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第三部 第三編 展望
第7章 評価
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第7章 評価
第1節 評価
【評価】
動物の適応進化ではより適切に評価するものが生き残ってきた。動物は敵か味方か、闘争か逃亡かを瞬時に評価する。対象評価は生き抜くための能力である。ヒトも意識以前に対象を評価し対応しているが、ヒトは対象を普遍的に評価するための器官=脳を特別に発達させきた。人の意識が対象評価の最高の発展形態である。
[1001]
人は対象評価を意識することで自らを意識する。社会関係での評価を意識して自らを評価、反省する。
[1002]
社会的存在である人間はだれしも人に理解され、人に認められたいと願う。理解され、認められることをめぐって様々な生き方があるが、関わりなく生きることは難しい。人の評価を肯定する人、否定する人、無視する人と様々あるが無視も努力なしにはできない。人に理解され、人に認められたいとの願いが意欲を強め、生きる意志を育てる。
[1003]
新生児では意志や願い以前に生理的に監護を求める。幼児の泣くこと、微笑みは意思や願い以前の生理的反応である。母親に対する表情、態度の表れは母親に認められ、理解されるための表現反応である。赤ん坊のいとおしくさせる表情、態度は生物進化の過程で獲得してきた表現能力である。人が動物の子をかわいいと思うのは生物進化の過程で獲得してきた感受能力である。動物、哺乳類は育児を繰り返す過程で子をかわいく思うように進化してきた。子に対する感受性を蝕まれるのは社会的病理によってである。
[1004]
人は物心つくようになると人の眼を気にするようになる。人の眼を通して自らを反省できるようになる。親の目を気にし、大人の眼を気にし、友の眼を気にし、社会の眼を気にし、先達の眼を気にし、子の目を気にし、人によっては神の眼を気にする。人の眼を気にして自らの生き方を変える必要はないが、人の眼を通して自らを客観視し、反省することができ、自らの弱さを克服し、励ましにすることもできる。評価して欲しい人に認められることを願う。
[1005]
人の眼は、特に神の眼は実在の眼とは違う。実在としての人の眼、神の眼からどう見えるかは決して体験できない。実在の見える実在の眼は自分の眼しかない。人の眼、神の眼は想像できるだけである。その想いは自分の思いであり、自分の理解である。神を戒律を求める神、慈悲の神、人間の理想の姿と理解するかで見方が変わる。「理想の人間」も理想の理解によって違う。結局自らの物事の見方、世界観を客観的に評価する訓練である。自己評価訓練によって、人による評価がお世辞か賞賛かを区別できるようになる。困るのは人の眼に気づかぬ者、人の眼を無視する者のいることである。
[1006]
赤ん坊時代をはるか彼方に離れて、中年と言われる歳になると人生を見通すことができるようになり、自分の人生は何であったかを振り返る。若いうちは人の評価など取るに足らぬとばかりに突っ走り、自分ですら自分が分からないのに人に理解できるわけはないと突っ張るが、実績がないばかりの焦りの表れ。功なり名を成した人であれ、平凡人であれ、世間に、家族にどれだけ認められているのか。評価されてどれだけの影響力をもてたかを問う。評価、影響力は人それぞれの生き方、価値観によって形も内容もまったく異なるが、評価を求め、影響力を欲することに違いはない。
[1007]
【価値と尺度】
評価は対象の価値認識とその表現である。評価は単に対象を認識することではなく、対象に価値を認め、その相対量を量る。絶対的価値、絶対的量であるなら量るまでもない。評価は他の対象価値量との相対量を量る。相対量比較を繰り返し、比較の連関として明らかになる対象間の相対量関係が普遍的基準になる。普遍的基準によって個別対象の相対的価値量を表すことができる。金価値が一般的等価形態へ、さらには不兌換通貨へと転化する過程である。ものの絶対的価値ではなく、他との比較による相対的価値でありながら、普遍的尺度によって量られる。
[1008]
