エロイカより愛をこめすぎて 05 act.05 限られた春 The Limited Embracement From Eroica with too much Love
父上に 紹介しよう あの馬鹿を 少佐の誕生日。 その重大な情報はそうやすやすと手に入ったものではない。 むしろギリギリセーフで思いがけず入手した。 知ったのはその前日だった。 なんでそんなことまで教えてもらえないのかと腹が立ったが、悠長に腹を立てている時間もなかった。 とりあえず花とケーキを持参して、伯爵はボンの少佐宅に向かった。 どちらも少佐のキライなものだとわかった上でである(苦)。 『年の数だけ』と思っていたが、実は正確には年齢もわからない。 考えれば考えるほど、ありとあらゆることに腹が立ってきそうなので、「今日はお祝いの日」と何度も唱えて自分を抑え、 笑顔を整え、何度か深呼吸を繰り返してから玄関のチャイムを押した。 玄関を開けたのは少佐だった。いきなりのご登場に驚いた。 「執事は?」 「外出中だ」 入れ、と促す。手に書類を持っている。 休暇…ではないんだな。 「仕事中?」 「もう終わる」 通された居間には書類の山。 珍しくお茶もセルフサービスのよう。 「今日は人が少ないんだな」 「野暮用だ。好きに待っとれ」 伯爵は言われたとおり、目の前の恋する男の仕事ぶりを眺めて過ごすことにした。 灰皿に山盛りのタバコの吸殻。 「お疲れのようだな。ちゃんと寝てるのか?」 「話しかけるな。大人しく待っとれ。五分で終わらせる」 (了解、キャプテン) と、おどけたように伯爵は口パクで了承した。 *** 少佐は本当に五分で仕事を終わらせた。 「じゃあ庭でお茶しよう」と伯爵が言いだした。 実は前から目を付けていたのだが、庭の隅、日当たりのいい場所に、 ワンセットの木製の机と長椅子があるのを知っている。 今日のこの天気だ。木陰が気持ちいいだろう。 ピクニック気分で楽しげにお茶の用意をした。遅れて来た少佐が、タバコを吸いながらそんな伯爵を眺めている。 なんだろう。今日はいつになく寡黙だ。 おかしい。 間違いなく『誕生日』…のはずなんだが。 もちろん、少佐が今更そんなもので浮かれるとは伯爵も思っていないが、「誕生日おめでとう!」という雰囲気でもないし (本人が忘れている可能性は…あるか???)、「どうして教えてくれなかったんだ!」と責めたてられる空気でもない。 とりあえず伯爵は少佐の分のコーヒーを注いでテーブルの向い側に置いた。小さめに切ったケーキの隣に。 「私の半分だよ。甘いものは疲れが取れるし…一口ぐらい召し上がれ」と一応勧めて、伯爵は「いただきま〜す」と さっさと一人でケーキを食べ始めた。 「ん! そんなに甘くないよここのケーキは。上品な甘さだ。うん、実においしい」 「だったらそっちもおまえが食え。切ったんだから残すなよ」 若干伯爵がむくれた。 「…そんなもの一個もいらん」 そう言って伯爵のケーキの角をひとつまみすると、向かいのコーヒーを取って伯爵の隣に座った。 テーブルに向かった伯爵とは逆向き、テーブルに背を向けて。 ケーキに対峙してうつむいたままの伯爵の目が地味に泳いでいた。 基本的には少佐は行儀がいい(?かどうか、実際あやしい、とすでに若干思わなくもないが(苦))から、 こういうこと自体が珍しく… それになんだろう、なんでわざわざ… それとも無意識か? こっちの席が君の特等席か? 昔からそうやって見るそっちの景色が好きだったとか? 少佐は大抵こういうことを無意識にやるのだ。 それで一喜一憂する私が馬鹿を見るのだ…と 伯爵は盛り上がるときめき感を懸命に抑えようとする。 そんな伯爵の動揺などまったく頓着せず、コーヒーを飲みながら少佐は言った。 「伯爵、次の獲物は何だ?」 伯爵は少し驚いて目を丸くした。そして笑った。 「珍しいな…いまはまだ物色中だよ」 笑った拍子にとまどいも忘れてしまった。 なんでもいいじゃないか。 そばにいられて嬉しい。 しかも今日は特別な日。 伯爵はケーキとお茶をしあわせそうに味わいながら、少佐の返事を期待しないようなおしゃべりをはじめた。 「前回結構がんばったからね。ちょっと骨休めも必要だし。それにしても今日はホントに人気がないように 感じるけど…気のせいかな」 城を眺める。 「君んところは召使いは何人ぐらいだろう。ここまででかい城だといろいろかかるだろうな。 やっぱり一番の古株は執事? 君の子供の頃を知ってるなんて羨ましいね」 あたたかな日差しが、午後の気温をやさしく高める。 「今日はホントにいい天気だなあ。こんなに静かで日差しもあたたいとなんだか眠くな…」 とん…と肩に何かが乗っかった。 (…え?) フォークをくわえた伯爵が固まる。 ええええええーーーーー! 少佐が私の肩に! 寄りかかったまま! 寝てる!? 嘘! 何? 信じられない! そういう関係になってもあまり警戒心を解かないのか、完全無防備な少佐の姿というのは滅多にお目にかかれない。 実は伯爵はいまだに少佐の寝顔をちゃんと見たことがなかった(薬でも使わない限り。04参照)。 コトはいつも真っ暗闇ではじまり、明るくなる頃には少佐が伯爵より遅く目覚めることはまずなかったし、少佐には朝寝の習慣もなかった。 今もピクリとでも動けば起きられてしまいそうで身動きできないため、向きが互い違いとなった肝心の顔はまったく見れない。 だからまぶたを閉じているのかいないのかも確認できない。 でもこれは多分、あきらかにかすかな寝息だ。 超無防備だ! 興奮と感動と動転とパニックで伯爵の全身から滝のような汗が流れ出した。 あの鉄壁の少佐が、猜疑心の塊でいつも私のことを『敵』だなんだと憎たらしげに猛然と追い掛け回していたあの少佐が、そんなに私に心を許しちゃったのか? と思うともう嬉しすぎて、伯爵はカチンコチンのまま大興奮で真っ赤になっていた。 今日はおそらく少佐の誕生日。 だけどこのしあわせな重みと体温だけで、伯爵の方が最高のプレゼントをもらった気分だ。でも…… (そんなに疲れているのか…) きゅん…と伯爵の胸の中が切なくなる。 「まったく。君ってやつは…」 昔から、体力に任せて無茶な仕事の仕方をする男だったが。 