京都自転車一人旅

「僕、学校をやめる」をウェブにアップし、2年の月日が過ぎた。

私はこの2年、埋もれた歴史を調べ続け、狂信的な世界支配を狙う者たちがいることを知り、日本の近代史においては、誰が開国を煽り、資金を提供したのか、知ることとなった。近代化という名のモデル自体、狂信的な者たちの生み出したものであり、その近代化の一つの学校教育が、想像したとおり、健やかさとはかけ離れたものであることを確認することとなった。

私の仕事が忙しくなったこともあり、ここ2年の出来事は書いてなかったが、Nにとってはとても大きな変化があった。

まずは2006年、8月21日。
Nは自転車で京都に一人旅に出かけた。その1ヶ月ほど前に、私とNは些細なことで言い争いになり、当り散らしたNはコップの水をかけてきて私の寝ていた布団はびしょぬれになった。あー、またやられた。
ようやくNの行動パターンも読めるようになった私は、東京シューレのスタッフに、最近Nの友人間で何か起きていないか聞いてみた。Nが荒れるときというのは、大抵、友人間のトラブルだということがわかってきたからだ。

東京シューレのスタッフは、とくに目立ったことはない。けれどもNは友人Sさんのことを
「あいつは好きじゃない」といっていたそうだ。そのことがわかっただけでも私には大きなヒントとなった。なにしろNはフリースクールでのことは一言も話さないのだから。Sさんとは同じサークルの仲間なので、もしかしたらふたりの間で何か葛藤があったのかもしれない、と思った。それからNと私は必要以上の話をすることもなく日常を過ごした。

そして夏休みのある日、Nは、
「来週の月曜日から自転車で京都に行く」と言い出した。
「バイトは?」というと休みを取ってあるという。何日かかるかわからないから2週間ぐらい休むのだという。以前から自転車で沖縄に行きたいだのといっていた。この頃友達の間で、自転車で海までいって日の出を見るのがはやっていたらしく、一度夜中に、横浜で日の出を見るといって自転車で友人達と出かけたものの、途中で友達に貸してあげた古い自転車が壊れ、目的が果たせずに帰ってきたことがあった。深夜に「今、品川にいるんだけどどうしよう」と電話で起こされてひどく心配したものだった。

その後、どこかに行く気配など微塵も見えないので口先だけだと思っていた。
「まじで?急には無理だから名古屋ぐらいにしておいたら?」というと
「絶対に行く」と言いはる。それから数日後、バイト料でマウンテンバイクを買ってきた。残った給料を旅費にするのだという。どうやら本気らしい、と思った私は実家からNに頼まれた寝袋を送ってもらい、使いそうなものを買ってきた。

Nは自転車屋のおじさんに、必要なものを教えてもらい、すでに準備していたようで
これは持ってるからいらない、とかなり却下された。眼鏡とグローブ、座布団は必需品だといわれたといっていた。

「ほんとに行くの?」と聞くと、
「行く。ギターの先生に、京都に自転車で行けない人が、アメリカに行けるわけがない、といわれたから」という。そうか、そういうわけだったのか、と思うと返す言葉もなかった。Nはアメリカのロックバンドのファンで、将来アメリカに行きたい、とずっと言っていた。ギターの先生には京都に行くのならちゃんと目的を持って名所旧跡などを見てきなさい、といわれたそうだ。国内なら言葉も通じるし、事故や事件にさえ気をつければなんとかなるだろう。

8月の暑い日、出発予定の日がやってきた。私は午前中自宅で仕事をしていたのだが、その間Nは遅めに起きてきて出かける準備を始めた。いつの間にか頭に巻くタオルなども用意していた。強い日差しで頭があつくなるのでをそれでよけるのだという。私が仕事中だったせいで準備ができなかったと、相変わらず不満をぶちまけていた。
「あれに気をつけるように、これを忘れないように」と口をすっぱくして言う私に「うるさい」を連発する。

私は知り合ったばかりの愛知県の知人の連絡先を手渡し、何かあったらここに連絡するように、と伝えた。階下の自転車置き場まで見送ろうとすると、
「あっちいけよ!」と文句をいってくる。仕方がないので窓から見ていると、荷台にバックを括りつけるのにさっきから苦労している。これまでダサいといって荷台のある自転車など持ったことがないのからロープも上手くかけれないのだろう。大丈夫か・・・と自転車置き場まで見に行くと、また、
「あっちいけ!」と言ってくる。一旦立ち去って様子を見ていると、結局上手く括り付けられず、今にも落ちそうにバックは斜めになったままで出発していった。
『そのうち同じ旅仲間ができて、きっと色々教えてくれるだろう』そう思って後ろ姿を見送った。

