一夜だけの約束? 10



一夜だけの約束? 10
Promise of One night only



 仙道はベッドから床へ降りて膝を突き、花道を引き寄せて膝から下がマットレスの端からだらんと下がるようにした。
 花道が起き上がり、戸惑った顔で仙道を見た。

「手は頭の後ろ」

 喘ぎながらためらい、自問自答していたようだが、最後には従った。マットレスに転がって天井を見つめ、緊張と不安を湛えている。
「よろしい」
 ざらついた手のひらで太腿から腰骨までを撫で上げ、撫で下ろし、また撫で上げる。伸びた姿勢のせいで、 お腹が一層へこみ、乳房のふくらみ・突起とソコが一層目立つ――仙道が存分に味わいたい場所が。花道の味に飢えて、うなるように言った。
「じゃあ脚を開いて。大きく」
 花道がまた小さくぼやいて、でも言われたとおりにした。仙道も手を貸し、さらに大きく脚を広げて、ひざまずいた目の前にすべてをあらわにさせた。
 唾を呑み、熱くじっと見つめた。
 両の親指を使ってそこをさらに開き、あまりにも無防備な花道の姿を堪能した。血管をどうどう流れる血流の中で、自分の声がうつろに聞こえた。
「ここも好きだよ。すごくオレを愛してくれる。おまえはオレのもの。この奥の、奥まで全部…」
 花道が動こうとした――仙道はそこを口唇で覆った。
 途切れた悲鳴をあげて花道が腰を浮かせ、仙道は小さなお尻を大きな両手でつかまえた。高くのけぞらせ、肩を脚のあいだに入れて大きく開かせたまま、 舌を挿し入れ、膨らんだ襞を吸い、そうして深く味わってからようやく、小さな、ひくひく震えるクリトリスを口に含んで、じっくりと、やさしく、 我を忘れろといわんばかりにしゃぶりはじめた。

「セッ…ひあっ…」

 しばらくして思った。
 なによりも花道の香りが好きだ。
 貪りながら深く吸い込み、香りと味の両方を堪能した。
 飽きることがなかった。さらに親指で大きく広げ、その敏感に充血した固い小さな肉粒を、舌先、舌裏、ありとあらゆる舌技で責め苛むように愛撫し続けた。
 はじめての身に余る快楽に、もはや泣きじゃくりこわばる花道の身体が、ビクビクと跳ね続けた。両脚から伝わるぶるぶるとした震えが、 オーガズムへの高まりを告げ、切れ切れの息遣いが切ない悲鳴に変わる。花道をしっかりと支え、 胸を高鳴らせながらさらに容赦ない愛撫で存分に凄まじい絶頂を迎えさせた。それでもなおも快感を保たせ、いたぶり続けていると、 やがて花道は困憊してすすり泣きはじめた。
 花道を放すとすぐにコンドームを装着し、のしかかって挿入した。すごく濡れていて、熱くて、一突きで根元まできつく呑みこまれた。

「…くっ」

 あまりの快楽にぶるっと震える。
 仙道の下でぐったりと横たわり、仙道が突きの速度を上げていくいまも、まだ必死で息を継ごうとしている。

 ああ、まだ足りない。足りることなどありそうもない。

 膝の裏に腕をかけて両脚を掲げ、大きく開いて高く上げさせて、仙道をもっと、仙道のすべてを受け入れるしかできなくさせた。 前かがみになってくちづけ、そんな体勢に驚いた小さな悲鳴を抑えた。
 自身で身体を貫いているのと同じように、くちづけ舌を挿し入れる。花道は抵抗するどころかキスに応じようとさえした。たちまち仙道は我を忘れた。 首筋に顔を押し当て、解き放たれた唸り声をあげた。
 全身がわななき、愛の言葉がのどで焼けた。


   ***


 正気が戻ってくると、自分の指が花道の赤い髪をもみくちゃにし、口は開いたまま花道の首筋に当てられ、その下で花道が静まりかえっていることに気づいた。

 やばい。

 乱暴にしてしまった。こっちが乱れてしまった。
 不安になって、そっと指から髪の毛をほどき、やっとのことで肘を突いて起き上がり、謝って説明しようと――したが、花道はぐっすり眠っていた。またしても。
 まだ腕を頭上に掲げたまま、手のひらを上に向け、指をゆるく丸めている。仙道はじわじわと幸福感に満たされてゆき、 やがて満ち足りた思いに笑みが浮かんだ。が、笑みはすぐに消えた。

 ああ、痛いくらい愛している花道を、他の男が虐待していたなんて。

 ぎゅっと目を閉じて、自制心の最後の細い糸を手繰り寄せた。
 オレを巻き込みたくないだって? 冗談じゃない。
 普通は女に嘘をついたことはない。つく理由がなかった。だけどいまは、花道のそばにいるためなら、必要なことは、 花道が聞きたいと思うことは、なんだって言う。そして花道の安全のためなら、必要なことはなんだってする。

 いきなり目覚まし時計がけたたましい、耳をつんざくような音で鳴りはじめ、仙道は三十センチ近く跳び上がったような気がした。 天井にぶつからなかったのが不思議なくらいドキッとさせられた。
 驚いたことに、花道はゆっくり目を覚ました。
 仙道は首を振って、腹ばいで時計に手を伸ばし、ぴしゃりと叩いて目覚ましを切った。
「やれやれ桜木。危うく心臓が止まるかと思ったよ」
 コンドームをはずしてからベッドに戻る。
 花道が大あくびをして伸びをした。
「ワリ、オレ眠りが深いんだ」
 のろのろと起きようとする姿に、仙道の笑みが戻ってきた。二度もぱたりと眠ってしまうとは、本当に疲れ切っていたのだろう。花道の横に座った。
「とくに、満足したときには?」
 言葉に含まれた揶揄に赤くなりブスッとしたが、不承不承認めた。
「…まあな」
 むすっとしたまま仙道に目を向けると、まだ眠そうなそれでも大真面目な顔で仙道にふれた。
「テメエがオレにしたこと……オレもしてやろうか」
 花道が目の前にひざまずいて仙道のモノを口に含む姿が、すでに疲弊した頭の中を飛びまわり、仙道は身動きもできなくなった。 うめきながらベッドに倒れこんだ。
「…まったくおまえってやつは、人に死にそうな思いをさせてくれるなぁ」
 驚いたことに花道は笑って仙道をくすぐりはじめ、それから数分間、ふたりはベッドの中で取っ組み合いをすることになった。 花道はびっくりするほど強く、とても身軽で俊敏だったから、数分かかってようやくやさしく押さえつけることができた。
 花道のこういうちゃめっけのあるところが好きだったし、残りの人生をふたりではしゃぎまわり、愛し合い、花道を守って過ごしたいと思った。
 とうとう花道が疲れてベッドを出ようとしたとき、仙道は訊ねた。

