本当の新人類2

大きくなりすぎ動きが鈍くなった老いた巨象、それが外部に因ってではなく自らによって内部から崩壊しつつある、それが今の社会のように思える。

一部の支配層が、多くの労働者を使い、労働者は支配層の言うことを聞いて実直に動くことが望ましい。これまでの教育はその巨象にとっては有益な教育だったかもしれない。巨象が古いやり方に囚われている間、いつのまにか時代は変わっていた。

労働の現場は賃金の安い海外へと移動している。その労働力に対し、価格競争で日本は負けてしまい、経済の活性化にはこれまでと違う道を見つけなくてはいけない。それはアイディア、技能という道しかないかもしれない。

だが、果たしてそういうクリエイティビティを育てる教育が今までなされてきたことが一度でもあっただろうか?個性豊かな人間は変なやつ、変わってる、オタクといって排除してきたのではないだろうか。学校では個性は必要とされることはなかった。時には教師でさえも「いじめられる君も悪い」とまでいう始末。

現在巨象に影響されない実力者たちが急成長し社会を騒がせている。そんな時代に古い教育システムが役に立つのだろうか。なによりも子供達への説得力に欠けるのではないだろうか。もしかしたら親の姿を見て、親が幸福そうには思えない、子供は親のようにもう会社の奴隷になりたくないと思っているかもしれない。

 引きこもり、親殺し、少年犯罪などが相次ぎ、子供はおかしくなってきている、昔のようにもっと厳しくすべきだ。そう考える大人はきっと多いことだろう。だがはたしてそれで解決する問題なのだろうか。

 私にはそうは思えない。もちろんすべてとはいわないが、原因の一つとして社会の変化、親の価値観と現実の社会とのずれ、ひいては親が愛情という名のもとに子供を抑圧し、支配しようとしていることが原因のような気がする。

子供は社会を映し出す鏡であるといわれる。子供達は本能的に社会の変化を感じ、親や学校の価値観と現実とのずれ、矛盾を感じているような気がする。

かつて少年少女だった私たちも社会の矛盾、不平等感を感じたころがあったが、私達親が子供だった、70年代、80年代は社会や体制に反抗心を抱いても結局は大人の価値観に従わざるをえなかった。社会のシステムがそのように機能していたからである。

だがバブルが崩壊して巨象が揺らぎ始めた。次第に親や学校が押し付ける価値観の方がいんちき臭いものような状況になってきたのだ。学校より先に社会の方がどんどん変化していって教育はまったくついていけてない。そして親も子もそのような60年前のシステムに従わざるをえない。一部の親は愛情と称してその古い価値観で子供を支配しようとする。銃の時代が到来しているのに未だ槍や刀で戦おうとしているかのように。

 東京シューレにはホームシューレといってホームスクーリングの部門もある。日本ではホームスクーリングは一般的に知られていないが欧米ではよく見られるもので、これは子供が学校に通わずに家庭で勉強するという方法である。不登校が14万人いるとはいえ、皆がフリースクールに通えるわけではなく、地方ではフリースクールもないところもある。そういう子供や親をサポートし、育んでいくシステムである。

私はホームシューレで発行している小学生向けの出版物にイラスト入りのエッセイを2年半ほど連載していた縁があって、あるとき、ホームシューレの集まりに参加することにした。

ホームシューレのスタッフや会員のお母さんたちと食事をしながら話していたら、一人のお母さんがポツリとこういった。

「東京シューレの子供たちのような人たちが、これから大人になって世の中を動かしていくのよね」私と同じ予感を持っていた親がここにいると思うとなんだか嬉しくなった。

『そうなんだ、きっとそういうことなのかもしれない』と私は思った。今は少数派でまるで落ちこぼれのように人に見られがちな子供たちだけど、この子たちにはこれまでの教育で延ばすことができなかった能力を潜在的に持っているような気がする。

 これまでの教育は教師の支持に従って動くことしか求められておらず、従順で管理しやすい人間が求められた。そのような教育システムで優等生と呼ばれる人の多くは官僚になる、既存の大きな組織に入るなどという道筋が出来上がっている。官僚主導型の国といわれる日本の国の姿と教育はそこで見事に符合している。自らの力で行動する子供は扱いにくい子、はみ出し者とされ能力を発揮できない。それどころか出る杭は打たれるばかりである。
肥大化し、腐敗すらみえる古くなった既存の社会システムが機能不全に陥って、閉塞感で溢れている現在。それを打ち破って再構築していく能力を持つ人間は従来の教育システムからは育ちにくい。

私は息子の不登校をきっかけにし、戦後教育の歴史や他の国の教育などを調べることとなったが、過去の自分の受けた学校教育というものが政策や国益のためだったのかと思うと、子供とは国家からみると将棋の駒の一つであり、人間としてというより、役に立つか立たないかといった扱いしか受けていなかったのか、となんともむなしく思えてくる。

頭の中に詰め込んだ数々の公式や年号、記号など。それを記憶するために費やした長い長い時間とエネルギー。私は40数年生きてきてこれまでそれを利用する機会はただの一度もなかった。そんな時間があればもっと絵を描きたかったし、もっと本を読みたかった。

 だが受験に必要のない、絵を描いたり音楽を聴いたりする授業時間は無駄とされ、私の通っていた高校ではいつでも主要5教科に変更された。絵の道に進もうと決意した17歳の私の姿は、そんなシステムへの抵抗でもあり、逃げでもあったかのかもしれない。

かつて子供だった私はこのような学校の矛盾や建て前を敏感に感じてしまった。そんな私のような子供は減るどころかどんどん増えている気がする。多くの人々を巻き込んできた学歴偏重のゆがんだ価値観。自然とそれを人々に植え付ける役を果たしてきた学校。

幸いなことに不登校が増えるにつれ、子供はNOを言いやすくなってきている。不登校とは子供が既存の学校というシステムにNOを突きつけた結果である。いわば子供たちの体を張った革命のように思える。そして少数であるがそんなものはもういらないと考える親たちがいる。そろそろ子供がその権利を認められ、人間らしく扱われるような社会に変わってもいいのではないだろうか。

このような社会はきっとこれまでのシステムを大きく変えていくことだろう。その源動力となるのは学校を知らない子供たちかもしれない。

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