一夜だけの約束? 1
一夜だけの約束? Promise of One night only じっとりとした夜気は激しい嵐の予感をはらんでいた。暗い空にゆるゆると集まりつつある灰色の雲のあいだからは星ひとつ見えない。 こういう夜は男の血を騒がせる。 温かく乱れたシーツ。熱く乱れた獲物。 仙道彰は女が欲しかった。いま。今夜。 ゆっくりと深く息を吸い込んだ仙道は、動物のようなセックスと欲望が荒れ狂うさまを思い描いた。相手候補を何人か心に浮かべると筋肉がこわばってきたが、 どの女もイマイチしっくりこない。やむなく全員却下した。蒸し暑い微風が、シャツの開いた襟のあいだから熱くなった肌を撫でた。 仙道は夜空を見上げて笑った。自分が何を求めているかわかっていた。 挑戦だ。 このところそういう機会とはさっぱり縁がなかった。だが仙道も男だし、ぶっちゃけ女を追うのはむしろ好きだ。力試しをして勝者になるのが好きだった。 優位な男でいるのは気分がいい。 仙道彰は、高校、大学と名の知れたバスケのスタープレイヤーだったが、社会人になってからはすっかり足を洗い、親戚から譲り受けたこのアメリカンスタイルの ホテルをうまく切り盛りしている。 今夜も仙道の経営するその小さなホテルの中の食堂は混みあっていた。宿泊客や地元の常連客、トラック運転手などがいつものように大勢やってきた。 物分りの悪い客はほとんどいないし、むしろみんな惜しみなく金を使う。商売はうまくいっている。大繁盛と言ってもいい。 とりあえずその面では仙道は十分満足していた。 別の面では燃えそうなほど焦れていたが。 一階のドアのひとつが開き、若い魅力的な二人の女がぺちゃくちゃとしゃべりながら出てきた。渡り廊下を笑いながらふらふらとやって来る。 どう見てもすでにだいぶ聞こし召している。仙道のそばまでくると、小麦色のロングヘアがウィンクして指三本をひらひらとはためかせた。 仙道は笑顔を返した。いつもどおり礼儀正しく。いつもどおり魅力的に。なおかつ無関心に。 「どうも」 脚のすらりとしたショートカットの方が、均整の取れた腰をひねった。 「外で過ごすには向かない夜じゃない?」 意味深な目で仙道を舐め上げ、舐め下ろし、また舐め上げる。長い緋色の爪が、開いた襟のすぐ内側の肌に触れた。 「なかで一杯おごらせて」 興味のかけらでも感じられたらいいのに、と思いつつ、仙道は両腕をひょいと上げ、残念そうなふりをした。 「魅力的な誘いだから断りたくないけど、…断るしかないんだ」 女がさらに近寄って、見事な胸の谷間を見せつける。 「噛みつきゃしないわよ」仙道を見上げる。 仙道は思わず笑った。女の戯れというのはたまらないものがある。言い寄られたりゲームを仕掛けられたり。勝つのはいつも自分だが。 「信用できないなあ」 女は楽しそうに笑った。 「ほんとに一緒に来ない?」 ロングヘアも口を添える。 「きっと楽しいわよ」 「だめなんだ」 仙道は首を振り嘘をついた。「先約があってね」 「後悔するから」 「オレもそう思う」 ふたりは食堂へ入っていくとすぐに新たな獲物を見つけたようだ。仙道は愉快な気分になり、胸の前で腕組をして羽目板の壁に背中をもたせかけた。 仕事は楽しい。 女に注目されるのはもっと楽しい。 だが何か物足りない。最近気づいてしまった。気づきたくもなかったのに。 低いゴロゴロいう音が空気を揺るがした。きっと近づいている嵐の雷鳴だろう。空を見上げて稲光を待ったがどこにも見当たらない。 数秒後、古びたトラックのヘッドライトが、角を曲がって一瞬仙道の顔を照らしてから、通りの真向かいにある造園業店に弧を描いて入って行った。 何ヶ月も放置されていたその店が、また操業しはじめるらしいと気づいたのは数週間前だ。ペンキが塗りなおされ、シャッターが修理され、 散らかった砂利道は掃き清められていた。 古びたトラックはギアを軋らせ、まばらな小石や土を跳ね散らしながら音を立てて止まった。ヘッドライトが消えバタンとドアが閉まる。 仙道は暗がりに目を凝らした。妙に感覚が鋭くなっていた。 そのときだった。彼女(?)を見たのは。 彼女(?)は暗がりから姿を現し通りを渡ってきた。霧が彼女(?)に道をあけ、この世のものとは思えない雰囲気を与えるのを、 仙道は魔法をかけられたように見つめた。 街灯の光で赤みがかった髪がきらめく。短めの髪はひとつにしばっているもののすでにほつれ、顔にかかっている。 汗でよれた前髪は目にかかる長さだ。汚れた白い袖なしのシャツの上に、裾がボロボロのオーバーオールを着て、茶色い編み上げのワークブーツの下に灰色の靴下をはいている。 女らしい装いとは言えないが、マニア向けとは言えるだろうか。 いや、それ以前に(苦)。 いやまさか。考えられない。 仙道はあまりの衝撃に思わず自分の口を片手で押さえて若干よろめいた。 仙道が暗がりにたたずんでいたせいか、あるいは彼女(?)が鼻歌に熱中していたせいか、彼女(?)が仙道に気づいたのはギリギリになってから。 ほんの1メートル手前まで来てからだった。 ばちぃっとふたりの目が合った。 逸らさず、じっと見つめあう。しばらくいぶかしんだ後、驚いたように彼女の口唇が小さく開く。 「…せん…どう?」 嘘だろ!? 仁王立ちの仙道の全身を雷が突き抜けた。 他人の空似だと思った。いやそれ以外考えられないだろう。 目の前にいるこの女性(?)が、あの『桜木花道』だなんて。 トツゼン桜木(?)が、ぶはっと笑った。 「てめぇハンソクだぞ」 びしぃっと仙道を指さす。 「このオレ様を驚かしやがって」 がはははと笑いながら桜木(?)