問題の先生

ある時、保育園の先生への謝恩を兼ねてお茶会が催された。久しぶりに保育園の頃の親が集まった。その時一人のお母さんが保母さんに話していた言葉がふいに耳に入ってきた。
「うちは2組でよかったわー。1組の鮎原先生じゃなくて」
「何?」と話に入ろうとするとそのお母さんは話すのをやめてしまった。

 4月中旬、家庭訪問が行われた。
鮎原先生は家に来て腰をおろすやいなや、
「N君は社会性が育ってないわね。」と言った。
「あとモックンと藤村君、あの子達もひどいわー。N君犬塚保育園だったっけ?保育園の子はだめね。それから音羽の森幼稚園、あそこも自由保育だからだめ。初めて校庭に出したときも池のほうに行ってはいけない、っていったのに3人とも行っちゃうし。」と立て続けにまくし立てた。

 そういえばNは名前の挙がった二人と仲良しで、特にモックンは一時期保育園で一緒だったこともあり放課後もよく遊んでいる。鮎原先生は私に口をはさませる余裕もなく、一人でダメダメを連呼し、子供の良い所を一つも言わないで帰っていった。

 そして入学から約1ヵ月後の5月のある朝、Nは泣きながら家に戻ってきた。確か10分程前に姉のクミと一緒に家を出たはずである。涙を流しながら
「ママ、Nは学校行きたくないよ。」と言っている。
家庭訪問の時の担任の威圧的な態度が頭をかすめた。

4針縫う怪我をした時もこれほど泣かなかったというのに、これはよほどのことなのだろうと思い、学校には腹痛と偽って電話をした。その日は午前中家にいて、皆が下校してくる午後にはNはいつものように友達の家に遊びにいった。

姉のクミは今朝のNのことを、
「Nったら行こうって言ってるのに、やだやだっていって手をひっぱっても動かないんだもん。先に行くよ、っていって少ししてから振り返ったら家のほうに戻ってたよ。」と言った。
「そうだったんだ・・・。」

 10日程あとに、同じようなことがもう一度あった。そのときも具合が悪いといって学校を休んだ。それ以外のNは普通の元気な6才の男の子そのものだった。
 
 5月の後半、初めての授業参観があった。
 その年から授業参観週間と称し、月曜から土曜までの一週間、いつでもどの時間でも親は教室に入ることができた。

私はクミに図工の時間来て、といわれていたので図工のある木曜日に行くことにした。
始めにクミの授業を観るため美術室に向かった。クミはチラチラと後ろを見ていたが私がいるのを確認すると安心したかのように作業を続けた。

 私は20分ほど見学するとNの教室に移動した。
 教室に入ると、ある女の子の席の脇の通路に赤ちゃんを抱いたお母さんが座っている。
『お子さん、障害でもあって一緒にいるのかなあ』と思った。

その日の授業は国語だった。
鮎原先生が「教科書読みたい人」というと
 何人もの子供が勢いよく
「はい」
「はい」と手をあげた。1年生は物怖じしなくていいな、と微笑ましく思いながら見ていると、
「じゃあモックン、よんで」モックンは一度もつかえることなくすらすらと読んだ。すると、
「ダメねえ。じゃあユイちゃん」他の子を指して同じところを読ませたのだ。

 まるでイジメだった。
 それなのに周りにいる他のお父さんもお母さんも何事もないような顔をして立っている。
『なんで誰も何も言わないの?』私は黙っていられないくらい怒りがこみ上げてきて、心臓の音が次第にドクドクと大きく鳴っていくのを感じた。授業の音は何も頭に入ってこない。
「ちょっと待ってくださいよ、先生。モックンはちゃんと読めたじゃないですか。なんでだめね、なんていって他の子をさすんですか。」
思わず、私は声に出していた。だが担任はそれに答えるでもなく、
「ふん」と鼻を鳴らして、授業を続けた。
チャイムが鳴り授業は終わった。担任は私にむかって、
「N君のお母さん、授業を中断するのはやめてください。妨げになりますから」といった。

 何年かたってからクミの同級生の妹がこういっていたとクミに聞かされた。「あの時Nくんのお母さんは勇気があるなあと思ったよ」彼女はNと同じクラスだった。この時のことをよく記憶していたようだった。 
あんな幼い年齢でも子供たちはとっくに先生のいっていることがおかしいということを見抜いていたのだ。

 学校の帰り道、頭の中は鮎原先生のことでいっぱいで何も目に入らなかった。
今日たまたま見たのはNではなく、友達のモックンが攻撃されている姿だった。しかし保護者がいる前でさえあのように特定の子供を攻撃しているのだ。社会性が育ってないとモックンとともに名指しされたNも、同じように攻撃されていることは容易に想像できた。泣きながら帰ってきたNの涙の意味がようやくわかってきた。  
 