「…今日の予定は?」
 きれいな裸のまま、花道はぺたぺたと箪笥のほうに歩いていき、パンツとジーンズとシャツを取り出した。
「いくつか用事がある。買い物も。あとテメーのニーチャンちで見積もりだろ。洋平は操サンとこで仕上げするだろ。ま、今日はちょっと早めに上がれっかな」
「じゃあデートしよう。映画と夕飯。どう?」
 言い終わるか終わらないうちに電話が鳴った。
 ふたりともためらい見つめあったが、次の瞬間、花道より先に電話を取ろうと仙道はするりとベッドを抜け出した。が、花道の口調に止められた。
「センドー」

 くそ。

 肩越しに振り返った。ジーンズは穿いているがシャツはまだ着ていない。腰から上はあらわなまま、 魅惑的にも丸い胸を弾ませながらスタスタと仙道のそばを通り過ぎると受話器を取った。
「もしもし」
 仙道は壁に片方の肩をもたせかけ、苦悩の色が表れないかと花道を見守った。花道の目に一瞬驚きが浮かんだ。
 左の耳に赤い髪をかけ、そわそわする。
「あ、ええと、ドーモ」
 困惑か、あるいは混乱に近い顔で仙道を見る。
「ハア、エート……さあ。どうでショウ……いいえ、ソンナ……はあ、わかりました」
 まるで仙道が何か悪いことでもしたかのようにヤツをにらむ。
「ダイジョーブだと思いマス。ちょっと待ってくダさい」
 台所の引き出しに手を伸ばし、ペンとメモ帳を取り出した。「はい、ドーゾ」
 花道が言われたことを書き留めるのを眺めたが、何を書いたのかは見えなかった。あからさまにではないが、全神経を耳と目に集中させたまま、 とりあえず花道同様下だけ穿いた。

 新しい仕事?

 だけどそれなら、どうしてこんなに慎重そうな、こんなに秘密めいた様子なのだろう。前夫ではないのは確かだ。花道の目に恐怖や怒りはない。 そういうわけで肩越しにのぞくようなマネはしなかったが。
 礼儀正しく「サイナラ」と言って、受話器を置き、もうしばらく仙道を見つめてから、メモの一番上の一枚をさっと破り取り、 折りたたんで尻ポケットに突っ込んだ。

 くそ。隠し事をしてる。

 花道が明るい、完全に作り物のひきつった笑顔を向けた。
「で? 何のハナシだった? ああ、エーガか。それよかテレビがいーな。ホテルで見られんだろ? テメーの部屋でのんびりして、 テレビ見て、今度はテメーにオレがスル」
 そう言って口唇を舐めた。
 その明るさはむしろ不●家ぺこちゃんのようで、色気のかけらもないものだった。が、仙道は驚きと欲望でぽかんと口を開けてしまった。 なぜなら、仙道は永遠かと思えるくらい長いあいだ待っていたのだ。花道の視線にこの表情が、つまりものほしさと……『その気』が宿るのを。
 もろ手を上げて賛成しようとしたとき、ふと思いなおして言いとどまった。

 …おかしい。

『デート』という思いつきに異論が出ると思っていた。なぜならそれがいつものパターンだったから。
 ところが花道は非常に魅力的な代案まで出して、あたかもオレと一緒にいたいと思わせるような口ぶりだ。だけどいつから? そのときワケがわかった。
 前夫に見つかるかもしれないから、オレと一緒に人目に出たくないのだ。ふたりの関係を隠しておきたいけれど、オレがそんなのを気に入らないとわかってる。 だから…

 冗談じゃない。愛してるんだぞ。悪いことでもしてるみたいにコソコソするなんてまっぴらだ。ろくでなしの前夫から隠れるなんてもってのほかだ。
 いやはや大したヤツだ。それは認めよう。だがこっちが一枚上手だ。なにしろ経験で勝る。

「おまえの考えはお見通しだぞ、桜木」
 花道がさっさと通り過ぎる。態度と、その裸に近い身体で仙道の気を逸らしながら。
「ほーか」
 仙道はあとを追った。むき出しの、プライドの高すぎる肩をつかんで、秘密をすべて打ち明けろと言いたかった。 ふたりが完全に調和できるベッドに引きずり戻したかった。花道が仙道にしがみついて、すべてを差し出す場所に。
 花道と結婚し、気持ちとセックスの面だけでなく、法の面でも自分のものにしたかった。自分だけのものに。
 頭のてっぺんからつま先まで張りつめた気分で、うなるように言った。
「そうさ。色っぽい約束でオレをごまかそうとしてる。だけどうまくいかないぞ」
 あどけない表情で仙道のほうを向いた。チラリと股間にまで目をやった。
「…今度はテメーが体じゅうにチューされたくねーんだ。ふーん。せっかくしてやろーと思ったのに…」
 仙道は硬直し、すぐに歯を食いしばってうめきそうになるのをこらえた。また急速に固くなりはじめているが、まずは大事なことが先だ。

