変わらない学校

娘のクミは5年生になり、Nが登校拒否を起こした黒柳小にそのまま通っていた。私はNが大町小に移った後も行事があると当然のように黒柳小に行くことになる。そんなある日教室の前で、Nと同じクラスだったお母さんの神田さんに会った。Nが大町小に転校するいきさつのことはよく知っていた。
「Nくん大変だったね。でも今年は鮎原先生、担任を外れたからもう少し我慢できればよかったのにね」といった。私は驚いて返す言葉がなかった。
『もう少し我慢すればなんて、あのまま学校に行かせていて心に取り返しのつかない傷が出来たらどうするの?第一あのまま親が誰も声をあげなければ同じ担任で持ち上がりになっていたかもしれないじゃない』心の中でそう思った。だが私と考えが違うのだからこれ以上言ってもしょうがないと思い、
「そうね」とだけ返事をした。

 廊下でバッタリ鮎原先生にあった。私は一瞬気まずい感じがしてひるんだのだが、鮎原先生は遠くの方から大きな声で、
「あら、Nくんのお母さんお元気?」と声をかけて来た。
東京シューレに行き始めたことを話すと、
「Nくんにぴったりじゃない」といった。そして
「Nくんのお母さん、どうぞお手柔らかにね。私もこんな年だし。でも私だって若いときもあったのよ」といった。

 鮎原先生は今年も1年生の担任になった。クミの同級生のお母さんから今年もまたNのように登校拒否をしている子供がいることを聞かされた。よかったら相談に乗って上げてといわれたので私は電話をし、そのお母さんを訊ねてみた。
 
 その子もNと同様で、ある日、学校に行きたくないといいだしたのだそうだ。今は学校を休んでいて、適応指導教室の先生が家まで出向いて週に1,2回勉強を教えてくれているといっていた。鮎原先生は何回か家を訪ねて来たそうだが、あるとき小1のその子に向かって、
「先生も家で年取った親の面倒をみなくてはいけなくて大変なのよ、わかってくれるでしょ」といっていたのを聞いたといっていた。鮎原先生自身精神的にも肉体的にも余裕がなかったのだ。
 先生の別な一面が見えた気がした。
 私は教育委員会に申し出ると転校させてもらえるよというと、その子のお母さんは、
「教育委員会に電話なんて怖くてできない」という。私ははっとした。悩みながらも泣き寝入りせずにここまでやってきたのは、自分の度胸と妙な正義感の強さのせいだったということに思い至った。

 だが私の中にはなぜあの鮎原先生をまた1年生の担任にしたのか、が大きな疑問として残った。そして教育委員会はそのような教師をなぜそのままにしておくのか?他人事ながら我が事のように見過ごしていられなかった。
 Nの通う大町小の運動会の日、来賓で教育委員会の人が来ていた。私が去年会った人とは別の人だったが、私はこんな機会はないかもしれないと思い、祝辞がおわるのを待って帰り際に鮎原先生の人事について聞いた。
「黒柳小では今年も1年生の担任でクラスから不登校が出ているというではないですか。なぜ鮎原先生をそのままにし、しかも1年生を受け持たせるのですか」教育委員会の人は、
「その件にかんしてはこちらも検討中です。私は急いでおりますのでこれで」といって足早に通り過ぎた。一人の母親では何もできないという無力感を感じた瞬間だった。
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