきもきしなくていい」

 なんでやきもきしてるってわかったんだろう。

 仙道の手がそっと花道の頬に触れた。
「ステープルガンを持ってすぐに戻ってくる」
「お、おう。サンキュー…」
 暗がりの中、仙道が行ってしまおうとするのを目が追っていた。
 仙道は一瞬ためらうと、改めて花道に近づいて、花道の心を見抜くようなまっすぐな目でじっと見つめた。

「…しばらく一人でも大丈夫?」

 この暗闇で、互いの顔すらよく見えない状況で、なぜここまで心のうちがばれてしまうのだろう。

 確かに心細くなった。
 こんな暗くて不安な場所に、一人とり残されるのがイヤだった。
 からかうわけでも挑発するわけでもなく、静かに見つめる瞳と声音。
 胸の奥がきゅん…と締め付けられた。

 センドーは、やさしい。

 イ、 イカン、またコイツにもってかれる。
 きっと疲れてるんだ。ダイジョーブに決まってる。
「オ、オレは嵐なんか怖くねぇし、フツーのオンナノヒトみてぇにか弱くもねぇ」
 仙道がかすかに笑った。
「でもおまえ、さっき一回転んでるし。どれくらい痣になってるかもわからない。痛かっただろ?」
 ぬ…と花道は口をつぐんだ。

 何故バレてる…

「見てみようか」
 なぬ?
 仙道が突然言い出した。
「そうだ、ふたりでお医者さんゴッコしようか。すぐ治っちゃうかも」
 もう少しで吹き出しそうになった。
 この発想。わけわからん。
 気分は明らかに明るくなった。が、これ以上仙道を調子に乗らせるのもしゃくなので欠伸をしてみせた。
「それより、オレぁさっさとベッドに入りてぇ」
「桜木ってホントいいこと言うなぁ」
「『ヒトリで』だ!」
 真っ赤になって噛み付く花道にひるむ様子もなく、仙道はかがんで額に軽くキスをした。ピキンと硬直する花道を一瞬きゅ…とすばやく抱きしめる。

「すぐ戻る」

 いくらなんでも仙道は、花道に触ったりキスしたりのオンパレードだ。どのオンナノヒトにもこんななのか?
 なのに花道はその度にバカみたいに膝が震えた。

 なんだかものすごく哀しくなってきた。
 理由は花道にもよくわからなかった。


   ***


 一時間半かかってようやく窓をふさぎ、箱を移動させて一部を開封した。朝までに乾くように狭い家の中にあれこれとモノを広げた。 その間ずっと仙道は花道を手伝い、話しかけ、一緒に笑った。何一つ文句も言わずに協力し、そうすることを楽しんでいるかのように見えた。

 どう考えたらいいのか花道にはわからなかった。

 雨は激しく降り続けた。この天気でどれくらいシゴトが遅れるかと思うと頭痛がした。どしゃ降りの中では植え付けはできないから、 早いところ雨がやんで、太陽がさんさんと照りつけてくれなくては悲惨なことになる。
 おまけに窓の修理や大木の剪定などにかかるよけいな出費を考えると、財政は極めて厳しくなりそうだ。いまはもう眠って、心配は明日の朝にまわしたかった。
 玄関を塞いでいた大きな枝は仙道が取り除いてくれたので、ふたりは一緒に花道の家をあとにした。
 仙道はレインコートを頭にかけてくれただけでなく、傘まで傾けてくれた。家を振りかえるとその日の朝まできちんと整っていた場所に、 いまではゴミが散乱していた。嵐が苗床を破壊していないといいのだが。
 不意に肩に回された腕に力がこもり、道にできた大きな水溜りをよけさせてくれた。花道は仙道をちらりと盗み見たが、 仙道の意識は花道の歩く場所に集中しているようだった。いまの仙道は……守ってくれている。
 花道と同じ状況に置かれた女性になら誰にでも、仙道は同じように扱うだろう。一日じゅう働いたあとでも、真夜中を回っても、 文句も言わず手を貸すだろう。そして相手が九歳だろうと九十九歳だろうと、同じように守ろうとするだろう。

 自分が特別なわけじゃない。
 自分が「オンナノヒト」だからだ。
 いいことじゃねぇか。オンナノヒトにはやさしくしないといけねぇ。けど………この自分のオカシナ気持ちはなんだろう。

