一夜だけの約束? 11



一夜だけの約束? 11
Promise of One night only



 操が家の方へ戻ってくるのを見て、瑠璃子は窓辺から離れた。

 操が心を奪われても責められない。

 そうですとも。もし四十歳若かったら、この私があの感動的な水戸洋平に魅了されていた。
 取り澄ました顔でやわらかい詰め物をした椅子に座っていると、操が急ぎ足でリビングに入ってきた。
「お待たせしてすみません」
 瑠璃子は鼻を鳴らしたが、心の中では操がいつも変わらず礼儀正しいことに驚いていた。礼儀正しくするような理由はほとんど与えていないし、 親切にする理由に至ってはひとつも与えていないのに。
 ずばり来訪の目的に切り込んだ。

「彰を遺産相続人に指定したいのに、あの子は私が遺したものをすべて捨てると言ってきかないんだよ」
 瑠璃子の向かいに置かれた揃いのソファに、操はゆっくり腰をかけた。
「そうですか」
 すまなそうな顔を向ける。
「あの子は大人です。大奥様。だから私の助けがなくても自分のことは自分で決めます」
「ばかばかしい。あの子はあなたを愛しているし敬ってる。それくらい誰にだってわかりますよ。あなたの言うことになら耳を貸すはずです」
 操が首をふりはじめたが、瑠璃子は先を続けた。
「あの子には遺産を受け継ぐ資格がある。受け取ってもらいたいの」
 操はしばらくのあいだ瑠璃子を見つめていたが、やがてため息をつき、やさしい声で言った。
「多分、あなたが彰に与えたがっているものは、あの子が本当にもらいたいものじゃないんです」
「じゃあなんなの? 遺産には土地も株券も現金も…」

「愛情は?」

 背筋が伸びた。
「なんですって?」
「敬意は? やさしさは?」

 いまいましい。あたふたするには年を取りすぎているというのに、口を開いて洩れた声にはいつもの断固とした口調がなかった。
「あ、あのやんちゃ坊主は、私が気に入ってることくらいちゃんと知ってますよ」
 操が微笑んだ。その微笑みに、瑠璃子は彰の面影を見た。
「そうでしょうか。どれくらい頻繁に言ってくださいましたか?」
 驚いたことに、自分が赤らむのがわかった。我慢ならなかったので立ち上がって行ったり来たりしはじめた。
「私はもう八十歳になるんですよ。この件はきちんとさせておかないと」
「じゃあ、あなたがきちんとさせてください」

 仙道操からこんな厳しい口調を聞こうとは思いもしなかった。数えるほどしかないけれど、過去に同席した時は鼠のように気弱だったのに。 瑠璃子はキッとした表情を向けた。
「私を責めてるのかい?」
「そんなに驚かないでください、大奥様。あなたも母親だったんですから厳しくならなくてはいけないときがあるのはご存知のはず。 それに彰は昔からやんちゃでしたもの。あの子のお陰で、私も、油断しないことを覚えました」
 グサリときた。
 瑠璃子はまた椅子に腰を下ろし、はじめて誰にも認めたことのないことを口にした。

「…残念ながら、私は大した母親じゃなかった」

 操を見ようとしなかったが、視線は遠くの壁から離さなかった。
 沈黙が痛いほど広がり、老いた骨を苦しめ、瑠璃子は肩から力を抜きたい、いっそ椅子の背にだらりと寄りかかりたいと思った。 そのとき、操が立ち上がる物音が聞こえた。数秒後、瑠璃子の隣に腰掛けて操が瑠璃子の手を取っていた。
 瑠璃子はその行為に仰天するあまり、自分の口がぽかんと開いたいやな感じがした。気をつけないと部分入れ歯が落っこちる。

「…みんな必死ですよ」

 操がそっと瑠璃子の手を握り、慰めを差し出す。瑠璃子には受け取る資格などないのに。
「母親というのは、一生悔やむようなまちがいを犯すこともあるし、すばらしい結論を出すこともあります。残念ながら、どちらがどちらか、 子どもが大きくなって結果を見るまでわかりませんが…」
 瑠璃子はプライドを呑みこみ、何年も前に伝えるべきだった事実を操に告げた。
「彰に関しては、あなたはすばらしい結論を出したね。あの子はたいした青年だよ」
 操が微笑んだとき、いかに美しいかがはっきりとわかった。息子が夢中になったのもよくわかったが、なぜ不届きにも義務を怠ったのかは理解できなかった。
「ありがとうございます。大奥様」
 瑠璃子は根性を振り絞って、もう少し背筋を伸ばした。
「やめとくれ。そのばか丁寧さはもうたくさん。今後は名前で呼んでちょうだい」
「わかりました。では…瑠璃子さん、彰に『誇りに思っている』と言ってやったことはありますか?」
「向こうが簡単に言わせてくれない」
 そう、と瑠璃子は思った。孫のそばに行く度に、彰は防御体制に入り、口げんかを始めるか何もかもジョークにしてしまう。
「あの機転は確かに愉快ですよ。だけどあの子は、問題を話し合いたくなくて私の気を逸らしたい時や、私をバカにしたいときにもその機転を使う」と、首を振る。
「本当に魅力的な子。それを自分でもわかってる」
「もし、彰ともっといい関係になりたいなら、あの子に正直にならなくては」
 瑠璃子は鋭い目で操をじっと見た。
「もしかしたら、あなたとあの…赤毛娘に、助けてもらえないかしらね」
「…助ける?」
「彰はふたりとも大事に思ってる。紳一に困らされていたときは、彩子が紳一を丸め込んでくれた」
 瑠璃子が言い終わる前に操は首を振った。
「だめですよ。ご自分の関係はご自分で築かなくちゃ」
「断ると言うの?」
 わざと耳障りで堂々とした声を出した。操が立ち上がった。
「彰をあなたやあなたの息子さんに逆らわせようとしたことは一度もありません。だからいま、その逆をすると思わないでください。 彰は大人です。賢くて、公平で、親切です。彰の敬意とやさしさが欲しいなら、あなたも同じものを与えなくては」
「もしかしたらあの赤毛娘が…」
「瑠璃子さん、自分の息子のことはわかります。桜木さんを利用するのはお勧めしません。彰は彼女を愛しているかもしれないし、 これだけは言えますが、あの子は自分が愛している人を、とても、とても大事にするんです」
 言い返したかったが、確かに他人に命令ばかりして生きてきた今、年老いて、ほとんどひとりぼっちだった。瑠璃子は立ち上がった。
「じっくり考えるとしよう。あの子には内緒にしてくれるわね?」
「あなたが来られたことを? それがお望みなら」
 瑠璃子は微笑んだ。
「あなたは本当に立派なお嬢さんだね」
 操の顔にも笑みが浮かんだ。
「私は四十三です。お嬢さんとは呼べません」
「比較ですよ、比較。私に比べればあなたなんてまだまだ赤ちゃんよ」
 今度は操は声を立てて笑った。しかしその笑いは、瑠璃子が少し涙目でこう言った時に消えた。

