シュタイナー教育に はまる

※シュタイナーはフリーメーソンリーの秘儀参加者らしいが、私はフリーメーソンとは一切関係ないことをお断りしておきます。

シュタイナー教育とは何なのかまったく知らなかった私は、シュタイナー教育に関する本を探した。そして一冊の本にであった。
『ミュンヘンの小学生』、それは自分の娘をシュタイナースクールに入れた母親の体験記だった。

私は図書館でそれを借りると夢中になって一気に読んだ。そこには具体的な授業の内容なども書いてあるのだが、私はこれまでの暗記一辺倒の教育とのあまりの違いに、こんな教育の仕方があったのかと驚きと感激を感じた。一つのことに夢中になると熱くなりやすい私は『これだ!』と思い、同じ著者の本を立て続けに何冊も読んだ。そしてまさにシュタイナー教育にはまった。
 
 そのころまだ日本にはシュタイナースクールはなく、なにやらそれらしいことをしている場所はあるらしかったが、その電話番号も公にされてなく詳しい情報もなかなか耳に入ってこなかった。学校がないなら自分で教えればいい、と思いついた私は、『ミュンヘンの小学生』の本のあとがきに書いてあった高田馬場の『シュタイナーハウス』に連絡をし、シュタイナー教育を勉強したいのでそういう方法があったら教えてくれと手紙をだした。するとちょうど夏の講習会があるという。

 私は3日間ほどにわたる夏の講習を申し込んだ。だが丸一日かかって3日に渡る講習、子供達をどうするかが問題だった。近所に預けられるような親しい友人もなく、小4と小1の子供を一日中家に置いておいくのも不安だ。第一飽きてしまうかもしれない。

幸い講習会の会場近くに公園やプールがあったので私は子供も連れていくという強硬手段に出た。3日ぐらいなんとかなるだろうという考えだった。しかしこれは甘かった。
 
 子供たちを近くの公園において午前の部に参加した。自己紹介をすると出席者はほとんどが教育関係者。私のようにカタカナ職業の人間はいない。しかも私は見るからにギョーカイ風の派手な出で立ち。すぐにみんなから浮いた。シュタイナー関係の人たちというのは化粧もせず、髪もヒッツメにして淡い色のショールなどを巻いてロングスカートをはいているような優雅な服装の人が多い。

 始めに近くの体育館を借りてオイリュトミーというシュタイナー教育独特の舞踏を体験した。その後昼食を子供と一緒に取り、「ママはここにいるから何か呼び出してね」と場所を教えて午後の授業に向かった。午後は濡らし絵という水で濡らした紙に絵の具を落としてかくという絵の授業だった。     
 
 その作業をしていたときだ。なにやら外で子供の叫び声がする。出てみるとうちの子供たちだった。「今はママが勉強をしている最中だから」と言い聞かせ一旦追い出したのだが30分後にはまたやってきて作業が中断された。私は主催者の人に呼び出されこういわれた。

「こんなところに子供を連れてきてはいけない。あなたのせいでさっきから何度も作業が邪魔されている。みんなの迷惑になるので今回は講習を受けるのを辞めてほしい。今は子供と一緒にいたほうがいいだろう」

私は張り切って出席し授業を楽しんでいたのにやめろといわれたことがなんともくやしかった。子供を教育するための勉強なのになぜ子供を邪魔者扱いするのか。子供に教えたいから習いに来ているのになぜ子供と一緒に受けられないのか。憤りを感じながら『シュタイナーハウス』を後にした。
『シュタイナーハウス』とは所詮縁がなかったということなのだろうが、これが『シュタイナーハウス』をベースにするグループと私の心の葛藤の始まりだった。
 
 2004年にはシュタイナー教育によるNPO法人の学校が認可されたが、当時はシュタイナー教育を取り入れた子供向けの活動をしているところはほとんどなかった。『シュタイナーハウス』のチラシでオイリュトミーというシュタイナー教育独特の舞踏を子供達に教えているグループがあることを知った。月に一回日曜のレッスンである。早速申し込んで子供たち2人を連れて通うことにした。
 
 初めてのレッスンのときだ。子供たちはほとんどが女の子。男の子も一人メンバーにいたことはいたらしいがその日はあいにく欠席だった。1,2年生の低学年クラスが呼ばれNはなにも知らずに練習場に出て行った。子供が戻ってくるまで私はどういうきっかけでシュタイナー教育と出会ったか、息子が不登校になった経緯などを他の親たちと雑談していた。
そこに息子が戻ってきた。