 ステープルガンを取りに行った時、仙道はとりあえずシャツを着て戻ってきた。
 以前ならなんでもなかっただろうに、コイツに裸で近づかれることもコイツに裸を見られることも、今となってはとんでもなく恥ずかしく耐え難かった。
 コイツといると、いちいち自分が女であることを思い知らされる気がする。
 いい意味でも、悪い意味でも。
 でもホントに、コイツのハダカなんて、別になんてことないだろうに。そりゃ悪かねぇだろうよ。スポオツマンだしな。 見れねぇもんでもねぇどころか、むしろオレだってちっとさわってみてぇってほどの…

「桜木、その目でオレにがっつくのはやめてくれよ。どうにかなりそうだ」
 花道ははっとした。瞬時に顔が出火した。
 コイツにがっつく? オレが? なんで!(怒)
 弁解しようとして口を開いた。が何と言っていいのかわからない。実際食いつかんばかりに見ていたではないか。自分で自分が信じられん…。
 花道はぶるぶる震えだした。
 だがオトコだった(心は)。顔は背けたままいさぎよくごまかさず謝罪した。「…わ、わりぃ」
「悪い気はしなかったけどね」
 そのまま花道はまたしても非常に渋い顔をした。
 やはりやり返そうと思ったとき、ちょうどロビーに入り、二人の従業員の好奇心むき出しの視線にさらされた。
「池上さん、空室の鍵ある?」
 男の方が実に悔しそうに肩をすくめた。
「オーナーの予想通り、カードキーは一時間くらい前に使えなくなりました」
 花道は目をきょろきょろと動かし、不審げにふたりのやりとりを見ていた。

 何がどうなるのか全然わからん。が、どうもここもヤバイらしい。しかしもはやもう一度通りを戻る自信もない。 朝四時半から起きていていまではほぼ二十四時間経っている。何が何でも休息が必要だった。
 あとはもうトラックで寝るか…などと思っていたとき、仙道がその従業員にうなずいていた。
「そうか…。仕方ないね。わかった。ありがとう」
 花道の腕をつかんでデスクを回らせる。従業員が二人とも好奇の目で見ているのを感じた。

「こ…こんなこと、しょっちゅうやってんのか?」
「こんなことって?」
「オ…オンナノヒトを引きずりこんで従業員をギョッとさせたり…」
 仙道が歩くのをやめた。

「オレはここに住んでるから、そうだな、たまには女連れのところを見られてる。けど…」
 花道の腕をつかむ手を見下ろす。
「引きずりこみはしない」
 花道を覗きこんだ。
「オレ、おまえを引きずりこんでる?」
「…いや」
 大抵のオンナなら喜んでコイツについていくんだろう。それどころかオンナの方がコイツを引きずりこむんだろう(苦)。

「…でも、あと少しでそうなりそうだ。オレ、もうヘロヘロだから」
 仙道がにっこりした。
「そうしなきゃならないなら運んであげるけど。あと2,3歩歩けるならベッドまで案内するよ」
 あと少しなら。

 …ん?

「…誰のベッド?」
「オレのベッド」
 ポケットから鍵を引っ張り出し、鍵を開け、どうぞとうながす。
「ようこそ。つましい我が家へ」
 中を覗いたが影しか見えなかったのでしり込みした。
「…ベッドルームがふたつあるんか?」
「ああ」
 ほっとしかけた時、仙道が付け足した。
「でもひとつはリビングに改装した」
 ぐらり…と花道は壁にへばりついた。

 …なんてこった。

 この部屋にはベッドルームがひとつ。
 当然ベッドもひとつ。
 そして『仙道彰』。

 花道は別の道を必死で考えた。が、選択肢は限られていた。
 眠らなくてはならないし。この地区の外まで車を走らせて、嵐の被害を受けていない宿の空室を見つけたいと思わないならほかに道はない。
「…あ、あ、あ、案内しろ」
 花道を中に連れ込みながら、仙道は小さくクックッと笑った。
「そんな死刑台に向かうみたいな顔しなくてもいいだろ? ここにはでっかいソファもあるからオレはそこで寝るよ。おまえがそうしろって言うなら」