「…あなたをつらい目に遭わせて、本当に申し訳ないことをした。息子には……いろんな意味で失望させられた」

 操の笑みはやさしく理解に溢れていた。
「だけど…やっぱりあなたの息子だもの。だから愛していたし、これからも悼み続けるでしょう?」
「ええ」
「わかります。それと、彰にもこんなふうに素直に話しをすれば、きっとわかってくれます」
「…ありがとう」
 操に抱きしめられて、瑠璃子は驚いた。

「彰を信じてやってください。失望はしません。絶対に」

 他人に包まれるように抱きしめられる、このやわらかな快感を、この年になるまで自分は知らなかったのだろうか。
 うろたえ、喜び、涙がこみ上げて、瑠璃子は自分の感情の扱いにくさを吹き飛ばそうと大きな声で言った。
「ええ、それはもう。あの子はいい遺伝子を持っているから」
 完全に面目を失う前に出て行かなければ。が、戸口で足を止めた。操に背を向けたまま、こう言った。
「…あの赤毛娘に聞かれてね。『家族で盛大に集まったりするのか』と。あまり考えたことはなかったけど」と嘘をつく。
「そう言われたからにはどうかしらね。いつかの休暇にみんなで……」
「すてきだわ」
 なんてこと。本当に泣きそうだ。

 いろんな思いで胸が詰まり、瑠璃子にはぎこちなくうなずくことしかできなかった。すたすたと出て行った。
 あごを上げ、背中はまっすぐに。今にも心が砕けそうな気分で。

 家族がいる。大きな、愛すべき家族が。だけどそれに値するようなことは何一つしてこなかった。
 いまからそれを変えてみせる。絶対に。何をなすべきか、ようやくわかった。
 彰が喜ぶだろう。

 いずれにせよ、喜んだほうが身のためだ。


   ***


 牧が差し出した携帯電話を花道は受け取った。

 不思議そうな顔をすると、牧がすまなそうに肩をすくめた。
「祖母からだ」
 うめきたくなった。
 これから一時間後に会う約束なのに予定は遅れている。

 牧のコンドミニアムは思っていたよりはるかに大きくはるかに複雑だった。これまでで一番大きく、 かつ印象に残る仕事になるだろうからワクワクしていいはずだった。
 ところが頭の中はヤツのことでいっぱいだった。たまらずうめいた。

 もっとも思いもよらないやり方で、仙道は花道の生活に徹底的に侵入した。その上花道は、自ら過去を詳しく語って侵入の手伝いまでした。 バカなことをしたと悔やんでもいたが、どうしたらいいのかわからなかった。
 ああ、現状はさらにひどい。
 アイツをどうしたらいいのかさっぱりわからない。ヤツにさわられると途端に脳までフニャフニャになる。
 電話に出た時の花道の声は必要以上に乱暴だった。
「モシモシ?」
「予定に変更があってね。残念だけど一時間後の約束は中止にするわ」
「へ? …そうなんすか?」
「ええ。だけど今夜、会いましょう。何時なら家にいる?」
 花道はおでこをこすった。
 一日中頭痛がしていて、ほとんど胸の痛みに匹敵した。
 牧のコンドミニアムに何をしなくてはならないかを考えるのだけでも楽ではない。そこへこれだ。
「何時になるか…」
「じゃあ彰の食堂で待ってるわ。あそこのコックは本当に腕が立つ。そう思わない?」
「はあ。思いまス…」
 花道は声を落とし、牧に背を向けた。
「あの…オ…自分に接触することをセ…お孫サンに知られたくナインだと思ってたんすけど…」
「気が変わったの。孫と会って楽しくやってるから、帰ったら連絡してちょうだい。それでいいわね?」
 花道が答える前に瑠璃子は言った。
「よかった。会うのを楽しみにしてますよ。じゃあ」

