韓国旅行

004年2月、Nは予定していたスキー合宿の申し込みをキャンセルし、韓国のフリースクールとの交流会に行くことに決めた。
スキー合宿は東京シューレの毎冬の恒例行事で、私の故郷で何度もスキーを経験しているとはいえ東京シューレのスキー合宿は初めてなので参加してみたいといっていた。申し込み締め切りの直前になって韓国交流旅行のことを知り、参加を申し込んだ。
 
 小さい頃イタリアとギリシャにいったことがあるとはいえ、何もわからず親に連れて行かれたというだけである。英語もろくに勉強していなくて漢字も上手くかけないNはパスポートの申請も間違いだらけだった。何度か書き直しているうちに字は上手になってきたが空港では出国カードを書かなくてはいけない。私は出国カードのコピーを作って書く練習をさせた。

 英語は出来た方が便利だよ、という私の説教を生返事で右から左へ聞き流していたNが急に、
「これ英語でなんていうの?」と聞いてきた。まさに必要は学びの母。週に一度の東京シュ−レでのハングル語講座にも出席し、まるでスポンジが水を吸収するように学んでいった。

入国カードの方は、「そんなもの書かなかったよ」といっていた。どうも気をきかせた付き添いのスタッフが代わりに書いてくれたらしい。少し残念に思ったが、キーボード入力ばかりで、あれほど字を書くのを嫌がっていたNはそれ以来積極的に書くようになった。

 旅行の感想を聞いても言葉少なかったのだが、ソウルの刑務所博物館は印象深かったようで、
「ここにいったよ」とパンフレットを見せに来た。初めて戦争の生々しい傷跡に触れ強く心に残ったのだろう。帰国後、奥地さんに
「歴史は大事だよ」といっていたそうだ。
「韓国に行くことがあったらぜひまた行きたい」14歳のNにこの旅行は大きな足跡を残したようだ。
 
 その後も例年の春のキャンプ、夏休み中の合宿とすべての行事にNは参加していった。
 
そして中学3年の夏休み、Nの部屋に洗濯物を置きに入ったとき、一枚の紙を見つけた。『職業体験 場所 青い保育園 8月10日、11日、23日、24日』と書いてある。
「保育園!?」と私はわが目を疑った。

 我が家では一番年下で面倒を見られることはあっても面倒を見ることはなかったNである。だが実家に行くと年下の従兄弟の面倒を見ているという話も耳に入ることがあった。でも私は好きでやっているわけじゃなく叔父や叔母に頼まれてしょうがなくやっているのだろうと思っていた。
 
 数年前友人のカレー屋さんに3日ぐらい手伝いにいったことがあった。そのときは大きな声で『いらっしゃいませ』が言えず友人に注意されたのだそう。その後は頼まれても行こうとしなかった。
 
Nがいうには、
「知ってる人の前で『いらっしゃいませ』をいうのは恥ずかしい。知らない人の前だと言えるけど」ということだった。思春期の子供にありがちな羞恥心だとは思ったのだが、『この子はサービス業のバイトはむかなそうだから、力仕事など人とあまり接しない職業しかないなー』と思っていたところだった。保育園は確かにいらっしゃいませはいわなくてもいい。

 保育園へ行く日は朝8時半に駅で待ち合わせである。
 毎日お昼まで寝ているNが起きられるのか私は心配だった。
 前の日は早く寝ようとしているようなのだが、遅寝のリズムが出来上がっているのでなかなか寝付けないようで電気スタンドの明かりがこちらの部屋にも漏れてくる。

 結局3時間ほどしか寝ないで朝出かけた。
 こんな調子で4日も続くのかと思っていたが次の日も8時前に起こすと、普段はだらだらしてなかなか起きないのだがムクッと起き上がって準備を始める。そんな姿を見たのは小学校以来かもしれない。