は仙道の肩をバンバンと叩くと通り過ぎ、食堂に入って行こうとした。 「ま…さ、さくらぎ、おま…まさかモロッコに……」 桜木(?)の歩みと鼻歌がピタッと止まりゆっくりと仙道を振り返る。 顔面は笑顔のままだ。実に明るい。 ばきっ「いてぇっ」 その小さな花道に後頭部を思いっきり拳で殴られ、痛みのあまり仙道はその場にしゃがみこむ。 「バカにすんな。オレはオカマじゃねぇ」 花道はふんっと鼻を鳴らした。 ずかずか食堂に入っていく花道を、「何類だ…」と震えながら凝視する仙道の視線が追っていた。 *** 「な、なよなよの実…???」 「おう、悪魔の実の能力者だ」 番組が違うんじゃ…と、仙道はしばらくブツブツ言っていたが、ウェイトレスに何か注文している花道を店の奥に眺め、 信じられないがこの事実を認めざるを得ない心持になってきた。 『桜木花道』。 アイツのことは今でもよく覚えている。 昔から破天荒なヤツではあったが、今回はさらに常軌を逸している(苦)。 初めて会ったのは高2の春。 仙道の母校である陵南での練習試合の時だった。 遅刻してきた自分にいきなり「オメーはオレが倒す」宣言をして、たちまちに仙道を愉快な気分にさせた他校の後輩。 その練習試合でももちろんそうだが、会うたび毎に花道への好意は増してゆき、「次に会うのが楽しみな相手」は、徐々に 「なぜもっと会えないのか焦れる相手」に変わっていった…。 「!?」 仙道ははっとして顔を上げた。 今、自分はヘンなことを考えた気がする。 そんなバカな。 自分はそういうケはない。それは確信が持てる。男にムラムラなんて、するヤツの気が知れない。今も昔も自分は女が大好きだ。 が… 仙道はやや離れた位置の花道をじっと眺めた。 目が細まる。 壁に寄りかかったくつろいだ姿勢は崩さないが、心の中では驚きの再会を果たした花道への興味が暴れまわっていた。 身体は女? 中身は桜木? 本当に? 信じられないが事実は事実。 知らず知らずのうちに身体は鼓動を加速させ、感覚を研ぎ澄まさせていた。さかりのついた雄牛になった気分に気づき、自らを自嘲する仙道。 まったく。 相手はあの『桜木花道』だぞ? 自分に問いかけるが、答えはおかしなものだった。 …悪くない。 これを待ってたんだ。オレはアイツを待っていた。 妙に力強い確信と期待に自ら戸惑う。それでも身体は先に動いていた。 ウェイトレスに、「この客はオレが引き受ける」と合図して注文された生ビールを運んだ。何気ない歓迎の笑みを浮かべようとしたが、 すでに目はぎらつき、笑みはむしろオオカミのようだと自分でもわかっていた。でもどうしようもなかった。これほど性的に敏感になったのは初めてだ。 息を整える自信もなかった。 「久しぶりだな。元気にしてたか?」 花道が見上げ、それが仙道だと気づくと反射的に浮かべた笑顔を消して憮然とした顔で言った。 「…コーラ追加。大盛りで」 この時間、店内の証明は酒を飲む客のことを考えてやや暗めにしてある。が、花道の面影は昔のままだ。あれがそのままやや女性的にこぶりになっていた。 目の前にしても信じられないが、いずれにせよ仙道は花道の顔を見つめ、今も、そして昔も、自分が花道のどこにこんなに惹かれるのかを知ろうとした。 やや肉感的な口唇は柔らかそう。 じろりと睨みつける瞳は、今でも生き生きと感情的で。 そして身体は…。 あの頃とは別人のようにより小さく、女らしい丸みを帯びている。まあこのだぶだぶの服に包まれていてはよくわからないが、必ず探りだしてやる…。 はっ…と自分の暴走する勢いに気づき苦笑するが、目は花道から逸らせずにいた。 あからさまにジロジロ見ているのに、花道は無視を決め込んでいるようだった。 痛いほどに興味が募る。 *** 「お待たせ」 大ジョッキのコーラを机に置くと花道はゆっくり目を開いた。つやつやした口唇が大あくびをしつぶやいた。 「…ふおぉ、サンキュー」 声はくぐもって低く、ただ眠いだけのはずの表情は妙になまめかしかった。 本当に疲れているだけなのか? これほど興奮していては判断力も鈍る。 花道は冷たいジョッキを口へ運ぶより先に額に当て、ひんやりした感触にため息を洩らした。 「今夜は暑ちぃな」。 (なかはもっと熱いよ) 曇ったジョッキの表面を雫が伝い、花道の小麦色の胸元(!)にポタリと落ちて胸の谷間を下りていった。 思わず息を呑む。 いまいましいほどに、花道の何もかもが自分を刺激する。まるでそのために作りだされたかのように。が、こんな作業着姿でヨレヨレで、 かつ汗くさい相手に興奮させられたのはもちろん初めてだ。 欲望と、これ以上の妄想を抑えようとして仙道は咳払いをした。 「向かいで仕事を?」 花道の顔に、誇らしげで嬉しそうな笑みがパッと浮かんだ。 「おう! オレ様がオーナーだぜ? 何ヶ月もかけて準備してたんだ。今日やっと開業だぜ」 桜木がオーナー。今後のご近所。 飛び上がりたいほどに嬉しい気持ちと、舌打ちしたくなるほど悔やまれる気持ち。 これまでの自分の女性遍歴を振り返る。 どんな女でも、常に近くにいれば面倒になりかねない。近さのせいで終わらせにくいことをはじめるのは、どう考えてもバカげている。 用心しなくては。 起こりそうな問題をじっくり考えて… 花道は2本の指でジョッキから角氷をすくいしゃぶっていた。仙道はふるふる震えて思わず息を吸い込んだ。 (『用心』なんか知ったことか!) プラトニックなかたちでもなんでもいい。とにかく花道に触れたくてたまらなかった。 「よろしくな。桜木。オレはこのホテルのオーナーだ」 仙道は「あの日」と同じように手を差し出した。 