価値は尺度によって測るが、価値は尺度によっては決まらない。尺度は量を相対的に表現するための単位系であって、単位基準は表現の都合で定めることができる。メートル法、尺貫法等は尺度表現の違いであって、量の違いではない。重量と質量の違いは基準系の違いであり、天秤は大きさに制限はあるが普遍的な計量器である。
[1009]
対象の質の違いと要求精度で尺度を選択する。価値の場合特に、何に価値を認めるかによって尺度が定まる。人間の価値を量る場合、人間の価値とは何かが定まらなければ、尺度を選ぶことはできない。量りやすい尺度で価値を量ることは本末転倒である。知能指数など知能の何を量っているのかを定義しなくては混乱にとどまらず、人権を侵害することにもなる。価値は多様であり、価値によって尺度が異なる。
[1010]
相対的価値評価基準は相対的であるから人によって違う。価値観は人によって違う。人によって違うが、人には普遍性があり、差異性よりも同質性があり、しかも社会代謝という共通の秩序のうちで生活し、さらには属する世界は唯一の実在世界である。人の普遍性、世界の唯一性に基づく相対的ではあるが普遍的価値基準が成り立つ。人間の理解、世界の理解によって究極に普遍的価値基準の理解が可能である。人間の秩序、世界の秩序が価値基準としてある。対象の価値は他との関係であり、関係全体での位置である。個別対象の価値づけは普遍的基準=世界に位置づけるのである。
[1011]
普遍的価値基準は追究する対象であるが、日常生活は個別的であり、個人的事情で対象を評価選択する。普遍的価値基準と日常的個別的価値基準とを折り合わせて相対的価値基準により生活する。折り合わせ方によって相対的価値基準は尊くも俗にもなる。相対的価値の表現形式は多様であるが、分かりやすく一般的な形式が価格である。国宝の芸術的価値は理解できなくても価格で言われれば分かった気になれる。
[1012]
評価されることは価値を認められることである。無視されるより評価され、存在価値を認められることは何よりである。ただ評価の内容は良いとは限らない。絶対価値、存在価値ではなく、他との比較による相対評価が評価価値である。
[1013]
価値の基準は人間である。人間に役に立つことが価値であり、人間に関わりのない価値はありえない。人間がいなければ価値を量る者もいない。価値など自然の何処にも存在しない。地球環境の大切さが世界的に認められるようになってきたが、その地球環境は人が生きることのできる環境である。地球生物は500万とも1億を超えるとも言われ、人類はその1種でしかない。それ以上の数の種が既に滅んでおり、地球生命にとって人類の生存は特別なことではない。
[1014]
価値は人間が人間の人間を問題にするから存在する。それぞれの人間にとっての都合のよさが価値である。人それぞれによって異なる価値は個別的価値である。都合のよさは人間の多様性に応じて多様である。逆に誰にとっても都合のよい物事には普遍的価値がある。空気や水は誰にとっても必要であり、好みの、価値観の問題ではないことは欠乏によって絶対的に明らかになる。人の生物としての共通性がヒトにとっての使用価値の普遍性である。さらに人の感情、知性、意志の普遍性が精神的価値の普遍性を担保する。類的存在として、社会的存在として共通に必要とする交換価値にも普遍的価値がある。社会代謝を実現し、生活を実現するのに必要な物事に人間にとっての普遍的な交換価値がある。生活と社会代謝を実現するのは人間の労働であり、人間の労働が交換価値の基礎をなす。類的存在、社会的存在である人間にとって社会的価値の基礎をつくるのは労働である。労働力、労働能力、創造力が社会的価値の源泉である。
[1015]
人間にとっての普遍的価値があって個別的価値にも普遍性がある。人間の普遍的価値である創造性が個別的価値を実現する。創造性が多様な自由度を組合せ、値を決めて個別的秩序世界を創造する。自由度の組み合わせとして最も複雑な秩序が人間である。
[1016]
人の命に軽重の差はなくとも、人間のもつ自由度によって人それぞれに異なる個別世界を創造できる。複雑な自由度をもつ秩序は抽象化して価値を量るしかない。人間の普遍的尺度として人間性や人格がある。
[1017]