「電話は誰から?」
 誘うような気配が消えた。
「テメーには関係ねえ」
「おおありだ」
 怒鳴るつもりはなかったが、同じことをくりかえすつもりもなかった。花道の前にたちはだかると、風呂場への道をふさいだ。
「さっき『オレたち』って認めたじゃないか。忘れたのか?」
 花道は困惑したように眉を上げた。
「…なんのハナシだ?」
 仙道をよけて寝室に入って行った。
 間抜けな気分で、仙道はまたしても後を追い、花道が下着とシャツを着け、靴下とボロボロのワークブーツに足を突っ込むのを眺めた。 ベッドの端に腰掛けて靴紐を結ぶ。
 花道の着替えを見物するのはまぎれもない喜びで、この先一生花道と分かち合いたい親密さだった。一緒にシャワーを浴びて、 一緒に食事をして、言い争って、愛し合って…
 もう一度花道の前に立った。
「『オレたち』ってさっき言っただろ?『オレたち』って。ペアみたいに」

 どうして説明しなくちゃならないんだ。

 仙道の知っている大抵の女は、彼と深く関わりあいたがる。そういう女たちにあれこれ説明する必要はない。彼が深く関わりあいたくない、ということ以外は。
 しかし花道は、後戻りできないくらい恋してしまった相手は、まったく仙道を近づけようともしない。そう思うとしかめ面になった。
 花道がバカにしたような顔で仙道を見ると、立ち上がってシャツの裾を押し込んだ。
「ふたりのニンゲンがいる。オレとオマエ。だから『オレたち』。それが一体どーしたんだ」
 やれやれと嘆かわしげに首を振る。仙道は目を細めた。言うことをきかせられる方法はひとつしかないようだ。

「…白状させることもできるんだぞ」
 一歩寄り、声を落とす。
「おまえも知ってるだろ」

 なんのことようやくかわかった花道がカッとと赤くなった。途端にうろたえた。
「てっ…そっ…それ以上寄るんじゃねぇ! …めろよセンドー」
 近寄る仙道の裸の胸に手のひらを当て、ちょっと小突きさえした。仙道はびくともしなかった。そのまま腕の中に閉じ込められてしまう。
「あ…や…やめろったら! んなことして、んなの、ゼッテーユルサねえ。や…だっ、めろよっ」
「『んなこと』ってなに? どういうこと?」
 なんとかもがこうとする花道を抱きしめたまま、罪のない声をつくろった。
「とぼけんじゃねえヘンタイ! はなせ!」

 ちぇっ。警告するんじゃなかった。

 必死でもがき、腕の中から抜け出した花道は、震えて息を切らしながら潤んだ瞳でなじるように仙道を見つめた。そうして不機嫌になってしまった花道は、 仙道から逃げるように風呂場に入っていった。仙道は直ちに追いかけたが、目の前でバタンとドアを閉じられた。鍵がカチャリとかかるのを聞いて、引き下がった。

 なんて癪の障る、強情な……。

 うろうろしていると、メモパッドがまだ電話のそばの小机の上に載っているのを見つけた。文字通り飛びついた。思ったとおり、 適当な角度に傾けるとペンの残した跡が読み取れた。
 目にした住所に血液が煮えくり返った。
 祖母の家だった。いくら瑠璃子さんでもこれはやりすぎだ。もし花道を困らせようものなら……。
 今夜、花道に付き添って行こう。そばにいて、瑠璃子さんの話を自分の耳でも聞こう。そしてもし、どんなやり方であれ花道を傷つけたら、 そのときは……まあ何をするかはわからない。が、手ごわい祖母が花道を怖気づかせるのを黙って見過ごすわけにはいかない。 こちらには乗り越えるべき壁が十分あるのだから。
 メモをにらんでいつ会うのかを確かめようとしたが、時間が書かれた痕跡はなかった。

 仕事のあと? 昼休み?

 牧さんに会うと言ってたから、花道が帰ったらすぐに連絡をくれるよう、牧さんに頼んでおこう。
 メモパッドを引き出しに突っ込み、着替えに向かった。
 五分後、花道が赤い髪をやや上の方でひとつにくくり、顔を洗って風呂場から出てきた。十代のおてんば娘みたいだったが、 それでも床に押し倒して力づくでものにしたい気分にさせられた。
 そばにいて余計なことを言ってしまわないうちに、仙道は花道を引き寄せ、激しくキスをして言った。
「もう行くよ」
 ジーンズに包まれたお尻に両手を下ろし、花道のしかめ面をやわらげたくて愛撫した。甘く、やさしく、鼻をこすり合わせる。
「今夜、帰ってきたら連絡して。なんの映画を見るか、そのとき決めよう」
 急激な仙道の変化に戸惑った様子で花道が見つめたが、仙道はただもう一度やさしく頬にキスをして家をあとにした。仙道にも仕事があるし、 牧に話をしなければならない。

 花道を守るにはどうすればいいか兄ならわかるはずだ。花道の安全を確保できたら、前夫をどうするか決められる。
 仙道は芝生を横切りホテルに向かう間中、考えをめぐらせた。
 殺せはしないだろうが、まちがいなく何らかの懲罰は科せられるだろう。少なくとも一回は殴らなくては。できたら二回。仙道は指の節をこすりながら、 そのときの様子に思いをめぐらせた。笑みさえ浮かんだ。
 しかし、そのことに関して花道はひどく敏感でひどく心配しているから、それ以上のことはしないように努力しよう。 花道を尊重しているし、可能なときはいつでも花道の望みに従えることを示したかった。が、どうにもできないこともある。

 花道はもうオレのものだから、向こうが好もうと好むまいと花道を守るつもりだった。オレを愛することは難しくないといずれ花道も悟るだろう。 オレを信頼してもいいのだと悟るだろう。
 オレが必要だということも悟ってくれるといいのだが。

 なぜなら誰にも言わないが、オレには花道が必要だから。


   ***


 残りの腐葉土をしかるべき位置に熊手でかき集めてから、洋平は後ろへ下がってそのできばえを眺めた。
 みずみずしい緑の低木が、花をつけた茂みとコントラストを成し、的確な位置に植えられた一年生植物と多年生植物に混じりあう。

 我ながらいい出来だ。操も喜ぶだろう。

 もちろん仕事はゆっくり進めて、操のそばにいる時間を引き延ばした。この規模の仕事にこれだけの時間がかかったことはなく、 操は始終ブツブツ言っていた。洋平に。洋平のことを。彼女のそばにいられるなら、その甲斐もあった。
 バンダナを汗ばんだ額に滑らせてからポケットに突っ込んだ。
 仙道操は精一杯、オレに気のないふりをしてる。よせばいいのに。
 思い出しただけでまたクスッと笑ってしまった。