「言うわけねぇだろ」憮然と言った。

 仙道が花道の言葉で止まった。
 期待と興奮に鼓動が暴走する。


   ***


「オレ様がソファで寝る」
 ちぇ、そういうことか。
 ドアをかちりと閉じて鍵をかけた。
 花道は疲れ果てていて、ぐったりして見える。
 気に入らなかった。奇妙な感覚だった。

 再会したばかりだがすでに自分の部屋にまでつれてきた。
 けれどもっとそばに来てほしい。
 もっと甘えてほしい。
 今日の不運の不満や愚痴もありのままに話してほしい。
 マッサージだってそれ以外だってなんだって、いくらだってしてやりたいのに。

「ほら。予備の懐中電灯を渡しとく」
 自制心だ。しっかりしろ。
「部屋を案内するよ」
 懐中電灯を使ってバスルーム、電話、小さなキッチンと簡単に案内する間、花道はおとなしくついてきた。
「狭いだろ? 二部屋しかない」
「狭くねぇ」
 花道がソファを見つけてのろのろと向かい始めた。
 仙道は花道の肘をつかみ、向きを変えさせてベッドへ連れて行った。
 懐中電灯のぼんやりした光ではよく見えないが、花道の目がじれったそうに見つめ返した。
「いいから桜木。言い争う元気はないんだろ? オレの家なんだからオレのやり方でいく。おまえはベッドで寝ろ」オレのベッドで。
 驚いたことに花道は同意した。

「もうなんでもいい…」

 二人一緒に整えられていないベッドにたどりついた。花道がマットレスの端に腰掛けてスニーカーを脱ごうと前かがみになった拍子に、 もう少しで転がり落ちそうになった。
 おかしくなって仙道は花道の前に片膝をついた。
「オレがやるよ」
 花道は仙道を見つめた。ボロボロのスニーカーを脱がせる仙道を眺めながら首を振った。
「てめぇ…」
 花道の声は眠そうなのに驚きに満ちていた。
「そんなたいしたことじゃないだろ」
「オレァ靴を脱がしてもらうなんて赤ん坊ん時以来だ」
「そう?」
 片方ずつ華奢な足首を握って靴を脱がせ、両脚をベッドの上に抱え上げた。
「新しい経験のひとつだと思えばいい。山ほど待ち受けてるうちのひとつかもね」
 花道はふんと鼻で笑い半ばなげやりにベッドに仰向けになると、不思議なまなざしで仙道を見つめていた。

 これは『いらっしゃい』のサインか?
 誘ってるのか?
 ちくしょう、どうしたら花道の考えてることがわかる? こんなにも熱い身体をもてあましてるのは自分だけなのだろうか。

 いったん目を逸らした。何かしゃべりでもしないと場がつなげない。
「…すごく長い一日だったろ」

 答える間も『じっと』自分を見つめているように見える花道の瞳。それとも『ぼんやり』か?

「…長すぎだ。キツイ仕事には…慣れてるけど」
 弁解するような声で説明した。
「シゴトを始めるっつー興奮に参ったんだと思う」
「おまけに引っ越してきたばかりだしな」
 仙道が口添えする。
「おうだ。いつもはもっとずっと早く寝ちまうんだ。朝が早ぇから。たぶんそういうイロイロのせいでシャワーから出る時すっ転んだんだ。 ホ、ホントは全然そそっかしくなんかねんだからな! だけど暗かったし、足も濡れてたし、雷の野郎が急に鳴りやがるし…」
 後半必死だ。
 かわいい。
 笑わないでいるのが精一杯だった。きっと笑ったら怒る。
 仙道はベッドの上のむき出しの足に触れた。小さくて冷たい。変態のような気がしてきた。ただの足で興奮してくるなんて。

「誰だって転ぶよ。ドジだなんて思ってない」

 しれっとなだめる仙道に花道がむっと口をつぐんだ。そのまま手を伸ばすと仙道の両頬をぎゅうううっとつねった(どっちにしろ気に入らなかったらしい)。 でもそんなしぐさもたまらなくかわいらしかった。
「ふんっ」
 聞こえるように小さく鼻を鳴らして仙道に背を向けてベッドに横になるとナイトテーブルの懐中電灯を消した。
 明かりが消えるとさらに影が濃さを増し、親密な雰囲気が高まった。花道にシーツをかけてやるにはかなりの努力を要した。
「…おやすみ」
 こちらは興奮しすぎて歩くのもつらいというのに、花道はもう半分眠りかけている。花道が仙道の枕に顔をすり寄せる様子を見て、仙道はうめきそうになった。
 シーツの下の花道の身体が興味深い曲線を描いていた。

