星ところどころ

 私が星の伝承を求めて各地を訪れるようになったのは、1974(昭和49)年5月に日本海の小さな離島(山形県酒田 市飛島)に渡ったのがきっかけでした。そこで、元漁師の古老から思いがけず星の伝承を聞かせてもらったのです。 しかも、イカ釣り漁という生業のなかで星が利用されてきたという事実に深い感銘を受けました。

◇ 旅情豊かな海の夜明け(東京都八丈島) ◇

 こうして始まった採集の旅も、途中いく度かの中断をはさみながら半世紀を迎えようとしています。この間、実に 多くの方々との出会いと語らい、そして時には名残惜しい別れがありました。採集カードは1600枚を超え、残念なが ら星の伝承を記録できなかった方々も含めると、2000人以上の人に声をかけたことになります。私を長年にわたって 伝承の採集へと誘ってくれたのは、かつて北海道の岩内でいろいろと協力くださったTさんより送られた次の言葉で した。

 すれ違っても分からない 星の狩人ただ一人
      肩にこぼれてくるものは 春告げ星のしずくです

 〈星ところどころ〉は、全国47都道府県の調査のなかで、特に印象深い人々との出会いや暮らし、景観、風土など を紀行風に綴った読み物です。一部は、かつて『てんぶんがく』という同人誌に不定期で掲載したものを、さらに読 みやすく書き改めたほか、他は新たに書き下ろしました。現在、東日本27編と西日本25編の合わせて52編を展示して います。なお、地名等は調査当時の自治体区分によって記載してあります。


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ゴドリイカの海 【北海道積丹地方】

 イカ釣りの星の伝承を求めて積丹半島の町や村を訪ねたのは、1976年早々の厳冬期でした。前年の秋にも いくつかの漁港を訪ねてはいましたが、本格的な調査は冬を迎えてからで、半島に程近い小樽の街に滞在しな がら、雪のなかを何日も通い続けたのです。忍路や古平、余市、美国、余別、岩内、入舸、泊、神恵内などの 地名は、もうすっかり心の裡にとけ込んでしまっています。
 イカ釣りに星が見られていたことは、山形県の飛島で初めて聞きました。これが、日本の星の伝承に惹かれ るきっかけにもなったのですが、それ以来久しく北国の漁村に興味を抱き続けてきた経緯があります。本場と いわれた函館や松前ではなく、ニシンが去ったあとの忘れられた積丹の地にその思いを叶えてみたかったので す。冬という季節も、雪に閉ざされた厳しい自然のなかであればこそ、そこに暮らす人びとの温かい持て成し を十分に伝えてくれたばかりでなく、漁師らの星を語る朴訥さは、冬海に生きるゴドリイカのような深い哀愁 に満ちていました。

 

◇ 冬の積丹半島 ◇
〈左〉半島の東海岸 /〈右〉寒村の小船

 かつての積丹の漁師らは、川崎船にトンボやハネゴと呼ばれるイカ釣り具を積んで海に出ました。長い時間 櫓を押さねば漁場に辿り着けなっかたといいます。普通は、一つの船に7〜8人乗込んでいて、漁場の選択は 船頭の大事な仕事でした。日暮れのナドキイカにはじまり、夜は星や月の出を見ながらイカを釣ったのです。 「星の出にはイカが騒ぐ」ということばのように、目あてとする星に名前をつけて、もうじきマスボシの出る 時刻だからと、東の空を眺めては暗い海にイカ鉤を沈めたのでしょう。
「わしらのときは電気もねェ、船の居場所がやっとわかるぐれェのガス灯がひとつきりだ」
 そんなとき、トンボでイカを釣っていると、グ糸を手繰る間にみるみるイカが浮いてきて、辺りの海が真っ 白になるほどでした。その頃にはもうトンボを掴んだまま釣り上げたものの、素早くハネゴに切り替えなけれ ばなりません。ハネゴの操作は手首で返すのがコツで、うまく扱うにはそれなりの技量が必要です。左右に一 本ずつ持って、同時に上げるよりも交互に上げるようにします。このリズムが狂うと数はあがらないといわれ ます。はじめは一つ、二つと数えても、一晩で 5000も釣れるようなときは、とても覚えてはいられません。そ んなときは箱で勘定をしました。
 この辺りで獲れるのはスルメイカで、ところによりあるいは時季によってさまざまな呼び名があります。初 期のイカはハナイカ、ハルイカ、ハシリイカなどと呼ばれますが、9月を迎えると本格的な秋イカ漁のシーズ ンとなります。漁師らにとっては、この秋イカ漁がいわゆる稼ぎ時であり、いかに多くのイカを釣り上げる ことができるかということに強い関心を示すと同時に、そのためのさまざまな工夫が凝らされてきました。
 昔から、11月20日を過ぎるとイカは釣れないといわれてきましたが、全くいないわけではありません。「冬 場は日にさんじゅう(30)かごんじゅう(50)もあがればいいほうで、これは正月用の刺身にした」と、積丹 町泊の漁師は話してくれました。その冬場のイカをゴドリイカと呼ぶことを、雪のある日忍路の浜で聞いたこ とがあります。
「ゴドリというのは、この辺りの方言で雪のことだ」
 北国の冬に相応しいことばの響きですが、あまり耳慣れないせいもあって、本当のところは半信半疑でした。 その後も、ゴドリイカの名はあちこちで採集する機会を得ましたが、真意を語ってくれた人はついに誰もいま せんでした。「ゴドリは後取りで、秋イカのあと捕るからだべさ」と言ったのは、積丹町美国の漁師です。11 月から冬至の頃までが漁期で、海水の温度もずっと下がるから秋イカより身が引き締まって厚味があるという のです。刺身にしたら歯ごたえがあって美味いそうですが、岩内ではこれを冬イカと呼んでいて、こちらは身 が薄いというからおもしろい話です。いずれにしても、冬イカが釣れるのは12月末が一応の目安となります。

 

◇ 積丹の暮らし ◇
〈左〉寒魚を干す漁師家 /〈右〉馬橇が行く風景

 ところで、当時は釣り上げたイカを鯣に加工するのが一般的でした。日本海に突き出た積丹半島では、古平 や美国などの漁港がある東海岸に比べると西海岸一帯はどことなく閑散とした雰囲気が漂うところですが、 かつてはニシンの千石場所として賑わった地域であり、その影が消えてからはひっそりと息衝いてきた感があ ります。神恵内村で出逢った金沢老人も、そういう時代とともに生きてきた漁師の一人です。父親は加賀の出 身と聞きましたが、足を病んでいるそうでもう船には乗っていませんでした。声をかけると、凍てついた坂道 を息を切らして踏みしめながら、星の名やイカ釣りの話などを親切に教えてくれたことを思い出します。
「鯣は20枚ずつ束にしてな。これが 100把で一行李だ」
 一行李は約21貫なので、おおよそ79`です。もっとも、秋イカの場合は夏イカよりも大きく身が厚いので75 把ほどで一行李になるといいます。いずれにしても、干し上げられた鯣は岩内からやって来る検査官によって 等級が付与され、上等品は一等鯣、次が二等鯣、そして三等鯣となるそうです。イカが完全に干し上がるまで には、夏場の小さいもので一週間、秋イカでは10日ほどかかったそうですが、これは天候がよいときの話で、 仮に秋の長雨が続いたりするとその分日数が延びることになります。そのようなときには、赤味を帯びた等外 の鯣が多かったようです。
 金沢老人に限らず、積丹半島の漁師らはみな素朴です。それも小さな集落のほうが、より飾り気がありませ ん。荒くれた風貌の奥底にはニシンに笑って泣いた昔日の想いを秘めて、朴訥としたことばの端々にその名残 を見出すことができました。しかし、イカ釣り漁業が大きな変貌を遂げた今となっては、トンボやハネゴなど の漁具を使って星を頼りにイカを釣っていた時代があったとはとても考えられないことです。ムジナボシ(プ レアデス星団)であるとか、サンコウあるいはジョウトウヘイボシ(三つ星)、メシタキボシ(金星)などの 星の名も、それを知る人のみがかろうじて記憶の片隅に繋ぎ止めているという状況です。北国に限らず、星の 伝承そのものが消滅の危機に瀕しているのです。
 1960年代頃まで利用されていたとみられる伝統的なイカ釣り具も、資料館に行かなければ実物を見られな い時代になってしまいました。当時の積丹半島でも、手に触れる機会はなかなか訪れず、いろいろと苦労の連 続でした。しかし、そうした強い思いが通じたのか、泊村ではトンボとヤマデ(手製の三本釣り用トンボ)を、 また神恵内村ではハネゴと真鍮鉤、そして岩内町では手製の竹鉤を資料として採集することができたのです。 後に増毛町で採集した赤いカナ巻き鉤を含めると、当時の基本的なイカ釣り具がほぼ揃ったことになります。 これらのイカ釣り具は、佐渡を中心に日本海沿岸から北海道、さらに三陸沿岸まで伝わったとされていますが、 そこに星の利用という習俗が深くかかわっていることも見逃せません。

 

◇ 伝統的イカ釣り具 ◇
〈左〉ハネゴ(二股の釣具) /〈右〉各種のイカ鉤

 積丹の冬は厳しく、海は荒々しい姿を見せつけます。ニシンが去り、沿岸のイカ釣り漁も衰退した浜で、た くさんの漁師と出会い、イカ釣りに関するさまざまな体験や想いを記録することができたのは幸いでした。当 時すでに70歳を超えた人たちには、もう二度と会えないほどに時が過ぎ去りました。何度も繰り返し通った町 や村の景観も大きく変貌していることでしょう。しかし、イカ釣りの星に関する本格的な調査の出発点となっ た積丹の人びととその風景は、冬海に生きたゴドリイカへの郷愁とともに、しっかりと心に刻まれています。

[1977年初稿][2021年改訂]
* この紀行はタイトルをそのままに、内容の一部を書き改めたものです.