花道は差し出された手を見つめ、仙道を見つめた。 「そーなんか。ほえー。いいトコだなここぁ…」 オーバーオールの太腿のところに指をこすりつけて水気を拭ってから仙道の手を握り、男らしく2度、ぶんぶんと上下に振った。 「てめーも元気そうだな」 *** 桜木花道。 あの頃とは違い、その手は小さく華奢でやわらかだった。女性の手。温かい。そして少し荒れている。事業を興すには若すぎる気もするが、 花道が太陽の下で泥にまみれて働くのは似合ってる気もした。いやいやながら仙道は手を放した。 「遅くまで出かけてたんだな」 「おう」 深い満足感のにじむ表情。なぜか、よく女がつけている香水に劣らないくらい、花道の匂いにそそられた。 「岬向こうのアパートの仕事だ」 「月明かりの下で?」 花道は肩をすくめた。 袖なしシャツの下の肩はおんならしく、それでいてどこを見てもしなやかな筋肉がついている。そう思うと、仙道はその裸の身体を想像して眩暈がした。 今の花道の体型に男っぽいところはひとつもなかったが、背の低さ(といっても160くらいだが)にもかかわらず、か弱さを感じさせるところはまったくなかった。 花道は時間をかけてコーラを飲んでから、疲れもあらわに背もたれに寄りかかった。その態度には気取った様子もなければ気を引くそぶりも感じられない。 仙道は、その花道の変わらぬ自然なふるまいに好感を持った。 「朝早くからシゴトに掛かれるようにどっさり荷物を運んだからな。あんなでけぇシゴトがもらえたのはホントに運がよかっただけだ。フイにしたくねぇ」 仙道の表情を見て、花道が鼻に皺をよせくしゃっといたずらっ子のように笑った。 …か…(かわいい)… 軽くめまいを覚える。 花道に笑顔を向けられたのは初めてな気がする。こんなとびきりの笑顔。本当にかわいい。 「すっかり舞い上がっちまってよ」 花道は白状した。 「どーせ眠れねぇってわかってたしよ。ちっとくれーならまだできんだろっ…て、キリなくなっちまって気がついたらよ」 不眠症の解決法なら、いつだってオレが仕事なんかよりずっとマシなものを提供できるのに…とは無論まだ口にはしない。 こんなふうにはじめて『敵』『敵』と騒がずにおしゃべりしてくれているとはいえ、花道は仙道に言い寄っているわけではないのだ。 微妙な雰囲気も『いらっしゃい』のサインもまったくない。親しげだけれど親しいわけじゃない。 この焦燥感。 仙道は即興で思いついた、自己紹介より先に進む唯一の方法にトライしていた。 「桜木。腹減ってんじゃないか? 何か食べるもの、いらない?」 花道の瞳が仙道をきょとんと見返した。 …か、かわいい… (心臓に悪い)と思いながらも、力なく外を指差す花道を見つめる。 「食いモンは11時で終わりって、たしかソトに…」 「ああ、厨房は火を落としたしコックも帰ったけど、でもご近所さんだし、特別に」 できれば他の面でも特別になりたいのだが。 驚いたように花道がのけぞる。 「助かるぜ」 「でも…」 声のトーンをやや落とし、仙道はとっておきの笑顔を浮かべた。 「厨房で食べてくれる? でないと他の客まで注文しはじめる」 ここで逃がすわけにはいかない。内心必死だった。それを悟られぬよう、いつも女心をくすぐりクスクス笑わせる笑顔をしてみせる。 「1時には閉店だし。延びるのはやだしね」 しかし花道は心をくすぐられもしなければクスクス笑いたくもならなかったらしい。それどころか仙道の笑顔にさえ気づいていなかったらしい。 口唇をきゅっとむすび、妙に神妙な顔つきでじっと仙道を見つめた。 「食えんならなんでもいい。腹ぁ減ったし、帰って料理する気力もねぇ」 「喜んでサービスするよ」 必要とあらばどんな"サービス"でも。 「けど」 花道がきりりと言った。 「…オレはメシしかいらねぇからな」 ハッキリ釘をさされて仙道はぎくりとした。「え?」 「オ、オレはそーゆーんじゃねぇからな」 なに? 「テ、テメーみてーのにはオンナノヒトがそ、そ、そーゆー気で、次から次へと寄ってくんのかもしんねーけど…」 これは。 もしかして。 …警戒されてる? 不満そうに、やや小声で口ごもるように言った花道を仙道は見つめていた。 仙道のあからさまな"その気"に、全く気づいていないのかと思っていた。それともこれだけあからさまなのだから気づいて当然か。 嬉しいような、嬉しくないような。 やはり嬉しいような。 昔はまったくと言っていいほど、ちっともオレの気持ちに気づこうともしなかったからな。 …え? 不意に沸いて出た妙な追憶は横に置いて、とりあえずこの場は取り繕わねばならない。が、別に手間はかからない。仙道は慣れたものだった。 仙道は花道にもわかるように、ふう…と大きめに苦笑のため息をついてみせた。 「…桜木、最近鏡見た?」 「へ?」 「汗でヨレヨレだよ?」 と花道を眺めまわす。手を伸ばして、赤い前髪をちょんとつつく。 「それに泥だらけ」 花道の爪にはぎっちり土が入り込んでいた。仙道はあえて口にはしなかったがソレを眺めてし〜んとしてみせる。ぱっと花道が手をテーブル下に隠す。 「つ、爪に詰まった土は湯につけねぇと取れねんだよ。手は洗ったからな。ちゃんと!」 コドモのように懸命に弁解してわめきだした。 …か、かわいい… 気合を入れて続ける。 「…確かに清潔かもしれない、よくわからないけど。でもね、オレにもさすがに今のおまえは『ベッドに連れ込みたいコ』って感じには見えないから、 オレたちはお互い安全ってことじゃない?」 花道の顔がみるみる赤くなり、悔しそうにうつむいた。自分が『思い上がった勘違い』をしたことを恥じているようだ。 