学歴社会

夏休みを2週間後に控えたある日Nは転校を許可され、大町小学校に行くことに決まった。希望する学校名を書くとき保育園の時に一緒だった子がいる方がいいと思い大町小学校と書いた。だがこの地域の教育熱心な親は1学年1クラスしかない上、歴史の浅い小学校ということで、大町小学校を避ける人が多く、バスで徒歩で15分ほど先の窪塚小学校を選ぶらしい。
 
私の住んでいた地域では公立小学校といえどもあなどれないのである。近隣の教育熱心な親が狙うのは窪塚小学校である。しかもこのあたりは子供が減っているにも関わらず小学校が多く、子供が一人で通える範囲に4つも小学校があった。

通学用の帽子の色を見ればどこの小学校に通っているのか一目両全となっている。熱心な親は色んな理由やコネを使い、越境入学をしようと試みるようだ。
 
この地域の人にとって、窪塚小は明治時代からある小学校で有名人も多く通った由緒ある公立小学校だそうで、『都内の小学校では始業式が始まりました』などのNHKのニュースでよく撮影される小学校らしい。いわゆるレベルの高いといわれる公立小学校なのだそうだ。

 地方出身者の私にはイマイチそこが理解できない。だからなんなの?そこまでして他人と差をつけたいの?と嫌味の一つもいいたくなる。私は子供の友達のお母さんたちに、
「なんで窪塚小にしなかったの?」と幾度となく聞かれた。

私は公立の小学校にレベルの差などあるわけがないと思っていたのだが、教師の間ではこの小学校にいくと出世コース、この学校なら左遷といわれる歴然としたランクがあるということを後に新聞記者に聞かされた。全国一律の教育を謳っているはずの公立校が?と自分の耳を疑う事実だった。
 
 私は高校卒業後上京し、首都圏をいくつか移り住んだがこんなにのびのびと子育てしにくい町はなかったように思う。都心で家賃が高いこともあって住んでいるのは親の代から住んでいる人たちばかり。よそから入ってくる人は少なく両親共に地方出身者など皆無に近い。昔からの顔なじみばかりでまるで田舎の小さな村のような閉鎖的な土地柄だった。

そこに住んでいるというだけで幼児の頃から受験戦争にまきこまれていることの異様さに気がつかないばかりか、それがあたりまえでなんの疑問を持たないかのような環境。文教地区といわれるその地域に住んでいることにむしろ高いプライドすらもっている人がほとんどだった。

離婚後、母子家庭に部屋を貸してくれるところがなかなか見つからず、我が家にたまたま貸してくれた場所がそこだけだったからなのだ。ここに引っ越すことが決まった時、『こんなお固いイメージのところに住むの?あーダサイ、もっとコジャレタところに住みたかった』と私などと思ったくらいである。

  そのころ私達が住んでいた地域は一人で通える範囲に国立大学の付属小学校が2つ、女子大の付属小が一つ、少し離れたところに都立大の付属小があり、お受験ママが聞いたらよだれがでそうなパーフェクトな『お受験地域』に住んでいたのだ。

おのずと親は教育熱心にならざるをえないのか、その地域の子供たちはほとんど必ずその付属小学校や幼稚園の試験を受けるのだそうだ。大抵が抽選で落ちてしまうらしいが、私は幼児に受験をさせるという考えにはどうしてもついていけないものがある。
 
我が子によりよい教育を、というのは大抵の親が考えることである。そのためによりよい教育をする学校に入れたい、という気持ちもよくわかる。だが受験というシステムに大きな問題があると思う。いったい何を基準に子供を選ぶのかその意図がよくわからない。研究目的であればあくまでも抽選にすればいいものを、わざわざ試験をする。

私立の学校ならまだわかる。その学校の方針にあう子供、理解のある親を入れたいのは当然のことだろう。学校運営のためには多くの寄付金を与えてくれる人というのも重要かもしれない。けれどもそうではない大学の付属の小学校がいったい何を基準に子供を選んでいるのだろう。

子供に対する考えは、私は養老孟司先生と同様、唯一無二の自然な存在だと思っている。特にこの年頃の子供は自由で好奇心に溢れとてもおもしろい。学校に入れば厭でも情報処理である勉強を強制される。道に咲く花を摘んだり、蟻をじっと観察したりを飽きるまでできるのはこの年頃までだろう。そのような自由な存在に、本来子供がすべき遊びではなく、受験の為に決まりきった物事を強制させなければいけないということがもったいない、かわいそうと感じるのだ。

5才のこの時というのはもう2度とこない。それなのに受験のためのお稽古に明け暮れてしまっていいのか?そんな疑問は私が自然に溢れた田舎で育ったから持つのだろうか。

自分が同様のエリート教育を受けた親はなんの疑問も持たなかったかのように我が子に受験をさせようとする。その上、我々には合格することは優秀なこと、不合格なのはダメなこと、という先入観が脈々と存在している。そんなことからも大学の付属小ではよりよい特別な教育が行われているかのような、そこに入る子供は優れているかのような観念を親たちに与えている。
 