 脚のスロープ。
 腰のふくらみ。
 ウエストのくびれ。
 まさに女性のそれ。仙道の官能を直撃する美しいかたち。

 同衾するつもりがないのに女をベッドに連れ込んだのは、思い出せる限りこれがはじめてのような気がする。
 いまのうちに部屋を出て行った方がいい。
 出て行けるうちに。
 よく考えもしないで、腰をかがめてそのこめかみにしっとりと口付けた。
 花道は妙に静かで、仙道が離れるまで息を止めていた。
 仙道は窓辺に歩み寄り、カーテンを閉めてからシャツを脱ぎながら隣室に向かった。あいだのドアを少し開けておくことにした。 花道は慣れない場所にいるのだから、目覚めた時混乱するかもしれない。こちらは一晩くらい服を着て眠ったって死にはしない。
「…センドー?」
 片手をドアに、もう片方の手をドア枠にかけたまま、立ち止まった。

 まだ寝てなかったのか。
 静けさの理由は眠気ではなく考えごとのせいだったのかもしれない。
「なに?」
「その…イロイロサンキューな。ホントに、カンシャしてる」
「どうってことないさ」
 花道が動くのにあわせてマットレスが軋む音がする。
「どうってことなくなんて、ねぇ。オレ…その、もし感謝してるように見えなかったら、それは、 オメーがオレのまわりにいたようなヤローとはちょっとチガウから…」
 仙道は腕組をして戸口にたたずみ、花道のまわりにいた男とはどんなタイプだろうと思いをめぐらした。
「…つまり?」
 長い間があき、花道のおぼつかなさだけが広がる。しばらくしてからやっと搾り出すように言った。
「ヘトヘトだから…うまく言えねぇけど…おめぇが、オレにもやさしいのは、ちゃんと、ホントにうれしい。けど、『誘ってる』とは思われたくねぇ」

 こんな刺激的なセリフ、もったいなくて無視できない。
 何かにぶつからないようにゆっくりと歩いて部屋の中に戻り、ベッドの上の花道の隣に腰を下ろした。花道が身を固くした。が引きはしなかった。 接近するといつもこの反応が起こる。
「約束しただろう、忘れた?」
「…何を?」
「おまえがいま何を言っても、オレは自分の言ったことを守る。おまえが『したくない』って言ったらしない」
 花道の瞳が仙道を見つめた。
「なに?」
「オレが…こんなトコにいんのに、つけこんだりしねんだな」
 少し感じ入ったような声だった。
「いいか桜木。オレは絶対に約束を守る男だ」
 すでにこの約束には死ぬほど苦しめられているが。

 身体の関係を持ちたくないと言った時、花道は本気だったのだ。興味がない、というわけではない。寄り添うだけでその変化は手に取るようにわかったし、 仙道を見るたびに瞳に浮かぶ熱も感じた。だが、花道は仙道に混乱させられ、仙道が男というだけで最悪の事態を想定したのだ。
 そんな男性観を持っているなんて、一体どんな経験をしたのだろう。
 つらい恋愛を経験した女ならたくさん知っている。恋人に浮気をされたり、気持ちを傷つけられたり、そのほとんどが毒のある愚痴を洩らした。 彼女たちは話すのが好きで、仙道は女が好きだったから話に耳を傾けた。
 だが花道はそういうタイプではない。
 過去のものだろうと現在のものだろうと苦しみを打ち明けたりしない。「興味がない」とは言ったが、理由を明かさなかったことからもそれがわかる。
 が、あまのじゃくにもますます花道の心を開かせたくなった。
 手を伸ばして肘を見つけると、指を手首まで滑らせ、さらに手に触れて指を絡ませた。握った手はこわばったままだった。 手のひらと指先が荒れている。こなした肉体労働の証だろう。
「ドアのところでオレとキスしたとき、…いやじゃなかっただろ?」
 しばらく黙っていた花道が非常におもしろくなさそうに言った。
「…それがわかるくれぇ、オンナノヒトをよく知ってんだな」
「皮肉を言うなよ」となだめる。
「女は十人十色だし、おまえは『普通の女』じゃない」
 うつ伏せた花道がさらに仙道のベッドに身をすり寄せた。「…どうでもいいじゃねぇか」
「なにが?」
「オレが…イヤじゃなかったかってことが」
「そう?」
 ふたりがいるのはベッドルームで、暗い中で、ベッドの上で、おまけに仙道は花道にふれている。どうでもいいわけがない。「どうして?」
 答えるよりも花道は首を振って離れようとした。
「再会したばっかりってことはわかってるけど、オレはおまえが………、すごく好きだ――おまえだって、少しはオレが好きだろう?」
 花道はだんまりを決め込んでいた。
「なんだよ。オレはいいヤツだよ。大勢に好かれてるし…」花道が落ち着きなく動くのを感じた。
「…大勢のオンナノヒトに、な」
 また手をほどこうとする。仙道が一向に気づかないふりをしているとさすがに花道も諦めた。
「…桜木、何を考えてる?」
 ついに花道が仙道に根負けした。

