人間の社会集団にも同じことが言えるように思える。しかし人間として主体的、創造的に生きようとするなら、個別集団内での相対的位置に満足はしない。
[2008]
【個人の能力】
物質的、生物的能力は人によってそれほど大きくは違わない。誰にとっても1日は24時間であり、食事と排泄と睡眠を必要とする。身体を維持するには最低、最大の大きさ、重さの限界がある。普通の人とプロ・スポーツの記録と比較しても生理的能力の差は何十倍にはならない。成果として何百倍もの差がでるのは持続力による。単純に計算して単位時間当りの能力が同じであっても、倍の時間継続すれば倍の結果をえる。訓練による力の差が持続力によって倍加される。
[2009]
人間の能力差を拡大するのは社会的力である。個人が世界を支配し、国を支配できるのも社会的力による。生活環境、社会的地位、社会的手段によって大きな差ができる。それらを手に入れ、活用する才能と努力は人によってそれほど違わない。どの様な天才も個人の力だけで社会的影響力を持てない。互いに利用し合う組織を作ることで社会を支配する。ただ社会支配はできたとしても、最大でも数十年間でしかない。
[2010]
社会的力は人を支配し、社会的地位に就くことだけによって獲得されるのではない。協力をえること、共同を組織すること、支持をえることによって社会的力を増大することができる。
[2011]
知的能力の成果に質的飛躍はあっても、中枢神経系の能力そのものは普遍的である。コンピュータの能力には桁違いの差があり、ますます高められているのと違い、人の知的能力には生理的条件の大きな差はない。大脳の半分が失われても生活できる。人にはコンピュータにまねできない認知能力、学習能力がある。母国語なら誰にでも会話できる言語能力がある。どのように人の知的能力が実現されているかを解明できてはいないが、天才も凡人も同じ規格の脳を使っている。使い方の違いだけで結果に大きな違いが出る。
[2012]
人の能力の差は健常者と障害者の格差として問題になる。しかし健常者と障害者の区分は社会保障等の制度的、便宜的区分にあるにすぎない。一見明らかな差は特定の健常者と、特定の障害者を比べることによる差である。
[2013]
健常者といっても心身どこにも問題のない人は希である。その希な人でも一生問題なく過ごすことはできない。生まれた時は保育されなくては生きていけない赤ん坊であった。最後は病気でなくとも老衰する。それぞれ問題をはらみながらも、人それぞれにできることを実現している。
[2014]
第3節 生活手段
【役割の選択】
個人、人それぞれ環境に生まれ、環境の中で育てられる。どの様な環境であれ、人類の一員として、現代国家の一構成員として、それぞれの経済、社会、文化的役割を期待されている。自らが意識する前から親や周囲の人々のから期待されている。期待を含めた環境がそれぞれに課題を提示している。
[3001]
自らの方向を選択するに際し、与えられた環境だけでなく環境そのものを選択することもできる。世の中一般で最も必要とされている役割を選択することもできる。最も困っている人を助けようとする人もいる。社会の主要矛盾に立ち向かう人もいる。人間としてなすべき事に純粋に取り組む人々がいる。やり遂げてしまう人々がいる。
[3002]
しかしすべてのひとがこのような純粋な生き方をしたのでは社会が成り立たない。戦略的にも誤りである。主要矛盾だけによって現実が規定されてはいない。主要矛盾は決定的ではあるが、すべての矛盾の集中的発現であるから主要なのである。主要であることが現実性ではない。現実はすべての矛盾によって規定されている。主要矛盾自体が相対的なものであって転化する。また心ある者が、すべて主要矛盾に集中したなら、戦術的な敗北が戦略的敗北に転化してしまう。敵は大義名分など捜さずに千載一遇のチャンスとばかり一網打尽を狙うだろう。
[3003]
平凡人にはなかなかできない。できても互いに期間を限って交替で取り組む。人にはそれぞれ特性がある。それぞれに向いた課題がある。それぞれの能力を最大限に発揮できる環境条件をそれぞれに選択する。それぞれの配置で果たすべき役割がある。
