星ところどころ

 私が星の伝承を求めて各地を訪れるようになったのは、1974(昭和49)年5月に日本海の小さな離島(山形県酒田 市飛島)に渡ったのがきっかけでした。そこで、元漁師の古老から思いがけず星の伝承を聞かせてもらったのです。 しかも、イカ釣り漁という生業のなかで星が利用されてきたという事実に深い感銘を受けました。

◇ 旅情豊かな海の夜明け(東京都八丈島) ◇

 こうして始まった採集の旅も、途中いく度かの中断をはさみながら半世紀を迎えようとしています。この間、実に 多くの方々との出会いと語らい、そして時には名残惜しい別れがありました。採集カードは1600枚を超え、残念なが ら星の伝承を記録できなかった方々も含めると、2000人以上の人に声をかけたことになります。私を長年にわたって 伝承の採集へと誘ってくれたのは、かつて北海道の岩内でいろいろと協力くださったTさんより送られた次の言葉で した。

 すれ違っても分からない 星の狩人ただ一人
      肩にこぼれてくるものは 春告げ星のしずくです

 〈星ところどころ〉は、全国47都道府県の調査のなかで、特に印象深い人々との出会いや暮らし、景観、風土など を紀行風に綴った読み物です。一部は、かつて『てんぶんがく』という同人誌に不定期で掲載したものを、さらに読 みやすく書き改めたほか、他は新たに書き下ろしました。現在、東日本27編と西日本25編の合わせて52編を展示して います。なお、地名等は調査当時の自治体区分によって記載してあります。


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八重山慕情 【沖縄県八重山地方】

 大小合わせて 160ほどの島嶼からなる沖縄県では、2015年の統計で47の島に人びとの暮らしが息衝いています。それ らは、おおむね沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島に分けられ、それぞれ独自の文化を育んできました。かつては、宮古 と石垣では会話が通じないといわれるほど、言葉ひとつとってみても文化圏の違いが際立っていたのです。
 南西諸島の端に位置する八重山地方は、沖縄本島から 400`以上も離れた遠い地であり、1975年に初めて訪れたとき は、鹿児島から与論経由で沖縄本島に渡り、那覇からは三日に一度出航する定期船(おとひめ丸)でようやく石垣へ辿 り着きました。その数年前から、『スバル星の記』〔文0088〕で紹介された八重山古謡のひとつである「ムリカ星[ブ シ]ユンタ」にこころ惹かれ、また『日本の星』〔文0174〕に記された南の島々に伝わる星名を知るに及んで、ちょう どそのころ石垣へ帰島していた友人宛に手紙を書いたことがあります。残念ながら、星の伝承に関する情報は得られな かったものの、数冊の本の紹介とともに、「ぜひ一度、来てみてください。案内します」という言葉は、大いに旅心を 誘うものでした。
 そんな友人との再会を果たし、念願が叶った憧れの地は、景観ばかりでなく人びとの暮らしそのものが新鮮で興味深 いものばかりでした。近代的なビルが建つ石垣の市街地を一歩外れると、辺りにはサトウキビやパイナップルの畑が広 がっています。海の色は、南国特有の透き通る青さで、その中に浮かぶ竹富、小浜、黒島、西表の島々は、まさに思い 描いていた通りの眺望でした。そして、二日目の晩には宿近くの小学校で石垣市教育委員会主催による第2回石垣市古 謡大会が開催され、友人と連れ立って見学することにしました。期待していたムリカ星ユンタは聴かれませんでしたが、 川平に伝わるという雨乞いの儀礼は、ユンタそのものよりも素朴でもの悲しく、それがまた俄か造りの質素な舞台で演 じられただけに、余計に郷愁を誘われたのです。
 会場の体育館を出ると、頭上には島へ来て初めての星空が広がっていました。ニイヌファブシ(北極星)の低さに驚 き、はるばる八重山の島までやって来たことをしみじみと噛みしめながら北斗七星を探せば、その雄姿も北の空低くか かっています。「ムリカ星ユンタ」で天のアーぢ前から島を統治せよといわれ、ハイと承諾したので島の真上を通る、 天の真中を通るとうたわれたムリカ星(プレアデス星団)は、もうだいぶ西に傾き始めてはいるものの、それを追うヒ アデス星団や三つ星を従えて、一段と高い夜空を這って行くようです。一方で、否と言ったニシナナチンブシ(北斗七 星)が「北の隅に蹴落とされて巻踊をしている」姿も、改めて見直せばなる程そうかと感心するほかはありません。
 暫らく眺めていましたが、せっかくだからカノープスを見ようと視界の開けた港へ急ぎました。友人もついてきて、 二人並んで岸壁に立てば、最早おおいぬ座の三角形は西へ傾き、低空には雲がかかっているのか星ひとつ見えません。 港内に係留された離島航路の小さな船体が、ひっそりと闇に漂いながらゴツゴツとしたペンキ色を際立たせ、夜空で大 きな輝きを放つシリウスを尻目に、寂しく宿へと引き揚げたのでした。
 それから3年余りを経て、二度目の八重山行は、空路での旅となりました。当時は、東京からの直行便はなく、しか も那覇から石垣島への航空路はジェット化される前で、唯一の国産旅客機として親しまれたYS−11型プロペラ機が就航 していました。独特のエンジン音が耳について離れないまま、石垣空港から川平へ向かうタクシーの中で若い運転手は、
 ♪月ぬ可愛しゃ 十日三日 (つきぬかいしゃ とぅかみーか)
  女童可愛しゃ 十七つ (みやらびかいしゃ とぅななつ)・・・・・
と、自慢のノドを聴かせてくれたのです。窓外に目をやれば、ライトブルーに光る海が眩しく、名蔵川河口では群生す るヒルギの種が引き潮にさらわれ、海中にまで根を張っているようでした。
 黒真珠養殖用のいかだが浮かぶ川平の湾内は、八重山の自然を象徴するかのように透き通り、亜熱帯林の緑と白い砂 浜の眩しさが印象的です。民家の生垣や道端には、赤や黄や八重咲きのハイビスカスが大きな花を開いていて、それが 屋根の赤瓦と調和しながら、いかにも開放的な明るさをみせています。ふと、3年前に見学した川平の雨乞い儀礼を思 い起こし、一緒にいた島の友人がこの短い間に島外へ出たことを知りました。
 翌日は生憎の空模様で風もあり、時折大粒の雨が窓ガラスを叩くなか、いよいよ竹富島へ向かいます。小さな島への 連絡船は、雨にもかかわらず観光客の姿が多く、星砂の島として人気が高いことをよく示しているようでした。船を降 りても雨はまだ止みません。島の中心街は桟橋から少し離れた場所にあり、濡れた砂利道を歩いて行くことになります。 重い雨雲を見上げながら集落に入ると、どの家もひっそりと佇み、観光用の牛車だけが狭い路地をゴトゴトと動き廻っ ていました。

 

〈左〉竹富島の民家 /〈右〉広場にたつ星見石

 午後になって民俗資料館に立ち寄ると、運よく上勢頭享氏に会うことができました。竹富島の民俗や芸能などについ て丹念に蒐集されている方で、自宅の一隅に開設したこの資料館には、これまでに集められた民具や工芸品などが所狭 しと展示されています。それらはみな、この島の暮らしや習俗を理解するうえで貴重な資料であることが分かります。
 廊下に腰をおろすと、上勢頭氏はさっそく竹富島にのこされた星の伝承を語り始めました。あのムリカ星ユンタに登 場するおうし座のプレアデス星団はウルウルシと呼ばれ、何かが「群がる」という意味があるようです。ミツボウとい うのはオリオン座の三つ星で、北の空で動かない北極星はニイヌファブシあるいはトマリプシと呼ばれます。また、南 の空に現れるケンタウルス座の二星(α、β)はパイガフシで、南への旅情を誘う星です。黒島には、南風が星[パイ ガブシ]と題する古謡があり、その中に「大星二つ」という記述がみられます。八重山では、この星がマキタ(横並び) になると稲刈りの時期とされ、梅雨が明ける6月から7月上旬が最盛期となります。金星については、夜明け前がアカ キンブシと呼ばれるほか、夕暮れはツカマフシと変わり、日没後の金星を頼りにしてたとえ僅かな時間であっても仕事 ができると伝えられています。
 これらの星名は、上勢頭氏が島の古老から受け継いできたもので、さらに星見石(プシィミイシ)の存在を教えてく れました。それは、八重山における稲作と星のかかわりを示す貴重な石で、元は海の近くにあったものを遺跡として保 存するため現在地へ移設されたそうです。石に正面には、次のような文字が刻まれていました。
  星見石ノ由来
   往古ハ暦ナク草木ノ緑ノ模様
   星ノ出没ノ模様等デ春夏秋冬ノ
   季節ヲ定メ以テ作物ヲシタト言フ
 実際には、石の側面にあけられた不整形な孔からウルウルシの高さを観察して、稲などの播種期を決めていたといわ れます。歴史を振り返れば、先島と呼ばれ人頭税が課せられていた苦しい時代に、いったい島の人びとはどのような気 持ちで星を眺めていたことでしょう。

◇ 竹富島の星見石 ◇
* 側面の孔は不整形で、正面に由来が記されている(右の写真)

 2017年には、宮古島での調査を終えて、三度石垣島に入りました。関東では肌寒さを感じる初冬の季節でしたが、八 重山は最高気温が20〜25℃と過ごしやすい陽気に恵まれ、久し振りの海と空の青さが目に沁みたことを覚えています。 この調査では、石垣島内に現存する星見石の確認と川平の群星御嶽[ムルブシオン]、小浜島の節定め石を訪ねること などを主な目的としていましたが、小浜島行きについては天候悪化により実現できませんでした。
 初日の午前中は、39年ぶりに川平を再訪しました。バスターミナルから川平集落の奥にあるリゾートホテルまでバス に乗り、そこから20分ほど歩いて群星御嶽を訪ねたのです。そこは小高い丘の上で、正面には鳥居があり、深い杜に包 まれています。各地の御嶽は、基本的に立ち入りが禁止されていますので、中の様子はよく分かりません。道路を少し 下ると海が望まれ、ここから川平湾にかけては、山川御嶽[ヤマオン]、赤イロ目宮鳥御嶽[アカイロメミヤトリオン]、 浜崎御嶽[キファオン]などが点在しています。それらのなかで、群星御嶽は地域の重要な祭礼である結願祭や節祭[ シィツィ]が行われる場所であり、川平の人びとの信仰の中心をなす存在とされてきました。その名が示すように、ム ルブシ(プレアデス星団)にまつわる伝承があるものの、かつては別な呼称であったとの指摘〔『琉球諸島の民話と星』 文0369〕もあり、どのような経緯を辿って今日の姿となったものか、謎多き御嶽といえるでしょう。
 川平には、いったいどのような星が伝わっているのか。農業と星のかかわりについて何か手がかりを得たいと、伝承 者を求めて集落内をめぐるうち、ようやく80代の農家の男性と出会うことができました。この人が伝えていた星は、ニ ヌファブシ、ミツブシ(三つ星)、ムルブシ、ナナツブシ(北斗七星)、ユアキブシ(金星)という一般的な体系でし たが、明治生まれの古い人たちは星を見ながら農作業をしていたそうです。特にムルブシは大切な星で、かつてはこの 星を頼りに稲作を行っていました。
 収穫された米を粉に挽き、煉って片手で握り、蒸した後に茹でた赤豆をまぶした豆餅は、川平の十五夜に欠かせない 供えもののひとつです。沖縄本島や宮古島などでみられる綱引きや踊りなどはなく、他にユスキ(ススキ)、酒、天ぷ らなども供え、家々で家族が静かに供えものをいただくという、本来の月見行事を感じさせてくれます。

 

〈左〉群星御嶽の杜 /〈右〉川平湾の眺望

 午後は石垣の市街地にもどり、星見石を探しました。島内で現存するのは、教育委員会が保管する資料を除き2ヵ所 とされています。いずれも立石タイプで、琉球石灰岩が使われています。まず、足を運んだのは登野城地区で、大通り に面した自動車販売店の角という分かり易い場所にありました。高さは1b45a余りあり、元は少し離れた位置にあっ たとされます。文字や孔などはなく、竹富島の星見石とは明らかに異なる形状で、どのように利用されていたのかよく 分かりません。
 もう一つは、新川地区のサトウキビ畑が目印でしたが、この場所は意外に広く、しかも周辺は道路や民家、墓地など に囲まれて中へ立ち入ることが難しい状況です。せめて、位置の確認だけでもしておきたいと周辺を歩きまわったもの の、結局見つけることができませんでした。おそらく、サトウキビのなかに埋もれていたのではないかと思われます。
 ところで、石垣の漁師(石垣地区と登野城地区のウミンチュ)は、ほとんどが沖縄本島の糸満や宮古島出身者で、昔 はみな小さなサバニで漁をしていたといいます。どちらの出身者も伝承していた星はほぼ同じで、ニヌハブシ、ミツブ シ、ムリブシ、ナナツブシ、ユアカブシという一般的なものでした。石垣漁港では、ウマヌハブシも聞きましたが、南 に見える星という以外に詳しいことは分かりません。かつては、伝統的な星名も利用されていたことでしょう。毎年、 旧暦の5月に行われる石垣のハリーは、 100年以上も続く伝統の祭りで、先祖の郷里である糸満の文化を今に伝えてい ます。
 3度目の八重山訪問も、石垣島以外の島へ渡ることは叶わなかったわけですが、またいつの日にか新たな伝承者との 出会いを期待しつつ、島を離れました。

 

〈左〉夜明けの登野城漁港 /〈右〉登野城地区の星見石

[1978年初稿][2021年改訂]
* この紀行はタイトルをそのままに、内容の一部を書き改めたものです.


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木国会の石碑 【和歌山県中部沿岸地方】

 千葉県銚子市は、漁業の町として知られていますが、醤油の醸造がさかんな土地でもあります。その先達を務めたの は、いずれも和歌山県からの移住者で、特に漁業においては銚子のみならず、関東沿岸各地でその痕跡を留めています。 紀州からもたらされた漁具や漁法などは、房総半島や三浦半島など各地に定着し、その一部は星利用の習俗にも及んで います。
 さて、銚子市内の日蓮宗妙福寺は、妙見菩薩を祀る北辰殿を擁する古寺で、その境内の一角に「紀国人移住碑」とい う石碑があります。1903(明治36)年に木国会[もっこくかい]によって造立されたもので、紀州から来た人びとが勇 気と開拓者精神をもって家業に精励し、先祖を供養する目的が込められた記念碑とされています。銚子で外川(当時は 高神村)の港と町を築いたのは紀州広村(現有田郡広川町)出身のア山次郎右衛門で、1658(万治1)年に漁場が拓か れました。それ以前には、寛永年間(1624〜44)頃よりさかんとなった近畿漁師による関東への出漁があり、そうした 出稼ぎ漁業からの移住者の一人と考えられています。主に鰯網としてマカセ網漁を行うなど、外川の発展に寄与してい ます。一方、同じ広村出身の濱口儀兵衛(初代)が銚子へ渡って醤油づくりを始めたのは1645(正保2)年です。奇し くも、同郷の出身者が銚子やその周辺地域を舞台に、漁業や醸造業の分野で活躍したことは、偶然の出来事ではなかっ たかもしれません。因みに、濱口家は西濱口家がヤマサ醤油の創業家、東濱口家がヒゲタ醤油の創業家となっています。
 木国会の存在は、和歌山県と千葉県の深いかかわりを示す存在として、現在も銚子の街に息衝いています。そこを訪 れるたびに、いつかは広川町で調査をと考えていましたが、2018年になってようやくその機会がめぐってきました。

 

〈左〉妙福寺の北辰殿 /〈右〉境内にある紀国人移住碑

 和歌山県では、紀伊半島の西側から南部にかけて多くの漁港が点々と連なっています。このうち、南部東側の沿岸域 は2013年に調査を終え、和歌山市の一部についても2016年に訪ねたことがあります。今回は海南市から田辺市にかけて の漁港を歩くことにし、まず田辺市に向かいました。
 紀伊田辺駅から市街地を東進し、会津川を渡った先には田辺港の中心である江川の漁港があります。広い港内には多 くの漁船があり、久し振りに賑やかな漁港風景に出会いました。岸壁で休んでいた82歳(1936年生まれ)の元漁師をみ つけて少し話を訊くと、30代までは大きなマグロ船に乗り込んでいたそうで、その後地元にもどってからは、まき網漁 などに従事してきたとのことです。かつては、カツオの一本釣りなどがさかんでしたが、昨今は漁全体が低調であると いいます。この人が伝承していた星は、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、オオボシ(おおいぬ座のシリウス)、ヨ アケノオオボシ(金星)で、漁において利用した星は特にありません。
 この日の宿は海辺にあり、夕暮れになると天神崎に沈む夕日を眺めることができました。天神崎は、日本のナショナ ルトラスト運動の先駆けとなったところで、一般市民からの寄付や公的補助金などの基金をもとに土地を買い取り、海 辺の豊かな自然が守られた記念すべき地区です。その一角には日和山があり、翌朝40分ほど歩いて登ってみると、眼下 には前日調査した江川の漁港が見え、市街地の奥にはいくつかの特徴的な山容が望まれます。その代表となるのが標高 約 549bの三星山で三つのピークがあり、これをオリオン座の三つ星に見立てた命名といわれています。日和山には方 位石がなく、特に伝承もないようですが、このすばらし眺望は日和見に最適な場所であることをよく示しています。

 

〈左〉天神崎の落日 /〈右〉三星山を望む(左から二つ目の山)

 天神崎を後にし、次はバスでみなべ町の堺漁港を訪ねました。大きな漁港ではないものの、多くの船があって家族で 働く姿が目立ちます。さっそく70代の漁師に話しかけると、堺では昔からタテ網漁(9月〜4月)がさかんで、イワシ 網やシラス網などをやる漁師もいたとのこと。こうした漁には山アテが欠かせず、目立った山に独自の呼び名をつけて 利用したそうです。その中にクラカケと呼ばれる山があり、三星山かその手前にある竜神山をさしているものと思われ ます。
 星の伝承も、伝統的な星名が多くのこされ、キタノヒトツボシ(北極星)、カラスキボシ(三つ星+小三つ星)、ミ ツボシ、ヨリアイボシ(プレアデス星団)、ウシトラボシ(不明)、オオボシ(金星)、ホシノヨメイリ(流星)など 多彩です。星の利用では、秋にカラスキボシが西に入るまでは夜が明けないといわれており、漁師はウシトラボシを目 あてに船を走らせたといいます。流れ星を星が嫁入りする姿と見ているのも、この地域ならではの捉え方でしょう。
 また、イカ漁についてはアカイカ(ケンサキイカ)、スルメイカ、タチイカ(アオリイカ)、モンゴイカ(コウイカ やカミナリイカなどの総称)を対象とし、アカイカ漁は擬餌鉤による一本釣り(チンチロゲ)が7〜8月にかけてさか んでした。三重県を含めた紀伊半島沿岸域は、ウツボの食文化も豊かで、田辺市江川では水炊きに、みなべ町堺の場合 は煮つけや開いて干したものを焼いて食べていたようです。こうしたウツボを食する慣習は、房総半島以南の太平洋沿 岸域で点々と確認されており、その呼称や調理方法には各地の特性が表れています。
 調査を終えるとバスでみなべ駅まで行き、そこから列車に揺られて湯浅駅で下車しました。まず足を運んだのは湯浅 の漁港ですが、堺漁港の賑やかさが信じられないほどに閑散としています。そのまま、広川の河口に架けられた橋を渡 ると広川町に入り、10分ほど歩いて広漁港に着きました。ちょうど居あわせた80代の元漁師と話ができたので、少し聞 き取りを行いました。
 広漁港では、現在稼働している船が7〜8隻しかなく、漁師も高齢者ばかりといいます。漁としては、サワラの一本 釣りを細々と続けている現状だそうで、その衰退ぶりが窺われます。近海の漁では主に山アテを行い、夜間は地上の灯 火などで船の位置を確認していたということで、いくつか星の名を教えてくれました。キタノホシ(北極星)、ミツボ シ、ヨアケノミョウジン、ヨイノミョウジンが広川町に伝承されていたであろう星名の一部ということになります。
 漁港の入口には、「稲むらの火」に関する案内板が設置されていました。あの千葉県銚子で醤油の醸造を始めた西濱 口家の7代目濱口儀兵衛(濱口梧陵)が、安政の大地震で広村が津波に襲われたとき、収穫したばかりの稲むらを燃や して逃げ遅れた村民を助けたという出来事を伝えるものです。路地を入った奥には、濱口梧陵記念館と津波防災教育セ ンターからなる「稲むらの火の館」もありました。この場所は旧西濱口家の跡ですが、近くには東濱口家もあり、近世 以降に醸造業を介して銚子と縁の深い地であったのです。また、外川の礎を築いたア山次郎右衛門の生誕地は、旧広村 の名島付近とみられていますが、この辺りには数軒のア山家が現存しているようです。かつて、諸国沿岸に出漁したと いわれる広浦漁民のふるさとは、隣接する湯浅町とともにさまざまな歴史を刻みつつ、静かに変貌を遂げているように 感じました。
 この地域では、もうひとつ千葉県との深いかかわりを示す遺物があり、湯浅町の顕国神社を目ざして北へ向かいまし た。広川の河口から一旦川沿いに東進し、さらに国道42号線を北上すると、路地を左へ入った先に紀伊國屋文左衛門の 功績を顕彰する石碑があります。謎多き豪商の出生地が湯浅町の別所という説を拠り所に造立されたものでしょう。
 国道をさらに北上すると、紀勢本線を越えた先に顕國神社が現れました。鳥居をくぐると手水舎があり、そこに幅1 間(約 180a)の大きな手水鉢が設置されています。右側面に、寛延元歳戊辰九月吉日と刻まれ、左側面には「奉献中  顕國社」の文字が見えます。そして、裏面は産子中として「在関東上總國」が刻され、御宿浦、天王臺、六軒町、岩和 田、岩舩浦の各地名も確認できました。案内板によると、房総半島に渡った顕國神社の産子たちが寛延元年(1748)に 寄進した手水鉢のようで、文化庁が指定する日本遺産(「最初の一滴」醤油醸造の発祥の地 紀州湯浅)の構成文化財 の一部となっています。ここに記された地名は、いずれも現在の御宿町や大原町にのこるもので、御宿や岩和田、岩船 の各漁港は、いずれもこれまでの調査で訪れている場所です。こうしてみると、紀州から房総地方へもたらされた生業 や文化について、改めて想いをめぐらすよい機会となりました。

 

〈左〉広の東濱口家(瓦に九曜紋) /〈右〉顕國神社の手水鉢(裏側)

 湯浅町と広川町に別れを告げ、最後に訪れたのは海南市の下津町です。下津駅から歩いて5分ほどのところに船溜り がひとつありますが、漁港の面影はほとんどありません。さらにその奥へ進むと、深い入江となった下津漁港があり、 漁師の姿を求めて歩くものの、係留されている船はほとんどがレジャーボートでした。和歌山市に近いこの地域では、 漁業の衰退が著しいようで、今回は星の伝承を記録することなく引き揚げることになってしまいました。
 ところで、2014年に千葉県南房総市千倉町で調査を行った際に、平館漁港で興味深い話を聞いています。ここは古い 時代に隆起した土地とされ、昔の海岸線は山際辺りにあって、そこに紀州から出漁してきた人びとが定住したのが始ま りといわれています。その後、集落は沖へと拡張されますが、屋号に門あるいは衛を持つのは古い家を示す証だそうで す。房総沿岸には、白浜や勝浦など紀州由来と考えられる地名が散在していますが、千倉や平館という地名も移住した 紀州人たちの繁栄を象徴するもののひとつであると聞きました。
 もうひとつ、平館ではニザダイという魚をサンノジと呼んでいますが、これは和歌山県串本町大島で、やはりニザダ イを三の字と称していることに通じています。おそらく、スバル系の星名も多くは紀州の漁師らによってもたらされ、 定着したものでしょう。今回の調査で、広浦漁民を代表するア山次郎右衛門の足跡を辿る第一歩が踏み出せたことは、 星名伝承の伝播という課題に対する指針として大切にしたいものです。

[2021年初稿]


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餅が伝える山里の文化 【奈良県大和高原】

 かつて、大和や飛鳥といったことばに心惹かれ、気の赴くままに訪ね歩いたことがありました。ときには、室生寺 から長谷寺を経由して山辺の道を歩き、あるときは天理から都祁野へ入って、翌日は飛鳥の里を徘徊した記憶が蘇り ます。その後40年以上が経過し、今度は星の伝承を求めて奈良県を訪ねることになったのです。
 2015年3月には、当面の課題であった奈良市近郊の十九夜行事について聞き取りを行うため、同市南部の横田町や 南田原町、日笠町、茗荷町などをめぐりました。大和集落の面影をのこす早春の山里は、本格的な農作業の始まりを 前に、用水路や農道などの草刈りが行われていたほか、近くの神社(公民館)では、地区の女性たちが清掃に取り組む 姿に接し、活気に満ちた集落の伝統的なコミュニティを感じとることができました。この時の調査では、十九夜講の 実態についてある程度の情報を記録できたものの、本来の目的である星の伝承はなかなか成果が得られません。そこで、 かつてのように山里を訪ね歩くという基本的な考えを踏襲することにしたのです。一日のんびりと歩きながら、なお かつ星の伝承者とのめぐり会いが期待できる地域として注目したのは大和高原でした。こうして選んだコースは、三重 県名張市と接する山辺郡山添村南西部から宇陀市北部にかけての山里です。
 調査が実現したのは、2016年4月上旬のこと。前日は三重県松阪市の漁港を訪れてから、名張市内で一夜を明かし ました。翌朝、駅前から北三番町行始発バスで梅が丘まで行き、そこから葛尾の集落を目ざして歩き始めます。梅が丘 の団地を外れると、そこは下三谷の里で、背後には大和高原の台地が連なっています。ところどころで朝霧が沸き立ち、 辺り一面しっとりとした空気に包まれていました。大きく蛇行する名張川を上流へ向かうと、対岸に淡い日差しの太陽と ハロー(日暈)が現れました。海辺の調査で日暈を見る機会は少なくないものの、春の里山で眺める光景はまた格別 です。道は西へ折れ、対岸に家野の集落が横たわっています。墨絵のような山裾に再び霧が湧き立ち、東の方角へ 流れていきました。

〈左〉春の朝の日暈 /〈右〉家野を包む朝霧

 名張川が奈良県に入ると、左手の沢沿いに細い登坂路が現れます。これが葛尾集落へ通じる道で、10分ばかり歩けば 辿り着けます。葛尾地区は現在奈良県と三重県に分断されていますが、細長い県境に位置する数十軒ほどが名張市の 管轄です。その集落は、小さな尾根の斜面にひっそりと佇んでいました。過去の忌まわしい事件などは微塵も感じさせ ない山里の景観です。春の気配はまだ弱く、人影もほとんどありません。集落の外れに来ると、庭先でようやく70代の 男性と出会い、少し話を聞きました。
 嬉しかったのは、以前行われていたオツキヨウカの行事についてです。ここでは、新暦5月8日が実施日でした。 長さ3bほどの竹の先端にモチバナやフジの花を結わい付けて庭に立てました。いわゆる卯月八日の行事で、奈良県や 三重県、京都府南部などでは、ウヅキがオツキと転訛した呼称が一般的となっています。そして、もう一つの興味深い 話が正月の餅です。葛尾では、年末に作る供え餅の中に三日月の餅(1個)とホシの餅(12個)があり、これらは丸盆 に載せて神棚へ供えられました。そして1月15日に下げてから、家族で食したそうです。今も継承されている行事と 途絶えてしまった習俗があり、山里の暮らしは世代とともに変容を余儀なくされているのが常といえるでしょう。
 葛尾から細い道を辿って県境を越えると、間もなく奈良県山添村の岩屋地区に着きます。北側入口近くにある興隆寺 へ立ち寄り、西日本では少ない二十六夜塔を探しました。型通りの調査を終えて、寺の若い住職と話をしましたが、 二十六夜の石も信仰も全く知らないということで、最早忘れられた存在なのかもしれないと感じました。集落を抜けて 少し下った所で、農作業の準備をしていた87歳(1929年生まれ)の男性と行き会い、奈良県側の習俗について聞く 機会を得ました。
 岩屋の餅文化は、葛尾とほぼ同じものでしたが、さらにサンヤサンの重ね餅というのがあり、旧暦1月23日夜に 三日月形の餅を二段重ねにして盆に載せ、縁側に供えていたというのです。かつてはサンヤマチ(二十三夜待)が 行われていたことも分かりました。また、岩屋では新暦7月7日にタナバタ行事が行われていたようで、庭に立てた 笹竹の下に薦を敷いて座卓を置き、そこに家族が集まってそうめんを食べながら天の川を眺めたりしたといいます。 在来の習俗に中国伝来の七夕行事が習合し、次第に現代的な行事へと変容した様子が窺えます。

岩屋の三日月餅(イメージ図)

 山間に大きく広がった岩屋の集落を後にし、県道を暫く進むと毛原の集落が見えてきます。途中で見かけた淡いピンクの 花は、ツツジの仲間ですが、あとで調べたらコバノミツバツツジと分かりました。かつては、オツキヨウカなどにも使わ れていたかもしれません。
 さて、毛原には毛原廃寺跡と呼ばれる史跡があり、民家の隣接地に大きな礎石が遺されています。その近くで出会った 70代の男性は、伝統的な大和の星名を伝えていた人でした。聞き取りによると、毛原の夜空ではカラスキボシ(オリオン座) とスワリボシ(おうし座)がまだ健在だったのです。いずれも大和を代表する星として『四方の硯』(近世の随筆)に 登場しています。カラスキというのは牛馬に曳かせて水田の荒起しをする用具で、地域ごとに形状が多少異なり、大きさも まちまちです。三つ星と小三つ星が描く線をカラスキに当てはめるのは容易ではありませんが、この星名は奈良県以外でも けっこう伝承されています。


〈左〉農具のカラスキ /〈右〉カラスキボシの図

 毛原で県道の分岐を左折し、笠間川沿いに南下すると山添村から宇陀市に入り、ほどなく下笠間の集落に至ります。 視界が開けて、集落の佇まいを確認できる場所まで来ると、道端にいた82歳(1934年生まれ)の男性と出会いました。 この人も大和の伝統的な星の名を覚えていて、カラスキボシやハゴイタボシ(おうし座)などが記録されています。 そのほかオツキヨウカの行事では、終戦直後まで竹を立てていたものの、その後は山から採取したフジの花をそのまま 屋根に投げ上げていたようです。
 礼を述べて別れを告げ、集落の中心部へ進むと春覚寺があります。その境内に「美佛の桜」と名付けられた桜の古木が あり、ちょうど満開に咲き誇っていました。少し離れて眺めると、それは見事な枝ぶりです。桜の根元には、如意輪観音 (六臂)を刻した十九夜塔があり、かつてどのような信仰があったのか、気になるところです。
 春覚寺から細い道を辿って500bほど歩き、ある民家の前で86歳(1930年生まれ)の女性に正月の餅について尋ねると、 わざわざ主人(89歳)を呼んでくれて、玄関先で二人から話を聞くことになりました。最も興味深かったのは、主人の 母親の時代、つまり明治期の正月の餅作りです。ミカヅキ(三日月)サン、ジュウサンヤ(十三夜)サン、ジュウゴヤサン (十五夜)サン、ニジュウサンヤ(二十三夜)サン、ニジュウロクヤ(二十六夜)サンという五種類の餅があり、これらを まとめてホシモチと称していたのです。これまで、何人かが語ってくれた豊かな餅文化は、ここ下笠間へ来てようやくその 全容を垣間見ることができました。残念ながら、ミカヅキサン以外の餅は既に作られていませんが、旧暦4月7日の夜に 立てたとされるオツキヨウカの竹の話共々、心は十分に満たされていたのです。
 老夫婦に礼を述べて先を急ぐと、間もなく上笠間です。ここには、十九夜信仰の石塔があるはずで、まずは所在地と される春日神社を探しました。途中で鳥居を確認していたので、早速訪れてみると別な神社でした。仕方なく、人を探して 集落内を歩き回ったものの、なかなか出会えません。ようやく80代の男性に尋ねたところ、春日神社はこの集落には存在 せず、十九夜塔も聞いたことがないといいます。手掛かりが得られないため、石の捜索は諦めることにしました。
 いよいよ、最後の集落となる深野を目ざして出発です。笠間郵便局を過ぎると、県道は二分します。直進すれば、笠間峠 を越えて名張へ至りますが、深野を訪ねるには少し回り道をしなければなりません。右折して南下しながら、少しずつ 高度を上げて行くと、やがて道は東方へ大きくカーブし、標高約420bのピークに達します。岩屋の標高が約280bですから、 笠間川源流域まで歩いてきたことになります。
 道路が切り通しとなったところでふと頭上を見上げると、一本の太い綱が道いっぱいに張られていました。この先は、 一気に下り坂となって深野の集落に入ります。つまり、ピークとなる地点は深野にとって外界との境である「標」となる 重要な場所であることが分かります。おそらく、ここに道切りを設けることで、悪霊や悪疫の侵入を防いでいるのでしょう。 古い習俗が、このような形で大和高原にのこされていたことは予想外でした。