「…………すごく…困ったことになっちまった」
「なに?」
 リラックスさせたくて、親指で指の関節をこすった。
「おまえが何を言ったとしてもつけこんだりしないよ」

 花道が自分自身と闘っている。
 驚くほど慎重だ。そう思うとさらに好奇心が湧く。あるときは恐ろしく威勢よくズバズバものを言うのに、こんなときはひどく臆病になる。
 花道のすべてが――歩き方やぶしつけなほどの率直さからこの内気さまで――仙道には魅力的に映った。
 いまも。本当を言えば昔も。

「言ってみろよ桜木」と、うながす。
 考えていることを知りたくてたまらない。
「ここは暗くて静かだ。オレのことは信用していい」
 まるで勇気を吸い込むように花道が深く息を吸い、それから消え入るように打ち明けた。

「オレ…なんか…興奮してる」

 …は?

 くちごもりながらの告白だったが、さっぱり意味がわからない。仙道がぽかんと尋ねた。「何に?」
「………………………………………おまえに」

 なに?

 びっくりした。直後に欲望に貫かれた。
 オレが、…欲しいのか? 

「…へえ」
 内心の動揺をおくびにもださず、歓喜に叫びだしたいような衝動を抑えたまま、花道の手を取りその手のひらに口付けた。「そりゃいい」

「いくねぇ! …オレにも、おめぇにも。」
 胸をドキドキさせながら仙道は囁いた。
「理由を…話したい?」
 花道が首を振る。「いんや、あんまり」
 相変わらずの強情っぷりにあごを引き締めた。
「でも話して」
 長い焦れたため息をついて花道が言った。
「…んなもん、オレらはそんなんじゃねぇだろ。つか第一お互いなんも知らねぇ」
「でもそのうち知り合う」
 花道が口を一文字に結んで仙道を見た。
「てめぇ、すんげぇ押しがつえぇ」
「ふだんはそうなる必要ないんだけどね」
「だろうよ!」
 はっと花道が鼻をならした。
 花道がさっきほど内気ではなくなってきた。花道との距離を縮めていくこの時を仙道は純粋に楽しんでいた。
 冗談めいた気分が闇に呑まれると花道はうめいた。
「…今日のオレは…ちょっと、どうかしてんだ」
「オスとメスの化学反応。それだけだよ」
 自分にはそれだけとは思えないが。
 願わくば自分だけではないと、そう思いたい。
「オレは! いま、その………イロイロ…、なんつーか、その……フクザツ、なんだ…よ…」
 息せき切ったように花道が声を上げ、そのあと口ごもるように続けた。疑惑が浮かんだ。仙道は花道の腰の両側にこわばった腕を置き身体を支えた。

 花道は指輪をしていないけれど、『誰か』いるのかもしれない。
 他人の女に手を出したことはないし、そんなことをする男を軽蔑している。だがもし花道に男がいるのなら…

 突然内蔵にじかに氷を当てられたような痛みが生じた。
 怒りにも似ている。哀しさにも。苦しい。
 その激しさは、花道を知っている時間とは釣り合わなかったが抑えようがなかった。
 頭の中ではすでに自分のものだった。

 花道が欲しい。
 猛烈に。
 なにがなんでも。
 諦めるなんてまっぴらだ。

「…結婚指輪はしてないじゃないか」
 仙道の、聞いたこともないような低い声に、花道が黙り込み戸惑っているのがわかった。
「し、し、してねーよ」
 押しのけようとするかのように両手を仙道の胸に当てる。「チャラチャラしたもんは付けねーんだ」
 答えになってない答えに爆発したくなった。
「…結婚、してるのか?」
 声も、その瞳も、花道を震え上がらせるには十分だった。けれどなぜ自分がこんな責められるような言い方をされなければならないのかわからない。
 花道が精一杯声を張り上げる。
「し、してねぇよ! つかリコンした! なんでんな怒ってんだよ!」
 びっくりした――そしてホッとした。いやびっくりした。

 離婚!?