「なにがおかしいの?」

 振り向いた途端、嬉しさに笑みがこぼれた。
「あれ? 操さん、いつ帰った?」
 熊手に寄りかかり、彼女の姿を眺めまわした。
 今日の操は、むき出しの肩からすらりとした足首までを覆う、丈の長い色鮮やかなサンドレスを着ていた。すべすべしたもので、 上品でもあり、色っぽくもあった。目覚めた部分が固くなるのを感じた。

 おいおい、オレはいくつだ。チューガクセイか。

 操は今日もサングラスで瞳を隠していた。
「たった今よ。あなたの車が見えて、表にいなかったからまっすぐ裏へ来たの」
 洋平は笑ってみせた。
「機嫌がいいのは仕事が完成したから。気に入りました?」
 操が首をまわし、庭のできばえを見まわした。
「すばらしいわ」
 すばらしいのはあんただよ。「どうも」
 金の輪っかのイヤリングが操の頬をこすり、華奢な金の腕時計が、目の上に手をかざしたときに日の光を反射した。
 優雅に前へ出て、サンダルを青々とした温かい芝生に埋めながら歩く操の横顔を、洋平は眺め続けた。足の爪は手の爪と同じ、 霜の下りたようなピンク色に塗られていた。とても繊細なアンクレットをつけている。女らしくて、品があって、洋平の中の男の部分が、 揃いも揃って気をつけをして見つめているような感じだった。
 淑女のような身なりをするところが好きだった。どんな男だって上品だと思う。が、オレといるときは上品ではなくなってもほしかった。
 服を剥がして、乱れさせて、組み敷いた彼女が髪を振り乱し、化粧も気にせず身をこわばらせる。

 丹念に、熱心に操を見つめていると身震いした。操がゆっくり、のんびりとした足取りのまま、移植ごてを踏み越え、空の容器を迂回した。
「…帰る前にその辺のものは片付ける」
 操が横目で洋平を見た。
「急がなくていいわ」
 そんな単純な言葉で、洋平の心臓は駆けはじめ、胃はねじれた。かさついた低い声で囁いた。
「…今日はすてきだな。仕事?」
 操が一瞥した。目を見れたらいいのに。
「ランチよ」
 背後に近づき距離を縮めた。
「女同士でおでかけ?」
 デートをしたのかどうか、巧妙に探ろうとする試みは抵抗に見舞われた。操は腰をかがめてピンク色のアザレアにふれた。
「いいえ」
 身体を起こしたとき、洋平はすぐそばにいたのでもう少しでふれそうになった。
「…焦らすのはやめろよ、操さん。男と一緒だったのか?」
 操があとじさろうとしたので、肘の辺りをつかんだ。肌はとても柔らかく、とてもなめらかで、明るい日差しにぬくもっていた。
「あぶない」
 彼女を引き寄せる。
「植え込みに突っ込みますよ」
 洋平が脇へ導き植え込みをよけた瞬間、操は洋平から離れた。行かせはしたが、そばから離れはしなかった。
「水戸さん、訊いてもいいかしら」
 洋平は姿勢を崩し、胸の前で腕組をした。
「どうぞ」
「桜木さんはうちの息子を好きなのかしら」
 期待していたような質問ではなかったが、驚くにはあたらない。操はこれまでにも何度か息子の会話をきっかけに利用してきた。 息子が中心にいない生活など考えられない、と言いたげな態度だった。
 洋平は椅子を指差した。
「座っていいすか?」
「ええ、もちろん。何か飲み物でも持ってきましょうか?」
「ありがたい」
 数分もしないうちに、操がアイスコーヒーの入ったグラスをふたつ持って戻ってきた。
「これでいいかしら」
「十分。ありがとうございます」
 グラスを受け取って、一気に半分飲み干した。操は向かいの椅子に腰掛けると、膝をくっつけ、背筋を伸ばして、グラスに口をつけた。彼女を眺めながら訊ねた。
「花道と彰サン、あのふたりの話でしたよね?」
 サングラスを外した操の目は、ひたむきで心配そうだった。
「彼女と一緒にいるときは、あの子らしくないの」
「それはつまり……」
 わざとありえないことを訊いてやった。
「女の友達が少ないってこと?」
「もちろんたくさんいるわ。彰は誰とでも親しくなれるもの。だけど……今回はちがうの。いつもは親しくなっても……深くは関わらないの」