〈左〉深野の道切り /〈右〉深野の里山景観

 深野は、緩やかな傾斜地に民家と耕作地が散在し、見事な里山景観を現出しています。神明神社の入口付近にある石柱 には「にほんの里100選」とあり、成る程と思いました。集落の東の外れで今一度振り返ると、里全体が西に傾いた陽の中で 輝いているではありませんか。名張市から山添村、そして宇陀市室生地区へと久しぶりに歩き通した充実感もさることながら、 よき天候と多くの伝承者に恵まれた一日であったことを実感するひとときでした。
 県境を過ぎると、道は一気に山を下り、ほどなく安部田の里へ出ます。ここから近鉄赤目駅まで、爽やかな疲れと調査の 余韻を楽しみながら歩くことができました。

[2020年初稿]


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ケンサキイカと星 【島根県出雲地方】

 日本海におけるイカ釣り漁は、かつてスルメイカ群の北上や南下という習性を利用して、西日本から北陸、北日本に かけてさかんに行われていました。当時のイカ釣りは、手漕ぎの船に専用の釣具を使った漁法が佐渡を中心に普及し、 星に関する伝承も広く伝播したものと考えられています。
 その後、スルメイカ漁は資源量の変化、漁船や漁具の近代化などによって大きく変貌し、手釣りと呼ばれる漁法は ほとんど姿を消しました。漁獲の対象もスルメイカばかりでなく、ケンサキイカやヤリイカなど多様化がみられ、西日本 ではケンサキイカへの依存度が増しています。実は、島根県の出雲地方では、このケンサキイカの漁に星を利用していた 事例が聞き取り調査で明らかになったのです。主として北陸以北に伝わるイカ釣りの星は、スルメイカ漁という基盤の 上に成り立っていたわけですが、それとは全く別系統の「イカ釣りと星」が存在していたことは大きな発見であり、新鮮 な驚きでした。
 この嬉しい伝承にめぐり会えたのは、2014(平成26)年の島根・鳥取両県への旅だったのです。このうち、島根県での 本格的な調査は、6月初旬に出雲空港からレンタカーでスタートし、松江市を基点に島根半島沿岸に点在する漁港を訪ねる ことが主な目的でした。
 出雲地方といえば神話の舞台としても知られ、その要となるのが出雲大社です。旅の始まりはまず大社への参詣からと いうことで、旅の安全と調査の充実を祈願することにしました。いよいよ調査開始です。大社から西へ進むと、間もなく 海沿いの道となり、最初の漁港である大社漁港が見えてきます。しかし、岸壁周辺は閑散とし、人影は全くありません。 暫らく様子を見ていましたが、状況は変わらず先を目ざします。
 海岸線をさらに西へ向かうと、日御碕です。灯台周辺は観光客で賑わっていましたが、すぐ南側の谷筋にある日御碕 神社は静かな佇まいでした。朱塗りの社殿の眩しさは、神の国といわれる出雲を象徴する景観の一つかもしれません。
 神社からさらに下ると漁港があり、すぐ沖合には日御碕神社の奥の院を祀った経島が見えます。漁船を係留した岸壁で、 幸いにも80歳(1934年生まれ)の漁師と出会うことができました。ここでは、イカ漁とブリなどを主体とした一本釣り 漁が行われてきましたが、昔から網を使った漁はしないという方針が今も堅く守られています。網漁では魚を獲り過ぎ、 鮮度も落ちるというのがその理由と知り、海の恵みを育み、自然とともに生きる術を伝えた出雲漁師の心情にふれる思い でした。

〈左〉島根半島遠望 /〈右〉経島の日御碕神社奥宮

 この漁師に、日御碕で伝承された星の名を尋ねると、スマル(プレアデス星団)、カラツキ(三つ星)、ヒシャクボシ (北斗七星)、オオボシ(金星)などの呼び名が出てきました。カラツキについては、「この星が山の端に出るとイカや 魚がよく釣れた」といわれ、これは地元でシマメイカ(スルメイカ)と呼ぶ秋以降の漁で利用されたことを示しています。 因みに、シロイカ(ケンサキイカ)の漁期は5月から夏にかけてです。
 当地のイカ釣りは、竹の一本竿にイカ鉤を付けた簡素なものが使われ、竿を利用しない本来の一本釣りを含めて伝統的な 漁法が長い間継承されてきたようです。イカ鉤には、擬餌タイプと餌を付けるタイプの二種があり、それぞれゴンガラ、 トンボと呼び分けられていました。こうしたイカ釣り漁法は、島根半島でほぼ基本的なスタイルとして定着していたものと みられ、星の伝承も出雲地方の伝統的な利用体系をよく示していることが分かります。
 日御碕に別れを告げ、半島の北側に連なる漁港を訪ねることにしました。時おり道幅が狭くなる山間の道路を進むと、 やがて視界が開けて鷺浦に至ります。天然の入江を利用した小さな漁港は妙に静かで、集落の佇まいからはここで生きる 人びとの息遣いが感じられました。浜の近くで丁度居合わせた70代の漁師に声をかけたところ、星の伝承は聞かれなかった ものの、イカ釣りの話を中心にいろいろな情報を得ることができました。特に中国地方を代表する背負い運搬具である オイコについて、鷺浦では自然木の股木を利用した背負い梯子のことをさし、昔は薪などの運搬に使っていたとのことです。 オイコは、地域によって円筒形あるいは鳥の巣状の背負い籠の呼称となっており、本来は背負い運搬具の総称であった かもしれません。山陰地方の一部に伝承されたオイコボシは、こうした用具を夜空に投影したものです。

 

〈左〉二股の背負い梯子タイプ /〈右〉鳥の巣状の背負い籠タイプ

 灯台の見学などをしたこともあって、この日の調査は鷺浦で終了となり、その先に連なる漁港はまた機会を改めての 訪問となりました。とりあえず、宿をとってある松江市に向かって走ります。途中、宍道湖北岸を抜けて市内に入ると、 松江城のある城山公園が見えてきます。宿は、公園のすぐ近くでした。
 翌朝早く、宿の自転車を借りて城山公園へ行ってみました。実は、松江城の石垣に星印があると聞いていたからです。 以前、富山城で確認した星印は50a以上の大きなものでしたが、松江城ではどうでしょうか。ところが、この星印探しは 意外と時間がかかり、実際に確認できたのは最終日の朝の散策時になってしましました。ようやく見つけた松江の星印は とりあえず5ヵ所で、いずれも10〜20aと小さく特定の場所に集中しています。また星以外にもいくつかの刻印が認め られ、ちょっとした宝さがしの気分を味わうことができました。
 二日目の鳥取県内の調査を経て、最終日は再び島根半島をめぐることにしました。ただし、今回は半島東部に点在する 漁港です。まず訪ねたのは、最東端にある美保関漁港です。ここは東に突き出した陽山[オトコヤマ]と西の日降山[ヒ オリヤマ]に続く尾根に抱かれた入江で、港を囲むように集落が連なっています。その一角に鎮座するのが美保関神社で、 古くから半島の漁師らの篤い信仰を集めてきたようです。
 また、美保関は北前船の寄港地として知られ、陽山や日降山もかつての日和山ではないかと言われています。年のため 陽山に登ってみましたが、小さな社があるだけで眺望も得られませんでした。地元漁師の話では、漁港から数百b西にある 海崎の鼻と呼ばれる小さな岬が魚見と日和見の場所であったといいます。さらに、伊能忠敬測量隊の測量記録から特定 された日和山の存在が明らかになるなど、美保関の日和山については、今後も精査する必要がありそうです。

 

〈左〉松江城石垣の星印 /〈右〉美保関の陽山を望む

 最初の漁港で思いのほか時間をとられてしまったので、先を急ぎましょう。次に立ち寄ったのは片江漁港でしたが、 漁船は少なくレジャーボートが目立ちます。二人の男性から聞いたところでは、ここには専門の漁師はもういないという ことで、漁業そのものの衰退が島根県においても確実に進行していることを目の当たりにしました。
 松江市美保関町から同市島根町に入ると、笠浦漁港があります。港内を一巡しましたが、漁師の姿はありません。それ でも、船の修繕をしていた人に昔の漁について知っている人はいないかと尋ねると、76歳(1938年生まれ)の漁師の家を 教えてくれました。早速行ってみると、先ほどめぐった場所にある漁師家でした。家の片付けをしていた様子でしたが、 用件を伝えると快く近くの漁船へ案内してくれました。
 船上で、暫らくイカ釣り具を見せてもらいながら、星や風の伝承、イカ釣り具の使い方などを聞くうちに、たいへん 興味深い事実に気付きました。それは、ダワボシという星の存在です。6月であれば、夜8時ころ南東の空に出る明るい 星であるといいます。自身が火星ではないかと思うと言っていることなどから、さそり座のアンタレスがダワボシの 正体と考えられます。ただし、ダワというのはおそらく「撓」のことでしょうから、アンタレスを含む三星の形を両端が 下側に撓んだ状態とみたものでしょう。星名の意味からいえば、さそり座三星が対象のようです。そして、さらに重要 なのが「ダワボシが山の端に出るとイカがさばる」という伝承です。この時季のイカ漁は、ケンサキイカが対象となって おり、スルメイカではありません。つまり、ダワボシはケンサキイカ釣りで利用された星ということになります。今の ところ、星名は一種類だけの伝承であり、いつの時代に発生したものか明らかではないようですが、新しい知見である ことに変わりはないでしょう。

さそり座のダワボシ

 古い歴史と風土に包まれた出雲の調査は、ケンサキイカと星との関係をより具体的に体得できた旅でもありました。 人と人との小さなふれ合いが、いつの間にかよき伝承者との出会いにつながっていくという事実は、これからの調査にも 重要な支えとなるような気がします。

[2020年初稿]


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累々と島影を仰いで 【広島県瀬戸内地方】

 本州と四国の狭い海域に多くの島々が点在する瀬戸内海は、外海に面した沿岸域とは異なる景観を擁し、多島海なら ではの生業と暮らしを育んできました。
 現在の瀬戸内の姿は、およそ1500万年前に造られたとされています。日本列島が形成される歴史のなかでも、大きな 変動の一つであったことでしょう。そこを貫く三つの海道が整備されたのは1988年(小島・坂出ルート)から1999年 (尾道・今治ルート)にかけてでした。本州と四国が陸続きになったことで、大きな転換期を迎えることになったので す。
 瀬戸内海に伝わる多様な文化は、星の民俗の分野においても他所に引けを取りません。古くは1940年にアチックミュ ーゼアムが発刊した『瀬戸内海島嶼巡訪日記』〔文0101〕には、東は岡山県牛窓町の前島から西は愛媛県の高井神島に 至る26島5海浜、延べ6日間の調査記録が綴られています。このうち22島4海浜の地で星の伝承が聞き取られ、80種以 上の星名が記録されました。瀬戸内全域を対象としたものではありませんが、特定の地域における星の伝承を掘り起こ したという点で貴重な資料となっています。
 その後、1963年には桑原昭二氏によって兵庫県を中心とした沿岸と島嶼部の星名がまとめられ、『星の和名伝説集− 瀬戸内はりまの星−』〔文0240〕として発表されました。これによって、星名伝承の多様性がさらに大きく展開される ことになったのです。その一方で、広島県から山口県にかけての瀬戸内西部域では、包括的な星の伝承記録がなく長い 間気がかりでした。限られた地区の記録はそれなりに蓄積されていたものの、一斉調査などによる記録が欠けていたの です。
 そのような状況下で、2013年になってようやく広島県の調査を始めることができました。その後も3回の調査を重ね ながら沿岸域と一部の島嶼を訪ねたものの、伝統的な星名にはなかなかめぐり会えないという現実に直面しています。 それでは、これまでに得られた星の伝承をたどって、いくつかの地を巡ってみましょう。
 まずは、広島県の調査で第一歩を踏み出した呉市です。ここには吉浦という古い漁師町があり、早くから星の伝承が のこされた地として知られていました。訪ねたのは吉浦駅の西に位置する吉浦西漁港で、たくさんの船が係留されてい ます。しかし、よく見るとそれらのほとんどはレジャーボートであり、本来の漁船は少ないことが分かりました。周辺 を見渡しても、かつての漁村の面影はほとんどなく、漁師の暮らしもすっかり変わってしまっていたのです。
 奥へ進んで行くと、60代の漁師らしき人がいたので、とりあえず声をかけてみました。67歳(1946年生まれ)とい うその現役漁師は、思いがけず伝統的な漁や星、風などに詳しく、乞われるままに話をしてくれました。なかでも、三 代目の父親(大正7年生まれ)から聞いた星の伝承については、ミツボシ(三つ星)、スマル(プレアデス星団)、ネ ノホシ(北極星)、ヒシャク(北斗七星)などがあり、当時の漁師らは星を目あてに漁をしていたということです。
 吉浦はもともと刺網漁がさかんで、春先のシャコ漁に始まり、4月15日からはマガレイ、イシガレイ、ヒラメなどが 、5月に入るとモンゴウイカの漁が始まり、コチやワタリガニ類(8月の盆過ぎから10月)の漁と続き、10月以降は再 びカレイ類をとっていたそうです。刺網以外ではタコ専門の漁師がおり、アナゴの延縄などもさかんでした。かつては、 呉の湾内にイワシの群れが入るようになると、アジやサバ、それにタチウオなどもとれたといいます。しかし、最近は 今まで見たこともない魚が刺網にかかるようになったとのことで、漁にも大きな変化が表れているようです。
 吉浦の地に、たとえ一部とはいえ伝統的な星名がのこされていたことは、何と心強いことであったでしょう。ただ、 この後に訪れた西部沿岸域の地御前、大野浦、玖波などは、いずれも閑散とした光景に包まれ、漁業そのものの衰退を 実感させられました。

〈左〉尾道水道の夜明け /〈右〉因島の土生港を遠望

 2016年には、尾道から因島を訪ねています。このときは、愛媛県の今治までしまなみ海道の主な島々を調査したわけ ですが、日程の都合で広島県内は因島だけとなりました。尾道でバスを待つ間、尾道大橋を望む船溜りで地元の漁師 を探しましたが、なかなか出会えません。夫が元漁師だったという70代の女性の話では、昔はこの場所に砂浜が延びて いたとそうで、子どもの頃はよく貝を採っていたとのこと。50〜60年前の思い出が蘇ってきたのでしょう。この女性 はナナツボシ(北斗七星)を知っていて、星の位置によって時間を計っていたことを教えてくれました。
 バスに乗車してまず向かったのは、向島です。このバスは土生港行の路線バスのため、しまなみ海道を走るのは因島 大橋だけで、他は一般道を走ります。向島を抜け、因島大橋が近づくと大小の島々が眼前に広がります。それらの島影 はときに重なり合い、そして離れ、やがて沿道の景色に呑み込まれていきました。
 土生[はぶ]は、因島の南西端にある大きな漁港で、多くの漁船がありました。細長く連なる船溜りの中ほどまで来 たところで、船に乗り込んでいた80代の漁師を見つけ、調査の承諾を得たうえで少し話を聞くことにしました。この人 は、40年ほど前からタチウオ漁を専門にやっており、周りの船もほとんどがタチウオ漁に従事しているとのこと。当地 では、約 300bの縄(仕掛け)を船で曳き流しする漁法がとられています。これまでの経験から、昼間はヤマアテを行 い、夜は人工の灯火などを頼りに漁をしてきたといい、月のみちかけや位置によって潮の加減を知ったそうです。星の 利用はなかったようですが、それでもスマルやミツボシ、オオボシ(金星)などの星名を伝承していました。
 スマルといえば、かつて因島付近から愛媛県側の大島周辺にかけての海域で勢力を揮っていた村上水軍のことが思い 起こされます。実は、大島にある村上水軍博物館の展示品の中に寸丸[すまる]というものがあり、武器の一種として 使われていました。漁業で利用されるすまるは四つ爪が一般的ですが、展示品は爪が五つあり、接続部には約1bの鉄 の鎖が付いているのが大きな特徴となっています。この寸丸図の出典は、能島村上家伝来の『舟戦以律抄[しゅうせん いりつしょう]』という史料で、原図の説明は「す波る」と記されています。本来は「すはる」であったことが分かり ますが、どのような経緯で寸丸へと変化したのか、また星とのかかわりも気になるところです。

〈左〉漁具のすまる /〈右〉村上水軍の幟

 さて、しまなみ海道を本州側にもどると、尾道の先に福山市があります。その南に位置する鞆の浦を訪ねたのは、2017 年の春でした。古い港町は、漁業の活気こそ失われたものの、港の一角には歴史的な町並みがのこり、かつての面影を 偲ばせてくれます。入江に沿って南へ下ると淀媛神社があり、その入口で「三つ石」と呼ばれる隕石の説明板を見つけ ましたが、そのまま先を急ぎます。平漁港に着くと、ちょうど居合わせた80代の元船乗りから話を聞くことができまし た。
 鞆の浦のタイ網漁は、帆船時代からさかんだったようで、愛媛県方面まで出漁していたといわれます。また、沖合に 浮かぶのは走島で、『瀬戸内海島嶼巡訪日記』の調査地の一つです。島では、かつてキンチャク網などで主にイワシや チリメンジャコをとっていたようですが、今では船で鞆の浦へ渡り、そこからバスで福山市へ通うサラリーマンも少な くないそうです。
 元船乗りからは、伝統的な星の伝承を聞くことはできませんでした。ただ、夜明け前の金星をヒトツボシと呼んで、 この星が港の小島(玉津島)の上に出たらフクロ網を揚げたという伝承は、県内の生業と星の関係を示す貴重な事例で す。また、この地域の風位呼称は北風がキタで、北西の風をアナジとしていますが、ここでは「寒いキタ風、冷たい アナジ」ということばで、それぞれ性質の異なる風として捉えていることが分かりました。時間に余裕があれば走島へ 渡りたいという思いを胸に、鞆の浦をあとにしました。
 2019年5月、北九州から山口県を辿った調査は、広島県が最後の訪問地でした。まだ歩いていない呉から三原にかけ ての沿岸域は、以前から興味を抱いていた地域です。
 まず、川尻漁港へ行くと、最近ではめずらしくなった夫婦に出会いました。岸壁に係留された船の傍らで、手押し車 にスチロール箱を積んでいた女性が、何やら漁師とことばを交わしています。近づいて見ると、それは行商に行くため の準備だったのです。女性は、夫の帰りを待ち受けて魚を受け取り、そのまま行商へ出かけるところでした。以前は何 人もいたそうですが、今は二人だけになり、港近くのお得意さんを廻っているようです。因みに、昔の行商スタイルは 背負い籠に魚を詰めて歩いたといい、これをエンボウと呼んでいました。この女性が川尻へ嫁いできた頃は、まだエ ンボウが主流の時代だったようです。


〈左〉鞆の浦の歴史的町並み /〈右〉川尻の行商道具

 川尻を離れて、東広島市の安芸津漁港を訪れると、畳屋の仕事をしながら漁師を兼業していたという80歳(1939年 生まれ)の男性から話が聞けました。この人が記憶していた星の名はミツボシ、スマロ(プレアデス星団)、ヨアケノ ホシ(金星)だけでしたが、スマロという呼称は独特の響きがあり、他所ではほとんど聞かれない表現です。ただし、 これらの星と漁の関連はなく、夜間の漁では月や山、灯火などをあてにしていたようです。月の近くを流れる雲の動き から風向きをみていたという話は、興味深いものがあります。
 この人は、漁師であった父親が40代で亡くなったため、若い頃は祖母と一緒に延縄や刺網などの漁に出ていました。 兼業の漁師とはいえ、フナダマサンについても覚えていて、昔は小さな木箱を作り、その中に10円玉6枚などを納めて 祀っていたと教えてくれました。
 呉線沿岸の調査も大詰めを迎え、締めくくりは忠海[ただのうみ]で下車することになりました。目的は聞き取りで はなく、別なところにあったのです。念のためとりあえず漁港に行ってみましたが、レジャーボートばかりで漁師の姿 は全くありません。
 さて、忠海は黒滝山(標高 266b)の麓にある町で、既に中世から開けた土地であったようです。近世の絵図(文政 年間発行の『芸藩通誌』)をみると、黒滝山と入江(湊)の間に丘陵地が描かれ、その一角に「明星」と記されていま す。後には明星の丘と呼ばれているようですが、古くから明星降臨などの伝説があったのかもしれません。調査の目的 は、その場所の確認と手がかりを求めるためであったのです。
 現行の地図では、浄居寺のすぐ南に明星こども園というのがあり、先の絵図と照合すると位置的にほぼ一致するよう です。しかし、地元の人に尋ねても明星という地名を知る人はなく、こども園の名をわずかに耳にした程度でした。伝 説などに結びつくような情報を得られぬまま歩いていた道は、いつしか黒滝山登山口へと続くルートの一部に入ってい ました。ふと立ち止まって行く手を仰ぐと、黒滝山の山容が迫り、振り返れば眼下に瀬戸内の海が広がっています。初 夏の陽光に輝く水面と、累々と重なり合う大小の島々に、心安らぐひとときを感じました。
 そういえば、瀬戸内の漁師らが培ってきた伝統的なヤマアテのなかに、島と島の重なり具合を利用した手法が伝わっ ていると聞いたことがあります。それは、瀬戸内の原風景が景観的な要素ばかりでなく、機能的な役割を併せもった空 間として成り立っていることをよく示しています。
 星の伝承は、広範な漁労習俗のごく一部でしかありません。しかし、宇宙という特殊な対象物への認識と利用の仕組 みは、まだ十分に解明されていないのが実情です。おそらく、瀬戸内の海では、特定の島影と星の位置を合わせるヤマ アテも行われていたのではないでしょうか。


〈左〉忠海から瀬戸内を遠望 /〈右〉明星の丘と黒滝山(手前右端)

[2021年初稿]


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空と川と海の道 【高知県四万十地方】

 西日本を代表する星名の一つに、カセボシがあります。瀬戸内海や四国地方に広く分布し、多くの記録がのこされて います。しかも、その伝承内容は、実に変化に富んだものでした。つまり、この星名の対象はオリオン座の三つ星を基本 として、その周辺の星々との組み合わせにより、いくつもの見方が生まれていたのです。なぜ、このように多様な伝承が みられるのでしょうか。それは、カセと呼ばれる用具の形状や用途、あるいは言葉の意味そのものが、地域によって異 なるという事情によります。
 紡績具としての基本的なカセは、紡いだ糸を巻き取る用具あるいは糸枠そのものをさしますが、そのいずれにおいても いくつかの型があり、形状的な違いばかりでなく見る角度によっても形が変化するのです。また、カセは巻き取られた 糸の束そのものを意味したり、そうした束を数えるときの単位にもなりました。
 カセボシの本質を探るには、各伝承地におけるカセの意味を明らかにする必要があります。しかし、それらを詳細に 把握することは容易ではありません。現地を訪ねて、カセボシあるいはカセに関する情報をできる限り収集したいという 思いはだいぶ以前からありましたが、そうした機会にはなかなかめぐり会えずにいたのです。

カセボシの伝承タイプは実にさまざま

 2013年から西日本での本格的な調査が始まり、四国へも何度か足を運んでいた2015年の11月、高知県から愛媛県西部への 調査で、ようやくカセボシを記録することができました。この調査も、週末に航空機とレンタカーを利用した忙しない 3日間でしたが、高知県では星の伝承以外にも興味深い星の民俗に接する旅となりました。
 初日は、黒潮町の佐賀漁港、上川口港、入野漁港、田野浦漁港などを訪ね、このうち佐賀、上川口、田野浦で聞き取り ができました。黒潮町に伝承された星は、ミツボシ、スマル(プレアデス星団)、ナナツボシ、シャクノホシ(いずれも 北斗七星)などで、漁業での具体的な利用は聞かれませんでした。土佐といえば、カツオ漁がよく知られていますが、 かつての賑わいはすっかり影をひそめ、今はほとんどの漁港で活気がみられないのは残念です。ただ、田野浦では昔から ジャコ漁がさかんで、水揚げは大幅に減少しているものの、今でも漁は続いているようです。
 ところで、土佐を代表する食文化の一つにウツボ料理があります。ウツボを食べる習俗は、関東から九州南部の太平洋 沿岸に点々と根付いていますが、土佐は紀州と並んでその本場といわれる土地です。かつてはウツボを専門にとる漁師も おり、黒潮町では筒状の籠を使う漁法が一般的でした。調理法をみると、タタキ、すき焼き風煮、そして広く知られた 開き干しを焼く方法があり、上川口のタタキはカツオと全く同じ作り方で、これが最も普通の食べ方だと聞きました。 また、すき焼き風煮の場合は肉の代わりにウツボを利用するだけで、通常のすき焼きと変わりがありません。
 黒潮町から四万十市に入ると、まず訪ねたのは四万十川に近い中村城跡の高台にある市立郷土資料館です。市街地 から細いつづら折れの道を登り詰めると、終点で小さな古い建物が出迎えてくれました。林の縁のちょっとしたスペースが 駐車場になっていて、周辺全体がひっそりとした佇まいです。館内も静かで、見学者は他に誰もいないようです。調査の 途中でわざわざここまでやってきたのは、どうしても見ておきたい展示物があったからです。それは、多くの謎に満ちた 七星剣でした。国内では数えるほどしか存在しない貴重なものですが、四万十の七星剣は象嵌の材質をめぐって製作された 年代が確定されないまま埋もれた文化財となっているのです。
 この剣の特徴は、両刃の剣であることです。館内の展示品はレプリカですが、北斗七星の文様をはっきりと確認する ことができました。反対側にもあるはずの北斗の向きは、どうなっているのでしょうか。見られないのは心残りです。
 資料館をあとにして四万十川沿いに少し下ると、土佐くろしお鉄道のガードをくぐったすぐ先に星神社があります。 県内の神社誌に記載された111社の同名神社のうちの一社で、祭神は天之御中主神を祀る妙見社のようです。神紋などは 見あたりませんが、社殿の鬼瓦に☆の文様が刻まれていたのが印象的でした。

七星剣の展示と北斗七星の文様(一部)

 二日目は、宿毛を基点に愛媛県西部の漁港をめぐり、最後に宿毛市の大島、田ノ浦、大海の各漁港を訪ねました。しかし、 この辺りでは愛媛県と同じように多くの漁師が養殖業へと転換しており、かつてのような伝統的漁業を継承する漁師には 出会えなかったのが残念です。
 さて、最終日は再び宿毛から出発し、高知を目ざして走ることになりました。足摺方面へ暫らく進むと、土佐清水市です。 まず、下川口漁港に立ち寄りましょう。船溜りに行くと、ちょうど刺網漁から帰ってきたばかりの81歳(1934年生まれ) の漁師と出会い、話を聞くことができました。
 土佐清水に伝わる星名は、ネノホシ(北極星)、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、ヨアケボシ(金星)などで、ネノ ホシは北の空で動かないため、いつ、どこにいても目あてにしていたといいます。この漁港は、他に比べて活気があり、現在 はメジカ、ソウダガツオなどの一本釣やキンメダイの網漁、エビ網漁、それにモモイロサンゴを対象としたサンゴ漁が行わ れています。また、以前はウツボ漁のさかんな時代もあり、昔はウツボを食べると乳がよく出るということから、大阪方面 より多くの注文があったようです。
 漁師に礼を述べて、次に向かったのは竜串漁港でした。すぐ沖合が海中公園になっているようでしたが、探していた古い 漁師の姿は全く見られず、早々に隣りの三崎漁港へ移動しました。ここは、千尋岬の懐に抱かれた天然の入江で、現在の 漁港は岬の付け根にあたる部分に整備されています。岸壁から東を望むと、足摺岬のどっしりとした山容が黒潮の海に 突き出ているのが分かります。
 そこへ現れたのは、すぐ近くに住む84歳(1931年生まれ)の現役漁師で、この人が長年追い求めてきたカセボシの伝承 者だったのです。ただ、残念なことにオリオン座三つ星の呼称であるという以外に有力な情報はなく、もちろんカセの正体も 不明です。三崎浦では、ネノホシ、ミツボシ、カセボシ、スマルなどの星を漁の目あてとして利用していたということで、 カセボシについても、かつては具体的な利用が図られていた可能性を感じました。
 この漁師は、昭和30年頃にマグロ船で北海道へ行った折に、イカ釣り船に乗ったことがあるといいます。そのとき、ハネ ゴという用具でスルメイカを釣ったそうで、南国土佐の海を眼前にして北国のイカ釣りの話を聞くことになろうとは思いも 寄らぬことでした。


〈左〉オリオン座の三つ星付近 /〈右〉三つ星を連想させるカセの一種

 土佐清水市の調査を終えると、一路高知市をめざします。途中、一ヵ所だけ四万十川の河口に位置する下田港へ立ち寄りま したが、港内はレジャーボートが多く漁師にも出会えませんでした。やがて、高知市の桂浜に到着すると、桂浜公園の最も 高い所まで車を走らせます。実は、かつてこの場所に存在した浦戸港日和山の調査が目的だったのです。ただし、日和山に 関する手持ちの資料は乏しく、坂本龍馬記念館に近い神社付近の三角点などを調べたものの、その跡地を明確に特定するこ とはできませんでした。
 公園の一角に、太平洋を眺望する場所があり、暫らくの間キラキラと輝く海を見つめていました。盛りだくさんの内容で 駆けめぐってきた3日間の調査も、あとわずかで終了です。本来予定していた高知市南部の漁港調査は、次回に必ず実現さ せることを誓い、空港へ向かうことにしました。

[2020年初稿]


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天草のメゴイナさん 【熊本県天草地方】

 熊本県の本格的な調査は、2015年5月にようやく実現しました。調査地として真っ先に選んだのは天草地方です。 2泊3日という限られた時間のため、熊本へは往復航空機を利用し、現地での移動はレンタカーと決めました。まず、 空港から宇土半島へ行き、大矢野島、上島、下島を通り、牛深からフェリーで鹿児島県長島に渡ったあとは八代海に 沿って二つの県内を北上し、最後は八代市を経て空港に戻るというルートを設定しました。ルート上の漁港を訪ね ながら、星の伝承を聞き取り、十五夜綱引きの現況や妙見信仰、タナバタ綱の行事についても取材をしたいという 欲張りな調査です。
 観光地としてよく知られた天草ですが、主要な島々が橋によって結ばれてから既に半世紀以上が経過しようとして います。交通の便は格段に改善されたものの、その一方で古い慣習や伝承が急速に失われているのではないかとの 不安が心を過ります。しかし、星の伝承は意外な地域で予期せぬ出会いに恵まれる機会が多いのも事実です。 効率のよいレンタカー移動という利点を生かして、できる限り多くの漁港を訪ねるなら、意外な出会いのチャンスも 増えることでしょう。
 そうした淡い期待を抱きながら熊本空港を出発し、まず訪ねたのは宇城市不知火町の松合漁港です。早速、船溜りに 行くと、75歳(1940年生まれ)の漁師と出会いました。この人が、オリオン座の三つ星をサカヤノマス(酒屋の桝) と呼ぶと教えてくれたのです。これは、四角い桝の底に把手を付けたもので、酒を量り売りするための用具です。 本来は、三つ星と小三つ星を併せた形になりますが、それにしても、この星名がまだ健在であったことは、何よりも 嬉しい限りです。
 その後、近くに住む80歳(1935年生まれ)の漁師経験者を紹介してもらい、自宅へ伺いました。話を聞くと、生粋の 漁師というわけではなく、元は天草(牛深周辺)から三角や熊本方面に鮮魚を運搬する仕事をしていたそうで、橋が 次々と完成した後はほとんどの物流が陸送に切り替えられたため商売ができなくなってしまったとのこと。仕方なく 漁師となり、手繰網漁や貝漁などに従事してきたようです。したがって、星に関してはほとんど伝承が聞かれなかった ものの、興味深い風の呼称を教えてくれました。それは、マビヨという風で、いわゆるアナゼ(北西の風)と同じ ものです。マビヨとは天気が良いという意味だそうで、おそらく吹く季節によってアナゼと呼び分けていたのかも しれません。それからもう一つ、松合ではうつぼのことをキダコと呼んでおり、湯引きで食べる習わしがあると聞き ました。うつぼは下半身に小骨が多いため、上半身だけを切り取り、熱い湯をかけてから酢味噌を付けて食べる ようです。
 松合で少し時間をとられたので、次は宇城市三角町の郡浦漁港に立ち寄り、70代の漁師から少し聞き取りを行いました。 その後は、いよいよ大矢野島に渡り、西側に位置する小さな島の野釜漁港を訪ねました。ここで90歳(1925年生まれ) になる元漁師と出会い、昭和60年代まで行われていた十五夜綱引きの様子や船霊さまの習俗、うつぼの食べ方など、 いろいろと記録することができました。
 大矢野島を南下し、いくつかの橋を渡り継いで上島へ入ると、北部の沿岸域を西へと進みます。立ち寄りたい漁港は いくつもありましたが、結局上島では、赤崎港で若い漁師から十五夜綱引きの話を聞いただけでした。
 瀬戸大橋を渡ると下島で、天草市本渡町の街並みを抜けて行きます。道は、北上したあと鬼池付近で再び西進します。 少し行くと、沖合に細長い島が見えてきました。通詞島です。手前の沿岸には漁港が連なっていますが、とりあえず そのまま狭い橋を渡り、対岸の二江漁港まで行ってみました。その一角にある建物では多くの漁師が集まっており、 聞けば今日はエビス祭りで、寄合いの最中であるという。確かによく見ると、建物の脇に祀られた恵比須さまに大きな 鯛が奉納されていました。
 通詞島では、現在底曳網漁や一本釣り、延縄漁、潜り漁などが行われ、マダイ釣りではその餌として各種のイカ類が 利用されていること、また毎年秋から翌年3月頃にかけてはクエの延縄漁がさかんであることが分かりました。漁港や 島全体の雰囲気から察すると、ここにはまだ古い習俗がのこっているかもしれないと感じたものの、忙しない調査ゆえの 制約は如何ともし難く、溢れ出る思いをとりあえず鎮めて通詞島を後にしました。この日はあまくさ温泉のホテルに 宿泊。