 『奥地さんのいうことは本当なんだ、バイトを始めたりすると昼夜逆転していた子もちゃんと朝型になるっていってたけど本当にそのとおりだ・・・』
 半信半疑でいた私もNのそんな姿を目の当たりにすると子供を信じることの大切さを実感せずにはいられなかった。Nは4日間毎日遅刻せずに通いとうした。
 
 その後夏休み後半、全国フリースクール大会が千葉県成田市で開催された。いつも長期の休みのたびに「暇だ、暇だ」とNは口にしていたのでそんなに暇ならその大会の実行委員をやってみるように言ってみた。
 だが「やらない」といっていた。
 
 ところがその日が近づくと、なにやら友達と電話をしては頻繁に家から出かける。そして全国大会の当日も夕方には終了しているはずなのになかなか帰ってこない。夜遅く帰ってきたと思うと大きな立派な折り詰め弁当とお菓子を持っている。

そんなものを買うほどのお金は持たせていないはず。
 「どうしたの?それ」と聞くと、
「実行委員だから余ったの貰った」という。そこでようやく私はNが実行委員をやっていたこと、そのせいでしょっちゅう出かけていたことがわかった。
 
 その数日後私は東京シューレの中等部担当の林さんに電話で呼び出された。数日前奥地さんに、
「個人面談をしたい。友人関係のことなどでお話があるので」といわれていた。
 
 話の内容は、Nが悪ふざけして友だちの嫌がるようなことをしてしまい、友だちをひどく怒らせてしまったことだった。東京シューレのスタッフがそのことを耳にし、状況を把握し間に入ったところ、Nも悪いことをしたと反省していて、友だちに謝ったのだそうだ。

 夏休み最後の日にお互いに殴り合ってこの件は終了したらしい。
 そういえば帰ってくるといきなり顔を洗って口をゆすいでいた日があった。いつもと違う行動にあれっ、と思ったが真夏だったので汗のせいだろうとあまり気にしていなかった。

 今思えばどうもその日が殴りあった日のような気がする。
 結末は70年代の青春ドラマのようで『イマドキの子もそんなのことするんだ』とちょっと驚いたのだが、怒りの感情が複雑に絡み合わずにすんだのも東京シューレのスタッフが仲裁に入ってくれたおかげである。
 
 一件落着のように思えた数日後、Nはその後もイライラが続いていたのか、自分の好きなアイスクリームを私とクミで食べてしまったことでキレた。
 そして冷凍食品をぶちまけその一つが私の足に当った。これで私もキレた。

思わず大声で、
「痛い!なにすんのよ」
「俺の好きなアイスがないじゃないか、なんでなんだよ!」
「だからって冷凍庫の物投げることないじゃない!」
「アイスを探したら落ちてきただけだ」
「うそ、こっちに向かって投げたじゃない」
 売り言葉に買い言葉でお互いますます大声になりNはゴミ箱を蹴飛ばした。その理不尽さがくやしくてそのうち泣きながらのケンカになってしまった。

 そのときピンポーンと呼び鈴の音が。今夜泊まりに来る予定だったNの友達だろうと思いドアを開けると外には2人の警官の姿が。
「通りすがりの人から通報があって伺ったんですが、何かありましたか?」
「息子がアイスを食べられたといって怒ってケンカになって・・・」
「え?あなたと息子さんが?たったそれだけのことで?」
「今息子を呼びますから、ちょっと待ってください。どうかいいきかせてくれませんか」
「君か、大声を出してたのは。何年生なの」
「中学3年です」
「お母さん、息子さん他に暴力なんかは?」
「ありません」
「君、もう大きいんだからわかるだろ。どんなことがあろうと女、子供に暴力を振るう男は最低だ」警官はすぐに帰っていった。

 最近ドメスティックバイオレンスなどの事件が多いので通報されてしまったらしい。Nの声はもう子供の声には聞こえなかったということなのだろう。暑かったので窓を開けっ放しにしていたのがいけなかった。
 
