嵐のような一年

 
Nは6年生になった。5月、偶然にも東京シューレの近くの団地に当たって引っ越すこととなった。これで家賃で頭を悩ませることがなくなりほっと一安心だった。
 
大町小にこれまでお世話になったお礼と、今までの教科書を頂きに行きたいということを話すと担任が自宅まで持ってきてくれるという。わざわざ来ていただいても子供は東京シューレに行っていて会えないのだが、というとそれでもかまわないという。

担任は30代ぐらいの男性で2年分ほどの重い教科書を汗をかきかき自宅まで持ってきてくれた。5年生から持ち上がりの担任なのだそうだ。親御さんに会えてよかったと言って帰った。
 私はこれまで私たちをそっとしといてくれた担任と校長に心の中で感謝した。

 引越しを終え、住民票を移動し、学務課に転校の手続きをしに行った。だが窓口の女性に東京シューレに通うことを告げると、女性は困惑した表情をし、
「お子さんは転校をきっかけに学校に行くという可能性はまったくないのですか?」
「ないと思います」
「お子さんにそのことを確認しましたか?行ってみないかということをいってみましたか?」といってかなり粘ってくる。

そういえば東京シュ−レの父母会で北区は東京シューレの所在地ということで学務課の対応が厳しいという話を聞いていた。
「うちの子は入学早々からの登校拒否で学校に悪いイメージしかないので、多分この先も行くことはないということは改めて聞かなくてもわかります。それに東京都や文科省は登校を強制しないという方針をとっているはずですけど」といった。

私のキッパリとした口調に女性はあきらめた顔をした。
「それでは小学校に電話してそのことを伝えていただけますか?」といった。私は小学校に電話した。すると校長は一度学校に来てくれないかという。こんな呼び出しは初めてのことではない。
 
 王子の小学校の校長は女性で、今時女性の校長は珍しくもないが、一通り私の話しを聞いた後こういった。
「うちに学籍を置いて東京シューレに通っている子供はお宅のお子さんの他に4人いるんです。事情はわかりました。以前の小学校の教科書をお持ちかもしれませんが北区はまた違う教科書を使っているので届いたらお電話しますから取りに来てください」といった。

同じ6年生の教科書を2冊持っていてもしょうがないと内心思いながらもここは聞き流したほうがいいと思い、
「はい」と答えた。

 Nのほかに東京シューレに通っている子とは、沖縄から東京シューレに入るために引っ越してきた田宮さんという3人兄弟だ。うちの近所に住んでおり、引越し早々3兄弟は我が家に遊びに来て、親子共々親しく付き合っている。

あと私が知らない子供がもう一人いるということになる。王子の小学校側は東京シューレの所在地の学区ということで、このように在籍だけして東京シューレに通う子がいることでおのずと不登校の数が増えるので、シュ−レを目の上のたんこぶのように疎ましく思っているようだ。

 それから約数週間後、自宅の留守電に校長の声で
「教科書が届いたので取りにきてほしい」というメッセージが入っていた。私は小学校に行ったときの校長の対応が以外にあっさりしていたので、大町小の時と同じようにここでもそっとしておいてくれるものと思い込み、すぐには取りに行かなかった。

 1学期の終わりを迎える7月、教科書を取りに行こうと小学校に電話をした。電話に出た人が校長に繋ぐのでお待ちください、という。たかが教科書の受け渡しになんで校長と話さなくてはいけないのだろう、と訝しく思っていると、
「すいぶんご無沙汰ですね。もっと早くとりに来られると思ったの
に」と校長はいった。
「仕事が忙しくてとりに伺えませんでした。申し訳ありません」
「○日の午前中なら私がおりますからその時に取りに来られますか?」という。
私はずいぶん一方的な言い方で嫌味な感じの人だな、と思ったが、その時間にさしたる用もなく教科書を受け取りに行くだけだからと校長のいうとおりにした。
 
 学校側とやり取りをする時にいつも思うのは、学校というのは大抵の場合、こちらにも都合があるという想像力が欠けているか、あるいはすべての母親が専業主婦であるかのように、学校側に合わせるように一方的に申し伝えてくる。この校長は私たちを疎ましく思っていたからか、その傾向が著しかった。
 なかなか手ごわい人物であるということは卒業間近になってよくわかることになる。 
 
 東京シューレに子供が通っていて、表面上は子供の不登校を容認していても、本音では学校に行ってほしいと思っているという親は以外にいるものだ。
子供が不登校になったとき、母親は子供の一番身近にいて子供の苦しむ姿をみているせいか、学校に行くことより子供の精神の安定や命のほうが大切と判断することができて、登校拒否や不登校を容易に受け入れることができる。

だが学歴社会にさらされながら仕事をしている父親はなかなかこれを受け入れることができない。このことが夫婦の亀裂の原因になってしまうこともあるほどである。

人間の健やかな精神や命と、仕事で金を得ることとどちらが大切だろうか。そんなことはおのずとわかることではないか、と私は思うのだが。

 また、この年は我が家にとって、とても辛い年だった。私はアルバイトをやりすぎてひどい椎間板ヘルニアになってしまい、強い痛みで歩くこともままならず、椅子にも座れなくなってしまったのだ。

