加賀山隼人
播磨の出で会津92万国藩主蒲生氏郷に仕え、氏郷死後諸国を
放浪し、細川忠興に重臣として仕えた。
関が原合戦で細川忠興は東軍徳川家康に付き戦功を上げ、西軍に
加担した大友義統の旧領国豊前国39万国を拝領し、加賀山隼人も
豊前に入国し6000石を拝領された。
忠興より信任を得加賀山隼人正興良に改名。
しかし、熱心なキリスト信者であったために幕府の1613年キリシタン
禁止令により、1619年10月15日小倉にて殉教。
このとき従兄弟の豊後国日出の加賀山半左衛門も同じ日に殉教した。
のちに1636年熊本で小笠原玄也とその妻加賀山みや(加賀山隼人の
娘)も殉教した。
この小笠原玄也は忠興の妻ガラシャ夫人を関が原合戦直前に介錯した
小笠原少斎の三男。