 瑠璃子が受話器を下ろし、花道も電話を切るしかなかった。微笑みながら牧が電話を受け取った。
「だいじょうぶ?」
「サイコーだぜ」
 牧が笑った。
「火を噴きそうな顔だ。ウチの祖母は誰にでもそういう効果をもたらすんだ」
 花道は牧を見上げた。

 牧は仙道ほど上背はない。が、異様にでかい男に見えた。姿勢はのんびりとして表情は穏やか。だけど、漆黒の瞳の後ろには隠しきれない野生がある。
 怖くはなかった。センドーのニーチャンだし。いや、たとえそうでなくても、『信頼できる』と本能的に感じられた。
「しかしフシギだよな。オメーとセンドーが、あのバーチャンと血が繋がってるなんて、バーチャンあんなに痩せてんのに」
 牧がぶっと吹き出した。他の理由ならともかくまさか体型を理由にされるとは思わなかった。
 大真面目なつもりだった花道は、「ナニガおかしんだよ」と少々怒って頬を赤らめる。不意に牧が手を伸ばして花道のあごを傾けたのでギョッとした。 顔をしげしげと眺められ、今にも心臓が胸を破って飛び出すのではないかと思った。それから牧が首を振った。

「…すごく疲れた顔をしてる。別の日にすればよかったな」
「い…いんや、ヘーキだ」
「アイツに寝かせてもらえなかったんだろう?」
 大きな笑みが真っ赤に茹で上がる花道を眺めていた。

「で、祖母はなんだって?」

 そのタイミングで質問を投げかけ、ふたつのうちより安全と思われる話題に花道を飛びつかせた。
「…オレ様に会いたいんだと」
「ああ…」
 牧が諦めたような、苛立ったような顔になった。
「また何かもくろんでるな。仙道が怒る」
「んなもん、いつものことじゃねーか。あの野郎はしょっちゅう何かしらで腹を立ててやがんだから…」
 歩いて建物の反対側へ行き、土壌を調べ、太陽の角度をチェックし、今ある植え込みを確認する。
「…ント、めんどくせーヤローだぜ」
 牧がぶらぶらと背後にやってきた。
「なあ、そんなことを言ったのはおまえがはじめてなんだが。アイツが怒る…ってことだけど、おまえに対してだけじゃないか?  普段はむしろ、どんな苦しい状況でもユーモアを見つける奴だ。笑うのが好きなんだと思う」
「オンナノヒトとイチャイチャすんのもな」

 自分の声の辛辣さに花道は顔をしかめた。ワークブーツのつま先を小さな小石にぶつけた。
「今ある植え込みも多少活かせるぜ? コントラストに常緑(植物)と他の質感のモン…いろんな色の花とかを使えばまとまりもできるし。 ここにあるもんは全部ムダってわけじゃねえ。だからいくらか出費は抑えられるけど…、全体をいい状態にもってくには一ヶ月くらい…」
「仙道を愛してるんだろう?」
 危うく自分の足にけつまづくところだった。くるりと振り向いて牧を見た。心臓がバクバク言って口の中がカラカラになった。必死で怒鳴った。

「んなことヒトコトも言ってねぇ!」
「じゃあ愛してない?」

 一筋の汗が背中を伝い下りた。息を吸うのもやっとだった。
 ヤツをアイシテル? なんだそりゃ。
 確かにスゲーと思うところは……アル。
 仕事の取り組み方とか、要領のよさとか、人当たりのよさとか。
 かーちゃんへの接し方もスキだ。それに(誰にでもかもしれねえが)さ…さわるのがメチャメチャうまい。 この天才ですら気持ちよすぎておかしくなっちまうくらい(苦)。

 あとは、……強いのに、びっくりするくらいやさしい。
 言葉だけでなく行動に思いやりがあって、ありすぎて、泣きたくなるくらい。それでだからいつもオレは…

 牧を見つめたまま突っ立っていたが、やがて首を振った。唖然とし、かわいそうなくらい動揺していた。
「あ…」
 牧が近づいてきた。
「今の質問は忘れてくれ。そんなにびっくりさせるつもりはなかった」
「いや、そんなんじゃねぇ、ただ…」
 牧の笑みは花道の言葉を信じていないと語っていたが、この話はここでやめるつもりのようだった――花道の頭にその考えを植えつけることができたから。
 やや赤くなってブスッとしたまま花道がなじった。

「…狸オヤジ」
「そうさ」

 痛くも痒くもないといった風情でふたりの車が停めてある駐車場へと導いた。
「これで見積もりが出せるのか?」
「ああ」
 花道は平静を取り戻そうとして、面積や、アイデアや、何が必要か、何が残せるかなどを書き込んだメモに必死に目を向けた。
「明日にはある程度の数字が伝えられると思う。…それじゃ遅えか?」
「問題ない」

 黙ったまま歩き続けたが、花道は隣にいる牧を強く意識していた。また不意を突く瞬間を狙っているだけだとわかっていた。 それでも、奴が口を開いた時、花道は実際ひるんだ。

「仙道はいままで恋に落ちたことがない」

 …やっぱり。さっきのハナシはあれで終わりじゃなかった。
「ほ、ほーか」
「だけど今は恋してる」
 花道は息を呑み、震えた。
 感情がジェットコースターに乗っているように思えた。危険なのはわかっているが、牧は降ろしてくれそうもない。
「男にとってはつらいもんだ」
 花道の肩をぽんとたたくと、トラックのドアを開けられるように手を放した。
「少しお手柔らかにしてやってくれるとありがたいんだが」