 翌日、我が家に泊まるはずだったNの友達の家に電話をし、追い返す形になってしまったことを謝った。
 するとお母さんは、
「ああ、それは大変でしたね。でもNくんが誘ってくれたおかげで今年の夏は息子もあちこち出かけるようになって、ほんとにこれまでと見違えるようでしたよ」と逆に感謝された。
 どうやら保育園での職業体験も友達を誘ったのはNのほうだったらしい。

 長電話をしていたのはそのせいだったのか。ここでもまた私には知らないNの顔に出会った。あんな暴れん坊のような息子にもそんな良いところがあったんだ、と私はホッとしてそれまでの苦しさが解けていった。夜Nが帰宅した時、
「友達のお母さんがありがとうっていってたよ、Nもいいことしたんだね」といった。Nは何も答えなかった。

 だがこれ以来Nはやたらとイライラを母親の私に当り散らすということはなくなった。 自分はもう甘えや我儘が許される小さな子供には見られないんだという、自覚を持ったのかもしれない。

 これまでも何度も東京シューレのスタッフには助けられたが今回は私がまったく気付かなかった事件だけに感謝せずにはいられなかった。
 そういえばこの夏はなぜかNはいらついていてクミが先にシャワーを浴びただけでものすごい剣幕で怒鳴る。

 そして家族に聞かれないようベランダに出て長電話するNの姿がしょっちゅう見られた。 おかげで携帯電話代もうなぎのぼり。私はそのことでついついNに小言が多くなっていた。謎が解けたかのようにこのところのNの言動が理解できた。だがNにはNの世界があり、親の私がもうNにあれこれ口出しできるような年齢ではないことを身にしみて感じた。

 東京シューレに顔を出したある日、奥地さんが私の顔を見ると、
「最近授業に出てるわよ」といった。私は最近Nがこれまでより少し早い時間に起こしてくれるように言われていて、早めに東京シューレにいっていることに気がついていた。午前中は学習時間、ゲームやるのは午後からとミーティングで決まってからは、早く行ってもゲームができないからという理由で午前中は寝ていたのである。

 その後早起きに戻そうとしているのか目覚ましが鳴る音が聞こえるのだが、止めた後起きてる気配はなくやはりお昼頃起きだしている。
 そういうパターンがここ数年出来上がっていた。

 東京シューレのスタッフに授業に誘われても「今はいい」といって断っていたらしい。それは朝早く起きれないという理由があったのかもしれないし、仲間が遊んでいるのに自分だけ勉強するという感じじゃないというのもあったのかもしれない。
 
 それがスタッフの村上さんの話によるとNは「最近ゲームにも飽きてきた」といってたという。どういうことかと思ったらそういうことだったのだろうか。

 東京シューレに入った当時、中等部のお母さんに「勉強を強制せずにいると自然と知的なことに興味を示す時が来るものよ」という話をきいて、そういうものかと本人の心のむくそのままにしてきたN。
 
 6年生の頃に本人の希望で通信教育のワークブックを取り寄せたがいつしかそれも数ヶ月続けただけでやめてしまった。 
 気がつくと字を書こうとしない子供になっていて親としてまったく不安を感じないわけではなかった。
 強制はしないという東京シューレの方針に焦りを感じたこともあった。

 そういえば小さく折りたたまれた紙が落ちていて、捨てる前に中を確認しようとして広げてみたら、それは2学期の授業の時間割だった。
 参加したい授業にマルをつけて提出すること、と書いてある。今までこんな紙を家に持ってきたことはなかった。遅ればせながら知的なことに興味を持つ時期がようやくやってきたのかもしれない。
 
 2004年の9月、裁判を見にいくから交通費を多めに頂戴、といわれた。
 聞くところによると以前東京シューレの会員だった人が不登校だというたったそれだけの理由で放火犯に間違われた事件で裁判を起こしているのだという。少しでも多くの人が見にいくと社会的関心の高い事件だと思われるから行くのだといっていた。

 明らかにNの興味はゲーム以外の外の世界に向けられ始めたようだ。

        
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