「…わりぃ」 別に全然悪くない。もっと気をつけなきゃダメなくらいだ桜木は。(自分以外の男には。) 仙道が笑いをかみ殺すように耳元で囁いた。 「桜木はかわいいよ」 途端むっと顔をあげてキッと花道がにらみつける。 …ホ、ホントにかわいい… 「…バ、バカにしやがって。あ、あやまったじゃねぇか!」 顔を真っ赤にしたまま悔しそうに身を震わせる。 …まづい…鼻血が出そうだ… 「バカになんてしてない。安心してくれればそれでいいんだ。食うだろ? メシ」 「…さっさと案内しろ」 ふてくされた口唇までもがすさまじいほどにかわいい…。 見つめていたい衝動を必死に押し殺して、仙道は花道を厨房(二人きりになれる場所)に招き入れることに成功した。 *** 仙道は、ついてくる花道の存在を激しく意識していた。物理的には近く、心理的には遠く、性的には自分に全く無関心な花道を。 脇へよけて花道を先に通してから、ドアをバタンと閉じるにまかせた。食堂のがやがやいう音がドア越しに聞こえてくるが、 ようやく多少なりともプライバシーを手に入れた。 壁のスイッチを入れるとまぶしい蛍光灯がぱっとついて厨房を照らした。今夜初めて、ようやく明かりの下で花道を見ることができた。 見事な赤い髪。 あの頃と変わらない瞳。 「何がいい? あるのはサブ・サンドにパイに、あとスープと…」 「全部食う。ホントにいいなら」 仙道は言われるまま、すぐに食べられそうなものをすべて花道の前に並べようと準備した。 「そこに座って待ってて」 サンドウィッチの包みを外しながら、呼吸を整え態勢を立て直す。厨房を手伝ったことは何度もあるし、ホテルと食堂の仕事は全部経験していた。 忙しくしているのが好きなのだ。 スープを温め、サンドウィッチを大きなまな板に載せ半分に切って飾り気のない皿に載せる。カウンター上の広口瓶からピクルスをフォークで取り出し、 大きな密閉容器に入っているチップスを添えると花道の方をふり向いた――すると花道がじっと見つめていた。自分の尻を。 え? 花道とバチッと目が合い、途端花道の顔が火を噴いた。大慌てであからさまにぷいっと顔を背けしかめっ面を取り繕っているが、 ゆでダコのように真っ赤になって舌打ちしている。 …おやおや。 仙道は花道が自分のどこを見ていたか指摘するようなことはしなかったが、花道も自分に無関心ではなかったことがわかってホッとした。 何も気づかなかったかのようにあえて作業を続けたのは、花道にその気があればまた盗み見できるようにと思ってのことだ。 だがもう一度振り返った時には、花道は全くの無表情でそっぽを向いており、先ほども自分を品定めしていたのかどうかは正直わからなかった。 花道は厨房の大きな銀のテーブルに向かい腰を降ろしていた。両脚を前に投げ出し、片手で頬杖をついて、前髪をプッと吹き上げた。 一瞬くたびれた、というように目を閉じた花道は、ひどく頼りなく見えた。 そのぐったりした姿を、骨まで刻まれた疲労を見つめ、それからかぶりを振る。 こっちはこんなにもムラムラしているが、あっちは今にも倒れそうだ。 「ホントにバテてるんだな」 花道が顔を上げた。 「おぅ、でも悪ぃ気分じゃねぇ」 仙道が差し出した皿を受け取り、サンドウィッチにかぶりつく。 「泥だらけになるのが好きなんだ?」 花道の鼻に皺が寄った。サンドウィッチをほうばったまま答える。 「せせこましいカイシャで働くよかずっとマシだ」 「わかる」 しゃべり続けてほしかった。ただ、その声を聞いていたいがために。花道の喉の奥から響く声は、猫が喉を鳴らす音を連想させた。 「でも、自分のボスでいるのも楽じゃないよな」 花道がふんと笑った。 「まーな。けどオレァ自分のために働いてんだ。他の誰かのためじゃねぇ。だから別にヘーキだ」 全く同感だったから仙道はうなずいた。 脈打つ欲望だけではない。 花道には妙な親近感も覚える。昔も。今も。そして期待はますます高まる。 身体は野生に目覚めたようにこわばり、血液は熱くどくどくと全身をめぐっている。神経が研ぎ澄まされる。気分がいい。 花道が欲しかった。深く、激しく、濃く。 だがゆっくり話もしたかった。共通点がたくさんあるが相違点もたくさんある。そのすべてが愛おしい。 …おかしい。 そろそろ軌道修正しなければ。 オレは飢え死にしやしないから、と自分を安心させながら花道がサンドウィッチを半分たいらげるまで待った。その間花道に全神経を集中させていた。 仙道が見つめていることに気づいた花道は、視線の奥にある熱っぽさを感知したのか、サンドウィッチをくわえたまま目をぱちくりさせた。 そのまま自分の身体を見下ろし、どこもおかしくないことを確認すると後ろを振り返った。それから向き直ると眉根を寄せて仙道を見た。 「ふぁんだ?」 仙道はやや申し訳なさそうに微笑した。 「オレ、嘘ついたんだ」 「ふぉーふぁ」どうでもいいと言わんばかりに花道は旺盛な食欲を発揮し続けた。「ふぁにふぇ?」 仙道はもうひとつの椅子を、花道のややそばに引き寄せると逆向きにしてまたがるように座った。背もたれの上で腕を交差させ、そこにあごを乗せて花道を見つめる。 日光をたっぷり浴びたつやつやの肌。 感情をあらわにするこどものような瞳。 『オオカミ』のような気分だと思いながらそっと答えた。 「おまえが…欲しいってこと」 花道の動きがやんだ。 噛むのさえ止まった。 いきなりむせて口の中のものが飛び出した。仙道は手を伸ばして背中をたたいてやろうとしたが花道は目をむいて身を引いた。 食べかけのサンドウィッチが皿に落ち、ぱかりと口を開いた。 