「僕もうやらない。これ女の踊りだよ」
「えー!!まだ一回目なのに?もうやめるの?」周りのお母さんは口々に、
「今日は男の子がお休みだったからね」となぐさめてくれた。だがNはこの先2度とオイリュトミーのレッスンに参加することはなかった。私はそのときやっと息子の男性という意識がすでに目覚めてきていることに気がついたのだった。

 小4の娘のクミはグループの中では最年長だったが楽しく踊ってきたようで、またやりたいといった。どうやら親の思いとは別に息子より娘のほうが合っていたようだ。

オイリュトミーのレッスンが終わると親の話し合いの時間になる。子供たちはベビーシッター係りの女性と共に工作などをして待っている。そんな月一回のレッスンが1年ほど続いた。Nはついにその後、一度も踊ることはなく、他の子の、小さくてまだオイリュトミーのできない弟、妹たちと遊んでクミのレッスンの終わるのを待っていた。Nは毎回シッター役をしにいっていたようなものだった。

 私はシュタイナー教育と名のつくもの、目に付く限りあらゆる講座に出席しいろんな本を読んだ。そのうちシュタイナー教育の解釈の仕方が様々あることに気がついた。それによっていくつかのグループに分かれているようだった。中には極端な教えをする人もいた。

たとえていえばキリスト教原理主義やイスラム原理主義のようなものである。シュタイナーの言ったこと一字一句忠実に従わなくてはいけないと決めつけているように私には感じられた。

 シュタイナー教育を考案したルドルフ・シュタイナーという人は100年以上も前に生きていた人で、「ヴァルドルフ自由学校」という名の学校を運営し後にシュタイナー教育とよばれる独特の方法で子供を教育した。その背景にはシュタイナーの提唱した人智学という思想がある。人智学はそれまで私が考えていた世界観と近く、あまり抵抗なく自分のなかに入っていった。それも私がシュタイナー教育にはまった一因でもあった。

 シュタイナーは当然のごとくテレビもパソコンもない時代の人である。今の時代それらをどう位置付けていいのか明確な指導法はなく、それぞれの研究者や学校が勝手に解釈しているのが現状である。本人がもうこの世にいないのだからそうするより仕方がないのだろう。

いろいろな講習を受けてみたが中には「今すぐテレビを捨てなさい」という教えもあった。プラスチックのおもちゃは与えてはいけない。ゲームなど言語道断という教えだった。現在シュタイナー教育のほとんどがここまで極端ではなくとも小さいうちはテレビを見せてはいけない、とかこれに順ずるような方針をとっているようである。
 
 すべての物事にそれなりの存在理由があると考える私は、この教えには強い拒絶反応を感じた。木のぬくもりのあるおもちゃ、手作りの布のお人形そういうものがいいのはわかる。テレビやゲームが目にも精神にもよくないというのもわかる。

だが現在テレビはどこの家庭にもあって私も物心ついたころには家にテレビがあった。私自身も語学のレッスンなどで役にたっている。目くじらを立てて否定する理由がどうにも納得いかなかった。私は元来ダメダメという規則には拒絶反応がおき、息が詰まりそうになってしまう。しかも息子はレゴブロックというプラスチックのおもちゃが大好きだった。

『これってなんか変。シュタイナーはほんとにそんなことをいったのだろうか』そんな疑問がだんだん湧きあがってきた。
 
 だが一時我が家の大きなテレビが壊れた時、室内アンテナしかない自動車用テレビで数ヶ月過したことがあった。子供たちも私も映りの悪いザラザラの画面で番組を食い入るように見ていた。そしてそのテレビさえも壊れ、どうしようかと思ったが1週間後、我慢できずにテレビを買いにいってしまった。
 
 シュタイナー教育ではディズニーなどの作品も子供に見せてはいけない、という。白雪姫などもディズニーの出来上がったイメージで固定してしまうからなのだそうだ。なるほど、一理ある考えのような気がする。だが私は絵を描くことを生業としているがディスニーやアニメのキャラクターというのは創造物というより記号だと感じている。その絵柄を見ただけで誰でもすぐ○○とわかる、記号や共通の言語のようなものなのだ。

 物心ついた頃からテレビやアニメがあり漫画家になろうと思っていたほどマンガの世界に傾倒した私としては、そういうものを見て育ったから自分の創造性が欠如したと思ったことは一度もない。

それは他人が作った創造物であり、自分の中では自分なりのオリジナルの白雪姫などがどんどん沸きあがってくるのである。それをいうならば本の挿絵も辞めろというべきであろう。子どもの頃、本を読んでいて自分のイメージが膨らんでいるのに挿絵があまりにイメージと違いすぎてがっかりしたものだった。このようなことは誰でもあるのではないであろうか。