〈左〉サカヤノマス(一合桝)/〈右〉通詞島の恵比寿祭り

 二日目の早朝、5月の天草の海はさわやかで、きらきらと輝いていました。漁港の様子が気になって、富岡漁港の 船溜りをいくつか回るうち、最後の場所で運よく82歳(1933年生まれ)の漁師と出会うことになったのです。この人は、 実に多くの伝承を語ってくれました。苓北町に伝わる星の名は、サカヤンマス(オリオン座)、スワリ(プレアデス星団)、 ヒシャクボシ(北斗七星)などで、幻日はヒノコと呼び、これが現れると天気がくずれると言い習わしています。また、 アカイカ(けんさきいか)やマツイカ(するめいか)釣りに使うイカ鉤単品をスッテと称し、これを自作の竹竿に付けた 用具をハジキというそうです。うつぼはキダコで、やはり湯引きや揚げ物にして食したようで、この天草一帯にうつぼの 食文化が根付いていることがよく分かります。旧暦8月15日には各家で十五夜の供えものをしますが、富岡でも海岸近くの 広場で綱引きが行われています。ただし、現在は子ども中心の行事となっているようです。
 さて、あまくさ温泉から下島の西海岸を南下すると、すぐに都呂々漁港があり、ここで79歳(1936年生まれ)の元漁師 から少し話を聞きました。さらに進むと、海岸沿いをはしる道路脇に鳥居が現れ、「妙見社」と刻まれた神額が見えます。 階段の上には小さな社殿もあり、その奥には大きな岩盤を流れ落ちる一筋の滝の姿が・・・・・・・。これが、妙見が滝だと いうことはあとで知りましたが、それにしても突如出現したこの景観は、何とも譬えようのない不思議な空間でした。 滝自体は迫力あるものではないものの、霊力が宿るような神秘さをもっています。ここに妙見菩薩が祀られたこと、そして 地元の漁師らが篤く信仰しているという事実は、よく理解できます。
 次に立ち寄ったのは、天草市河浦町のア津地区でした。キリシタンの里として知られ、漁師集落の家並の一角に異彩を 放つア津教会は、この調査から3年後に世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして登録 されたのです。ア津漁港では、何度か場所を変えて漁師の姿を探しましたが、結局誰にも話を聞くことができませんでした。 集落内を歩きながら、開け放たれた玄関の奥にふと小さな十字架が目に留まりました。かつては、この地の漁師の中にも 隠れキリシタンとして漁に従事していた人が少なからずいたことでしょう。改めて、天草の歴史の奥深さを感じました。


〈左〉妙見が滝と妙見宮 /〈右〉ア津教会

 ア津に別れを告げて、いよいよ牛深へ向かいます。牛深浦の手前で西に折れ、とりあえず茂串漁港を訪ねてみました。 茂串湾という天然の入江に位置し、漁業のさかんなこの地区では、約400年の歴史をもつといわれる規模の大きな十五夜 綱引きの行事が今も続いています。茂串の綱には大きな特徴がみられ、「三つねり」と「丸めねり」という互いに異なる 編み方で作った綱を繋ぎ合わせ、シンガイとドダと呼ばれる二組が総勢800人程で引き合います。勝敗は3回の対戦で決まり、 昔からシンガイ組が勝てば大漁、ドダ組が勝てば豊作になると言われてきました。
 漁港では、立ち話をしていた二人の70代の漁師と話す機会があり、話題が星の話になると全く予期せぬ伝承とめぐり 会うことになりました。それは、この地で女性たちに受け継がれた生業と深く結びついた星名だったのです。かつて、 茂串では近くの炭鉱のある集落へ魚の行商に通った女性たちがいて、地元では親しみを込めてメゴイナさんと呼んで いました。メゴイナさんたちは、担い棒の両端に目籠を下げ、全体で二斗にもなる量の魚を詰めて行商に歩いたと いわれます。そして、こうした姿を連想させる星が夏の夜空に現れるといい、メゴイナボシと呼んだそうです。それが、 さそり座のアンタレスを含む三星であることはすぐに分かりました。しかも、話はそれだけで終わらなかったのです。 実は漁師の一人が、実際に母親がこの仕事に従事しながら、一家の生活を支えてきたというのです。肉親の仕事を通して、 自らの体験の一部が星の伝承と重なる事例は、きわめてめずらしいと言えるのではないでしょうか。

さそり座と夜空のメゴイナボシ

 牛深港10:40発の蔵之元港行きフェリーは、定刻通り静かに岸壁を離れました。短い時間ではあったものの、忙しなく 走り回った天草を去ることに幾許かの心残りを感じたのも事実です。一つは、予定していた漁港の五分の一程度しか立ち寄る ことができなかったこと、どの島もほんの一部しか足跡を残せなかったのは残念です。しかし、思えばたくさんの伝承者たち との出会いがありました。島の暮らしと自然、食文化、信仰と習俗の一端にふれることができたことは、いろいろな意味で 恵まれた調査であったと感謝です。

[2020年初稿]


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ネノホシが動く 【大分県国東・宇佐地方】

 夜空をめぐる星々は、天の北極を中心に日周運動を繰り返しています。そして、現在北天の中心付近に輝く星がこぐま 座のポラリス(北極星)です。天の北極、つまり地球の自転軸は約 26000年という周期で星空を移動していて、歳差と 呼ばれます。したがって、時代を遡れば北極星の役割を担うべき星も、変化を遂げてきました。2100〜2110年頃になる と天の北極はポラリスに最も近くなるため、北極星が不動の星としてより相応しい状況を迎えることになります。
 このように、20世紀以降の北極星といえば、一般に動かない星として捉えられてきた側面があります。2000年時点の両 者のみかけの距離は1°以下ですから、実際の夜空においては肉眼で僅かな星の動きを見分けることはほぼ不可能でしょ う。ところが、民間伝承の分野では、北極星が少しだけ動くと伝えている地域が少なからずあるのです。これまでの報告 では、三重県から大阪府、瀬戸内海沿岸地方で記録されています〔『日本の星名事典』文0310〕。いずれも、船乗りかそ の妻が動きを確認したことになっていますが、どれ位動くかは伝承によりまちまちです。
 天の北極とポラリスの見かけ上の距離は、時代が古くなるほど大きくなり、2000年を基準とした場合は、1800年で約 2.4倍、1600年で約 3.8倍、1400年では約 5.4倍にも離れてしまいます。北極星が動くという事象は、おそらく過去の いずれかの時代に気付かれ、それを船乗りが伝えるという形で語り継がれてきたのかもしれません。

〈左〉北極星の日周運動 / 〈右〉カシオペア座のイツツボシ

 こうした伝承が、瀬戸内からさらに西の九州にも存在することが分かったのは、2016年に行った大分県北部の調査でし た。深まりゆく秋の国東半島をめぐり、さらに福岡県南東部の沿岸域にかけて漁港を訪ね歩いたときです。とはいえ、大 分県を訪れたのはこれが最初ではなく、1975年に国東の三浦梅園旧宅を見学しています。梅園(1723〜1789)は安岐町の 生まれで、条理学と呼ばれる哲学体系を確立したことで知られる自然派の哲学者です。代々の医家であり、見学当時は梅 園から六代目にあたる主の未亡人が旧宅を管理していました。訪ねた目的は、梅園が30歳のときに製作したといわれる天 球儀で、その下図とみられる北天および南天の星図も拝見したのを覚えています。
「晴れた晩などは、よくこの庭へ出て星を観測していたそうですよ」
という話を聞き、宇宙へのあくなき探求心をもった人物が、近世の国東で生きていた事実を改めて噛みしめる旅となった のでした。ただ一つ残念なのは、当時はまだ天文民俗の本格的な調査を行っておらず、星の伝承に関する記録を得られな かったことに悔いが残ります。
 それから40年余りを経て、再び国東の地へ足を踏み入れたのは、どこかで三浦梅園の導きがあったのかもしれません。 まず訪ねたのは国東市の武蔵港で、すぐに出会った70代の漁師から話を聞くことができました。現在行われている漁はマ ダイのゴチ網漁、タチウオ漁、タコツボ漁、コウイカの籠漁などで、かつては底曳網漁がさかんだったようです。伝承さ れていた星は、ミツボシ(オリオン座)、ナナツボシ(北斗七星)、イツツボシ(カシオペア座)などで、特に漁の目あ てとした星はなかったといいます。
 その後、同じ国東市の三つの漁港をまわり、4人の漁師から聞き取りを行いました。国東漁港では、82歳(1934年生 まれ)の漁師から「昔は沖に出て、夜帰るときにナナツボシを見て北の方角を確かめた」と聞き、富来漁港でも北斗七星 の動きで時間をみていたことが分かりました。ここではプレアデス星団をスマルと呼び、竹田津漁港のヒシャクボシ(北 斗七星)やアケノホシ(金星)などとともに、国東市における星名体系の一部を構成しています。
 風位の呼称は、いずれの漁港もほぼ同じですが、富来では興味深い話を聞きました。一つは、通常吹くキタ(風)とは 別にジリギタという別称があり、これは8月下旬から9月中旬頃にかけて吹く北風のことで、これが吹くと雨になると 伝えられています。もう一つはヤマジと呼ばれる南西の風です。もとは地からくる風であり、これが次第に西へ移るとフ ッカエシ(吹き返し)といって猛烈な西風となって吹くことがありました。その様子を、昔の人は「尻の毛もなくなる」 と表現していたというのです。船も装備も整っていない時代には、余程おそろしい風であったに違いありません。
 国東の各漁港では、ヤマタテもさかんに行われてきました。国東漁港の場合は、ヂヤマを基準として南に約10`離れた ヨコヤマとの見かけ上の間隔によって港からどれ位離れているかを予測し、さらにヂヤマと手前の目標物を合わせること によって海上における漁場の位置を記憶していたようです。ヂヤマというのは、半島のほぼ中央に聳える両子山(約 721 b)のことで、漁師にとっては大切なランドマークとなっています。また、ヨコヤマは杵築市にある横岳(約 390b)の ことと考えられます。
 半島東岸における伝統的な漁は、タイのゴチ網漁とタコツボ漁とされ、どの漁港にも多くのツボが山積みされていまし た。特に、富来漁港では3種類のツボが使われ、他地域では見られない光景です。ゴチ網漁も含めて、漁場の認識にはヤ マタテが重要な役割を担っていたことでしょう。一部では、星の利用が行われていたかもしれません。

〈左〉古いタコツボ / 〈右〉タコの天日干し

 翌日は、半島を離れて宇佐から中津にかけての漁港をまわりました。駅館川の河口にある長洲漁港を早朝に訪ねると、 久しぶりに活気に満ちた光景を目のあたりにし、これから始まる新しい一日に向けて清々しい気分を感じたほどです。こ の時間帯は海の様子を見に来る漁師がいて、そうした出会いを期待しての調査でしたが、果たして自転車でやって来た76 歳(1940年生まれ)の漁師から詳しい聞き取りを行うことができました。
 長洲の漁業は、底曳網漁を主体にクルマエビ漁やワタリガニ漁、イカ釣り漁などで構成されており、かつては70隻の底 曳網船があって、現在も50隻ほどが操業しているそうです。伝承された星は、ネノホシ(北極星)、ミツボシ、ナナツボ シ、ヒシャクボシなどで、このうちネノホシは漁の際に目あてとしていた星でした。さらにこの漁師は、ネノホシについ て少しだけ動くという話があるといって、次のように説明してくれたのです。
「むかし、ある漁師の嫁さんが、ネノホシは一晩に格子戸の格子一つ分(約1寸5分)だけ動くのを見つけてな、それを 夫に教えてやったそうだ。それからは、漁師がネノホシを注意して見るようになったというよ」
 この説話がいつ頃、どこから伝わったものか、詳しいことは分かりません。ただ、他地域で事例が多い船乗りとその 妻という設定が、漁師とその嫁さんに変化している点は興味深いものがあります。同漁港で、もう一人話を聞かせてくれ た70代の漁師もネノホシの星名を伝えていましたが、この星が動くという伝承は知りませんでした。代わりに、月をめぐ る伝承を二つほど紹介しておきます。
・出月八合、中天湊にゃ潮目がない
 * 月の出には潮が八合ほど満ち、高く上がると引き潮になり、西へ沈む頃に再び満ちてくるという意味。
・旧暦の15日に上がる月は少しだけ欠けているが、西へ入る時は満月となる。そして翌16日は満月のまま上がり、西へ入 る頃はまた少しだけ欠けている
 かつては、潮目を精確に読み取ることが必然であった漁師にとって、月の位置や月齢の変化は重要な情報源でした。こ のような伝承は全国各地にありますが、後者のように月齢の微細な変化を捉えた事例はめずらしいといえるでしょう。
 長洲の漁師は、フナダマサマについても教えてくれました。それは木造船の時代、新しく船を造った際に船大工の棟梁 がノト(祝詞)をあげ、船霊様を祀っていたというものです。具体的には、高さ約20aの小さな屋根付き小祠を作り、そ の中に一文銭の代用として10枚余の5円玉と船大工が自作したサイコロ(2個1組)を収めて蓋をし、船の芯となる重要 な部分に取り付けられました。ここで注目されるのは、ナンテンの木で作られる2個のサイコロです。
 実は、船に収めるときの置き方について、昔から伝わる言い回しが知られています。それは「天一地六表三艫四面舵二 取舵五」といい、船上におけるそれぞれの方角に対して賽の目を合わせる必要があったのです。そこで、横並びの2個の サイコロを作る場合は、五と二の目を背中合わせとし、一が天面、六は底面となり、表(舳先)方向に三を並べ、艫の方 向に四を並べることになります。こうしたサイコロの収め方は多少の違いはあれ各地に伝わっていますが、残念ながら長 洲の漁師は目の合わせ方を忘れていて、とうとう思い出すことができませんでした。

〈左〉長洲の漁港 / 〈右〉水揚げされたワタリガニ類

 大分に伝わるネノホシの物語は、いつの時代か瀬戸内方面から伝播したのではないかと考えられます。登場人物の船乗り が漁師へと変化したのは、漁労に関係する人びとの間で語り継がれてきたからでしょうか。わずかな手掛かりだけでは、そ の真相は分かりません。しかし、国東には三浦梅園がいました。半島の山里で星空を仰ぐ機会が多かった自然哲学者であれ ば、おそらく北極星(当時は中国の星座で勾陳大星)が不動ではないことに気付いていたことでしょう。あるいは、天文の 知識を得て、実際にその動きを観測していた可能性もあります。
 それは、ネノホシの伝承とは異なる世界であるものの、国東と宇佐の地で一つの星をめぐる認識が共有されていたかもし れないという思いは、今回の調査をとおして俄かに高まってきたのでした。

[2021年初稿]


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天空に臨む漁師町 【大阪府沿岸地方】

 大阪の市街から和歌山県境にかけての沿岸域には、いくつもの漁港が点在しています。近世からの埋め立てによって、 北部を中心とした沿岸域の景観は大きな変貌を遂げてきましたが、なかでも1994年の関西国際空港の開港は、大きな転換 期の一つです。海上に浮かぶ空港と沿岸を結んでいるのは空港連絡橋で、JR関西空港線と南海電鉄の空港線、それに有 料自動車道路が通じています。
 空港の整備と並行して、周辺沿岸域の埋め立てや開発も進行し、連絡橋の袂にはりんくうタウンと呼ばれる新しい街が 誕生しました。りんくうは臨空で、文字通り世界の空へつながる玄関口に当たるわけです。ひときわ目を惹くsisりん くうタワーは、地上56階の超高層ビルで、このエリアを象徴するランドマークとなっています。

りんくうタワーと空港連絡橋

 街のすぐ北東側には、関西マリーナをはさんで泉佐野漁港があります。大阪府の第1号調査地として、初めてここを訪 れたのは2014年の師走でした。前日は、三重県の漁港で聞き取りを行い、残りの調査が大阪湾南部の漁港をめぐり歩く旅 だったのです。
 りんくうタウン駅で下車し、殺風景な街並みを抜けると、マリーナの先に整備された大きな漁港が現れました。しかし、 この日は生憎の休漁日で、港内は閑散としています。岸壁には底曳網漁船がずらりと居並び、今でも漁業の盛んな町であ ることが分かります。暫く漁師の姿を探しましたが、なかなか見つかりません。先の予定があるので、そろそろ引きあげ ようかと思案していたところ、ようやく70代の漁師と出会い、少し話を聞くことができました。昔は、星を頼りに洲本( 淡路島)方面へ漁に出ていたようですが、具体的な星の説明はなく、記憶にあったのはミツボシとアケノミョウジョウだ けでした。いよいよ、次の漁港へ向かわねばなりません。泉佐野には、星の伝承を語る漁師が必ずいると信じ、近いうち に再訪することを決めて漁港をあとにしました。
 泉佐野駅を目ざして大通りを横断すると、古い町並みが広がっています。この辺りが、かつての海岸線だったようです。 細い路地は漁師町の面影を残し、近代的な街と隣り合わせに町屋の暮らしが継続しているのです。少し歩くうちに、70代 の女性と行き会いました。昔の様子を聞いてみると、埋め立て以前は路地を抜けたところがもう海で、船は浜にあげてい ました。その頃の漁師は早朝に漁へ出かけ、午後3時か4時頃には帰港して、すぐに競りが行われていたそうです。
 話題が十五夜に移ると、この女性は興味深い習俗について教えてくれました。供えものは、ススキ3本とハギの花を一 升びんにさし、メリケン粉で作った団子に黄粉をまぶしたもの15個と、胡麻をふった小さなおにぎり15個をそれぞれ皿に 盛って、台の上に並べます。十五夜といえば白い団子が定番ですが、ここでは2種類の作りものが主役だったのです。 他にサツマイモやカキ、クリなども供え、かつては子どもたちがそれらを盗りに行く慣習がありました。なお、ススキを さした一升びんの水は、お呪いになるといって大切にとっておき、もし火傷などしたら、その水をつければ治るといわれ ています。
 近くに、ふるさと町屋館という施設があると聞いて立ち寄ってみましたが、ゆっくり見学している時間がなく、資料だ け受け取って駅へ急ぎました。次に目指したのは、和歌山県境に近い岬町の谷川港で、南海多奈川線の終着駅である多奈 川からバスを乗り継いで到着しました。事前の情報収集では、谷川港に船が多いことを把握していたものの、実際に現地 を訪ねてみると、ほとんどが釣り船などの遊漁船で、本来の漁船は少ないことが分かりました。当然のことながら漁師の 姿はなく、聞き取りもできませんでした。全くの期待外れだったわけですが、このような経験はどこの調査地でも多かれ 少なかれ必ずあるもので、21世紀という時代背景を考えれば、古き佳き星の伝承者とめぐり会うこと自体が奇跡なのかも しれません。

〈左〉泉佐野漁港 / 〈右〉谷川の町屋

 谷川からは、淡輪駅行のバスで淡輪漁港へ向かいました。ここは、底曳網漁船やシラス網の漁船が多くあり、今でも漁 の盛んなところです。しかし、ぐずついた天候と日曜日の昼下がりという状況では、地元の古い漁師と出会える機会はほ とんどありません。それでも若い漁師に声をかけたら、天気がよければ年配者が集まって来ると聞いて、再調査の必要性 を感じました。
 その後、阪南市の下荘漁港で香川県出身の漁師(60代)から、ナナツボシ(北斗七星)の動きで時間を見ていたことや 月齢の変化に注意して漁をしたことなどを聞きましたが、伝統的な星の伝承については、やはり記録することができませ んでした。こうして、大阪湾南部の漁港調査は、ほとんど収穫がないまま終了することになってしまったのです。
 大阪湾の漁労と暮らしを支えた星の存在を何とか記録にのこせないものか、その思いは次第に募るばかりでした。しか し、西日本の未調査県が解消されない状況では、同じ地域で新たな調査を計画する余裕はなく、周辺域の調査に1日組み 込むかたちでリベンジを試みることにしました。
 そこで早速、翌2015年春の三重・京都・奈良3府県の調査最終日に、最も気掛かりであった泉佐野漁港を再訪すること にしたのです。このときも、懐かしいりんくうタウン駅から前回と同じ道を辿って行きました。ただし、今回は漁が行わ れる平日の、しかも朝7時台という絶好の条件がそろっています。3月中旬という春を迎えた穏やかな日に、期待は膨ら みます。
 漁港に着くと、船の動きがあって人影も多く、全体が活気づいている様子です。すぐに、歓談していた二人の漁師から 話を聞くことになりました。一人は、83歳(1932年生まれ)の元漁師で、期待通りのすばらしい星の伝承者だったのです。 この人が、親や漁師仲間から伝え聞いて利用していた星は、スバル(プレアデス星団)、スバルノアトボシ(おうし座ア ルデバラン)、カラスマ(三つ星)、ジョウトウヘイ(三つ星)、カラスマノアトボシ(おおいぬ座のシリウス)、ガニ メ(ふたご座α、β)、ヨアケノオオボシ(金星)で、いずれも泉佐野を代表する星名体系となっています。カラスマは、 カラスキあるいはカラツキの転訛形と考えられ、本来は三つ星と小三つ星を合わせた形かもしれません。ガニメというの は、文字通りふたご座の二星を蟹の眼にたとえた呼称です。この星が西へ傾いたら、ヒチサン(7:3)の方角に見て船 を走らせると神戸方面へ行くことができるというので、方角を定めるために利用されていたようです。

〈左〉ふたご座の二星 / 〈右〉突出した蟹の眼

 また、スバルやカラスマの出には風が吹くという伝承もありました。その風については、9月から11月にかけて吹く北 の風をカミカゼと呼び、12月から翌年3月にかけて吹く風はニシ(西の風)やイワヤニシ(北西の風)と称しています。 南の風はマゼあるいはヤマゼで、漁師らの間では「ヤマゼ返しのニシがこわい」という言い伝えがあります。これは、南 の風が西風に変わると海が荒れるという意味で、昔から注意しなければならない日和見の一つとして語り継がれてきたも のでしょう。もう一つ、ジョウトウヘイという星名は、オリオン座の三つ星に由来する呼称ですが、背中に三つの紋をも ったジャノメガザミという蟹も同じジョウトウヘイの名で呼ばれています。
 礼を述べて先へ進むと、80代の元漁師がいて少し話をしましたが、伝承等はほとんどありません。さらに先へ行き、細 長い岸壁の反対側まで来ると、漁からもどって帰宅するという80代の漁師と出会いました。ここは泉佐野漁港と隣り合わ せの北中通漁港です。この人も星の伝承者で、ミツボシ、ガニメ、フタツメ(ふたご座α、β)、ナナツボシ(北斗七星) 、ヨアケノオオボシなどを利用していました。特にナナツボシは、マオキ(神戸方面)へ向かって船を走らせる際に、こ の星を横(右手)に見て方向を定めていたようです。なお、北中通漁港では底曳網漁船は少なく、イカナゴ漁が主体とな っています。
 再調査では、大阪湾南部沿岸域に伝わる伝統的な星名伝承の一端にようやくふれることができました。70年以上も前か ら数十回にわたって整備が繰り返されてきたといわれる漁港は、関西空港の建設とともにより近代的な漁港へと生まれ変 わりました。そこには、星とともに生きた漁師がまだ健在であったのです。おそらく、人が空を飛ぶ以前の時代から、天 空を仰ぐ漁師がいたことでしょう。太陽や月の動き、星の出や入り、雲の動きや潮流の変化など、常に海と天空を注視し てきた人びとの集団が、日本の漁村の原風景を形成してきたことに思いを馳せる一日でした。

[2021年初稿]


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ゲンシキ網とヨコジキ 【長崎県平戸・島原地方】

 日本の星名には、漁具に由来する事例が少なくありません。そのひとつに、九州地方でヨコゼキあるいはヨコジキなど と称される星があります。正体は漁網の一種ですが、その詳細な情報が寄せられたのは、長崎県諫早市からでした。こう した事情は、『日本星名辞典』〔文0168〕に詳しく記されており、有明海で使用されたという漁網に強い関心を抱くよう になったのです。その後、諫早から石橋正氏に報じられた手紙に接する機会があり、それまで不明であった事柄が、いく つか明らかとなりました。
 まず、漁網の形態は流し網と呼ばれるタイプのもので、
・調査地の島原地方では、エビ漁に使われていたこと
・構造としては、多くの網を横に長く連ね、潮の干満によって沖へ流されたり、岸辺に寄るという動きをすること
・島原地方における三つ星の呼称として、横ゼキさんが伝承されていること
などです。有明海では、干満の差が大きいことがよく知られていますが、その潮流を利用した漁法というわけです。
 島原のヨコゼキサンと同じような伝承が、県内の他の地域にもあるのかどうか、それを初めて確認できたのは2014年に 北九州をめぐった調査でした。佐賀県の日本海沿岸に点在する漁港を訪ねたあと、長崎県平戸市の生月島へ向かいました。 平戸大橋を渡って平戸島にへ入り、さらに進んで生月大橋を過ぎると、すぐに舘浦漁港があります。駐車場に車を置いて 岸壁まで歩く途中、75歳(1938年生まれ)の漁師と行き会いました。
 舘浦では、昔からマキ網漁やオオシキ網(大型の定置網)漁がさかんで、鯨の漁も江戸時代から明治の初め頃まで続 いていたそうです。近くの神社には、大正時代の鯨骨の一部が遺っていると聞きました。また、9月から10月にかけては トビウオ漁の季節で、これらを追ってやって来るシイラの漁期でもあります。この漁師が伝承していた星は、ミツボシ、 スバル(プレアデス星団)、ナナツボシ(北斗七星)などで、星名としては一般的です。ただし、スバルの利用に関して、 たいへん興味深い伝承を記録することができました。出漁の際、舘浦の漁港を出た漁船は、生月大橋をくぐって漁場へと 向かうそうですが、帰港時は当然ながら逆方向から大橋を目指すことになります。そのとき、スバルの位置と傾きから大 橋のある方角を見定めていたというのです。この傾きというのは、20番星を先頭とする星の並びが、ちょうど矢印のよう になって目的地の方向を指し示してくれるとのことです。具体的な季節や時間は不明ですが、このような星の見方は、や はり長い間に培われた経験によって生み出されたものでしょう。

舘浦漁港におけるプレアデス星団の利用事例
※ スバルの向きで生月橋を見定め、船を走らせた

 舘浦の次は、生月漁港を訪ねました。車を降りてすぐに、犬と散歩中の70代の漁師に声をかけると、通りがかった90歳 (1924年生まれ)の元漁師も加わり、充実した聞きとり調査が実現しました。伝承された星は、スバル、ヨコジキ、ジョ ウトウヘイ(三つ星)などで、手漕ぎ船の時代にはヨアケノミョウジョウが出ると早々に漁を終えて帰港したといいます。 ここで、いよいよヨコジキなる星が登場してきました。説明によると、この星はスバルのあとから出て、√(ルート記号) のような形をしているようです。おもしろい譬えですが、どうやらオリオン座の三つ星と小三つ星を合わせた見方と思わ れます。残念ながら、ヨコジキの意味については不明で、伝承されていません。しかし、総合的に判断してヨコゼキに連 なる星名のひとつとみてよいでしょう。佐賀県でも、呼子でヨコジキを記録していましたので、ほぼ間違いないものと思 われます。これらは、ヨコゼキの星名が有明海のみならず、日本海沿岸の漁師にも広く伝播していることを示しており、 漁網とのかかわりが気になります。
 元漁師は、生月島のイカ漁についても話をしてくれました。スルメイカは、地元でマツイカあるいはガンゼキと呼ばれ、 秋から冬にかけてが漁期です。また、ケンサキイカは旧盆前後が最盛期となり、いずれもスットコ(擬餌鉤)やサヤ(餌 を付けたイカ鉤)などを使った手釣り(一本釣り)が基本でした。
 さらに、生月の鯨漁は1725(享保10)年頃が始まりといわれています。それは、白山神社に奉納された鳥居が捕鯨の 祖といわれる益冨家の第4代当主によって1797(寛政9)年に建立された事実からも推察できるようです。その後、明治 以降は諸外国による捕鯨の影響を受け、日本では大きな転換期を迎えます。なお、益冨家の姓は平戸の殿様から賜ったと され、元は屋号を畳屋と称して文字通り畳業などを営んでいたようです。その頃漁獲されていた鯨は、ナガスクジラや セミクジラなどでした。
 結局、ヨコジキという星名は記録できたものの、その原意である漁網に関する手掛かりは全く得ることなく調査が終了 してしまいました。こうなれば、原点に立ち返って有明海沿岸を調べるほかに手立てはなさそうです。有力な情報源とし ては島原の事例がありますが、この記録は1954年以前と古く、さらに諫早湾は国の干拓事業により漁業者の大切な漁場が 失われています。そこで、佐賀県の太良町沿岸から長崎県の島原沿岸域などをめぐることにしました。

〈左〉生月島の星ヨコジキ / 〈右〉潮が引いた有明海の漁港

 二度目の調査は2018年初夏に行われ、まず大村湾の漁港で聞きとりをしたところ、有明海ではエビ漁のための漁網があ り、流し網の一種でゲンシキ網と呼ばれていることが分かりました。ヨコゼキについての手掛かりはありません。その後、 佐賀県太良町でゲンシキ網の情報を得たあと、島原市での調査に臨んだのです。
 諫早から島原鉄道に乗車すると、1時間足らずで島鉄湯江駅に到着します。無人の駅舎には、有明がね(ガザミという 蟹)や有明のりを描いた大きな看板が掲げられており、漁師町らしい雰囲気に溢れています。漁港までは10分足らずの道 のりで、運よく86歳(1932年生まれ)の現役漁師に出会うことができました。有明海での長い漁業経験があり、昔はゲン シキ網を使ってエビを獲っていたようです。それは夜間の漁で、夜中は海面近くに浮上していたエビが、東の空が白み始 めると再び深い場所へ移動していきます。このとき、漁師らは東天を注視し、ヨアケボシ(金星)が上ると網を流す深さ を変えていました。湯江では、ゲンシキ網漁において金星が利用されていたわけです。
 当地で使われたゲンシキ網は、幅4尋(約6b)、高さ1〜2尋の方形網(底部は袋状)を基本単位として、これを50 枚(約 300b)から70枚(約 420b)連結した構造となっています。これは、もし海中で網が何かに引っかかった場合も、 その部分だけを取り外して残りをつなげれば再び漁が可能となり、余分な手間をかけずに済むという利点があります。 総じて、有明海のゲンシキ網は、島原のヨコゼキとほとんど同じ漁網と考えられます。そのひとつの手掛かりとして、佐 賀県太良町竹崎におけるガザミ漁の流し網があります〔『有明海の漁労と習俗』1962〕。これは、ゲンシキ網と同じで潮 流に対して直角に網を入れて流すカニ網で、地元では「ヨコカシ」と呼んでいました。また、潮流と並行に網を入れて碇 どめにする漁法は「タテカシ」と呼ばれます。つまり、潮流の方向と漁網の向きが直交する状態を「ヨコ(横)」と表現 していたことが分かります。
 有明海では、オリオン座の三つ星をゲンゼキと呼ぶ報告〔文0168〕があり、明らかにゲンシキ網を原意とする星名と考 えられます。元来、ヨコゼキもゲンゼキも同じ星を指したもので、いずれも漁網の呼称からきていることは間違いありま せん。有明海の水産に関する資料のなかには、ゲンシキ網を「源式(げんじきと読む)」と表記している事例がみられま す。すると、ヨコゼキは「横式」の網という意味でヨコジキと読み、それがヨコゼキに転訛したものと推測されます。
 今回の調査により、ヨコゼキに関する情報や星名は記録できなかったものの、ゲンシキ網にまつわる情報などから、漁 網と星名の関係を少し掘り下げて解釈できるようになりました。ただし、ヨコジキ系の星名だけが有明海から外海の漁師 へと伝播したのはなぜなのか、この点はまだ十分に解明されていません。一般的な流し網は、各地の漁場で利用されてお り、その代名詞的な呼称のひとつとしてヨコゼキが九州地方に広く伝播した可能性もあります。一方のゲンシキ網は、有 明海のエビ漁に限定された呼称であったのかもしれません。なお、愛知県などには同じエビ漁で使う漁網としてゲンシキ 網の存在が知られていますので、その関連性が気になるところです。