[3004]
ただ情勢によっては、それぞれの能力の向き不向きなどに関わらず、人間であることを唯一の判断基準として、投げかけられた課題に取り組まなければならない時もある。それを躊躇するのが正真正銘の日和見である。これまでの経過で選択し、与えられてきた課題に取り組むことは日和見ではない。
[3005]
独自に新たな社会代謝を担う起業家もいる。既成の役割をきっちり担う人、役割以上の働きをする人がいる。主体としての実践が、自己実現が社会的役割に一致し、生活手段を獲得する人々がいる。
[3006]
社会代謝を担う役割が自己実現とは一致しない多数の人々がいる。自己実現が生活手段を得る糧として評価されない人がいる。社会的に評価されない価値世界に自己の価値を見いだす趣味人は、自己実現とは別に生活手段を手に入れる。親等からの遺産でもない限り、宝くじにでも当たらない限り、自己実現と生活手段の獲得を分けて生活することになる。
[3007]
【社会的地位の獲得】
社会代謝は生活財の分業と協業による生産と流通、そしてそれぞれの消費の過程である。社会代謝は生産と流通をより拡大することとして、より良く制御することとして発展してきた。生産のための消費も含め、すべての消費を制御することで社会代謝は持続する。この社会代謝を担うのが人の労働である。物を加工し、運ぶことは機械にもできる。情報を集め、計算し、提供することはコンピュータにもできる。しかし社会代謝は人の働きかけによって担われ、制御され、人それぞれの生活を保障する。
[3008]
社会代謝は人々の生活財を媒介する取引関係でもある。人々の取引関係が制度化され、取引するそれぞれの人の役割が社会的地位として定まる。新しい取引関係が生み出されれば、新しい社会的地位が作られる。組織の職制としての地位は報酬も含め組織的に定義された制度的地位であるが、一般的に社会代謝を担う地位がある。制度的地位が安定化すれば、地位を担う人の生活も安定する。
[3009]
資格、職権、報酬が定められる制度的地位は比較的安定した地位である。ただいずれの地位も完全に保証されてはいない。時代の変化に人々の期待はしばしば裏切られる。それ以上に職制上の地位は資格、職権、報酬をめぐって取引の対象になりる。資格のない者が占めたり、職権を乱用したり、報酬を水増して歪める。また制度的地位は就職口として景気や人々の思惑によって増えたり減ったりする。職制上の地位だけを基準にしたのでは社会代謝秩序は歪み、生活の糧を奪われる人々が出てくる。取引利益だけを基準にしたのでは社会代謝は歪んでしまう。
[3010]
制度的地位とは別に人間関係での地位がある。経験、能力、得手不得手、向き不向きによって互いの人間関係によって定まる人間関係での地位である。自己実現に生きる価値を認めるのであるなら、人間関係の地位を優先して制度的地位を求める。制度的地位に就いて創造的仕事を望むなら自らの経験、能力、得て、向いた仕事を求める。
[3011]
第4節 個人的普遍的課題
第1項 生活課題
【生活改善】
人間にとって基礎になるのは日常の生活である。歴史的、社会的制約は個人ではどうすることもできない。しかしいつの時代でも、どの社会でも人類は生活に楽しみを見つけてきた。救いようがない悲惨な状況に置かれる人の話も聞くが人為的状況である。物理化学的自然や肉食獣は残虐さを持ち合わせない。人間だけが悪魔と形容される残虐性を発揮する。人はそんな中でもわずかな希望と楽みで支えられる。自然災害や疾病での困難な生活にあっても、人々は生活に楽しみを見出し、文化を作り出してきた。文化は特権階級だけでは創られない。
[4001]
波乱万丈を楽しめる人はまれであり、多くの人は激変を避け安定した日常生活を目指す。日常生活を支えるのは習慣であり、改善するのは工夫である。習慣の中でも工夫することで生活は漸次改善する。習慣だけでは環境変化に対応できず、工夫だけでは安定しない。習慣と工夫のつりあいは人によって違うし、状況によっても変わる。習慣と工夫のつりあいをとるのが生活の基本的課題である。