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尻屋崎の春 【青森県下北半島】

 
 

〈左〉尻屋崎の灯台 /〈右〉北国の集落

 下北半島の東端、尻屋の村にもようやく春の風が吹き始めた頃でした。北に向かって、白亜の灯台が柔らかな陽射にひと きわ映えていました。かつては、濃い霧のために海の墓場と呼ばれた尻屋崎沖も、今や 200万燭光という強大な光で海の安全 が守られています。津軽海峡を航行する船舶にとっては、大事な指標なのです。
 函館からのフェリーで本州最北端の大間に渡ったのは、1976年3月のことでした。まだ冬の名残が色濃い沿岸域を歩きなが ら、かつてのイカ釣り漁師を探しました。大間で5人、大畑で2人、下風呂で2人など、それぞれの地でイカ釣りの様子とそ の際に利用した星の伝承を聞き取る日々を重ね、最後に訪れたのが半島の東端にある尻屋の集落だったのです。  まだ雪が残る灯台の周辺では、春を待ちきれない馬たちが長閑に放牧されていました。海岸を歩いていると、いったいどこ から漂流してくるのかと思われるほどの夥しい流木などが、あちこちの浜に打ち寄せられている光景に出会いました。ここは、 太平洋に面しているので、ヤマセ(東の風)が吹くと必ず海が荒れるといわれるように、めずらしい漂着物がたくさんありま す。
 もしや硝子の浮き玉でも落ちていないかと捜し歩くうち、いつの間にか漁船の溜まり場まで来ていました。そこから眺める と、尻屋の集落は背後を切り立った山に阻まれ、その懐に抱かれながら緩やかに傾斜して海へと落ちているように見えます。 バスこそ通ってはいるものの、昔ながらの僻地に変わりはありません。下北というと、イタコで知られた恐山に代表されるよ うな重く沈んだイメージを連想しがちですが、ここではそうした空気が全く感じられません。民家のたたずまいや人びとの表 情は、不思議なほど活気に満ちており、女衆がいっせいに浜へ出る海苔とりの日は、終始華やいだ雰囲気に包まれます。老い も若きも冷たい海に浸って忙しなく岩肌を削る仕草が、妙にほほえましく思えました。小柄な体からは想像もできないほどに、 尻屋の女性たちは力強く頼もしい存在なのです。
 ふと気が付くと、浜辺には海を眺める一人の老漁夫の姿がありました。近寄って挨拶すると、振り向いた顔に白い歯がキラ リと光ったのです。
「こんにちわ、何か見えますか」
「ああ、海がなぁ・・・・・・」
 そう言って、老漁夫は考え込んでいました。もし、この人がイカ釣りの漁師であったなら、昔の話を聞かせてもらえるかも しれないと思いつつも暫らく黙っていたところ、やがて老漁夫の口からこぼれ出た言葉は、やはりかつてのイカ釣りへの郷愁 でした。そこで、改めて星の伝承について尋ねてみると、
「イガ釣りの星はなぁ、ムヅラ、アトボシ、サンコボシ、サンコノアトボシに・・・・・・もひとつアトボシがある。それからアオ ボシ、ヨアケボシの順だ」
 5月から6月はまだ星の出が遅いので、ナドキイカ(日暮れに釣れるイカ)と朝イカをとると終いになりました。星を見る ようになるのは8月からで、ムヅラ(おうし座のプレアデス星団)にナドキイカがつくのは、最盛期の10月頃です。このと きが、イカはいちばん多く釣れたといいます。当時のイカ漁は、川崎船に7、8人乗り込んで、ひとりで1200パイも釣ると船 は満杯になりました。そのようなときには、大漁旗を揚げて帰って来たものだと話す老漁夫の顔は、次第に輝きをとりもどし ている様子でした。東から上がる星の順番を確認すると、アトボシはおうし座のアルデバラン、サンコボシはオリオン座の三 つ星、次のサンコノアトボシは二つあって検討が必要です。そしてアオボシがおおいぬ座のシリウス、最後のヨアケボシは最 も明るい金星です。

イカ釣りのサキボシやアトボシなどの関係図

 ところで、釣ったイカのほとんどは大事に干しあげ、鯣として加工されました。それらをまとめて函館の問屋へと出荷して いたようですが、興味深いのはその船賃が重さではなく、荷姿によって一つにつきいくらと決まっていたので、大きさの限ら れた行李の中に少しでも多く詰め込みたいのが人情であったということです。そうして苦労を重ねて得た代金は、問屋が送っ てくれる手筈になっていましたが、どういう訳がなかなか届かないこともあったようです。それでも、こちらの鯣は出来が悪 いから仕方がないなどと引け目を感じれば催促もできず、ただ待つほかはなかったのです。星の出が頼りとばかり、自分の技 量を信じて釣ったイカに待つことの歯痒さを教えられて、鯣作りの苦労が偲ばれるようです。
 今、川崎船が繰り出す海は、もうここにはありません。一介の旅人が知る由もない長い空白の時間を語ることもなく、静か に家路についた老漁夫を見送りながら脳裏に蘇ってきたのは、前日に訪れた大畑港で会った大型イカ釣り漁船の若い漁師から 聞いた話でした。その大畑には近代的な装備をもった大型イカ釣り船が多く、たまたま船内に入れてもらった 100d近いその 船も、最新鋭の魚群探知機やシーアンカーなどを装備し、自動化されたイカの巻揚げ機は、片側45本、ダブルで90本のイカ鉤 を自由に操作することが可能でした。一本釣りの時代には、とても考えられなかった変化です。
 イカの習性が次第に解明されると、それを利用した新たな漁法が考案され、船はイカの群れを追って遠方まで出漁するよう になりました。ところが、何もかも科学的な考え方に移っていくと思われた時代の片隅で、意外にも昔からの伝承が生かされ ていることを知ったのです。明らかに同じ世代の若い漁師から思いもよらぬ伝統的な星の名を聞かされ、驚きと同時に戸惑い を感じたことをはっきりと憶えています。昔のように星を見ることはなくなったものの、たとえ魚群探知機でイカの群れを捉 えても必ず釣れるという保証はありません。したがって、漁場の選択は今でも月の出の時刻をみながら行っているという話に、 まだまだ理屈では証明しきれない部分があることを心強く感じたのでした。
 尻屋の海に、夕暮れがせまっています。西の空が茜色に染まり始めました。あの大畑港での賑わいが、どこかに消え去った ように静かなひとときです。さきほどの老漁夫が帰った家では、いつもと変わらぬ夕餉を迎えている頃かもしれません。今 は、どの民家も山の影にすっぽりと包まれて、黒い稜線だけが異様に鮮やかさを増していました。そろそろ、宿に引き揚げる 時間になったようです。老漁夫に教えてもらった星のなかで、二つあると聞いたサンコノアトボシについて、ゆっくり考察す る必要があります。

三つ星とふたご座の二星

 既に紹介したように、サンコボシというのは一般にサンコウ(三光)と呼ばれる星で、オリオン座の三つ星のことです。そ のアトボシが二つあることについて、老漁夫は「サンコボシよりも少し北寄りに一つ、また一つと出てくる星だ」と説明して いました。次に出るアオボシの名から察して、おおいぬ座のシリウスでないことは明らかであり、ほぼ同じ頃に出るこいぬ 座の二星も相応しくありません。星が一つであればオリオン座のサイフ(κ星)が順当な選択ですが、北寄りに二つ出る目立 った星といえば、おそらくふたご座の二星(カストルとポルックス)が有力です。イカ釣りの星としては伝承の少ない星座で すが、別な漁師の聞き取りでも二つのアトボシが健在であったことから、尻屋においてはイカ釣りの目当てとなる大切な星で あったと推測されます。しかし、後年三つ星とふたご座二星の出現順位について詳しい検証が行われた結果を踏まえて、尻屋 の位置においては、カストル ⇒ 三つ星 ⇒ ポルックスの順に出現することが明らかとなりました。精確には、カストル が三つ星のアトボシとなることはないわけですが、実際の星空で漁師がどのように捉えていたのか気になるところです。少し 柔軟な解釈をすれば、星を利用する漁師にとって、多少の曖昧さはほとんど影響の及ばない領域であったかもしれません。
 とはいえ、尻屋の漁師が語ってくれたイカ釣りの伝承は、星以外にも的確な情報にあふれています。たとえば、イカは干潮 から満潮にかけて、あるいは満潮から干潮にかけていちばんよくつくといい、こうした潮目を見るのに星をタネにしたそうで す。また、イカの擬餌鉤には本体に使われる素材や色のバリエーションがあり、鹿角はよく釣れるが牛角の場合は黒色よりも 赤色がよいとか、樹脂製では青色や赤色がよいなど、漁師によってさまざまな見方があります。イカ釣り具の扱い(技量)も 含めて、それぞれの経験則から常に最も有効的な選択を行ってきたという自負が、精神的に大きな拠り所となっていたことは 間違いないでしょう。
 宿の女将さんが、毎年イカ漁の時季になると尻屋の沖合に大畑から出漁した船が集まり、その夜景はまるで海の上に大きな 街があるのかと錯覚を起すほどだと話していましたが、残念ながらこれまで未だそういう機会に恵まれないままです。いつか はイカ釣り船に乗り込み、ヤマセ吹く尻屋の海で星を眺めてみたいものだと思うのですが、そのような夢さえみる間もなく、 あの下北の春に乗り遅れてしまったことが悔やまれてなりません。

[1979年初稿][2021年改訂]
* この紀行はタイトルをそのままに、内容の一部を書き改めたものです.