相変わらずな少佐に優しく苦笑すると、少佐の疲れが少しでも取れるようにと、伯爵は息も殺してこの甘美な拷問に耐え続けていた。 伯爵の興奮と緊張が伝わり、実は少佐は早い段階で起きてしまっていた。が、薄目を開けたまま、しばらくそうしてじっとしていた。 *** 「とびきりの女に化けろ」 は? と目を点にしてから、へそを曲げた伯爵は口を尖らせて言った。 「前から何度も言ってるけどね。私は命令されるのは好きじゃないんだ。たとえどんなに君を愛していてもね」 ぷいっとそっぽを向く。 「ぐだぐだ言わずにさっさと化けくされ! 時間がないんだ!」 「理由ぐらい聞かせてくれてもいいだろう。どうしていつも君はそうやって…」 少佐の剣幕に伯爵も負けていない。が、 「親父に紹介する」 そのセリフで瞬時に伯爵が固まった。 全く思いもよらない言葉が少佐の口から出てきた気がするが………気のせいか? 何度か伯爵は目をしばたたいた。 「お父上に…しょうかい…だと?」 自分で口にしても顔が引きつる。 恐ろしいことに聞き間違いじゃないらしい。 伯爵の目が細まる。 「なん…て…?」 「づ…ば…?」 顔がおかしいよ少佐。 「いいからさっさと言うとおりにしろ! この野郎」 ついに取っ組み合いのつかみ合いになった。 こうなるともう伯爵も意地でも言うことを聞きたくなくなる。が、少佐に腕力でかなうはずもない。 少佐と伯爵は互いの腕や髪の毛を乱暴にひっつかんでいた。 二人とも本気だ。ぜーはー息を切らしている。 最後には少佐がうつむいて搾り出すように言った。 「……頼む、伯爵」 *** 三面鏡の前に座る伯爵。 背後の壁に背を預けて、少佐が腕を組んで立っている。というかむしろ見張っている(苦)。 「『お父様』はどういう女性がお好みだ?」 「派手な大女以外」 少佐の即答に鏡の中の伯爵の眉間に皺が入った。 「…人選、間違ってないか?」 不愉快なことだが、君なら他にも当てくらい… 「いや…」 伯爵が鏡の中、背後の少佐を見る。 確信を持って少佐が言った。 「おまえは『普通の女』より後腐れがない」 淡々としたその台詞に、伯爵の頭から湯気が立った。 私は『都合のいい男』か! *** 戻ってきた執事と少佐は何やら打ち合わせをはじめた。 が、すぐにも内輪もめとなった。 イマイチ事情も呑み込めずぽかんと彼らを眺める伯爵。 執事が悲痛に叫んだ。 「あんまりでございますご主人様!」 「仕方がなかろう。他に適任がおらんのだから!」 「伯爵様は男性でございます!」 「君はおれの目がフシ穴だと言いたいのかね」 「せめて女性を!」 「だったら君が適当に見繕って来い! ただし相手はあの親父とおれだからな! 覚悟させろよ?!」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」 執事がすごい目ですでに女装済みの伯爵を凝視する。 確かに美しい。 そこらの女性よりははるかに美しい。 「……………了解しました」 「フン」 それ見たことか、という少佐の顔。 伯爵は『どんな父上だ』と、さらに青ざめた。 *** 少佐から、エーベルバッハ家に関して多少の禁止事項とポイントを押さえた指導が入った。 「これまでにも見合いを押し付けられたり、変な女が押しかけたことは実はなくはない。が、 結局それではダメだった。重要なことは、おまえがおれに惚れとるんじゃなく、おれがおまえに惚れとると親父に思わせることだ」 三人の重い沈黙が部屋に立ち込める。 かろうじて最も楽天的と思われる伯爵がついに口を開いた。できるだけ明るく。 「……無理じゃないか?」 「ダメ元だ。もう後には引けん。親父を旧東側かICPOとでも思い込め。芝居だ。任務だと思えばいつものことだ」 さらに何か言おうとする伯爵を少佐がさえぎる。 「言われなくてもちゃんと考えとる。報酬はきさまの望みどおりとする。おれのできる範囲内だがな」 若干首を振って伯爵は言った。 「…それはすごいね」 そんなことが言いたかったわけじゃない。 もはやBGMは常に執事の鼻をすする音。 二人が言葉に詰まるとそれはもう耐え難いものとなる。 「いつまでもぐずぐず泣くな! うっとおしい!」 少佐の猛叱責にも、執事はひたすら涙にくれるばかりだった。 *** 件(くだん)のお父上がお車で到着した。 「うまくやれよ伯爵」 伯爵はちらっと少佐を見た。少佐はさっさと車を出迎える。 確かにご対面には緊張するが、伯爵以外の者の緊張の方が何倍もすごそうだった。 お父上は隠居してスイスで回顧録を書かれていたが、ご病状が悪くなり、しばらくこちらで静養するとのことだった。 『鉄のクラウス』以上の『鋼鉄パパ』とは一体…… 杖をついて車から姿を現したその老人は、確かに昔『戦車隊長』であり『鋼鉄パパ』だったのだろうという面影は忍ばせるが、 皆があまりに大騒ぎするため(なんせあの少佐ですら電話口で緊張していたのだ(汗))、はるかにもっと恐ろしいものを想像していた伯爵は、 目にしたその実物に少しほっとした。 歳月は人をよくも悪くも変える。 それは何人たりとも抗えない。 お会いするのは現役の頃でなくてよかったのかもしれないが、少し残念な気もした。 なんせあの少佐の父上だ。ハンサムには違いないし、 おそらく気質も似ているだろう。 引退し、すでに多少呆けも入っているかもしれないとはいえ、目ざとく玄関先で伯爵に気づいた老人は、眼光鋭くその見知らぬ女性(?)を見据えた。 少佐が言った。 「彼女はのちほどご紹介します。まずは中へ…」 その一団は厳かに屋敷内へと入って行った。 *** 伯爵は少佐の『妻』ではなく、現在少佐が真面目にお付き合いをしている良家のご息女という設定で紹介された。 すでに屋敷に寝泊りもする、最有力の貴重な『嫁候補』だ。 名は、『エーディット・フォン・クローゼ』。 もちろんエーベルバッハ家に引けを取らない名家だ。純国産だ。(…という設定だ(苦))。 正式に名前とともに紹介されてからは、まるで奇妙なものでも見るようなお父上の疑り深い眼光が、終始伯爵に注がれ続けた。 しかし、そんな鋼鉄パパを前にしても伯爵の堂に入った役者ぶり。 