学校をやめる

Nはそれでも東京シューレにいくのを嫌がることもなく毎週通った。冬を迎える頃には、
「僕学校やめる。シュ−レにする」と言い出すようになった。

私は内心その言葉に少しあわてた。当時の担任の加藤先生はとても穏やかで理解がありNが東京シュ−レに通うことを、
「今日はシューレに行くからお休みなのね」と、とがめることもなく容認してくれている。

 東京シューレはこの当時、学校として認められていない為、今の大町小学校に学籍を置かせて貰うしかない。学校側との煩雑な交渉を思うとつい面倒になり、今のままでいてくれればいいのにと思ってしまったのだ。
 
 忘れもしない2学期の終業式の日の朝のことだ。大町小は集団登校でその集合場所に行くのに信号のない道路を横切らなくてはいけない。危ないので私が毎朝連れて行っていた。

 家を出ようとするとNは真冬だというのにジャンパーも着ないで鞄を背負って玄関に立っていた。集合時間が迫っているのでイライラしていた私は、また悪ふざけをしてと、履くつもりで手にしたサンダルで、
「早くしたくしなさい。なにやってんの」と思わずNの頭を叩いてしまった。

そのサンダルはサボという木で出来た物だったので軽くコツンとやったつもりがNの頭皮が切れて血がにじんできてしまった。
「N、ごめんね。学校より先に病院に行かなきゃいけないね」といって学校に遅れて出席することを伝え、病院に向かった。幸い傷は浅く縫うほどでもなかったのでほっと一安心し、Nと大町小に向かった。
 
 大町小ではちょうど終業式の真最中で、真冬の薄日しか射さない校庭に、ジャンパーも着ずセーターや半ズボン姿で寒そうに整列している子供達の姿が道路の向こうに見えてきた。
 私の脳裏をニイルの『学校は小型の軍隊ではない』という言葉が横切った。今校内に入ったらこの列の中にNも並ばなくてはいけない。朝から母に怒られ、頭に傷を負った病院帰りのNを寒空の下に置いて行くのは不憫に思えてきた。
「N、お茶でも飲んでからいこうか」というと、Nは、
「ほんと?いいの?」という。Nと来た道を引き返し近くのファミリーレストランに入った。

 ファミリーレストランの中は暖房がきいて暖かく、この時間は客も少ない。カフェオレとホットケーキのモーニングセットを頼んでNと向かいあって暖かいカフェオレをすするとNが
「こういうのっていいね。しあわせって感じがしない、ママ?」という。
 この言葉が私の胸に突き刺さった。
 
 しあわせ・・・Nのとってのしあわせってこういうことなんだ。無意味なことを強制されることのない、やりたいができる自由。そういえば高校卒業を待っていたかのように上京した私は、それまでの学校生活での管理や強制やらを跳ね返すように自由を謳歌してこれまで生きてきたではないか。それなのに今子供にやりたくないことを押しつけている。

私は自分のエゴのためにNを無理やり学校に行かせていたのかもしれない。Nの幸せを思うならこのまま学校に通わせ続けるのは間違っているかもしれない。Nは学校に行くのが嫌で時間稼ぎのためにジャンパーを着なかったのかもしれないじゃないか。
 
 私は窓の外にわずかに見える学校の建物を見て決心した。
『Nを学校にいかせるのは、もうやめよう。東京シュ−レだけにしよう』
『小型の軍隊のような』終業式の終わる時間を見計らって学校にNを連れて行った。
 
 3学期私は連絡帳に今後学校に行かせないことを書いて近所の子供に持っていってもらった。集団登校の当番のお母さんにもそのことを伝えた。担任の加藤先生から電話があった。Nに優しく接してくれた先生だったので少し心苦しかった。
「先生の責任ではありませんから」と付け加えた。

 大町小の校長からも電話を貰った。Nは元の学区は黒柳小だったので学籍を黒柳小に戻した方がいいかどうか聞くと、
「もう大町小にこないというのならばそうしてもらいたい」という。

手のひらをかえしたような冷たい言い方だった。校長も自分の学校から不登校を出したくないという気持ち、厄介物のNは自分の学校から出て行って欲しいという気持ちが見え隠れした。

 学務課に電話をすると担当者は「学籍はそのまま大町小においてください」というので校長にそういわれたことを伝えた。校長は「そうですか、わかりました」といっただけでそれは以上のことは何もいわなかった。
 