 私はだましだまし学校に行かせたことを後悔し始めた。
あれはモックンが間違っていたわけではなくあきらかに嫌がらせではないか。大人の私が見てもモックンのどこが間違っているのかさっぱりわからない。あれではせっかくこれまでのびのび育ってきた子供が卑屈になってしまう。こんな小さな子供だったら誉めることが伸ばしていく方法ではないか、と思った。

 危機感を持った私は、次の日も授業を見にいった。校庭から窓越しに教室をみると今日もお母さんが女の子の隣に椅子を置いて座っている。
 
校庭に目をやると向こうから校長が歩いてくる姿が見えた。私は思わず駆け寄って聞いた。
「先生、鮎原先生が一年生の担任なのはなぜですか?高学年の方がふさわしいと思うんですけど」
「鮎原先生は優秀な先生です。ベテランですしね。先生がどうかしたんですか?」
「いえ、別に・・・。」きっぱりとした口調で言い切る校長に私はそれ以上のことを言う気になれずすごすごと家に戻った。

 家に帰っても仕事に集中できなかった。
 私はモックンの家に電話をした。モックンのお母さんに昨日、授業参観で見たことを話すと、モックンのお母さんが話し始めた。
「そうでしたか・・・。家に家庭訪問に来た時なんですけど、ちょうど、上のお兄ちゃんが帰ってきたんですよ。上の子は国立の小学校に行ってるんですけど、制服姿でそれがわかるじゃないですか、それを見て先生はこんな優秀な子がうちのクラスに欲しかったわー、っていうんですよ。目の前にモックンがいるのにですよ。それから、ほら、女の子の席にいつもお母さんが座っているのを見ました?」
「ええ、あの子、どうかしたんですか?」
「ひとみちゃんなんだけど、怖がって教室に入れないらしくって。お母さんとは幼稚園でいっしょだったのよ。私が授業参観に行ったときは体育を見にいったんだけど、太鼓の音にあわせて動くというのをやっていて、すごかったわ。先生が太鼓をドーンと叩くと、きびきび子供たちが動くのよ。つい入学したてとは思えないぐらい。あれは子供たち、そうとう厳しく怒られてると思うわ」
私は次にひとみちゃんの家に電話をした。ひとみちゃんのお母さんになぜ教室までついて行っているのか訳を聞いた。
「うちの子入学してしばらくしたった頃から『怖い』といって学校に行きたがらなったんです。最初は学校まで送って行っていたんだけど、それでも教室に入りたがらなくて。それで先生にお願いして教室に入れてもらっているんです」
「怖いというのは鮎原先生のこと?」と聞くと、
「たぶんそうですね。うちの子は今まであまり大声で怒鳴られたりしたことがなかったんです。そういう人が身近にいなかったので。だから怖くなっちゃったんだと思います」
「と、いうことはひとみちゃんも鮎原先生に怒られたことがあるっていうことですか?」
「いえ、うちの子に聞くとそれはないそうなんです。ただ他の子が怒られているのを見て怖くなっちゃったみたいなんです」
他の子ってNのことじゃないかと名前を訊ねたが、それが誰かはわからないといっていった。

 男の子が先生から自分への直接的な体罰から登校拒否を起こすのに対し、女の子はひとみちゃんのように怒っている教師を見て登校拒否を起こす例というのも見受けられるようだ。

Nが帰宅するのを待って、Nに学校での鮎原先生のことを聞いた。
「僕とモックンは先生に廊下に立ってなさいと言われた。先生や他の子が何回も見にきてイヤだった」
「それからモックンに色鉛筆をかしてっていわれたから貸してあげたら先生に怒られた」
「先生は教科書の角で頭を叩くんだよ」

 Nは早生まれなので6才になったばかり。まだほんの幼児にすぎない。ギャングエイジと呼ばれる少年にすらなっていない。   
 1ヶ月程前までいた保育園では先生は叱るときもしゃがんで子供と目線を合わせて、子供が分かるようにゆっくり諭してくれる。保育者の対応とあまりに違いすぎる。

1年生というのはまだ幼児の延長戦であり、じょじょに学校に慣らさせていくべきであって、そういうことを知っている先生を担任にするべきではないか、しかもいいも悪いも子供に説明しないどころか何も悪いことをしていないのに自分の思い通りにならないからといって怒るのは指導ではない、私は鮎原先生のずさんなやりかたにショックを受けた。