事実を知っている一部の者だけは大汗をかきまくっていたが、少佐はもともと伯爵の図太さと演技力は知っていたし、伯爵もどんな役柄・ どんな相手だろうと恐らく大丈夫な上、相手が男である限り(苦)どんなタイプだろうと基本大丈夫だった。 これまでくぐってきた修羅場が違う、経験値が違う。 ご挨拶もその後の世間話も、実に計算尽くされぬかりなかった。 そもそも伯爵は『伯爵』なのだ。腐っても貴族。 そんな立ち居振る舞いは一日二日で身に付くものではない。 しかも男色家ではあるが、女系家族で育ったという点も大きい。いい家の娘がどのようなものかは空気のように知っている。むしろこんな役柄は得意中の得意と言ってよい。 節度を持った親密さで会話する少佐と伯爵。 やや大柄過ぎるという欠点を除けば、伯爵は、誰が見ても見事に『少佐に似合いの美しい婚約者』だった。 が…。 「少佐」 「他人行儀ですな。あなたはあれをそのように呼んどるのかね」 鋼鉄パパのその指摘に何人かがギクッとしても、伯爵はまったく動じず少し頬を染めた。 「残念ながらまだ『他人』ですもの。お付き合いをさせていただいてまだ半年です。お許しを」 伯爵の可憐ぶりに、正体を知っている者だけがいちいち度肝を抜かれる。 長期戦を見込んだ伯爵は、できる限り『実際』に近い、無理のない設定を選択した。 少佐と知り合ったきっかけは仕事上。 ならば役職で呼ぶのは自然なことだ。 伯爵は親世代が安心する良家の子女を完璧に演じた。 少佐の人選に間違いはなかった。 *** その日、少佐の指示にはすべて従順に従った伯爵は少佐の寝室にいた。 シャワーを浴びて化粧も落とし、窓辺で外に広がる闇をぼんやり見ていた。 伯爵の後にシャワーを浴びた少佐が、髪を拭きながら部屋に入ってきた。 「ごくろうだったな」 「君も…」 二人のあいだにしばらくの沈黙が落ちた。 今日は少佐の誕生日。 なのに結局「おめでとう」の一言も言えないままその日は終わってしまいそうだった。 君が望むなら、本当は何でもしてあげられる。 こんな『特別な日』じゃなくても。 だけど… 少佐はベッドに腰かけ髪を拭いている。 伯爵はそっと歩み寄った。 「少佐。知ってる? 今日は君の誕生日だよ」 「…そうだな。忘れとった」 嘘つき。 伯爵は、ベッドに座る少佐の頭部をそっと抱きしめた。 部屋はまだ明るかった。が、少佐の動きは止まったが暴れはしなかった。 伯爵はその黒髪にやさしく口づけるとそのまま小さく囁いた。 「忘れないで」 本当は「どうして教えてくれなかった」とねちねち恨み言を言って君を怒らせて追い掛け回されたかった。 しつこく年を聞いて君に物を投げつけられたかった。 罰ゲームのごとくケーキを食べさせて、不機嫌な君に嫌味のように「おめでとう」と言いたかった。 なのに何一つ実現できなかった。 君に何かあったのだとわかるから。 『誕生日』すら教えてくれなかった君が、『それ以上のこと』を教えてくれるはずもないのかもしれないけれど。 少佐が腕をまわそうとすると同時に伯爵はそっと離れた。 その手を少佐がつかんだ。 伯爵が振り返る。 「…泊まってけ。許す。客間でもここでも、おまえの好きな方を選べ」 ふたりは見つめあった。 哀しいくらい少佐の気持ちがわかってしまうのはなぜだろう。 少佐は今日の私の働きに褒美を与えるつもりなんだろう。 私が喜んでその餌に飛びつくと思い込んでいるようだが… 「ふん」 伯爵は少し哀しげにそうつぶやくと、とっとと客間へ下がっていった。 *** 翌日、三人揃っての優雅な朝食後、父上は一人息子を居残らせ、女性の扱いについて指導を入れた。少佐が口を挟む。 「しかし父上」 「うるさい。今度逃したら承知せんぞ」 「は。奮励努力致します」 『上官の命令は絶対』、と思い込んでいる部下のように、少佐は父上の前であらためてビシッと姿勢を正した。 *** 廊下ですれ違いざま、伯爵にだけ聞こえる声ですばやく耳打ちする少佐。 「伯爵、おれが何をしても驚くなよ」 「?」 召使いに部屋の説明などを受けていた伯爵。 召使いが言った。 「…いかがされましたか?」 「いえ別に」 伯爵はにっこりと美しい笑顔を顔面に貼り付けた。 *** 休日の今日は、久しぶりにボンに戻ってきたお父上のご近所の挨拶まわりに、少佐がお供をするそうだ。 伯爵は留守番を命じられた。玄関まで見送る。 「出かけてくる」 少佐が伯爵の両頬に軽くキスをした。 (※いわゆる、ドイツ人のごく一般的な「ハグ」というものである(苦)。) 瞬間冷凍される伯爵と執事(苦)。 *** お父上と少佐は午後早々には帰ってきた。 心臓に悪い『ご挨拶』は再び繰り返された。 今後ともお父上の前ではこれがベーシックスタイルとなるのだろう。 伯爵は事前に「驚くな」と言われていたし(それでももちろん驚いたが(苦))、 お父上の言いつけどおりに少佐がイヤイヤやっているのだろうとわかったからまだよかったが、 執事はその度に顔色を失い、される伯爵以上に、それを見ている方がむしろ憐れをもよおした。 *** 午後3時ごろだった。 伯爵の豪華な巻毛は唐突に少佐につかまれていた。 伯爵が三面鏡の前に座って化粧を直していたときだ。 「前から思っとったが、おまえのこれ、窒息しそうになる」 いきなり何を言い出すかと思ったら。 思わず笑えた。 いつもそんなことを考えてたのか。 クスクスと苦笑したまま伯爵は言った。 「切れっていうのかい? そこまでは従えないね」 「そんなことは言っとらん」 伯爵が振り返り少佐を見上げる。 しばらく二人は見つめあった。 少佐の意図が…わからない。 少佐の視線が伯爵の背後、部屋の入口に動いた。 「何かお探しですか? 父上」 ああ、お父様がいたのか。それで。 伯爵は少佐につかまれた髪をそっと整えた。 *** お父上の探し物はずばり『嫁候補』だったらしい。 伯爵はお父上に散歩に誘われた。息子は除外された。 断る理由もなく明るく付き従った伯爵。 美しく、手入れの行き届いたエーベルバッハ家の庭。 二人きりになってからというもの、お父上の、上から下まで不躾に値踏みするような視線にも、伯爵はまったくたじろがず鷹揚に対応した。 『普通の小娘ならこのあたりからすくみはじめるんだろうな…』と思いながら。 「私は全面的にあなたのお力になる。何かご不満なことは?」 セリフの内容はすごく好意的なのに、言い方が怖い・顔が怖い(苦笑)。 