 仙道彰が示してきた不屈の精神には、洋平でさえ驚いたと認めざるを得ない。花道が仙道の魔法にかかるのが、実際に見える気がした。
 いろいろな理由で仙道サンには感謝していたが、なかでも花道に笑顔を取り戻させたのは大きかった。花道が一人暮らしでも、 仙道サンがそばにいて見張っていてくれるから安心できた。仙道サンが粘り勝ちするのは時間の問題だろう。
「追うより追われるのに慣れてるヒトって感じっすよね」
 甘い母親の愛情たっぷりに操が微笑む。
「あの子はもともとハンサムだけど、性格もすごくいいもの。鬼に金棒の組み合わせじゃない?」
「あんたの育て方がよかったんだ」
 色の濃い、鹿のような目から誇りが輝き、いっそう魅力的に映った。少し頬を染めた微笑は更に魅力的だった。
「ありがとう」
「彰サンは父親似?」
 一瞬、操の動きが止まった。
 なにげなく、あたかも何も言われなかったかのようにグラスを脇へ置くと、ゆったりと椅子にもたれた。長い脚が組まれ洋平の気を引く。 意図的にやったのではないかという気がした。そのもくろみを讃え、笑顔を浮かべた。
「…質問したのに、返ってきたのは質問ばかり。桜木さんのことで私に隠してることでもあるの?」
「疑り深いおふくろさんだなあ」
 もどかしさを隠そうとしてか、操が片足をぶらぶらさせる。
「そうよ。そしてあなたは答えをはぐらかしてばかり」
 洋平は笑った。
「わかったわかった。多分オレは、あんたが息子さんを守りたいと思うのと同じくらい花道を守りたいと思ってる。違うのは、 息子さんには生まれたときからあんたがいたが、花道はほとんどずっとひとりだった」
 同情が苛立ちに勝った。
「どうして?」
「かあちゃんは小さい頃からいねえ。とうちゃんは中坊んとき亡くしてる。ひきとられた先の叔父貴は心の狭い偽善者で、 別れた亭主は暴力をふるうろくでなしだった」
 事実を聞かされて操は仰天したようだった。
「…まあ、気の毒に…知らなかったわ」
「花道は秘密主義者だから。自分のことはあんまり話さない」
 洋平は首を傾げ、このときとばかりに言ってみた。
「あんたと花道には共通点がひとつある」
「そう? …息子への愛情以外に?」
 からかうときの操の表情が好きだった。が、そんなことをするのは話題が息子のときだけ。操が息子に捧げる愛情のおかげで安全な話し方ができた。
「ふたりとも、まだほんの子どものときに、間違った男と関わりあった」
 ハッとして操が立ち上がった。
「アイスコーヒーのおかわりは?」
 ゆっくり立って向かい合い、逃げ出すのを邪魔した。
「息子さんが自分から花道にたっぷり時間を割いてくれて嬉しいよ。これは『本気』のしるしだと思います?」
 洋平のもくろみどおり、この新しい質問で操は和らいだ。緊張が肩から去り、うなずいて認めた。
「…彼女を愛してると思うわ」
 それから、どこまでいっても母親の彼女は、こう付け足した。
「だけど…、息子が傷つくのは見たくないの」
「あんたが傷ついたように?」
 操の笑いは無理矢理こしらえた、愉快さのかけらもないものだった。
「彰は強いし、自信もあるし、自立してるわ。どこかの小娘とは違う。あの子は…」
 口唇にふれて言葉の奔流を止めた。
「…あんたとは違う?」
 操は身動きもしなかったが、瞳は色を増し、ほっそりした首で打つ脈は上がった。指をそっと左右に滑らせ口唇をなぞった。
「大事なことは先に言っておく。花道は本当にいいヤツだ。これまでに経験したことのせいでなかなか打ち解けないが、 わざと誰かを傷つけるようなことは絶対にしない。だから息子さんのことは心配ない。あのふたりはオレたちが世話を焼かなくても自分たちで問題を解決すると思う。 多分、あんたが思ってるより早く」
 操は黙ったままだったがうなずきはした。

「で、ここからは別の話だ」
 驚かさないようにゆっくり動いてさらに近づく。
 片足を彼女の足のあいだに入れると、大きなブーツが華奢なストラップつきのサンダルに挟まれた光景は悪くなかった。 もうこれ以上逃げられないように片腕を腰にまわした。
「操さん…」
 間近に迫る熱い瞳に唾を呑み、困ったように洋平の口許を見つめる。が、すでに息遣いが荒い。
「だ…めよ。あなたのこと…ほとんど、知らないわ」
 血液がたぎった。
 受け入れたがっているような、その気になっているような声だった。
「じゃあゆっくり進もう」
 ゆっくりすぎて、『解き放って』とすがりつきたくなるくらい。
「だめ。あなたのほうが…ずっと、年下よ」
 洋平は顔を逸らして笑った。言い訳を探している――そして早くも底をつきかけている。
「オレたちはふたりとも大人だし、何が欲しいかもわかってる。自分たちが喜ぶことならなんだってしていい」
 そこでグッと声を落とす。
「あんたを組み敷けたらオレは大喜びだ」
 操が、電流に打たれたようにビクビクッと震え、爪にマニキュアを塗ったやわらかく繊細な手が、汗と埃まみれのシャツの胸をつかんだ。 荒々しい男臭さとやさしい女らしさのコントラストは強烈だった。
 小さく震えながら、なんとか顔を逸らして搾り出すようにささやいた。
「だめ…よ。バカみたいにのぼせ上がるには、もうおばあさんだわ」
 洋平は腕に力を込めた。
「ばあさんなものか。何言ってる」
「もっと賢くなってなきゃいけないのに。学んだはずなのに……」
 自分を責めるような口調の操を洋平はやさしく見つめた。
「…オレといるのは賢くない?」
「わからない」
 涙がひとつ零れた。洋平を見つめた。
「あなたのことを、知らないもの」
「あんたを欲しがってるってことは知ってるだろ?」
 背中をそっと撫でた。洋平にはもう毎日のように迫られていた。が、どんなときもそのふれ方は一度も『失礼』であったことはなかった。 それが逆にたまらなかった。
「他に重要なことは?」
 迷いで瞳がかげり、柔和になった。瞳をキラキラさせたまま、困ったように微笑んだ。

「たくさん」

 くそ。今は長い議論をはじめたくなかった。
 洋平が思わず洩らした小さなため息に、操の身がこわばり震えた。
「ごめんなさい。こういうことは得意じゃないの」
「いや、十分うまくやってるよ」

「…キスしたい」

 いきなりの告白だった。見れば操の瞳から涙があとからあとから零れていた。自分の中の葛藤に、操はショート寸前だった。 洋平の胸を小さな拳で何度も叩いた。わななくように震えていた。
 責めているのは洋平ではなかった。自分だった。
「私…私…どうしてこんな…。ひどい…。だめなのに…いつもそのことを考えてた。もう頭がおかしくな…」
 言葉が終わる前に操を強く引き寄せると、汗も埃も意に介さず夢中で口唇を奪った。溢れる涙もすべて口唇でぬぐった。 さらなるくちづけに操が喘ぎしがみついてくる。そのままあごにのどにくちづけた。操が洋平の頭をかき抱いたまま、ついに観念したように白状した。
「あ…いや…、だめなのに……ひどい、私…あなたが欲しい」
「よしきた」
 洋平を求めるのは賢くないと言ったが、それでも求めているのだ。何も警戒することはないとじっくり説明してやる。
「家へ入れてくれ、操さん」
 ためらいと欲求が闘ったが、欲求が勝ったのを、腕の中の操が諦めたように微笑んだのを確認したとき、ふたりの耳に、 草のカサカサ言う音が飛び込んできた。
 操を放し、急いで一歩下がったが、すぐによろけた彼女を支えなくてはならなかった。傍らに引き寄せてから、 誰がふたりの秘め事を邪魔したのか見ようとして向きを変えた。
 年老いた女性が堂々とした態度で洋平を見つめていた。ゆっくりと視線が操に移り渋面が浮かんだ。
「近頃のひとは、人目を気にしないという恐ろしい癖をお持ちだね」
 操が邪魔者を見て息を呑み、パッと洋平から離れ指先で涙を払った。