【評価関係】
評価することは評価できることである。評価するには対象を理解できる、対象の価値が分かって評価する。何も分からずに評価のしようがない。何も分からなければ評価以前に対象の存在を認知することすら危うい。価値を知り、関心を持つから追究し、分解能を高め、時に先入観となって失敗する。評価能力は対象についての理解力である。
[1018]
価値評価の一般的形式は自由度の組合せと各自由度で決定される値からなる価値多次元空間で表される。組み合わさる自由度をとらえること、各自由度での値の分解能が評価能力を表す。世間一般の評価にとらわれていては、新しい自由度=価値表現を受け入れることができない。各自由度での表現階調を見分ける分解能は才能もあるが、訓練によって深まる。表現階調の分解能は一定程度分かるようになるとさらに深い階調を分解できるようになる。微妙なニアンスが分かるようになる。人の認知能力の問題であって、付随する様々な問題があるが。
[1019]
評価能力は訓練によって磨かれる。評価訓練は価値を意識しての実践経験によって身につく。無意識化するまで訓練することで身につく。意識的訓練によって身につき、また意識することで説明できるようになる。
[1020]
客観的評価は説明のための評価である。評価は元々主観的であり主体が選択するためにある。主観的評価を客観的に説明することで意識的な評価訓練になる。評価が正しくできるようになったかどうかの評価は実践で明らかになる。主体の選択結果が評価の正誤を明らかにする。ただ評価が客観的であることと評価の正しさとは同じではない。結果は選択だけではなく偶然にも左右される。正しければ期待が実現する確率が高くなる。
[1021]
評価が正しかろうと誤っていようと結果は自分で負うことになる。主観の見いだした価値と評価が客観的であるかどうかは実在での実践によって試される。しかもその結果も主観が評価するしかない。最終的に皆が誤っていた時には人類は滅び評価することもできない。
[1022]
評価することは評価されることである。人は評価者としてだけでなく被評価者でもある。評価することは下した結論によって、評価者の価値観と評価能力が評価される。評価者が評価される再帰的評価が普遍化することで社会的評価基準が形成される。社会的に評価者の評価が定まり、優れた評価者は「目利き」と称される。再帰的評価が機能しないと評価は硬直化し、形式化する。価値の創造より評価基準に添うことに向いてしまう。
[1023]
【評価基準】
人の価値観は生まれてからの取捨選択経験によって形成される。人間としての普遍性が普遍的価値観を形成し、個人としての個別性が個別的価値観を形成する。人によって経験は異なるから価値観も異なるが、誰もが経験すること、多数の人々に共通する経験もある。同じ経験でも異なる取捨選択をするが、共通する部分が圧倒的に多い。違いの方を意識しやすいが、人としての経験は共通する方が多く共感が可能である。
[1024]
人は社会生活で互いの利害を認め、調整する能力を獲得してきた。互いを理解する能力はミラー・ニューロンが良い証拠である。互いの協調、安定した社会秩序が互いの生活を支える。基本的社会秩序が成り立っているから、個別的利害を争い、人間関係にストレスを感じることも生じる。
[1025]
人それぞれの主観は互いの観念の同一性を絶対に検証できないにもかかわらず共有し、コミュニケーションが成り立っている。誤解はしばしば起こるが、正解が基本的に成り立っているから誤解であることが分かる。現実に価値観で対立することもあるが、対立自体同じものをめぐって対立する。対立しても同じ社会の中で互いに働きかけ合って生活している。社会が成り立っているから基礎では共通の価値観が育つ。共通の普遍的価値があるから特殊な流行も起こる。
[1026]
人それぞれの日常的評価にも普遍性がある。毎日繰り返される生活に根ざしているから普遍的である。日常生活が当たり前であるから、日常ではほとんどの選択が無意識に行われ、評価を意識的に問うことはない。生活習慣として日常の評価基準に縛られている。日常の評価基準を変えるには意識的努力が必要になる。余りにも当たり前の意識しない生活が続くと変化を求め、気分転換を求める。普遍的評価基準が脅かされるとうつ病にもなる。