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ローカル線と復興の浜 【岩手県北部沿岸地方】

 岩手県の調査は、1976年に盛岡ユースホステルで偶然泊まり合わせた普代村の漁師が始まりでした。このとき聞き取った イカ釣りや星の伝承によって、普代村への関心は一気に高まったものの、現地への調査は一向に実現できないまま時が 過ぎてしまいました。そこに2011年の東日本大震災が発生し、ますます遠のいてしまったのです。ようやく実現したのは 2015年10月で、このときは青森県八戸市から三陸沿岸を南下し、岩手県北部の漁港を訪ね歩きました。
 震災から4年半が経過し、沿岸域では各地で復興工事が継続していた時期でした。今、三陸の浜はどうなっているのだ ろう。漁師たちの生業は、どのように変わってしまったのだろうか。そうした思いを抱えて浜をめぐるのに大きな支えと なったのがJR八戸線と三陸鉄道です。当時は三鉄北リアス線が八戸線の終着駅である久慈から宮古まで運行しており、 岩手県北部沿岸の調査には欠かせない存在となっていたのです。

〈左〉JR八戸線の列車 /〈右〉イカ釣り具「とんぼ」

 初日は、青森県鮫町から久慈までの行程と決め、まず訪ねたのは青森県階上町の大蛇漁港と追越漁港です。大蛇駅から 大蛇漁港までは歩いて10分ほどの距離ですが、浜には人影がありません。道路沿いの作業小屋を覗いてみると、82歳 (1933年生まれ)の元漁師がいましたので、さっそく話を聞くことにしました。
 津軽半島から下北半島、三陸沿岸にかけては、北日本の日本海沿岸域と同様にかつてイカ釣り(手釣り)がさかんな 時代がありました。この元漁師も、小学校低学年の頃親といっしょにイカを釣った経験があるといい、伝統的なイカ釣 り具を使用した最後の世代かもしれません。星とのかかわりについて尋ねると、サンコウ(三つ星)という星があると 教えてくれました。
 大蛇漁港から海沿いの道を15分ほど南へ行くと、追越漁港に着きます。きれいに整備された港にはそれなりの漁船があ り、震災のつめ跡を感じさせるものは見あたりません。しかし、地元の漁師から聞いた話によると、追越では12bもの 大津波が押し寄せたようで、ほとんどの船が流されてしまったとのこと。今この眼前にある景観からは想像もできない 災害だったのです。駅へもどる途中、浜辺でスルメイカを天日干しする光景に出会いました。かつては、こうして多くの スルメが作られていたことでしょう。八戸線は角の浜駅から岩手県に入り、久慈を目ざします。
 洋野町役場がある種市駅で下車したのは、どうしても種市漁港を訪ねてみたかったからです。駅から市街地を抜けて 漁港へ向かうと、かつて建造された大きな防潮堤が現れました。港と市街地は、これによって隔てられています。今回 の震災では種市にも大津波が襲来していますが、この防潮堤のお蔭で住宅地への被害は深刻な状況に至ることなく済ん だようです。
 防潮堤の大きな扉をくぐると、漁港に出ます。漁船は少なく小船が多いようで、やはり津波によって多くの船が流さ れてしまったのでしょう。種市フィッシャリーナの近くで小船の手入れをしていた80代の漁師から少し話を聞いたあと、 今度は反対側の岸壁まで行き、作業小屋の中にいた77歳(1938年生まれ)の漁師から詳しい話を聞くことができまし た。
 種市付近は海が浅いため、他所に比べるとスルメイカの寄りが遅くなり、ここでのイカ釣りは冬至頃の一時期だけ 自家用として行われてきたといいます。それでも、この漁師が昭和30年頃まで父親といっしょに漁をしながら教えて もらったという星の伝承がのこされていました。かつてイカ釣りの指標とされたのは、サンコウ(三つ星)やサンコウノ アトボシ(おおいぬ座のシリウス)などで、これらの星の出にはイカがつくと伝承されています。祖父の代は半農半漁 の生活で、その後明治38年生まれの父親の代になって本格的な漁を始めたようですが、やはり苦しい生活であったそう です。そのため、北海道でニシン漁がさかんになると、毎年のように出稼ぎに行きました。遠い過去の浜辺の暮らしが 偲ばれます。
 その当時の生活用具が図書館の二階に展示されているというので、立ち寄ってみました。それほど広くはない展示室 には、衣食住の生活用具から農具や漁具などさまざまな資料が所狭しと置かれていましたが、漁具の中には古いイカ釣 り具が何点かあって、いろいろ参考になりました。こうした地域の資料館には、思いがけない資料が保存されている 場合があり、楽しみの一つでもあります。予定では、洋野町の漁港をもう一ヵ所訪ねるつもりでしたが、秋の夕暮れは 早く、初日の調査を終えることにしました。

〈左〉イカの天日干し /〈右〉工事が続く種市漁港

 翌日は、いよいよ三鉄を乗り継いでの調査です。久慈駅6時11分発の列車で、ひとまず野田玉川駅へ。駅周辺に集落 はなく、とりあえず漁港へ向かいました。玉川漁港は岩場に囲まれた小さな港で、小船がほとんどです。軽トラックが 停車しているものの、人影がないので漁に出ているのかもしれません。
 漁港の背後にある高台には玉川神社が祀られており、地元で三日月様と呼ばれているようですが、三日月信仰にかか わる石造物等は確認できませんでした。一旦集落を歩いてから再び神社にもどり、港には相変わらず人影がないことを 確かめて駅へ向かう途中で、運よく70代の男性に行き会いました。玉川では、八戸のイカ釣り船に乗り込み釣り子とし て働く人が多かったそうですが、この人もそうした経験者の一人です。星の伝承はほとんど記憶していませんでしたが、 風の呼称やイカ釣り漁、イカ釣り具などについて聞き取ることができました。海を眺めながら、懐かしそうに話をする 元漁師の顔が印象的でした。
 次に訪ねたのは、堀内漁港です。堀内駅に降り立つと眼下に海が広がり、漁港を一望することができます。そして、 背後の傾斜地には民家が点在しています。これだけの標高があれば、おそらく集落への津波の被害は免れたでしょう。 ここはもう普代村の外れで、39年間思いを寄せていた土地にようやく足を踏み入れることができたのです。ホームから 少し上がると幹線道路が並行してはしり、列車と浜の景観を一望できるポイントがあります。まさに、地域の復興を支 えるローカル線と、工事によって変わりゆく浜の姿が重なる貴重な場所といえます。暫くして、ホームから急坂を下り て漁港へ行ってみましたが、岸壁には若い漁師しかおらず、話を聞くことができませんでした。しかし、この堀内で出 会った景観によって、今後の調査を占う一つの転機が訪れたことは確かです。
 再び列車に揺られ、トンネルを三つ抜けると普代駅に着きました。駅を含めた村の中心は、普代川を少し内陸へ入っ たところにあり、河口近くには太田名部の漁港があります。駅前の通りを北東に進むと、太田名部へ通じる旧道が分岐 し、その先は小さな峠を越えてから海に向かって集落の家並が続いています。その下り坂の途中で、85歳(1930年生 まれ)の元漁師と行き会いました。この人も小さい頃にイカを手釣りした経験があり、その後は長い間遠洋漁業の船 に乗っていました。それでも星の伝承は覚えていて、オクサ(プレアデス星団)やサンコウ、ムヅラ(三つ星+小三つ 星)などについて語ってくれました。イカ釣り具では、一般的なトンボ型のものをドンブと呼んでいたのが印象的です。
 漁港に着くと、さらに二人の漁師から聞き取りを行い、新たにムヅラノサキボシ(アルデバラン)とムヅラノアトボ シ(シリウス)というイカ釣りの役星があることを知りました。また、金星はアケノホシ、ヨアケボシなどと呼ばれま す。39年前の記録と併せると、普代村の伝統的な星の利用は多様性に富んだ構成を示しているようです。
 太田名部も震災時は大津波に襲われ、かなりの船が失われました。ようやく震災前の状況にもどってきたといわれま すが、ここには周辺の集落の船も係留されているため、他所にはない活気がみられます。そういえば、太田名部でも既 存の防潮堤が集落を護ってくれたと聞きました。そろそろ列車の時刻が迫っているので、駅へ急がなくてはなりません。 今度は集落の坂道を上りながら、かつての家並を確かめつつ最後に峠の手前で振り返り、太田名部の海と人びとに別れ を告げました。
 普代から先、宮古までの沿線には多くの集落や漁港があり、田野畑、島越、小本、田老など、海辺や河口に近い駅周 辺では、大津波のつめ跡が否応なく目に飛び込んできます。その傍らでは復興の力強い音が響き、これが被災地の現実 であることを改めて思い知らされたのです。


