初めてのアメリカ

夏に自転車旅行をしたNは人間として一回り大きく成長したようだった。京都から帰った数日後、毎年恒例の全国フリースクール大会が2泊の予定で長野で開かれるということで参加した。

去年、東京シューレにいて親しくなりその後アメリカに帰国した友達ジャンが、夏休みで一時来日したついでにこの大会に参加するといっているそうで、「ジャンに会えるから絶対に行く」といって聞かなかった。
7月に北海道での夏合宿にも参加したので我が家には大きな出費だったが、そういわれてしまうとやめろとは言えない。

それから数ヵ月後の晩秋のある日、ジャンくんから私宛にメールが来た。そういえばNに、
「ジャンがおかあさんのメールアドレスを教えてっていってるんだけど」といわれて教えたことがあった。そのときは何の為なのかさっぱりわからなかったが、そういうことだったのか。メールには、Nがアメリカに来たいといっているが、いつ来れるのか、なぜアメリカに来たいのか知りたい、という内容だった。

Nにこのメールのことを話すと、ジャンとは大会のときホテルで同じ部屋で、大会の間ずっと行動を共にして面倒を見てあげたのだという。
「これまで携帯でメールのやり取りをしていたけど、俺とメールしててもらちが明かないと思ったんじゃない?これまでのメールは東京シューレのスタッフに教えてもらって書いていたと伝えといて」という。

私はメールのやり取りをしていたことも知らなければ、スタッフに教えてもらって英文のメールを書いていたことすら知らなかった。なにより英語がチンプンカンプンのはずのNがどうやってジャンくんと会話していたのか想像もつかなかった。

ジャンくんには、Nはロックが好きなので音楽の勉強に将来アメリカに行きたいと思っていること、でもまだ具体的にいつアメリカに行くとは決めていないこと、行くとしたら東京シューレが休みになる冬休みか春休みだろう、ということを書いて送信した。

するとジャンくんは、Nにぜひアメリカの我が家に来て欲しい、家族もいいと言っている、クリスマス前なら日本にいる義母がアメリカにくるから一緒にくればいい、というのだった。

あまりに突然のことで、迷って私の父であるNの祖父に相談すると、Nも行きたいといっているなら、ありがたい誘いだから行かせてあげたらどうだ、という。費用も一部援助してくれるという。ジャンくんの家に泊めてもらうので宿泊費はかからない。それなら金銭的には行かせてあげることができそうだ。

これまでNの存在は、私の実家ではとても評価が低かった。だが夏の京都旅行以来
一変していた。

これまでNは何人か友達を我が家にも連れてきたけれども、私はジャンくんには一度もあったことがなかった。アメリカ人の子がいるとは聞いていたが、ふたりがそんなに親しい関係だったなどとこれまで一度ども聞いたこともなかった。東京シューレのスタッフにジャンのことを聞こうと思って電話すると、
「Nくんは、大会のときずっとジャンくんと一緒に遊んでいました。他の子たちはジャンくんは英語しかしゃべらないからって敬遠してたけど、Nくんはジャンくんが、自分の好きなバンドの出身地、シアトルに住んでいることもあって、興味があったんじゃないかな」という。

「Nくんは日本語でジャンくんに話しかけて、ジャンくんは英語でNくんに話しかけてるんですよ、おもしろいですよねー」といっていた。そういえば、2000年にIDECが日本で行われたとき、実行委員のシューレの子供が4日目ぐらいから「英語はよくわからないけど、何行ってるのか俺わかるようになってきた」と言っていたことを思い出した。学校の下手な英語教育は英語コンプレックスを生み出すばかりで、中学、高校と6年も勉強してもまったく役に立たなかったというのに、彼らの度胸はたいしたものだ。

そしてスタッフはジャンくんの義母のメールアドレスと電話番号を教えてくれた。さっそく連絡をしてみるとジャンの義母さんは、ジャンがとてもNくんのことを気に入ってるのでぜひシアトルの家に遊びに来て欲しい、という。私と同じ飛行機でアメリカに行くならお母さんも安心でしょうから、一緒にいきましょう、といってくれた。あっさりとNは年末にアメリカに行くことが決まった。

ところが、Nは東京シューレのクリスマス会で自分のバンドが演奏するからそれが終わってから出発したいといいだした。しかもジャンくんのお母さんの乗る予定の航空会社のチケットは他の航空会社に比べ少々高い。しかもその日はNのバイトの給料日前だった。バイト代を旅行の費用に当てようと考えていたので、ジャンくんの家族へのクリスマスプレゼントを買う予算もNにはない。どうしようかと親子で悩んでいるうちに、時間が過ぎていってしまった。

東京シューレのスタッフ石川さんは、これまで何度もクリスマス会には参加しているのだし、せっかくの機会なので休みをとっでジャンの義母さんと一緒にいくようにと説得してくれた。ところが悩んでいるうちに年末の休暇と重なってしまい、ジャンの義母さんと同じ飛行機のチケットがとれなくなってしまったのだ。ジャンの家には迷惑をかけると思ったのだが、ジャンの義母さんが出発する3日後の12月18日のチケットを探すことにした。何件か電話をかけるうちに手ごろな値段のものが見つかった。そういうわけで結局Nは一人でアメリカまで行くこととなった。

京都の一人旅は自転車だったので事故という危険はあるものの、言葉に関してはまったく心配が要らなかった。だが、今度は言葉という壁がある。機内は日本人だらけだろうが、テロ以来厳しくなっているというアメリカの入国審査が心配になった。Nは英語はわからない。たとえジャンくんの義母さんと一緒の飛行機で行ったとしても、一対一となる入国審査は大丈夫だろうか。