[1027]
普遍的評価に個別的評価が加わる。自らの経験を基礎に周囲からの働きかけが加わり個別的環境条件ができる。親を始めとする周辺の人々、学校生活を中心とする人々との交流がそれぞれの価値観形成に影響を与え、個別的価値評価基準を形づくる。人間と人間とが相互に働き掛け合う関係での価値評価基準である。社会を主体とする社会的評価基準ではなく、それぞれの人間を主体とする人間関係での個別的価値評価基準である。
[1028]
個別的評価基準は人間的評価基準とともに個人的評価基準になる。それぞれの生物的、社会的、精神的、文化的能力の発揮に際して対象との関わりで個人的な価値評価基準が形成される。「好み」でありそれぞれの自己責任で自由な評価基準である。人にとやかく言われることのない、干渉されるいわれのない評価基準である。人との協調に価値を見いだす人も、人との競争に勝つことに価値を見いだす人もいる。
[1029]
価値観、評価基準はできあがってしまい、不変に固定されることはない。環境条件の変化に動揺する。動揺にとどまらず大きく変化することもある。変化には成長と適応と変節がある。様々な環境条件を経験して普遍的な自己を形成するのが成長である。環境条件の変化に合わせながらも自己を貫くのが適応である。環境条件の変化に迎合してそれまでの自己を放棄してしまうのが変節である。自己の普遍性の評価が基準になる。普遍性と個別性、大切なものと取るに足りないものの対立関係は相対的であり、言い訳は何とでもできる。普遍的であるから不変であるのか、不変であるから普遍的なのか。価値評価は評価対象と評価が再帰するから基準が決まらないとどうにでもなる。
[1030]
自分を基準にすれば明快である。対象を解釈するだけでどのような評価もできてしまう。変節しても過去の自分が誤りであって、今の自分は成長したことになる。あるいは環境条件の変化に合わせただけで同じ自分であると言える。普遍的なのは自分であると割り切れる。
[1031]
自分を基準にしないのであれば普遍的存在に基準を求め、普遍的あり方を追究する。最も普遍的存在は世界である。ただしどのような世界が普遍的であるのか、世界の普遍性とは何か、またまた循環する。普遍性が基準であり、基準は普遍性である。循環の出口は現実であり、実践である。多様で変化する世界で自分であり続けることで、普遍的世界と普遍的自分とを経験し、理解する。多様で変化する世界の多様性を理解することで、自分の世界理解をより普遍的にする。
[1032]
【評判】
人々の注目を集める評価は評価者を曖昧にした評判として流布される。一面的個人間評価も人伝に伝えられて評判になる。評判は注目されるから広く流布されるが、流布されることで注目を集める。評価者が曖昧であるため評判は信頼性に乏しく、マスメディアが発達した社会では評判が操作されて流布される。社会的権威が介すると評判が評価にすり替わる。評判になる物事に価値を認めてしまう。評判だけの価値は虚構である。
[1033]
人々が依存し合うこと、共感することを求めるにしても、依存、共感そのものには価値はない。価値があるのは依存し、共感する対象である。
[1034]
自分では評価できない対象を評判で選択することで評価する力を獲得できるようになる可能性はある。評価できない対象を評判だけで選択して満足しても自己欺瞞でしかない。評判だけで自ら評価できない価値に代価を費やすと詐欺にひっかかる。評判だけで満足するのは薬物依存と効果は同じである。
[1035]
流布する評判を評価しなおす多くの評論家がいる。評論家を評価することで直接評価できない情報、厖大な情報から有用な情報を得ることができる。評判を増幅する評判ではなく、評判を評価する評論を選択することが大切になる。
[1036]
【人間評価】
人間は社会的存在であり、社会代謝を担って生活しそれだけで尊重される。人間の価値は相互に働き掛け合い、それぞれの能力を発揮することにある。普遍的評価基準によって誰でもが評価されている。最低限人間として評価されなくては食糧も与えられず、医薬品も与えられず、見殺しどころか無視されたまま死んでいかざるをえない。評価の結果として死刑の判決を受ける者もいる。誰もがより良い評価を求めて生活している。評価を無視できるのは恵まれた人である。
