熊本藩細川家家臣先祖附安東の部 拡大
   
先祖安東式部少輔は代々大友家に御座るに、日向国の耳川で戦死した
右式部少輔の嫡子安東五助が大友家代々の感状書出を持参しておること、
且つ又、親式部少輔が戦死し様子など
委細は加賀山隼人の方より
三斎様に尊聴に達し候処右初代五助に慶長十四年に御前に召出され
豊前に御知行三百石を拝領されたし後、江戸城普請の御用を仰せ付かり
行く道に遠江灘で船が破損して溺死しました。

二代目 曽祖父安東小平汰は右五助の嫡男にて、三斎様の御代の元和元年
に、親五助のご拝領二百石に二百石を拝領され、名を弥汰左衛門に改名。
真源院様の御代に正保二年に病死。

三代目 曽祖父安東山三郎は真源院様の御代正保二年、弥汰左衛門より
相続し、名を小左衛門に改名。
妙応院様御代に病気を患い延宝七年十月に隠居。

四代目 祖父安東七兵衛は右小左衛門の嫡男にて、延宝七年小左衛門より
相続し、元禄七年二月、八代御城付を仰せ付かり、その後病気の為
正徳五年八月隠居。

五代目 父安東小平汰は細川備後守の家来安東弥汰左衛門の弟になる
右七兵衛、正徳五年八月家禄拝領し、享保六年八代御城付を仰付り、
名を小左衛門に改名、同十六年病死。

六代目 安東武平次 享保十七年正月、八代御城付を仰付かり、
元文五年三月御小姓廻に、延享三年八月御小姓組の廻脇役を、
安永二年三月御参勤御共に、安永五年四月病死。

七代目 安東伊平太は安永五年八月父武平次より相続するも、病気の為
天明元年十二月に三十九歳で隠居。

八代目 安東弥十郎は天明元年十二月二十三歳にて、父の知行を相続
国御番方の堀丹右衛門組に、天明六年八月病気になり、隠居。

九代目 安東一八は天明六年八月十八歳で右弥十郎の知行を相続し、
国御番方の堀丹右衛門組に同年八月御小姓廻に、寛政五年正月に
弥左衛門に改名、享和元年十二月御目付に、文化二年正月に江戸に
行くにあたり御紋付御小袖を賜り、同年六月御小姓組に、
文化六年三月久野角之允の御鉄砲拾挺頭に、同七年七月盗賊改に、
同十二年御留守居に、天保四年十一月八木弥次郎の御鉄砲拾挺頭
同五年六月六十六歳にて病死。

十代目 安東弥太郎は右弥左衛門の嫡男で、天保五年九月に十七歳
で父の御知行を相続し、御番方松野新右衛門組に、天保十三年九月
御小姓組に、弘化二年三月御小姓組組脇、文久元年御鉄砲拾五挺頭
元治元年四月出府、慶応四年四月病死。
・安東武平次---小右衛門---七兵衛---小平次小右衛門俊英
                           弐百石 八代御城付
                  山鹿蒲生・山鹿上永野に住
・安東五助---角左衛門五介俊一
          百五拾石 御番方八番・屋敷寺原
                  下玉名下椛山本芦原に住