〈左〉島鉄湯江駅の駅舎 / 〈右〉ゲンシキ網の一部

[2021年初稿]


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牟岐の海から祖谷口へ 【徳島県沿岸・内陸地方】

 高知県の室戸岬から徳島県阿南市の蒲生田岬一帯にかけての海岸線は、室戸阿南海岸国定公園に指定された景勝地で す。特に美波町、牟岐町、海陽町にかけての沿岸は太平洋に面し、背後には四国山脈東部の剣山地が控えています。沿 岸の多くは岩礁帯で、小さな入江や河口付近には漁港が拓け、さまざまな漁業が展開されてきました。
 兵庫県の明石から、淡路島経由で鳴門の地を踏んだのは、2016年の春分頃です。鳴門では、漁師からの聞きとりが できず、市内の妙見神社に立ち寄ったところ、参道入り口で出会った72歳(1944年生まれ)の男性から興味深い話を聞 きました。それは、かつての小正月行事の折、柳の枝に紅白の団子状になった小餅を飾り付け、神棚の下などに供えて いたそうですが、この小餅をホシモチと呼んでいたのです。大きさは直径1〜2aで、枝の先端やまわりにたくさん付 けた様子は、京都のモチバナに似ているといいます。小餅といえば、正月の供え餅の上にも載せる地域があり、やはり ホシモチなる呼称が西日本で知られています。
 当地の妙見神社は、妙見山公園(撫養城址)と呼ばれる高台にあり、天御中主神を祀っています。境内には1865(慶 応1)年に寄進された常夜燈があり、「江戸廻舩中」によって造立されたものです。各地の廻船問屋は、北前船に代表 される廻船業と深いかかわりがあり、船乗りが指標とした北極星、つまり北辰妙見を信仰していたことがよく分かりま す。

〈左〉妙見山公園(神社入口)/〈右〉境内の常夜燈

 鳴門をあとにして、小松島漁港や由岐漁港、日和佐漁港を訪ねたものの、星の伝承はミツボシやナナツボシなど一般 的な星名ばかりでした。小松島では、かつて艪船に帆を張って網を曳くテグリ網漁が主流でしたが、次第に底曳網漁へ と移行しました。タチウオやハモ、シリヤケイカ、クルマエビ、カニ類など、さまざまなものが漁獲されています。由 岐漁港で話を聞いた70代の漁師は、テングサの処理をしていましたが、日和佐では現在沖へ出る漁師がほとんどいない ということです。ここは、船溜りから日和佐城を望める雰囲気のよい漁港で、港内はレジャーボートばかりが目立ち、 かつての賑わいは全くみられません。
 JR牟岐線でさらに南下し、浅川駅で下車すると、辺りにはヒサカキの独特な香りが満ちていました。駅舎を出ると、 大通りから分かれて細い下り道が漁港へと続いていました。ここでは、農家の出身でサラリーマンから漁師に転身した という戦後(1946年)生まれの人から聞きとりができました。昔はカツオ漁がさかんだったようで、その餌となるイワ シを獲るのはオオシキ網(定置網)漁でした。現在は、小型の定置網のほか、季節によってワタリガニ(ガザミ)漁、 シャクリ(一本釣り)によるイカ漁、テングサやヒジキなどの海藻とりから潜り漁、そしてハマチやノリなどの養殖に 至るまで、実に多彩な漁業が展開されています。
 念のために星の伝承を尋ねると、スバルやミツボシ、ナナツボシの星名とともに、かつてアケノミョウジョウやヨイ ノミョウジョウを一定の方角に目標として捉え、操船していたことを教えてくれたのです。漁港のすぐ沖合にある大島 は、日和見の際に重要な存在であり、この島の上空にかかる雲をいつも注視していたそうです。
 浅川から阿南方面に少し戻ると、牟岐川の河口に二つの漁港があります。右岸の町役場に隣接するのは西漁港で、そ の奥まった場所にある作業小屋を覘くと、一人の漁師が漁の準備をしていました。注意深く声をかけると、75歳(1941 年生まれ)のその人は、手を動かしながらもいろいろと教えてくれたのです。牟岐では特徴ある星名が伝承されており、 スマル(プレアデス星団)をコボシとも称しています。また、北極星はオオボシと呼び、昔はこの星を目あてにしてい たようです。オオボシ[大星]といえば、金星やおおいぬ座のシリウスをさすのが一般的ですが、2等級の北極星であ っても、決して誇張された表現ではないように思われます。ただし、対岸の東漁港で話を聞いた82歳(1934年生まれ) の漁師は、北極星をネノホシ、金星をオオボシと認識していましたので、こちらのほうが伝統的な星名体系なのかもし れません。東漁港の漁師は、細かい風向きが把握できないと天気をよむことができないといい、キタ(北)、キタゴチ (北東)、コチ(東)、イナサゴチ(東南東)、イナサ(南東)、タマカゼ(南南東)、マゼ(南)、ニシマ(南南西)、 ニシ(西)という詳細な風位名を伝えていました。

〈左〉日和佐城と漁港 /〈右〉コボシのプレアデス星団

 さて、徳島県の剣山地といえば、名峰剣山があります。その水源地のひとつが祖谷川で、流域一帯は祖谷地方として 上流から下流域まで集落が散在しています。そうした山の暮らしに心惹かれ、何とか谷の奥深く調査に入りたいと考え ていましたが、なかなか実現しません。そこで、とりあえず祖谷口と呼ばれる吉野川との合流点付近で聞きとり調査を 行うことにしました。
 それは、沿岸域の調査から2年後の2018年春分の頃、香川県から徳島県、高知県をめぐる調査の3日目のことです。 早朝に、徳島からJR徳島線で阿波池田まで行き、そこからバスに乗り換えて祖谷口で降りました。吉野川の両岸には 山が迫り、その右岸沿いに国道とJR土讃線がのびています。祖谷口駅のすぐ下流には古い橋(大川橋)があり、地元 では賃取り橋と呼ばれていました。祖谷口駅開設の要件として地元で橋を架けることになり、対岸の池田町川崎に住む 林業家が私財を投じて1935年に完成したもので、通行料をとっていたことに由来しています。老朽化によって今は通行 できませんが、上流側の祖谷口橋が現在の交通の要です。
 調査はまず、右岸の山城町下川地区から開始し、とりあえず少し高い場所にある伊邪那岐神社に行ってみました。境 内では桜の蕾がほころび、鳥居の近くからは、谷と対岸の斜面に散在するいくつかの集落を遠望することができます。 そこから地区内を歩きまわり、いずれも70代の男性二人と女性一人から、かつての暮らしぶりについて話を聞きました。 生業は葉タバコの生産が主体であったようで、当時は唯一の現金収入源だったといいます。畑地では、麦とサツマイモ の二毛作、谷間のわずかな水田では稲作が行われてきました。また、養蚕や冬期の炭焼きなども重要な生業でした。そ の頃の主食は麦飯とサツマイモで、米飯を味わえるのは盆と正月ぐらいしかなかったそうです。茅がとれないので、 住宅も麦藁屋根が主流であり、5〜6年で補修が必要な状況でした。

〈左〉山上の集落 / 〈右〉祖谷川を望む

 やがて、線路に近い一軒の農家で、かつての生活用具や農具などをみせてもらいました。かつては、農耕用に牛を飼 い、スキやウマグワで水田の荒起しや代掻き、畑の耕耘などを行っていましたが、牛を使えない小さな畑では、人力の 鍬が必要になります。これをアトビキと称しています。柄の長さは 140a余りで、二股の刃が付いています。もう一つ 興味をそそられたのは、オイコと呼ばれる運搬具です。高さ約 120a、幅は約25aで樫の木が使われ、下部に長さ約23 aの爪をもったタイプの背負い梯子となっています。主に稲束などの運搬用として、60年間使われてきました。西日本 の背負い運搬具には、「オイ系」の呼称が多くみられますが、地域によって背負い籠であったり、背負い梯子(無爪、 有爪)であったり、あるいはそれらの合体形など形態はさまざまです。
 下川から祖谷川の谷を望むと、右手に川崎地区の山、左手に大川地区の山が居並んでいます。昔からの気象予知とし て、谷から霧が出てくると天気がよくなり、反対に祖谷川谷へ霧が入っていくと天気がくずれるといわれますが、別な 人は、国見山にかかった霧が祖谷川を下って左方向(大川地区)に抜けると晴れで、右方向(川崎地区)へ抜けた場合 は雨になると伝えていました。こうした伝承は、地形の見え方によって内容が微妙に変化しているのかもしれません。
 祖谷口では、伝統的な星の伝承をほとんど記録できませんでした。それでも、途中下車とはいえ四国山地の暮らしの 一端にふれることで、新たな調査への意欲が湧いてきたのです。いつかは祖谷川の深い谷を遡り、埋もれた星の伝承に 耳を傾けたいものです。

〈左〉鍬の一種アトビキ / 〈右〉有爪タイプのオイコ

[2021年初稿]


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忘れられた方位石 【岡山県沿岸地方】

 西日本での調査は、九州などを別にして普通列車を乗り継いで行くのがほとんどです。JR東日本、東海、西日本と 多様な列車に乗車できるのが楽しみのひとつで、特にJR東海の豊橋〜大垣間とJR西日本の米原〜姫路間は、いずれ も新快速電車で比較的遠距離をスムーズに移動できる手段として重宝しました。都内で早朝の東海道線に乗り換えれば、 夕方早く姫路へ到着することも可能ですが、東海地方や滋賀県辺りで途中下車し、短い時間で調査を行うのがいつもの パターンとなっています。
 とはいうものの、姫路より先の岡山方面への鉄道は、急に不便さを増します。相生駅からは、内陸部を走る山陽本線 と途中まで海沿いを進む赤穂線に分岐しますが、どちらも時間がかかるからです。ただし、赤穂以西にある岡山県沿岸 域の漁港を訪ねるには、赤穂線に乗り最寄りの駅から徒歩あるいはバスを利用することになります。このうち、備前市 の日生[ひなせ]漁港は、日生駅の近くで歩いて行けるためか何となく心惹かれる土地で、これまでに三度足を運びま した。
 1回目の訪問は2014年の春で、岡山県の調査第1号となり、大きな期待をもって駅から歩き始めたことを覚えていま す。駅前の岸壁には、大きな連絡船が停泊しており、小豆島行のフェリーです。それを見送って、小さな切り通しの道 を越えると、海が開け日生の漁港へ到着します。入口付近は小さな船溜りですが、係留された船はさらに先へと続いて いて、対岸にも大きな船溜りが見えます。
 橋を渡って西側の道を進むと、船上に60代の漁師がおり、少し話をしましたが星のことは分からない様子でした。一 旦入口までもどり、今度は東側の岸壁を歩くものの、話を聞かせてくれそうな漁師の姿は全く見あたりません。時間だ けが空しく過ぎていきます。今回は縁がなかったと諦めて駅へもどる途中、自転車で通りがかった80代の元漁師から、 少しだけ聞きとりができました。伝承された星名はナナツボシ(北斗七星)とアカツキノミョウジョウ(金星)だけで したが、昔は星や月を目あてに漁をしていたということで、ほかにも利用した星があったに違いありません。多少なり とも希望がもてる話を聞けたので、再訪を誓って次の調査地へと向かったのです。

〈左〉日生の漁港 / 〈右〉瀬戸内市牛窓のつぼ網漁

 2回目は、岡山県から広島県、愛媛県をめぐった2016年夏のことです。東京発の季節夜行列車ムーンライトながらで 大垣まで行き、そこからいつものパターンで乗り継ぎ、日生駅には11時前に着きました。早速、漁港へ向かうと、2年 ぶりの景観はあのときと変わりません。今回は人の姿が多いようでが、年配の漁師はどこにいるのでしょうか。前回と 同じように、まず西側の岸壁に沿って歩いて行くと、小さな船にいた男性から話を聞くことができました。この人は、 日生の沖合にある頭島出身の80歳(1936年生まれ)で、定年になるまで仕事場があった日生港へ自家用船で通っていま した。当時は、まだ定期船が運行していなかったためで、昔は30分ほど艪を押して通った時代もあったそうです。定年 後は、通勤に使っていた船で漁師をやってきたといい、頭島に伝承された星について丁寧に教えてくれました。
 それは、スマルサン(プレアデス星団)、ミツボシ、フタツボシ(ふたご座α・β)、ナナツボシ、ヒシャクボシ (北斗七星)、オオボシ(金星)、ツボアミという星名体系です。スマルサンは、星が瓢箪の形に集まっているといい、 海中から網などを引き上げる道具のスマルが由来となっています。漁においては、スマルサンやミツボシ、フタツボシ などを見て、それらの動きから時間を計っていたようです。
 最後のツボアミというのは、地元でつぼ網と呼ばれる本体部分が円形に近い小型定置網の一種で、この形状に似た星 をさしています。『星の和名伝説集−瀬戸内はりまの星』〔文0240〕には、岡山県日生を採集地とするツボアミボシの 報告があり、おおぐま座の北斗七星のこととしています。詳しい説明がないので分かりませんが、香川県のタテアミボ シと同じ見方という判断をしているようです。タテアミボシは網の設置形状からみて北斗七星が妥当と思われますが、 ツボアミボシに関しては異なる形状なのです。各地のつぼ網の構造を比較すると、本体である囲い網の形状は楕円形に 設置されるのが一般的で、その中心から外に延びる道網を考慮しても、北斗七星を連想するには違和感があります。頭 島の漁師は、つぼ網を「まるい網」と表現しており、北斗七星とは別の星を指しています。この形状が最もしっくりす るのは、かんむり座の半円形をおいて他にはないでしょう。したがって、頭島のツボアミは日生のツボアミボシとは異 なる星として扱っておくことにします。

 

〈左〉かんむり座の半円形 / 〈右〉つぼ網の代表的な設置図

 さて、翌年の春を迎えると、前回と同じように東京発のムーンライトながらから電車を乗り継いで、日生へ直行して います。3回目の調査で出会ったのは80代の地元の漁師で、ミツボシ、スマルサンなどの星名を伝承していました。か つて、夜のミアミ漁(刺網漁の一形態)では、東から上るスマルサンを見て夜明けが近いことを知ったようです。また、 北極星は北の方角を目あてとするための星でした。気になっていたツボアミのことを尋ねると、星については知らなか ったものの、近年はカキの養殖を行う漁師が増えたため、つぼ網漁を継続しているのは2〜3人ではないかとのことで、 伝統的なこの漁も、ツボアミの星とともに忘れられた存在になりつつあるようです。
 岡山県では、他に倉敷市の下津井や瀬戸内市の牛窓、笠岡市の真鍋島などで調査を行っていますが、倉敷といえばど うしても記しておきたいものがあります。その方位石の存在を知ったのは2015年頃で、従来から日和山の伝承地がな いと思われていた岡山県の水島灘において、現在の海岸線からはずっと離れた台地上に二つの方位石が遺されていたの です。1基は倉敷市連島町の箆取神社境内に、もう1基は同市玉島の金刀比羅神社境内にあり、いずれもかつては高梁 川河口付近に浮かぶ連島と乙島(玉島)に位置していました。
 古い地形図で確認すると、この一帯は江戸時代から明治時代にかけて干拓が進み、その後の埋立事業によって海岸線 は大きく後退しました。つまり、二つの方位石は、長い干拓の歴史とともに運用されてきたものと推察されます。おそ らく、当時はこれらの設置場所が日和山であったのでしょう。高梁川の河口域に近い二つの地点は、北前船の重要な寄 港地として栄えていたのかもしれません。
 そうした状況を確認するため、2019年春にとりあえず連島の箆取神社を訪ねることにしました。倉敷駅からバスで30 分足らず、ヘラ取神社前で下車し、街中を抜けると鳥居が現れました。そこから参道が大平山の中腹へと続き、社殿を 望むことができます。長い石段を上って踊り場に着くと、左右に回廊が分岐しており、右手の長い回廊を進み、境内に 出たところで方位石を確認しました。高さ約67aの自然石上に直径34a、厚さ14aの石造方位盤が設置されていて、注 連縄と紙垂がかけてありました。造られたのは1861(文久1)年です。

〈左〉箆取神社からの展望 / 〈右〉境内の方位石

 神社の宮司さんに話を伺うと、
・方位石は、以前より現在の場所にあったこと
・昔は、神社の麓が海岸線で、境内から海を見渡すことができたこと
・かつて、麓には西の浦(連島七浦のひとつ)の湊があり、そこには大きな廻船問屋がいくつもあったこと
などの情報を入手することができました。やはり、北前船の寄港地であったのです。おそらく、高梁川の高瀬舟が上流 部から運んだ米や干拓地の綿花などをここで積み込み、帰路は綿栽培に必要な北国の魚肥や海産物などを運んできたの ではないかと考えられます。
 方位石の近くから南を眺めると、麓には街が広がり、その先は大きな工業地帯となっています。ふと眼を閉じて、足 元まで海がせまっていた光景を思い浮かべてみました。北前船の船乗りたちが、ここに登って日和見をしていた時代は 確かにあったのです。しかし、干拓が始まると日和山としての機能は徐々に失われ、やがてその役割を終えたことでし ょう。それでも、境内にあった方位石が、関係者によって護られてきたことは幸運でした。そんなことをあれこれ考え ていると、近くで年配の家族連れがやはり街並みを眺めています。女性のほうは94歳(1925年生まれ)になる母親で、 寄り添っていたのは息子さんです。声をかけると、地元の出身ということで、少し昔の様子を尋ねてみました。
 この女性が子どもの頃は、今よりも陸地が少なかったそうで、海が近くにあってよく泳ぎに行ったといいます。当 時は、タナバタの準備を8月6日に行っていましたが、竹に吊るす短冊に願い事を書くには、イグサの葉に付いた露を 集めて墨をすったのです。こうして7日の朝になると、中川と呼ぶ水路に竹を持って行って流しました。懐かしい思い 出だそうです。普段からよくここに登って眺めるのが楽しみといい、昭和の初期から連島の変貌ぶりを見届けてきた数 少ない証人なのだということがよく分かります。残念ながら、連島の星の伝承は聞きとることができませんでした。
 これまで、瀬戸内の日和山空白地帯とされた地にも、日和山は確かに存在していました。それは、図らずも遺された 方位石によって歴史の糸が繋がったのです。このような事例は、まだ他にも埋もれている可能性があります。日和山の 痕跡を辿ることは、その土地で活かされてきた星の伝承を発掘する手掛かりになるかもしれません。今はすっかり忘れ られた倉敷の方位石ですが、これまで実に多くの情報をもたらしてくれたのです。

[2021年初稿]


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ちりめんの機音 【京都府丹後地方】

 丹後は、日本海に突き出た半島を中心とした地域です。天橋立の景勝地や舟屋で有名な伊根の集落など、観光地とし ての見どころが多く、長い歴史をもつちりめんの産地としてもよく知られています。若狭湾を東に控え、西側には兵庫 県北部沿岸から山陰へと日本海の連なりがみられるこの地に、初めて足を踏み入れたのは1974年の秋でした。奈良県か ら京都市を経由して丹後を歩き、さらに松江や出雲をめぐった旅の1ページだったのです。
 当時、丹後に強く心惹かれたのは、磯貝勇氏が1956(昭和31)年に著した『丹波の話』に収められた「丹波・丹後の 星」の記述です。そこには、丹後の地に伝承された多くの星名が掲載され、間人[たいざ]町や浜詰村、下宇川村(以 上は現京丹後市)、伊根村(現伊根町)などの地名から、丹後半島沿岸の漁村の佇まいや星空の様子を思い描いたので した。
 星の伝承で最も気掛かりだったのは、ノトボシです。元来が若狭から丹後にかけて記録された星名ですが、間人町に はノトネラミと呼ばれる星(うしかい座のアルクトゥルス)の報告もありました。能登と若狭、そして丹後をつなぐこ れらの星名は、どこにそのルーツがあるのでしょうか。磯貝氏の記録によると、ノトボシは間人町、下宇川村、本庄村、 伊根村に伝承されており、丹後半島沿岸の広い地域に分布していることが分かります。また、若狭と丹後の星名は、そ の体系において類似点が多く、星の伝承と利用に関して一括りの文化圏と見做すことができるでしょう。
 しかし、当初からこうした想いを抱いて丹後を歩いたわけではありません。最初の訪問は、本格的な星の民俗調査に 入る前の時期であり、結果として聞きとりの記録はほとんど残せなかったのです。それでも、一つだけ強烈な印象とし て脳裏に焼き付いているものがあります。それは、間人の集落を抜けて、漁港へ向かっていたときのことでした。集落 の少し手前から、それまで聞こえていなかったカシャカシャカシャカシャ・・・・という音が次第に高まり、いざ集落に入 ってみると、小さな通りの空間全域が規則正しい機械音によって満たされていました。ちりめんを織るその機音は、こ こが丹後の町だと言わんばかりに、無機質なリズムを響かせていたのです。

〈左〉奥丹後の海 / 〈右〉伊根の舟屋景観

 それから41年を経た2015年の春、再び間人を歩く機会が訪れました。全国展開された調査の一環で、丹後半島沿岸の 漁村をめぐることになり、京丹後市の網野町から調査をスタートしました。浅茂川漁港では、70代の二人の漁師から話 を聞くものの、ヨアケノオオボシ(金星)の星名と風の伝承以外は、特にめぼしい伝承はありませんでした。間人への 再訪は、それなりに期待をもっての調査であったわけですが、残念ながらこのときも星の伝承は記録できずに終わった のです。ただし、丹後におけるイカ釣り漁については、従来よりも詳しい情報を得ることができました。
 当地で漁獲対象となっているイカ類は、スルメイカ、ケンサキイカ、シロイカ(ケンサキイカの一部の呼称)、タル イカ(ソデイカ)、ミズイカ、アオリイカの5種に及び、このうちスルメイカ漁とケンサキイカ(シロイカを含む)漁 が主体です。ケンサキイカ類は、トンボと呼ばれるイカ鉤単品、あるいは数個を連結した一本釣りが基本ですが、スル メイカの場合は、マタと呼ばれる照明付きのイカ釣り具を使用しました。間人の入口にある小間漁港で出会った77歳( 1938年生まれ)の元漁師は、「いい物があるから」とわざわざ自宅へ案内し、マタの実物を示しながら「よかったら、 持って行っていいよ」と言います。思いがけない申し出に戸惑いつつも、喜んで受けることにしました。かつて使われ ていたイカ鉤もいっしょです。マタは、手釣り用のイカ釣り具としては比較的新しい時代の漁具ですが、貴重な資料で あることに変わりはありません。
 次に訪ねた竹野[たかの]の漁港は、小さな船溜りといった感じで漁船は少なく、当然の如く漁師には出会えませ んでした。定置網を行っている漁家が一軒だけあるようですが、すっかり寂れた佇まいは時代の変化を感じさせます。 ここの集落景観はいかにも丹後らしく、半農半漁に生きてきた人びとの暮らしを彷彿とさせてくれます。
 竹野から犬ヶ崎トンネルを抜けて、丹後松島の景勝地を過ぎると、丹後町の中浜集落に入ります。国道から分かれて 浜へ下ると、運よく70代の漁師と出会うことができました。仕事を終えて帰宅するところでしたので、手短に星の伝承 を尋ねると、漁師の口から最初に出てきた星名は、何とノトボシでした。この星は、能登半島の方角から上る星で、昔 は漁の目あてにしていたようです。他にスマル(プレアデス星団)やヨアケノミョウジョウを伝えていたものの、伝統 的な星名体系を確認できなかったのは残念です。それでも、丹後のノトボシと出会えたことは、大きな収穫でした。実 は、つい数ヶ月前に福井県小浜市で、若狭地方としては2例目となるノトボシを記録していましたので、このような時 代においてもなお、伝承の糸が切れていなかったことに感謝するばかりです。
 その後は、半島北端の経ヶ岬を見送り、伊根町の本庄漁港、新井崎漁港とまわって、最後に伊根漁港を訪ねました。 伊根は、天然の入江に沿った狭小な平坦地に漁師家が連なり、水辺には舟屋と呼ばれる小屋が建ち並びます。高台から 見下ろすと、漁村の原風景を見る思いです。集落内を歩きながら出会ったのは、85歳(1930年生まれ)の漁師でした。 北極星や北斗七星は方角をみるのに利用したほか、三つ星や金星などの存在も知っていましたが、地元に伝わる星名は 聞いたことがないといいます。伊根の漁業は、定置網を主体に行われており、ここで水揚げされたブリは、伊根ブリと いうブランド魚になっているそうです。ブリの群れは、富山湾を経て若狭湾にやって来るとされ、「ウラニシ(北西の 風)が三日吹いたら、丹後にブリが来る」という諺が残されています。

 

〈左〉譲り受けたイカ釣り具 / 〈右〉ノトボシのカペラ

 丹後半島での実質的に2回目となる調査は、2年後の2017年春に実現しました。今回は、京都丹後鉄道と路線バスを 利用した旅です。西舞鶴駅からまず向かったのは、宮津の手前、栗田湾の沿岸に連なる栗田の集落で、伊根のような舟 屋は見られないものの、全体の景観は見事です。ここでは、84歳(1933年生まれ)の元漁師から少し話を聞きましたが、 星の伝承は一般的なナナツボシ(北斗七星)などで、漁のときに星を利用することはないといいます。栗田における漁 業の特徴は、自宅の前浜にシメと呼ばれる小型定置網が多く設置されていることです。水深は約20bほどで、囲い網の 最奥部には袋網が取り付けられており、主に獲れるのは湾内を回遊するアイナメやアオリイカなどです。
 栗田から再び丹後鉄道で網野まで行き、バスを乗り継いで中浜→竹野→間人とまわりました。2年前と同じ漁港を逆 コースで辿ったことになります。このうち、中浜漁港では82歳(1935年生まれ)の元漁師から聞きとりを行いましたが、 教えてくれたのはいずれも一般的な星名ばかりで、ノトボシやスマル以外の伝統的な星との出会いは、今回も叶いませ んでした。ただし、タナバタノホシ(こと座&わし座)に関しては、従来から報告されているニシタナバタ・オキノタ ナバタ(いずれもこと座のベガ)、ヒガシタナバタ・ナダノタナバタ(いずれもわし座アルタイル)に通じるものがあ り、興味を惹かれました。中浜のタナバタ行事は、縁側に竹飾りを立て、夏の野菜などを供えていたようです。この後、 竹は海へ流していました。
 一方、間人で聞いたタナバタは新暦の7月7日に行われ、この夜は各家で竹を立て、そこに短冊のほか衣や提灯の形 に切り抜いた色紙を飾っていたようです。これも、翌8日に海へ流しています。衣の形に切り抜いた色紙というのは、 いわゆる紙衣の一種かと思われます。この話をしてくれた80代の女性は、他に正月のモチバナや昔から伝わる行事食と してのカキモチやソラマメなど、子ども時代の懐かしい思い出を語っていました。
 2015年の調査では全く話を聞けなかった竹野への再訪は、心待ちにしていた分だけ多少の期待もありました。バス停 から漁港まで道のりは懐かしい風景が蘇り、変わらぬ集落の様子に安堵しながら浜に着きました。相変わらず閑散とし た船溜りで暫らく佇んでいると、ようやく70代の漁師がやってきましたが、残念ながら星の伝承はありません。話題を 変えてこの地の漁業について尋ねると、昔はすぐ沖合でハマチやサバ、マルゴ、イカ類などいろいろ獲れたこと、現在 行っている定置網はツボアミあるいは中シキ網と呼ばれるもので、水深20bほどの場所に設置されていることなどが分 かりました。
 また、竹野の特産品としてイタワカメというのがあり、ワカメを四角い海苔のように板状に乾燥させて袋詰めしたも のです。かつては、竹野の女たちがイタワカメやイワノリ、ジャコ(茹でたもの)などを背負って、丹後大宮へ行商に 出かけていました。さらに、丹後ちりめんの織子たちにとっても、イタワカメは特別な存在であったようです。彼女た ちは、京都へ出かける際に、これをお使いの品としてよく利用していたのです。
 ちりめんの話題にふれたことで、思いは一気に1974年の間人へと遡りました。あの機織りの音が響き渡る暮らしには、 丹後に生きる人びとの心が確かに宿っていたのかもしれません。

〈左〉イカ釣り船と間人の集落 / 〈右〉竹野の家並み

[2021年初稿]


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瑠璃光仏と星曼荼羅 【香川県沿岸地方】

 今や四国の玄関口となった香川県。本州四国連絡橋3ルートのうち、唯一鉄道で瀬戸内海を渡れるのは、瀬戸大橋( 児島・坂出ルート)だけです。この恩恵は絶大なもので、途中の乗り換えを考慮しても、岡山から四国の各県へ直接ア クセスできる点は重要といえるでしょう。他の2ルートを併用すれば調査コースの選択肢も広がり、四国や瀬戸内の島 々をめぐる調査にとって不可欠な存在となっているのです。
 四国における本格的な調査が香川県から開始された背景には、以上のような事情が大きく影響しています。これまで の調査回数は、愛媛県とともに四国で最も多く、特に東部と西部の沿岸域を主体に歩いてきました。始まりは、2014年 春の多度津からです。この日は朝早く岡山を発ち、予讃線の海岸寺駅で下車しました。白方漁港を目ざして歩き始める と、南西の空には白い下弦の月が消え残っています。弘田川を越え、細い路地で散歩中の人と行き会って間もなく、漁 港に着きました。事前の情報収集では大きな期待を抱かせ、しかも条件がよい朝方を選んでやって来たつもりでしたが、 生憎人の姿は全くありません。期待が大きかった分だけ落胆も一入で、暫らく待っても状況が変わらないため、気持ち を切り替えて多度津の漁港へ向かうことにしました。
 多度津の市街が近づくと住宅が増え、大通りを越えると大きな港が現れました。ここは西港ですが、そのまま進むと 規模の小さな東港があります。その岸壁に立って周辺を見渡すと、漁船は見られるものの、やはり漁師の姿は確認でき ません。すると、運よく85歳(1929年生まれ)の漁師が近くを通りがかったのです。丁寧に声をかけて、少し話を聞く ことにしました。今はときどきイカナゴ漁に出る程度で、本格的な漁はほとんどやっていないと言いながらも、多度津 に伝わる星の名をいくつか教えてくれました。北の空にあって動かない星はネノホシ(北極星)で、南の海へ出漁した ら、この星を目あてに帰ってきたそうです。そのほかナナツボシ(北斗七星)、ヨアケノミョウジョウ(金星)などを 伝えていました。
 この後、道隆寺へ向かう道で行き会った86歳(1928年生まれ)の男性からも、ミツボシ(三つ星)やナナツボシなど の星名を記録できました。他に流星の伝承として、「ナガレボシを見たら身内に不幸が起こるので、その時は寺で厄除 けをしてもらう」というのがあり、流星と厄除けという取合せは、これまで耳にしたことのない発想です。この厄除け の寺というのは、おそらく真言宗醍醐派の道隆寺ではないかと思われます。 712(和銅5)年の創建と伝えられ、四国 八十八ヵ所霊場の第77番札所として知られています。本尊は薬師如来で、阿弥陀如来の西方浄土に対し東方浄土を司る 瑠璃光如来になります。東方といえば、日々の太陽が蘇る世界であり、そして星々のめぐりが創出される世界でもあり ます。さらに、道隆寺が星の民俗と深くかかわる要素として忘れてならないのは、寺宝である絹本著色星曼荼羅図です。 南北朝時代の作とされ、これとほぼ同じ図像をもつのが京都・松尾寺の鎌倉時代の作とされる絹本著色終南山曼荼羅図 であり、この寺院も醍醐寺を総本山とする醍醐派に属しています。
 二幅の星曼荼羅は、いわゆる密教系の星曼荼羅とは異なり、道教的な要素が多分に取り入れられた構図とされている のが大きな特徴です。実は、道隆寺の境内には妙見宮が建立されており、宿曜経や道教などの影響が色濃い妙見信仰と 星曼荼羅の関係が気になるところでもあります。本来の真言密教であれば、方曼荼羅の形式となるはずですが、なぜ松 尾寺の曼荼羅と同じ構図を踏襲しているのでしょうか。
 妙見宮は、縁起によると道隆公の乳母が伽藍鎮守のため建立したものとされていますが、拝殿前にある一対の石灯籠 には1802(享和2)年の銘がありました。妙見は北辰(北極星)のことで、信仰としては仏教系の妙見菩薩あるいは神 道系の天御中主神が祀られます。やがて北斗信仰の習合などにより、妙見は北極星と北斗七星の総体として扱われるよ うになりますが、さらに武家の妙見崇拝や日蓮宗の影響などによって、次第に妙見=北斗という構図が定着するように なったものと考えられます。先の多度津の漁師が話していたように、ここではネノホシとナナツボシが妙見を示す星名 となっているわけですが、これらの星の利用と妙見信仰とのかかわりは希薄なようです。