寝たきりの日々が1ヶ月以上続き、立って歩けるようになりバイトに復帰できるまで丸5ヶ月ほどかかってしまった。当然収入はなくなり、貯金もなかった我が家がどうやって生活をしてきたのか今思い返しても不思議でしかたがない。団地に引越しできたのがせめてもの救いだった。それほどお金がなかった。

 娘は今でもあんな貧乏はいやだという。娘は友達とボーリングをしに遊びに行っても自分はお金がないので1ゲームだけやってあとは皆が遊ぶのを見ていたそうだ。

 Nは友だちとカードゲームのお店にカードを買いに行き、他の客がダブっているからと捨てたカードをゴミ箱から拾い、友だちに、
「よくそこまでやるよなー」といわれたといっていた。
 
 生活は切り詰めに切り詰めて100円さえも惜しむ生活だった。当然息子のお小遣いも減らされる。それまでもそれほど多い小遣ではなかった。だが、小6の息子はこれまで以上に活動の範囲が広がり、当時夢中だったカードゲームにお小遣をつぎ込んでいた。

 そのころ仲よしだったNの友だちは裕福な家庭の子供で、その子と一緒にしばしば池袋のカードショップにでかけた。ほんのわずかなお小遣しかあげていないのになぜ頻繁に池袋に行くのだろう、と不思議に思った。

友だちの家にいくのならお茶など、なにかしらご馳走になれるので少しの小遣でも帰りの電車賃の心配もない。だが池袋にいくとなるとお腹が減っても喉が渇いても店に入るしかなくお金が必要だ。おかしいと思ったもののそのときは深く考えもしなかった。

 Nはお手伝いをするからお金を頂戴と急にいってきた。始め何回かやってもらったものの、我が家も100円すら無駄にできない生活である。そう何度もお手伝いをしてもらうわけにいかない。
「N、お手伝いしてくれるのは嬉しいんだけど、ママもお金ないからそんなに手伝ってもらっても困るんだ。Nに払うお金ないからやめてくれない?」といった。Nは「わかった」と素直にその言葉に従った。

 あるとき用があって東京シューレに電話をしたとき、スタッフの村上さんが電話に出てこういった。
「ちょうどよくお母さんに電話を頂いたのでちょっとお話したいことがあるのですが、今、大丈夫ですか?」という。

何の話だろうと思って聞くと、Nの友だちがNに8千円ほどお金を貸していて、それをなかなか返してもらえなくて困っているという相談を受けているという。
「おかあさん、Nくんがお友だちにお金を借りていることはご存知でしたか?」
 
 私はショックだった。そんなにお金をあげてないのでしょっちゅう買い物にいくのはおかしいと思いながらも、まったくそんなことに思いががいかなかった。Nがお手伝いをし始めたのはその子に借りたお金を返そうとしていたのだ。
「ぜんぜん知りませんでした。その子にすぐにお金を返すようにいいます」8千円は子供にとっては大金である。その頃の我が家にとってもたいした金額だった。
「はっきりした金額を友達に確認したら連絡します。そのあと僕の目の前で友達に返してもらうことにします」と村上さんはいう。実は今となってはそのお金をどうやってやりくりして返したのかよく覚えていない。
 あとでNに、
「お金がないからとなんで断わらなかったの?」と訊ねると
「貸してあげるから行こう、っていわれた」といっていた。誘われると断わることができず、ついついその友だちの言葉に甘え、100円、200円と借りているうちに積もり積もってそんな金額になってしまったらしい。
 
Nはもう今回の件で懲りたので2度とお金は借りない、といっていたと村上さんもいった。私は一家の大黒柱である自分の病気のせいで、子供に迷惑をかけてしまったと思うと情けなくてしかたなかった。
 
 その後、私はようやく健康を取り戻し、早朝のアルバイトを始めた。
 それまで1つの部屋で布団を並べて寝ていた私とNだったが、私は朝5時に起きるので、9時頃になると眠くなってしまう。Nはまだ起きてテレビを見ていたいという。私は別の部屋で一人で寝起きをするようになった。
 私の仕事机が置いてある部屋はNのゲーム機などでだんだん占拠されていった。あるときその部屋でいつまでもゲームを止めず散らかしているNに向かっていった、

「ママの仕事の部屋なんだから、ちゃんと片付けなさいよ」という些細な言葉でNはものすごく怒り出した。私とNは言い争いからケンカになり腰を思いっきり蹴り飛ばされた。その痛みは3週間も続いた。痛がる私を見てクミは、
「病院にいけばいいじゃん」という。だけど痛みの原因が息子に蹴られたこと、その息子が不登校で、なんていったら医者になんといわれるかと思うと、行く気になれなかった。
 