花道はごくりと唾を呑み、呼吸を整えてからつっかえつっかえ言った。 「ど…、ど…、どーゆうイミだ???」 仙道にとっては予想通りの反応だったが、好ましくもなかった。 「オレが…さっき言ったことの一部は本音だ。いまのおまえは、ちょっとこう、……自然児すぎる」 花道の方は見ないまま、仙道がふ、と横顔で微笑む。 それから花道の方に向き、だが花道とは目を合わせぬままに、今度は考えていることをハッキリ顔に表して、かすれ声で囁いた。 「でも、おまえのにおいがわかる」 花道はぎょっとした顔になった。愛おしむように、懐かしむように微笑む。 「いいにおいだ。温かくてやわらかくて。あの頃もこんなだったかな…それになんだか甘い」 花道の顔に血が上り、みるみるうちに真っ赤になった。 あからさまにばっと花道は仙道から目をそらし、落ちたサンドウィッチを見て、それからがらんとした厨房内を見回した。 ふたりきりだということに、いまようやく気づいたようだった。 花道が逃げ出そうとしているのを察知して仙道が立ち上がると、花道は椅子の背に背中を押し当て警戒の目で仙道を見つめた。 おびえている。 胸が締め付けられる。が、仙道はやさしく笑った。 「…心配するな。おまえの気持ちははっきり聞いた。オレには…興味がないんだろ?」 仙道の言葉に安心した、とは到底思えない顔つきだった。 襲われるとでも思ってるのか? 苦笑して仙道は腰に手を当てると花道を見下ろした。どう言ったものか困ったが、正直に言うしかなさそうだ。 「じつは、ちょうど挑戦しがいのあるものを探していたんだ」 さらに声を落とす。少しおどけたように。 「どうなったと思う?」 花道は皿に残った食べ物を未練たらしく見ていた。 「どうなったんだよ」 仙道は囁いた。「おまえを見つけた」 *** 花道は死ぬほど空腹だったし、晩飯の申し出は実にありがたいものだった。なのにコイツのせいで腹いっぱいになる前に帰らざるを得なくなった。 ヤツの立っている位置は近すぎるがまだどうにか耐えられる。不満と後悔のため息が漏れた。 サンドウィッチはおいしかったし、センドーは親切だった。それはいまも昔も変わらない。一緒にいるのもいやじゃなかった。それもいまも昔も。なのに。 「…わかった」 「わかったって何が?」 花道は天を仰いだ。 『仙道彰』を表現する言葉は山ほどある。が、全てが褒め言葉なわけではない。しかし、"鈍い"は違う。花道が言いたいことはちゃんとわかったはずだ。 ただ、そんな女? に慣れてないだけ。ヤツと一緒にいられる光栄に、すべてのオンナが飛び上がって喜ぶと思っているんだろう。 「…ちゃんと言っただろ」 「ちゃんと?」 仙道はさっきまでより警戒しているように見えた。なにか決意のようなものが瞳の色をさらに深める。 仙道の瞳。 豊かなまつげは女のように長いが、女っぽいところはどこにもない。 さっき食堂から厨房に歩いてくる時、ソコにいたすべてのオンナが、客もウェイトレスも全員が、仙道を目で追っていたのに花道も気づいた。 よりどりみどりなハズだ。 なんでわざわざオレだ。 オレが"挑戦しがいがある"からか? はっ。バカにしやがって。 皿からチップスを鷲掴むと大口開けて放り込む。そのまま向きを変えて出て行こうとした。 「メシしかいらねぇって」 仙道を見据える。 「オレは焦らしてるとか、そんなんじゃねぇ」 腕を掴まれ引き止められた。仙道の手は熱かった。男らしく大きいが掴み方はやさしい。仙道は首を傾け、じっと花道を見つめた。 「なるほど。臆病なタイプじゃないね。いまも昔も」 仙道は身長190ちょっと。 すらりとしているがたくましくて、けれど色は比較的白い。スポーツマンらしい体型に脚は長く前腕は筋肉質、恐ろしくそそられるケツをしていた。 …なんだそりゃ。 いままで男のケツなんか気にしたこともない。けれどそれに気づいたことに花道は我ながら驚いていた。 だが、顔や体つきの話だけではないのだ。仙道には昔から、人をぞくぞくさせるような男としての魅力があった。人を惹きつけるウィットと、 オンナなら無視できない意識の注ぎ方。いまや変り種の花道でさえ無視できないような。 …だが天才にそんなヒマはないのだ。 花道はじっと腕を掴んでいる手を見つめ、その手が離れたところで仙道と目を合わせた。 「オレが臆病なハズねぇだろう」 いまも昔も。 「けどバカでもねぇ。テメェは"今夜の相手"を探してたんだろ? オレにゃてめぇをかわしてるヒマもねぇ。つきまとっても時間のムダだ」 仙道は胸の前で腕を組み、テーブルの端に寄りかかった。腹は平らで腰は細い。そしてジッパーの下には…。 花道は一瞬すごい形相をしたかと思うと、思い切り自分の頭部を厨房の壁にガンガンぶつけていた。 「オレの言い方があいまいだったかな。無理強いするつもりはないよ」 花道は視線を仙道の顔に戻した。 「…オレの望みはわかったよね? でも無理強いされるかもしれないなんて心配はいっさい必要ない。わかった?」 もちろん、仙道に肉体的な危害を加えられるとは花道も思ってはいない。が、しかし「ハイそうですか」という気にもさらさらなれない。 花道は壁に両手をついたまま力なく言った。 「ダ…ダマされねぇぞ」 「いいじゃないか桜木。座って。サンドウィッチを食べて。もっとおしゃべりしよう。オレが無害な男だってわかるから」 花道が心からの疑いの目を向けると、仙道は楽しそうに笑った。 コイツを無害と呼ぶなんてちゃんちゃらオカシイ。 全哺乳類のメスにとって、テメーは確実に100%有害なハズだ。 「桜木。オレのホテルはこれでも評判がいいんだよ。この辺の人はみんなオレを知ってる。