〈左〉三鉄の列車と堀内漁港 /〈右〉太田名部の集落から漁港を望む

 宮古には、昼過ぎに到着しました。夕方の盛岡行列車までの数時間で、日和山の調査と漁師の聞き取りをしなければ なりません。観光案内所で日和山の位置を確認すると、駅から3`余り離れた場所でした。途中までは路線バスが通って いるようですが、発車時刻まで暫らく間があるので、歩いて行くことにしました。
 市街地を抜け閉伊川河口まで来ると、辺りの状況は一変します。宮古港一帯の低地は大津波で被害を受け、大規模な 復興工事の最中にありました。防潮堤の建造と道路網の整備が進行中のため、迷路のような道を辿りながらようやく蛸 の浜町の日和山に着きました。この場所は、小さな尾根を挟んで宮古湾とは反対側の入江ですが、海面から少し高台に ある日和山も震災の大津波に洗われてしまったようで、古い写真の情景とは趣を異にしていました。方位石がなく、地 元でも知る人が少ない日和山ですが、こうして震災を乗り越えてきた姿に接し、感慨深い思いに満たされたことがせめ てもの救いであったかもしれません。
 蛸の浜町からの帰り道、高台から工事中の港を見渡すと、東側の一角に小さな漁船がびっしりと並んでいるのが確認 できました。まだ時間があるので立ち寄ってみると、宮古の漁師たちがここを基点に漁を続けていたのです。ちょうど 居合わせた戦後生まれの60代の漁師に少し話を聞くと、明治生まれの父親から伝承された星の名をいくつか教えてくれ ました。こうした若い世代に受け継がれた星の文化を、震災を乗り越える活力源の一つとして何とか後世に伝えていけ ないものでしょうか。複雑な思いが交錯するなかで、新たな方向性を示されたような気がします。
 ローカル線に揺られて復興の浜辺をめぐった今回の調査は、他所と変わらぬ伝承者との出会いに恵まれました。残さ れた南部沿岸域では、北部よりも大きな被害を受けているはずです。願わくば、復興という厳しい現実に生きる漁師の 心の奥に隠された星の伝承を見極め、そっと呼び覚ます存在でありたいと強く思うばかりです。

[2021年初稿]


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飛島の海に生きる 【山形県酒田市飛島】

 かつて日本海の孤島といわれた飛島は、羽越線酒田の港から小さな定期船が通っているだけの離島です。周囲は僅か 10`余りですが、勝浦、中村、法木の三集落からなり、毎年11月頃に飛来するウミネコは、日本海における北限の 繁殖地として知られています。江戸時代には帆船の風待ち港でしたが、なによりもこの島の歴史を物語っているのは、 過去に幾度となく積み重ねられてきたその呼び名の変遷でしょう。都島、渡島、別れ島、鶴路島、潮島、豊島、とど島、 そして飛島と、容易ならぬ踏み跡をたどりながら現在に至っています。
 飛島を訪ねたのは、1974(昭和49)年5月中旬のことでした。当時は、上野発の夜行列車があり、まだ目の覚めや らぬうちに酒田の街に降り立つことができました。とりあえず港まで行くと人影はまばらで、魚市場からは威勢のいい 競声が聞こえてきます。その傍らを、これから行商にでも出かけるところなのか、二人のおばあちゃんが新鮮な魚を箱 いっぱいに詰めた荷車を押して、何やら楽しげに街の中へと消えて行きました。そろそろ、港の新しい一日が始まる頃 です。遠くで汽笛がひとつ鳴ったのは、材木を満載したソビエト船が港に入る合図でしょうか。空はライトブルーに澄み 渡り、爽やかな潮風に旅の朝を満喫していると、倉庫裏に一軒の屋台があるのを見つけました。
 そこの主人は、間もなく喜寿を迎えるという人のよさそうな庄内のおばあちゃんでした。この商売を始めてから40年に なるものの、ほとんど人との付き合いなので今更やめられないといいます。だから少し風邪気味のときも、ここへ来て 世間話をしていればすぐに治ってしまうようです。一本20円で売っていた串刺しのコンニャクは、これまで40年の生き方 を証明する味で、口にくわえたキセルの煙もその余韻のような存在でした。
「新潟地震のときは川(最上川)が溢れてェ、この辺はみな水浸しになってな。そんときが可笑しんだぁ。町の人が バナナの籠さ背負ってきたんで、おじさんそんなもの背負ってどこさ行くだねェって聞いたんだ。そしたら、地震で川の 魚が浮いちまったから、これから捕りに行くんだと。港の人は水が出たんで慌ててるっちゅうのに、まったく町の人は 暢気なもんだと笑ってしまったよ。あん時は定期船もここまで入って来られんで、あっちの大きな港へ避難したからね」
 おばあちゃんとの語らいは、この後もしばらく続きました。

 定期船が酒田を出港してから約2時間、先ほどから空高く船上を舞っていた一羽の海鳥は、やがて急速にデッキへ近づい たかと思う間もなく、海面をすべるようにして鳥海山めざして飛び去りました。島はもう目前に迫っています。昼近い太陽が 五月の陽射しを空いっぱいに振り撒くなかで、次第に数を増したウミネコたちは、遠まきに船を出迎えながら挨拶を交わし ているようでした。海の蒼さはそのまま空へとつながり、浜辺の長閑な風情にこころ和らぐひとときを味わいました。
 こうして、初めて飛島の地を踏みしめた日の午後は、夕暮れ近くまでワカメとりの磯船で過ごしました。水深3、4bの 海底に生育するワカメやアラメを長い鈎竿で引っ掛けて採る漁法で、これを足で櫓を操りながら行うのですから、まさに 職人技です。海水は予想外に透きとおり、稀にアワビやサザエも見つかりますが、まだ漁期ではないので採れません。浜の ほうでは、細かく刻んだアラメを筵の上に干しています。船から眺めると、それがまるで浜辺に敷き詰められた黒い絨毯の ように鮮やかに目に映りました。そのなかでは母も子も、浜にいる誰もが島の昼下がりを楽しんでいるかのようでした。 岩場に憩うウミネコの群れさえ、どれも一様に頭を太陽に向けたまま身動きひとつしません。耳を澄ませば、聞こえてくる のは遥か沖合の漁船のエンジンと磯船を操る緩やかな波の砕ける音ばかりです。

◇ 長閑な浜のようす ◇

 やがて、ワカメ採りが一段落したと頃で、若い漁夫に星の名を尋ねてみました。
「サンコウ?それはどんな星です」
「うんだなぁ、冬の夜8時頃さホスが三つ並んでよ。ああ、サンコウが出たから今何時頃だとか」
「ほかには?」
「おら、あんまり知らねェだ。そうよなぁ、アオボシちゅうのも出るだ。明るい星だですぐわかる」
「じゃ、その星は青い色をして・・・・・・・・・・」
「うんだ」
 結局、憶えていたのは二つだけでしたが、思えばこれが土着の星の名との初めての出会いだったのです。漁業を生業とした 暮らしに深く根をおろした星の存在を知り、この小さな島の夜空にもそういう時代があったという事実に、改めて強く心惹か れたのでした。その夜、小雨にけむる勝浦の家々は深い闇のなかに重く沈んだままひっそりと静まり返っていました。防波堤 の辺りでは、赤と青の進入灯が忙しなく点滅をしていたようで、ふと、あの騒がしかったウミネコたちも館岩や百合島の塒で 眠りについた頃に違いないと思いました。
 翌朝早く、まだ夜明け前だというのに浜に出て海を眺めている老人がいました。それは宿の古い漁師で、小柄な体に似合わず、 その厳しい横顔には永い間海に生きてきた男の逞しさが溢れています。おそらく、夕べ沖に仕掛けておいた網をこれから引き 揚げに出るところなのでしょう。幸い、海は穏やかです。老漁夫にお願いして、一緒に海へ出ることになりました。
 漁場で網揚げが始まって間もなく、東の空に素晴らしい朝焼けが広がっていきました。水平線上の叢雲から橙色の歪んだ 太陽が顔をのぞかせると、刺網におどる魚はたちまち銀鱗に輝いていました。節くれだった漁夫の手も、顔も、飛沫を浴びて 光っています。それは、時が経つのを忘れさせるほどに、鮮烈な光景でした。