「いやだ」

 洋平の反応はそれほど早くなかった。今まさに操の家の中へ、さらにはベッドの中へ招じ入れられるところだったという事実にまだ動揺していた。
 一度息を吸い、もう一度吸ってようやく、非難がましい射るような目を向けているこの痩せた白髪の女性の相手をする準備ができた。
「それで? お若いの。なにか言うことはないの?」

 お若いの?

 間の悪い妨害に機嫌を損ねていた洋平は、とがめるように訊いた。
「あんた誰?」
 操が腕にふれた。目を見開いて震えている。

「彰のおばあさまよ」


   ***


 操が見つめていると、瑠璃子は鼻をツンと突き出した。
「いかにも。彰はそのつながりをちっとも大事にしていないけどね」
 目を狭めて操を睨む。
「そういうことだから――賭けてもいいけどそうですよ――だからあなたに、あの子に道理をわからせる手伝いをしてもらわなくちゃならないようだわ」
 その要求に面食らって、操は目をしばたたいた。
 瑠璃子大奥様が私の助けを必要としてる?
 驚きのあまり何も言えずにいると、瑠璃子がフンと息を洩らした。
「おやおや、操さんは口がきけなくなったみたいだから、自分で名乗らなきゃいけないようだね」
 細い、静脈の浮いた手を洋平の方に突き出した。
「牧瑠璃子よ。そちらは?」
 洋平がごく軽く、その華奢な手を握った。
「水戸洋平です」
「孫の彰とは知り合い?」
 手を握られたままだったので、洋平は肩をすくめ、軽く何度かうなずいた。
「面識はありますよ」
 瑠璃子の視線が操と洋平を行ったり来たりする。
「…孫と知り合ったきっかけは、この……密会?」
 露骨な詮索に操はぎょっとしたが、洋平は気分を害したようには見えなかった。むしろ楽しそうにははっと笑って言った。
「実は、お孫さんが付き合ってる女性の下で働いてるんです。操さんには彰さんを通じて出会いました」
 瑠璃子の目が鋭く、抜け目なくなった。
「あの赤毛娘の下で働いてると言った?」
「え。アイツ…彼女をご存知なんすか?」
 洋平の驚きの質問は無視された。

「…正確には何をしているの?」

 瑠璃子の前に出ると、いつも操は少し怖気づいた。間違いなくこの反応は『彼』から「おまえは逆立ちしても俺の生活には合わない」 ときっぱりと告げられた若き日に端を発する。
『彼』は選ばれた人間であり、操は中の上。『彼』は言った――赤ん坊はどうとでも好きなようにしていいが、この先俺が関わり合いを持つと思うな。 おまえのことは口説きたかっただけ。一時の気晴らしとしては魅力的だが、間違ってもそれ以上ではない、と。
 最初から瑠璃子が彰のことを知っていたのかどうか、操にはわからない。『彼』にとって操は口にするほど重要ではなかったのだから。
 彰に会った瑠璃子は、金を払うと操に申し出た。未払いの養育費のことで訴えられないように。そんなことにでもなれば牧家の名前に傷がつくと言って。
 操はにべもなく断った。
 その頃は切羽詰るほどお金に困っていなかったし、牧家には息子に対して一切経済的な権利を主張して欲しくなかったから。
 さらに操は誰も訴える気はないと瑠璃子に説明した。
 自分には息子がいる。その一点で『彼』よりはるかに恵まれていた。『彼』は息子がどんなに素晴らしい若者に育ったかをまったく知らずに死んだ。
『彼』を気の毒にさえ思った。瑠璃子のことは間違いなく気の毒に思っている。

 瑠璃子に怖気づくどころか、洋平は尊大にも楽しんでいるように見えた。ようやく手を引っ込めて微笑んだ。
「決まった仕事はありません。どこで仕事をしてるかによって、毎日いろんなことが変わりますんで。 花…桜木サンはオレがいなくても大抵のことは自分で処理できるんで、オレはただ、彼女がやり残したことを仕上げたり、言われた現場に出向いたり、 やらなきゃいけないことをやるだけっす」
 瑠璃子があごを引いた。
「…雑用係なの?」
 洋平の笑みが広がった。
「そう呼びたければどーぞ」
 瑠璃子がもう一度、リーゼントの頭のてっぺんから泥に汚れた黒いワークブーツまで眺めまわした。 その二点のあいだにはたっぷり『男』が詰まっていると操には思えた。将来性のない仕事で人生を無駄にするにはもったいないほどの『男』が。
「なるほど」
 瑠璃子の声には隠し切れない軽蔑と棘があった。
「野心がないのね」
 動揺して操が背筋を伸ばした。自分もまったく同じことを考えていたかもしれないが、瑠璃子が侮辱するのは許せなかった。
 水戸洋平は今はお客、私のお客だ。

「大奥様」

 洋平が腕にふれて操を黙らせた。
「わかりませんね。オレの野心があんたに関係ありますか?」
「おや! 確かに私は――」
「礼儀を学ばなかった? それはわかります」
 ちらりと操にやさしい顔を見せた。ウィンクさえよこした。
 彼には頭の中が読めるのではないかしら、瑠璃子と同じことを自分も考えていたのを知っているのではないかしら、そんな恐ろしい疑問が浮かんだ。 洋平がこう言ったとき、疑問は確信に変わった。
「操さんも知りたいかもしれないから話しますけどね、オレ、実は働く必要はないんです。株式市場…つかネット投資で随分儲けちまったんで、 いまは引退して悠々とやってられる。花…桜木サンとこで働いてるのは、単にその…楽しみでやってるんです」
 驚いた操は、まばたきをして彼を見つめた。

 株式市場? 楽しみで働いている?

