東京シューレ

Nが2年生になる少し前の3月のことだ。Nはそのころまだ髪の毛を抜き続けていてしかも髪を短く切らせてくれなかったので見事にカッパのようになっていた。本人もそれを気にして外から見えないようフード付きの服ばかり着ていた。

 私は新聞の催しの案内でまたもや興味を引く記事をみつけた。不登校の子供が通う東京シュ−レというところに通っている生徒の話を聞く会だった。それは学童保育の成田先生が言っていたフリースクールだった。  

なぜ私がこの記事に興味を持ったかというと、子供たちの発案でシベリア鉄道でユーラシア大陸を横断したという体験を発表すると書いてあったからである。旅好きの私はそれまでにもNとクミを連れてイタリアとギリシャにいっていた。ユーラシア大陸の横断は私の夢でもあった。子供たちが自らそれを企画し、なしとげたという言葉にとても惹かれた。
 
 結局今となっては、子供たちはアルバイトをしたりして自分で費用を稼ぎユーラシア大陸横断を成し遂げたということぐらいで、旅行の話はよく覚えていない。

それよりシューレに通う生徒の代表として出席していた17歳の男の子の言動と堂々とした姿に強い衝撃を受けた。不登校の通うフリースクールの話というだけあって参加者のほとんどは不登校の子供を抱える親。
 
 Nも不登校経験者のくせにどういうわけか私は不登校ではなく学校が我が子に合わないのだと思っていた。ほとんどの親は我が子の学校に行かない現状を憂い、将来の心配をして17歳の子供に次々とシビアな質問をどんどん投げかけていく。

「学校にいかないで勉強は大丈夫なのか」
「学校にいかないで将来はどうするのか」普通大人でさえ考え、答えによどむような質問である。それに対し、
「勉強は強制されてやるものではなくやりたくなった時にやればいい」
「シューレの卒業生は大検を受けて大学に行く人もいるし、海外に進学する人、大卒の募集なのに中卒で面接に合格し会社にはいった人もいるし、自分達で会社を興した人もいる。学校に行くだけがすべてではないと思う」などと質問にキッパリと答えていく。

 17才でこのような質問に明確に答えられる子供は今だかつて見た事がない。私は17才のこの少年の人間性にまさに、惚れてしまった。自分というものをしっかり持ったまるで大人以上に大人っぽい人に思えた。

このような子供を教育するフリースクールなら学校じゃなくてもいいじゃないか、Nをここに行かせたい。私は思わず会の終了と同時に東京シューレの関係者のもとに駆け寄り、入会について質問していた。

年配の男性は小学1年の子供でも入れるのかという私の質問に、
「うちには小学1年生から高校3年までいますよ。説明会が月に1度ありますからよかったら親の方がそれをまず聞きに来て下さい」といった。学童保育の成田さんは高学年しかいないといってたけど1年生がいるんじゃない!私は嬉しかった。

 1年生の最後の懇談会で担任の板橋先生と話をした。その時、
「Nくんも毎日学校にこられるようになったし、もう大丈夫でしょう」という言い方をしたので『え?おかしいな』と思った。

『Nに原因があったわけではなく担任に原因があったのに』前の小学校でNが担任からのイジメで登校拒否をしたことを説明すると、そんなことがあったとはまったく知らなかったという。

 この時初めて前の学校のことは担任の板橋先生に一言も何も伝えられていないことがわかった。何も伝えられないままに半年以上も接っせられて、もう1年生が終わろうとしていたことに私は失望した。

これは前の学校の汚点を隠したいという教育委員会の対応の表れなのだろうか。大町小の校長ははたしてどこまでNの転校の理由を知っていたのだろう。

保育園の頃、早番と遅番の保育者が引き継ぐ時には子供の様子を伝え、注意すべき点を前任者と確認しあっている姿を見ていたので教育現場ではそれがあたりまえだと私は思っていた。

だが学校というところはそうではないようだ。なんという教育の場の閉鎖性だろう。まるでN一人を問題児にするような扱い方に学校や行政に対する不信感がさらに募っていった。