◇ 夜明けの海 ◇

 宿に戻ると、老漁夫は島に伝承された〈イカ釣りのヤクボシ〉について教えてくれました。それはキョクボシに始まり、 シンバリ(プレアデス星団)、シンバリノアトボシ(アルデバラン)、サンコウ(三つ星)、アオボシ(シリウス)、オオボシ (金星)と続く星空の一大パノラマでした。もとより、これらの星々を結ぶラインは各地でイカ釣りに欠かせない存在として 広く知られており、地域によってさまざまに呼ばれていたのです。いずれも素朴な発想から生まれ、今日まで伝承されてきた もので、たとえばプレアデス星団とアルデバランのみかけの間隔は約14°、アルデバランと三つ星とシリウスではそれぞれ約 23°で、これほど見事な物差しは他のどこを探しても見当たらないでしょう。イカ釣りの漁師らにとっては、大きな仕事の拠り 所であったに違いありません。
 飛島の星名でひとつ気になったのは、キョクボシです。老漁夫によると、この星は6月の夜中の12時頃に酒田よりも少し 南寄りの"窪み"から上ってくるようで、近くに明るい星はないといいます。飛島では、この星が姿を現すとイカ釣りが始まる とされています。そのときはどの星のことか分かりませんでしたが、後にいろいろと検証した結果、キョクボシは晩秋の南の 空に光るみなみのうお座のフォーマルハウトではないかと考えるようになりました。近くにはめぼしい星がないので一際夜空に 映えて見えますが、中国では「北落師門」と呼ばれています。確かにどこか淋し気です。もしキョクが「極」の意味であると すれば、南の方角に見えるという発想からの命名かもしれません。残念ながら、老漁夫からはとうとう詳しい説明を聞くことが できませんでした。
 日本海の荒波が規則正しく打ち寄せては引くたびに、長径10aほどの夥しい玉石はカラカラと虚しい音をたました。ここは 賽の河原と呼ばれる場所です。島を発つ日の朝、遠い昔に流人となった百合若大臣が鷹をつかって都の妻と文を交わしたと伝え られる恋待つ浜から磯伝いにここまで歩いてきましたが、えもいわれぬ淋しさに耐えかねて早々に立ち去ることにしました。 そのまま林の中に分け入って柏木山に登ると、その頂に一つの碑があります。高さ約70aで、コンクリート製円柱の表面には 小さな銅板が嵌め込まれ、「経緯度観測点」と刻まれていました。
 これは1928(昭和3)年の夏、大陸移動説立証のために行われた観測点の跡で、場所の選定は寺田寅彦博士が、そして実際の 測量に従事したのは、当時東大の助手で位置天文学を研究していた元東京天文台長の宮地政司氏です。
 それから半世紀を経た記念碑は、草に埋もれたまま人知れず日本海の大海原に向かってたち続けていました。あのとき、宮地 氏は飛島の地でどのような星空を眺めたのでしょうか。

 

〈左〉経緯度観測点の碑 / 〈右〉天面のプレート

[1978年初稿][2020年改訂]
* この紀行は「飛島紀行」の一部を書き改めたものです.


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辺境の村 【福島県会津地方】

 東北地方の南、関東や新潟県と接する福島県には、浜通り、中通り、会津という三つの生活文化圏があります。単なる 地理的な区分ではなく、気候や風土、社会など、それぞれに特徴をもった地域を構成しているのです。このうち、会津は 阿武隈川の西に広がる山地帯にあたります。これまで、1976年に南西端の奥会津桧枝岐村と会津の北端に位置する北塩原 村を訪ねる機会がありました。いずれも辺境の地にあり、冬季には深い雪に埋もれてしまいます。
 会津は、古くから木地職人が住みついた地として知られ、今でもその名残を見出すことができます。彼らの生活は、特 徴ある規律のもとに良材を求めて山から山へと渡り歩くことが基本となっており、生活圏が人里離れた山間の地だけに、 何か別世界のような違和感を抱かずにはいられません。もちろん、会津に限らず、木地職人と深いかかわりをもつ土地は 各地にあり、東北地方の一部にみられるこけし作りなどは、その伝統が形を変えて現代に受け継がれている事例の一つで す。
 木地職は自然木の加工をもって生業とする仕事ですから、一般的に考えれば自然とのかかわりは相当に密接であると想 像されます。しかし、これまでの関係資料をみる限り、木地職人たちの星に関する伝承は、同じように自然木を利用する 炭焼きと比べてはるかに少ないようです。おそらく、屋内での作業を主たる日課とする暮らしでは、星を利用する必要性 が低かったのかもしれません。木地屋と星の関係は、今も謎に包まれたままです。
 さて、桧枝岐村は南会津の最奥にあり、栃木、群馬、新潟の3県に接する山村で、かつては会津の秘境と称せられるほ どでした。隣接する県境の一部は尾瀬国立公園となっており、尾瀬沼をはじめとして燧ケ岳や会津駒ケ岳などの豊かな自 然環境に抱かれた土地でもあります。会津街道の宿場の一つで、古くから沼山峠や片品を経由して上州(群馬県)の沼田 へ通じていましたが、その後は沼田街道と呼ばれるようになりました。現在は沼山峠まで車道が通じています(一般車は 通行不可)。

夜明けの尾瀬沼と燧ケ岳


〈左〉尾瀬を代表するミズバショウ /〈右〉渓流魚のヤマメ

 桧枝岐という地名について、地元の人によると昔は「へェマタ」と呼んでいたそうで、山に檜が多くあったことから後 に桧枝岐の字をあてるようになったと聞きました。もともと平家の落人伝説がある土地柄だけに、米がとれない辺境の暮 らしは、他村の人びとにとっては異郷の村として映っていたのかもしれません。その頃、焼畑に粟や蕎麦を播き、男た ちは山に入って杓子やへらなどの板木地作りに精を出していたといわれますが、また一方では檜などの材を薄く剥ぎ、そ れらを曲げて容器の類に仕上げる曲げ物作りも古くからさかんに行われてきました。今では、観光の村を支える産物とし て知られています。
 初めて桧枝岐の地を踏んだのは、暑い夏の盛りでした。集落に入って間もなく、街道沿いの民家で出会ったのは90歳近 い農家の男性で、いろいろと話を聞かせてくれました。ここでは、秋になってから出てくる三つ並んだ星をサンジョウサ マとかサンジョノホシと呼んでいます。いずれも、秋の夜更けに東天に姿をみせるオリオン座の三つ星で、サンジョウサ マが関東地方の広い地域に連なる星名であることを考えると、おそらく上州側から沼田街道(会津街道)を介して会津へ と伝播したのではないかと推察されます。また、サンジョノホシについては、地元で「三女の星」の意味と解されている ようですが、伝播の過程でサンジョウサマから転訛したものでしょう。おうし座のプレアデス星団は、ナナトボシと呼ば れます。ナナトは「七つ」が転訛したもので、七つ星が本来の意味になります。
 また、ホウキボシ(彗星)が出ると不吉なことがあるといわれ、子どもの頃にホウキボシが見えてから間もなく日露 戦争が始まったと話してくれました。日露開戦(1904年)前に出現した大きな彗星として、1882年の「9月の大彗星」が 知られていますが、22年前となると少し年数が経ち過ぎているような気がします。
 その夜、桧枝岐は素晴らしい星月夜となり、久方ぶりに見慣れた夏の星座を眺めることができました。街中では見られ ない星々の煌めきは、漆黒の夜空を背景に生き生きと群がり、今にも降ってきそうな気配です。ふと、昼間に聞いた山の 生きものたちのことが思い起こされました。桧枝岐では、タヌキをムジナと呼び、アナグマのほうはマミです。穴の中に いるマミは、煙でいぶすと外に出てくるので、待ち構えて棒で叩けば捕らえられるとのこと。それから、バンドリという のはムササビのことで、いつも番[つがい]でいるから「番鳥」という意味だそうです。もっとも、秋田の元マタギは、 夜中に木から木へ滑空する姿から「晩鳥」だと言っていましたので、同じ呼称でも地域によって見方は異なるようです。 話は動物の毛皮に移り、かつての必需品であった尻当てはカモシカがいちばんとされてきましたが、特別天然記念物に指 定されると入手困難となり、さまざまな代用品が使われてきました。このとき、一つだけ残っているのがあると言って、 わざわざノウサギの毛皮で作った尻当てを腰に巻いて見せてくれたのでした。

 

〈左〉ノウサギの尻当て / 〈右〉アナグマの尻当て

 夏の尾瀬沼や燧ケ岳の景観に魅せられたその年の暮れ、今度は会津の北の外れである裏磐梯の北塩原村を訪ねることに なりました。その冬は、例年にない大雪に見舞われ、山はいつになく荒れる日が多かったようです。
 裏磐梯は景勝地として知られていますが、それは1888(明治21)年の磐梯山の噴火によって形成されたものであり、そ れまではいくつもの山襞を縫っていた渓流があちこちで堰き止められ、長い時間をかけてさまざまな湖沼が点在する景観 を生み出してきたのです。会津盆地の東方でひと際秀麗を誇る名峰も、その陰の部分は痛ましいほどに乱れ、自然界の奥 深い造形美に心打たれるばかりでした。
 それは、なんと穏やかな朝であったことでしょう。前日の吹雪も収まり、柔らかな陽射しが新雪を煌かせて、清々しい 空気が辺りを満たしていました。その日訪れた集落は、五色沼への入口付近にある蛇平という開拓村です。もとは小野川 に入植した人たちがここに移ってきたもので、小野川にも家をそのまま残してあるといいます。少し歩いてから一軒の農 家で声をかけると、「ぜひ寄っていきなさい」という返事があり、この土地の暮らしぶりについて話を聞くことになりま した。家の中に入ると、熱い茶と漬物を勧めながら、老夫婦は開拓の仕事に明け暮れた昔日の苦労を偲ぶかのように屈託 のない笑顔をみせてくれたのです。
 二人がこの土地に移転した当時は石ころだらけの荒地だったそうで、開墾には10年を要しました。それも折悪しく戦時 中のことであり、毎日食うことだけに追われていた時代です。
「それじゃ、星を眺めるゆとりもなかったでしょうねぇ」
「ああ、星なんかいつだって空にあるもんだし、いちいち見てる暇はなかったんべ」
 荒れた土地で、星を眺めることもなくただひたすらに鍬を振った日々のなかで、この老夫婦を支えてきたものはいった い何であったのでしょうか。
「そういやぁ、冬に出る三つ並んだ星のことを確かサンタイボシと呼んだ覚えがある」
 主人のことばに、それまで黙って聞いていた奥さんが急に思い出したかのようにホウキボシ(彗星)の名を教えてくれ ました。長く尾をひいたこの星が現れると、何か不吉な出来事が起こるといった話はこれまでにも幾度となく記録してい ますが、かつての荒涼とした蛇平の地においては、それがより生々しい光景として映ったに違いありません。
 話がはずむと、話題は星から山の生きものへと移っていきました。この辺りでも、ムジナはタヌキのことで、アナグマ はササグマと呼ばれています。その肉は美味で、寒くなって雪が降るようになると穴に籠るそうです。
「あれはな、穴に入るときゃ足にいっぱい蟻をつけてくってよくいうよ。穴ん中で嘗めてるだんべきっと」
 桧枝岐では、煙でいぶしてマミを捕らえていましたが、蛇平に場合は穴をどんどん掘り広げて奥につまったところを捕 まえます。同じ会津でも、生きものとの向き合い方はさまざまです。
 蛇平を後にして、次は北に4`ほど離れた曽原へ向かいました。ここも開拓集落の一つで、72歳(1904年生まれ)の 農家の男性から、話を聞くことができました。星の伝承は、ミツボシ(オリオン座)、ムツボシ(プレアデス星団)など で、かつては炭焼きを行っていたという経歴から推察して、生業とともに利用された可能性があります。しかし、何より も興味をそそられたのは、「ミツボシにはオウシのような影がある」という伝承で、オウシというのは煙が立ちのぼるこ とだというのです。おそらく、小三つ星として知られる星の並びを三つ星の影と見たのでしょう。このような捉え方は、 他に例がありません。