[4002]
悪しき習慣は放置するのではなく、新しい習慣に置き換える。新しい習慣を身に付けるには意識的自己訓練による。身体運動の矯正、新しい種目への取り組みが意識的動作の反復練習によって無意識化することと同じである。課題として意識することで新しい習慣を身に付けることができる。
[4003]
工夫は課題を意識することから始まる。生活する上での困難を克服し、生活をより良くする課題を意識する。課題を意識するときにも目的と手段は相互に規定し合う。解決する手だてが明らかになって、目的を明確に捉えることができる。目的があって主体的に課題に取り組める。目的を明確に捉えることで手段を選択できる。
[4004]
工夫は問題を構成する秩序の理解であり、利用である。対象の秩序と対象と主体との関係秩序全体の構成を明らかにする。課題対象を多角的に、全体的に意識することで改善策に気がつく。秩序実現を妨げている条件を明らかにして取り除く、秩序創造を実現するための条件を明らかにして整える。
[4005]
【育児】
子育ては生活の基礎的課題である。世代交代しなくては社会代謝は持続しない。年金制度を誰が支えるかといった問題にとどまらず、連なる世代構成によって互いに支え合う生活が成り立つ。社会代謝の持続的発展だけではなく、技術、文化の継承は世代間での継承によって成り立つ。それぞれの親子・家庭で、地域で、職場で技術、文化が継承されることで社会の技術、文化は継承される。生活の持続には子育ては不可欠であり、子を産めなくても社会的子育てを担うことはできる。
[4006]
育児は子を育てるだけでなく親を育てる。子育てで人の成長に必要な物事を理解し、人の成長を知ることで人間を理解する。人が生きる上で必要なこと、関わることのすべてを経験しなおす。子のことでなら見栄や、恥にとらわれることなく、自分が生長する段階では意識できなかった過程を知ることができる。睡眠の確保、栄養の量とバランス、健康のための運動を子を育てることによって理解する。生活上必要なこと、生活のリズム、整理整頓、道具の操作、設備の操作習得を客観的に見る。社会生活で必要なこと、挨拶、立場の尊重、コミュニケーション、共同作業の進め方、規則に対する態度を育児の過程で自覚する。親は子どもにとっての手本であり、手本となる親は考え方、生き方を見直す。
[4007]
知るだけでなく人の成長過程を共有し、共感することができる。相手を選択する相対的関係ではなく、他に替えようのない特別な人間関係を築くことができる。
[4008]
育つ過程で受ける気配りの心地よさ、感情の交流による共感を経験する。成長してから「協調性がない」「他人を理解しようとしない」と言って非難し、本人の責任を追求しても意味がない。何故それが人間関係において必要なのか身についていないのだから。親、おとなが余裕をもって子に接し、気配りの心地よさ、達成感、感情の交流を体験できる生活が育児の環境、条件を整える。
[4009]
【生活知】
ヒトは社会での労働によって進化し、人間に成長する。人が生きる実在世界には過去も未来もない。人は実在世界のすべてどころか日常的なわずかな物事としか関わらない。人は過去にも、未来にも触れることはできず、身体を介して関わることのできる物事にしか触れることはできない。その実在世界での経験から時間と空間を見通し、普遍的な世界の有り様、世界の秩序、世界の普遍性を理解する。実在世界で生活し、実在世界を対象にして観念を観念世界を作り出す。
[4010]
人それぞれの観念世界は人それぞれの経験に基づき、他の人は直接触れることはできない。観念は物質ではない。観念は物質に媒介される意識によって、意識のうちに表れる区別と関係である。人の意識そのものが観念であり、意識は観念世界しか直接に関わることができない。意識は自らの身体と感覚に媒介され、自らの身体運動によって物質世界に働きかける。意識は観念世界と物質世界とを重ね合わせる。世界は物質世界と観念世界からなる実在世界として意識される。
[4011]