『これでは普通の小娘なら…』と再度思いながら、伯爵が微笑んで首を振る。 「遠慮は無用だ。あれは女性の扱いには慣れておらん」 伯爵は父上を改めて見た。 『何かね?』というお父上の視線。 「いえ、少佐は女子職員にもとても人気があると噂にお聞きしたので…」 「そこまでご存知か」 「お父様こそ」 伯爵が笑った。 「わしは興信所に調べさせた」 笑顔のまま若干伯爵の目が泳ぐ。 「不満なんて何もありません。今のままで息子さんは十分素敵です」 「……なかなか慎ましい方のようだ」 『嫁候補』が不満を持っていた方が好都合なような言い方だった。 *** 夕食。 食事中の話題も、主に『女性の扱い方講座』だった(苦)。 この調子でくどくどやられたのか、と、伯爵は少し少佐に同情した。 しかし妙に静かな少佐の表情が逆に怖い。 挙句、就寝前、『嫁候補』が客間に向かう姿を、廊下にてお父上に見咎められた。 お父上が息子にボソッと言った。「…客間で寝とるのか」 「エーディット!」 少佐の、怒りを噛み潰したような破れかぶれの呼び声。 その怒声にビクッとして振り返ると、次の瞬間には、伯爵は膝を掬われ少佐に抱きかかえられていた。 「うわっ」 「野太い声を出すな!」 いわゆる『姫だっこ』だ(苦)。さすがの伯爵も大汗が噴出する。 「だっ…無茶だ! こんなこと私だって十代以来だぞ。いくら君の腕力だって」 「力的には問題ない。ただこの構図に寒気がするだけだ」 「そこまで父親孝行をしなくてもいいだろう!」 「黙ってろ『嫁』!」 という小声のうちわもめは二人のあいだだけで、伯爵は落とされるか放り投げられることを恐れて少佐の首にしがみついていたし、 遠巻きにはどう見ても睦まじいその様子に、召使いたちも皆温かくお二人を見守っていた。 涙の溢れる目をハンカチでぬぐう執事以外(苦)。 *** というような二人の涙ぐましい努力の甲斐もあり(実質、本当に涙を流しまくり続けていたのは執事だが(苦))、 翌日には少佐は全面的に家のことを伯爵に任せ、終日出勤できるほど、伯爵の『仕事』を信頼していた。 *** 午後。 東の庭の日差しの中、テラスで、美しい『嫁候補』と二人でお茶を飲むお父上。 「どうだった、昨日のアレは。あいつは怒っとったか」 「かなり」 猛烈に機嫌を損ねた少佐は、取扱注意の超危険物だった。 そんな男と寝室に二人きりにされた場合の嫁入り前の娘… 『これが普通の小娘だったら、絶対に務まるわけがないな…』とゆうべも伯爵は思った。 お父上が満足げに笑う。 「わしはあれが腹を立てる顔が好きでのう」 微笑は崩さぬまま『少佐が歪むはずだ…』と伯爵は思った。 *** 次の休日、少佐は青ざめた伯爵に客間に引っ張り込まれた。 「おい。お父上にバレてるぞ?」 「きさま一体どんなヘマを…」 いつかばれるかもしれないとは思っていたが早過ぎる。 「何もしてない。でも…その…さっき…『子供は無理』って…」 言いにくそうに、やや口ごもってうつむいてそう言った伯爵に少佐の肩の力が抜けた。 「…ああ、そりゃそうだ」 気の抜けたような声でそう言うと、少佐はタバコを一本銜えて火をつける。 そして淡々と言った。 「おまえのアレは冗談で終わったが、親父の余命はもって二ヶ月だ」 伯爵が驚愕の表情で少佐を見つめた。 少佐が静かに見返す。 「今更ガキは土台無理だ。相手がおまえじゃなくてもな」 その驚愕の表情で少佐を見つめたまま、伯爵は何度か何か言おうとした。が、言葉にならず、それを何度も繰り返した。 感情的に三面鏡に向かい、どすんと座り、挙句言った。 「そういうことはもっと早く言ってくれ! 化粧のノリが悪くなる!」 化粧を直しながらなじるように言っても、涙が零れるのは止められなかった。手が震えてしまう。 伯爵はメイクブラシを化粧台にぱちんと置いた。 声を出さぬまま両手で顔を覆う。 少佐はタバコを消した。 「伯…」 歩み寄りその震える肩に触れた途端、伯爵はその手を払いのけ暴れだした。立ち上がった伯爵に何度か拳で胸を叩かれたが、 そのまま抱きしめる形で少佐が伯爵を押さえ込んだ。それでもしばらく抵抗が続いた。 「おい、落ち着け! 伯爵」 伯爵は少佐の言うことなんか聞かなかった。 ただ腕力ではかなわないから一見大人しくなっただけ。 伯爵の押しのけようとする力が、悔しげにすがりつく力に変わるまで押さえ込んでからようやく少佐が言った。 「………言うのが遅すぎたか」 再度もがこうとする伯爵。 「遅いとか遅くないとか…そんなことじゃない! 君は意地悪だ!」 きつく押さえ込まれたまま伯爵はなじった。 少佐はその涙が止まるまで、じっとそうして伯爵をつかまえていた。 *** どれぐらいたったか。 伯爵がようやく落ち着いてからぽつりと少佐が言った。 「伯爵…降りてもいいぞ」 信じられないものを見る目で伯爵が少佐を見上げた。 「………本当に君は卑怯な男だ」 私が今更降りられっこないのを知っていてそういうことを言うのか。 涙で濡れた瞳が見つめ続けた。 *** いつも明るいはずの貴重な『嫁候補』の目が赤くなっていることは、すぐに鋼鉄パパに見咎められた。 少佐が言いわけを考えているうちに、 ふてくされたままの伯爵がボソッと告げ口した。 「…息子さんにいじめられました」 鋼鉄パパがジロッと息子を見る。 と同時に、勢いよく張りのある声で怒鳴りつけた。 「クラウスッ!」 「はっ」 即座に父上の前に直立不動体制をとった少佐。 「私と塔まで来なさい!」 上官に従う部下のように、少佐が父上につき従い廊下に出る。 ホントに軍隊みたいな親子だな…と、瞳を濡らしたまま伯爵は思った。 *** 「少佐…あの…さっき…………ごめん」 「何が」 少佐は居間で新聞を広げていた。 どれくらいしぼられたのか。 とりあえずお説教タイムは終わっていたようだ。 伯爵は居心地悪そうに腕を掻きながら立ち尽くしている。 あまりのことに気持ちが動転して、自分が抑えられなかった。 何も君のせいじゃないのに。 むしろ君の方がよほどつらいのに。 少佐は隔てた紙面の向こうから言った。 「…お陰でゆっくり休めた。あそこは昼寝にもってこいだ」 伯爵はしゅんとうつむいたままだ。 少佐は新聞をテーブルに置くと、ひとつ大きなため息をついた。 