特別な経験

私は不登校の子供に対する選択肢はフリースクールがベストであるというつもりはない。子供も親もそれぞれ違う状況を抱えているのだから。だが私や子供にとっては何よりよかったといえるのは、子供へのきめ細かい対応である。

心の傷を抱えた不登校の子供を受け入れることから発端したフリースクールなだけに、子供の心のあり方を重要視している。私自身Nとの親子関係も東京シューレによってどれだけ助けられたかわからない。思春期の子供たちを多く抱えた集団に何も問題が起らないわけがない。

そしてフリースクールとはいえ通わせているすべての親に理解があるわけではない。進学のこと将来のことで親にいろいろいわれ、プレッシャーをかけられている子供もいるかもしれない。だがそんなトラブルに対する対応が学校とは歴然とした違いがある。

学校が子供の心などさほど重要視しない対症療法に終始するのに対し、東京シューレでは子供がどう感じるかとか、傷つかないように、ということを最重要視する。

他にフリースクールの子供の特徴として挙げられるのはマイノリティに対しての共鳴である。不登校の子供達の多くは、自分は少数派であるということ、少数派であることによりいわれなき攻撃を受けてきたことを強く感じている子供が多い。

この経験が将来の仕事の道につながっていった子もいる。また、フリースクールという選択肢があることを長い間知らなかったし、知らされなかった、そのことが悔しい。だからフリースクールの存在をもっと広めたいと語る子供もいる。私も同意見である。

シュタイナー教育の学校では、1年生の入学から義務教育終了の8年間、同じ教師が受け持つことになっているのだそうだ。8年間という子供との長い付き合いで子供への理解も一層深まるのだそうだ。また、一生の内に受け持てるクラスが3回ぐらいしかなくなり、おのずと教師は一期一会の子供との出会いを大切にするようになるそうだ。

Nも東京シューレのスタッフとの付き合いは8年になる。その間入れ替わるスタッフも何人かいたが、8年間ずっとNのことを見てくれているスタッフもいる。公立の学校などではわずか1年程度で担任が入れ替わるときもあり、こんなことで目立たない子供の性格などわかるものなのだろうかと疑問が残る。 

また、東京シューレは子供の自主を尊重する方針なので、レールを敷かれた学校の子供より、はるかに多く自分で物事を企画し実行する経験を子供は身につけることができる。東京シューレではこれまでも、気球を作ったり、ログハウスを建てたり、ユーラシア大陸横断旅行をしたり、日本で世界フリースクール大会を主催したり、カルチャーフェスティバルや韓国のフリースクールとの交流など様々なことをやってきた。

これは大人が用意して子供にやらせたわけではない。子供たちの発案で子供たちが実行してやってきた。もちろん実際には大人のサポートが必要になる場合もあるが、やり遂げた子供たちの顔は自信に満ち、みるみる輝いていく。不思議とそんな子供の親の顔も自信で輝いていくのだ。

シュタイナー教育では14才を過ぎたら芸術を重要視するようにというらしい。様々な教科に芸術的要素を加えるのだそうだ。そういえば10代のはじめになると人は音楽に興味を持ったり、お気に入りのスターにはまったり、詩を書いてみたり、イラストやマンガを描くのに夢中になったりする。

Nも15歳を迎えることから音楽に興味を持ち、ギターを弾いたり歌をうたい始めたりした。小一でシュタイナーのオイリュトミーという踊りを習いに行っていた時、先生に

「N君のようにエネルギッシュなお子さんは太鼓なんかやるといいわよ」といわれたことがある。でも太鼓といわれてすぐに習えるような場所は思い浮かばなかった。結局Nのエネルギーは放出したまま行き場がみつからなかった。エネルギーをぶつけるものが見つけられたというのは喜ばしいことだ。

芸術活動で自分を表現することはシュタイナー教育では、身体が大人へと成長していく爆発的な性的エネルギーを消化するのに有効な方法なのだといっている。

だが受験重視の日本の社会ではこのような芸術活動は軽く扱われがちだ。芸術に理解のない親はこのようなことに夢中になる子供に対し、将来そんなことで食べていけるわけがない、などと叱責したりする。だが芸術というのはスポーツなどと共に、国境を越え万国の人間に共通の言語となれるものの一つである。現に日本のマンガやアニメやゲームは世界的な輸出産業へと成長しつつある。

スポーツや芸術は言葉や人種の違いを超え、人々に感動を与えることができる。ヨーロッパなどの芸術へ造詣が深い国々ではそういう教科を大切にしているそうだ。日本の国はそういう意味でも偏狭な常識の元に教育を受けているとしかいいようがない。

7歳のころからNを知っているスタッフの石川さんは、
「N君たちを見ていると、子供の成長は長い目で見る必要があるんだってほんとに思いますね」といった。私も同感である。

さなぎの状態の時の子供は外から見ると動きも変化もまったく見られず、大人が見ていると、とても歯がゆく思う。こんなことで将来どうなるんだろうと案じる。だが大人が余計な手出しをしなくても子供はちゃんと自分で殻を脱いで脱皮していく。大人はそれを見守っていて、助けを求められた時にしっかりと手を差し伸べればいいのだ。

 Nはまだまだ未熟で、この先どうなっていくのかまったくの未知数である。私はNは実験台のようなものだと常々人に言っていた。なぜならNのように低学年から学校に行かずにフリースクールで育った子供が身近にいないので将来像が描きにくいのである。

最近では幸いなことにNのような不登校で内申書が出せないような子供も入ることができる公立高校が相次いでできている。通信制や定時制の高校、大検などもあり、システムとしては出来上がりつつあると思うが一般の社会的認識はどうだろう。 

Nはこの先、社会経験をして、やはり高校や大学に進もうと思うかもしれない。出身校で人生が決まるのではなく、志さえあればいつでもやり直しができるような体制が必要なのではないだろうか。 

これまでの学歴重視の価値観で親に支配され勉強を強制されている子供は、そうではない価値観の親の下でのびのび育てられている友達をみるとき、その友の自由さにいいしれない嫉妬を感じ、鬱積した自分の苦しみを相手にぶつけたくなるものなのかもしれない。本来ならば親に向かうべき苛立ちなのだが、親があまりに絶対的な存在だとそれが叶わずもっと弱い存在に向かってしまう。

同級生を刺し殺した女児は「生き死に」について知らなかったというより、女児の自我は親によってすでに殺されていたのかもしれない。愛する大切な親によって自我が殺され、自分自身を尊重されずに育った子供は、ありのままの自分を受け入れてもらうという本当の愛を知らずに育ったのかもしれない。

そのような子供は大切な友達の命を尊重する、そんなことすら難しかったのかもしれない。2004年の長崎での女児による刺殺事件をみるとそんな言葉にならない心のズレが子供同士の間にあったのではないと感じてしまう。
 

TOP         続く