人は人々との共同によってことばを獲得し、ことばによって知識を共有し、ことばによって世界を表現できるようになった。ことばで実在世界秩序の関係形式を表現することができる。ことばによって観念世界を表現し、観念の関係を確かめることができる。観念世界は人それぞれの物質世界についての評価であり、物質世界の価値基準である。観念世界は人それぞれの独自の人格世界である。
[4012]
人は自らの観念世界を対象として意識するとは限らない。人は自らの観念世界を意識的に表現するとは限らない。重なる物質世界と観念世界とを一体の、唯一の実在世界として生き、生活する。ただ自らを反省し、観念世界を対象とする時、物質と観念の次元関係をとらえないと混乱する。混乱は物質世界でも、観念世界でも実害を招く。
[4013]
実在世界は常に変化し、人の身体を構成する物質も交換される。人の自己同一性は変化する世界にあって、変化しながら保存する自分自身の秩序、普遍性である。人は危うい実在世界での自らの存在をより確かな存在にするために意識する。成長し、老いても自らの身体を維持し、新たな経験を受け入れる自己を実現し続ける。
[4014]
人は自らの存在の確かさを求め、実在世界での他の存在に認められることを求める。人は自己主張する。人によっては物質世界の物事を所有することで自らの存在を確かなものにしようとする。人は物に執着する。人によっては物質世界の物事を作り出すことによって、自らの存在を確証しようとする。人は世界を表現する。人は人々との共同、共感に観念世界の普遍性を実感する。人はコミュニケートし、人を愛する。
[4015]
人それぞれの意識経験は他にはありえない経験である。人に代わってその人の意識を経験することはできない。自らの意識経験から人の意識経験を想像できるだけである。人には人の意識経験に共感できる能力が備わっているが、それでも共感し、想像できるだけであって自らの意識経験は自らだけのものである。自らの存在を追及する人のなかには、意識経験から理解する世界に孤独を感じる人がいる。寂寞とした世界を感じる人がいる。
[4016]
孤独を超えるのは協同であり、共感である。人は経験を共有し、知識を共有することで世界の秩序を表現し、理解する。世界はことばで、音の響きで、物の形象で、人の心身で表現される。
[4017]
第2項 よりどころ
生きる「よりどころ」は初めは誰にも与えられている。生物として、人間として、その時代のその社会に生まれたところが「よりどころ」となる。しかし人間は自己を確立する過程で自己自身の「よりどころ」を選び、つくる。与えられた「よりどころ」から出発して、自分自身に与える「よりどころ」を創り出す。
[4018]
「よりどころ」は出発点であり到達点である。「よりどころ」がなければ意思は夢想になって消える。意思自体「よりどころ」によって成り立つ。環境条件にほんろうされながら、自己を作りかえながら自己同一性を貫く「よりどころ」である。拠点であり、到達目標地点である。
[4019]
自らの評価基準、価値観として世界、そして社会を評価し、その中に自らを位置づけるよりどころである。自分自ら進む方向性をぶらさない価値体系を固める。よりどころでの自らの評価基準を定めることと価値の実現、自らの実現とは相補的であり、一方のみ、あるいは両者の区別が無いのではない。目的は実現できるから目的であり、努力はするから努力であり、努力によって目的は達せられ、努力が不要では目的ではない。
[4020]
属する社会が反動化し、堕落する中では日々真っ当であることすら努力を要する。よい仕事をしようとする努力、よい仕事の判断基準を堅持すること自体が困難になる。善であろうとする意志をくじく人や物事が増える。たまたま生活が安定していることで自らの失敗を免れているにもかかわらず、自らは絶対に失敗しないと思い込んでいる人が増える。人に厳しく自分に甘い二重基準の人が現われる。積極的悪人ではなくとも、善に無関心な、人の意思を偽善として否定する人が増える。励ましをもたらしてくれる人や物事がなかなか眼につかなくなる。
[4021]