ちょっとでも信用を落とすようなことをしたら、 うちには客が来なくなる。だろ?」 再び間抜けな気分にさせられた。これではまるで自分がひとりで自意識過剰な反応をしているみたいではないか。さっきのように。 食堂にはまだ人がいる。 叫べば聞こえる距離に。 随分長い間こんな状況にあってなかったから対処の仕方も忘れてしまった。 「うるさいこと言ったりしないから、ほんとに。な? いてくれ。頼む」 センドーの声って…。 なんだろうこれは。 なんなんだオレは(怒)。 だけどこんな声で頼まれれば、きっとどんなオンナでも、あっさりパンツまで脱いじまうんだろう…。 なぬ? 自分で勝手に想像して勝手に「ぶっ」と吹き出した。 乱れた呼吸を整えてから花道はため息をついた。 近所同士なのだ。 だからこれからも仙道のことは避けては通れない。 皿をチラリと見た。食べ物が今でも花道を待っている。分厚いサンドウィッチが花道の名を呼んでいる。 静まり返った厨房に花道の腹の音が響き渡った。仙道が笑いを噛み殺す。 「来いよ、桜木。ご近所らしく仲良くしよう」 からかうような笑み。「食べさせてあげるから」 「て…てめーがオレ様をユーワクするつもりだってわかってるのに、オトナシク食べるわけねーだろ」 仙道の瞳がおもしろそうに花道を見つめた。 「誘惑? たしかに誘惑するつもりだ。オレがどんなにいいヤツか証明して、オレに誘惑されるのがどんなにいい気分かわからせたいね。 けど強引にはしない。約束する。それにオレの関心には前もって警告してくれたし、おまえはまったく関心ないわけだから、ほら。な? 問題ないってことだろう?」 問題なんかアリアリだ。 仙道にあんなことを打ち明けられ、その熱い瞳にじっと見つめられるだけで、すでに花道は心臓がおかしくなりそうなのだ。だが… 再び腹が鳴り、花道に変わって決断してくれた。 「…いいだろう」 仙道の手から椅子を奪い、どすんと腰を下ろした。 「食うぞ。けどちょっとでもヘンなまねしやがったらぶっ飛ばして出て行くかんな」 不機嫌極まりない花道の態度に、仙道は冗談を聞いたかのように笑った。「了解」 *** 「なんで造園業?」 答える前にもう一口がぶりとサンドウィッチに噛み付いた。震えるくらいお腹が空いていた。 いや、もしかしたら、震えているのは、花道を『欲しい』だなどとのたまった仙道なんかに、たったいま降伏したばかりだからかもしれない。 なぬ!? そんなバカな。 よく噛んでから飲み込んだ。 シゴトのことを話していればおかしな話にはならないだろう。 ちょっと考えて、造園業者になりたいと思ったすべての理由を思い出そうとした。 「うまい空気。肉体労働。自然。泥団子。オレ様には園芸の才能があるらしい。色や組み合わせを見る目があるのだ」 仙道がクスッと笑った。さぞやカラフルなのだろう。楽しい。口には出さないが。 「昔からやりたかったのか?」 「いんや」 花道の夢は幼い頃からころころ変わった。一時は『バスケットマンになる』、なんて夢もあった。 「ちっと近所のジーサンんとこで働いてたらよ。ジーサンがアッサリくたばっちまって、後は全部オレに任せる、なんてよ」 花道が少しさびしそうな顔をした。 きっとその『ジーサン』にもかわいがられたのだろう。 「オトコでもオンナでも、オレ様以上の力持ちはいねぇって。だからオレなら安心だってジーサンが…」 仙道はやさしく笑っていた。 確かに『桜木花道』だ。性別は違っても。 仙道があんまりにもナニカの篭ったまなざしで見つめたまま何も言わないものだから、花道はサンドウィッチを口にくわえたままモゴモゴとなじった。 「…て、て、てめーのことも、ちっとはしゃべれよな」 仙道がしゃべればこっちは食べられる。それにおかしなことを口走る心配もない。 「いいよ」 仙道は足首で別の椅子を引っ掛けて引き寄せると、その上に両脚を乗せた。 「オレがここに来た時は、ここはホントにひどい有様でね。今にも崩れそうで汚くて、毎晩のように喧嘩があった。 いまでもたまに騒ぎは起こるけど、あの頃よりかはずっとましだ」 「てめーはサワギに参加しねぇのか?」 仙道の目がいたずらっぽく輝いた。 「必要なら」 「オレも混ざりてぇ」 そりゃ修繕代が大変だ、と仙道は想像して苦笑した。 「夏に使えるようにプールを修理して、娯楽室も付け足した。ビリヤードとかコインゲームとか。軌道に乗せて利益を上げるのはそれなりに大変だったからね。 けんか好きな酔っ払いに台無しにされちゃたまらない」 「…苦労したな」 花道の妙にしんみょうなセリフがおかしくて軽く吹き出す。 「ああ、でもたいていは楽しいことばかりだよ」 「てめーは『挑戦好き』だからな」 「桜木こそ」 「………」 こわばった表情で花道がギュンと顔を逸らした。 …なんだこの『わかりあってます』みたいな雰囲気は。 仙道は続けた。 「新しいスタッフが必要だったんだけど、まずはコックからにした。うちの実家は金持ち向けのレストランを経営してて、まあ他にもいろいろやってんだけど、 とにかく客にうまいメシを出すのが大事だって教えてくれたわけ。福ちゃんは一見さえないヤツだけど厨房の中では奇跡だぜ? 客はいつも料理の質にたまげてる」 「コレもうめぇしな」 花道が自分の前の皿を指差す。 「いつも食ってるもんとはなんか違う。何がチガウんだ?」 仙道が嬉しそうに笑った。 「なにやら特別らしいよ。レシピは極秘でオレにも教えてくれないけど。今度モーニングでドーナツとクロワッサンでなんかするらしい」 「オレぁドーナツなら100個は食える」 おかしな自信で花道が断言した。 