 ホントは二の句も次げないほど驚いていた。けれど口が勝手に動いていた。
「離婚後は……会ってない?」
「…いまのところ」

 信じられない。

 ひとつ年下だったから花道はまだ二十四、五だ。
 幼妻だったってことか?
 いや、花道が『悪魔の実』で女体化したのがいつだ? まさか十代で結婚? 桜木が? 一体誰と?
 納得できない。もっと詳しく話が聞きたい。なぜ離婚したのか。どのくらい前のことなのか。そもそもなぜ結婚なんてしたのか。
 息もつけないほど苦しい。

 なぜ、そのとき自分は花道のそばにいなかったのだろう。

 しかし花道はその件に関してそれ以上何も話してくれる気はないらしい。問いただせばもっと頑なに口を閉ざすだろうことは予測ができた。 ではどうしたらいい? どうしたら…。
 自分にこんなにつらい思いをさせておいて、逆に花道は仙道の身体をそっとさわりだした。最初はおずおずと、それから少し大胆に。 花道が両手を仙道の胸に押し当てた。
 そんなふうにふれられて、もはや抑えきれるはずもない。仙道は少し前屈みになった。

「…もう一回、軽くキスさせて。いい?」

 見上げる瞳はおびえたように震えた気もするが無視した。というか気を配る余裕はもはやなかった。 そのまま沈黙をオーケーと解釈できるうちに口唇に口唇でふれる。
 ふれ合った瞬間、かすかに弾かれたように花道が震えたがそれも無視した。
 思うさまむさぼりたい欲求と闘うのが精一杯だった。

 この口唇を味わった男が他にもいる。

 そう思っただけで、身体の奥が燃え上がり、きつく乱暴にしてしまいそうになる。けれど途端に花道が離れて行ってしまうに違いない。それが怖くてたまらない。
 震えていたかもしれない。なんとか必死に自分を抑えて、軽く、やさしく、その柔らかい口唇を柔らかく味わう。
 花道が震える指で仙道の胸のシャツをぎゅっとつかんで喘ぐように短い吐息を何度か吐いた。

「オレ、おめぇといると……おかしくなる」
 包み隠さぬ率直な言葉。震えた声。
 とにかく今さわられているのは自分なのだから、じっとして邪魔したりしない。
「オレぁ…やんなきゃなんねぇことがたくさんあんだ。いろいろ考えもあるし…」

 おかしい。
 花道は胸(しかもシャツ。布。)にさわっているだけで、決定的な部分、性的な部分にはまったくふれていない。 それでも気が変になりそうなほど気持ちがいい。ものすごく。

 …いかれてる。

「おまえの人生を背負わせてくれ、なんて頼んでないよ、桜木」
 関わり合いになる方法はすべて考えてみたけれど。
「わかってる。けど、…込み入ってんだ」
 うつむいた花道の表情は判別しづらい。
「同意した大人同士のソレより込み入ってないこと、ある?」
 花道は黙っていた。
「どんなに込み入ってないか、証明するチャンスをくれない?」

 明るい調子で言ってみた。
 期待はしたが、していなかった。
 けれど。
「…そうだな」

 え?

 次の言葉で心臓が止まりそうになった。
 花道は付け足した。

「…いいぜ。今晩だけだ。今晩一晩だけ。それなら……いい」






つづく


2007.1 脱稿


お久しぶりです。前後しました。
先にハーレクインロマンスエロ『一夜だけの約束?2』お届けです。
皆さん、ダイジョブですか? ついてこれてますか?(笑) 昼休みに推敲していければと思います。
『3』は80%以上濡れ場の気がします。
胸があってもよろしい方、どうぞよろしく。
(by Z様)








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