 Nは2年生になり、担任は新しく大町小に来た加藤先生が受け持つことになった。加藤先生には一年生のときの二の舞を踏まぬようにNの黒柳小での担任とのいきさつを話した。加藤先生もまた子育て経験のある女性の先生なので私の話に理解を示してくれ、Nに頭ごなしにしかることなくじっくり余裕を持って接してくれた。Nは今でも加藤先生は優しかったといっているほどだ。

 私は4月の東京シューレの説明会に参加した。東京シューレは北区王子にあり、家から30分という意外なほどの近さにあった。これならNも一人で通えるかもしれない。王子駅からも3分ほどで線路沿いにありわかりやすい。しかもビル1つを丸々借り切っているらしく、円形の5階建てのモダンなビルの外壁に大きく金色の文字で東京シュ−レと書かれている。

 こじんまりとした小さな塾のようなものを想像していた私は、その堂々としたたたずまいにまず驚かされた。入り口のガラス戸に『見学の方は4階にどうぞ』と書かれた紙が張ってある。階段を上がると壁のあちこちに色んなチラシが貼ってある。

『ライブのお知らせ』これはバンドをやっている子供のものだろうか。『ミニFM局開局』というのもある。へぇーこんなこともやってるんだ、私も10代のだったら、こんなふうに好きなことを自由にやってみたかった、そんな高鳴る思いを抱えて説明会にむかった。
 
 説明会で渡されたパンフレットを見てまたもや驚いた。東京のはずれで細々と不登校の子供を集めて開校しているのかと思ったら東京シューレというフリースクールはその当時ですでに、王子シュ−レ、新宿シュ−レ、大田シュ−レと都内に3ヶ所もあった。現在は千葉県流山市に行政と共同での『流山シューレ』も開校している。

 1997年当時、私が今まで調べた自由教育を掲げる学校がようやく日本に1校できたばかりなどというのがほとんどだったのに対し、それをはるかにしのぐスピードで急成長していた。それだけ社会に必要とされているということの表れだった。

 説明会の話によると、強制はせず子供の自主を尊重すること、何かを決める時はみんなでミーティングで話し合って決めること、ここでは先生ではなくスタッフであり子供には名前やあだ名で呼ばれていること、などの説明を受けた。私はイギリスのサマーヒルスクールや『きのくに子供の村学園』との方針と酷似していると思った。ここなら安心して子供を任せられる。

 気になる費用の方だが正会員と準会員があり正会員は毎日のように来る子供で、準会員とは月に3,4回しかこない子供のことだそうだ。Nは今のところ学校にも行っているので週に1回ぐらい通う準会員だったら自宅から通えるし我が家でも払えない金額ではなかった。 
 
 中学生の子供が3人出てきて、自分がなぜ不登校になったか、そして東京シューレでどのように毎日を過しているか話してくれた。イジメから不登校になった子供。厳しい校則に反発して不登校になった子供。いずれもNや自分の気持ちと重なるものがあった。

 今はNPO法人になっている東京シュ−レだが、当時も今も学校としては認められていない。義務教育年齢の子供が通う場合、住所のある地域の学校に学籍を置いたままで東京シューレに通うことになる。東京シューレに通っている間は出席扱いになるのだが、そのことを知っている教師は以外に少ない。学籍が学区内の学校に置かなくてはいけないことで、学校側との様々な煩雑なやり取りが残るのが現状だ。

 月に一度見学会があり子供は5日間ほど体験入会できるが、現在理事長を務める奥地さんからくれぐれも子供がここに行ってくれれば安心だからといって無理強いして連れてこないでくれ、という忠告を受けた。子供によっては学校にいたときの心理的圧迫疲労により、今は新しい集団に入るより家にいて休息を必要としている子供もいるのだからということだった。

 奥地さんに『きのくに子供の村学園』との共通点があると思ったということを話すと、堀真一郎さんはこの東京シューレに来て泊まった事もあるのだといっていた。教育の方針に同じようなところがあるのはそのせいなのかと思った。2000年にIDECという世界フリースクール大会が日本で東京シュ−レを中心に行われ、例のイギリスのサマーヒルスクールもこれに参加しにやってきた。私も初めて本で読んだ、『世界で一番自由な学校』に触れることが出来た。