その日の夜、神奈川県の茅ヶ崎にいる、という電話がかかってきた。これからもう少し走って寝場所を探すという。
出発前はお互いの関係がギクシャクしていて、この先帰宅するまで心配で眠れないのではと案じたが、電話をくれたことに安心した。Nの祖父がNを心配していたので電話があったことを伝えると、祖父が毎日一度は私に電話するようにNにいいつけたのだそうだ。助かった。

友人が、道の駅を寝床ポイントにするといい、と教えてくれたのでそのことをメールで伝えた。

翌日、静岡市にいるという電話があった。雨が降ってきたが、市内はビルばかりで寝れるような公園がない。泊めてくれるような友達はいないか、という。出発二日目でギブアップか、とあわてた。私に静岡に友達などいるはずもない、しょうがないので道の駅を探すようにいった。Nは田舎で何度も道の駅に行っているのに、どういうところなのかわからず、JRの駅に行ったらしい。

道の駅の説明をし、私もネットで調べてメールするから、といった。「もう疲れたからここに泊まる。24時間営業って書いてある店があるから」といって電話が切れた。

次に電話がかかってきたのは翌日の夕方、浜松市の警察からだった。事故かと驚いて飛び上がりそうだったが、どうやら道を間違えて自動車道に入り込んだらしい。他のドライバーが警察に通報してくれ、パトカーに誘導され一般道に下りたそうだが、東京育ちのNは高速道路とは頭上にあるものと思っていたのだろう。知らぬうちに入り込んだらしいがしょうがない。道路標識を教えておくようにと警察にお叱りを受けた。

その後愛知県で一泊し、三重県で一泊、明日には京都につくだろう、と思っていたら午前中にメールがはいり、京都市内に入ったということだった。出発から4日後だった。「今、京都駅前のマクドナルドで待ち合わせしていた友達とあった。お金半分すでに使ったけど大丈夫かな?」といっていた。私は知らなかったが1日早く出発していた友達と京都で合流することになっていたらしい。「足りなかったら口座に入れるから連絡して」と伝えた。

その後京都市内を観光して一泊したあと、友達と帰路についた。友達と一緒ということで私も少し安心した。一日一県ずつのペースで走っていることがメールでわかった。数日後の夜、箱根にいるというメールが来た。夜中だけど箱根を越えたほうがいいか、ここで野宿するか意見が分かれてるけどどうしたらいいか、というメールだった。

夏場の箱根は暴走族とか走りにくるから気をつけて、無理しないほうがいい、とメールを送った。その翌日のお昼前に電話があって、
「今横浜だけどお金がぜんぜんない。喉が渇いて腹が減ってどうしようもない」という。 『あと少しなのに』と思ったが、腹が減っては自転車も漕げないか、と思い少額を口座に送金した。

お昼に横浜なら、そろそろ着く頃かも、と待っていたがなかなか到着しない。夕飯時にやっと帰ってきた。日焼けで真っ黒になり、行きは銭湯にも行ったそうだが、帰りは節約し一度も風呂にはいらなかったそうで、頭に巻いたタオルも真っ黒。案の定バックは何度もずり落ちたそうで破れていた。
帰宅が遅れたのは家に着く前に東京シューレに寄っていたからなのだそうだ。本当にNは東京シューレが好きなのだ、と思った。

驚いたことに、箱根で一泊するかどうかで悩んだとき、Nは友達と別れ、一人で走り続けたのだそうだ。Nは友達をおいて先に帰ってきたのだった。
「Tは違う道を行くといって聞かないから別れた。まだ東京についてないはず」という。わが子ながらそのパワフルさにあきれた。

この経験はNを大きく変えた。それまでの反抗的なところがぐっと少なくなり、自分で自分のやったことに責任を持つようになった。旅の間、携帯で地図を見ていたのでかなりの請求金額が来たのだが、自分から 「俺が払う」といってきた。それまで神経質に、他の人が入った風呂はお湯が汚いだのなんのと文句を言っていたのが、汚いのには慣れた、というようになった。

実家の父はNのことを、学校で教わらない貴重な経験をした、と褒めた。バイト先でも店長がNのことを凄く褒めてくれたそうだ。Nの中に大きな自信が確立したようだった。

先生からのイジメで自殺した中学生がニュースの話題になったとき、Nの祖父は「そんな学校に行くことない。東京シューレに行け」というほどだった。後で知ったことなのだが、祖父はNが京都に行くのだから自分も車で京都に行く、今からでも車なら追いつくかも、といいだして家族に止められたのだそうだ。その想いがありがたかった。

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