 私の友人の中には親の考えで私立の小学校に通わされたという経験を持つ人を何人か知っている。たまたまかも知れないが、電車を乗り継いで遠くまで通うのは嫌だったとか、学校の雰囲気が自分には合わなかったなどと言う人が多かった。

何しろ年齢的に小さかったので親の考えに自分の意見もいえず、我慢しながら子供時代を過ごしたそうだ。結局大人になった今になって、彼らはようやく『嫌だった』『自分の意思ではなかった』ということが言えたわけである。

子供の行きたい方向と親の希望が一致した場合、子は親の与えてくれた教育環境に感謝することだろう。だがそうではなかった場合は子供にとって苦痛以外のなにものでもない。

困ったことに子供の自我が発達しだすのが9歳以降、そしてはっきりとした自我が形成されるのが思春期なのに、その前に小学校受験、中学校受験というものが来てしまうということだ。実際に学校にいくのは子供である。小学校受験などをする幼児に教育や学校のなにがわかるというのだろう。

自我の出てくる思春期になるまでの子供というのは、親に愛されたいがために敏感に親の期待を読み取り、自分の気持ちを抑えて親の希望どおりのことをしたりするものだ。それほど親というのはその頃の年齢の子どもには絶対的な存在なのだ。子供の気持ちを汲み取ることは本当に大切なことだと思う。

 成績の良いきょうだいと比べられ、偏差値の高い学校に行くように期待されている子供、いい子であることを期待され拒食症になった子ども、親の要求どおりのレールを歩み大人になってから自分で選択した人生ではないことに気づき苦しむ人。親の期待通りに生きようとし、自分をまげて抑えて苦しんできた多くの人々を自分を含め、私は見てきた。

そんな子供の親は自分の価値観を押し付けていること、あるいは過剰な期待をかけていること、そのことで子供が苦しんでいたことなど子供に言われるまで気づいてもいない。

自分は子供に良かれと思ってやってきた、それが子供の幸せではないか、という。苦しめるようなことをしているなど微塵も思っていない。だが子供にとって何が幸せかは子供自身が感じるものである。
そこには親の愛は感じられない。そこにあるのはエゴだけである。間違った愛情である。

以前テレビで『子供は私の作品だから』といっていた母親を見た。私の親も同様のことをいう。作品に魂を吹き込むのは作家だが子供には始めから魂が入っている。私はその言葉を聞いたとき強い反発を感じた。作品とはどういうことなのか?多分子供のためにとそれまで自分の思い通りに精魂込めて世話をしてきたのだろう。

子供が自我を持ち、親の思い通りにならないようなことをし始めると怒ったり、子供を非難したりして認めようとしない。それは明らかに間違った愛情である。反発できた子供は幸いである。だがそうすることも出来ず大人になった人は自分の好きなように生きてはいけない苦しみに直面して初めて親の価値観で生きてきたことに気づく。

子供は親を満足させるために生まれてきたのではない。子供は親のブランド物のアクセサリーでもなければましてや作品ではない。子供には子供の選択の自由があり、自分で作っていく人生がある。親が子供の人生を代わりに生きられるはずもないのだから、親が決めるべきことではないと思う。

 そのうちついに痛ましい事件が起きてしまった。お受験殺人と騒がれたあの音羽幼女殺害事件である。私たちはその現場から徒歩5分のところに住んでいた。

その事件ばかりでなく、大阪では同じく大学の付属小で痛ましい事件が起きた。大学の付属小学校というのは教育学部の研究の目的でつくられたそうだ。現在のようにエリート扱いされる、選ばれた一部の子供しかいないのなら研究の意味がないと語る人の記事を読んだ事があるが、まったくその通りだと思う。このように小さなうちから子供を選別化、差別化することでいろいろなゆがみが起きているのではないだろうか。

 また日本のように、大学に入るのに多くの努力を必要とし、入ってからほとんど勉強を必要としない今の日本の教育システムはいったいいつ誰が考えたのか、まことに効果的だと思えない。18歳で将来が決まってしまうのではなく、学びたい人間がいつでも学べる教育システムが豊かな国の姿なのではないだろうか。大阪の付属小の事件の容疑者の行動には情状酌量の余地もないが、このような特権意識を羨望する世間の価値観がなければ、このような猟奇的な事件も起こらなかったかもしれないと思ってしまう。

 たとえば音羽の幼児殺人事件の容疑者が長年東京に住んでいて、音羽以外にも子供のいる友人がいたら、あるいは保育園に子供を入れることができていたら、そして何より音羽に住んでいなかったら、もっと世界が広がって自分を追い詰めることもなくなりあのような痛ましい事件が起こらなかったかもしれないと思う。音羽には魔物がうようよ住んでいる。そういってしまいたくなるほど、おおらかな子育てが通用しないような偏狭な土地だと私は感じながら生活していた。


      続き