 親である私はすっかりNをここに入れる気になっていたが、肝心のNがここを気にいってくれるかが問題だった。本人がここに来たいという意思がなければ入れないというのが東京シュ−レの方針である。Nは親のいうなりになるような子ではなかった。

私はNを見学会に行く気になるように、
「危険なもの以外ならなにを持っていってもいいみたいよ、したくなるまで勉強はしなくていいみたい」などあの手この手で行きたくなるような話をした。そしてNは見学日の前日、
「行ってもいいよ」といった。学校の連絡帳には東京シューレの見学にいくのでお休みをしたい、と書いて提出した。

 見学に参加したのは初等部で5人だった。初等部の部屋は5階だった。円形の部屋の壁には本棚がおかれ漫画や児童書などいろいろな本が置かれている。窓の外、手の届きそうな近くに何本もの線路が見え、目の前を新幹線、京浜東北線、宇都宮線など様々な色の電車が走っていく。

私たちはじゅうたん敷きの部屋に置かれた細長い座卓の前に座った。
奥地さんも一緒に座り、子供たちに向かって、
「ここはナイフとかそんな危ないもの以外は何をもってきてもいいんだよ。遅刻とかないから何時にきてもいいんだからね」といった。
 
 Nと同じ1年生のショウくんが飼育ケースに新聞紙や綿と一緒にいれたハムスターを持ってきているのを見せてくれた。
『ほんとに何持ってきてもいいんだ・・・』私はこれまでの人生で学校では持ってきてはいけないものばかり聞かされていたので奥地さんの言葉やショウくんのことが新鮮な驚きに見えた。

子供たちが東京シューレで遊んでいる間、親は奥地さんと初等部担当の石平さんと一緒に子供の様子などを話した。Nが今は学校に行っているものの髪の毛を抜いて円形脱毛のようになっていること、それを気にして建物の中でも帽子やフードをかぶっていることを話すと奥地さんはこういった。
「髪の毛を抜くってことは学校が合っていないのかもね」

 時間が来て奥地さんが席を立とうとした時、高校生ぐらいの茶髪の子供が話しかけて来た。奥地さんはその子に向かって
「髪、染めたの?いいじゃない、軽い感じになったねぇ」といった。
風紀が乱れると厳しく学校で服装のチェックを受けて育ってきた私は、新鮮な驚きを感じた。
『信じられない、先生がいいねぇっていうなんて。自由ってこういうことなんだ』

 見学が終わり親子でシューレのビルから出ると道路に空き缶のリサイクル用の籠があった。そこから空き缶を取り出し誰か一人が空き缶をつぶし始めると、初めて会ったばかりなのに子供たちはもう仲間であるかのようにいっせいに空き缶つぶしに夢中になりはじめた。勢いよく空き缶をふんづける少年たちの姿は学校でのストレスを発散しているように見えた。
 
 Nに東京シューレに入るかどうか聞くと「入ってもいいよ」といった。 
私は元夫に東京シュ−レというフリースクールがあるのでそこに通わせたいこと、Nが髪の毛を抜いているのを見ると学校は合わないのかもしれないと思うと言った。
そして半分でもいいから費用を負担してくれないかと頼んでみた。元夫は入会金の半分なら出せる、だが月々の会費は無理なので自分で出してくれといった。私はそれで納得し、入会の手続きをした。Nは週に一度学校を休んで息抜きのように東京シューレに通った。
 
 東京シュ−レに登校する第一日目、私はNを送って東京シュ−レまでついていった。5階の初等部の部屋には見学会で一緒で、一足先に通学していたサノくんが一人きりでマンガを読んでいた。
「スタッフの石川さんはいる?」と声をかけると明るい笑顔で、
「2階にいると思うよ」と答えた。

 私はサノくんのその表情に驚いた。見学会の日の顔とはまるで別人だった。あの日のサノくんは口数も少なく、何を聞かれてもうつむき加減で暗い子供だという印象を持ってしまっていた。だが今目の前にいるサノくんは明るいくったくのない笑顔で、私の返事に子供らしく元気に答えてくれる。
『サノくんすごく変わった。東京シュ−レは本物だ』ここに通わせるのは間違ってない、と私は確信した。
       
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