 『シュタイナーハウス』で学んだ人たちが主流となって作ったシュタイナーシュ−レという無認可の学校が井の頭公園近くにあるということがわかった。秋、そこで文化祭が開かれるという。日本初のシュタイナースクールを見学できる、願ってもないチャンスだった。私は2人の子供をつれて文化祭にでかけた。
 
 シュタイナーシュ−レは庭付きの2階建ての民家を借りたものだった。本で見たシュタイナー独特の淡い色彩の絵や手作り品等が並び、保護者がつくった無添加のお菓子などが売られていた。庭では教育の一環として栽培した米から餅を作るために餅つきの真最中だった。シュタイナー教育の本場ドイツでは小麦の栽培をするらしいが日本風にアレンジして米にしているのか、などと思いながら見学を終え、帰り際に物品販売をしていた年配の女性にうちの子供が入れないかどうか尋ねてみた。

 私のそばにたっている2人の子供の目の前で、
「小1の息子さんは入れます。でも小4の娘さんは無理です」といった。シュターナー教育をすでに勉強していた私はピンときた。
「娘がダメなのは10歳になっていて、シュタイナー以外のほかの教育をすでに受けているからですが?」
「そういうことになります。7歳以上の大きなお子さんを受け入れているケースもありますが、その子たちは海外のシュタイナー学校からの転入生なので」といった。私はクミが入れないと言われたこと、しかもクミの目の前でそれをいわれたことなどでカーッと頭が熱くなった。
 
 シュタイナーの教えでは人間と言うのは7歳ごとに節目節目がくるという。たとえば初めの7歳で歯が抜け替わり、次の14歳で初潮を迎えたりして体が大人になっていく。21歳で成人するなどその体と魂(シュタイナーでは魂という)にあった教育をするべきというのだ。

 たとえ息子がシュタイナースクールに入れたとして上の子と一緒なら通えるのに、家から通うには小一時間かかるうえ2度電車を乗り換えなくてはならず、N一人では到底通えない。仕事をもっている私は毎日の送り迎えは不可能である。このことは我が家にとってはNも入れないといわれたのも同然であった。
 
 シュタイナー教育に傾倒しNの通う学校としてここに救いを求めていただけに大きなショックと怒りを抱えてスクールを後にした。
オイリュトミーを一緒に習っていて我が家と同じ母子家庭だった友人は熱心にシュタイナーを勉強していて、シュタイナーシュ−レに入れるべく小学校入学を迎える直前にシュタイナーシュ−レの近くに引っ越したのだそうだ。

結果的にシュタイナーシュ−レは不合格となったそうだが、金銭的な部分で無理があると判断されたのではないかと思うといっていた。シュタイナーシュ−レに通わせる家庭のほとんどが通学のために近隣に引越し、指定の小学校に在籍し、そこには通わずにシュタイナーシュ−レに通わせるのだそうだ。今思えば、あれほど熱心だった友人が不合格なら我が家などなおさら無理だったことだろう。

 その後も懲りずに『シュタイナーハウス』主催の公演を聞きにいったりしたが、一番自分の価値観と合っていたのは『ミュンヘンの小学生』の著者の娘、子安フミさんだけだった。子安フミさんはその本の登場人物、シュタイナー学校に通った小学生、その本人である。ロックミュージシャンらしく茶パツに派手な格好で登場した彼女に自分と似た匂いを感じた。

 そうするうちにカルチャースクールでシュタイナーの講座を見つけた。教えているのは高橋巌さんという、シュタイナーを初めて日本に紹介した先生である。
「テレビはだめなんていうことはシュタイナーはいっていない。シュタイナーの頃はそのようなものはなかったし、もしシュタイナーが現在に生きていてもそういうかどうかはわからない」という高橋先生の考えを聞いて『この解釈こそ私が求めていたものだ』と感じた。

高橋先生は穏やかな人間味溢れる方で、かなりのインテリであるもかかわらず、60才を過ぎているというのにプログレシヴロックにも詳しくとてもバランスのとれた知識をお持ちの方だった。講義が終わったあとのお茶を飲みながらの雑談も楽しみで2年もの間、高橋先生の講座に通った。私はここにきてようやく信頼できる先生からシュタイナーの考えを学ぶことができた。
 
 シュタイナーハウスは『ミュンヘンの子供たち』の著者、子安美智子さんの本を読んだ有志を発端として発展したグループでシュタイナー教育からシュタイナーの研究が始まっている。

人智学から研究が始まりその一部として教育がある高橋巌先生とは入り口が違っていたようだ。私にはもともとは一つであるはずのシュタイナー研究がなぜ複数のグループに分かれてしまうのかが未だによくわからない。一つ感じることは世界の宗教とよばれるものが教祖の死後いくつかの派に分かれていく様を見ているかのような気がする。

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