〈左〉道隆寺の妙見宮 /〈右〉朝の志度漁港

 多度津で、瑠璃光仏の導きを受けたかどうかは別にして、二度目の調査は東部の漁港を歩くことになりました。まず 訪ねたのは、さぬき市の志度港です。ここは東西に長く連なる港で、船溜りが4ヵ所ほどあります。そのなかで、漁船 が多く係留されていた場所が本来の志度漁港で、70代の漁師から話を聞きました。星の伝承は、ミツボシとスマル(プ レアデス星団)を挙げ、古い漁師がよく利用していたということです。
 次は東かがわ市の引田漁港で、旧港と新港があり、まず駅に近い新港に行きました。岸壁に着くと、ちょうど船上で 刺網の整理をしていた77歳(1938年生まれ)の漁師がおり、早速聞きとりを開始したところ、ネノホシ、ナナツボシ、 スマルサン、ミツボシサンなどの星名が記録されたのです。子ども時代の引田は、まだ船が艪船でしたが、中学生にな ってようやく電気着火のエンジンが入ってきたといいます。昔は刺網ひとつでたくさんの魚が獲れた時代があり、ほと んど獲れなくなった今でも刺網漁は続けています。他に、コウイカのシバ籠漁というのがありました。これは、一辺が 約80aの鉄筋立方体を網で囲った漁具で、海中に沈めておくと、コウイカが産卵のため籠の中に入ります。実は、籠の 中には枯れた木の枝葉が取り付けられており、この枝に卵を産み付けるということです。
 聞きとりの最後に、漁師はもう一つ星があったと言いながら、星の名を思い出せずにいました。少し待ちましたが、 長居は迷惑となるので、礼を述べてその場を離れました。ところが、年齢を確認するのを忘れていたことに気付き、急 いで引き返してみると、その漁師は少し笑みを浮かべて、「さっきの星の名をやっと思い出したよ」と言うのです。そ れは、ほかでもないイカリボシでした。カシオペア座のW形を、四つ爪の錨に譬えた呼称が香川に伝承されていたこと は、貴重な知見です。引き返すことがなければ記録できなかった星名であり、こうした機微にふれることができたのも、 地道な調査の賜物と感謝するほかはありません。

〈左〉イカリボシの見方(二爪) /〈右〉四つ爪のイカリボシ

 2018年の調査では、三豊市詫間町においてモモテ祭(弓神事)の取材に歩きました。その後、香川県としては初めて 島嶼部の調査を行っています。丸亀港から早朝のフェリーに乗船し、塩飽諸島の本島へ向かったのです。岸壁を離れる と、フェリーは一路北へ進路をとります。薄明の中に浮かび上がった坂出コンビナートのシルエットが、少しずつ朝の 光に包まれると、その先に瀬戸大橋が海上を貫いて延びています。やがて、大橋の遥か東方、霞の空に太陽が姿を現し ました。それは正に、東方浄土である瑠璃光如来の世界を垣間見る思いでした。大橋を音もなく走り抜けていく電車を 見送り、朝日に輝く海上で漁をしている漁船のシルエットに見とれていると、フェリーは減速を始め、ほどなく本島の 港に接岸しました。
 下船して海沿いの道を進むと、木烏神社があります。この辺りまでが泊地区で、その先は民家が途切れ、やがて小阪 の集落に入ります。漁港へ行くと若い漁師の姿が目立ち、全体に活気がありました。ここで、80代の漁師から話を聞く ことになったのです。小阪では、通年行われる底引き網やタチ網、サワラ流し網などの網漁に加えて、季節限定のタコ ツボ漁(5月)やキス網漁(6月)、潜水漁(12月初旬〜4月20日)などの多様な漁業が展開されています。星の伝承 は、ミツボシ、スマル、アケノホシ(金星)で、特にミツボシをあてにしていたようです。
 礼を述べて漁港を後にし、そのまま集落の外れまで行ってみました。すると84歳(1934年生まれ)の女性が浜に出て いたのです。すぐに声をかけ、まずはタナバタや十五夜の行事、大山神社の祭礼などについて断片的な話を聞きました。 星の話題になると、ミツボシやナナツボシのほかに、トウサンボシとカアサンボシという二つの星があるといいます。 聞きとりの状況から、ふたご座の二星(α、β)と判断しましたが、子どもの頃に年寄りといっしょに星を見ながら教 えてもらったそうです。家族の絆を感じさせる、すばらしい命名といえるでしょう。瀬戸内の島で、この女性がトウサ ンボシとカアサンボシに見守られながらどのような人生を歩んできたのか。おそらく、さまざまな節目において星の導 きを受けてきたに違いありません。

〈左〉瀬戸大橋の夜明け / 〈右〉牛島と広島(奥)

[2021年初稿]


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玄界灘の宗像三女神 【福岡県沿岸地方】

 本州と九州を隔てる関門海峡といえば、最後の源平合戦場として知られた壇ノ浦があります。海峡の狭小部は早鞆の 瀬戸と呼ばれ、今では本州と九州を結ぶ交通や物流の要衝となっています。国道の海底トンネルとして1958年に開通し た関門トンネルをはじめ、1973年には高速道路用の関門橋が完成し、その2年後には、山陽新幹線のための新関門トン ネルが開通しました。また、大瀬戸と呼ばれる場所には、最も古い関門鉄道トンネル(1942〜44)も通じています。
 この海峡地形の九州側は、周防灘にせり出した企救半島で、大半が北九州市門司区に属しています。北九州空港や新 門司港など周防灘沿岸の開発が進むなか、地形や集落の佇まいから、かつての漁村景観を今に遺しているとみられる地 区が見つかりました。それは、新門司港のすぐ北に位置する柄杓田です。旧東郷村を構成した旧村の一つで、地形図を 見ると三方を山に囲まれ、近年まで半農半漁の暮らしが息衝いていたことが推察されます。
 こうして、山口県の調査を計画した2014年の春、下関から少し寄り道をして柄杓田を訪ねることになりました。関門 トンネルを抜けて企救半島に入ると、すぐに左折して周防灘沿いに南下します。途中でいくつか船溜りを覗いてみま したが、どこも寂れた様子で人影はありません。小さな尾根のトンネルを過ぎると谷があり、その先はまたトンネルが 続いていますが、柄杓田へは左折して谷を海まで下ります。やがて、集落が途切れた先に整備された大きな漁港が現れ ました。船は小さな漁船とレジャーボートがほとんどで、岸壁は閑散としています。いつの間にか雨も降り出し、聞き とりはなかなか厳しい状況となってきました。それでも、集落を含めて漁港全体の雰囲気には、何か捨て難いものを感 じたのも事実です。この日は柄杓田が最後の調査地でしたが、雨が強くなったことから翌日再訪することにして、ひと まず引きあげることにしました。
 各地を調査していると、聞きとりができてもできなくても、もう一度足を運んでおかないと後悔しそうだと思う場所 がいくつかありました。そんなとき、車を利用した調査であれば、容易に再訪が実現します。柄杓田の場合も、レンタ カーのお蔭で、早朝に宿を出て再調査に臨むことができました。今回は関門トンネルから最短ルートで直行し、漁師と の出会いを待ったのです。前日の雨がしとしと降り続く天気でしたが、漁港の奥にある小さな公園で、散歩していた70 代の女性から少し話が聞けました。各地にのこされている月暈と雨の関係を示した伝承について、ここでは「きれいな 暈は日暈といい、破れた暈を雨暈という」と伝えています。また、柄杓田の十五夜は家庭での行事はなく、子どもたち が浜へ出て、ゴザの上に座って月を眺めたそうです。当時の暮らしの一端にふれることができて、再訪した甲斐があり ました。
 元の船溜りにもどって待機していると、暫くして一人の漁師が小船にいるのを見つけました。雨はほとんどあがって おり、近づいて声をかけると、海に出ようかどうか迷っているといいます。せっかくの機会なので、事情を説明して少 し話を聞かせてもらうことになりました。ところが、いつもと異なっていきなり星の伝承について尋ねてしまい、一瞬 申し訳なさを感じたものの、91歳(1923年生まれ)になるというその現役漁師は、にこやかな表情で柄杓田の伝統的な 星の名を教えてくれたのです。それは、ネノホシ(北極星)、シソウ(北斗七星)、スマル(プレアデス星団)、サカ マス(オリオン座)などで構成された星名体系でした。
 シソウというのは、二つの賽を振った時に出る目の組み合わせの一種で、4と3の目を四三[シソウ]と呼んだもの です。これは、北斗七星の斗(α、β、γ、δ)と柄(ε、ζ、η)の部分を表現した星名とされています。この漁師 は、特にシソウを注視し、七つある星のうちいくつの星が上ったかを見て時間を計っていたようです。このような見方 は事例が少なく、貴重な伝承といえるでしょう。また、サカマスはオリオン座三つ星と小三つ星、それにη星を加えた 四辺形を把手が付いた酒桝とみたもので、九州ならではの星名となっています。ただし、ここではミツボシとも呼んで いるそうなので、サカマスも三つ星の代名詞へと変化している可能性があります。実は、老漁夫が迷っていたのはイカ 籠の延縄漁で、ハリイカ(コウイカ)、ホシイカ(シリヤケイカ)、モンコウイカ(カミナリイカ)などのコウイカ類 を獲っています。シバ(木の枝)を付けたイカ籠を1本の縄に 300〜 400個吊り下げて海底に沈める漁具で、現在はこ の漁が主体的に行われているようです。
 柄杓田での寄り道調査が、ほぼ期待通りの結果を得られたことで、都市近郊の漁港においても、まだ多くの星の伝承 が埋もれていることを実感できました。福岡県では、この後も関門海峡から響灘、玄界灘にかけての北九州沿岸一帯で、 また新たな出会いの旅が始まろうとしていたのです。

〈左〉関門海峡(山口県側) / 〈右〉一般的なマスボシの見方

 しかし、それが実現したのは、5年後の2019年初夏でした。2017年には、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が 世界遺産として登録され、宗像市や大島周辺は一気に観光地化されてしまいました。果たして、玄界灘に星の伝承はの こされているのでしょうか。そんな不安を抱えつつ、最初に訪ねたのは福津市の津屋崎漁港です。
 福間駅からのバスを津屋崎橋で下車すると、辺りには漁師町の風情が漂い、船溜りでは市が開かれているのか大きな 声が響いています。橋の奥は干潮時に干潟となり、かつては周辺に塩田が拓かれていたそうです。町中を少し歩いてか ら船溜りへ行ってみると、休憩中の70代の漁師がおり、早速話を聞いてみました。星の伝承はスバル(プレアデス星団) 、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)などですが、この漁師が漁で頼りにしたのは星ではなく、山や島だといいます。 また、玄界灘におけるイカ漁は、スッテ(イカ鉤)単体あるいは連結タイプによる一本釣りが基本で、ケンサキイカや ヤリイカ、スルメイカなどを獲りました。周防灘に面した柄杓田と対照的なイカ漁ですが、西日本の日本海沿岸域では、 これが一般的なイカ漁ということになります。
 漁港を後にして10分ほど歩くと、神湊[こうのみなと]港へ行くバス停があります。この先は、いよいよ世界遺産の 登録地をめぐる旅です。神湊波止場で下車すると、目の前が大島への渡船ターミナルで、集落の奥には漁港が見えます。 しかし、フェリーの出航まで間もないため、ここでの聞きとり調査は諦めることにしました。
 大島までは15分ほどの乗船で、意外に近い島です。今回の調査では、最も楽しみにしていた場所であり、福岡県では 初めての島嶼部採訪ということも十分に意識されていたからです。世界遺産としての大島の位置づけは重要で、宗像三 女神の一柱である湍津姫神を祀る宗像大社中津宮が鎮座し、山上には御嶽山祭祀遺跡として御嶽神社が建立されていま す。沖津宮を祀る沖ノ島と宗像市田島の辺津宮を結ぶ祭祀ラインの間に位置し、信仰の全域を俯瞰可能な地理的特性を 有しているのです。また、日本の七夕伝説発祥の地とされている点についても、興味は尽きません。

〈左〉鐘崎から望む大島 / 〈右〉宗像大社中津宮

 大島のフェリーターミナルには、多くの人の姿がありました。観光のために訪れた人も少なくないようです。中津宮 に向けて歩き始めると、岸壁の近くで80代の女性と行き会い、少し話をしました。気掛かりであったタナバタについて 尋ねると、昔は8月7日に各家で庭に竹を立て、短冊や色紙で作った衣などを飾っていたようです。竹の下には台を置 いて、小麦粉の饅頭も供えていました。このような行事が廃れると、中津宮でもタナバタの竹を立てるようになり、い つしか踊りも始まったといいます。そして、島の人たちは8月7日に中津宮へお参りに行き、少しばかりのお金を納め ていたのです。この女性は、こと座のベガをタナバタサマと呼んでいましたが、いわゆる一般化された二星説話に関す る伝承は、あまり浸透していないようです。
 先へ進むと、今度は80代の漁師に出会いました。大島に伝わる星は、スマル、ミツボシあるいはジョウトウヘイ(三 つ星)、ナナツボシ、アケノホシあるいはオオボシ(金星)という星名体系です。昔の漁師らは、こうした星々を見て 漁をしていたそうですが、自分たちは星をあてにしたことはないといいます。玄界灘の海で星が活かされていた時代は、 遅くとも終戦前後ではないかと思われます。おそらく、当時は巾着網漁などで星の利用が行われていたのでしょう。
 さて、宗像大社中津宮の参道に入ると、傍らに小さな水の流れがあり、天の川とされています。少し奥の岩の上に祀 られた小祠は織女社で、牽牛社のほうは道路を隔てた崖の上、蛭子神社の奥に小祠を確認しました。かつては、二社と も中津宮境内にあったようですが、関連資料をいくつか比較すると、時代により互いの位置関係を変化させていたこと が分かります。社務所で、七夕伝説について尋ねたものの、新たな情報はほとんどなく、関連する資料等も見つかりま せん。とりあえず、天の川上流部にある天の真名井を確認してから、中津宮の裏手を抜けて御嶽神社に続く道を少し辿 ってみました。しかし、時間的に余裕がないことから予定を変更し、代わりに大島交流館を見学することにしました。
 この施設は、大島の歴史と文化についての情報発信機能を担っており、七夕伝説や七夕祭に関する情報が得られるこ とを期待しての見学です。館内を一巡してから、受付にいたボランティアガイドの女性に声をかけたところ、思いがけ ない情報を得ました。現在の中津宮七夕祭で竹に吊るされる紙衣は、色紙の一部を折って切れ込みを入れただけの簡素 なものですが、かつては色紙を丁寧に折り込んで男女のタナバタ(衣)を作っていたそうです。これを知る人は、既に 90歳を超えた人たちということで、幻の紙衣といえるかもしれません。
 現行の紙衣の作り方は、港で最初に話を聞いた女性から教えてもらいましたが、後日不明な点があったことから大島 交流館へ問い合わせたところ、わざわざサンプルを作って送ってくれました。

〈左〉天の川と織女社 / 〈右〉大島のタナバタ紙衣

 翌日は、宗像市の北端に位置する鐘崎を訪ねました。鐘ノ岬の懐には織幡神社が鎮座し、境内からは集落と漁港を一 望することができます。この社は武内宿弥などを祀り、平安期の延喜式に名を連ねる古社です。地元ではシキハン様と して親しまれ、春秋の例祭には多くの漁師らが参加します。さらに、10月の宗像大社みあれ祭では、鐘崎、神湊、地島 を含めた約 200隻に及ぶ漁船が大島に集結し、沖ノ島から迎え入れた田心姫神と中津宮の湍津姫神が辺津宮まで渡御す る御座船に随行します。この壮大な御神幸は、玄界灘を舞台にした宗像三女神信仰の原点といえるでしょう。
 大島に遺された七夕伝説や星の伝承も、古代信仰とともに、いつまでも人びとの心の支えであってほしいと願わずに はいられません。

[2021年初稿]


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名月と綱引き 【鹿児島県大隅・薩摩地方】

 九州南部の鹿児島県は多くの島々を擁し、その行政区は薩南諸島の南西端に位置する与論島までの広大な海域に及ん でいます。1975年春には、鹿児島港からフェリーで与論島へ渡ったことがありますが、それ以外の島々も含めて同県内 の調査は長い間手付かずの状態でした。全国調査の展開後も、天草調査の折に阿久根市と出水市は訪れているものの、 南部の薩摩半島や大隅半島周辺は、すぐには足を踏み入れられない領域だったのです。それでも、2016年にようやく大 隅半島をめぐり、2018年には薩摩半島を歩くことができました。これら二つの半島には、熊本県や宮崎県とともに十五 夜綱引きの習俗がのこされており、双方の旅を振り返りつつその一端を掘り起こしてみたいと思います。
 まず2016年の調査は、レンタカーで宮崎県南部から鹿児島県に入り、大隅半島の東部沿岸を主体に回りました。志布 志から国道 220号線を南下し、すぐに 448号線へと分岐して間もなく、肝属川河口の手前で東串良漁港に立ち寄りまし た。漁港は新しく整備され、背後は公園やキャンプ場になっています。また、岸壁から延びる橋の先には、石油備蓄基 地を望むことができます。
 暫らく待機していると、70代の男性が現れて少し話を聞くことになりました。土着の漁師ではなく、定年後に小さな 漁船を入手して漁をしているそうで、星の伝承はほとんど記録できていません。十五夜の行事について尋ねると、各家 で供えものをするほか、綱引きが行われるとのことでした。それによれば、旧暦8月15日の夜に塩と御神酒で場を浄め たあと、東西に分かれて綱を引き合い、西が勝てば豊漁で東が勝てば豊作という伝承があります。なお、海中から網な どを引き揚げる用具は全長約15aの手作りで、形状はスバルに似ていますが地元ではヒッカケと呼ぶそうです。
 肝属川を渡って左折し、そのまま海沿いに進むと、一松[ひとつまつ]という所で83歳(1933年生まれ)の男性と行 き会いました。星の伝承は、ミツボシとヨアケボシ(金星)だけでしたが、十五夜綱引きについては70年ほど前まで、 旧暦8月15日夜に旧公民館前の道路で実施していたと言います。当時は、稲藁だけを使って太さ約5a、長さ約30bの 綱を作り、東西に分かれて10回ほど引き合ったそうです。また十五夜の供えものは、大きな木の臼を台にして箕を載せ、 その中にススキと山栗、里芋などを供えました。こうした象は、関東などでもみられます。
 次に訪ねたのは、内之浦の漁港です。JAXAの内之浦宇宙空間観測所がある地域として有名ですが、今回の旅は調 査優先のため、とにかく星の伝承者を探しました。新しく整備された港内には船が少なく、小田川の船溜りへ行ってみ ると多くの漁船が係留されていました。近くの作業小屋にいた80代の漁師に声をかけると、少しだけ話を聞くことがで きたのです。この沿岸一帯では、各地でイカ漁が行われてきたようですが、かつて手釣りされていたミズイカ(アオリ イカ)やトンキュウ(スルメイカ)などの釣具に関する情報は得られませんでした。
 ウツボについては、キダカと呼んで日常的な食材として利用していたようです。調理も、@野菜とともに味噌炊きに する、A塩揉みして干したものを焼く、B切り身にして油で揚げるなど、食文化の奥深さを感じさせてくれます。星の 伝承では、ナナツボシ(北斗七星)とヨアケメジョ(金星)があり、「メジョ」は明星が転訛したもので、宮崎県南部 から大隅半島にかけての特徴的な表現とみられます。

 

〈左〉東串良漁港の夜明け /〈右〉漁獲されたアオリイカ

 内之浦を出ると、 448号線を一路西に向かい、半島西沿岸の南大隅町根占に着きました。その後は 269号線を南下し て佐多岬を目ざします。途中で伊座敷漁港に立ち寄ると、漁師とは出会えなかったものの、子どもの頃に父親と漁に出 た経験をもつ70代の男性から聞きとりができました。十五夜綱引きは、地区の行事として盛大に継承されてきたそうで、 クズカズラ(葛)の蔓と稲藁を使った綱作りから始まります。綱の引き合いは、浜上と浜下の集落それぞれで行われ、 終了後は浜辺に綱で土俵を作り、相撲をとりました。また、最後に参加者が綱の一部(稲藁)を掴み取って持ち帰ると いう習俗がみられます。なお、各家で十五夜の供えものなどはなかったようです。
 伊座敷から曲がりくねった道を辿ると、島泊、大泊などの漁港を経て、九州最南端の田尻漁港に到着しました。しか し、船溜りは閑散としており、人の姿はありません。そのまま海水浴場を通過すると、小さな商店が1軒あり、すぐ近 くで70代の男性と出会いました。ここで漁をする人は数人しかいないと聞いてがっかりしたものの、気を取り直して商 店にいた80代の女性に尋ねると、すぐ近くに高齢の漁師がいると教えてくれました。
 早速自宅へ伺うと、88歳(1928年生まれ)になるYさんは、突然の訪問にも拘らず奥さんと二人で迎え入れてくれたの です。当地では、タテ網漁を主体にクエやアカバラなどの一本釣り、イカ釣りなどが行われ、昭和40年代まではウツボ のカゴ(筒)漁もありました。星の伝承では、スバイドン(プレアデス星団)、サカマス(オリオン座)、キタボシ、 キタノホシ、メアテボシ(いずれも北極星)、ナナツボウ(北斗七星)、ヨアケボシという伝統的な星名体系がみられ、 特に北極星は羅針盤代わりに利用していたとのことでした。スバイドンはスバルの転訛形ですが、「〜ドン」というの は薩隅方言の特色で、この場合は一般的な愛称として「スバルさま」の意味をもつ親しみやすい命名となっています。 また、Yさんは風についても詳細な呼び分けをしており、コンノカゼ(東)やクンバエ(南東)、ハエンカゼあるいはシ ラハエ(南西)などはこの地域特有の呼称とみられ、クンバエよりも強い南東の風に対しては、オッバエという呼称を 用いて特に注意すべき風として認識していました。
 さて、田尻漁港がある佐多馬籠は小さな集落ですが、十五夜綱引きの行事においては、特徴的な習俗がみられます。 まず、綱の材料となるカヤ(ここではチガヤのこと)は、子どもたちが山から集めてきます。これをカヤ曳きといって、 集めたカヤは水に浸けたあと叩いて柔らかくしました。そして綱を作るのは、旧暦8月15日の綱引き当日です。2〜3 時間をかけて、太さ約15a、長さ約30bの綱が完成すると、夜になって綱引きが行われます。子どもたちを中心に3回 ほど引き合い、そのあと綱で土俵を作り、相撲をとりました。最後は、エビス様の前に綱を巻き上げて置くそうです。 これは、エビス様にお供えするという意味があったと言います。各家庭でも、月への供えものをしていました。
 時間はあっという間に過ぎ、ひと通りの聞きとりが済んだところでYさん宅をあとにしました。佐多岬へ向かう途中、 視界が開けた場所に展望所があり、そこから田尻漁港と集落を望むことができます。最南端に位置する集落と漁港の景 観をしっかりと胸に焼き付けながら、大隅半島の調査を終えたのです。

 

〈左〉大隅半島から望む開聞岳 /〈右〉九州最南端の田尻漁港

 それから2年半後の2018年晩秋。薩摩半島の調査は、大分県から宮崎県をめぐったあとの締めくくりの旅となりまし た。今回は、九州との往復に航空機を利用し、九州内の移動は列車とバス、徒歩が基本です。宮崎県から鹿児島県に入 った日は鹿児島市内に宿泊し、翌日は、早朝の指宿枕崎線列車で薩摩今和泉駅に降り立ちました。
 駅から5分ほど歩くと漁港に着き、ちょうど居合わせた70代の元漁協職員から十五夜綱引きの話を聞くことになった のです。当地においても、南大隅町のように中学1年生を頭にした子どもたちが山へカヤ刈に出かけ、刈り取ったその 場で大人たちが綱を綯いました。太さは15〜20aで、渦状に15回巻き上がったら終了です。この綱は、子どもたちが引 き摺りながら集落へ降ろしました。綱引きは旧暦8月15日の夜、満月が上る頃に道路で開始され、綱が切れるまで何回 も引き合うそうです。その後は切れた綱で土俵を作り、子どもたちが相撲をとりました。ただし、これらは20年ほど前 の状況で、現在は実施されていません。
 広い港内を進むと、夫婦や家族で漁をしている様子が分かり、何故か嬉しくなりました。ここでは、古くからの漁業 形態がまだ維持されているのかもしれません。そこへちょうど漁から戻ってきた船がありました。暫く様子をみてから、 船を降りた84歳(1934年生まれ)の漁師に声をかけ、話を聞きました。かつては、エビ網漁や一本釣りなどを主体とし ていましたが、その後 100b以上の深い海に生息するチビキ(ハマダイ)の一本釣りを始めています。網漁でも、タル メ(メダイ)のタチ網漁を始めるなど、常に新しい漁法を開拓してきた漁師であったのです。
 伝承していた星名は、ミツボシ、スバイ、ヒトツボシ(北極星)、ナナツボシ、ヨアケボシで、基本的な体系は大隅 半島と類似しています。なお、この漁師は、海中の網やロープなどを引掛けて拾い上げる用具をスバイと呼んでいまし たので、星名のスバイはこの漁具に由来した呼称かもしれません。
 このあと、山川漁港で75歳(1943年生まれ)の男性から少し話を聞き、終着駅の枕崎へ向かいました。指宿から開聞 岳を経て枕崎へ至る沿岸域は、薩摩半島を代表する観光ルートの一つで、途中の西大山駅はJR日本最南端の駅として 知られています。ここから眺める開聞岳は、迫力ある山容を楽しむことができるでしょう。
 枕崎の港は広く、岸壁を歩くだけでもかなりの時間を要します。係留されているのは地元の船ばかりでなく、たまた ま声をかけたのは、天草の牛深から来ていた親子が乗る船でした。そこから暫らく歩いて、80代の男性と出会ったもの の漁師ではなく、ほとんど情報を得られなかったのは残念です。この日は加世田で宿泊し、翌日は調査の締めくくりと して南さつま市の坊津町を歩くことにしました。
 坊泊漁港は、その名の通り坊地区と泊地区に分かれていますが、訪ねたのは泊側の漁港です。岸壁で休んでいた二人 の漁師と言葉を交わしたあと、すぐに88歳(1930年生まれ)の漁師と行き会い、作業小屋に入って聞きとりを行うこと ができました。坊泊の漁は、引き網漁(延縄)によってカツオやシビ、シイラなどを獲るほか、エビ網漁(5〜8月)、 タテ網漁、イカ釣り漁などが行われ、イカはミズイカ(アオリイカ)、ケンサキイカ、トンキュウ(スルメイカ)、コ ゴメ(カミナリイカ)などが対象です。なお、主要な擬餌鉤はエギと呼ばれ、クサビ(クサギ)の木を使って自作した と言います。もう一つ興味深い話は「カンムリオケ」のことで、戦前まで行われていた頭上運搬の方法です。オケと言 っても、実物は竹で編んだ直径1bほどの平たい籠で、昔は漁で獲れた魚などを入れて頭に載せ、枕崎まで行商に行っ たそうです。片道4`の道のりを行商して歩く姿を想像すると、鹿児島県にもそういう時代があったことを改めて実感 させられました。
 ところで、泊地区の十五夜綱引きは、別な人からの聞きとりでかなり大掛かりな行事であることが分かりました。そ の始まりは十五夜の7日前で、〈A〉小中学生の男子が十五夜唄を歌いながら地区内をめぐり歩く「スジ回り」、〈B〉 小中学生の女子が海岸沿いの広場で踊る十五夜踊、〈C〉公民館の広場に造られた土俵でとる相撲という主要な取り組 みが前日まで継続されます。2日前になると綱ねりも始まり、子どもたちが船で刈り集めたカヤを使って、太さ25〜30 a、長さ50〜60bの大網が完成します。
 そして、いよいよ十五夜の当日になると、まず昼間の行事として男子組と女子組が広場から地区外れの九玉神社まで 歩きます。男子の十五夜唄と女子の十五夜踊はこれが最後となります。夜になると人びとが広場に集まり、大潮の時間 を待って綱引きの開始です。対戦は、四つの集落が二組に分かれて行われ、最後に綱を引き摺って川渡しがあります。 坊津町内では、他にもカヤ刈りに行った子どもたちがカヤを被って山から下りてきたり(上の坊地区)、カヤを束ねて 松明にし、これを振り回す(鳥越地区)など、特徴的な習俗が多くみられるそうで、名月の夜に繰り広げられる綱引き の意味について考えさせられました。思い起こせば、この日の早朝、加世田の空で山の端にかかっていたのは、確かに 望の月だったのです。

 

〈左〉加世田で見た望の月 / 〈右〉坊津泊の九玉神社

[2021年初稿]


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駅裏の里山で 【滋賀県湖北・南部地方】

 東京から東海道本線を西進すると、岐阜県大垣が東海地方で最後の乗換え駅となります。そこから関ヶ原を越えれば 滋賀県米原市に至り、近畿地方と呼ばれる地域に入ります。一般的に、東日本と西日本の境界にあたり、滋賀県以西は いわゆる西日本の文化圏とされています。
 これまで、近畿や山陰、山陽、四国への調査では、この滋賀県で数時間の調査を行う機会が多くありました。ここを 中継地として、最終的な目的地へ向かうというパターンが定着していたのです。したがって、滋賀県内を数日間に わたって歩き回るという調査は実現できていません。
 県の中央部には、日本最大の内水域をもつ琵琶湖があり、沿岸では各地に船溜りが設けられ、半農半漁の暮らしが 継続されてきました。海をもたない県でありながら、漁業における星の利用が図れていたものと予測され、おそらく特 徴的な星の文化を育んできたことでしょう。しかし、これまでの報告や記録などを参照しても、それを裏付ける資料は ほとんど見あたりません。もともと、滋賀県は星の伝承に関する情報が乏しいという事情があり、当初から厳しい調査 を余儀なくされるという懸念があったのです。
 そうした状況で迎えた2013年の夏、長浜市の琵琶湖沿岸を歩きました。訪ねたのは湖北尾上町で、とりあえず尾上漁 港へ行ってみたところ、人影はなく漁に出ている様子もありません。場所を変えて集落内を歩くうちに72歳(1941年生 まれ)のSさんと出会い、少し話を聞くことができました。この人は、主にビワマスの漁をしていたそうで、他にニゴロ ブナやアユ、イサザ(冬期)などが獲れると言います。漁師として伝承している風位呼称は、キタ(北)とヒアラシ (西)で、同じ西の風でもそよそよと吹くのはヒカタと呼ばれ、この風が吹くと湖面が光るそうです。また台風が接近 すると、南から西、さらに北へと風向が変化します。これをサキナミと称し、特に西からの強風は大荒れとなるため、 注意が必要でした。
 Sさんからは星の伝承が聞けなかったものの、その後訪ねた89歳(1924年生まれ)のYさんからは、ミツボシ(三つ星)、 ナナツボシ(北斗七星)、アケノミョウジョウ、ヨイノミョウジョウ(いずれも金星)、チカボシ(月の近くに出る星) などの星名を記録しました。いずれも全国標準の星名ですが、一応骨格となる星名体系が確認できたことは、大きな収 穫と言えるでしょう。「チカボシが出ると、どこかで火事がある」という伝承も、近年はほとんど聞かれなくなってお り貴重です。
 尾上集落の暮らしは半農半漁を基本としていて、4〜11月は水田稲作を行い、冬期の12月から翌年3月までが琵琶湖 における漁の期間でした。Yさんが携わっていたのは、かつて父親が行っていたエリ漁(定置網の一種)で、湖底に1本 ずつ竹を立てて造る伝統的な仕掛けだったようです。漁獲されるのは、アユが最も多かったと言います。なお、風位呼 称で追記しておきたいのは、イブキオロシ(東)、カミカゼ(南西)で、カミは上方(京都方面)を意味し、これが吹 くと雪が多くなって大風になりました。たとえ僅かではあっても、琵琶湖東岸域の生業に関する情報が得られたことで、 今後の調査に役立つことが期待されます。
 尾上を後にしてバスで河毛駅に戻り、そこから余呉まで行ってみました。駅を出ると周辺は水田地帯で、その先に余 呉湖を望むことができます。ぶらぶらと歩いて周辺の集落を二つほど訪ねてみましたが、盛夏に出歩く人はほとんど見 られず、結局聞きとりは全くできませんでした。ギラギラと輝く湖面を眺めながら、この地の人びとも、かつては星を 見ていた時代があったことを振り返りつつ、初回の調査を終えることにしました。