[1037]
人間評価が特別に問題になるのは特別な能力、才能についてである。ただし才能の評価自体は社会的、歴史的である。動力が発達すれば筋力の評価は下がる。コンピュータによって記憶力、計算力の評価は下がる。社会、時代によって才能の社会的評価は変化する。
[1038]
社会的歴史的評価は世界の、社会の相対的関係でなされ、すべての人が報われるわけではない。今生きている数十憶の人の中には百万人に一人の才能を持つ者が数千人いるはずである。過去の人、未来の人を含めない現生の人の割合でである。しかし現実にはそのほとんどが見出されもせずに一生を終わる。千人に一人の才能であっても、見出されない可能性の方が大きく、才能をうまく引き出される可能性も小さい。運良く才能が見いだされたとしても、社会の状況によっては生かすことができないこともある。
[1039]
また特別な才能評価が相対的に選別されるなら、比較される相手によって結果は異なってしまう。個々の選抜に偶然が作用することがあるだけでなく、アロウの不可能性定理が示すように、組み合わせ順によって勝敗結果は異なる。勝ち抜き戦では優勝者は一人であるが、優勝が最高の才能を証明することにはならない。実践での優勝として賞賛される価値は十分あるが絶対的価値ではない。良い歴史的評価を受ける者は称賛に値する。しかし数々の幸運があったことも確実である。
[1040]
評価基準そのものの評価は歴史が画されていることを示す。芸術には既成の評価を超える価値の創造が求められる。新しい美の基準を見出すことも価値の創造である。技術的難度の基準を超えることも価値の創造である。難度の新しい水準は量的な価値の創造ではなく質的な価値の創造である。具体的には新しい芸術分野の創造、スポーツ技の難度の高度化等限りない価値創造が行われている。
[1041]
新しい価値が確立されてしまえば、新たな水準も簡単な当たり前に見えてしまう。完成度には限りがない。完成したと思えてもさらに完成すべき課題が見えてくる。際限のない価値の展開があるのに、自らの価値基準にとどまったまま評価を下すのは貧しい。逆に古代の作品には最新技術をもってしても再現できない価値を示すものがある。また歴史を経て残ってきた希少性に、次々と世代交代する個人は類的存在としての価値を見いだすのである。普遍的価値を共有することで個別的存在も普遍性を共有する。
[1042]
第2節 社会的評価
【個人間評価】
それぞれの個人が相手を評価することで互いが社会的評価を受ける。個人間の互いの評価が社会的評価になる。それぞれの人間関係が一面的でも、生活に関わる様々な人との関係での評価が全人格的評価を形づくる。本人の自己評価にかかわらず、実際の対人関係での評価が全人格的評価である。実在としての人間は物として評価しても、生き物として評価しても人間としての評価にはならない。社会生活の中で人とどう関わっているかで人間として評価される。
[2001]
自己評価は本人の目指す方向性、そうありたい姿を基準にする個別的評価である。自己評価であっても人と比べて評価している。人との違いを求めようと、違うことの価値自体が人との比較である。人との比較ではなく、過去の自分、目指そうとする自分との比較を望もうと、その基準は人との関係にある。過去の自分を越える到達点に立つ自分もやはり人との関係にある。荒野で一人暮らすなら人は評価のしようがなく意味をなさないが、自己評価も意味をなさない。評価は人との関係で成り立つ。
[2002]
生活に偏りがあれば偏って評価される。仕事人間、遊び人、求道者等様々な類型に分類されるが、人それぞれの生活のありようで関わる人が定まり、そこで評価される。一人の人にとっては評価対象に今まで知らなかった一面に気づき驚かされることはあっても、他の人にとっては未知ではない。誰にも知られなかったことは新たなことであり、本人の変化であって、本人にとっても新規である。
[2003]