 トラックに乗り込んで走り去るべきだとわかっていた。けれど、説明しなくてはならない気もした。牧のことは、よく知らないがなぜか親近感を覚えた。 こいつもやはり、人生の大半を独りで過ごしてきたからか。その瞳を見つめ、息を吸い込んだ。
「…オレ、アイツが傷つくのを、見たくねえんだ」
「おまえが傷つける?」
「いや…」
「じゃあ誰が?」
 花道は首を振った。
 それ以上話したくなかったし、話せなかった。牧に何か言えばそのままセンドーに伝わる。
 牧はしばらく黙っていたが、やがてこう訊ねた。
「桜木…、誰か信頼してる人間はいるか?」
「シンライ? …何のカンケーがあんだ」
「信頼が鍵を握ってるんだ。だから教えてくれ。心から信頼してる人間はいるのか?」
 考えてからうなずいた。
「…洋平」
 それを聞いて牧は笑い、額をこすった。
「助手の?」
 その言い方にムッとした。
「だけじゃねえ! ダチ(親友)だ!」
「…ああ、あいつもそう言ってた。おまえと水戸はただの友達だと。すごく特別な友達だと」
 牧が向けた表情に、花道はひるみそうになった。
「もし彩子が、オレより他の男を信頼するようなことがあれば、オレは心底苦しむだろう。嫉妬でわけがわからなくなるかもしれん。 だが、あいつは水戸を尊敬してるし好いてさえいる。それがどういうことか、わかるか?」
 花道はしばらく考えた。そして眉間に皺をよせたまま、大真面目に答えた。
「…洋平は誰からも好かれるってコトか?(天才の友だから)」
「あいつがおまえを信頼してるってことじゃないのか?」

 牧の言葉に、その言い方も手伝って、徹底的にやりこめられた気がした。顔が熱くなり、胃がキュッとねじれた。
「仙道は子供の頃から自分の父親が――オレたちの父親が、操さんの妊娠を知った日に彼女を捨てたと知っていた。操さんはまだ十六歳で、 ひとりぼっちで、仕事もなかった。決して楽じゃなかったはずだが、ふたりでどうにかやってこれたのは、 操さんがあいつを死ぬほど愛してるからだ。もしかしたらそのせいなのか、オレにはわからないが、仙道は女に過敏だ。 どんな女も守って大事にしたいと思ってる。おまえのことは愛してるから、当然おまえを助けることに関しては特別強い思い入れがある」
 牧は首を傾け、真剣な表情を浮かべた。
「おまえには干渉と映っても、あいつにしてみれば本能的にやってることなんだ」
 どう説明したらいいのかわからなかったが、本心では仙道が関わり合いになることを、干渉とは感じていなかった。いまはもう。

 一緒にいるのが楽しすぎて、一緒の時間を喜んで迎える以外のことはできないくらいに。けど…
 センドーを……アイシテル?
 オレが?

 花道は顔を覆ってうめいた。
 牧はまたうなずいて、言った。
「そのことを覚えといてくれないか」
 厳かな気分で考え込みながら、花道はトラックに乗り、ドアを閉めた。牧が窓から覗き込む。
「まっすぐ家へ帰る?」
「ああ、今日はこれでしまいだ」
 機嫌がわかりかねて、ちらりと牧を見た。

 弟思いの兄なのだから、こいつをとがめる気はない。それどころか目の覚めるような結論を花道に提示してきた。
「帰って見積もりを出す」
「それからあいつと話す?」
「…ああ」
 下唇を噛んで、やがて言った。
「じゃあな」
 牧が、まるで勇気付けるようにトラックの屋根を二回軽く叩いて下がった。
「気をつけて」

 早く家へ帰って気持ちを整理したかった。
 センドーに会いたかった。ヤツにふれられたら、心の中から疑問や不安や迷いが一瞬にして消え去ることを、もう知っていた。

 ところがキーをまわしても、トラックはうんともすんとも言わなかった。花道は顔をしかめ、何度か空噴かししてからもう一度試した。 トラックは路上の轢死体のようにぴくりともしなかった。
「おいおい、相棒〜…」
 牧が覗き込んだ。
「かからない?」
「ああ」
 時計をチラリと見て、非常に渋い顔をし、それから牧に向き直った。
「ケータイかしてくれ」
「なんで」
「レッカー車を呼ぶ」
 牧がドアを開け、花道を軽々と抱き下ろした。
「なに言ってる。オレが家まで送って、あいつを連れて戻って、ふたりで調べる。ふたりとも車には詳しいんだ」
「でも…」
 牧がじろりと見た。
「だめだ、譲らない。仙道も譲らないぞ、きっと」
 気がついたら、駐車場を横切って広々としたランドローバーに乗せられ、家へ向かって走っていた。その間ずっと、牧は仙道を褒めちぎっていた。
 その必要はなかった――少なくとも褒めることに関しては。アイツがどんなヤツかはもう十分すぎるほどわかっていた。

 つまらなそうに、花道はただ黙って窓の外に流れる景色を眺めていた。
 アイツには、この天才も、心からの信頼を与えていい。
というか実際ヤツはすでに得ている。でなければ、花道だって絶対に過去を語ったりしなかった。が、言葉は自然に出てきた。
 あいつのそばにいることが、あいつに包まれていることが、心地よくて、温かくて、幸せで。
 もしアイツが望むなら、ヤツにオレ様のすべてを与えたってかまわない。もうこれ以上、ヤツがそれを得ようと努力する必要はない。