社会が提供する価値観を疑問ももたずに受け入れては普遍的な生き方はできない。世の中には社会的取引価格で評価し売買することのできない物事がある。世間の言い値に問題意識を持たないのは「過剰適応症候群」的生き方である。その言い値価格の暴落によって「燃えつき症候群」に陥ってしまう。
[4022]
組織、職階、富、資格にもとづく価値評価は客観的である。しかし客観的であっても歴史的・社会的に制約されていては「客観」は「既成」であって保守・革新いずれにあっても普遍性はない。既成の知にとらわれ、自らの無知、あるいは社会的無知では普遍性に至らない。偶然、全体の変化の中で既成の価値は崩壊、瓦解して、個人に留まっていては対応できない。
[4023]
社会の状況に左右されない孤高の「人格」実現を求めても現実から離れてしまう。自己実現に忠実であろうとし、私的生活、内面生活を社会から隔離しては生活できない。家族だけを守るマイホーム主義では社会に支えられる家庭は浮いてしまう。刹那的行動に人生を賭ける自己実現では人々とつながれない。これらの傾向に揺れ動いていてはよりどころはえられない。
[4024]
生活態度、判断基準等に対する周囲の支持、共感といった主観的価値基準、相対的価値基準もある。宗教の「よりどころ」は本来この相対的主観的な価値観である。人間を超えた存在をよりどころとしても、当人の理解を超えることはできない。他者によって提示されるよりどころは、当人にとっては固定された絶対的価値基準となり、当人が理解できるそれだけのものでしかない。人によって大小は違っても個人の理解できる範囲に止まってしまう。多くの場合、宗教のこの主観的価値観が組織、職階、富、資格によって利用され、政治的に利用されている。
[4025]
信じる対象としての過去は記憶でしかない。過去のことば、過去の出来事は忘れられることはあっても変えることはできない。過去のことば、過去の出来事は現在では観念としてしか存在せず、表現されるだけである。過去の出来事は信じても、信じなくとも現在表現としてだけ存在し、違いの生じようがない。過去を信じることは実践に際し、現在表現を信頼しているだけである。未来については信じることに意味はなく、期待できるだけである。信じることは判断根拠を繰り返し追及することで今現在の根拠になる。
[4026]
「判断根拠を疑うこと、信頼性を問題にするのは信じていないからである。」と判断を停止してしまうことは、信じることと信じないこととの違いを否定する。信じることは全面依存ではない。
[4027]
生まれたときから人間の優しさに依存し、裏切られて頑なになる。頑なになっても人とつながり、生活している。世知辛い世の中であるほど組織が人を取り込むのに優しさを利用する。しかしその組織自体が優しくなければ優しさを継続できない。優しさを継続できなくなれば地位や名誉、共同幻想、恐怖支配といった代わる手段を講じる。取り込む手段としての優しさに自己犠牲で応えてしまってはそれこそ自らを失う。
[4028]
人の感情・意思をとらえる感受性、人の創造性を認める感受性を豊かにすれば人を信頼できる。感情、意思、創造性を交歓できる文化的生活によって信頼できる人に巡り逢える。価値に対する感受性を知的に、組織的に、可能なら制度的に保障することで生活をより確かにできる。主体的価値基準を観念にとどめず現実の人間関係に構築できる。
[4029]
空間的、時間的に離れていても人間としての実績を互いのを励ましにできる。人間としての実績に接し、理解し、評価できることも、みずからのよりどころを確信させてくれる。まばゆいばかりの人の、人間の輝きにめぐり逢い、自分も周囲の人々の中で少しばかり誇らしく輝く。
[4030]
第3項 自己実現
肉体としての自己実現も生理的代謝秩序の実現としてある。知的自己、社会的自己も含めて人間としての自己実現がある。
[4031]
「よりどころ」に依拠し、「よりどころ」を出発点として自らを現実に創り出す過程が自己実現の過程であり、自己形成の過程である。周囲に評価された結果と関わりなく、結果を創り出す過程に現実と自己を実現する。結果と過程が一体となる、自己完結的な過程で人は充実し、過程に夢中になる。