「桜木サンはホントおもし…いい人だし、オレは忙しくしてるのが好きなんで…」
 肩を曲げ伸ばしする。
「それに、きつい作業は体型維持もしてくれるから、役に立つこともあるんでね」
 また笑顔を向けられて、操は顔が火照るのを感じた。
 もちろん。
 その引き締まった、たくましい、男らしい身体を、そのしなやかな筋肉を、さっき手のひらに感じたばかりだ。
 瑠璃子がフンと鼻を鳴らした。
「そう。…まあ、怠惰を嫌う男性は偉いと思いますよ」
 それを聞いて洋平が笑った。
「操さんを口説く邪魔をされたんで、オレはそろそろ退散するとします」
 瑠璃子に背を向けて聞いた。
「操さん、トラックまで送ってくれません?」
 操はすっかり動揺していた。これまで洋平を拒んでいた理由はまったく見当違いだったようで、彼のことをよりよく知った今、 脚がグニャグニャになった気がした。

 水戸洋平は無責任でもなければ怠け者でもなかった。その正反対だった。
 彼に求められている。そして彼を拒む理由も自分を抑える理由もほとんどなくなってしまった。もはや年齢だけ。 しかしそれはもともと洋平にとって何の問題でもないと何度も告げられている。
 申し訳ない顔をさっと瑠璃子に向けた。
「大奥様、ちょっと失礼します」
 瑠璃子が行ってこいと手を振った。
「どうぞ。中で待たせてもらいますよ。この憎たらしい太陽にはうんざり」
 あたかもれっきとした招待状を持っているかのように、瑠璃子は家の中へと入って行った。
 操は軽く息をつき、やれやれと首を振った。この老婦人の神経には脱帽させられる。

 洋平が横に並び歩き出すと、内緒話をするように少し身を寄せ囁いた。
「さっきのは一体なんなんすか?」
「私にもさっぱりよ」
 操は首を振った。
 瑠璃子の来訪に困惑し、洋平について新しく知ったことに興奮していた。ふたりは近いうちにもっと親密になるだろう。 胸騒ぎの予感に待ちきれなさまで感じた。もちろん押し殺したが。
「いままでうちへ来たことは一度もないの。それどころか私に話しかけたことだってほとんどないわ。何をしに来たのか見当もつかない」
 洋平は途中で道具を拾い、長い柄を楽々握った。太陽がまぶしいのか目をすがめたまま、じっと操を見つめた。

「…そばにいた方がいい?」

 その申し出にびっくりした。そして素直に嬉しくなった。
「ありがとう。でもいいの。だいじょうぶよ」
「困らされるんじゃないすか?」
「どうかしら…その質問に答えられるほど彼女のことを知らないの。彼女は…彰とは大の仲良しとは言えないわ。あの子は……その、私をかばおうとするから」

「あんたの息子じゃないか」

 まるで、それですべてに説明がつくというような口ぶりだった。操もそう思ったが改めて嬉しかった。
 洋平のトラックまで来ると――まだ新しい、値の張りそうなトラックだと改めて気づいた――洋平が道具を中に積んだ。
 少し離れたところにリムジンが停まっていて、運転手が辛抱強く席に座っていた。洋平が眉を上げた。

「バーサンの?」
「多分。すごく裕福なの」
「それに押しが強くて年寄りで…」
 にやりとして続ける。
「恐ろしく間が悪い」
 少しためらってから訊ねた。
「バーサンの息子が彰サンの父親?」
「ええ。…だった、と言うべきだけど。随分前に亡くなったの。まだあの子が十代の頃に…」
 ばかな子どもだったかつての自分をなぜか弁護したくて、両腕でお腹を抱いた。
「そのときまで彰は瑠璃子さんに会ったこともなかったの。『あの人』は彰と私のどちらとも関わり合いたがらなかったから。 妊娠したと告げた日が『あの人』に会った最後の日よ」
 洋平がトラックに寄りかかった。太陽が瞳を一層まぶしく一層激しく見せた。
「もったいないことを」
 同じ見解を持ってくれたと思い、嬉しくなって操は微笑んだ。
「私もずっとそう思ってたわ」
 操とは違い、洋平が言ったのは『息子』に関してだけではなかったのだが、ゆったり笑ってうなずいた。
 その笑顔に、もはや完全に操は惹きつけられていた。呆然とその姿に見とれていた。
 不意にうなじをつかまえられて引き寄せられたときは、むしろ進んでその胸に倒れ込んだ気がする。一瞬で息が止まり火照ってきた。 男らしい手が頬を包み、あごを上げさせる。ふたりの目が合った。

「シーツを焦がすことになるぜ、操さん。期待してくれ」

 震えが走り、息遣いが深くなった。
 これまでごくたまに経験してきた『控え目な関係』からは想像もつかない洋平とのそれ。
「…けど、前もって知っておいてほしい。オレの望みはソレだけじゃない」
 驚いて操が言った。
「そうなの?」
「ああ」
「どうして?」
 洋平との情事という考えに身をゆだねることにしたばかりだ。操にとっては大きな一歩。普段の彼女なら絶対にやらない。 これまでの関係で彰に知らせるほど真剣なものはひとつもなかったし、どの相手も一時的とわかっていた。たとえ結果として性的に結ばれたとしても、 それは単なる成り行きでしかなかった。
 大きな潅木の影とはいえ、公道だった。操を腕の中に囲ったまま、洋平がうつむき操と額を合わせた。
「…参ったな」
 もどかしそうな声で言った。
「タイミングも場所も最高とは言えないから手短にする」
「手短にって、…何を?」
「説明を」

 胸に引き寄せられて抱きしめられた。頬に心臓の鼓動を感じながら、太陽でぬくもった生々しい香りを吸い込んだ。
「…昔、結婚を約束した女がひとりだけいた。彼女を亡くしたあと、オレは普通の生活に戻るまでしばらく時間がかかったし、 戻ったあとでも、女はしたいときに手に入れる温かい身体でしかなかった」
 彼の遠慮のなさには驚かされることがしばしばあった――そして大層興奮させられた。けれど他の女性のことを聞きたくはなかった。 それが過去の女性であったとしても。

