転校

大町小学校の校長に、Nと私は転校する前に挨拶にいった。大町小は一学年一クラスでこじんまりとした雰囲気だった。校長はNを一目見て、
「元気そうないいお子さんじゃない?」といった。
『元気すぎたのが前の担任は気に入らなかったみたいなんだけど』と思った。

 不登校の子供はとかくひ弱で引っ込み思案の暗い子供という先入観が多くの人にあるらしく、思ったより明るいとか元気だとか普通の子だとかいわれることが多い。初めは失礼な言い方だと思ったが今は普通の人の認識とはこういうものなのだ、と聞き流すようになった。

「これからお世話になるのでよろしくお願いします」と挨拶をした。Nの担任になる板橋先生が呼ばれた。私とほぼ同じぐらいの年齢で、同じぐらいの子供もいるという話を事前に保育園の時ののお友だちのお母さんから聞いていた。この先生ならNとうまくやっていけるかもしれない。

 大町小学校は集団登校で7時45分から55分の間に集合しなくてはいけない。家は学区外でもあり集合場所から一番遠い。親は1週ごとの交代当番制で子供達が大通りを渡るのを見送ることになっていた。以前よりちょっと面倒になったがしかたがない。幸い保育園の時の友だちが登校班に二人いる。それが心強いと私は思ったのだが2人とも女の子だったのであまり意味がないことがあとでわかることになる。

 数日後大町小学校で私にとって始めての保護者会があった。担任の話はいたって常識的で前の担任との違いを痛感した。私はほっと一安心した。Nは1学期の残り10日間を無事登校し終えた。
新しい学校の友だちもできた。クラスは30人足らず。男の子の数も少ない。遊びに行くのも今までよりちょっと遠くなったがNは元気に毎日のようにおさがりの古い自転車で遊びに出かけた。

転校したことのある人なら多かれ少なかれ体験しているだと思うが、子供にとって転校というのは環境がガラリとかわる一大事である。Nの転校は私からみるとほんのちょっと通う距離が長くなっただけのような気がしていたが、本人にとってはそうでもなかったようだ。実際に転校がきっかけとなって不登校になったというケースもしばしば聞く。

転校生というのは新しい学校のことはどこに何があるかもよくわからず、誰が誰なんだかもよくわからない。仲のよい友達もまだできないとなるとおのずと一人になりがちで弱い存在となる。これまでは元気だったNも格好の標的にされてしまったと思われる出来事がおきた。

 あるとき帰ってくるなりNはしょんぼりしてこういった。「シゲルとシュンが『あの手をやろうぜ』っていったんだ」
「あの手?なにそれ」
「学校から帰るとき、シュンとシゲルが電柱のかげとかに隠れてN一人ぼっちになっちゃった」
「だって保育園で一緒だったマユちゃんとか他の女の子もいるでしょ、そんなの無視してその子たちと帰ればいいじゃない」
「マユちゃんたちにも『おまえらもやれって』」
「シュンくんやシゲルがいったの?」
「うん」
「そっかー、かわいそうだったね」私はNを抱きしめた。

保育園の時の友だちのマユちゃんはおとなしい女の子で、ユミちゃんもひとりっこでおっとりしている。ふたりとも元気な男の子に文句をいえるようなタイプではなかった。もう保育園のときのような無邪気な年齢ではなかった。知り合いがいれば安心と思ったのは安直な考えだった。

 大町小学校は集団登校なだけでなく帰るときも同じ方向の子供たちで同じ道を帰らなくてはいけないのだ。これも安全のために考え出されたのかもしれないが、集団登校というのも曲者でいつも遅れてくる子いるかと思えば、そういう子を目の敵のようにちょっとでも遅れると電話をかけてくる神経質な保護者もいたり、親同士のあいだでも不満がくすぶったりするという話を良く聞く。

仲よしの子と帰るのであれば何も問題はないが、いじめてくる子と一緒のような場合登下校が苦痛になりかねない。集団登校の列に車が突っ込んだ事故などの話を聞くとどこが安全なんだろう、と思ったりする。安全のためならヨーロッパのように親が学校まで送り迎えするのを義務づければいいのにと思ったりする。
 
 Nはどういうわけか小学校入学のときランドセルを嫌がって買わなかった。
「他の子になにか言われるかもよ」と私と姉のクミでいいきかせたが頑としてきかなかった。それでランドセルと同じような形のナイロン製のリュックを背負っていっていた。実際この方が軽くて便利だった。

だが集団登校でみんなが集まるのをまっていると
「この子ランドセルが違うよ」と御丁寧に注意してくれる子がいる。
「嫌いだからって買わなかったんだよ」と私がその場にいたので説明したのだが、傷ついて疎外感を持ってしまうかもしれない。

 ランドセルといえばこんな話があった。
娘の同級生で小学校入学まで外国に住んでいた女の子がピンクのランドセルだった。クミも同じ色のランドセルで2人は意気投合して一緒に遊ぶことになったのだが、その日その子のお母さんから電話があった。

お母さんはスイス人と日本人のハーフでスイスに住んでおり日本語はペラペラなのだが、日本の小学生の女の子のほとんどが赤のランドセルだということを知らなかったのだそうだ。デパートに行くと色とりどりのランドセルが売られていて、子供がピンクを選んだのでそれを買って入学式に行ったら一様に、女の子はほとんど赤で男の子は黒なのに驚いたのだそうだ。クミちゃんが同じ色でよかったといっていた。

 これだけ物の豊かな日本だというのになんという選択肢の少なさ。小学生=ランドセル、男の子=黒、女の子=赤という妙な図式はもういいかげんに終わりにしたいと思うのだが。

 夏休み明け、私は鮎原先生は子供たちが提出した自由研究の宿題に対し、こういっていたという言葉を耳にした。
「工作などは親の方々が手伝うようにしてください。子供たちだけではたいしたものが作れませんから」いったい誰のための宿題なのだろう。

 駅前の神社でお祭りがあり、3人で夜店を見に出かけた。神社の境内で藤村君親子にあった。藤村君とは鮎原先生にNとモックンとともに問題児として名前を上げられていた3人の子供のうちの一人である。私は噂でNのことは知っているだろうと思い挨拶をしてこういった。
「うちは大町小に転校したの」
すると藤村君のおかあさんは視線を合わせようともせず、
「そうみたいね」とそっけなくそれだけ言って立ち去った。
鮎原先生の近況が聞けるかと思っていたのにあっけなく姿を消した親子の後ろ姿を見て残念に思った。

 黒柳小ではNの転校の理由ははっきりと告げられなかったと言うことがその後お母さん達の口伝えで耳に入ってきた。藤崎君のおかあさんは『Nくん、自分だけ逃げちゃって』と少なからず感じていたのかもしれない。
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