人に知られることのない秘密の中身は、本人にとって人格的に重要な意味があっても社会的意味はない。社会にとって、他者にとって秘事として外延、外形が評価されるか、無視されるかである。隠し事のある人と評価されても、何を隠しているかは評価のしようがない。本人の「こうありたい」という希望も希望であって、希望を抱く人と評価されても、希望を実現した人とは評価されない。
[2004]
個人間評価によって社会的地位が与えられる。人の力関係での地位もあれば、制度的地位もある。制度的地位へは個人間評価の一面によって選抜される。制度的地位を担う資質、資格を満たしていることで選抜される。選抜者との個人間関係で他の被選抜者と比較されて評価される。あるいは互いの個人間関係で評価し合い、互選する。
[2005]
人の制度的地位は社会代謝を担う社会関係にある。社会関係に地位を得てそこでの個人間評価は組織的評価である。経済活動を担う多くの人は組織的評価を基準にして自己を評価する。社会組織的地位を自分の評価のすべてにしてしまう。社会的役割には歴史的、地域的、社会構造的制限があり、全人格的評価にはならない。社会的組織的評価を反省して全人格的自己評価を繰り返すことで、個人間評価も全人格的評価を受ける。
[2006]
血縁関係には選択の余地がないが、他の人間関係は選択できる。地縁があっても誰とどの程度の付き合うか選択できる。相手を評価して付き合い、人間関係が形成される。
[2007]
人が集まれば個人間で評価され、互いの位置が定まる。互いの理解が深まるほどに互いの位置が確定する。主体的に相手を選択しない場合でも、何らかの都合で集められた人々の間でも相互に評価し合う。同じ人間でありつつ、個性を持った人間として、互いに相対する関係にあれば互いを評価し、態度を決定する。集められた都合が争い合ううためか、協力するためかにかかわらず、互の個性を探る。互いの個性と力量を探って評価する。得手不得手、向き不向きを評価しつつ互いの役割分担、自分の執り位置を占める。
[2008]
個人間評価を通して信頼できる人とのつながりができる。信頼する人に信頼されるように自らを律する。日常的に信頼する人との交流ができなくとも、より多くの信頼できる人と関わることで、自分についての個人間評価を強固にできる。最も確かに信頼できる人々は人類である。悪さをする人も次々と生み出すけれども、ここまで到達した人類を信頼するしかない。悪さをする人は目立つが、それ以上に多くの良い人がいる。
[2009]
信頼は自己批判と相互批判ができることである。信頼は自己批判と相互批判によってもたらされる。日常生活での人間関係で信頼できる人を評価し、信頼関係をつくる。自己批判・相互批判ができなくなった関係への依存は、信頼ではなく判断停止である。社会運動であれば信頼できる組織を作り、信頼できる組織に参加する。
[2010]
様々な集まりでそれぞれに個人間評価がなされ、その評価全体として全人格的評価が成る。全人格的評価は特定の誰かによって下されるのではない。誰かに全人格的に理解されることはありえない。自分自身でも自身の全人格的評価を理解しきれない。生きることに、評価にかかわらない全人格が現れる。
[2011]
【家族の評価】
人間存在それだけで肯定的に評価をするのが家族である。家族の評価は社会的評価からは独立している。生きていること自体、死んでしまっても受け入れるのが家族での評価である。家族の評価基準は社会的評価基準とはまったく異なる。家族は社会的評価を目指して励ますことはあっても、社会的評価は家庭内での評価にはならない。
[2012]
どのような社会的能力があるか、どのような社会的地位を獲得しているかは家族の評価基準にはならない。いい学校、いい会社、いい職業に就くことは家族の生活手段を豊かにしはするが、家庭生活を豊かにする保証にはならない。社会的に高い評価を得ることは家庭を豊かにする十分条件ではあるが、必要条件ではない。家族の評価では必要条件と十分条件の関係が通常の論理的関係とは逆になっている。
[2013]
家族の評価に社会的評価基準を持ち込むことは家庭を否定する。家庭に社会の的評価基準を持ち込んでは、家族間の関係が他人同士の関係と同じになってしまう。社会のしわ寄せを防ぐのではなく、家庭内で弱い立場の者にしわ寄せすることになる。
[2014]
【社会的評価】