 

〈左〉ミツボシの影 /〈右〉三つ星と小三つ星

 会津の北と南、それぞれの辺境を訪ねた1976年の調査は、福島県の豊かで厳しい自然とともに生きる人びととの出会い の旅でした。桧枝岐には、その後も何度か訪れる機会があり、その度にノウサギの尻当てを付けた伝承者の姿が思い起こ されるのです。

[2021年初稿]


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天念仏の里 【栃木県中東部地方】

 夏になると、栃木県内では今でも天念仏あるいは天祭と呼ばれる行事が継承されています。かつては、各地でみられ たようですが、近年は数えるほどになってしまいました。天念仏は、お天道様(太陽)を祀る行事で、いわゆる天道念 仏の一形態を示すものです。通常は、春の彼岸から4月頃にかけて実施されますが、栃木県や福島県などでは一部を 除いて、初夏から夏の行事となっています。
 県内の天念仏や天祭にはいくつかのタイプがあり、山に登って頂上に祭壇を設けたり、丸太櫓の上や天棚を組んで祭 壇を設けるなどの形式がみられます。太陽信仰の象徴として祀られるのは、大日如来や日天・月天などが多く、何れも 神仏を介した祈願が主流となっています。
 代表的な天祭行事のひとつである那須烏山市三箇塙地区の場合は、松原寺において毎年二百十日(9月1日)を中心 に実施されます。境内に作られた天棚の上部には祭壇が設けられ、特に目を惹くのは瑞雲とともに掲げられた日天(金 色)と月天(銀色)です。天棚の周囲に配置された五色の梵天や祭壇内の御幣、供え餅などから、十二天や出羽三山、 熊野三山の信仰にも通じていることが分かります。また、境内を出ると参道脇に水垢離場があり、そこに白い梵天が1 基、さらに少し離れた道路沿いに立つ出羽三山石碑と境内の熊野三山石碑の前にそれぞれ3基の白梵天が奉納されてい ました。

 

〈左〉塙の天棚 /〈右〉祭壇内の日天・月天

 式の始まりは、神官1名と僧侶1名、行人3名が粛々と水垢離をとり、さらに2ヵ所の白梵天をめぐりながら祈祷を 行います。その後、祭壇に関係者が集まって祝詞奏上や玉串奉奠などの神事があり、終了すると神官が供えてあった小 型の梵天(長さ約1b)を天棚の下へ降ろし、事前に選任された若い婿が受け取ることになっています。ただ、現在は 該当者がいないため、年配者が代行しています。手渡された梵天は肩に担がれ、天棚下にある舞台を時計まわりに周回 します。地元ではこれを「ムコまわり」と呼んでいますが、おそらく他地域の天祭などでみられる「御来迎」の習俗で はないかと思われます。
 この間、天棚前の舞台では子どもたちによる太鼓や踊りが披露されますが、かつては女性の参加が許されない時代も あったようで、伝統を守りながらもより地域に根差した行事へと変化せざるを得ない実情がよく分かります。この行事 は、1983年に国選択無形文化財に選ばれていますが、神道、仏教、修験道が一体となった信仰の形態は、たいへん興味 深いものがあります。
 天祭は、隣接する高根沢町石末原地区でも行われています。こちらは、毎年8月初旬の土・日曜日で実施され、天棚 の組み立てと飾り付けのあと、神主による神事、行者2人による水垢離と祈祷、そして行者と信者の御来迎へと続きま す。この地区の特徴は、石造の天祭供養塔が遺されていることで、県内でも貴重な存在です。石塔は地上高が60a足ら ずの自然石で、上部に天祭の象徴である日天・月天が刻まれ、主銘文は「天祭供養(塔)」となっています。1788(天 明8)年3月の造立ですから、当時は旧暦3月に天祭行事を行っていたのかもしれません。

 

〈左〉松原寺のムコまわり /〈右〉高根沢町の天祭供養塔

 ところで、那須烏山市内にはどんな星の伝承があるのでしょうか。栃木県内の調査は1993年から続いていますが、こ の地域を訪れたのは2018年の春が最初です。宇都宮駅から烏山線のハイブリッド列車に乗り換え、終点の烏山駅で下車。 そこからバスで向田まで行きました。バス停からすぐ集落内に入ると、辺り一帯は台地上に畑が広がり、民家が散在す るという里山景観です。少し歩くうちに80代の男性と出会い、自宅で話を伺うことになりました。
 この辺りは、かつて葉タバコの生産が主流でしたが、今はほとんど栽培されていません。この男性宅は分家で三代目 とのことですが、古い家は江戸時代から続いているそうです。星のことを尋ねると、サンデッシャマ(三つ星)、ホウ キボシ(プレアデス星団)、ナナツボシ(北斗七星)などの星名が出てきました。サンデッシャマというのは、サンデ ェシが転訛した形で、本来はサンダイシ[三大師]から派生したものです。これらは、隣接する茨城県や福島県などに も分布し、類似の星名が多く記録されています。三大師の意味につては、今のところ明確な解釈はなく、いわゆる旧暦 11月に訪れるとされる大師をめぐる信仰が基盤にあるようです。これに関連して、内田武志氏は『日本星座方言資料』 〔文0167〕のなかで、茨城県内に伝わる3回の大師講(旧11月4日、14日、24日)にその根拠を求めています。
 大師信仰は、月待行事とも関連が深く、向田ではかつてコウボウサマと呼ばれる堂宇で三夜待が行われていました。 現在は廃屋になっていますが、昔は毎年一度この堂に女性たちが集まり、念仏を唱えていたのです。隣の川南地区では、 念仏のあとで月の出を待っていたということで、向田においても二十三夜の月の出を拝していたことでしょう。コウボ ウサマの堂は、おそらく弘法大師を祀っていた場所で、この地にも大師信仰が根付いていたことになります。

 

〈左〉向田集落の民家 /〈右〉那須烏山市の二十三夜祭礼塔

 さて、旧暦の行事といえば、十五夜と十三夜についても記しておきたいことがあります。向田では、旧暦8月15日と 9月13日に行われ、農耕儀礼的な要素が多くみられる行事でした。ススキと十五夜花、ぼた餅、団子、サトイモなどを 供えるのは定番のスタイルですが、ススキは行事が終わると畑にさしておいたといいます。それに加えて、最も特徴的 なのは、「十五夜バッタリ」といって子どもたちが藁デッポウを作り、それで地面を打ち付けながら各家をまわり、供 えものを分けてもらうのです。本来は、田畑を荒らす小動物や害虫などを追い払い、五穀豊穣を祈る十日夜の習俗です が、栃木県では十五夜や十三夜に合わせて行う地域が少なからず認められます。鹿沼市上殿町のように21世紀まで存続 した事例もありますが、ほとんどは昭和30年代から40年代には廃れてしまいました。
 これまでの調査で聞きとった各地の状況を整理すると、十五夜よりも十三夜の晩に実施するところが多く、十三夜の ワラデッポウ(足利市、佐野市、鹿沼市、日光市)あるいは十三夜のマキワラブチ(鹿沼市、日光市)などと称してい ます。そのほか、ボウジボウ(鹿沼市、下野市)、タワラボッチ(佐野市)、トッカンボウ(下野市)、ワラマキブチ (鹿沼市)など実に多彩な呼称がみられます。
 子どもたちが手に持つワラデッポウというのは、芋がらを束ねて芯にし、周囲に稲わらを巻き付けて一端に藁縄の持 ち手を取り付けた構造が一般的ですが、小さな子が振り回すのは容易ではないかもしれません。これで地面を打つとき に唱える文言があり、鹿沼市の事例では「十三夜のワラデッポウ、大豆も小豆もよくあたれ」とか「大麦小麦、大豆も 小豆もよくあたれ」などが記録されています。さらに、家々をめぐりながら小遣いなどと称してお金を貰う風習があり、 鹿沼市、下野市、日光市などで顕著にみられます。子どもたちの行為に対する感謝の気持ちが、御捻りという形で定着 したものでしょうか。
 旧暦10月10日はトオカンヤで、本来はこの日にワラデッポウ打ちが行われますが、それは地鎮様を祀る日でもあった のです。作物の収穫に感謝し、餅を搗いて親戚などに配ったといいます。十五夜、十三夜、十日夜と続く一連の行事は、 農家にとって収穫を祝い、翌年の豊作を祈願する営みとして伝承されてきました。こうして11月になるとタイシ講を迎 え、これが二十三夜の行事へとつながっている地域もみられます。
 やがて、師走には餅つきが行われ、南部を中心に三日月の形をした餅が作られます。小さな丸い供え餅(太陽)と対 にして供える事例が多くあり、三日月信仰に基づく習俗といえるでしょう。新しい年を迎えると、さまざまな予祝儀礼 が始まり、このうち鍬入れの行事では、田畑に米などを供えて豊作を祈願します。下野市などでは、これを「カラス呼 び」といって、大きな声で烏を呼び寄せます。また、那須烏山市小塙地区では、かつて旧正月に山入りの行事をしてい たといいます。この日は神酒、米、塩などを持って山に入り、山の神に供えたのです。そして、「毎月8のつく日は山 に入らない」と伝承されています。同じようなことは山の神信仰でよく耳にするものの、具体的な日付は地域によりま ちまちです。
 こうしてみると、松原寺や高根沢市の天祭行事が、古い習俗をできる限り踏襲しながら継承されているという現実は、 ほんとうに貴重な存在であるといえます。伝統的な行事が次々と姿を消すなかで、日月星に関係する行事も例外なく担 い手を失っていくことでしょう。せめて人びとの記憶に留め置かれた情報だけでも、記録にのこしておきたいものです。