抜け目なく、仙道がさりげない計算された表情を向けた。 「あ、そう? じゃあ朝寄れば? またごちそうするから」 「そこまで『ご近所づきあい』か?」 仙道が余裕の笑みで笑った。 「女心を射止めるなら、まず胃袋から、ってね」 花道がソースのついた人差し指と親指を順番に舐めた。 「狙いは『心』じゃねんだろが」 けっといわんばかりの花道のセリフに仙道が笑った。その笑いでさえ魅力的だった。 「…まあね」 花道を横目で見る。 「だけどもし食い物で心を釣れたら、身体もついてくるかもしれない」 「エサじゃねえか」 ふっと仙道が笑う。そのまなざし。 「近道を探してるだけ。オレは…我慢を知らないから」 その口調。 椅子に座ってるのに花道はそのままふううう…っと床に倒れそうな気がした。 なんなんだこれは。 なんなんだオレは。 コイツは昔からこんな喋り方をするヤツだったか? …っていうかオレの心臓がおかしい。 動悸がする。 息切れもする。 不整脈か? まさかこいつは、オレ様がこんなナリになったからって、それだけでこれほどバリバリ口説きモードで来とるんか? …ん? だからなんでオレだ(怒)。 「…センドー。オレは確かにオンナの身体になっちまったが、ドーナツだけじゃあオチねぇぞ」 「お、ますます挑みがいがあるな」 花道はがっくりうなだれた。 どこまで本気なんだコイツは。 実は昔からそうだった。花道には仙道が言うことやること、どこまで本気でどこまでジョーダンなのか、さっぱりわからないところがあった。 いや、やはり、こいつは口裏あわせがうまいのだろう。イチイチ本気にしていては身が持たん。 空腹が満たされると疲れがどっとこみ上げてきた。立ち上がって伸びをした。 「東京の野郎はみんなそんなに手が早ぇんだな」 仙道も立ち上がった。今では花道よりずっと背が高くたくましい。少々不満そうに言った。 「オレは忍耐強さの例を示したのに。とにかくこれで…」 自分の手首の腕時計をちらりと見て 「ほぼ四十分、おまえを知った。そして激しい欲望にもかかわらず自分を抑えた。」 花道はぶはっと吹き出した。 何度目だコレ。 もうさすがに笑えてきた。 ぜってーワザとだ。やっぱりコイツはオレをからかってやがるんだ。 「じゃーな。メシ助かった。福ちゃんにヨロシク」 「桜木」 そそくさと帰ろうとする花道の行く手を仙道が阻んだ。 「明日、ドーナツ。いいね?」 花道は仙道を見上げた。 近い。 有無を言わせない瞳だ。熱い。表情は笑ってるのに。 …いいのか? 花道がなんとか視線を逸らす。 「…8時にはシゴトはじめなきゃなんねーから…な」 「食堂は開いてるよ。トラック運転手は朝が早いからね」 それでもためらわれた。 「…桜木?」 さらにかがんで顔を覗き込む。 「寄ってけよ。コーヒーも用意しとくから」 こーひー… そういや何の買い置きもしていない。あの部屋で明日朝口にできるものといったら……水だけだ…。でも… 「…わかった」 するりと身体を翻し、この場にぐずぐずするさらなる理由を見つけないうちに出て行こうとした。 「待って」 ぱっと仙道が花道の手をつかむ。花道が震える瞳で仙道を見上げた。「送るよ」 ** 恐ろしいことに今では完全に女と化している桜木花道だが、男の気を引くことを考える時間や意志をもったことはなかった。 それでも女になりたてでまだ若かった頃、警戒心のかけらもなかった花道は、よくない男にひっかかったことがあった。 その男への憎しみはもちろんだが、それ以上に許せなかったのは自分の無知さ・非力さだった。 以来今でも花道には、男の気を引くことに興味がない。自分がまだ男だった頃、女の子に抱いていた思いは、そんなに生々しいものではなかったのだ。 仙道が花道を見た。 「どうした?」 ドアを抜けてむしむしする夜気の中へ踏み出した。 「…今夜は満月なんかな。雲ばっかしで見えやしねぇけど」 花道が足を止めると、仙道も止まった。 「なんでそんなことを?」 「べつに」 いつもと違う気分だと説明するつもりはなかった。 落ち着かないのだ。 テメーのせいで。 花道は非常に不愉快そうな顔をしていた。 「じゃあな」 仙道がじっと見下ろした。不可解な表情を浮かべていた。どういうわけか、動いたようには見えないのにぐぐっと花道のそばへきたように思えた。 「トラックまで送るよ」 近い。 とにかく近い。仙道は異様に間合いが近い。なのに悔しいほど嫌悪感がわかない。逆に胸が高鳴るだけ。これでは心臓の音まで聞かれてしまいそうだ。 聞かれたくない。 「トラックなんて乗らねぇよ」 つぶやく花道に仙道が不思議そうな顔をする。 「どうやってうちへ帰るんだ?」 花道は駐車場の向こうの闇に目を向けた。新しい家がある方向に。 「オレんちは…あそこだ」 「…どこ?」 仙道も向きを変え、暗がりに目を凝らした。 花道の駐車場の投光照明灯はお世辞にも明るいとは言えなかった。 「あの…小屋のこと? 花やなんかをしまっておくとこだと思ってた」 眉をひそめて花道の方に向き直る。 「…あそこに住めるの?」 それは花道自身も当初の感想だったから、当然なのだが気分は害した。実際、もともとの持ち主はその小屋を、単に従業員の便宜を考えてこしらえたらしく、 住居とは思っていなかった。しかし小さいながらもちゃんと使えるキッチンがあり、電話回線に簡易コンロ、それに小型冷蔵庫もついていた。 バスルームにはシャワー室があるし、さらに二部屋もあって、そこはかつて物置に使われていたが、これからは花道のリビング兼事務所とベッドルームになる。 荷ほどきさえ終わればの話だが。 「ちっ…ちっせぇけど小屋じゃねぇ。