[4032]
理想は「理想」としてあるのであって、現実にはない。誰も「理想」の世界に生きることはできない。「理想」と現実の関係を関係として、一歩下がって「理想」を現実化する過程が理想の生き方である。「一歩下がる」視点が「理想」と現実の対立関係を超えた関係で次元を超える。実践的生き方が理想、理念を現実化する生き方を可能にする。
[4033]
理想を実現することは、現実変革能力の発揮である。対象を変革することは、自己を変革することである。特に社会関係にあっては自己変革が周囲の人間関係を変革し、社会全体の変革に通ずる。同時に自己変革は内省によるのではなく、自己の社会関係から自己を規定しなおす。現実変革は自己変革であり、自己実現である。現実に合わせて自己を欺き、現実を受け入れてしまう自己規制ではない。理想を空想する観念的逃避ではない。
[4034]
すべての人に現実変革能力が備わっている。人間にはすべて自己実現能力が備わっている。しかしすべての人の自己実現が評価されるとは限らない。評価基準が画一化され、それも男の企業戦士が人間基準とされる社会では、その他の者の自己実現が評価されないどころか、自己実現の可能性すら潰される。
[4035]
すべての人間が自己実現を認められる社会を、軟弱な非生産的理想と否定する者こそ自己実現・自己変革能力を失った者たちである。
[4036]
自己を実現し自己を訓練する一つの指標はどれだけ多くの人々を対象にするかである。一度に対象にする人数が多いほど、間接的にでも対象にする人数が多いほど実現する自己は大きくなる。どのように人に対するかの質とは違った量としての人間の大きさである。人間の大きさは自信として現われ、自信は場数により、場の延べ人数に比例する。人との関わりの多さが人の大きさになり、大きな人との関わりによって間接的に多くの人と関わる。大きな人との関わりが虎の威を借りることにならないように、人間と人間との関わりとしてより多くの人々と関わる。悪徳政治家、ヒトラーであってもその物事を成し遂げる能力は大きい。訓練をいとうて過ごしてきた者が、訓練を積んできた人を揶揄することは滑稽である。
[4037]
具体的な人を相手にして具体的な訓練ができる。しかし無意識にでも想定する相手でも訓練になる。より普遍性の追求はより多くの人に通ずる。作品を作り出す芸術家など当人は赤貧のうちに死んでも、普遍的成果は多くの人に長く受け入れられる。作品を作り上げる過程でより多くの視点で作品と向き合うことで、より多くの人に受け入れられる普遍性を作品に現す。
[4038]
人との関わりを避けてきた私、著者として、人の大きさがうらやましい。
[4039]
自己実現は自分の存在秩序を理解し、未来の秩序をつくり出していく創造的主体の問題である。自己実現は人間規範を実現する道徳実践である。自ら創造する経験、豊かな達成経験によって将来の多様な可能性を見い出す。多様な可能性を追求することで豊かな自己規範が作られる。
[4040]
第4項 節操
どの様な状況にあっても自分に対して、そして人類に対しての節操が自己規範である。敵対する人々に囲まれ、暴力も含めあらゆる威嚇にさらされても、自らの失敗、悪事が見逃されても、保障された生活で怠惰に流されそうになっても、大切なのは節操である。
[4041]
節操を守ることはスーパーマンになることではない。絶対に裏切らないとか、死んでも真実を曲げない、そんなことを自分に期待したらつぶれてしまう。自らの存在を規定する自己規範だけを守る。自らの肉体的力、精神的力には限りがあり、それをはるかに超える力を持つ人がいる。多数の人に捕らえられてかなう力などもてない。まして老いればもてる力も衰える。それでも自己規範は他の人には干渉できない。自己規範は自分だけが決め、使える力である。自分がありたい姿、あるべき自分を成り立たせる自己秩序、自己規範を破れるのは自分だけである。自己規範を破るのに努力はいらない。努力や意志を放棄すればそれだけで破ることができる。
[4042]
