我 が 家
 
そのころ部屋を掃除すると大量の抜け毛があることに気づいた。集めるとゴミ箱が髪の毛だらけになるほどである。誰の髪の毛かと思ってNの頭を見ると頭のてっぺんが薄くなって地肌が見え円形脱毛症のようになっている。
「どうしたの?」と聞くと自分で抜いたという。
「ママの白髪を取ったら根っこ見たいなのついてくるでしょ。それがおもしろいから自分のも抜いてみたらこうなっちゃった」

 私は驚いてNを床屋に連れて行って坊主にしてもらった。せめてカッパのような禿が目立たないようにと気遣ったつもりだった。
 ところが翌日Nは家に帰ってきて泣いた。友だちにマルコメ、マルコメとからかわれたのだそうだ。先生には連絡帳に「からかわれて気にしているようなので帽子を無理に取らせないでください」と書いた。

 マルコメというからかわれ方が余程嫌だったのか髪の毛を短く切ることは2度となくなった。それ以来Nには帽子が手放せなくなり、帽子のないときはフード付きの上着のフードをいつもかぶっているあやしげな姿の子供になっていた。

 Nが大町小学校に入ったので一安心していた私だったが、Nの良さをつぶさない教育をしてくれるところがないかという思いは消えなかった。今までのようにはみ出た子供を強制的に一律に管理するのではなく、子供のそれぞれの良いところを延ばしてくれる教育。
 
 
 Nは元夫と私の2番目の子供として1990年に生まれた。上には3歳離れた姉がいる。元夫は平凡なサラリーマン。私は細々とイラストレーションの仕事を自宅でしていたものの、出産により開店休業のような状態だった。時はバブル経済の真っ盛り。我が家もその波に乗って勢いでマンションを購入した。Nが生まれる1年前だった。

それが大きな間違い、いや若気の至りというべきなのかもしれない。暫く共稼ぎで頑張るつもりだったのが、予定外のNの出産。我が家の経済は働き手を一人失って大きく計画が崩れてしまった。しかも返済は収入いっぱいいっぱいで、臨時の支出も多く、借金は増える一方だった。

 家の経済を立て直すには私が働かなくてはどうにもならない。私は生後6ヶ月のNを保育園に預け、仕事を再開した。当時の仕事場は自宅から1時間半かかる都内で、0歳児のNのお迎えは午後4時。3時前には職場を出なくてはならずお昼を取る時間も返上して働いた。電車の中で一目をしのんで菓子パンをちぎっては口に入れた。

 1歳になる頃Nが風邪で通院している時に病院ではしかにかかってしまった時は、1ヶ月も保育園を休まなくてはいけなかった。定年退職したばかりの元舅がうちに来てくれ、Nの面倒を見てくれた。子煩悩で優しい舅だった。
 そうやって働きながら危機を乗り越えてきたものの、次第に仕事が忙しくなると私の負担が大きくなっていった。頑張った甲斐もあり仕事も順調に増えていったのだが、同時に家事育児との両立が危うくなっていった。

 私は元夫に家事の負担を求めたのだが昭和30年代生まれの元夫にはそれは屈辱的な行為らしく、度々断られた。私はフリーランスという立場上、時間の制約が少なく自由が利くので、早朝起きて仕事するなど睡眠時間を削ったりしてそれに対応しようとした。

 Nが3歳に近づきトイレトレーニングをする時期がきたのだがそんな時間すら私には取れなくなっていた。おもらしをするNをついついきつく叱るような時が多くなり、このままではこの子をダメにしてしまうという思いでいっぱいになっていった。

 元夫はそういう私の我慢が臨界値に達しつつあったことに気付いていなかったのだろうか。いつまでも人に頼る態度を改めようとしなかった。次第に私の収入が生活費となり、そのことで元夫のプライドが傷ついた部分もあったのかもしれない。