 これまでにもNとのケンカはあった。Nが怒ってトイレのドアを蹴破ったり、壁にパンチをして壁に穴を開けたりしたこともあった。だが、それは私のNへの対応のまずさにあった。
 
 シュタイナー教育の本に『子供は9歳でルビコン川を渡る』とあった。9歳というのは子供にとって大きな節目なのだそうだ。そのころから自我が発達し、容易に大人のいうことを聞かなくなる。

 カウンセラーの内田良子さんの記事を読むと、親にいわれるからやるのではなく自分の意思と自分のペースでやりたい、という意識が目覚めてくる年頃なのだそうだ。私の方が対応を変えなくてはならなかったのに、Nの心の成長に気づかず私はそれまでと同じように、いったのにやらないからと何度も同じことをいったり、いつまでもくどくどと叱ったりしてしまっていた。
 
 だが今回は違っていた。私はNを叱るつもりも説教するつもりもなかった。「もうそろそろお風呂に入ったら」という何気ない一言や、駅までいって自分が財布を忘れたなど、些細なことでNは怒りだし、私のせいだといって当り散らし、私の机の上の仕事道具の色鉛筆やマーカーを床に撒き散らしたりした。
 
 こんなことが何度か続いていた。こんなことでNがキレル理由が私にはどう考えても思いあたらなかった。なんでもないような事で声をかけても怒り出してしまう。へたに言い返すようなことをいうとさらに怒って叩いたりしてくる。すでに私より力の強くなっていたNのいいなりになるしかなかったがそのことがなんともくやしかった。
 
 父親がいれば力でNを制するのかもしれない。私たちの時代はそれが普通だった。だが私はその力で制するというのが子供にとっていい影響を与えないという例を数多く見て知っていた。
 私はどう接していいかわからなくなった。Nのこのような様子に疲れはてた私は、東京シューレのスタッフの自宅に電話をした。親子の危機を何度もシューレのスタッフに助けてもらっていた記憶が蘇った。とにかく一日も早く誰かに助けて欲しかった。
 
 だがそれまでNを受け持っていた石川さんは中等部のスタッフに移り、初等部は新宿シューレから来た新しいスタッフに変わっていた。しかも、それまでは階ごとに初等部、中等部、高等部となっていたのが、ゲームをする部屋、手芸をする部屋などに分けるというシステムに変わっていた。

 後任の初等部のスタッフは手芸をする女の子たちの相手をすることが多く、Nの普段の様子はよくわからない。相談してみるとそれとなくNと遊んでいる子供たちに、
「あんなこといったらいくらなんでもNくんがかわいそうじゃない?」などと声をかけてくれたそうだ。
 
 だがなかなか改善の兆しが見られないまま何週間も経ってしまった。私は長年Nの面倒を見てくれていた石川さんに話してみた。そしていつもNのいるゲームの部屋にいて様子をよく知っているいる村上さんに相談したほうがいい、ということになり、村上さんからN

に聞きいてもらった。
 
すると最近、Nを取り巻く友達の中で、Nはからかわれたり軽く扱われたりという様子が見られる、という。このころのNの友達は年上が多かった。
 
Nは小さい頃から自我が強く、いいたいこともはっきりという。それで友だちもNには少々きついことをいっても平気だろう、と思っているふしがあるという。それとNが仲のよかった友だちに8千円を借りたことで、Nにお金を貸すと帰ってこないらしいという話が出来上がったことも一因になったという。

 いわれたことで嫌な思いをし、家に帰ってきて、そのことを忘れようとゲームをしていると母親の私に、『そろそろゲームはやめてお風呂に入りなさい』などと注意をされる。自分でも悪いと思いながらもイライラしているのでつい暴力にでてしまった、という。今後あまりにも周りがNにひどいことをいっているようだったら注意をしてみる、という。
 
 そういえばNは保育園のころから先生にこういわれていた。
「Nくんは一見、強そうにみえるけど繊細なところがあるわね」
この頃、Nが家に連れてくる友達はほとんどNより年上の子供達ばかりだった。
 小学生はN一人だけで声変わりもせず、幼げな言動でみんなの遊びに必死についていってるかのようにみられた。

 その夜、私はNと友だちの関係が悪化した一因には、自分が病気になって収入が減ったことにあったのかと思うと親としてふがいなさを感じ、一人布団の中で泣いてしまった。

 テレビゲーム。これに対しての悪影響はこれまでも様々なことがいわれている。 だが一概に悪と決め付けていいのかと疑問も残る。
 Nの言った言葉にもあるとおり、ゲームに夢中になっている間、子供たちは現実の嫌な出来事を忘れることができる。大人にとってのパチンコやマージャンのようなものだろうか。

 私の子供のころだったらマンガだっただろう。私もマンガに夢中になって空想の世界に入り込めば、その間だけでも現実の不安から逃れることができたものだった。 

 アルバイト先の20才ぐらいの男の子がいっていた。
「だからゲームは無駄じゃないんです。必要なんです」と。

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