節操を失った時の生活の重みは重力井戸のようである。活動エネルギーだけでなく、意思までも引き込んでしまう。自らの支えを失い、引き止めるものを失ってどこまでも落ち込んでいく。どの様に立派な業績を残した人であろうと、壮大な理論を展開した人であろうと、この自己崩壊の重力井戸には逆らえないようだ。しかし地球人にとって、地上で生活している時に地球の重力は普通苦にならない。節操を問われなければ、生活の重みは意識されない。
[4043]
節操を守るということは教条的になることではない。教条化は思考停止であり、自己実現の放棄である。ただ教条化も使いようでは自分を守る。判断力に対する心理攻撃に対しては、攻撃開始の時点での判断を教条化することでひとつの自衛手段になる。思い悩めば心理攻撃に耐えることはできない。思い悩むことを停止してしまえば、心理攻撃でも自己規範へは及ばない。常日頃、自分の判断力が歪んだり、揺らいだりする時の兆候、指標を知っておくことで心理攻撃に気づくことが可能になる。
[4044]
不正が許される状況を自らにも許してしまうことは節操の問題にとどまらない。自分にとっては重大な自身の不正も、権力者にとっては取るに足りない不正である。それでも権力者はわずかな不正を黙認することで、人の自己規範を自滅させる。権力者は人の弱みを探しだし、つけ込むことにたけている。権力者はどんな破廉恥なことでも自分たちの悪事をもみ消せる。権力者はあらゆる悪さを経験し、悪さをかぎつける臭覚を持っている。
[4045]
自分の立場を維持しながらできる不正は、慣習的に認められていることもあれば、程度の基準の取り方によってどうにでも判断されることもある。権力は反権力に対しては取り締まり基準を勝手に変える。自らの手段を目的のためとして基準を緩めて正当化すればつけ込んでくる。不正を自らに許すことは人の不正を許し、ひいては巨悪の不正を許すことにつながる。
[4046]
【暴力】
暴力は肉体に対する、物に対する破壊的力に限らない。社会的、精神的力による暴力もある。暴力は一般に基本的人権に対する侵害である。
[4047]
病気でないのに暴力に狂うのは人間だけであり、人間性を否定するのは人間性ゆえである。動物は動物性を対象にする能力を持たない。人間性をも否定してしまうのが人間性であり、人間性を高めうるのも人間性である。パスカルは「人間は天使でもなければ野獣でもない。困るのは、天使のように振る舞おうと思っている人々が、実は野獣のように振る舞うことである」と書いたそうだ。
[4048]
暴力自体が目的になった暴力。薬物等による錯乱を原因とする理由なき暴力。暴力を合理化する戦争での抑制を失った暴力。私的思い込みを晴らす思想的弱者、圧倒的軍事力を持たない社会的弱者が強者に復讐するテロル。心ならずも信頼を裏切らせ,人間性否定を強要する攻撃。人間性の実現を、人間の創造性、協調性を否定する暴力。個人的サボタージュ、横領、欺まん、そして自分の社会的立場を理解しようとしない自己中心性。これらも、社会関係、人間関係を破壊する暴力である。
[4049]
人類史で暴力のなかった社会、歴史はわずかである。権力のあるところ暴力がふるわれる。暴力の行使者自体の非人間化と、その非人間性へ被害者を巻き込む状況に対し、直接、間接の被害者として、社会の一員としてどうするのか。自分の子供に対してこうした暴力が向けられたら「考えを整理して」などと言っていられない。「暴力の存在はやむをえない」と言えるのか。「暴力否定はきれい事」などと言えるのか。事件報道、フィクションでしかなかった暴力に実際に遭遇した時どうするのか。
[4050]
絶対的な力を持つ相手に勝とうなどとしても、相手をだしぬこうとあせっても、それは相手を楽しませるだけである。「何とかなるかもしれない」「こちらの弱みの全部がつかまれているわけではない」などとあなどらず、自分に残された確かな条件の中で、最低限守るべき自己規範を確認する。それでも味方に理解されなかったらやむをえない。自分自身で納得するしかない。開き直って、節操だけを守る、誤りを犯したら直ちに改める。少しの妥協が、決定的破滅につながる。日常では多少の誤りも、意識的な誤りも許されても、権力から攻撃では少しの誤りも自らと、自らの人間性を失うことになる。