[2021年初稿]


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浦山谷紀行 【埼玉県秩父地方】

 秩父の浦山谷へは、それまでにも二度ばかり訪れたことがあります。一度は正丸から正丸峠、山伏峠を越えて名郷に出、そこから さらに鳥首峠を越えたのと、二度目は名郷までバスで入って妻坂峠から大持山へ登り、小持山への途中から小さな尾根道を下って 武士平という集落に出るコースでした。その頃は、ただ歩くことが目的であり、浦山という土地に特別な想いを寄せていたわけ ではありません。それが、再三訪ねてみたいと思うようになった背景には、それなりの理由があったのです。
 それまでの数年間、暇ができると東京都の奥多摩やそれに連なる山間の集落を訪れては星の民俗についての聞き書きをまとめてき ました。そのなかで、カワハリ(またはカーハリ)とよばれる星の存在が、かつてこれらの地域で炭を焼いていた人たちにとって ひじょうに重要な意味をもっていたことを知りました。それがきっかけとなって爾来カワハリ星の行方を追い求めてきましたが、 この星名の伝播状況を把握するには、どうしても奥多摩周辺山域の調査が必要となっていたのです。
 埼玉県内を流れる荒川の上流域は奥多摩とは山続きの地ですが、この一帯でも昔はさかんに炭焼きが行われており、支流筋にあたる 浦山谷もその例外ではなかったとみられます。ダムが建設される前の地形図を広げると、この谷にはいくつかの集落が点々と連なって いるのがよく分かります。行政的には秩父市に属していますが、現在でも山間の僻地であることに変りはありません。昔の人びとが山 の尾根筋に住みついたといわれるように、浦山の古い集落では谷沿いの自動車道とは離れた高い土地で人びとの生活が営まれてきまし た。しかし、その数年後にはその様相も一変することになっていたのです。
 もともと浦山水系には大規模なダム建設の計画があり、永いこと地元住民との話し合いがまとまらない状況となっていました。当時 はその決着が図られ、着工に向けて本格的に動き出す気配が濃厚な時期であったのです。工事が始まれば谷への出入りも制限される ことは明らかで、なによりも山が崩されてからでは手遅れになると思われたので、善は急げとばかりに出かけることにしたわけです。 この旅は民俗調査が目的でしたから、浦山口より入って地図上に記された集落をひとつずつ訪ね歩く計画をたて、さらには以前と逆の コースを辿って鳥首峠から名郷へ出ることにしました。距離的にみても悠々一日の行程ですが、途中でどれだけ時間を費やすかわから ないので、もし峠越えが無理ならば浦山口へ引き返してもよいでしょう。
 調査に出かけたのは、1982(昭和57)年の秋も深まった10月31日でした。まだ暗いうちに家を出て、午前6時7分発の電車で秩父へ と向かったのですが、横瀬駅に着いたところで急に深い霧となりました。滲んだ朝の陽光が、駅のホームに不思議な光を投げかけていた のを記憶しています。秩父の街中に入ると、どの家並みも霧の底に重く沈んでいました。駅前から出るバスに乗ったのは一人だけでした が、運転手は地元の人で、きょうは天気もよさそうだし紅葉が見ごろだろうなどと話しかけてきます。相槌をうちながら、ぼんやりと 沿道の風景を眺めているうち、陽が高くなるにしたがっていつの間にか霧はすっかり消えていました。

 

〈左〉秩父市から浦山ダム遠望 /〈右〉ダム完成後の浦山川下流域

 スタート地点の浦山口に着いたのは、午前8時頃でした。調査の七つ道具を入れたリュックサックを背負い、地図とメモ用紙を片手に 首には双眼鏡をさげて歩き始めます。自動車道を暫く進むと、荒川村と秩父市の境界付近に道明石[みちあかりいし]という集落が現れ ました。ここから左手に細い山道を行けば、大谷[おおがい]、日向[ひなた]、岳[だけ]、茶平[ちゃだいら]、武士平[ぶしだい ら]という集落が点々と連なっているはずです。入口には、文字のみの庚申塔があって花が供えられていました。ちょうど野良仕事へ 出かける人がいたので話を聞くと、今でもお日待講と称して信仰されているようです。以前はこの上の旧道にありましたが、自動車道が できてからここに移されたのでしょう。この人が浅見キンサクさんの名を教えてくれたので、さっそく訪ねてみることにしました。
 山道は次第に自動車道から離れてゆくものの、勾配は比較的ゆるやかです。すぐに左手の山肌が無残にも抉りとられた姿が目に入って きました。ダム建設に伴う道明石住民の代替地だということですが、何か追い立てられるような気持ちになって先を急ぎました。大谷の 集落に入り、キンサクさんの家を確かめると、すぐ隣りがそうでした。しかし、生憎野良に出ていて家にはいないといいます。仕方が ないので畑まで行こうと思ったら、その家の嫁さんらしき人が呼びに行ってくれたようで30分ばかり話をすることができました。
 大谷に伝わる星の名は、ミツボシサマ、スイノウボシ(プレアデス星団)、カワハリサマ(からす座)などで、いずれも秩父地方を 代表する星です。話を聞きながら庭の丸太に腰を下すと、母屋の縁側にススキや野菊などを挿した大きな花瓶が見えました。この年は、 10月29日が旧暦の9月13日、いわゆる十三夜でした。今はどこの家でも昔ほどやらなくなってしまったといいますが、浦山谷で十三夜の 供えものに出会えたのは幸運でした。かつては、十五夜も十三夜も子どもたちにとって待ち遠しい行事でしたが、食べるものに不自由 しない今の子どもたちには、月見の供えものを勝手にとって食べるという感覚はどのように映るでしょうか。古い時代には、タナバタ行事 の折に竹飾りといっしょにネブッタ(ネムノキ)の枝にも短冊などを飾って竹の根元に挿したといわれ、その理由を知りたいと思いなが らも、キンサクさんの口からは聞けずに終わったのが残念です。

 

〈左〉十三夜の供えもの /〈右〉懐かしい炭焼き窯

 さて、大谷を後にして再び山道を行くと、今度は日向の集落に辿り着きます。とっつきには学校があり、その手前の左手に炭焼き用の 窯が小屋がけしてありました。キンサクさんから聞いてはいましたが、きょうは焼いている気配はないようです。学校のある場所で道は 二手に分かれており、左へ行くと岳から茶平の集落に、右手の道を下れば日向の集落を抜けて寄国土[ゆすくど]へと通じています。 とりあえず右に折れたら運よく買物に出かける婦人と行き会い、浅海シノゾウさんを紹介してもらいました。
 シノゾウさんの家は日向のいちばん外れにあり、道を教わらなければわからない場所でした。それと思しき家で声をかけると、洗濯物を 干していた嫁さんが、今しがた籠を背負って畑に行ったところだといいます。きょうはずいぶんと行き違いが多いものだと思いながらも、 炭焼きの話を聞きに所沢からやって来たことを告げると、せっかく来たのだからと大工仕事をしていたその家の主人は、わざわざ畑まで 案内してくれました。
 小さな尾根をひとつ巻いたところで急に視界が開けたかと思うと、そこは急峻な斜面に拓かれた畑地です。その一角で、シノゾウさんは 桑の枝を切っている最中でした。少し耳が不自由らしく、大きな声で話さなければなりませんでしたが、手を休めたシノゾウさんと並んで 腰を下すと、南に面した傾斜地なのであたたかい秋の陽射しをからだいっぱいに浴びることができました。眼下に広がる眺望は、浦山の 谷がいくつもの山襞をぬって奥山へと続いている様子がよくわかりました。炭焼きで利用した星は大谷とほぼ同じものでしたが、日向 ではプレアデス星団にナナツボシの呼称も使われています。
 話が終わると、少し寄り道をするため岳への近道があるかどうか尋ねてみました。シノゾウさんは快く山道を教えてくれましたが、時刻 はすでに十時を過ぎています。岳へ立ち寄ってから鳥首峠を越えるには時間的にやはり無理なようです。最初の予定通りに歩くことに して、原島鉄五郎さんがいるという金倉[かなぐら]へ向かうことにしました。金倉へ行くにはまず自動車道まで降りなければなりませんが、 ここでもシノゾウさんは近道を教えてくれたのです。畑から杉の植林帯に入り、道のない急な斜面をまっすぐに降りると日向からの道に出 ました。そこはちょうど林道の工事中で、少し迂回したあとすぐに寄国土への道が続いています。
 もう少しで自動車道に出るというところで、ひとりの老人に行き会いました。鉄五郎さんの家をたずねると、それは金倉だから毛附[け つけ]の川向こうになる。ここから4`ほど行くと赤い永久橋があるから、それを渡って行きなさいと言われました。この人は中山さん といって、もとはずっと奥地にある細久保に住んでいたとのことです。しかし、何分にも交通の不便な地区なので、孫の高校進学を契機に 以前からバスが通っていた寄国土へ5年前に移ってきたのだといいます。細久保では永い間炭焼きをやっていたというので、それならば 星の名をおぼえているかもしれないと尋ねてみたら、やはりいくつかの呼び名を聞くことができました。
 浦山谷では、からす座の四辺形をカワハリ(またはカーハリ)と呼ぶのをはじめとして、プレアデス星団については誰に聞いてもほぼ スイノウボシという答えが返ってきます。スイノウというのは、昔から使われている柄の付いたあげ笊のことで、秩父の人が考案したと いう説がありますがよく分かりません。武蔵野台地の農家ではよく使われていましたし、同類の用具が川崎市でも利用されていたそうで、 こちらでは「団子あげ」と呼ばれました。この生活用具自体はそれほどめずらしいものではないはずなのに、スイノウボシの星名となると 伝承地域は限られてきます。だいたい奥武蔵から秩父を中心とするその周辺地域ではスイノウボシで通用しますが、隣接する東京都側の 奥多摩地方に行くとこの星名はさっぱり聞かれません。星の方言を探求するおもしろさは、案外こんなところにあるのかもしれないと思 います。