 牧が花道の家の駐車場に車を停め、外をぐるりと回ってドアを開けてくれた。
「今日は彩子が働いてる。ちょっとしゃべったら仙道を探しに行って戻ってくる。あいつが忙しくなかったらすぐにエンジンを調べに行く。 オレはもうこのあとは空いてるから…」
 花道が礼を言いかけたとき、牧の視線が逸れた。
 瑠璃子を乗せた黒塗りの車が食堂の入口に横付けされるところだった。牧が首を振った。
「…と思ったが、しばらくのあいだ、忙しくなるかもしれんな」
 バーチャンがリムジンから降りる姿を見て、花道は苦笑せずにはいられなかった。
 確かにバーチャンにはちっとビビらされるけど、交わした短い会話から、バーチャンはセンドーを溺愛していて、 距離を縮めたがっているとわかった。なんならこの天才が力を貸してやってもいい。
「家へ帰ってシャワーと着替えを済ませてくる。すぐ行くってバーチャンに伝えてくれ」
「OK」
「それからジイ」

 ためらったが抑えきれず、花道は爪先立ちになってそのごつい胴体にぎゅっと抱きついた。
「…どうした」
「てめぇの言うとおりだ」
 たくましい腕が身体を包み、抱擁が返ってきた。牧が微笑んでいるのがわかった。

「…何が?」

 ほぼ牧のシャツの中でもごもごと言った。
「オレはアイツを…アイシテル」


   ***


 ぬるめのシャワーを浴びたあと、特別念入りに支度をした。
 百人弱の女の子に告った花道だが、男に気持ちを伝えるのはハジメテのことだった。 …と気づいた途端心臓がバクバク言い出してどうにもならなくなった。
 部屋中のいろんなものにけつまずき、いろんな差込を間違えたりしながら、ようやくドライヤーでブオーッと勢いよく赤い髪を乾かした。

 昼間、髪を結っていないことはほとんどなく、寝起きは別だが、そのときは無残にもつれまくっていた。肩にかかる程度でそれほど長くはないが、 髪を下ろしたままにした鏡の中の珍しい自分は、自分ではないようにも見えた。
 気合を入れるため、前髪をチョビット切ってみた。誰も気づかない程度だったが、不思議なもので少し気持ちが引き締まった気がした。

 よりよい道に進もうと、人生をあれこれ変えてきた。
 だが、いつまでも過去に、とりわけ三井との関係に左右されるままになってきた。三井に逆らうよりも、避けるほうが簡単で、 ずっと安全だと思っていた。が、それもこれで終わりだ。どうなろうと、キレイサッパリあのバカ野郎をオレ様の人生から追い出してみせる。
 それが法廷で争うことを意味していても、すべてをゼロからやりなおすことを意味していても。もう、逃げはしない。

 なぜなら、自由になって、オレはセンドーのそばにいたいから。


   ***


 外に出た時、黄昏の太陽は巨大な赤い球になって空に浮かんでいた。湿った生ぬるい風が吹きつけ、新鮮な腐葉土と土の香りを運んできた。 通りを挟んだ仙道の食堂をじっと見つめた。かきいれどきのようで入口のドアは開け放たれ、音楽と数人の客が歩道へあふれ出していた。
 駐車場を横切り始めた時、仙道が踊りながら入口を通り過ぎるのが見えた。ひとりではなかった。
 腕の中には魚住がいた。はかない花のように抱いている。ふたりの笑い声には伝染性があって思わず花道も笑った。

 魚住純子(苦)には数週間前に会った。五十代のトラック運転手で、フリルと仙道が大好き。背は2メートルもあり、仙道よりいかつくて、 広くがっしりした肩に、巨大な胸をしていた(正直胸焼けがした)。
 いま、仙道は魚住をお姫様のように扱い、くるりとまわしてそのゴツイ頬にキスした。

 そう、仙道はイチャイチャする――ダレとでも(怪物とでも)。それは仙道にはなくてはならない要素だ。

 仙道はどんな女にも『特別だ』と思わせる。が、もし牧が正しいなら、花道は他のオンナノヒトよりももっともっと『特別』なのだ。

「……」

 少し口唇をとがらせ赤くなりながら、不安な足取りで食堂の前の歩道に足を載せた。そのときだった。笑い声が聞こえたのは。

 一瞬花道は凍りついた。
 が、固い決心と新しい人生観を胸に、振り返った。
 三井が縁石の隣に停めたカマロから降りてくるところだった。はやく仙道のところに行きたい一心だったから、まったく気がつかなかった。
 食堂から離れ、三井の方へ近づいた。この新たな対決で、客や食堂やホテルに迷惑をかけたくなかった。できることなら観客は入れたくなかった。
「ミッチー、なんか用か?」
「別に。おまえの顔を見にわざわざ寄っただけだ」
 車の屋根にもたれかかり、高そうなサングラスを外した。笑顔は鼻につき、流し目はなおさらだった。
「だけど、なあ、オレに会えて嬉しそうじゃないぜ? おいおい、どういうこった?」
 ほんの2メートル手前で足を止め、身構えた。三井は車のそばから一向に動かない。長くうるさい前髪をかきあげ、ニヤつくように花道を見ていた。