「無理に話さなくても…」

 言い終える前にくちづけられた。このキスはやさしくなかった。オレのものだと言わんばかりに口唇を奪われ、身体を駆け抜ける震えも抑えられなかった。
 もう一度額をおでこに当て、歯を食いしばって洋平が言った。
「でもあんたは違う。もちろんオレはあんたを絶対に満足させるし、オレも満足させてもらう。けど、一晩限りじゃ、いや、一週間でもだめだ。 オレは…あんたとの関係を一時的なものにしたくない」
 操は震えた――そして、そっと身を引いた。胸が上下して、束の間、考えることもできなかった。洋平がうなじに手をあてて、引きとめる。
「速いのが好きなんだろう? 速くて、強くて、深いのが」
 ビクビクッと震えて思わず操が洋平にしがみつく。
 洋平は抱きとめ、しばらく無言になっていたが、やがて口を割った。

「…久しぶりに花道に会ったとき、あいつは目のまわりに痣をこしらえて、数え切れないくらい打ち身の痕があった」
 操は口を開けて洋平を見上げた。突然の今の言葉に度肝を抜かれ、ぞっとさせられ、言うべき言葉が見つからなかった。
「オレの心は死んだまま、『彼女』を悼み続けてた。その頃、幼馴染だったあいつが毎晩のように夢に出てくるようになって、 オレはとりつかれたように必死であいつを探した。やっと見つけ出したときにはあいつは…」
 肩をまわして澄んだ青い空を見上げた。
「おかしなもんだよ。あいつは、オレがあいつを救ったと思ってるが、実際はオレがあいつに救われた。オレはもがき苦しんでた。 失ったもののことしか考えられなかった。そんなオレにあいつは新しい目標をくれた」
「…そうだったの」
 心が和らぎ、胸が一杯になった。

 洋平は『彼』とは正反対だ。彰の父親は、操が一番必要としていたときに背を向けた。洋平はわざわざ行方知れずになっていた幼馴染を探し出し、助け、支えた。
 笑顔が浮かんだ。弱々しくおぼつかないけれど、希望に満ちた笑顔が。
「ああ、アイツも苦労したよ」
 操を見つめる表情は、ひたむきで厳しかった。
「別れた亭主、三井寿っつー野郎は卑怯者でね。もっと前にオレがなんとかしてやりゃよかった」
 どうしてしてやらなかったの! という目で怒ったように見つめられた。それが洋平には妙に嬉しかった。
「あの野郎はどうすれば花道が一番傷つくかちゃんと心得てた。それに、いろんなところに顔が利く有力な親戚がたくさんいた。 オレを傷つけることはできないってことはアイツもわかってた。が、もしオレがヤツを追い払ったら、花道が二度とローンを組めないようにすることができるし、 いまあるローンを買い取って、返済を請求することもできる。花道のまわりにいた人間にしたことはそういうことだ。それで、あいつの叔父貴も全部失った」
「それは…法で許されることなの?」
「花道への虐待を除けば、ヤツがやったことはすべて合法だ。それに虐待だって立証するのは難しい。ヤツの父親は警察署長だった。今は市長だ」
「それである程度、法を免れられるということ?」
「そんなとこだ。花道はずっと遠くへ行けば解決すると思った。で、オレはドコでもよかったから一緒に来た。ここじゃ花道はシアワセだった。 すごく満足してた――三井のこと以外は」
 操を見て打ち明ける。

「…ここまで追ってきたんだ」

「そんな! じゃあなんとかしなきゃ!」
 洋平がふっと笑って操を抱きしめた。
「わかってくれると思った。オレも大賛成だ。ただ、どうしたらいいかがわからない。他人を巻き込まないことに関しちゃ花道は恐ろしく意思が固いから」
「…私から話してみるわ」
「やめた方がいい。オレが話したって知ったら動転する」
「ああ…」
 操は頭の中で考えをめぐらせた。
「じゃあ彰に…」
「いやいや。今のところはオレが気をつけてるし、本当は心底願ってるんだ。花道の方から仙道さんに打ち明けてくれたらって。 仙道さんを信用して何がどうなってるのか、あいつが自分で話してくれたら…」
「でも、もしその男が彰を傷つけようとしてるなら、早めに、私からでも忠告してあげなくちゃ」
 洋平が指の背で操の頬を撫でた。
「もう少しだけオレに任せて欲しい。頼むから」
 操の気は進まなかったが、花道が干渉を好まないだろうこともわかった。妥協することにした。
「…とりあえずは、あなたを信じて任せるわ」
「ありがとう」
 洋平の笑顔は、息子の笑顔とはまたまったく違うが魅力的だった。

「これでわかりました? オレにとって花道は本当に大切だけど求めてはいない。あんたを求めるようには」
 自分がどんなふうに求められているのか…と改めてためらってしまった。洋平が腕時計を見た。
「今夜また来ます。そのときなら多少プライバシーが持てるでしょ。七時でどう?」
 夜ははるか彼方に思えた。
「いいわ」
 洋平が手を伸ばしてきたが、操は身を引いた。中へ戻る前に落ち着きを取り戻さなくては。
「もう行くわ。大奥様を待たせたくないから」
 洋平がいたずらっぽく笑った。
「つまり、あのバーサンに家の中をうろうろされたくないってこと?」
 操もにっこりした。洋平は単なる魅力的な若い男ではなかった。とてもいい人でもあった。
「そうなのよ」
 彼の胸にふれた。

「…遅れないでね」

 その小さなささやきに洋平が目を丸くし、やがてゆっくりと笑みを浮かべた。その笑顔に胸が震えた。
 操は急いでその場をあとにした。

 ああ、いとも簡単に水戸洋平と恋に落ちてしまった。





つづく


2007.? 脱稿


…というわけで。
後半、洋平×操なんで私的にも皆様的にも微妙かもしれませんが、 とりあえずこんなところです。
次で最終回です。
読んでくださっている方、ありがとうございます。
(by Z様)








11へ
 


back