 何度か元夫と話し合ったのだが、私と元夫との価値観の違いが浮き彫りになるばかりだった。多分結婚当時の考えと私の考えが変わってしまったのだろう。子供を産んでから、ステイタスやそれを示す物より心や精神を尊ぶようになっていった。ステイタスシンボルである物が自分を苦しめるものになってしまったばかりか、そのせいで大切な子供を受け入れる余裕が出来なくなってしまったことに私は苦痛を感じるようになっていった。そしてNがもうすぐ4歳になるという暮れに、私は子供を連れ離婚した。

 都内に住居を構え、狭いながらも3人での新しい生活がスタートした。Nは歩いて5分ほどの保育園に入った。それまで住んでいた川崎市は入所待ちの子供が多かったのに、都内のここは3歳児クラスは定員割れで男の子は5人しかいないので、男の子の入所に保育園の先生は喜んだ。

都内の保育園の設備は川崎市とは違い最新式のもので、乳幼児のためのシャワールームや床暖房もある。私はそれに目を見張った。以前のように近くに自然はないが、その設備はそれを上回るかのように私には思えた。

 初日、Nは緊張からか口を聞かなかった。『機関車トーマス』の好きなNは前の保育園になかった木で出来た汽車のおもちゃがあるが嬉しかったらしく、私の服を引張ってその場所に連れて行って見せてくれた。口を聞かないことに心配したが1週間ほどでそれはなくなった。少人数な分保育士さんの目も届き、Nはスムーズに溶け込んでいった。

 保育園の連絡帳にいつも書かれたのは『元気なお子さん』『活発なでなんでもやってみるのでハラハラさせられる』などの言葉。友達関係も何も問題はなく、3つ上のクミとはよくケンカもしたがいっしょによく遊んだ。クミはNの面倒を見たり、私の仕事が忙しいときよく手伝ってくれた。

Nも小学校に入るころではお風呂洗い、食器洗い、洗濯物畳みなどお手伝いをしてくれてそのたびにお小遣をあげた。Nは完璧主義なのか洗い物も茶碗の糸底の周りにできる黄ばみまできれいに洗ってくれる。洗濯物も折り目正しく畳んでくれた。そういえば保育園の先生も、
「Nくんは脱いだ洋服を手できれいに伸ばしてクリーニング屋さんみたいだねっていってるんですよ」といっていた。

 元夫はマンション売却後都内に引越ししてきたので、子供達は時々会っていた。離婚後間もない頃仕事の忙しい時は元夫に子守りを頼むときもあった。私はそんなNの姿に安心こそすれ心配したこともなかった。
 
 私は学校に対してどうしても行かなければいけないところという意識が薄かった。人間は心や精神が何より大事と考えるようになっていたからだろうか。Nに問題があるとはあまり考えなかった。

 Nのよさを生かせる学校はどこかにあるかも。私は思いつくまま探し始めた。
 インターナショナルスクールはどうだろう、Nの個性を受け入れる自由さがあるのではないか、と思い近いところを調べて電話をかけた。だが親も子も英語が話せないということでアメリカンスクールはダメ。フレンチスクールにも電話をしてみたが当然のごとくダメだった。
 
 10年程前、新聞で自由の森学園という独特の教育をしているところの記事を読んだ記憶が頭に浮かんだ。たしか子供達が農作業をしている写真がいっしょにあったような気がする、『なんとか教育といってたっけナ』そのころはまだインターネットがあまり普及していなかったので私はすぐさま図書館に向かった。

 捜してみるとすぐにみつかった。自由の森学園の創設からの様々な記録をまとめたぶ厚い本が何冊か置いてあった。首都圏近郊にあり家から通うのなら一回乗り換えるだけですむ。だが自由の森学園は中学からしかなかくNは年齢的にも無理だ。学費も私立だけあって高く残念ながら母子家庭の我が家が払えるような金額ではなかった。

中学になっても金額的にむりかもしれないと思った。だがその文中にシュタイナー教育を取り入れている、という記述が心にひっかかった。

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