〈左〉尾上町の集落 / 〈右〉青田と余呉湖

 2回目の調査は2015年の8月初旬で、米原市の磯漁港と彦根市の宇曽川漁港をレンタサイクルで回りました。しかし、 星の伝承はほとんど聞かれず、米原でアユのすくい網漁(初夏)やその後ウロリ(ゴリ)沖曳網漁(小型底曳網の一種) が行われること、また彦根市では、小糸網(刺網の一種)によるアユ漁や1〜4月に行われるモロコ漁、ニゴロブナ漁 などについて情報を得ました。
 そして、同月末には早くも3回目の調査に出かけたのです。この調査は、琵琶湖東部から北部、西部に点在する漁港 や船溜りをレンタカーで廻ろうというもので、米原市の矢野川船溜りから高島市の浜分漁港までの13ヵ所を訪ねま した。しかし、どこへ行っても閑散とした状況で、人の姿はほとんど見かけることがありません。それでも、何とか4 ヵ所で話を聞くことができました。星の伝承については、高島市の海津と知内でわずかに記録を得た程度で、かなり以 前に途絶えていることが分かりました。それを裏付けるかのように、高島市浜分の80代の男性は、「昔の漁師は星を見 て漁をしていたと聞いたことがあるが、そういう漁師はもう誰も生きてはいない」と話してくれました。長浜市の西浅 井町でも、同じような話を聞いています。
 内水域という閉ざされた環境においては、漁業の衰退がそれまでの伝統や習俗、伝承などを一気に消失へと向かわせ る可能性が高いと思われます。そうであれば、琵琶湖沿岸域では最早、伝統的な星の名やその利用に関する伝承は、ほ とんど継承されていないのかもしれません。湖北一帯がこのような状況ですから、早くから都市化が進んだ湖南一帯は さらに厳しいと考えてよいでしょう。そこで、琵琶湖沿岸域を一旦離れ、他の地域を調査対象とすることにしました。

〈左〉海津漁協の建物 / 〈右〉知内より竹生島を遠望

 先ず歩いたのは、県南部の甲賀地方です。実現したのは2017年春のことで、JR草津線の寺庄から歩いて、甲賀町隠 岐地区を廻りました。地形的には、杣川支流域の谷戸を中心に水田が広がり、集落が点在しています。途中で出会った 80代の農家の男性から、ミツボシ、アケノミョウジン、ヨイノミョウジンという星の名を聞いたものの、それ以上の伝 承は記録できません。
 細い水路の傍らには杉の杜があり、山の神が祀られていました。90歳(1927年生まれ)の男性によると、地区内には 3ヵ所に山の神が存在し、毎年1月7日に講が行われています。この行事に参加できるのは男性に限られ、4年に1回 ほど当番が廻ってくると言います。当日は、ツルシンボウ(干柿)や菱餅(長さ約10a)、ジャコ(小魚)などの供え ものを各24個用意し、これらを山の神に供えて祝詞の奏上などを行いました。
 純農村といえる甲賀地方でも、伝統的な星名を記録できないまま今後の調査について思案していたところ、一つの転 機が訪れました。以前から気になっていたにも拘らず、なかなか歩けない場所があったのです。それは、岐阜県境に近 い米原市柏原地区で、2019年春の岡山県方面への調査に際し、ようやく実現する機会を得ました。
 柏原は、江戸時代に中山道の宿場として栄えたところで、現在も街道筋の町並みには往時の面影が残されています。 ただし、調査地として注目したのは宿場ではなく、別な場所でした。5万分の1地形図を見ると、駅の北側(裏手)に は成菩提院へ通じる細い道があり、それに沿って民家が点在しています。いわば小さな里山となっていて、その箱庭的 な佇まいが気に入り、いつかはきっと歩いてみようと心に決めていたのです。
 駅を出て左に進むと踏切があり、その先は成菩提院への分岐です。小野集落の入口には、庚申様が祀られていました。 暫く歩くと、幸いにも90歳(1929年生まれ)の男性と行き会って聞きとりを行い、思いもよらない星名と出会うことに なりました。伝承されていた星名は、サンタイボシ(三つ星)、スバル(プレアデス星団)、ナナツボシなどですが、 何と言ってもサンタイボシは全く予想外でした。残念ながらサンタイの意味は覚えていなかったものの、この星名は東 北南部や新潟県などに連なるもので、西日本では貴重な記録です。
 小野集落では、十五夜の行事で子どもたちが貰い歩きを行う慣習はないとのことでしたが、代わりに春と秋の彼岸に 墓地に供えられた米粉の団子を子どもたちが貰って帰る習わしがありました。この団子を焼いて食べると、長生きする そうです。その反面、卯月八日やタナバタの行事などは行わないということで、同じ近畿圏であっても京都府や奈良県 などとは異なる文化圏の存在が窺えます。
 成菩提院を過ぎ駅へ戻る途中で、今度は80代の男性と行き会いました。この辺りは駅に近い街中ですが、念のため星 の伝承について尋ねてみると、意外にも伝統的な星名を継承していたのです。ミツボシ、ナナツボシの他に、ネノホシ サン(北極星)やヒシャクボシ(北斗七星)、アケボシサン(明けの明星)、ヒトツボシ(宵の明星)があり、嬉しい 収穫でした。思えば、これまでの地道な調査が、こうしてよい結果に繋がっていることを強く感じます。それにしても、 柏原駅裏の小さな里山で、久しく眠っていた星名の掘り起こしが叶った喜びは、聞きとり調査ならではの体験と言える でしょう。引き続き、新たな出会いを求めて県内を歩いてみたいと思います。

〈左〉甲賀町の隠岐地区 / 〈右〉成菩提院の山門

[2021年初稿]


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黎明の日向灘 【宮崎県沿岸地方】

 太平洋に面した宮崎県は、温暖な気候で知られています。北部の沿岸は日豊海岸国定公園の一部に指定され、南部沿 岸域には日南海岸国定公園があります。その間は長い海岸線を形成し、沖合は日向灘と呼ばれる海域です。宮崎平野の 背後には、高千穂峡や椎葉村、米良荘などの山間地を擁し、大分県境の祖母山塊や熊本県境の九州中央山地、それに鹿 児島県境の霧島山塊など、ほぼ三方を1000b級の山々に囲まれた地形を成しています。
 かつて、1975年に福岡県柳川から高千穂に入り、宮崎市を経由して鹿児島市へと旅したことがあります。これが、宮 崎県を訪ねた最初の旅路でしたが、当時はまだ本格的な調査を行っておらず、聞きとりの記録はありません。それから 46年が経過して、ようやく調査の計画を立てることになり、対象をどこにしようかと迷いました。順当に考えれば、沿 岸域の漁港を巡るのが最良でしょう。しかし、高千穂や椎葉村などに代表される山間域の村落にも捨て難い魅力を感じ ます。日向と言えば神話の舞台でもあり、そうした風土に少しでもふれてみたいという思いがあったからです。
 とは言え、調査日程や移動手段などを考慮すると、やはり沿岸域に絞った集中調査を選択せざるを得ない状況となり、 初回は交通の不便な南部沿岸域をレンタカーで訪ねることにしました。出発は2016年の初夏で、宮崎市の青島漁港から スタートです。この漁港は、日南線の青島駅から 700bほどの距離にあり、よく整備されて船も多く見られましたが、 漁師から話を聞くことはできませんでした。それから南下して海沿いの道路を走ると、日南海岸のすばらしい眺望が広 がり、奇形波蝕痕と呼ばれる青島特有の隆起海床を遠望できます。
 内海港を見送って小さな野島漁港に立ち寄ると、70代の漁師から話が聞けました。星の伝承はミツボシとヨアケノミ ョウジョウだけでしたが、昔は星をあてにしていたらしということで、かつては星を利用した時代があったようです。 沿岸ではイカ漁が盛んに行われ、自作の擬餌鉤でコブイカ(コウイカ)やモンコイカ(カミナリイカ)、アカイカ、ミ ズイカ(アオリイカ)などを釣っていたと言います。また、農家の人たちが十五夜の折に、バラ(円形の箕)の中に供 えものをするという話は興味深いものがありました。
 日南市に入り、油津漁港では漁師に会えなかったものの、目井津漁港で延縄の準備をしていた72歳(1944年生まれ) の漁師から話を聞きました。ここでは、帰路に再度訪ねた際にも80歳(1936年生まれ)になる二人の漁師から聞きとり を行っています。星の名としては、ミツボシサマ(三つ星)、ナナツボシ(北斗七星)、ヒトツボシ(北極星)などが 伝承されており、このうちミツボシサマについては「夏の朝にこの星が上ると夜が明ける」と言われてきました。当時 の人びとが、三つ星の出現を注視していたことがよく分かります。
 目井津には十五夜綱引きの習俗があり、旧暦8月15日夜に行われてきました。綱はロープを芯にして稲藁を編み込ん だもので、太さが20〜30a、長さは 120bもあったそうです。これを西目井津と東目井津が引き合いました。その後は、 相撲もとっていたと言います。鹿児島県や熊本県などとともに、宮崎県南部にも十五夜綱引きの文化圏が存在していた わけで、県内の分布状況の把握に向けてさらなる聞きとりの重要性を痛感しました。
 次に聞きとりができたのは、日南市の外之浦漁港です。ここは昔からカツオ漁が盛んで、かつては 100隻ほどのカツ オ船がみられ、今でも30隻余りが出漁しています。70代の元漁師は代々漁家の出身と言い、中学校卒業後に鹿児島の漁 船や商船などで船乗りの経験があり、航海では天測を行った際に星を見ていたそうです。ここでも、イカ釣りの話や十 五夜にバラを利用してススキや団子、サトイモなどを供えていたこと、そして戦前までは綱引きも行われていたことな どを確認しました。
 串間市では、都井漁港で70代の漁師から話を聞く機会があり、ミツボシとヨアケメジョ(金星)の星名が伝承されて いました。メジョは明星が転訛した言葉と考えられ、隣接する鹿児島県にも伝承事例があります。都井のイカ釣りは日 南市とほぼ同じ内容ですが、もう一つキダカメ(ウツボ)の食文化についても、同じ文化圏を形成しています。たとえ ば、目井津では切り身にして味噌汁の具として食べるのが一般的とされ、外之浦では主に蒲焼きとして、また都井でも 蒲焼きにしたり、塩揉みして干したものを焼いて食べたということです。大隅半島から同地域を経て、四国南部、紀伊 半島へと連なる黒潮文化の一要素と言えるでしょう。

 

〈左〉日南海岸の奇形波蝕痕 /〈右〉目井津港の漁具

 宮崎市より南の県域では、一部を除いて伝統的な星名と向き合うことは叶いませんでした。残るは北部から中部にか けての日向灘沿岸域に期待をかけるしかありません。計画の実行は、2018年秋のことです。この調査は、大分県南部を 皮切りに宮崎県を縦断し、鹿児島県の薩摩半島へ至るルートで臨みました。
 宮崎県内の初日は、延岡市から門川町、日向市までで、早朝の東海[とうみ]地区が出発点です。延岡港は、北方か ら流下する北川と高千穂を源流域として東進する五ヶ瀬川の河口が交わる位置にあり、その対岸に東海地区の三つの集 落(奥東海、中東海、川口)が連なっています。この辺りは、江戸時代から明治にかけて帆船による舟運が盛んで、い くつかの大きな廻船問屋が居を構えていました。しかし、1923(大正12)年の日豊本線全線開通を契機として舟運は次 第に衰退したようです。現在、中東海集落の外れには廻船問屋によって寄進された常夜燈が建っており、また奥東海の 岸辺近くに遺された石は、かつて帆船が係留の際に使用していたものです。
 奥東海地区には小さな漁港があり、この地で会社勤めをしながら漁を続けてきたという80代の男性から、少し話を聞 きました。この人は、星を目あてに漁をしてきたと言うものの、それは伝統的に受け継がれた星ではなく、いわゆる北 極星や北斗七星、オリオン座、カシオペア座、さそり座という現代の星座を基準とした星々でした。このような事例は たいへんめずらしいもので、新たな星利用のスタイルかもしれません。
 東海からバスで延岡駅に戻り、日豊本線を南下して土々呂駅で下車します。10分ほど歩くと海に出て、右手に小さな 妙見神社が現れました。地元の女性によると、妙見さまは眼の神様と言われており、毎年6月にお参りする人が多かっ たそうです。
 土々呂漁港では、90歳(1928年生まれ)の元漁師から、いろいろと話を聞くことができました。まず、星の伝承とし て、ミツボシ、スバル(プレアデス星団)、ナナツボシ、ヨアケボシという星名体系を継承しており、ナナツボシで北 の方角を知り、ヨアケボシで夜明けを見定めていました。風の伝承では、マジ(南西の風)が吹くと雨になり、カツオ の喰いがわるくなると言われ、こんな俚諺も伝わっています。
「イヨン川の女とマジの風は、手ぶらでは来ない」
 イヨン川というのは、隣接する門川町庵川[いおりがわ]のことで、かつてはこの地の女性たちが農作物を携えて土 々呂へ通い、漁港で水揚げされた水産物と交換していました。これを、マジの風に譬えた表現となっています。
 漁業に目を向けると、イカ漁ではモンゴイカ(カミナリイカ)、ケツボゲイカ(シリヤケイカ)、コウイカ、ホンス ルメ(ケンサキイカ)、マツイカ(スルメイカ)などを底曳網や一本釣りで漁獲してきました。また、土々呂近海でみ られる蟹としてワタリガニ(ガザミ)、トラガニ(シマイシガニ)、ツメガニ(ノコギリガザミ)、そしてミツボシガ ニあるいはホシガニと呼ばれるジャノメガザミと多彩です。ミツボシガニは、言うまでもなくオリオン座の三つ星を模 した紋を有する蟹のことで、関東などでも同様の見方があります。さらに、ホシガニ(星蟹)は遠く秋田県由利地方に 通じる呼称であり、命名に関わったであろう漁師らの発想に敬意を表したいと思います。
 次の門川漁港では、70代の漁師から聞きとりを行い、ミツボシ、スマル(プレアデス星団)、シャモジボシ、ヒシャ クボシ(いずれも北斗七星)、ツキボシ(月の近くに現れる星)などを記録しました。延縄などのロープを拾い上げる 際に使う用具をスマルと呼んでいたのは、プレアデス星団のスマルを想起させますが、明確な情報は得られませんでし た。

 

〈左〉奥東海漁港の朝 /〈右〉帆船時代の係留石とされる遺構

 二日目の朝は、日向市内で迎えました。早朝の列車で都農へ行き、早速漁港を訪ねます。日向灘の朝は穏やかに明け、 岸壁では動き回る人の姿がみられます。暫くして、休憩中の60代の漁師と出会い話をしましたが、新しい情報は得られ ず次へ向かいました。
 日向の美々津辺りから南の海岸線は、目立った岬などがなく、宮崎市付近まではほぼすっきりとしたラインを描いて います。まさに、日向灘を代表する景観と言えるでしょう。都農漁港から約9`南に位置するのは川南の漁港で、最寄 りの駅から25分ほど歩かなくてはなりません。鉄路と並行する海沿いの道は、単調さが際立って見えましたが、途中で 70代の男性と行き会いました。漁港への道のりを尋ねると、地元の漁師であることが分かり、少しだけ話が聞けたので す。手短に星や風の伝承、イカやカニのことなどを確認し、別れました。やがて道は分岐し、漁港方面は陸橋となって 日豊本線と国道を越えます。橋上に立つと、長く延びる日向灘の海岸線が望まれます。ほどなく着いた漁港は船が多く、 活気に満ちていました。
 岸壁を一巡して戻ろうとしたとき、運よく90歳(1928年生まれ)の元漁師と出会うことができました。川南に伝わる 星名は、ミツボシ、スバル、オオボシ(おおいぬ座のシリウス)、ヨアケノミョウジョウ、ヨフケノミョウジョウです。 最後のヨフケは、一般的な夜更けの意味ではなく、どうやら日暮れのことをヨフケと称しているようです。したがって、 この場合は宵の明星をさすことになります。
 川南のミツボシについては、この星が出ると夜が明けると伝承されています。こうした光景が見られるのは夏の夜明 けで、目を閉じれば、日向灘から上る三つ星が黎明のなかに消えゆく情景を思い浮かべることができます。それはまた、 ミツボシガニであるジャノメガザミの姿でもあったのです。
 

 

〈左〉朝日輝く都農漁港 /〈右〉川南の海岸線

☆【夜空のミツボシガニ】のイメージ 


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その先の青海 【山口県長門地方】

 星の伝承を求め、日本の沿岸各地を60年以上に亘って訪ねた先駆者がいます。船乗りから後に教育者として生き、野 尻抱影氏に多くの日本の星名を報告した石橋正氏です。晩年の著作である『星の海を航く』〔文0309〕には、全国の調 査紀行が野尻氏に対する「星空への手紙」という形で綴られています。いずれの項にも、星を介した地元の人びととの ふれあいを感じますが、特に山口県の山陰側で、石橋氏が再訪まで果たした地に強く心惹かれたのです。
 それは、長門市油谷地区にある津黄[つおう]という集落です。1991年に、一日に数本しかないバスで訪れた小さな 漁港で、石橋氏は当時40代という若い漁師から、今でも「昔からの言い伝え通り星を使い、漁師が星を頼りにするのは 当たり前のこと」と聞き、「心が少年の日のように躍った」と記しています。この後、さらに詳しく星の名や利用の状 況を聞きとり、急いで折り返しのバスが待つ停留所へ駆けつけると、発車時刻を過ぎているにもかかわらずたった一人 の乗客を待っていてくれたエピソードも、調査への旅情を大いに誘うものでした。
 こうして、山口県の初調査は2014年春に実現することになりました。それまでの調査では、現地での移動手段として 鉄道やバス、あるいは徒歩というのが基本的なスタイルでしたが、今回は交通の便がわるく移動距離も長いということ で、レンタカーを利用することにしたのです。
 宇部空港から真っ先に向かったのは、長門市の青海島です。仙崎漁港を見送って青海大橋を渡ると、そのまま島の東 端に位置する通[かよい]集落を目指しました。漁港の傍らには、鯨資料館があります。岸壁に漁師の姿がないため、 とりあえず資料館に入り、館長という年配の男性に調査の旨を伝えたところ、少し話が聞けました。さらに星の伝承に ついて尋ねると、それならば詳しい漁師がいると言って、すぐに連絡をとってくれました。それから10分ほどして現れ たのは、76歳(1938年生まれ)になる現役漁師で、父親は1899(明治32)年生まれとのことです。
 通地区の漁業は、延縄漁を主体として一本釣りやイワシ網、タテ網、底曳網、イカ釣りなど、さまざまな漁が行われ ており、1955(昭和30)年頃はタイの延縄漁が盛んで、多くの漁師が携わっていました。しかし、現在も継続している のは数隻のみとなり、主力は一本釣りや各種の網漁に移行しているようです。こうした漁において、多くの漁師が利用 していた星がスマル(プレアデス星団)であり、6月の朝3時頃にこの星が東の空に上ると、魚が騒ぐという伝承があ ります。かつては、タイやイサキ、アジなどいろいろな魚がよく釣れたと言い、特にタイの延縄漁では驚くほど釣れた そうで、たとえ夜中に漁獲がなくてもスマルが出るまでは漁を続けていました。
 スマルの他には、スマルノアトボシ(アルデバラン)、アケノミョウジョウ(金星)、チカボシ(月の近くに出る星) 、オオボシが伝承されています。最後のオオボシは、金星やシリウスとは別な星で、スマルよりも早く出る明るい一つ 星とのこと。夜空を動いて西へ入るとも伝えられています。この表現に合うのは、みなみのうお座のフォーマルハウト でしょうか。それとも、木星などの惑星という可能性もあります。
 この辺りのイカ漁は、シライカ(ケンサキイカ)の一本釣りを中心に、スルメイカやヤリイカ(1〜3月)の漁も行 われてきました。シライカの一本釣りというは、イカ鉤単品を使うドンコを基本に、その後はイカ鉤を複数個交互に垂 らした連結式へと変化しています。
 通では、田之浦の漁港でも70代の漁師経験者から話を聞く機会があり、ミツボシとナナツボシ(北斗七星)を確認で きました。これで、通地区における基本的な星名体系が明らかになったわけです。田之浦は、専門の漁師が多い通地区 よりも歴史が浅く、半農半漁の暮らしを基盤として、海ではイカ釣りやタイナワ(タイの延縄漁)の伝統が受け継がれ ています。

〈左〉通の漁港と集落 /〈右〉延縄(縄鉢)の一種

 青海島を後にし、いよいよ津黄へ向かうことにしました。途中、黄波戸の漁港に立ち寄ってみましたが、人影がない ため聞きとりはできませんでした。小さな峠を越えて沿岸域まで下って行くと、視界が開けて整備された漁港が現れま した。すぐ横に新しい道路が架けられ、その奥の傾斜地では、数十軒の民家が肩寄せ合うように建っています。かつて、 石橋氏が感動の出会いを経験した青海の漁村を訪ねたいという思いが、ようやく実ったのです。
 しかし、この日は風が強く、車を降りると漁港周辺ではより強い風が吹き荒れていました。当然ながら、岸壁に漁師 の姿はありません。内湾に面した通では比較的穏やかな陽気でしたが、こちらは日本海の入り組んだ海岸線にある小さ な入江ということで、風向が複雑に変化しているようです。今回の調査では、最も期待をかけた土地だけに、全く話を 聞かずに離れることはできません。
 とりあえず、漁協関係の建物を見つけたので行ってみると、部屋の中で3人の漁師が話し込んでいたのです。声をか けると中へ招き入れてくれ、調査の目的を説明して話を聞くことになりました。主な聞きとりの相手は、71歳(1943年 生まれ)のベテラン漁師で、星の伝承を始めとして、風の伝承やイカ釣り漁などについて、いずれも有力な情報となっ たのでした。
 まず星の伝承では、漁の目安としていた星がオオボシとスマルです。オオボシについては、スマルよりも早く上る大 きな一つ星で、この星の出や入りには漁があると言います。これは、通の漁師が語ってくれた説明と全く同じです。ど うやら、青海地方では特別な存在なのでしょう。かつて石橋氏は、津黄の若い漁師から「ヨイの大星、西に入る」とい う伝承を聞き、これをうしかい座のアルクトゥルスではないかと推察しています。今回のオオボシがヨイの大星と同じ 星なのか、それとも全く別な星なのか判断はつきません。ただ、オオボシに関しては、少なくともスマルが利用可能と なる6月より前の時期に目安とされた星と考えられますので、スマルから大きく離れていないことが一つの条件となる でしょう。
 イカ釣り漁については、現在も使われている釣具をみせて貰いながら話を聞きました。漁獲対象の主力となるイカは、 津黄においてもマイカ(ケンサキイカ)で、5〜11月が漁期です。冬になると、1〜2月にかけてヤセイカ(ヤリイカ) が獲れます。卵を持ったメスは音を出すことからテッポウイカとも呼んでいるそうです。マイカ釣りの仕掛けは、従来 から本体が鉛製のイカ鉤単体による手釣りでしたが、近年は複数のイカ鉤を連結したタイプも使われています。さらに スルメイカの漁法をみると、親の世代の漁師たちがスイレイと呼ばれる釣り方をしていたことが分かりました。これは、 一本竿に手作りした竹のイカ鉤をつなぎ、そこに餌となるアナゴを巻き付けたもので、両手に一丁ずつ持ち、浮いてき たイカを次々と釣り上げたということです。主に北国で利用された二股のハネゴと同じ役割を担った釣具とみられ、60 年ほど前まで使われていたようです。

〈左〉津黄の漁港 /〈右〉ケンサキイカの釣具

 漁師に礼を述べて外へ出ると、相変わらず強い風が吹き荒れていました。この日は一旦下関へ戻り、翌日は角島目ざ して西岸域に点在する漁港を巡りました。このうち豊浦地域では、室津下、涌田、川棚、小串の各漁港で聞きとりを行 ったものの、星の伝承は川棚でスマル、ミツボシ、アケノミョウジョウを記録した程度です。また、風位名はほぼ体系 化されていて、キタ(北)、ヂギタ(北東)、コチ(東)、ハエゴチ(南東)、ハエ(南)、ハエニシ(南西)、ニシ (西)、アナジ(北西)となっています。他に、オオゴチと呼ばれる春一番の強い風もありました。
 次の豊北町で立ち寄ったのは、矢玉漁港です。80歳(1933年生まれ)の漁師から、スマルとヨアケノミョウジョウに ついて聞きました。イカ釣りは、シンズイカ(ケンサキイカ)やヤリイカ、スルメイカ、ミズイカ(アオリイカ)など を対象に、イカ鉤単体の手釣りが基本です。このイカ鉤は、津黄で聞いたスイレイに使う竹製のものと同じ構造ですが、 餌はイワシを使っています。
 矢玉から暫らく北上し、国道を離れて左手の県道を進みます。そのまま角島大橋を渡って角島漁港を目指しました。 そこで、ちょうど居合わせた88歳(1926年生まれ)の元漁師に星の伝承を尋ねると、スバル、ミツボシ、ナナツボシ (北斗七星)、ヒトツボシ(北極星)などを記録することができました。角島の一般的な星名体系と思われますが、具 体的にどのような利用が図られていたのか、それを確認できなかったのは残念です。
 帰路に入り、再び大橋を越えたところで角島の景観を眺める時間がありました。緩やかなカーブを描いて島へと延び る一筋の道路橋と海峡、その先に広がる日本海は、ただの青さではない複雑な色合いをもっています。ここを流れるの は黒潮の分流である対馬海流で、1980年代になると、これを青潮と呼ぶことが提唱されました。長門の青海島や対馬の 峰町青海などの地名が示すように、もともと青い海域であったことを思えば、素直に頷ける表現と言えるでしょう。
 日本海におけるイカ漁は、この青潮文化を特徴づける要素の一つですが、そこに夜空の星々が重要な役割を担ってい たことは、あまり知られていません。イカ釣りと星の伝承を系統的に解明することは、海洋と天空を結ぶ自然認識の在 り方を見直す重要な契機となるでしょう。そのためにも、日本海沿岸域の調査は欠かせないのです。

〈左〉大橋と角島を望む / 〈右〉青潮の日本海

[2021年初稿]


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念願の播磨灘へ 【兵庫県播磨地方】

 近畿地方で、日本海と瀬戸内海に接しているのは兵庫県だけです。北部の但馬に対し、南部は播磨や摂津と呼ばれ、 淡路島や家島などの島嶼部も含まれています。その淡路島の東側には大阪湾が形成され、西側は播磨灘の海です。
 播磨地方と言えば、星名伝承の研究にとって原点の一つとして知られた地域です。かつて、姫路市の高校教諭であっ た桑原昭二氏は、生徒らの協力を得て地元にのこる星の伝承を拾い集め、さらには周辺地域の記録と併せて、1963年に 『星の和名伝説集−瀬戸内はりまの星』〔文0240〕を発表しました。そこには、漁業や農業などに携わる人びとの暮ら しの一端が、星空とのかかわりを通して生き生きと綴られています。その11年後に山形県で初めて星の伝承に出会って 以来、播磨灘は長い間憧れの地となっていたのです。しかし、その願いが叶うまでには多くの年月を要しました。
 実際に播磨で調査が行えるようになったのは、2014年春を迎えたときでした。JR赤穂線の坂越駅からバスで小島ま で行き、まず出会ったのは80代の元漁師です。ここでは、小型定置網の一種であるツボアミ漁が行われており、漁場が 狭いため各家で設置できるのは1基のみとされ、場所も毎年抽選により決定されていました。昔は、イワシ漁やジャコ 網漁なども行われていたようですが、港は閑散としています。
 小島集落の背後にある丘を越えると、そこはもう相生市の一部で、だらだらと坂道を下ったところに壺根の漁港があ ります。こちらはカキの養殖が盛んで、浜通りにはその加工場が軒を連ねていました。漁港を一周したものの、漁師と は出会えず諦めて戻ろうとしたとき、これから出かけるという70代の漁師から少しだけ話を聞くことができました。伝 承されていた星は、スマル(プレアデス星団)、ミツボシ(三つ星)、アケノミョウジョウ(金星)で、今でも月や星、 潮目、雲の動きなどを見て漁をやっていると言います。壺根には、かつての伝統的な星にまつわる伝承の断片がまだ残 っていたのです。
 この調査は、一旦岡山県から香川県を廻り、最終日に再び兵庫県姫路市へ戻ってきました。早朝の電車で土山駅へ行 き、そこからバスで明石市の東二見へ向かいました。漁港は播磨臨海工業地帯の東に位置し、長い岸壁の外れに二見 港があります。最初に出会ったのは80歳前後の漁師で、オオボシ(金星)が出ると夜明けが近いから漁を止めて帰ると 教えてくれました。二人目は70代の漁師です。東二見ではかつてタコツボ漁が盛んで、その漁場を認識する手段として、 地上の目標物を合わせる山タテが利用されてきました。そうした事情から、古い漁師らは「魚は海でなく山にいる」と よく言っていたそうです。山タテの重要性がよく分かる俚諺です。一方で、山タテが重視されたということは、星の利 用に対する関心はそれほど高くはなかったのかもしれません。
 そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか二見港の外れまで来ていました。ふと見ると、岸壁で焚火をし てる男性がいます。その人は80歳(1934年生まれ)になる二見の漁師でした。星の伝承について尋ねると、スバル(プ レアデス星団)、ナナツボシ(北斗七星)、ヨアケノミョウジン(金星)があり、また「月の出入りは満潮三分」とい う俚諺を聞きました。これは、月の出や入りの時に少しだけ潮目が満ち始めるという意味です。
 やがて、話題はスマルと呼ばれる漁具に移りました。それは四つ爪をもった錨のような形状で、海中に沈んだ網や縄 などを引掛ける道具です。漁の種類によって大きさが異なると言い、使い分けていたことが分かります。これらは、鍛 冶屋に頼んで作って貰いました。地域によっては、このスマルをプレアデス星団と見る事例がありますが、この漁師は 「スマルという星はない。星はあくまでもスバルだ」と言います。ところが、最後に出会った80代の漁師は、プレアデ ス星団をスマルサンと呼び、他にミツボシとオオボシを伝えていました。昔は、漁においてこれらの星を利用していた そうで、スマルサンと漁具スマルの関係が気になります。
 東二見の漁師らが伝承していた風の呼称は、ほぼ定型的に整理されており、特に南東から南寄りの風と西方の風に対 して強い関心を示しています。各方位による呼び名は、アラセ(北)、キタゴチ(北東)、コチ(東)、ヤマゼ(南東)、 マゼ(南)、ニシマゼ(南西)、ニシ(西)、アナゼまたはヂニシ(北西)で、ヤマゼは春を呼ぶ湿った風で雨となり、 海が荒れると伝わっていました。

 

〈左〉壺根漁港と相生の海 /〈右〉漁具スマル

 さて、2年後の早春には明石から海峡を渡って淡路島を歩くことになりました。この調査も、青春18きっぷを利用し た旅でしたが、ようやく慣れた各駅停車の行程とは言え、この時ばかりは何もしないでほぼ1日がつぶれてしまう計画 で、正直なところ少しためらいもありました。しかし、たとえ僅かな時間であっても、調査は人との出会いが全てです。 いつ、どこで素晴らしい伝承者とめぐり会えるか分かりません。
 電車を何度も乗り継ぎ、明石駅に着いたのは午後3時を大きく過ぎていました。駅を出て南へ直進すると、10分もか からずに明石港の一角に到着します。そこから、いくつかの船溜まりを訪ね歩いて行きますが、この時間帯に漁師の姿 を探すのは容易ではありません。まして街中の漁港では、風貌だけで漁師かどうかを判断するのは困難だからです。結 局、先へ先へと急ぐあまり、気が付けば西外れの船溜りまで来ていました。そこは明石浦と呼ばれる場所です。暫らく 歩き回るうち、ようやく漁師に違いないと思われる人に出会って声をかけてみたところ、やはり75歳(1941生まれ)に なる元漁師でした。古くからの漁家に生まれ、若い時は明治生まれの父親とともに漁をしてきたそうです。それは主に ノベナワ(延縄)やマダイの一本釣りで、ノベナワではアナゴやメバルなどを獲っていました。マダイは4〜5月に南 方から群れてやって来ると言い、春と秋にはサワラ漁が盛んであったようです。こうした漁において、かつては星を見 ていたことを漁師は覚えていました。そして、具体的な星名としてネノホシ(北極星)、スマル、ミツボシ、アワジボ シ(カノープス)、アケボシ(金星)を挙げたのです。ただし、どの星をどのように利用したかは知りませんでした。 それにしても、この時代に明石の地でアワジボシが継承されていたことは予期せぬことであり、新鮮な驚きでした。ア ワジボシは、淡路島の方角に見える星として父親から伝承されていたのです。
 翌日は、再び明石港に足を運びました。朝早く出航する淡路島行きの定期船に乗船するためです。今は、明石海峡大 橋を渡れば容易に島へ行けますが、今回の調査は島内の沿岸に点在する漁港を訪ね歩く必要があり、船と路線バスを利 用することにしたのです。
 定期船が到着したのは北部の岩屋港で、下船すると早速調査を開始しました。岸壁の船溜りは数百bに亘って続き、 特徴的な舳先をもった漁船がずらりと並んでいます。10分ほど歩いた場所で、ようやく船上にいた74歳(1942年生まれ) の漁師を見つけ、話を聞くことになりました。
 星の名で覚えていたのは、ミツボシとミョウチョウノアカリ(金星)だけでしたが、「お月さんが暈とったら日和が わるくなる」とか「三日月が受けるようになる(横になる)と風が吹く」や「星がチカチカ瞬いて見えると翌日は風」 などの伝承は健在でした。驚いたのは、小学3年生で祖父について漁を始め、4年生になると電気チャッカのエンジン を分解して再度組み立てたりしていたという事実です。
 漁船の外観で気になっていたことを問うと、この地域では漁船の舳先に一種の装飾を施す慣習があるとのことでした。 その一部には氏名あるいは屋号や家紋などが刻まれ、なかには金箔を施した船もあるということで、港全体が個性豊か な景観に包まれているように感じられます。このような事例は、他の地域でも見かけることがありますが、岩屋の場合 は係留されている漁船の大半が競い合うように装着している点で見応えがあります。
 岩屋から路線バスに乗車し、東部沿岸を南下します。次の目的地である仮屋で下車し、少し歩くともう仮屋の漁港で す。ここでは、網の修繕をしていた80代の漁師と、少し離れた場所で70代の漁師からも聞きとりを行いましたが、星の 伝承はほとんど記録できませんでした。
 さらに南下して、塩尾で下車します。バス通りに面した漁港なので、岸壁を北へ歩いて行くと、二つの漁港の間に自 然の砂浜が残されていました。ここはワカメの養殖が盛んなようで、それを天日干しする場所だと後で分かりました。 その砂浜近くで70代の漁師と行き会い、少し話を聞くことにしました。今は、底曳網や船曳によるイカナゴ漁などを行 っているものの、今シーズンのイカナゴは過去に例がないほどの不良が続いていると嘆く一方で、昔の漁師らは星を頼 りにしていたと話してくれました。しかし、星名として伝承されていたのは、ミツボシ、スマル、ヨアケノミョウジョ ウといずれも一般的な呼称ばかりで、かつての伝統的な星名はすっかり忘れられた存在となってしまったようです。
 次のバスを待つ間、少し時間があったのでバス通りから路地へ入り、普門寺まで行ってみることにしました。この辺 りは典型的な里山で、水田が広がり溜池も点在しています。基本的な半農半漁の暮らしを彷彿とさせる田園風景に、暫 し調査のことは忘れて心和むひとときを過ごすことができました。