 Nが毎日行くとなると今は準会員だが正会員扱いになる。シューレのスタッフの山崎さんに相談すると正会員に変更してかまわないといってくれた。Nは晴れて東京シュ−レだけに行くことになった。同じ年頃の友達もでき、雨の日も風の日も休むことなく毎日通った。

 Nは3年生になった。大町小の担任が変わった。校長も変わったと聞かされた。2年の時の加藤先生は他の学校に移ったと言う。なんだかNのことがきっかけのような気がして申し訳なく思った。

 3年生の担任はハスキーな声の熱心な女性の先生で、新学期初日、前期分の山のような教科書を近所の子供に持たせてきた。小さな体でこんなに重い教科書を持ってきてくれたことに心からお礼をした。だが届け物は次の日も続いた。

4月というのは提出物が多い。プリントだけでなく尿検査やギョウチュウ検査の袋まで入っていた。いくら同級生でもよその子供にそんなものを毎日持っていってもらうわけに行かない。

 私は担任に電話をした。今後学校にいくつもりはないのでこれ以上プリントを渡さないでほしいということ、尿検査とギョウチュウ検査も提出するつもりはないということ、今後の健康管理は親である私がするということ、子供が辛くなるので学校からの連絡は今後一切いらないということを伝えた。

担任はハスキーな声でとても残念そうに、
「わかりました。ただ校長が一度お母さんに会いたいといっているので学校にお越しいただけませんか?」という。前の校長とのやり取りで失望したことがあったばかりなので私は気が重かった。
 
 東京シューレに電話をし、スタッフの山崎さんに相談をした。山崎さんは娘さんが不登校をし、シューレに入ったことがきっかけで娘さんが成人し退会したあとも、シューレのボランティアをはじめ今ではスタッフをしている。不登校の子供の親ということで経験者として多くの親の相談に乗っている。

「おかあさんが会いたくない気持ちもわかるけど、校長も担任も変わったからという理由で一度会いたい、っていっているだけかもよ。とりあえず顔を見せて安心させて、それできっぱりと学校と今後関わらないということをいってくればいいんじゃない?かたくなに拒否する必要ないかもしれないよ」山崎さんの言葉に勇気づけられて私は大町小に向かった。
 
 数ヶ月前のことだというのに、私には大町小の敷居が高く感じられた。校長室に通され革張りのソファーに座って校長が入ってくるのを待った。
校長室というのはどこも同じような作りだが、なんだが怖い雰井気がある。

壁には学校のスローガンを書いた紙が張られ、歴代の校長の写真がズラリと並んでいる。白黒写真のそれは仏間のご先祖様の写真を思い起こさせ、なんだか夜には化けて出てきそうな気がしてしまう。ソファーには刺繍のクッションなど置いてあり、ビニールのレースのテーブルセンターの上に大きなガラスの灰皿などが置いてある。

どこの校長室もお世辞にも趣味がいいとはいえないインテリアだが、不登校でもしなければこう何度もいろんな学校の校長室に入ることはなかっただろうとつくづく思う。
 
 校長に今後学校にいくつもりはないと子供もいっているので申し訳ないが学籍だけおかせてほしいということと、不登校になったいきさつを話し、自分の考えとNの気持ちを伝えた。

「お母さんの考えはわかりましたがお子さんの健康管理はどうですか?学校の尿検査などで腎臓の病気が見つかると言うこともありますよ」と校長はいう。
「それはわかりますが、私の弟も小学校のときに腎臓病を患いました。その時は母が気づいてかかりつけのお医者さんに連れて行きました。私もそうしたいと思います。いつもかかりつけの小児科もありますから」というと、校長は
「わかりました。お母さんがきちんとできるとそこまでおっしゃるのであれば東京シュ−レさんにお任せしましょう。ねえ、東先生」と担任のほうを向いていった。
「実は前の学校で東京シューレに通っていたお子さんがいたんです。
そちらでお子さんが元気にやっているのなら頑張ってください」というではないか。
私は一気に肩の荷が下りた気がした。

 今思えばとても話のわかる校長だった。それもこれも前例を作ってくれた誰だかわからないシューレの先輩のおかげだった。Nは6年生の5月に東京シューレの近くに引越しするまで親の私も学校との煩わしいやり取りから開放された。東先生は熱心だったのでたまに電話や葉書をくれたがその後の担任はそんなこともなく、東京シューレのことだけを考えて過ごすことができた。
 
 だがこんな理解のある校長ばかりではない。勉強不足なのか経験不足なのか、文科省の方針や東京都の通達を知らず、色々な脅しめいたことをいってくる校長も未だにたくさんいるのが現状なのである。

          続き