その日から東京シューレのスタッフとの入国審査突破のための英語のレッスンが始まった。名前、年齢、訪米の目的などは言えるようになったとのこと。現地の滞在場所は、ジャンくんの住所や電話番号などを紙に書いてみせれば大丈夫でしょう、とのことだった。私は、出国カード、アメリカの入国カードをの書き方を教え、それを見て書くようにとコピーした紙を渡した。

Nはトラベラーズチェックの購入も自分でやる、といって銀行に一人で出かけた。夏の自転車旅行以来、Nは意識的に何でも自分ひとりでやろうとしているようだった。

Nのアメリカ行きは、格安チケットなので成田空港の旅行会社のカウンターで航空券と引き換えなくてはいけない。Nを見送りがてら成田空港まで一緒にいこうか、といったが、Nは一人で行くといいはり、わからなかったら電話で聞く、という。

出発の当日、Nは、
「シューレによってから行こうかな」といっていつものように東京シューレに顔を出してから出かけた。本当にNはシューレっ子なのだ。空港行きの特急スカイライナーに間に合ったかどうか心配だったのでメールを送ると。「乗った」と3文字の返事。空港に着くとどこに行けばいいの?と電話が入った。旅行会社がくれた引き換え書にカウンターのナンバーが書いてあるから、そこでチケットを受け取って色々聞くようにと伝えた。

航空券の引き換えは難なく進んだものの、出国手続き開始がいつなのかわからない、と電話がかかってきた。Nの乗る便の番号を教え、departureというのが出発だからその表示が出たら出国手続きをするように伝えた。『飛行機に乗ったから携帯の電源を切る』というメールが来て連絡は途絶えた。どうやら出国カードは一人で書くことができたようだ。

そろそろ到着しているはずなのにNからは何の連絡もない。むこうについたらジャンくんの家族が迎えに来ているはずだから大丈夫だろう、連絡がないのは会えているからだろう、とは思ったが、必ず連絡するようにといったのに、何時間も立つのに連絡がない。ジャンくんの義母さん宛てにメールをすると、時差ぼけで朝食後眠ってしまいもうかれこれ8時間も寝ているということだった。

Nはアメリカから2度ほど国際電話をかけてきた。約9日間を楽しく過ごしたようだ。憧れのロックスターのお墓にもいったそうだ。そして帰国日がやってきた。ジャンくんのご両親が日本で年越しをするということで同じ日に日本にくることになっていた。

ノースウエスト航空とユナイテッド航空とNとご両親の航空会社が違うので帰国便の飛行機は違うが、ジャンくんの両親を載せた飛行機は、Nのものとほぼ同じ時刻に日本に到着することになっていた。私は成田空港までいってジャンくんのご両親にご挨拶しようと考えていたが、帰国前の電話でジャンくんの義母さんが車で家まで送ってくれるということになっていた。ご両親はまた夏休みも遊びにきてください、という暖かい言葉をくれた。私も感謝の気持ちを伝えたくて知ってる限りの英語でお礼をいった。

Nに一番気になっていた入国審査のことを聞くと、日本語のわかる審査員が通訳してくれたので大丈夫だった、とのことだった。
「でも小銭がなくて大変だったんだから」という。
「え?なんで?」と聞くと、
飛行機が早めに着いたのを知らなかったので、まだジャンくんの義母さんが来てないと空港内を探し回ったのだそうだ。ジャンくんの義母さんが車を駐車場に入れにいったりしている間にすれ違ってしまったらしい。電話しようと思ったが小銭がないので両替所で、
「スモールチェンジプリーズ」といって両替してもらって義母さんの携帯に電話してやっと会えた、といっていた。私は絶対会えるだろう、と思いこんでいたので電話のかけ方は教えなかった。私自身アメリカには行ったことがなかったのでアメリカの公衆電話はよく知らなかったのだが、もしジャンくんの家族と会えなかったら電話番号を書いた紙を誰かに見せて指さし、「マイフレンド、テレフォンプリーズ」といえばきっとわかって電話してくれるだろう、とだけ言っておいた。

これまで2回ほど韓国に行っているから両替のことはわかっていたのだろう。以外に機転が利くんだ、これなら海外に行っても大丈夫かもしれない、と思った。

ここまで読んで頂いた方には、途中を省略することになり、心苦しいが、Nは18歳で東京シューレを卒業し、1年間アルバイトをしたお金に、父と祖父に貰ったお金を加え、英国へ語学留学に一人旅立った。
我が家は裕福ではないので、留学斡旋会社を一切使わず、英語のできる人を頼って申請も親子だけで行った。
Nがロンドンのヒースロー空港に到着した時、早朝だったことと、飛行機が早めに到着して、迎えの車が来ていなくて焦って家に電話をかけてきた。私も慌てたが、しばらくしたら迎えの運転手がやってきて、無事に会え、ホームステイ先に向かった。
自己紹介程度でほとんど英語の話せなかったNだったので、『家から一歩も出れない』と思ったそうだ。ステイ先に電話したが、ホストマザーは、「朝、早かったからまだ寝てる」とのことだった。幸い、同じ日にステイ先に入居した年上の韓国人男性が、Nより英語が話せたので、色々面倒を見てくれ、2人で出かけ、ロンドンの交通系カードを作り、学校へ下見に行ったそうだ。そのルームメイトは2週間程度でシェアハウスに移ったそうだが、親として、感謝の気持ちが今も残っている。

ここで、終了して申し訳ないが、一旦休筆する。
現在、Nは海外生活10年を超え、海外で働いている。