そしてうんざり言った。 「おれを塔で説教するのは親父の趣味だ」 『フン』という少佐のいつもの表情。 「痛くも痒くもないがな」とふてぶてしく顔に書いてある。 少佐のセリフに、上目遣いの伯爵の目線がすでに変わっていた。 興味津々の様子でおずおずと少佐のそばに寄ってくる。 「…なんかそれってドキドキするな。次からは私も同行してはダメかな」 伯爵が何を言っているのか少佐にはすぐには理解できなかった。 間近の伯爵をしばらく凝視し、ようやくなんとなくわかると、再び新聞を広げ 呆れ果てたように吐き捨てた。 「何を考えとるんだ、きさまは」 まだ少し腫れた目のまま、伯爵が笑った。 *** すでに日課となった『お父上と散歩』から帰ると、伯爵の方からソファに座っていた少佐にハグをした。 お父上の目がある限り、必ず少佐は返してくれる。なんて気分がいいんだろう。 お父上が自室へ戻られても、伯爵は少佐のそばを離れずソファに並んで座り、嬉しそうに小声で言った。 「君と人目をはばからずにイチャつけるって最高だな」 「慣れの問題だこんなもの。おれはもうきさまを生きた人間だとは思っとらん」 伯爵は驚いた。 「え? じゃあ私は何なんだい?」 「…植物? か何かだろう」 と言いながらも、少佐の実に嫌そうな顔。 なんだか久しぶりに見た気がする。 少佐の素直な表情。 嬉しい。 と同時に、 (そんなに無理することないのに…) と、気の毒そうな顔で、伯爵はクスッと笑った。 私のときもそうだったけど、君は、相手が土壇場になるといつも掛け値なしのやさしさを示す。自分の苦痛も不快感もすべて棚上げして。 すでに伯爵を完全無視して雑誌を読みふける少佐の端正な横顔を、伯爵はじっと見つめていた。 君は本当にとても素敵だよ、少佐。 君がどんなにお父上を大切に思っているか、お父上にもちゃんと伝わればいいのに… 「じゃあ私は植物らしくふるまおう」 (なんだそりゃ…)という目で、若干引き気味に隣の伯爵を見る少佐。 そんな少佐の視線に引っ込みがつかなくなった伯爵。 確かに。 どうしようか…… しばらく思案の末、心持ち少佐に向かって座りなおし、伯爵はソファに置かれた少佐の片手を両手できゅっと握ると、 「お慕いしています。ご主人様」 と、ごく小さく囁いて少佐の頬にそっとキスをした。 (はあ?)というすごい顔で少佐が伯爵を凝視する。 (あれ? 失敗したかな?)とやや引きつる伯爵の笑顔。 少佐が頬を袖でごしごしこすりながら怒鳴った。 「植物がそんなことするか!」 「ごめん、ちょっとムリがあった」 と、伯爵が片手で拝むようにウィンクして、まったく悪いと思っていない様子で笑った。 *** こうして二人の睦まじい様子は、何もお父上だけに見られているのではなく、屋敷中の者の視線にさらされていることを、 本人たちはわかっているのかいないのか(苦)。 とにかく召使い達はご主人様たちのプライベートを不躾に覗き見るようなことはしないが、 もちろん常に注目していないわけがないのであった(苦)。 *** 「今度のご主人様のお相手は素晴らしい方だな」 「先日も、時計の秒針がどうしても合わなくて苦労していたら通りがかられて、『そんなもの気にならないようにさせてあげるから大丈夫。 いつも少佐のためにありがとう』と微笑まれて…」 「お美しいだけでなくとてもおやさしい」 「ご主人様もよく見つけてこられたものだ」 「ご主人様は気難しい方だが、あの方が奥方様になってくだされば我々も万々歳だ」 ひと休みのお茶の時間。 召使いたちの話題の中心は、登場以来ほぼ毎日、ご主人様のうるわしい『婚約者』だった。その人気は日ごとにうなぎのぼりだった。 当然だ。 エーベルバッハ家の召使いはほとんどが男性なのだ(苦)。 執事は一人複雑な表情で黙ったままお茶をすすっていた。 *** 看護婦は二日に一度はやってきて、中堅の担当医ハンス先生も一週間に一度は顔を見せた。手厚い在宅ホスピスだった。 「随分顔色がよくなりましたね。やはりお家が一番なのでしょう」 ハンス先生はとても感じのよいお医者様だ。 「あ、今度の火曜日は別の先生が見えます。うちの、陸軍第一病院の外科部長です。確か古くからのご友人なのですよね?」 え? と背中で聞いていた伯爵が一人で凍る。 「…あんなやつ、来んでもよい」 ふてくされたようにお父上は言った。 「そんな…確かにお忙しい身ですがいつも案じられてますよ」 「ふん」 子どものようなお父上にも温和に対応する担当医。 「とても状態はよくなっています。まわりの皆さんのお力も借りながら、ゆっくり治してゆきましょう」 *** 担当医看護婦ご一行を玄関まで送ると、伯爵が内心の動揺を悟られぬように静かに訊く。 「あの、今度いらっしゃる外科部長様…?って、もしかしてあの単眼鏡(モノクル)の? 威厳の塊みたいな?」 ハンス先生が笑った。 「おや、ご存知ですか? いつもお伝えしてるんですよあなたのことを。息子さんのお相手の方のお陰で、 エーベルバッハさんもとても明るく元気になられていると。ぜひお会いしてお礼が言いたいと申しておりましたので お時間を空けておいてください。楽しみにされてますから」 伯爵はいつものように担当医らを愛想のよい笑顔で見送った。 内心(まずい)と思いながら。 『歩く威厳』はすでに私の女装を何種類か見ている…(苦)。 *** 外科部長様は難しい顔をして基本的な診察をしていたが、それらがすべて終わると、『ふん』と表情を和らげそして言った。 「…で、その例の彼女はどこかね?」 無言のまま不機嫌な視線で『何のことだ』とお父上が言っている。 「クラウス君の婚約者だ。大層な美人だそうじゃないか。ハンス君も看護婦たちも大絶賛だぞ」 お父上はざっとまわりを見回した。 確かにいない。珍しい。 「いつもは私のそばにいるが………君に会うのが嫌なのだろう」 「旦那様!」 執事は身も蓋もない旦那様の言葉を遮ると「ただ今探してまいりますので」と愛想笑いを浮かべて退室した。 *** 召使いたちと手分けして探しても伯爵の姿はどこにも見つからない。 ついさっきまでいたはずなのだが。一体どこに雲隠れしたのか。 ついに、もうここにもいないとなるとこの屋敷内にはいないのでは…と思いながら何気なく古い箪笥を開けると…………いた。 