 

〈左〉淡路島への定期船 /〈右〉岩屋港の装飾漁船

 ところで、播磨灘と言えば姫路の沖合に浮かぶ家島や坊勢島の調査を欠かすわけにはいきません。『星の和名伝説集』 にも両島の記録があり、満を持して訪島の機会を探っていたところ、2019年の春になってようやく実現しました。まず 向かったのは坊勢島で、姫路から30分余りの船旅です。小さな島ですが五つの漁港があり、漁業の盛んなところです。 3時間半ほどの時間をかけて、奈座港、長井港、西ノ浦港、カズラ港、鷹ノ浦港と廻りましたが、集落内は細い坂道が 入り組んで、まるで迷路のような世界でした。何度も道を尋ねなければ、目的地へ辿り着けないのです。
 調査は、長井と西ノ浦で3人の漁師から話を聞いたものの、星の名はほとんど記録することができませんでした。特 に長井の集落で94歳の元漁師を紹介され、やっとの思いで出会えたのも束の間、星のことは全く知らないという言葉に 一抹の侘しさを感じたのをはっきりと覚えています。
 その後、小さな連絡船で家島に渡りました。しかし、そこでも宮浦漁港で70代の漁師からミツボシやナナツボシ(北 斗七星)などの一般的な星名を聞いただけでした。播磨灘の伝統的な星の伝承にふれたいという希望をもって臨んだ調 査でしたが、見事に空振りという結果に終わってしまったわけです。それでも、この二島には星の伝承を受け継いだ人 が必ずいると思われて仕方ありません。姫路へ帰る船のデッキで、遠のく島影に別れを告げながら、再訪を誓ったので した。

 

〈左〉坊勢島から望む播磨灘 /〈右〉家島の宮浦漁港

[2021年初稿]


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橋で結ばれた伊予の星 【愛媛県沿岸地方】

 瀬戸内の海から宇和海、そして豊後水道に至る広い海域を有する愛媛県。帰属する島嶼が多いこともあって、水産庁 のデータによると漁港の数は全国で第3位の規模となっています。特に、西部の宇和海から宿毛湾にかけての沿岸には 多くの漁港が集中し、古くから漁業の盛んな地域であったことが窺えます。それは、伝統的な星の伝承をより多く残し ている可能性が高いという期待感へとつながっていたのでした。
 ところが、いざ調査に入ってみると、それまでの大きな期待は見事に打ち砕かれてしまったのです。星の伝承を求め て、全国を踏破した先駆者である石橋正氏は『星の海を航く』〔文0309〕のなかで、「私は平成十四年夏、高知から愛 媛の豊後水道小漁港を、五日間かけて徹底的に探索したが、殆んどが真珠養殖や栽培漁業に転業しており、無駄足であ った」と述べています。こうした情報は、事前に承知していたものの、まだどこかに古い伝承者がいるに違いないとい う思いのほうが強かったのでしょう。しかし、実際に現地を訪ねてみると、石橋氏の言葉がひしひしと胸に迫る結果と なりました。
 振り返れば、愛媛県の調査はスタート当初から苦戦を強いられてきたのです。最初の調査は2015年の夏、岡山県から 香川県を巡る調査の途中で、四国中央市と今治市を歩きました。第1号の調査地は、JR予讃線の川之江駅にほど近い 川之江漁港(旧港)で、70代の漁師二人と80歳(1935年生まれ)になる漁師の三人から話を聞くことになりました。た だし、いずれの漁師も星の伝承者ではなく、覚えていたのはアケボシやヨアケノミョウジョウ、ヨイノミョウジョウな ど、金星の呼称ばかりです。漁労で星を利用したという話も聞かれません。
 当地の風の伝承は、北風をカミカラと呼び、コチ(東の風)やマジ(南東の風)が吹くと、魚が深場へ移動してしま うので漁にならないと言って嫌いました。反対側から吹くアナジ(北西の風)も海を荒らす風ですが、こちらは魚が浮 いてくるようで漁は可能です。川之江の漁業は、底曳網によるジャコエビ漁や2隻の船で網を曳くイワシ網漁、アジや サバなどを対象とした刺網漁などが主体で、昔は大勢の漁師で賑わいましたが、今はその半分にも満たないほどに減少 してしまったそうです。また、どのようなイカが獲れるのか訊いたところ、ハリイカあるいはマイカと呼ばれるコウイ カ、ハコイカあるいはモンゴイカと呼ばれるカミナリイカ、そしてクロイカと呼ばれるシリヤケイカの3種を挙げてい ました。
 川之江をあとにして、今度は今治に向かいました。駅前の広い道を北東へ進むと、10分ほどで今治港に着きます。そ こから左に5分ほど行った所が、大きな漁港となっています。長い岸壁には多くの漁船が係留され、岸壁に接する漁師 家の前には大きな櫓が組まれていて、それがいくつも奥のほうまで続いているのです。近づいて見ると、櫓の上では漁 師たちが集まり、言葉を交わしながら海を眺めているではありませんか。思い切って声をかけたところ、丁度年配の漁 師が来ているからと言って、櫓の上に上げてくれました。
 若い漁師たちの輪に加わっていたのは80代の漁師で、初めはあまり気がのらない様子でしたが、何とか聞きとりを行 うことができました。今治は、昔から底曳網漁が盛んなところですが、イカ類も多く漁獲していました。種類としては、 コウイカ、オオイカ(カミナリイカ)、チィイカ(シリヤケイカ)、ケンサキイカ、マツイカ(スルメイカ)などで、 このうちカミナリイカは、かつて豊後水道まで出漁して釣ったそうで、それなりの水揚げがあったものと推測されます。 なお、イカ釣具としては、スッテと呼ばれる擬餌鉤(鉛本体に布を被せたタイプ)があり、おそらくケンサキイカやス ルメイカ用に使用されたものでしょう。しかし、こうしたイカ釣りも含めて、星の伝承に対する漁師の返答は残念な言 葉でした。「自分は艪を押して漁に出た最後の世代だが、星については聞いたことがない」と言い、覚えていた星名も ヨアケノミョウジョウだけだったのです。
 今治では、他にも70代から80代の漁師数人に、漁と星の関係について尋ねてみましたが、「星は見ていたようだが、 詳しいことは分からない」とか「自分たちは山アテや雲の動きを観ていた」など、総じて星の伝承がかなり以前に廃れ てしまったことを窺わせる内容ばかりでした。

〈左〉川之江漁港 /〈右〉今治漁港

 結局、愛媛県最初の調査は、金星の呼称をいくつか記録しただけで終了しました。こうした事態は、2008年の本格的 な調査再開以来一度もなかったことで、一抹の不安が脳裏をかすめたのも事実です。そうなると、二回目の調査地をど こに設定するのかということが、より重要な作業となってきます。そこで注目したのが、豊後水道沿岸域だったのです。 初回の調査状況から判断して、瀬戸内海に面した鉄道沿線は避けたいという思いも強くはたらいた選択でした。
 実行は同年の秋で、高知空港からレンタカーを利用し、太平洋岸を調査しながら愛媛県の宇和島を目指すという調査 ルートです。その二日目には愛媛県入りし、まず早朝に宇和島へ直行しました。事前に注目していた伊予吉田駅に近い 吉田漁港を訪ねたところ、小船が多いこじんまりとした船溜りで、なかなか雰囲気のよい場所です。ところが、朝にも かかわらず漁師の姿は見あたりません。暫らく待ってみましたが状況が変わらないため、やむなく宇和島港へ引き返す ことにしました。予定では、当時はまだ橋がなかった九島へフェリーで渡る計画を立てていたものの、出航に間に合わ なくなって断念し、そのまま南下することにしたのです。そして、いよいよ充実した調査をと期待し、宇和島市津島町 や愛南町の漁港をいくつか回りましたが、結果は既に記した通りです。記録できた星名は、初回と同様に金星の呼称に 限られ、ミツボシやナナツボシさえ聞きとることができなかったのです。
 行き詰った状況を何とか打開したいと思案するうち、しまなみ海道で実施した調査によって、ひとつの転機が訪れま した。それは2016年の夏、広島県の尾道から向島、因島、生口島、大三島、伯方島を経て、大島に立ち寄った時でした。 途中でバスを乗り換えて、ようやく宮窪漁港へ辿り着くと、そこで思わぬ出会いが待っていたのです。その漁港には長 い岸壁が連なっていましたが、その中ほどまで歩いた所で80歳前後の漁師が現れました。いつものように、当地の漁業 の状況から訊いてみると、昔はタイ網漁が盛んで現在はニソウゴチと呼ばれる網漁が行われているそうです。また、一 本釣りではタイやアコ(キジハタ)、ホゴ(カサゴ)などが釣れ、かつては艪を押して伯方島の沖まで船を出したと言 います。その他にエビコミ網という漁もあり、ガラエビ(アカエビ)やシロエビ(サルエビ)、タケノコエビ(スベス ベエビ)など4種の小エビを漁獲しています。水揚げされた4種を見せてもらいましたが、瀬戸内海では他にもさまざ まな小エビ類が生息しており、主として4〜6種が重要な水産物となっているようです。

〈左〉宮窪漁港と背後のしまなみ海道 /〈右〉宮窪の小エビ4種

 やがて、話題が待望の星の伝承へと移ると、漁師はいくつかの星の名とともに、興味深い話を教えてくれました。星 名は、ミツボシサン、スマルサン(プレアデス星団)、シャクシ(北斗七星)、オオボシサン(金星)の四つですが、 愛媛県では初めて耳にする利用体系であり、奇しくも伝統的な星名によって構成されていたことになります。しかも、 オリオン座の三つ星は、一本釣り漁と深いかかわりをもっていたのです。宮窪では、ミツボシサンが三つ並んで出ると 夜明けが近いと認識されており、昔はこの星の出を観てお湯を沸かし、茶を一杯飲んでから最後の竿を入れて漁を切り 上げました。また、シャクシというのは炊事用具の一種である杓子のことで、北斗七星にその形を重ね合わせた呼称で す。

シャクシ星の見方(イメージ)

 翌年の春は、4回目の調査ということで、今治市南東部と伊予市および大洲市の漁港を訪ねました。予讃線の伊予桜 井駅から徒歩30分ほどの桜井漁港では、79歳(1938年生まれ)の漁師からスマルサン、スマルノアトボシ(おうし座ア ルデバラン)、ミツボシ、ミツボシノアトボシ(おおいぬ座シリウス)を記録することができました。これらの星は、 ほぼ同じような間隔で出てくると言い、以前は夜中の一本釣りや網漁の際に時間をみる目安として利用していたようで す。さらにミツボシについては、「夏の土用の初めに一つ見え、二日目に二つ、三日目に三つ出る」という具合に、星 の出の状況を詳細に観察し、伝承していました。この漁師が、漁で実際に星を利用していたのは自分たちが最後の世代 だと話していたように、大島に続いて今治市街近郊の沿岸域でも、ようやくすばらしい伝承者との接点が生まれたので した。
 この日は松山市で一泊し、翌日早朝に向かったのは伊予長浜駅です。長浜港には、新港も含めていくつかの船溜りが あり、今回は3ヵ所を歩いてみましたが、いずれもレジャーボートが多く漁師の姿はありません。暫らく経ってから、 漁港近くの公園入口にいた70代の男性に声をかけたところ、ミツボシやナナツボシなどの星名とともに、底曳網漁船が 多いことや、かつては魚の行商を行う女性が何人もいたことなどを聞きました。
 そして、最後に訪ねたのは伊予市双海町下灘の漁港で、70代の3人の漁師から聞きとりを行うことができました。内 容は、星の伝承から風の伝承、漁業の現状やイカ類、カニ類のこと、さらに船霊さまの信仰など、久し振りに充実した ものとなったのです。星名は、スマル、ミツボシ、ヨアケボシなど一般的なものですが、スマルに関する俚諺として 「スマルの入りに風がくる」が伝わっています。プレアデス星団が沈む頃には風が吹くという意味で、西日本ではよく 聞かれる気象予知のひとつです。
 1年半に亘る4回の調査を終えて、愛媛県においても星の利用にまつわる基本的な体系の存在を確認できたことは、 大きな喜びでした。聞きとり調査は、何をおいても人との出会いがなければ始まりません。そのことを改めて肝に銘じ、 新たな調査へと出かけたいものです。

〈左〉長浜の行商車 / 〈右〉下灘の民家

[2022年初稿]


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朗景を求める旅路 【鳥取県沿岸地方】

 鳥取市から京都府の京丹後市にかけては、山陰海岸ユネスコ世界ジオパークとして知られた地域です。ジオパークと いうのは、「地質学的重要性を有するサイトや景観が、保護・教育・持続可能な開発が一体となった概念によって管理 された、単一の、統合された地理的領域」とユネスコ世界ジオパーク基準に規定されたもので、日本では2020年までに、 山陰を含む9ヵ所が世界ジオパークに認定されています。
 岩美町の浦富海岸から丹後半島に至る沿岸域は、いわゆるリアス式海岸で、名勝や天然記念物などが点在する国立公 園です。かつては、日本海を行き交う北前船の風待ち港がいくつもあり、そうした場所には日和山が設置されていまし た。
 鳥取市の外れ、湯梨浜町と接する青谷地区は、ジオパークの西端に位置し、鳴り砂の浜辺や海女が暮らす町でもあり ます。2014年の初夏に島根県の出雲から始まった調査は、二日目に鳥取市西部から西側の沿岸域に散在する漁港を訪ね て回る旅でした。最初に訪れたのが青谷で、まずは高校の近くにある市立のあおや郷土館に立寄って見学しましたが、 残念ながら漁具等の展示はなく、イカ釣りに関する情報も得られませんでした。
 郷土館から、一旦国道9号線に出て、すぐに海沿いの道を進むと夏泊漁港があります。夏泊は、長尾岬の付け根に抱 かれた集落で、民家は漁港の背後にある高台に集まっています。ここには 、400年といわれる海女の文化が根付いてお り、ふと昔の浜はどのような景観であったのだろうという思いが脳裡をかすめました。
 港内を見渡すと、岸壁の中ほどで3人の漁師を認め、少し話を訊くことになりました。ひとりは80歳(1934年生まれ) で、夏泊が古い歴史をもった漁港であることや、漁船こそかなり減少したものの、現在は定置網やイカ釣り、刺網など を主体に漁を行っていることを話してくれました。当地のイカ釣り漁は、ほぼ年間を通して行われており、主に3種が 対象です。
@シロイカ(ケンサキイカ):4月から11月までが漁期で、このうち4月と5月の2ヵ月間は魚類を餌として利用。
Aマイカあるいはシマメイカ(スルメイカ):漁期は9月から10月の間で、切り身の餌を利用。
Bテナシイカ(ヤリイカ):2月から3月を漁期とし、夜間ではなく昼間に漁を行う。
 ケンサキイカとスルメイカについては、基本的な釣具として、トンボと呼ばれるイカ鉤を使います。これには、布で 包んだ本体に鉤を付けた擬餌鉤タイプと箆状の竹に鉤を付けた餌用タイプの2種があり、古くは鉤1個に糸を結んだ本 来の一本釣りが主流でした。その後は、イカ鉤を複数個付けた連結タイプや長さ1尋(約 1.5b)の竹竿に擬餌鉤を付 けた竿タイプなどが使われ、スルメイカ漁では他に二股タイプの釣具なども使われていたようです。もちろん、現在は 手釣りではなく機械化されていますので、船も漁具も大きく変化しています。
 この漁師が伝えていた星の名は、スマル(プレアデス星団)、カラツキ(オリオン座)、オオボシ(金星)などで、 このうちスマルとカラツキはイカ釣りの指標として利用されてきました。地元では、星が出る際にイカが釣れるという 伝承があります。さらに風の伝承などを聞いていると、漁港の少し先にオウミ(魚見)台といって漁師らが日和を観る 場所があるというのです。そこは集落の外れにあたり、かつては毎日のように登って、大山にかかる雲の形やその動き などから天気を予測していたようです。
 3人の漁師に礼を述べると、すぐに魚見台へ向かいました。車道から集落を見上げると、それらしい場所があったの で早速登ってみました。そこは、民家の脇が小さな広場になっていて、漁港から海上まで広く見渡せます。過去に日和 山の役割を有した場が存在したかどうかは分かりませんが、古い歴史をもつ漁港であったことを考慮すれば、風待ち港 としての利用も十分に考えられるでしょう。

〈左〉山陰ジオパークの海 /〈右〉夏泊魚見台からの眺望

 青谷の次は、湯梨浜町の泊漁港を訪ねました。当地はイワガキ発祥の地と言われており、漁師家と船溜りが一体とな った浜の景観は、往時の面影を伝えています。ちょうど、浜でイワガキの処理をしていた漁師がいましたので、聞きと りを行うことにしました。星の名で覚えていたのは、キタノホシ(北極星)とサンバンボシ(三つ星)、アケノミョウ ジョウだけでしたが、サンバンボシについては千葉県にも同様の見方があり、たいへん興味深い存在です。
 泊には歴史民俗資料館があり、そこに昔使われていたイカ釣具が展示されていると知って、調査に出る前からぜひ見 学したいと思っていました。漁師から場所を教えてもらって訪ねると、資料館は普段開館していなかったものの、管理 している公民館にお願いして見学できることになりました。館内は、1階に農具や漁具などの生産用具、2階に生活用 具を中心とした民具が展示されており、このうち漁具スペースの一角にイカ釣具だけの展示があったのです。そこでは、 これまで各地で見聞した用具を含むさまざまなタイプの資料が見られ、多くは新潟県佐渡地方で使われたイカ釣具の影 響を受けていることを窺わせるものでした。
 公民館に戻り、担当の人と少し話をするうち、今は公園として整備された背後の丘が、かつては日和を観る場所とし て漁師らに利用されていたことを知りました。青谷の魚見台と同じように、泊も昔は北前船の風待ち港であった可能性 が高く、この丘を当時の日和山と認めてよいかもしれません。
 泊をあとにして、国道9号線を暫らく西進すると、北栄町からやがて琴浦町に入ります。この町は、大山町とともに 大山の裾野が日本海へ迫り出したような地形に立地しており、人びとは山陰の名峰に抱かれた暮らしや生業を受け継い できました。その赤碕地区には、赤碕漁港として三つの船溜りが連なっています。この中の最も大きな漁港を訪れて、 70代の元漁師と出会いました。この人は、かつてのイカ釣りで指標とした星をスマル、ミツボシ、オオボシとし、「ス マルの上り、オオボシの上りにはイカがさばる(よく釣れる)。また月の出や入りにもイカがさばる」と伝えていたの です。
 その対象となったのは、シロイカ(ケンサキイカ)、シマメイカ(スルメイカ)、ヤリイカの3種ですが、漁期に関 しては青谷と少し異なります。ここでは、6月から11月までがケンサキイカの漁期で、スルメイカは秋から冬に釣りま す。また、釣具については、イカ鉤単体であるトンポ(擬餌鉤)やゴンガラ(餌を使う鉤)を主体として、一部でマタ (二股の漁具)と呼ばれる釣具が使われ、ヤリイカにはタラシというイカ鉤を使わない専用の釣具がありました。
 赤碕には、ニシの風にまつわる俚諺も遺されています。それは「西風と夫婦喧嘩は夜になれば止む」と言われるもの で、西風も夫婦喧嘩も夜になれば自然に収まるという意味です。つまり、赤碕の漁業では西風の影響をほとんど受けな いことを表現しているわけですが、その代わりアイノカゼ(北東の風)はしつこい風で、海が荒れるため特に注意して いたようです。

鳥取県のイカ釣具
〈左〉夏泊のトンボ /〈右〉泊のマタ釣具(資料館展示品)

 2回目の調査は3年後の夏で、夜行列車と普通列車を乗り継ぎ、京都から山陰線経由で鳥取入りしました。丹後半島 から続くジオパークのリアス式海岸が砂丘地帯へと姿を変える手前に、浦富海岸の景勝地があります。砂浜から最後の 岩礁帯へと移行する入口に位置するのが田後の漁港で、東浜駅から岩美町営バスを利用し、訪ねました。
 田後のバス停で下車すると、そのまま集落背後の高台にある日和山を目指して歩き始めます。案内板が立つ小さな橋 を渡って階段を上ると、小さな社(田後港神社)が祀られています。そのすぐ上が第一展望所(海抜約20b)で、ここ がかつての日和山でした。さらに尾根を進めば、第二展望所と田後神社です。これら一帯は眺望がよく、日和山として の要件がよく整っています。
 再び漁港にもどって漁師を探しましたが、岸壁には全く姿がありません。漁協の事務所にも行ってみましたが、誰も いない様子です。仕方なくもう一度港内を一巡して引き返す途中、一軒の漁師家の前で71歳(1946年生まれ)の漁師と 出会い、ようやく話を聞くことができました。昔は、港内が約 600隻の小型底曳網船や30隻のイカ釣り漁船などで溢れ ていたと言い、他にブリの一本釣りや刺網漁なども行われていたようです。
 星の伝承は、スマル、カナツキ(三つ星)、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、ヒトツボシ(北極星)、オオボシ (金星)で、イカ釣りとの関係は確認できませんでした。ただし、月の出や入りにはイカが釣れるものの、オオヅキ (満月)の夜は釣れないとのことです。釣れるイカは、シロイカ(ケンサキイカ)とマイカ(スルメイカ)の2種で、 昔はテンマ船(手漕ぎの船)に乗って夜間にトンボ(擬餌鉤)などを使い、細々と漁をしていました。スルメイカは漁 獲量が多い反面値は安く、漁獲量の少ないケンサキイカのほうが高い値がつくというジレンマに、多くの漁師が歯がゆ い想いを抱えていたことでしょう。
 話題を日和山に移すと、漁師はいろいろなことを教えてくれました。地元では、日和山をシュクラマと呼んでいます。 かつては、脇に建つ小屋に毎日10人ほどのベテラン漁師たちが集まり、日和山から海や空を眺めては、その日の日和や 魚模様などについて協議を行っていました。これを、ヤマアガリと称しています。漁師の記憶によると、子どもの頃ま では実際に機能していたようで、ヤマアガリの歴史は古そうです。なお、当時は日和山に設置されている常夜燈に油を 入れて火を灯し、それを頼りに夜の漁を行っていたことも聞きました。
 この日は鳥取市内で一泊し、翌朝再び山陰線の列車で御来屋まで行きました。ここは3年前にも訪れていますが、そ のときは漁師と出会う機会がなかったため、仕切り直しの再訪となったのです。御来屋駅から漁港までは、歩いて10分 ほどの距離です。見覚えのある水産物センター前の岸壁で、船上にいた70代の漁師に声をかけ、話を訊くことにしまし た。しかし、この漁師は星を利用したことがないと言い、昔は灯台の光などを利用したヤマタテが漁の頼りだったよう です。それでも、風に関して興味深い伝承がありました。ここでは北西の風をヤマエダと称していますが、5月から6 月に限って吹く風で、トビウオ漁やハマチ漁の始まりを告げてくれるのです。温かい強風ですが、夜には凪ぐという性 質があります。また南の風はヤマセと呼び、こちらは大山の方角から吹き下ろし、雪を呼ぶ風とされています。そう言 えば、湯梨浜町の泊でも大山方面からくる風をヤマセと呼んでいましたが、同地では西寄りの風となります。
 礼を述べて漁港の奥へ進むと、そこでも船上に漁師の姿を認め、少し話をしました。作業が忙しそうなので、早々に 切り上げて歩き始めたところ、今度は年配の漁師が通りかかったのです。早速、事情を説明して聞きとりを行うことに しました。この人は84歳(1933年生まれ)になる元漁師で、昔は星を目あてにイカを釣った経験があるとのことです。 星の名は、スマル、ミツボシ、シャクシボシ(北斗七星)、イツツボシ(カシオペア座)、ネノホシ(北極星)などを 伝えていましたが、イカ釣り漁との具体的な関係は不明です。
 御来屋では、かつてイワシ網やシイラ網(まき網の一種)、アゴ網などが盛んでしたが、現在はハマチ網やタイ網、 サザエ網などが主流です。アゴはトビウオのことで、この人も北西の風をヤマエダと呼び、アゴが灘に入ってくる頃吹 くのでアゴカゼとも言うと教えてくれました。イカ釣り漁にも若い頃から父親と二人で従事し、当時は二丁艪のテンマ 船でケンサキイカやスルメイカを釣ったそうです。

〈左〉日和山から田後港を望む / 〈右〉御来屋の漁港

 鳥取県の調査では、各地でイカ釣りに関する伝承を記録することができました。島根県以西では、漁獲の主体がスル メイカからケンサキイカへと変化する傾向があり、佐渡や北国などのイカ釣りに特化した指標星の利用は、島嶼部を除 くと鳥取県沿岸がひとつの区切りとなるでしょう。ジオパークから大山の懐へと巡った調査は、日本海の朗らかな景観 にふれながら、懐かしい北国の香りを感じる旅でもあったのです。

[2022年初稿]


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伝説と有明海の星 【佐賀県沿岸地方】

 松浦川が唐津湾へと注ぐ河口右岸の砂浜には、国の特別名勝である虹の松原が広がっています。その南東に控えるの が標高約 284bの鏡山で、佐用姫伝説の舞台のひとつです。それは、宣化天皇の時代(537 年)に、朝廷の命で唐津か ら任那・百済へ渡った大伴狭手彦と唐津に残された松浦佐用姫の悲恋物語として伝わっています。別れに際し、佐用姫 はこの鏡山から船出を見送りますが、その姿は今でも像となって立ち続けているのです。
 初めて唐津を訪ねたのは1975年の春で、当時はまだ本格的な聞きとり調査を行っていませんでした。このときは、佐 用姫伝説を求めて虹の松原から鏡山に立寄り、さらに呼子から加部島へも渡りました。現在は呼子大橋で結ばれていま すが、当時は小さな渡船に乗った記憶があります。訪れた先々で、子どもたちの屈託のない笑顔とふれ合えたことが、 懐かしい旅の想い出となっています。

 

佐用姫伝説の地(1975)
〈左〉別れを惜しむ佐用姫像 /〈右〉加部島の農夫

 それから39年を経て、佐賀県の調査はやはり唐津へと向かったのです。レンタカーで福岡市から糸島市を経由し、虹 の松原を抜けると唐津城が見えてきます。さらに北西へ走ると、唐房漁港で最初の聞きとりを行うことができました。 相手は86歳(1928年生まれ)の元漁師で、ミツボシ、スバル(プレアデス星団)、ヒトツボシ(北極星)、ヨアケボシ (金星)という星名を伝承していました。ヒトツボシは、北の目あてとして利用していたようですが、当地の代表的な 漁のひとつであるイカ釣りにかかわる星の伝承は、残念ながら聞かれませんでした。ただし、満月の夜にはイカが釣れ ないと伝えています。
 イカ漁の対象は、マイカあるいはガンセキと呼ばれるスルメイカが主で、釣具のほうはイカ鉤単体のスルデを基本と して、一本竿にスルデを取り付けたタイプなどが利用されました。また、イカ以外ではチダイをとるタイ網漁やイサキ 網漁などが行われていたようです。
 唐房から海岸線を北上すると、相賀の漁港を見送り、湊漁港に立寄りました。ここでは、70代の漁師から話を聞き、 ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、オオボシ(金星)などの星名を記録しています。イカ釣りは、地元でヤリイカと 呼ぶケンサキイカを主体としており、次の小友漁港でも同じでした。いずれも、イカ鉤単体による一本釣りです。小友 漁港では、紹介された古い漁師を訪ねてみましたが、生憎不在で話を訊けず終いとなったのが心残りです。
 小友の先は、いよいよ呼子の漁港です。みなとプラザという商業施設に車をおいて、ゆっくりと岸壁まで歩いて行く と対岸には加部島が望まれ、39年振りの再訪にふと若き日の光景が蘇ってきました。岸壁ではスルメイカを干していて、 皮を剥いであるため白い身が陽光でより透き通って見えたのです。
 作業をしていた漁師に声をかけ、少し話を聞くことができました。しかし、星の伝承は覚えておらず、内容はイカ釣 り漁が主体です。呼子では、マツイカあるいはガンタロウと呼ばれるスルメイカを始めとして、夏にはケンサキイカ (呼称はヤリイカ、ブドウイカ)漁が、また冬期はヤリイカ(呼称はササイカ)漁が盛んでした。釣具はイカ鉤単体の スッテが基本で、これに浮きスッテを組み合わせた連結タイプや擬餌鉤の代わりにコノシロやキビナゴなどの生餌を付 けたスカシと呼ばれる漁具があります。スカシは直接イカを釣るのではなく、生餌で海中のイカを上層へと誘いあげ、 タモ網で掬い獲るという漁法です。
 すると、そこに80代の漁師が来て、話の輪に加わりました。この人は、スバルとヨコジキという星があると言い、こ れらの星の入りには日和が変わる(陽気がわるくなる)と教えてくれました。ヨコジキというのは、オリオン座の三つ 星だけでなく、周辺の四星を含むような説明でしたが、詳しいことは分かりません。風の伝承では、北東の風をキタと 称し、本来の北の風はタカカゼと呼んでいます。また、オシアナ(南東の風)やタカニシ(西北西の風)など、地域特 有の呼称が見られます。

 