評価される者としての評価対象は唯一自分である。逆に評価する場合の評価対象には人と仕事がある。人は能力で評価し、仕事は成果で評価する。人が何を考えているか分からなくても、達成された仕事は分かりやすい。
[2015]
人の能力を直接評価することは難しい。何を能力として認めるかは仕事に必要な能力によって異なる。計測できる能力だけでなく、指導力などは直接計測のしようがない。時に人は挫折し、能力を発揮できなくなる。能力は発揮されて実証されるが、発揮するには環境条件も偶然も作用する。結局仕事を理解し、人を理解する評価者の能力で評価するしかない。組織としては評価者を評価することで評価の失敗を少なくする。
[2016]
人のなした仕事によってその人を評価するのが実証的であるが、仕事には定型的仕事と創造的仕事がある。個々の仕事の分類としてもあるが、それぞれの仕事に定型的側面と創造的側面がある。それぞれで仕事の評価は異なるし、人の評価も異なる。
[2017]
定型的仕事は社会代謝過程の連関にあって、他の仕事との関係で内容が決まる仕事である。定型的仕事は仕事内容をこなせる能力、資格さえあれば誰にでも担うことができる。社会代謝の基幹を支える仕事である。定型的仕事によって社会代謝は維持される。
[2018]
定型的仕事を担う人はこなせる能力の有無で評価される。定型的仕事を任せる人を複数から選抜するには公平性が問題になる。公平な手続で選抜が行われなくては評価が信頼されなくなる。
[2019]
創造的仕事はこれまでにない成果をもたらす仕事である。人それぞれのもつ特殊な能力を生かす仕事である。社会代謝に発展をもたらす仕事である。
[2020]
創造的仕事を任せるには被評価者と評価者の能力を信頼するしかない。創造的仕事への選抜は機会の平等であり、選抜への働きかけも被選抜者の能力の一部である。
[2021]
定型的仕事であっても創造性は必要である。社会代謝は変化する過程であり、環境条件も変化する。定型的仕事も不変ではなく、変化に対応する必要がある。問題が生じたなら解決しなくてはならない。機械では対応できない問題が生じた時に対応できるのは人間である。さらに問題を事前に予測し対応できるように備えることが創造的仕事である。定型的仕事の進捗過程を把握し統御するのは創造性である。
[2022]
【評価と報酬】
人間関係では評価されること自体が報酬である。評価されず、無視されることは人間性の否定である。人間関係での評価の高低は相対的であり、評価する人によって異なり、評価基準によって異なるが、相互評価である。人間関係では低い評価でも無視はされていない。
[2023]
社会的な人の評価は選択のためであり、取引を目的にし報酬を結果する。被評価者は報酬を選択して求め、評価者は与える報酬を分ける。
[2024]
社会関係での報酬は有形無形様々である。社会的価値の一般的等価を表徴する貨幣が最も一般的である。一般的過ぎる貨幣に代わる物品は評価自体が相対的である。最も抽象的な報酬は名誉である。その他に社会的報酬として地位、機会、権限がある。
[2025]
社会的評価は一回きりではなく、評価によって得た地位、機会、権限によって次の仕事が期待され、評価される。人間としての評価ではなく、それらの地位と権限を担う人としての評価である。地位と権限がその人の評価ではなく、地位と権限で担う仕事によって人が評価される。
[2026]
評価と報酬は釣り合いが取れていることが望ましいが、釣り合いが崩れることで様々な社会問題が生じる。正しい評価を求めるより、より大きな報酬を求める人の方が多い。報酬には限りがあり、より多くを求めることは奪い合いになる。名誉ですら多く与えられるほど一件ごとの価値は下がってしまう。
[2027]
【疎外される評価】
社会が安定化するほど、社会的評価体系は社会の隅々にまで及び整合され画一化される。効率的に評価するには基準を単純化する。既成の価値基準が淘汰され多様性が減少する。社会の安定は少数の価値基準による評価になる。
[2028]