「何をなさっているのです? 伯爵様」 「どうしていつも君には見つかっちゃうのかな。ちょっとした才能だよねそれ」 「外科部長様がお待ちですよ」 伯爵が小さなため息をついた。 観念したように言った。 「あの威厳先生に会うとお父上の前で私の正体が多分ばれる。前に少佐のお見舞いに行ったときに女装姿を見られてるんだ」 執事は膝をかかえている伯爵を見下ろしていた。 伯爵は顔を上げると執事の表情を見つめ、思いやるような笑顔を浮かべて言った。 「…それとも、君としてはもうそろそろばれてしまった方がいい?」 執事は言葉を呑んだ。しばらく立ち尽くす。 「コンラートさん、こちらには見当たりません」 他の部屋を探していた召使いたちが廊下から報告する。 もちろん角度的にも伯爵の姿は彼らには見えない。 執事はそのまま箪笥の扉をそっと閉めた。 「この部屋にもいらっしゃらない。おそらく外出されたのだろう。外科部長様にお詫びしなければ…」 そう言いながら足音が離れて行く。 あの間の取り方、誰かに似てると思ったら………少佐か。 伯爵は箪笥の暗闇の中でやさしく微笑んでいた。 *** 「どこに行っていた」 「古い箪笥に隠れていました」 正直すぎる伯爵に、執事は瞬時に真っ青になる。 お父上はきょとんとしていた。とても驚いたらしい。ちょっとかわいかった。 さて適当な理由… 「外科部長様のお顔が怖くて…お許しを」 しばらく間があった後、突然お父上はひどく愉快そうに声を立てて笑い出した。 そして真顔で言った。 「気に病むことはない。あいつは昔からそうだった。あいつのせいで女子職員が何人辞めていったか。それをわしのせいだなどと言いおって…」 一体いつのことを根に持っているのか(苦笑)。 外科部長とお父上の間には、女子の不人気争いに関する積年のなにやらがあるらしい。 よほどいい勝負なのだろうと察せられた。 伯爵はにっこり笑った。 「私はあの方とお父様ならお父様の方がずっと好きです」 お父上はすまして(でも満足げに)うなずくと言った。 「お茶にしようコンラート。今日は特に気分がいい」 執事はほっと胸を撫で下ろす。 と同時に、不思議そうな目で、クスクス楽しそうに笑っている伯爵を見ていた。 *** 午後の暖かな時間。 日課となった東の庭の前、屋外でのお茶の時間。 ひざ掛けをしてお昼寝用の籐のロッキングチェアに座るお父上が、ゆっくり歩きながら庭を眺める『嫁候補』に声を掛けた。 「あなたはいつもほがらかだね」 気づいて『嫁候補』は明るく振り返る。 「父に人生の楽しみ方を教わりました」 お父上が続けるように促した。 「父と母は私が子供の頃に別れたので…私は父に育てられたんです」 「ご健勝で?」 植木を背にしてややうつむいて小さくかぶりをふる。 「私が二十歳のときに他界しました」 「道理で。しっかりされておる」 若干伯爵の目が泳ぐ。しかし微笑んだ。 「十分に愛してもらいました。今も昔も私は父が大好きです」 『嫁候補』は懐かしむような笑みを見せた。 「でも…」 少し言うことをためらった。けれど… 「少佐も…私に負けないくらい、お父様を愛してると思いますけど」 「なぜそんなことが言えるのかね?」 「そんなこと…」 『嫁候補』は光の中、堪えきれぬ風情でクスクスと笑っていた。 「見ていればわかりますよ。少佐はお父様にそっくりですもの。何よりの証拠です」 *** 「あのようにおだやかなお顔。重ね重ねおだまししていることが気に病まれます」 「言わないでくれ執事。私にだって良心くらいある」 お父上はお昼寝される時間が日に日に長くなっているようだ。 やや遠くに眺めながら、執事と伯爵はやわらかな五月の風に吹かれていた。 *** 木陰で腰かけ木の幹にもたれ、開いた本を胸に居眠る伯爵を、やや早めに帰宅した少佐が見つけた。 人目につかない庭の隅。 植木の陰。 伯爵が一人になりたいとき、しばしばそこで時間を過ごしていることを最近知った。 少佐はしばらくその姿を眺めていたが、身をかがめると、そのまま眠る伯爵に口づけていた。 ふ…と伯爵が目覚める。当然驚く。 「…な…にしてるんだ?」 「なにも」 不意に目覚められてバツが悪そうな顔でもすればまだかわいいものを、少佐はさらに口づけた。 ちょ…待て! 昼間だぞ? 屋外だぞ? 君んちだぞ? お父上が… 「…見てるのか?」 「かもな」 だったらしない方が…した方がいいのか??? 伯爵は完璧に混乱し、むしろ少佐をひきはがそうと少佐の上着の背中をひっつかんでいたが、次第にその力も弱まり、 すがりつく力に変わってしまうまでそれは続いた。 息をはずませて、まだ少佐の腕の中、それでもうつむいてなじるように言った。 「…だ、誰かに見られたら…」 「かまわん。親公認だ」 少佐がどういうつもりなのかさっぱりわからない。 「…お父上に、またはっぱでもかけられたのか?」 少佐が伯爵をちらっと見た。 つまらなそうに言った。 「さあな」 *** お父上の前では仲良さげにふるまっていても、平日でも休日でも、ふたりきりになれば少佐と伯爵は、 くだらない小競り合いは相変わらずしょっちゅうだった(苦)。 力ではかなわない伯爵が悔しげに言った。 「お父上に言いつけるぞ」 「親父の説教など屁でもない」 少佐のまったく動じない表情に、伯爵が目を細める。 「もう今じゃ快適かもしれないけど、塔での時間がまたさらに不快なものになるよ、昔みたいにね」 訳知り顔で伯爵が少佐を脅す。 途端、少佐が目をむいて怒り出した。 「あのクソオヤジ! おまえなんかに何を吹き込んどるんだ!」 *** ある真夜中近く。 居間にて。 その夜も客間に行こうとする伯爵の手を、ソファに座ったままの少佐がパッとつかんだ。 「離してくれ少佐」 伯爵はここへきてから一度も、そういう意味で身体にふれさせなかった。 いつもならこっちが嫌がっても襲ってくる(苦)はずの伯爵が、である。 顔も上げずに少佐は言った。 「伯爵、何を怒っとるのかおれにはわからんのだが」 「離……」 二人がやや揉みあいとなりかけたとき、すでにとっくに寝まれたと思われたお父上が、その日はなぜか起きだしており(徘徊?)、その廊下、部屋の前にいた。 