「…一度しか言わねえ。ミッチー、オレに近づくな」
 驚いた笑い声を上げて、三井が車から離れた。
「へえ、さもないと?」
 花道の背後から耳障りな声が響いた。
「ちょっと、この若造は誰? 喋り方がまったく気に食わない」
 花道はうめいた。牧瑠璃子が頑とした態度で後ろにいた。あごを上げ、目は冷たく揺るぎない。

 三井がばかにしたような目で見た。
「あんたには関係ねぇよ、ばーさん。引っ込んでな」
 なにげない足取りで花道との距離を縮め、息がかかるくらい近くまで来てようやく足を止めた。瑠璃子がキッとなり、 花道が止めるよりも早くしゃしゃり出て、三井の鼻先に指を突きつけた。
「いいかい、この…」
 三井にその手を撥ね退けられ、瑠璃子は痛みに息を呑んだ。

「消えろっつってんだろこのクソババア!」

 チンピラ丸出しの唾液飛び散る罵声に対し、花道の動きは速かった。自分を痛めつけるのと、センドーのバーチャンに手を上げるのでは話が違う。 血流で燃える深い憤りに突き動かされていた。
 瑠璃子の前に回り、身体を盾にした。食いしばった歯のあいだから言葉を搾り出した。
「これで最後だ。ここから出て行けクソバカ野郎。二度と来るな。さもないと後悔するぜ」
「そいつは違うな、桜木。後悔するのはおまえだ」
 花道は愉快さのかけらもなく派手に笑った。
「とっくに後悔してる。テメエに会ったことをな。もっと後悔してんのはテメエなんかとケッコンしたことだ」
 三井の両手がこぶしを握り、さらに詰め寄ったので怒った息が顔にかかった。

「…オレに恥をかかせたんだぞ? テメエは。みんな知ってたんだ、離婚を切り出すのはオレの方だってな」
 三井の声が大きくなり、駐車場や食堂にいる人の目を引き始めた。
「オレの災難をみんな理解してた。おまえがある晩、哀れな犬みたいに逃げ出すまではな!」
 瑠璃子が今では静かになっていた。静か過ぎるくらいに。だが花道はそちらへ目を向けることさえできなかった。全意識が三井に向けられていた。 何度かうなずいた。

「…そういうことか。オレがテメエをキズ付けた、恥をかかせた」

 ハッと花道がせせら笑った。
「情けねえなあ! ミッチー。オレが出てく時、持ってったのは上着一枚だぜ? テメエは何もかも手に入れたじゃねえか」
「おまえを捨てる満足感は手に入れてねえ」
 花道は眉間と鼻の間に無数の皺を刻んだ。
「ウソでも何でも言いふらしゃいいじゃねえか。町の皆サンによ! オレはまったくかまわねえぜ? それでテメエと二度と会わずに済むんならな!」

 怒りで顔をまだらにした三井が、花道の二の腕をつかんでグイっと引き寄せた。花道がよろけそうになると、三井が引き起こし、じりじりと腕をねじり上げ始めた。
 瑠璃子が憤りに息を呑んだ。
「おやめなさい! いますぐその手を放しなさい!」
「すっこんでろババア!」
 三井の股間を膝で蹴り上げようと花道がもがき始めた時、突然こぶしが目の前を通過した。こぶしは三井の鼻のど真ん中を直撃した。

 花道の二の腕をつかんでいた手はゆるみ、離れ、三井はよろめき、かろうじて持ちこたえた。
 仙道が花道の前に回った。張り詰め、憤った、頼もしい男の背中が。慎重な面持ちでちらりと花道を見てから三井に言った。

「…祖母にふれたな?」

 花道はぽかんと口を開けて仙道を見た。
 ふらつきながら、濃い血の流れる鼻を押さえて三井が苦しそうに言った。
「…何のはなしだ…?」
 瑠璃子が骨ばった華奢なこぶしを振りかざした。
「聞こえたろう、この悪党。あんたは私にふれた。この子の祖母の私にね」
 満足そうにうなずいて、すこし乱れた白髪を撫で付けるとこうつぶやいた。
「この子はその傍若無人さに腹を立てたんだよ」

 仙道は腰にこぶしを当て、仁王立ちになって三井を見ていた。どこもかしこも張りつめて準備万端の戦闘態勢だった。 が、もう一度ちらりと花道を見たとき、仙道の顔はすまなそうに見えた。花道にはその理由はわからなかった。
 背後から牧の声が聞こえた。
「そいつの尻を蹴飛ばしてやれ、仙道」
 瑠璃子が言った。
「ええ、やってくれるでしょうよ。そうだろう、彰」
 仙道がうなずいた。
「もちろん」
 体勢を立て直そうとして、三井が手首で鼻を拭い、頬まで血まみれにした。怒り狂っているように見えた。目は真っ赤、顔は腫れ、痣が浮かび始めている。
「このクソババアがテメエのババアだなんて、どうしてオレにわかるってんだ」

 瑠璃子がおっとりと言った。
「彰?」
「何? 瑠璃子さん」
「たった今、侮辱されたよ」
 仙道がにやりとした。と瞬時に間合いを詰め今度は三井の腹を殴っていた。

「…侮辱するのも許さない」

 三井が二つ折りになり、腹を押さえてゼーゼー言っているので、仙道はそのまま頭のてっぺんに向かってしゃべった。
「桜木の代わりに手を上げることは本人に禁じられた。愛してるからあいつの意見は尊重する」
 ちらりと花道を見る。
「…もちろん楽じゃないけど」
 それから三井に。
「でも祖母のことはまるっきり別問題だ。瑠璃子さんはオレに何一つ禁じてないからね」