実を言うと悪くねんだ、落ち着くし。それにヒトリ暮らしだから部屋はそんなにいらねぇし」 必死だ。 納得しかねる様子で仙道は首を振った。 「じゃあ玄関まで送ってく」 「いいって」 言うと同時に近くで稲妻が光り、二人とも飛び上がった。続いてとどろいた雷鳴は地面を震わせるほど大きかった。 「…ついにきやがったか」 空を睨みつける花道の腕を仙道が取った。 「ほら、早く行かないとずぶ濡れになる」 それでもなお花道がためらうと仙道はため息をついた。 「わかったよ。好きにして。おまえが無事に家に帰ったのを確かめるだけにするから」 「ア、アトつけんのか」 「ストーカーみたいに言うな」 花道の額をちょんとつつく。 「そこまで切羽詰ってない。おふくろから紳士に育てられただけ」 …しんし? 想像もつかず渋い顔をする花道の鼻のアタマに大きな雨粒が当たった。かと思うまもなく、次から次へと落ち始め、そこらじゅうの地面を打ちはじめた。 どしゃ降りにつかまるのはまっぴらだ。 花道はずんずんと歩き出した。センドーはセンドーの好きにすりゃあいい。 本格的に降ってきたので駆け足になった。仙道の走る足音が後ろから聞こえた。紳士的な思いやりはどしゃ降りにも負けないらしい。 家の前まで来ると、玄関口の小さなひさしが頭上をかろうじて守ってくれた。仙道が雨をよけようとして花道にくっついてきた。 ふたりともすでにずぶ濡れで息を切らしていた。 花道はポケットをごそごそやってやっと鍵を見つけ、ドアを開けると手探りで電気のスイッチをつけた。薄暗い裸電球がともり、小さなポーチを照らした。 少しほっとして仙道の方を振りかえ… やや息を弾ませたままの仙道。 黒いまつげは雨に濡れて鋭くとがり、シャツは胸と肩と二の腕に張りついている。花道の表情が悲惨に固まった。 (水もしたたるなんとやら…?) 好奇心を隠そうともしないで、仙道がぐっと花道の方へ身体を傾けてきた。口から心臓が飛び出しそうになる。が、ヤツは家の中をのぞこうとしただけだった。 どこもかしこも箱だらけで、とりあえず大きな窓の下に、壁につけて置いた、まだ整えていないベッドもほとんど見えないくらいだった。 配置が済んだのはそのベッドだけだった。 しばらくして仙道の視線が花道に戻ってきた。 「落ち着く、だったっけ?」 「…じゃあな、センドー」 なんだコレは。 悔しいことに苦しそうな声しか出ない。 もうこれ以上耐えられない。 近すぎる。 すっぽりと花道の視界を覆ってしまうその身体。 ヤツのにおいがする。官能的で男くさいにおい。 身体の放つ熱気と活力を感じる。思わず女なら誰でもが熱くなるような。 もちろん仙道は気がついた。 花道がようやくスイッチの入ったその姿を仙道にさらしていた。大抵のオンナは仙道がその気になれば、すぐにでもこういう状態になるが (ひどい時には一瞬でこうなる)、この花道はどんなノックにも応えないかと思われた。いまのいままで。 うつむき震える花道の横顔。 短い吐息。 火照った首筋。 誘うように耳まで赤い。 「…まいったな」 低く深い声だった。 こちらは花道が欲しくてたまらないのだ。 ただでさえ爆発しそうなのに、その鮮やかな変化を目にして、震いつきたい衝動をなんとか堪えるのが精一杯だった。 濡れた赤い髪を、震える花道の頬から払ったところで手が止まった。肌に触れる指先は温かかった。 「桜木…おまえにキスしたい」 雨が花道の鼻の先からぽたりと落ちた。見上げる花道の濡れた瞳が、仙道の熱い瞳にぶつかり力なく揺れた。 「自分でもよくわからない」 仙道が続けた。花道と同じくらい戸惑っているような声だった。 「おまえのことなんて…ほとんど知らないし、おまえはオレを誘ってるわけじゃない、ていうか、すごく愛想がいいわけでもない、昔も、今も。なのに…」 痛みを堪えるような瞳の表情とそのセリフに、膝ががくがくする。 「なのにどうしようもなく惹かれる」 コイツの言うのは全部口からでまかせだと思った。 そう思いたかった。 けど違う。 コイツは嘘を言っているわけではない。感じたままを語っている。もはや花道にもそれがわかる。わかりたくないのに。 花道はごくりと唾を呑んだ。 震える吐息をつき、眉を寄せ、まぶたを半分おろし、懸命に自分の中の熱に対抗しようと声をしぼりだす。 「だ、…ダメだ」 「たった1回のキスが?」 その声は、雨を蒸気に変えそうなくらい熱かった。瞳に切なさをにじませ仙道が近づいてきた。追い詰められた花道が壁にへばりつく。 「チュッて。ほんの一瞬」 さらに近づく。 「気づかないうちに終わってるから」 「だ…」 言い逃れようとする花道の口唇に口唇が重なった。 花道の四肢におののきが走る。 花道は身動きもできず息を詰めていた。敏感になった身体が火照った。 「…桜木?」 ぼうっとしていた花道がまばたきすると、至近距離の仙道の顔が徐々にくっきりと見えてきた。 なぬ? 本当に。 気づかないうちに終わっていた…。 「んん?」 壁についていた腕が、花道を抱きしめたいように動いたがぎりぎりで堪えた。花道の顔のすぐ横に頬をすり寄せ、何度か湿った吐息をつくと、 ようやくややつらそうに耳打ちした。 「…また明日の朝」 そう言うと仙道は行ってしまった。 叩きつける雨にも、髪を乱す風にもお構いなしのように見えた。かすかな口笛さえ聞こえた気がした。 花道はふらふらと家に入り、ばたんとドアを閉めた。 阿呆、阿呆、阿呆。 花道はずるずるとその場に力なくしゃがみこんでいた。 つづく
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