 モックンのおかあさんが言っていたことが思い出されてきた。
「鮎原先生は独身だそうよ」
 いくらベテランでも幼児と接したことがなければ幼児というのがどんなものなのかはわからないだろうし、年齢による世代間のギャップも大きいだろう。鮎原先生の的外れな教育の仕方のわけが少しわかった気がした。

他のおかあさんからこんな噂を聞いた。
鮎原先生は長い間、高学年しか受け持ったことがなかったという。先生の管理的な教育に反抗する高学年の子供たちに手を焼き教師を辞めようかと悩んでいたところ、当時の校長に1年生を受け持つことを勧められたということだった。

この校長は子供たちの教育より、鮎原先生個人の保身を優先したのではないかと思ってしまう。女性の校長というのは結婚しているとなれないという噂も耳にした。偶然かどうか前の校長も今の校長も独身の女性であった。独身でなければ女が校長になれないなんてこれが真実なら絶対におかしな制度だ。セクシャルハラスメントの一種ではないか、と私は思った。

 子供のよいところが伸ばされることもなく、みすみすつぶされるのがわかっていながら常識にしたがってそのまま学校に行かせるか、親である私がNを守るか。迷うことはなかった。すぐさま後者を選んだ。
Nには行きたくなければいつでも学校を休んでもいいよ、と告げた。するとNはもう学校には行かない、と言った。
そして欠席の時に学校に提出しなければいけない連絡帳にNは当分学校を休ませるつもりであるということと、その理由を2ページに渡って書き、担任に持っていくようクミに渡した。

 連絡帳には、思ったことを率直に書いた。
先日の授業参観で感じたこと、担任の今までのやり方では子供の伸びる芽もつぶされる、ということと子供が傷ついているので安心して学校にはやれないから休ませる、ということを書いた。数日後、同様のことを手紙に書いて校長宛に投函した。

 Nは昼間は公園で遊んだり、家でテレビを見たり、通信教育のワークブックをしたりして過ごした。
担任はすぐに電話をかけて来た。だがその内容はいいわけめいた言葉ばかりですぐ話を核心からそらすのだった。その後毎日のように電話があった。

 不登校の子供に対しては、教師は様子を見にいく、電話をかけるなどの対応を取らなくてはいけないらしい。それでも登校しなかった、という証拠が必要なのだそうだ。だが無理に学校に来させるなどの『登校刺激』は、今はしてはいけないということになっている。

 担任はあるとき電話でこういった。
「クラスの子に聞いたんだけど、N君児童公園で遊んでたんですって?近所の目があるからやめてもらえないかしら?」
「近所の目ってどういうことですか?Nは病気なわけじゃないし、元気な子供なんだから外でだって遊びたいことがあるでしょう。家のなかにばかり閉じ込めておくわけにはいかないじゃないですか」
「でも地域があっての小学校でしょ」
「なんですか、それ。どういう意味ですか?」担任が子供たちやその親の評判を気にして電話をしてきたことは明らかだった。

 数日後、校長からも電話があった。安心して学校にやれるようになるまでは学校に行かせるつもりはない、ということを私はくりかえした。
どうせ無理だろうとは思いつつも、校長にクラスか担任の変更について聞いてみた。案の定、校長の返事は学年途中での担任の変更は、担任が休暇を取るようなことがない限り不可能、生徒がクラスを代わることもできないとのことだった。
 校長は、一度学校にきて話を聞かせてくれないかといった。私は『ついに来たか』と思いつつそれを承諾した。
 
 校長と話をすることが決まってから、それまで強気だった担任の態度は変化し始めた。

 私は校長との話し合いの前に、2年間保育園でNを見てくれた保育士さんに電話で相談をした。子供が担任に社会性がないといわれたことについて意見を求めた。
「そんなことないですよ。卒園式のときのNくん見たでしょ。ちゃんとやってたじゃない」
「でも私があまりに自由に育てすぎたからそんなふうにいわれたのかと思って・・・。」というと、
「確かにN君は元気いっぱいで腕白な男の子だけど、ちゃんと話せばわかる子ですよ。昔はあんな男の子いっぱいいたわよー。」

やはりNは腕白なんだ、昔のタイプの男の子なんだと思った。ついこの間まで毎日のように、親と同じぐらい長い時間子供といて、Nをよくわかっている人にそういわれて涙声になりそうになった。
「Nくんの担任って鮎原先生でしょ?おととしユウ君のお兄ちゃんの担任だったんだけど大変だったらしいわ。おかあさん悩んでたもの」

 そういえば保育園のお迎えにきたユウ君のお母さんが、よく暗い顔をしていた姿を思いだした。どうやら鮎原先生は保護者の間では評判の先生らしいということが私にも遅まきながらわかってきた。

     
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