 花道は仙道を見つめた。
 心臓が狂ったように駆け、息もできないくらい胸が締め付けられた。おかしな感覚だった。抑えなくてはならないのが、 涙だけではなく大声で笑いたいという衝動もだったから。
 最初に三井を殴ったときの、仙道のすまなさそうな表情のわけがわかった。
 瑠璃子のこともわかった。バーチャンは孫の思いやりを受けてにこやかに笑っている。このバーチャンは自分が仕返しに利用されたことを微塵も気にしていないようだ。 むしろその逆。
 三井が瑠璃子を見上げた。目はうつろで、鼻はすでにおかしな方向に曲がっている。瑠璃子が花道の肘に腕を絡めてきた。
「うちの孫は愛している人間を守る。そうだろう? 彰」
「まあそんなところかな。ほら立てよ、ロン毛君。オレが相手になるから」
 首を振りながら三井があとじさった。

「…警察に電話する。このツケは払ってもらうぞ、桜木にな。おまえら全員後悔させてやる」
「へえ」
 仙道が片方の眉を上げた。新たなエネルギーがみなぎっているように見えた。
「どうやって?」
「言ってやれ桜木」
 三井がまだ後じさりながら、あざけるような声で言った。
「オレにはコネがある。権力者にな。オレの気が済んだときには、テメエら全員一文無しだ」
 しばらくしてから仙道が振り返り、ややがっかりしたような顔で花道を見つめた。

「こんなこと信じてたのか? だからオレを巻き込みたくなかった?」
 仙道だけでなく、あんまり大勢の人に見られていたので、花道は急に恥ずかしくなった。もごもごと弁解した。
「だ、だってよ、オレのダチはみんな、マジでドコ行ってもローンは受け付けてもらえねーし、嫌がらせはされるし、借金取りには追われるし…。 その、だから……悪かったよ」
 仙道の笑みはいたずらっぽく、希望に満ちていた。
「謝らなくていいよ。ただ、こいつ、ぺしゃんこにしていいよね?」

 仙道の機嫌に驚いて、花道は口ごもった。
「そ、そりゃ…」
 瑠璃子が女王然と手を上げた。

「ちょっと彰、ここは私に任せなさい」

 仙道がため息をついた。
「引っ込んでてくれよ、瑠璃子さん」
「わからないのかい、これこそ私の出番だよ。『権力者に知り合いがいる』だって? ハ!」
 歓喜に近い表情で手をこすり合わせる。
「このゴロツキを、本当の『権力者』に会わせてやろうじゃないか。私の気が済んだときには、 お仲間はこの男の名を囁くことも、知り合いだったことを認めることすら嫌がるだろうね」
 突然牧が太く笑った。
「瑠璃子さんに任せろよ、仙道」

 花道はそこに集まった仙道の家族を眺めた。
 誰一人、花道の過去の過ちにも、みっともない前夫にもうんざりしているように見えない。 瑠璃子バーチャンに至っては、軍事攻撃を計画中の陸軍大将も顔負けの頼もしさ。 牧は彩子をしっかり抱き寄せたままふたりともその見物を楽しみ、ホテルと食堂の客も従業員もほとんどが集まって仙道をけしかけ三井をやじっている。
 そのすべてに圧倒され、花道は背後の食堂の壁にどすんと寄りかかった。

 ひとりじゃない。

 無条件で支えてくれて、心から守ってくれる人がこんなにいる。こんなのはじめてだった。熱いものが後から後からこみ上げて止まらなかった。
「うちの親父は市長だぞ」
 三井がうなる。
「叔父貴は国会議員だ。親戚は銀行家だし……」
「家族に大恥をかかせるところだね。これだけは言えるけど、みんなこれっぽっちも喜ばないでしょうよ」
 瑠璃子の言葉は確信と威厳に満ちていた。が、笑顔は心地よいものではなかった。これっぽっちも。 花道はその迫力に少々驚き鼻をすすったが、仙道のほうは逆に楽しそうな顔でようやく納得した。
「それもそうだな。いい考えだ。ここはひとつ任せるよ瑠璃子さん。目一杯ひどい目に遭わせてやって」
 瑠璃子は小さくうなずいた。

「すぐに必要な電話をかけよう」

 コトが自分の手から離れていくのを花道は感じた。寄りかかっていた壁から身を起こし、仙道の二の腕にそっとふれた。 二頭筋は盛り上がり固くなっていて、肉体はまだ怒りで唸りを放っていた。

「センドー…」

 仙道は三井をにらみながら、上の空で花道の手をポンポンと叩いた。
「約束は破らなかったよ、桜木。だけどその…アイツ、瑠璃子さんに手を上げたから…」
「そうだとも」
 仙道の言い訳がましい弁解に瑠璃子が請け合う。
「だから当然のこととして、彰は私の面目を守った、そうだろう? 彰」
 仙道は首を振った。
「もう言っただろう、そうだって。確かにあんたとは口喧嘩もするし、あんたがオレをイライラさせるのが好きだってことは誰だって知ってる。 けどあんたはオレのおばあちゃんだ。あんたを侮辱していいのはオレだけだ」
 瑠璃子が満面の笑みを浮かべた。