[4051]
第5項 協働、共感
実践し、励まし、いたわる。人間は類として同じ基盤に立ち、互いの人格を尊重して生活する。皆が互いに尊敬できる社会は人類社会の普遍的価値である。繰り返された侵略に踏みにじられ、ヨーロッパ人による植民地化によって、資本主義の世界市場化によって否定されたが。
[4052]
自らの能力を見いだし、自己を実現する。体力・知力の創造的発露として自分の存在、運動を実現する。協働することで連帯する。
[4053]
弱点を補い合う競争は自らを育てる。全体を見渡し、全体の環境条件を整える競争である。仲間に配慮し、全体に配慮する競争が人間の競争であって、勝利に満足できる競争である。どれだけ互いに貢献できるかの競争である。相手を潰し、切り捨てる競争ではない。
[4054]
互いの能力の実現、価値創造は連帯する者を励ます。日常生活に疲れ、展望を失った時、同じ気持ち、同じ価値観でなくとも、新しい価値の創造は励ましになる。それぞれの得意とする分野で新生面を切り開く、これまでの概念を超える成果を示す。自ら価値を創造できなくとも、価値を評価し、伝えることで互いの励ましになる。
[4055]
より困難な環境条件の弱者をいたわる。弱者の、他人の条件、環境の困難さを理解、知る。可能な援助、協力で本人の自立、互いの自己実現をめざす。気持ちだけでなく、可能な援助をためらうことなく実行できるように経験を厭わない。弱者への配慮は弱者の為だけではなく、すべての人へが自己実現する環境になる。
[4056]
社会組織として、社会制度として成果、経験を蓄積する。標語を掲げることや互いの満足で終わらせない。それぞれの能力で社会代謝に貢献する者が、尊厳を持って生活する。
[4057]
第6項 人格の陶冶
人格、愛、理想などはやらない時代になった。
[4058]
人間的に生きる努力をしたら、人間的に暮らせるということにはならない。より人間的な生き方が人間の格をつくったはずなのに。平等な人間関係を引き裂き人間の格差がつくりだされる。しかし人格など求めるものでなく結果である。
[4059]
自分を見失ったとして一人になりたがる人もいる。しかし孤立しては人間を見ることはできない。人は人間社会の内に生まれ、内で人間に育ち、人間社会に働きかけて生活する。「自分」は人間関係の中に実現していく。人間を好きになるか、嫌いになるかの好みの問題ではない。その内で自分を守り、変革し、実現する。
[4060]
あっけなく事故で死ぬかもしれない。自分の存在を許さぬ人の中に放り込まれるかもしれない。人などわずかな社会的変動で、自然の力で消し去られる。
[4061]
日常も単調であるようでいて繰り返しではない。自然も、社会も、自分自身も常に変わっている。疲れるのは当たり前である。疲れないようにし、疲れたら休む。誤りを犯すのも当たり前のことである。誤りの中から見い出すのが真実である。誤ってしまったら速やかに改める。迷うことも当たり前である。現実に対立があり、対立の中に組み込まれていて悩まないわけがない。疲れず、誤らず、迷わない人間などいない。人間は確固と完成した彫像ではない。
[4062]
すべてを許し、すべてを愛することはできない。すべての肯定は何も肯定も、否定もしない。感情を抑えることはない。豊かな感情を育てる。欲望を抑えることはない。空間的に、時間的に、肉体的に、精神的に限りある自分の資源で実現できる欲望を選択する。心身の健康をつくる。肉体的にも、精神的にも自らの目標を意識的に掲げ、実現するため生きる。待つことなく進み、生活する。世界を知り、理解する。価値を見い出し、方向を見い出す。生物的能力によっては限定されない人間として。
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なすべきことを明確にし、集中し、継続する。
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