〈左〉呼子の鯣干し /〈右〉夜明けの外津漁港

 翌日、長崎県平戸周辺での調査を終えて帰路に立寄ったのは、伊万里市の波多津漁港でした。道路沿いの岸壁で、延 縄の準備をしていた70代の漁師がいたので、少し話を聞きました。星の名は、スバルとヨアケノミョウジョウだけでし たが、「スバルの入り、西におとす」という俚諺を伝えていたのです。これは、スバルが西に沈む頃は西風が吹いて海 が荒れるという意味で、西日本ではよく耳にします。この漁師が用意していた延縄は、一鉢分の長さが約1000bもあり、 1回の漁で3〜4鉢分の仕掛けを海に入れるとのことでした。この時期(11月)には、アナゴが獲れるようです。
 別な85歳(1929年生まれ)の女性の話によると、昔はイカを獲ったりメバルなどを釣っていたそうですが、今は漁師 がだいぶ減ってしまったとのこと。港内を見渡すと、確かに漁船は少なくレジャーボートが目立ちます。この女性は、 かつて旧暦8月15日に行っていた十五夜の様子を話してくれましたが、子どもたちが供えものを貰いに歩く風習は伝わ っていませんでした。
 そして、調査3日目は朝早くから、玄海町の外津漁港にいました。岸壁に車を停めて夜明けを待っていると、やがて 漁師らしき人がこちらへ歩いてきます。ようやく薄明を迎えた頃でしたが、早速外に出て聞きとりを始めました。港の 様子を見に来たというこの人は、80歳(1934年生まれ)になる外津の現役漁師で、父親から星の伝承を聞き覚えていま した。まず教えてくれたのはスバルで、昔は漁をしながら「スバルが出よった」などとよく言っていたそうです。次は ヨコズキとよばれる星で、夏の夜明けに縦に三つ並んで出て、秋になると西に傾くとの説明がありました。そして、夜 明け前に出るのがオオボシです。
 ヨコズキは、呼子で聞いたヨコジキと同じ星のようですが、こちらは明確に三つ星そのものを指していることが分か ります。それほど離れていない地域で、星名の転訛だけでなく星の見方にも違いがみられるということは、その背景に 複雑な伝播経路の存在があるのかもしれません。
 漁では、やはりイカ釣りが主体であったようで、ヤリイカ(ケンサキイカ)とガンセキ(スルメイカ)を獲っていま した。ケンサキイカの漁期は4〜8月で、かつては炭火で乾燥させて鯣に加工していたと言います。一方、スルメイカ の漁期は12月〜翌年1月までとなっており、いずれもスッテと呼ばれる擬餌鉤か生餌を付けるタイプのイカ鉤で一本釣 りされました。
 二度目の調査は、2018年5月になってようやく実現しました。有明海沿岸で記録されたヨコゼキという星名の正体を 解明すべく、長崎、佐賀、熊本各県の有明海を歩くという目的の一環で訪ねたのは、佐賀県太良町だったのです。
 この日は、諫早から長崎本線で肥前大浦駅まで行き、駅前からバスで竹崎港へ向かいました。終点で下車すると、漁 港には比較的多くの漁船が係留されており、ここが竹崎ガニ(ガザミ)の漁で有名な地域であることに、暫し感慨深い 思いがこみ上げてきました。しかし、周辺を見渡しても人影はなく、来た道をゆっくりと歩きながら漁師の姿を探しま す。結局、聞きとりの機会がないまま竹崎港を離れることになり、竹崎城址展望台へ向かうことにしました。
 本来の城址は、少し離れた場所にありますが、展望台からの眺望は素晴らしく、諫早湾を隔てた対岸には雲仙普賢岳 の山容が望めます。下を見ると、広場で会話をする二人の女性が目にとまりました。早速、展望台から降りて声をかけ たところ、二人とも80代でしたが覚えていた星名はナナツボシとアケノミョウジョウだけでした。他に月暈や月の近く に出る星に関する伝承を記録したものの、有明海の漁についての情報はやはり得ることができません。

 

有明海の景観
〈左〉空と海の彼方 /〈右〉展望台から望む雲仙普賢岳

 そこから、一旦細い海峡を渡って大浦地区に入り、有明海に沿って北上します。途中、いくつかの漁港が現れますが、 船溜りには漁船が少なく、当然のことながら漁師の姿はありません。それでも、有明海の空と海は青く澄み渡り、水面 は初夏の陽光に輝いていました。とうとう最後の小さな漁港に着きましたが、やはり人影はなく、少しばかり落胆の気 分で駅へ戻ろうとしたときでした。何気なく目を向けた作業小屋のような建物の奥で、一人休んでいた老漁夫をみつけ たのです。
 すぐに事情を説明し、ようやく聞きとりを行うことができました。この人は野崎水谷漁港の元漁師で、81歳(1937年 生まれ)になります。父親は明治40年代の生まれと言い、多くの星の伝承を受け継いでいました。まず、キタノミョウ ジン(北極星)は北の空で動かない星です。スバリ(プレアデス星団)、ミツボシの次に出てきたのはアブラマスとい う星名で、おおぐま座の北斗七星のことです。アブラマスは、文字通り油を量るための持ち手が付いた四角の桝で、こ うした桝形は、一般にオリオン座の三つ星を含む四辺形などに対する呼称として知られています。北斗七星も、4星を 桝とし残りの3星を把手とみれば、確かに桝の星に違いありません。このような見方は、九州の他県などでいくつか事 例がみられます。

 

〈左〉持ち手付きの油桝 / 〈右〉北斗七星の桝と持ち手

 さて、ヨアケノミョウジョウやヨイノミョウジョウを含めて、これらの星々は、いずれも有明海のゲンシキ網を始め とする夜の漁で利用された指標星でした。島原地方で記録されているヨコゼキ(三つ星)という星名は、ゲンシキ網と 同じ流し網がその由来で、呼子や玄海町ではヨコジキなどの呼称を確認できたものの、どうやら佐賀県の有明海漁師に は伝わっていなかったようです。結果的に、長崎県や熊本県の有明海沿岸においても、ヨコゼキに関する星名や漁網の 情報は得られなかったわけで、ある程度の展望は開けたものの、核心部分の解明は今後の課題として残ってしまいまし た。ヨコゼキがゲンシキ網と深いかかわりをもつことは間違いないものの、それを決定づける証拠がみつかりません。 その手掛かりは、やはり有明海の空と海に隠されているようです。

[2022年初稿]


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てぃんぬぶりの島 【沖縄県本島地方】

 南西諸島では、多様な星の民俗が展開されており、とりわけ沖縄から八重山にかけての地域で特徴的な伝承がみられ ます。さらに、21世紀を迎えてもなお一定の伝承力が維持されている現状は、目を見張るものがあります。それまで、 宮古や八重山では詳細な調査を実施してきたものの、沖縄本島をじっくりと訪ね歩く機会は、なかなか実現しませんで した。本島周辺の星の文化は、宮古や八重山と共通する部分と異なる部分があり、それぞれに味わい深い趣が感じられ ます。
 そうした人びとの記憶にのこる伝承を始め、現在も継続されている信仰や行事の実態を何とか記録に留めたいという 思いが実現したのは、2019年の晩秋でした。関東では、朝晩の空気が次第に冷え込む季節ですが、沖縄地方は日中の気 温が25℃を超えるような暑いほどの陽気です。今回の調査は、北部の国頭村から南部の糸満市にかけて、漁港を中心に 5日間かけて巡ることにしました。聞きとりの内容も星の伝承だけでなく、十五夜綱引きやウシデークなどの民俗行事、 遠見番所や火立の遺構など多彩です。各地の調査記録を整理してみると、やはりこの地の伝承力は健在であったと実感 するばかりです。

沖縄本島の調査地図

 初日は、9時頃に那覇空港へ降り立ち、路線バスで一路名護へ向かいました。一旦バスを乗り換え、さらに北部の辺 土名に着いたのは午後1時過ぎでした。早速漁港へ行って漁師の姿を探しますが、最も期待できない時間帯だけに人影 は全くありません。気持ちを切り替えて、予定通り奥間地区まで歩いて引き返すことにしました。集落に入って暫らく 進むと、自宅の掃除をしていた60代の女性と出会い、最初の聞きとりが始まります。
 伝承者としてはかなり若い世代ですが、子どもの頃に聞いた星名として、ミツブシ(三つ星)、ナナチブシ(北斗七 星)、ユアケブシ(明け方の金星)、ユウパンブシ(宵の金星)などを覚えていました。十五夜綱引きについても、綱 の作り方から綱引きのやり方、土地に伝わる習俗など、詳しく教えてくれました。なお、十五夜そのものの行事に関し ては、いわゆる月見のような風習はみられず、各家庭でフキャギ餅を作って仏壇に供えるだけです。グシチ(ススキ) などを月に供えることは、しないということです。ウシデークについては、海神祭(旧暦7月最初の亥の日)の翌日に 開催されることが多いそうで、十五夜とのかかわりはみられません。また、旧7月7日の七夕も特別な行事はなく、毎 年墓の掃除をする日となっています。
 さて、十五夜の綱引きが行われるという小学校の校庭を確認した後、近くの観光案内所で、綱引きに関する展示を見 ることができました。そして、奥間ビーチ入口からバスで次の調査地である大宜味村の塩谷漁港へ向かったのです。や がて、バス通り沿いの防波堤に囲まれた港内に入ると、一部が工事中で船は少なく、やはり漁師の姿はみられません。 西側の防波堤からは、小さな島影と陸地が望まれ、古宇利島と今帰仁村の景観であることが分かりました。
 予定していたバスの時間まで間があるので、塩谷の集落内を歩きまわっていると、畑仕事をしていた70代の男性に出 会いました。少しだけ話を訊いたところ、ここは元来半農半漁の土地柄で、数年前に最後の専業漁師がいなくなってか らは、漁師と呼べる人はいないとのことです。かつては、刺網漁や定置網漁、シャコ貝漁などが行われていたものの、 現在はウミブドウの養殖を細々とやっている状況だそうです。古い人たちがよく言っていた星の名として、ニヌファブ シ(北極星)やナナチブシなどがあるとのことでしたが、十五夜綱引きやウシデークなどの行事は実施されておらず、 フチャギ餅も作らない土地柄のようです。

 

〈左〉奥間小学校の綱引き場所 /〈右〉雄綱と雌綱をつなぐカンヌキ

 この日は名護に宿泊し、翌朝早くバスで本部町の渡久地漁港を訪ねました。渡久地は町の中心となる地区で、西の海 上には瀬底島や水納島があり、少し北には1975年の沖縄国際海洋博覧会を記念して整備された海洋博公園もあります。 漁港の岸壁で60代の瀬底島の漁師から少し話を聞いたあと、街中を歩いて70代の男性と出会い、聞きとりを行いました。 まず、星の伝承としてはニヌファブシ(北極星)、ブリブシ(プレアデス星団)、アケマブシ(明け方の金星)、イチ バンブシ(宵の金星)、ナアリブシ(流星)、ティンガーラ(天の川)があります。また、風位呼称ではニシカジ(北 の風)、アガリ(東の風)、ハエノカジ(南の風)、イリカジ(西の風)を聞きました。
 十五夜綱引きについては、現在のところ豊年祭と交互に行われるため、7年に1回の開催となっています。ただし祭 りは盛大で、雄綱と雌綱ともに長さ約50b、太さは70〜80aもあり、全て稲藁で作られます。これをアガリ(東)とイ リ(西)に分かれて引き合うわけですが、地元ではアガリが勝てば豊作、イリが勝てば豊漁と伝承されています。渡久 地でも、ジュウグヤ(旧暦8月15日)にはフキアゲ餅を作って仏壇に供えますが、家によってはこの餅を月に供えるこ ともあったようです。
 毎年、8月14日から15日の2日間(本来は旧暦7月)は、渡久地神社前でウシデークが行われます。これは、女性だ けが参加する行事で、広場に集まり太鼓を叩きながら歌い、輪になって踊るという内容です。そうした唄のひとつに 「天の群星」がありますが、残念ながら歌詞などの詳しい情報は得られませんでした。ところが、幸いにも『沖縄本部 町字渡久地に伝わる臼太鼓歌の記録』〔文0365〕に歌詞と曲が記録されており、1から4の歌詞に中に、天の群星(プ レアデス星団)や黄金三つ星(オリオン座)、それに月や天川(アマノガワ)が登場します。しかも、ウシデークの唄 として天の群星が歌われているのは、渡久地を始めとする本部町の各地区に限られているのです〔『沖縄本島北部の臼 太鼓』文0366〕。
 渡久地からバスで本部港に戻ると、今度は定期船に乗船して伊江島へ渡りました。伊江港までは約30分の航路ですが、 瀬底大橋を潜ると伊江島が次第に大きくなってきます。ほぼ平坦な島影に、シンボルである城山がニョキっと顔を出し た景観がユニークです。ほどなく、船は伊江港に接岸しました。
 港のターミナルから東へ5分ほど行くと、具志漁港に着きます。ここには多くの漁船が係留されていて、暫らく様子 を眺めていたところ、漁師らしき人が通りかかったのですぐに声をかけてみました。その人は80代の漁師経験者で、15 歳の頃から漁を始め、数年間は伝統的な船であるサバニで追い込み漁をした経験があるとのこと。1963(昭和38)年に は、伊江島で初めてソデイカ漁をやることになり、今でもイカ釣り船が操業しているようです。
 島に伝承された星は、ブリブシ、ミチブシ、ナナチブシ、ニイヌファブシ(北極星)、ユウアキブシ(明けの金星)、 ユウバンマンジャー(宵の金星)、ヤーウーチィブシ(流星)と多様で、もうひとつナビゲエブシと呼ぶ星があると教 えてくれました。ナビゲェというのは柄杓やお玉(杓子)のことで、これまで記録されていない新しい星名でした。ブ リブシとミチブシについては、漁の目安になったと言い、漁業における星の利用が認められます。
 ところで、伊江島の調査では「天の群星(てぃんぬぶり)」と呼ばれる唄と踊りが、重要な調査対象となっていまし た。本部町のウシデークで歌われるのと同じタイトルですが、伊江島では二才(にぃせぃ)踊りで歌われる曲のひとつ で、歌詞も本部町のそれとは異なる部分が多くみられます。とりあえず、この唄が伝承されている東江上区の公民館を 訪ねたところ、役場の方を紹介されて話を聞きました。二才踊りには、いくつかの型があるようですが、天の群星に関 しては、二人の青年が黒い衣裳で右手にゼーを持ち、飛び跳ねるような所作で踊るのが特徴のひとつとされています。 また、黄金(クガニ)三つ星という歌詞にみられる黄金という言葉の重要性についても、指摘がありました。なお、伊 江島にはウシデークの行事はなく、代わりにアヤーメウタと呼ばれる唄や踊りが伝わっており、子どもの誕生を祝った り、その成長や家内安全などを祈願するということでした。

 

〈左〉ウシデークの渡久地神社 /〈右〉定期船から望む伊江島

 3日目は本部半島から南下し、勝連半島の沖にある浜比嘉島、平安座島、宮城島を調査しました。今では、伊計島を 含めて全ての島々が橋によって結ばれているので、与那城発着の路線バスに乗って周遊することができます。最初に訪 れたのは浜比嘉島で、東部の比嘉漁港でバスを降り、そこから北西部の浜漁港まで歩きました。比嘉は寂れた漁港でし たが、勝連浜のほうは活気があり漁師の姿が目立ちます。早速70代の漁師から聞きとりを行ったところ、ニイヌワブシ (北極星)、ムリブシ(プレアデス星団)、ナナチブシ、ユウバンマンジャーなどの星名と伝承を聞きました。
 その後、浜公民館でウシデークについて詳しい人を紹介してもらい、近くの福祉施設で少しだけ話をすることができ ました。この地区のウシデークは、暫らく途絶えていたようですが、1959(昭和34)年に復活し、今では旧暦6月に2 回開催されています。1回目は旧6月20日で、ヒヌカン(地頭代火の神)を中心に3ヵ所を巡って唄と踊りを奉納しま す。2回目は、旧6月24日から25日の豊年祭に合わせて行われるようです。過去の録音テープを頼りに練習を続け、近 年は子どもたちへの伝承にも力を入れているとのことでした。ただ、歌詞や曲に関しては公開していないそうで、詳細 は不明です。
 十五夜については、やはり特別な行事はなく、フチャギ餅を作って仏壇へ供えると言います。また、公民館近くの伝 統的な古民家では、屋敷の四隅や門口にグシチ(ススキ)で作られたシバサシを見ることができました。沖縄地方では、 旧暦8月に行われる魔除けの習俗です。
 予定していた聞きとりが終わったので、次は宮城島へ向かいました。この地区でウシデークが行われているのは、宮 城地区だけですが、開催されるのは毎年ジシチ(旧暦8月15日)の夜とされています。集落内のイーナーグスク(名城 家)から始まり、宮城御殿、スンチナー、フクイジムィを巡回し、それぞれの場所で唄と踊りが奉納されます。唄はム トゥブシ(最も古い元節)を含む29曲が記録されているものの、詳細については分かりません。この行事には、住民の 暮らしにかかわる奉納踊りとしての一面もあるようですが、呼称は地区によってウスデークやウシンデークなどさまざ まで、臼太鼓を語源とする考え方に疑問を投げかけています。
 宮城島では、池味漁港で60代の漁師から少し話を聞きましたが、具体的な星の伝承は記録できませんでした。ただ、 風の伝承としてニンガチノカジマヤーというのがあり、旧暦2月頃に吹く春一番のことで、かつてはこの風によって命 を落とした漁師もいるので、特に注意が必要だと言います。その後、一旦与那城に戻ってからバスを乗り換え、那覇へ 向かうことにしました。

 

〈左〉浜比嘉のシバサシ / 〈右〉宮城島遠望

 残りの2日間は、那覇を拠点に南部地域を歩きました。4日目は、早朝にモノレールとバスを乗り継いで糸満まで行 き、漁港周辺で聞きとりを行いましたが、60代の漁師からニイヌファブシとブリブシを記録した程度で、星の伝承は低 調でした。それでも70代の男性からは、出身地である糸満市真栄平地区の綱引きに関する情報を得ることができました。 当地では年3回の綱引きがあり、1回目は旧6月下旬の子ども綱、2回目が旧7月15日の盆綱で、最後は旧8月15日の 十五夜綱へと続きます。
 糸満の市街地でも、ジュウグヤ(十五夜)の夜に有名な大綱引きがあり、綱の長さは雄綱と雌綱を合わせて 150bも あると言われています。このように、沖縄本島で十五夜に綱引きを実施するのは南部に多く、糸満市に集中しているの です。この後訪ねた山城地区でも、旧暦8月11日に1回目の綱引きがあり、子どもたちの相撲も行われました。そして 2回目がジュウグヤの夜で、終了後には集落の外れで綱を燃やし、参加者がその上を飛び越えるという習わしが伝わっ ています。なお、山城では米がとれないので、綱はマカヤ(チガヤ)を利用するようです。
 話を聞いた公民館の元区長は69歳(1950年生まれ)ですが、小さい頃両手の甲にハジチ(針突の意味で入墨のこと) をもったオオババから教えられた星の伝承をよく記憶していました。その中に、伊江島の漁師から記録したナビゲエブ シ(柄杓星)があったのです。これは、沖縄本島における普遍性を示す事例として注目してよいでしょう。他にもユウ バンマンジャーブシやヤーウーチィブシが山城の空に生きていました。その後は、米須地区の公民館を訪ねて、区長よ りウシデークと綱引きの話を伺い、大渡地区でも畑仕事をしていた80代の女性から、ジュウグヤの綱引きについて情報 を得ることができました。
 この日は、最後にどうしても立ち寄りたい場所があり、大渡からバスを2度乗り継いで与那原町まで足を運びました。 糸満と並んで大綱引きが行われる町だけに、綱曳をテーマにした資料館が開設されていたのです。館内には、本物と同 じように作られた小さなサイズの綱を始めとして、関連するさまざまな資料が展示されており、映像による解説も大い に参考になりました。
 さて、調査もいよいよ最終日を迎えました。昼過ぎの航空便で帰路に着くため、調査時間は午前中しかありません。 いつものように朝早く宿を発ち、モノレールの首里駅で下車。そのまま、火立毛と呼ばれる遺構を目指して歩き始めま した。初めは仄暗かった空も次第に明るさを増し、火立毛の丘に立った頃には、東方の叢雲から差し込む朝日が一際映 えて見えました。ここからの眺望は素晴らしく、天候に恵まれればかなりの遠方まで見通すことができそうです。近世 における火立(烽火)のネットワークによれば、本土の東方ルートは北部の安波から伊部岳、ギナン崎、天仁屋、そし て宮城島の上原を経由して、首里の弁之御嶽に伝達されたと考えられています〔『天仁屋バンサチ(番崎)の火立跡調 査報告書』文0362〕。おそらく、宮城島からの火立を確認していたのは、この丘だったのではないでしょうか。宮古や 八重山に遺る遠見番所のように、海や空(夜も含めて)を凝視していたであろう時代が思い起こされます。
 急ぎ足で回った沖縄本島の調査でしたが、予想以上の伝承と出会えたことが感謝であり、今回は訪ねることができな かった地域にも多くの星の伝承が眠っていることを確信した旅となりました。

 

〈左〉綱曳資料館の展示 /〈右〉首里の火立毛

[2022年初稿]


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豆餅とムトゥ 【沖縄県宮古島地方】

 沖縄と八重山諸島に挟まれた宮古の島々。距離的には八重山に近いものの、その暮らしや文化には他の島嶼群と異な る一面がみられます。星の民俗においても、宮古らしい伝承がまだ眠っているのではないか、そんな期待を抱きながら 訪れたのは、2017年の晩秋です。この調査では、星の民俗にかかわる通常の目的以外にも、いくつか確認したい事項が ありました。ひとつは、星見石の可能性が高い立石遺物の調査、さらに遠見台の遺構に設置された方位石や十五夜をめ ぐる行事・習俗など興味は尽きません。
 宮古空港に降り立ったのは午前10時頃で、とりあえず荷川取の漁港まで歩くことにしました。周辺にはサトウキビ畑 が広がり、懐かしい景観を眺めながら進むうちに出会ったのは、63歳(1954年生まれ)の男性です。念のため星の伝承 について尋ねると、ユアケプシ(夜明けの星)やナガレプシ(流星)の名を出し、宮古では星のことをフシやプシ、ブ シ、ブスなどと呼び、昔は農作業や海の漁で星を目あてにしていたと教えてくれました。ナガレプシについては、「星 は流れて違う星に生まれ変わるので、それを見た人も同じように生まれ変わる」と言います。
 また、旧暦8月15日の十五夜にはオハギを作って月に供えたり、墓にも供えるということです。これは、粟や麦を炊 いて片手で握り、その周りに味付けしないで煮た小豆をまぶしたものです。十五夜と言ってもススキは供えないようで すが、南九州などで行われる十五夜綱引きが重要な行事となっていました。当地では、かつて十五夜をはさんだ7日間 に亘って開催され、東西に分かれて全長 150b余りの大綱を引き合うこと21回に及びました。このとき、東が勝てば豊 作、西が勝てば不作になるとの伝承があり、その後はクイチャーを踊って酒盛りをしたそうです。綱は各自が長さ約1 b、太さ2〜3a程に切り取って持ち帰る習わしがあり、それによって家が栄えると伝承されています。
 暫らく歩いて市街地に入り、荷川取の漁港に着いたものの漁師の姿はありません。聞きとりを諦めて、ブ・バカリ石 を調べることにしました。この立石は、人頭税石とも呼ばれる高さ約 145aの琉球石灰岩で、南東側に約3b離れた場 所にも高さ約80aの石があります。黒島為一氏によると、これら一対の石は農業における星利用のための遺物(星見石) と考えられ、低い石の頂部から高い石の頂部を見通して目標とする星の位置を確認し、季節の変化を捉えて農事の節目 を知る手立てとしていたのです。一応それぞれの位置関係や方位などを記録したものの、かつて行われた埋め立てや道 路工事などの影響によって現状は大きく変化しており、星見石としての機能は失われています。
 そろそろ、この日の調査を終えようかと考えていたとき、道を尋ねた80代の男性からジュウグヤ(十五夜)の話を聞 きました。旧暦8月15日には、フカギと呼ばれる餅を作って皿に盛り、台の上に置いて月に供えたと言います。フカギ はモチ米を蒸し、それを片手で握って煮豆(黒豆か小豆)をまぶした食物です。十五夜には欠かせない存在ですが、そ の一方でススキは供えません。

 

〈左〉ブ・バカリ石 /〈右〉星を観察するイメージ

 翌日は、北部の池間島を訪ねました。今は池間大橋でつながり、中心部からバスが直行しています。漁港前でバスを 降り、近くの漁協事務所に立寄ると居合わせた70代の男性から話を聞くことができました。かつての漁で利用していた 星は、ニヌファブシ(北極星)、ムリブシ(プレアデス星団)、ミツブシ(三つ星)で、風の伝承としてニヌファ(北 風)、アガリ(東の風)、ハエ(南の風)、イリ(西の風)があります。特に5月から6月にかけて吹く強い南風は、 ウッバイと呼んで注意してきました。
 方位といえば、池間では東西南北のそれぞれを司る神がおり、その中心にも神がいて、それらは天上の星々と深いか かわりがあると考えられています〔『沖縄の宇宙像』文0032〕。たとえば、北のトゥユンバジュルク神には北斗七星、 東のナイカニ神にはオリオン座の三つ星、そして中央のナカドゥラ神は北極星(ネノハンマティダ神)と結びついてい ると捉えられていました。漁港の背後には、丘の稜線上で大きくV字状に切れ込んだ岩峰があり、バリナウダキあるい はバイミなどと呼ばれています。その向こう側はナナムイの神々が祀られたオハルズ御嶽(大主神社)で、この岩峰は 「神々の乗った船が北のフナスクを経て天界へ向かう出口」との伝承があります〔文0032〕。
 男性の話によると、オハルズ御嶽では毎年10月(本来は旧暦8〜9月の甲午の日から3日間)にミャークヅツと呼ば れる行事が開催されます。これを担うのが血縁や祭祀などの集団によって組織されたムトゥで、ミャークヅツの期間中 は55歳以上の男性全員がそれぞれに所属するムトゥヤーに集って祈願を行うとのことです。したがって、池間では男子 が誕生するとツカサンマに祈願を依頼し、父親と同じムトゥの一員となるのです。
 漁港をあとにしてオハルズ御嶽へ向かう途中、70代の女性と行き会い、星の伝承を聞くことができました。昔の人た ちは、星を見て暮らしていたと言います。母親から受け継いだ星は、ニヌファブス(北極星)、ミツブス(三つ星)、 ンミブス(プレアデス星団)、フニブス(北斗七星の一部)、アカファイフブス(夜明けの金星)、ユウファイフブス (宵の金星)で、アカファイフブスは「朝飯を食べる大星」、ユウファイフブスは「夕飯を食べる大星」を示していま す。金星については70代の漁師も伝えていて、ユウファイフォブスと聞きました。夕方の西空に出る大きな一つ星で、 ユウファイは「夕飯を食べる」、フォブスは「大きな星」を意味するとのことです。この漁師は、「ティダ(太陽)に 暈がかかると天気がくずれる」とか「ブス(星)がチカチカするときはカジ(風)が出る」など、一般的な日和見も伝 承していました。
 公民館のある広場から海沿いに進むと、左手にオハルズ御嶽が現れます。ここは池間島全体の守護神であり、ナナム イの神々(太陽と月および五つの方位神)が祀られています。ミャークヅツの特別な日以外は一般の立ち入りが出来な いため、参道の一部しか見ることができません。さらに進むと道は二手に分かれ、左の道の奥にはマイヌヤームトゥ (前之屋元)があり、右の道を行けばすぐにアギマスムトゥ(上桝元)とマジャムトゥ(真謝元)があります。いずれ も池間地区のムトゥで、このほか公民館の近くに建つのが前里地区のマイザトムトゥです。ミャークヅツの期間中は、 多くの男たちで賑わう場所ですが、今はひっそりとしています。
 この分岐近くからオハルズ御嶽に続く森に分け入ると、10分ほどの登りで見晴らしのよい場所に出ます。そこは、高 さ70〜90aの石組に囲まれた所で、かつての遠見台の跡でした。案内板によれば、1644年に薩摩藩支配の琉球王府によ って設置されたもので、海上交通の監視や通報(烽火)機能を担っていました。宮古島内では5ヵ所(池間、狩俣、島 尻、砂川、来間)に現存し、国指定の史跡となっています。池間の場合は、地形的に南部丘陵帯の南東端に位置してお り、北東から北西にかけて眺望があります。遠見台に立つと、東方には池間大橋の背後に大神島が浮かび、橋の先には 狩俣・島尻方面、さらに目を移すと伊良部島も確認できます。かつての番所役人も、こうして日夜目を凝らして海と空 を見つめていたことでしょう。ここには、昭和25年頃までピャイイス(方位石)が設置されていたようですが、現在は ありません。

 

〈左〉天界へ通じるバリナウダキ /〈右〉オハルズ御嶽の鳥居

 遠見台を降り、オハルズ御嶽から池間公民館前の広場へともどってきました。ミャークヅツの2日目には、ここでク イチャーが盛んに踊られると言います。そこから、マイザトムトゥの前を通って海沿いに歩いて行くと、電柱に「十五 夜ちょうちん祭り 10月4日 水浜公民館」という貼り紙がありました。すでに季節が移っていますが、楽しげな言葉 に興味をそそられて先を急ぐと、海辺に60代の女性がいたので早速話を聞くことにしました。
 この地域の十五夜は、旧暦8月15日に各家庭や隣近所だけで行われると言い、フキャギと呼ばれる餅を作って月に供 えました。フキャギはモチ粉を水で溶いて煉り、これを片手で握って形をつくってから蒸すか茹でた餅のことで、塩少々 で煮た小豆(黒い豆)をまぶせば出来上がりです。そこで、気になっていたちょうちん祭りについて尋ねると、次のよ うな話をしてくれました。この地域では、十五夜の日に親が子どもたちのために球体や直方体などの提灯を作るそうで す。絵や文字などはなく、夜になると子どもたちは提灯を点して海辺を歩いたりしました。そして、月に供えたフキャ ギを食べたのです。なお、ススキを供えることはしないようで、綱引きの行事もありません。宮古島内でも少し特異な 十五夜の習俗と考えられます。
 池間島での調査が一段落したところで、漁港前からバスに乗って狩俣へ向かいました。集落の入口には、アーヌカー と呼ばれる古い井戸や石組みの大門などが遺っていて、かつての暮らしぶりが偲ばれます。その少し先で、運よく自治 会長を務めている男性と行き会いました。話を聞くと、狩俣では現在も十五夜豊年祭が健在で、メイン行事である大綱 引きの他に、部内パレードやエイサー・クイチャーの踊り、民謡ショウなどが盛大に行われています。当日は、狩俣の 歴史を物語る遺跡や史跡を巡り、その都度「十五夜の歌」を歌いながらクイチャーを踊るということです。こうしてみ ると、豊年祭は単なる収穫儀礼の行事ではなく、狩俣の歴史を形成してきた人びとを称え、祖霊神に感謝を捧げる日で あるのかもしれません。

豊年祭の歌と巡回場所
  場 所 備 考
@ 豊年の歌(十五夜) 東の門 集落の表門にあたる出入り口
A 狩俣ぬイサミガ キタジャーの四又  
B とぅみ下ぬウカバ木(十五夜) ザー ザーは村の広場、寄合いの場
C 四島ヌ主(十五夜) ウプマヤー ウプマヤーの8代目が四島ぬ主
D 根間ヌ主(十五夜) 根間ヌ主イビ付近 このイビは伊良部家の元屋敷跡
E 十五夜の歌 大通り 大綱引きが行われるウプンツ

 あーぬぶじゃー(東の大門)から遠見台へ向かう途中、狩俣にある4ヵ所のムトゥの一つであるシダディムトゥがあ りました。その脇を通る道はやがて細い上り坂となり、小高い丘へ続いています。突き当りを右に進むと、石垣に沿っ て小さな草地に出ました。ここが狩俣の遠見台で、東の海上には大神島を望むことができます。石垣に接して設置され ているのは方位石で、その天面にはやや不規則な方位線が認められ、遠見が行われていた当時の状況を思い浮かべるこ とができました。その後、島尻地区でも遠見台と方位石を調査し、ひとまず平良市街へもどることにしました。

 

〈左〉あーぬぶじゃー(東の大門) /〈右〉狩俣の遠見台と方位石

 最終日は島の南東部を訪ね、七又に遺された石造物の調査や聞きとりなどを行いました。この立石は地元でウンヌン ナックと呼ばれ、荷川取のブ・バカリ石と同様に高低差をもつ一対の琉球石灰岩です。本来は2ヵ所に存在するはずで すが、実際に調査できたのはI氏が所有するサトウキビ畑にある石のほうで、もう1ヵ所については確認することがで きませんでした。I氏の話では、畑にある2個の石はかつて別な場所へ移された経緯があるとのことで、その後元の場 所にもどされたとは言うものの、位置関係や埋め込みなどの条件はかなり変化しているものと推察されます。いずれに しても、石の大きさや形状、本来の設置状況などを考慮すると、星見石であった可能性が高いでしょう。
 七又では、80代の女性から「この辺りは米を作ってもよくできないので、昔からキビ(サトウキビ)を作っている」 と聞きました。そして旧暦8月15日のジュウグヤ(十五夜)には、フカギ餅を作って神棚へ供え、月を眺めながらフカ ギを食べたと言います。ここでも晩になると綱引きをしたり、クイチャーを踊って楽しく過ごしていたのです。隣接す る福里地区でも、70代の男性が十五夜の行事について話してくれました。この夜はブンミャー(番所跡)がある広場で、 十五夜踊りが盛大に行われたようです。かつてはヤマからキャン(からむし)と呼ぶ蔓を採取し、それを撚りながら太 さ約10a、長さ数十bの綱を作り、ブンミャー前の県道で集落の東西組が綱を引き合いました。
 このように、宮古島の十五夜行事はクイチャー(踊り)や綱引きを主体として、地区によって特徴的な習俗が付加さ れています。沖縄本島や八重山諸島との類似点あるいは相違点にも留意する必要があるでしょう。なかでも豆をまぶし た餅の文化については、今回の調査を通してその重要性を再認識することになったのです。

 

〈左〉ウンヌンナックの立石 /〈右〉福里のブンミャー

[2022年初稿]


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