「愛してるよ、彰」

 これほど場違いな告白に、誰もが咳き込み苦笑した。
仙道の顔はぽかんとし、たちまち真っ赤になった。瑠璃子に向かって顔をしかめた。
「ちょっと瑠璃子さん、何も今言うことじゃないだろう?」
 瑠璃子が笑った――つられて花道も笑っていた。が、はっと思い出して咳払いをしてなんとか脳みそを軌道修正した。

「あの…あのな、センドー、オレ、自分でなんとかするつもりだったんだ。これから――」
 近づいてくるパトカーのサイレン音が空気を裂いた。牧が釈明した。
「オレが警察に電話した」
 仙道が眉をひそめ、花道の手をつかんでギュッと握った。目線を花道に合わせるくらいに下げ、心から謝罪した。
「ごめん。牧さんに言う時間がなくて。おまえが嫌がってるって――」

「オレが自分で電話するつもりだったのに…」

 仙道が口ごもった。
「え? そうなの?」
 花道はコクンとうなずき、間近の仙道から視線を外すとそっと見物人を見回した。

 多い…

 花道はげんなりした。
 ホテルの客と従業員は興味津々でふたりを凝視している。彩子は心からの笑みを浮かべているが、牧は「さっさと言え」 と言わんばかりの目だ。瑠璃子はすっかり自分の役まわりに満足し陶酔し、仙道だけが、花道の心境の変化がわからず戸惑いを見せていた。

 三井が電信柱に倒れ掛かっていた。血の流れる鼻やらなにやらで、辺りをすっかり汚して。
 ため息をついて花道はもう一度仙道をちろりと見た。心配げに自分を一心に見つめている。

 うう。衆人環視だ。多スギル。けど…

「あの…あのな、センドー…」
「うん?」

 差すような視線に取り巻かれ、花道の顔がみるみるみるみる赤くなる。

 くそう。なんでそれこそこんなところで…

 いっそどこかに隠れたい。でも隠れるところはどこにもない。せめてこの顔だけでも隠せるところと言ったら…
 ふるふる震えるまま、もうそれ以外考えられず、花道は自然にきゅうっと仙道にしがみついていた。 少なくとも顔面だけでも仙道のシャツで隠せるくらい。真っ赤な耳までとはいかなくても。

「…オレ、おまえのそばにいたい」
「えっ?」

 突然のことに、みっともないくらい仙道が動転した。包み込むこともできず腕を宙に浮かせたままオタオタと、 何を言われたのかわかってからも、信じられないとばかりに聞き返した。

「オ…オレの?」

 仙道の胸にしがみついたまま花道がうなずいた。泣き笑いのような表情で、頬を仙道の胸に擦り付けた。
「ミッチーが何してもヘーキなくれえ、テメエは強いしアタマだっていい。もちろん、バーチャンがあんなスゲー秘密兵器とは知らなかったけど…」
 耳ざとい瑠璃子が得意顔になる。

「…さ、桜木?」
 ようやくそっと花道の顔を包みこみ、上げさせた仙道の手はまだ震えていた。
 その仙道の瞳を見つめたまま、涙がこみ上げそうになり、花道は思いっきり鼻をすすった。
「ミッチーのせいで、すごく……すごく不安だったんだ。アイツが何をしでかすかわからなかった。とりわけテメーに…」
 胸が一杯になってのどが詰まった。サイレン音が近くなる。誰もができる限りふたりに接近し、私的な会話を漏れ聞こうとしていた。

「オレ、テメーが困るようなことだけはさせたくなかった。だから離れていようとしたんだ。なのに、テメーはしつこくてしつこくて、 全然そうはさせてくんなくて。テメーがあんまりしつこいから、だからそのせーでそのうちオレまで…」

 仙道に強引に引き寄せられ、キスで口唇を塞がれた。

 見物人が歓声を上げた。
 パトカーが縁石のところで止まった。
 ぼんやりと、瑠璃子の声が聞こえた。

「お巡りさん。私が説明しますよ。私は牧瑠璃子。このけしからん不届き者に襲われたの。そこへウチのかわいい孫が…」
 仙道の笑い声で瑠璃子の声が薄れた。
 花道のあごに、頬に、また口唇に鼻をすり寄せる。

「ああ、愛してるよ、桜木。本当におまえが大好きなんだ」

 花道を抱き上げ、頬を口唇を何度もすり寄せ、心底しあわせそうな仙道の表情に、涙が勝手に溢れてきた。もはや震えも止まらなかった。

「セ、センドー…」
 花道はもうどうしていいかわからなかった。

「オ…オレはテメーに何をしてやったらいい?」

 鼻の頭を真っ赤にして、瞳を涙に濡らしたまま困ったような表情の花道は、仙道を瞬殺するほどにかわいくて、 仙道は花道をさらに腕の中にぎゅうううっときつく抱きしめた。

 愛しくて愛しくてたまらない。
 今も。昔も。この先も。
 ようやく、ようやく手に入れた。

 はじめてぴったりと、甘えるように自らしがみつき返してくれる小さな身体が嬉しくて、胸いっぱいに腕の中の花道の香りを吸い込む。 そのまま伺うように周囲を見回すと、わざと揶揄を含めて囁いた。

「そうだね。この連中が消えたらいくつか考えがあるけど…」

 途端、花道の少し戸惑ったような表情がまた仙道を刺激する。
 ああ、やっぱりかわいくてたまらない。
 息も止まりそうなくらいその小さな身体を強く抱きしめ、そのまま耳元に囁くように聞いていた。

「ねえ、前髪切ったよね?」


このまま一気に「エピローグ」に飛んでください(笑)。
(by Z様)