評価を受ける者も評価基準を満たすことに集中するようになる。制度化された評価基準を満たせば一度の評価で、あるいは数回の評価で一生が保証され、よほどの問題を起こさない限り、巻き込まれない限り何もしなくても、怠惰であっても生活が保証される。多様な能力、全人格的能力を伸ばすのではなく評価基準を超えることだけを目指す。
[2029]
社会的評価基準も社会組織も硬直化する。高次階の運営管理自体が硬直化する。組織の硬直化は組織を疲弊し、腐敗させる。社会の運営責任が不明確になり、様々な改善は構造全体の改善ではなくつじつま合わせになる。
[2030]
多様な価値観が認められなくなり、既存の社会評価体系だけが唯一の価値体系として社会を支配する。既存の社会評価体系以外の価値は社会的に認められず、無視され、切り捨てられる。多様な生き方が否定され、既存の社会的評価体系にしたがって人間の勝ち負けが決まる。社会的閉塞状態である。既存の社会評価体系に飲み込まれるのも疎外であり、抜け出しても疎外されることになる。
[2031]
労働者は権限と処遇の評価法について経験し、権利と制度として蓄積しする。互いの労働を評価し、上下の地位にある者を評価する方法、制度を作り出す。組織的評価は自己批判と相互批判によって反省され、完全性と健全性を追究する。公正な評価を実現する制度作りと経験の蓄積が新しい社会秩序の根幹になる。
[2032]
第3節 自己評価
それぞれの人にとって最終的評価は自己評価である。人がどのように評価しようが、人の自分についての評価を含めて自分のことは自分で評価する。納得いくもいかないも自分のことは自分で評価する。
[3001]
自己評価は人と比べても仕方ない。自分についての自分に対しての評価である。自己評価には評価に応じる報酬がない。他に対する評価なら報酬を区別し、替えることもできるが自己評価では報酬そのものがない。他の人を評価して対応や、処遇を変えることには意味があっても、自分自身に対して対応や処遇を変えることはできない。自己評価によって得られるのは満足度でしかない。自己評価は他は関わらない絶対評価である。自分は自分以外ではありえない。
[3002]
自己評価は絶対評価であっても唯我論にはならない。自己だけでは評価は成り立たず、評価は自己と他との関係として成り立つ。他をより広く、すべてを全体としてとらえ、その他と自己の関係を評価する。より普遍的世界理解を評価基準に自己を評価する。
[3003]
報酬のない自己評価は自己のこれからを方向付けるための評価である。余命なくともどのように死を受け入れるかを方向付ける。
[3004]
楽しかったこと、頑張ったこと、手抜きしたこと、怠けたことは人に知られなくとも自分にとっては隠さず明らかになっている。自分をごまかすようでは、人をだませても、評価そのものの意味がなくなる。楽しい、嬉しい、悲しい、寂しい、苦しい等の感情は思い描けても、直接感じるのは実感としてである。肉体的、精神的に操作しても感情を実感することはできない。楽しいと実感できる実践を積み重ねることが良い自己評価をもたらす。演出された楽しさではなく、自ら実践することでの楽しさである。
[3005]
自己評価は主観的であり、客観のしようがない。しかも自己評価は感情の有り様、気分によって異なる。感情の有り様、気分は自分自身ではどうにもしようがない。自律神経系に働きかける訓練でもしないと制御できない。簡単にできることは体を動かし、休み、環境を変えてみる。自分以外の物事との関係を変えて気分転換を図る。評価する自分を変えることで今とは違う状態の自分を評価できる。
[3006]
変化する主観の有り様をとおして自己の普遍的評価が可能である。高揚しているときの自己評価と、落ち込んでいるときの自己評価を含めて自分自身を見通す。反省によってより普遍的な自己評価ができる。
[3007]
実時間での評価と反省しての評価、反省も対象期間の長短とることでより全体としての自分を評価する。取り組む課題ごとに、あるいは一日、一週間、一月、一年と期間を限り、さらにこれまでの人生を通して評価する。
[3008]
繰り返し反省することで自己評価も深まる。さまざまな視点から自らを反省することによって、より普遍的に自己を評価できる。
[3009]
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