「…クラウス、おまえ本気か?」 それだけ言ってさっさとお父上は自室に向かった。 「…………」 「…………」 (バレてる?(大汗)) 二人とも固まったまま同じことを考えていた。 *** 少佐がいない間は、伯爵はもうあまり気合の入った女装はやめていた。 お父上にはおそらくばれているか、現実認識自体が危うくなっているはずだ。 どちらにしろもうあまり必要ないと判断した。 本当はずっと怖くて訊けなかったことがある。 庭のお昼寝椅子でいつものように眠っていたお父上の寝顔をのぞきこむと、伯爵は囁くように問いかけた。 「お父様、私がお嫌いではありませんか?」 眠っていたはずのお父上が、うとうとしたままやさしく微笑んだ。 (まずい! 起きてたのか)と焦る以上にドキッとした。 齢(よわい)は重ねているが、少佐に似た顔でそんな笑みを浮かべたお父上に。 そしてそのままお父上は手を伸ばすと、指先の甲で伯爵の頬をそっと撫でた。 伯爵がかあっと赤くなった。 *** 休日の朝。 「少佐。ごめん、君より好きな人ができてしまった」 少佐がぶほっと朝食を吐き出した。 照れくさそうにする伯爵を凝視しながら、少佐は散らかしたそれらをささっと片付け召使いにすべて下げさせた。 言葉が継げないらしい。 何度かセリフが出そうで出なかった。 とりあえず落ち着くためタバコに火をつけた。 ひとつふーーっと息を吐いて冷静さを保って言った。 「…ドイツ人か」 「そうだね」 少佐が目を細めた。 近所のヤツか。 ここでの伯爵の行動範囲は知れている。 わかってはいたが本当にこいつは…(怒) 頭痛を堪えるような表情で、少佐が指でトントンとテーブルを叩いている。 「…悪いがそれは後にまわせ。こっちはもう先がない」 伯爵が少し冷たい目になった。 ちょっとむっとしたからだ。 君は妬いてもくれないのか。 意地悪を言いたくなった。 「そういうわけにはいかないよ。恋は走り出したら止まらないからね」 「この野郎、おれがこうして頭を下げとるのに…」 「ちっとも下げてなんかないじゃないか!」 少佐がいらいらとタバコを灰皿に押し付ける。 搾り出すように言った。 「…そいつはまだ若いんだろうが! あと少ししたらいくらでも…」 伯爵が両手のひらを見せて待ったをかける。 首を振った。 そして静かに言った。 「誰だって明日(あす)のことなんてわからないんだよ」 少佐が伯爵を見つめた。 もちろん、伯爵を止める権利など……ない。 「………」 その少佐の表情にようやく満足したらしい伯爵がクスッと笑った。 「…お父上だよ」 少佐の目が点々になった。 「私が惚れてしまったのは君のお父上だ」 *** 広い屋敷内、気でも狂ったように全力で『嫁候補』を追っかけまわす少佐の姿は、 召使いたちを唖然とさせたが、『時計が何秒どーのこーの』とか『カーテンのひだがどーのこーの』と 言われることに比べれば、まったくストレスでもなんでもない。むしろほほえましい光景なので、誰もが皆温かく二人を見守り、 放置して、それぞれの仕事に専念していた(苦)。 *** 庭の隅でついに伯爵は少佐にとっつかまった。 二人してなだれ込むように芝生に転げ込んだ。 ゼーハー息を切らしていた。 つかまえられたまま転げた挙句、少佐の上にうつぶせに重なった伯爵が笑い出した。 ようやく少佐の胸の上で顔を上げる。まぶしい木漏れ日の中。 「はじめはね、君を『つくった』人だから、と思ってたけど、違うんだ。そんなんじゃなくても、私は君のお父上がとても好きだ」 「…ばかめ」 仰向けにそっぽを向いたまま、少佐もまだ息が整わない。 「少しは妬いてくれた?」 「あほか。きさまのただれっぷりに驚いたわ」 「そんなのは昔から知ってるだろ」 何をいまさら言ってるんだ、というずうずうしい顔をしてみせてから、伯爵がもう一度明るく笑った。 そうしてしばらく、互いの息を整えてから、伯爵は芝に腕をつき、少佐を見つめ、瞳の奥までまっすぐ覗き込んだまま語りかけた。 「知ってる? 少佐。君のお父上はとても魅力的なんだよ?」 そう言うと伯爵は極上の笑顔で笑った。 伯爵のそれは、いつもの軽口や人を食ったようなからかいの言葉じゃない。 なぜか胸が熱くなった。 父を褒められるのが……嬉しいのか? こんな気持ちははじめてだった。 少佐は自分の心の動きに驚きつつも、それは一切表には出さないように、つまらなそうに皮肉を言った。 「…モノ好きめ」 「それももう十分知ってるよね?」 伯爵はすべて見透かしたような目でいたずらっぽく笑うと、もう一度、その愛しい胸に倒れこんでしあわせそうに笑った。 *** 「エディス・クロウゼ」 東の庭。 いつものお昼寝椅子に座り、お父上はそのつづりを英語読みでつぶやいた。 ドイツ語では『エーディット・クローゼ』。 エーベルバッハ家の庭に最も多く植えられているバラの名だ。 1930年、ドイツ人クローゼ氏が作った、モダン・ローズ初のグリーン系のバラ。ハイブリッド・ティー。 「気づいたか、おまえも。あれの母が好きだったバラだ」 その葉にふれながら、お父上は言った。 いつも静かに後ろに控えている執事の方は見もせずに。 花びらと葉の縁にはすべて細かなギザギザが入っている。 それだけでも十分豪華なのに、真夏には白、秋にはグリーン・ホワイトの花をつけ、季節ごとのコーディネートまでして周りを楽しませてくれる。 バラの中でも特に憧れとされる品種だ。 あの娘(?)の正体が、どこの何者なのかはわからないが、その名で紹介された時点ですべてがわかるようになっている。わかるべき相手にだけは。 「泣くなコンラート。あれは本当に困った息子だ。最後までな」 お父上は若干苦笑を浮かべた。 そして、生涯忠実に尽くしてくれた執事をそばに呼び、その手を握って心から言った。 「あのやんちゃ坊主を、おまえはよく世話してくれた。感謝している」 「旦那様!」 もう執事の顔面は、ダムの決壊どころではない悲惨さを露呈していた。 *** ある月夜の晩。 バルコニーにて。 久しぶりに少佐と伯爵は二人でグラスを傾けていた。 「少佐、『何を怒ってるか』って私に訊いたよね」 バルコニーの手すりに身を乗り出して前庭を眺めていた伯爵が、振り向きながら不意に言った。白いチェアに両脚を投げ出して座り、 片手はテーブルのグラスをなぞっていた少佐が視線だけ伯爵に向ける。 「…君が『誕生日』を教えてくれなかったことだ」 瞬時に少佐の顔に『信じられん! そんなことか! 本当にきさまはわけがわからん!』と書かれていた。 手すりに後ろ手に両肘を載せ、ため息まじりに伯爵は言った。 「あの日、私が来なかったらどうするつもりだったんだ?」 少佐が押し黙った。 口を割るつもりはないらしい。 が、結局その日は伯爵が粘り勝ちした。 ついに少佐はグラスを指先ではじきながら、視線を落としたままぼんやり言った。 「………おまえが『来る』と思っとった」 伯爵の顔がみるみる驚愕に染まった。 「そこまで私は『都合のいい男』か!」 屈辱だった。 『ただの関係』じゃないのに誕生日も教えてもらえず、それすらも勝手に調べ出すと思われていて、 案の定、少佐の思惑通りのこのこやってきたわけかこの私は!(怒) 伯爵の、憤慨交じりのその言い草に、少佐は何度もうなずき、片肘をテーブルについてあごを支えると憎々しげに言った。 「きさまがおれにとって都合のよかったことなんてあるか!!」 伯爵はにっこりと笑いゆっくり寄ってくると、少佐同様、こちらも白いテーブルに片肘をついて皮肉にも極上の笑みを浮かべながら言った。 「私に憎まれ口を叩くときの君って、本当にめちゃくちゃかわいいよね。お父上にそっくりだよ」 すでに少佐はグラスを取り、ぱっとテーブルからなるべく離れるようにチェアの背の端に身を寄せ脚を組みなおすと、心の底から嫌そうな顔をした。 グラスに口を付けながら『ほれみろ』と心の中で罵っていた。 *** 「このバラの名をご存知か?」 お父上の問いに、足元にかしずく伯爵はかぶりをふった。 お父上は天気が許す限り、日に一度は東の庭に出たがった。 その庭のバラは、まだどれもほんの小さなつぼみしかつけていない。 「英名はエディス・クロウゼ。あれの母が大層気に入っていた…」 少し驚いたような顔をしたが、『嫁候補』はいつものようにやさしく笑って、座るお父上の話に耳を傾けていた。 もう徐々にお父上は、あまり大きな声は出せなくなっている。 「秋の、緑の花が珍しく有名だが、わしは夏の花が好きだ。真っ白だがほのかに緑がかった…実に美しい。最期にそれだけは見たくてここへ来たが…」 すでにお父上の手を握っていた伯爵が、お父上の言葉を遮るように言った。 「お父様、見れますよ。一緒に見ましょう」 お父上がかすかに首を振る。 すべて『わかっている』というように。 そして満足げに笑った。 「もう見れたよエーディット…」 お父上が伯爵をじっと見つめていた。 「この花の名前だ」 いぶかしんだような表情の後、徐々に伯爵の両目が驚きに見開かれる。 「『エーディット・クローゼ』。……あなたにその名を与えた人物も、このバラに特別な思いがあったのだろう」 六月の庭に吹き渡る一陣の風。 どんなに大きく目を見開いてもダメだった。 溢れる涙が決壊した。 言葉が発せない。 涙が止まらない。 伯爵は身動きひとつできぬ風情で顔を上げたまま、その瞳から大粒の涙をこぼし続けた。 「これ、何を泣いている」 お父上の咎めるような声が聞こえる。 けれど、声も出せない。 しゃくりあげることもできない。 ただひたすら、溢れる涙が止められない。 伯爵はもう、両手でお父上の手を握り締めたまま、深くうつむき震えることしかできなかった。 「…知らなかったのか。それは失礼をした。何か思惑あってのことかも知れん。このことは忘れるように。…泣くのはやめなさいエーディット。 そんなにあなたに泣かれたら、わしまであれを責められなくなる」 伯爵はすでにお父上の足元にすがりつくように泣いていた。 声は殺したまま。 嬉しさと、同じくらい、身の切られるようなつらさに。 謝罪の言葉も発せない。 でもただ一言だけ。 涙に震える声のまま、思いの丈をこめて一言だけお父上に伝えた。 「愛しています、お父様」 お父上がうなずく。 すべて『わかっている』というように。 「わしもだエーディット…あなたに会えてよかった」 お父上は、どうしても泣き止むことのできない伯爵の豊かな巻毛を、そっとやさしく撫で続けていた。 *** 美しく気品ある白いバラのような伯爵は、最後まで献身的にお父上に尽くし切った。 今際の際。 ごく親しい者だけが、お父上のベッドのまわりに呼ばれた。 一人息子を枕元に呼ぶと、最期の力でその手を握る。息子も握り返す。 最期まで威厳を持って、少佐の父上は言った。 「クラウス・ハインツ・フォン・デム・エーベルバッハ。父はおまえを誇りに思う」 視線が『耳を貸せ』と息子を呼ぶ。 少佐が父上の口許に耳を寄せた。 「…おまえにしてはいい『嫁』だ」 そう囁いて、そのまま穏やかにお父上は息を引き取った。 *** 葬儀は厳かに執り行われた。 美しい墓地。 まぶしい緑の芝。 帰り道、歩きながら少佐がポツリと伯爵に言った。 「おまえ、本物だな」 「?」 涙に濡れたハンカチを握り締めたまま、伯爵には少佐が何のことを言っているのかわからなかった。 *** 葬儀後。 喪も明けて数日後。 少佐の家に泊まる最後の夜。 はじめて客間の伯爵のベッドの中に誰かがもぐりこんだ。 真っ暗でもはっきりわかる。(いつも真っ暗なのだから(苦)。) 若干抵抗を示したが結局力で組み敷かれた伯爵は、その侵入者に対して、あの日のお父上の言葉をそのまま繰り返した。 「…『クラウス…本気か?』」 伯爵は、暗闇の中、自分に覆いかぶさる人物を見つめる。 しばらくの間。 闇だけが二人を包む。 そしてついに返事がかえってきた。 「芝居に決まっとる」 一切何も見えなくても、そう言った少佐の表情が目に浮かぶようだ。 憎たらしい。 「………いやな男だ」 伯爵はそうぶつやくと、いつものように愛をこめてその首に腕をまわした。 FIN
エロイカより愛をこめすぎて
act.05 限られた春 The Limited Embracement From Eroica with too much Love
ニ0一0 四月二十八日
サークル 群青(さみだれ)
後日談:『薔薇の名前』につづく→
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