〈左〉スイノウボシの見方 /〈右〉からす座のカワハリ

 寄国土を出ると、しばらく民家が途切れます。山道もいいが、こうして谷間のアスファルト道を歩くのもけっこう楽しいものです。谷の 両岸にせまった山肌は、すっかり秋の装いに包まれていました。時折自動車が通り過ぎるだけで、何と静かな秋の風情でしょう。川が大 きく蛇行するところで、左手から大神楽沢が合流していました。途中には栗山や山掴(やまつかみ)などへ通じるいくつかの岐路があり、 時間さえ許せばゆっくりと訪ねてみたい集落です。なお、大神楽沢には林道がとりついていて、そこを歩けば武士平という集落へ行くこ とができます。合流点からしばらく歩くと、ようやく赤い永久橋が見えてきました。ここはもう毛附の入口で、橋を渡れば金倉です。今は この金倉橋まで秩父から日に6便のバスが通うようになりましたが、もしバスに乗ってしまったら浅見キンサクさんやシノゾウさんには 会えなかったわけだし、聞きとり調査はやはり足で稼ぐのが基本であることを実感させられました。
 時間が気になって時計を見ると、すでに昼近い時刻でした。原島さんを訪ねるには都合がよくないので先に昼食を済ませることにし、近 くのバス停の椅子に腰掛けて腹ごしらえをしました。その間もまだこれからの行程を決めかねていましたが、名郷へ抜けるにはのんびりと していられず、かといって原島さんの家に寄らないで行くことも惜しまれたのです。せっかくここまで来たのだから、やはり訪ねてみよう。 昼食を済ませると、すぐに家を探しました。屋敷は分かったものの、あいにく原島さんは不在でした。何でも、きょうは奥山で紅葉祭りが あるとかで、朝から出かけているようです。いつもは家にいるのに、たまたまきょうは出かけてしまってと済まなそうに応対した奥さんら しき老婦人に「またいつか改めて伺います」と述べて金倉をあとにしました。こうなれば、もはや鳥首峠へ向かうほかはありません。
 毛附の集落を過ぎた辺りで、川の縁にたつ月待塔を一基見つけました。文字だけの二十三夜塔ですが、上部には日月が刻まれています。 月待塔は、この調査の対象のひとつでもあり、ここまで来てようやく巡り会えたという感じで嬉しくなりました。調査を済ませて歩き始 めると、川俣という集落を過ぎてから民家が見られなくなりました。その後、道路工事中の現場を通り過ぎると砂利道となり、いつの間 にか鳥首峠への分岐点に着きました。林道はなおも本谷の奥へ続いていますが、今回は左に折れて沢沿いに登って行きます。この山道の 途中には、浦山谷最奥の集落である冠岩[かんむりいわ]があります。川俣で道を尋ねたときに、冠岩にはまだ一軒だけ人が住んでいると 聞いていましたので、それならばぜひ立ち寄ってみようと考えていました。
 朝から歩き続けた足は、すでに相当の疲れを感じているようです。それほど重くはないはずのリュックサックも、両肩に容赦なく食い込 んでよりいっそう重く、少し痛みを感じるようになりました。渓流の岩を食む音に耳をかたむけては小休止すること数回、道が沢から離れて 尾根へと巻きはじめた所で一軒の民家が現れました。ここに住んでいたのは上林さんという老夫婦で、仕事の関係から山を降りずに残って いるとのことでした。
 冠岩という地名については、峠を隔てた名栗村の白岩[しらいわ]と何か関連があるのではないかと考えていましたが、上林さんの話に よると、白岩に住みついた落武者の家来がこの冠岩の地に移り住んだといわれ、白岩の神林[かんばやし]に対して一段低い上林[じょう ばやし]の姓を名乗るようになったとのこと。聞いてみれば何処でもそれなりの由来があるわけですが、廃村寸前の状況は淋しい限りです。 上林さんは、子どもの頃の思い出としてタナバタや十五夜、十三夜、十日夜などのようすを話してくれましたが、なかでも十日夜の日には 小芋のカラを藁で包んだ藁鉄砲を作り、これを叩きながら各家を廻って歩いたことが懐かしそうでした。
 30分ばかり立ち話をして少しは足も軽くなったので、いよいよ峠への登りにとりかかります。この先はほとんど一本道で間違うことも ないため、一歩一歩自分の足どりを確かめながら進みます。きょうは時間に追われ、ゆっくりと野鳥を観察する時間もなかったのですが、 冠岩でアカショウビンというカワセミの仲間をミズホシドリと呼ぶと教えてもらい、この伝承が浦山谷にも存在していたことに満足感を 感じていたのです。
 峠に着くと、陽は西に傾き、晴れていた空も半分以上雲に覆われてきました。上林さんは、雲が北へ動いているから天気が悪くなりそう だと言っていましたが、果たしてその通りになってきました。ようやくの思いで登ってきた道を振り返ると、今一度浦山谷の村々に別れを 告げてから名郷へと下りました。

[1982年初稿][2020年改訂]
* この紀行はタイトルをそのままに、内容の一部を書き改めたものです.


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炭焼きと星を語る 【東京都奥多摩地方】

 山は、まだ冬の装いを解いてはいませんでした。沢の水音にも勢いがありません。冷たい沢風に揺れる木々が、春の陽をひたすら待ちわ びながら、ふくらみかけた小さな芽をそっと温めていました。もうじき、渓谷にミソサザイの賑やかなさえずりがもどってくる頃です。 陽だまりにキブシの花が咲き、やがて萌えるような新緑に包まれることでしょう。

 

〈左〉奥多摩の山並み /〈右〉キブシは早春の花

 その老人が日溜りのなかでまどろんでいる間、春は確実に近づきつつあったのです。山で生まれ、山で育った老人の目に、懐かしい煙の 匂いを見つけたときから、老人との出逢いが始まっていました。それは、1977年の初春のことで、少し前から東京都西部の山間地で調査を 開始したばかりでした。当時、奥多摩町や檜原村などでは、現役で白炭を焼く人が数人いるという情報があり、高齢の炭焼き経験者も各集 落に健在であったのです。そうして訪ねたのが、奥水根のSさんというわけです。
 奥多摩湖の左岸、山深い集落で炭焼きひとすじに生きてきたSさんが脳溢血で倒れたのは、初めて奥水根を訪れた5年前のことでした。 そのときは左半身が全く動かなくなり、もう駄目だと誰もが半ば諦めていましたが、その後どうにか元の体にもどって好きな酒も飲めるよ うになったのだといいます。いつも温和な雰囲気を漂わせながら、それでいて芯の通った語り口は、なんとも味わい深いものでした。とき おり、ことばの切れ間に深い皺の奥から笑みがもれることがあり、そんなときはきまってSさんが生きていてよかったと思わずにはいられ ませんでした。病気を患ってからは炭焼きの火が消えたままですが、裡に秘めた仕事への情熱だけはさめることがありません。不自由な体 で 500枚もの炭俵を作ったのは、まさにそうした心意気の顕れです。
「ああやって、体を動かしたのがよかったんでしょう」
 茶碗酒を煽る傍らで、奥さんが静かに微笑んでいました。
「炭焼きについちゃ、自分なりにいろいろ研究をしたもんですよ。この辺りにある木は大方試し焼きをしましたがねェ。でもやっぱり炭 は樫の木がいちばんいい」
 だが、水根には樫の木が少ないのです。だから、Sさんが焼いた炭はほとんどが楢の木でした。
「今までいくつの窯をこしらえたかって、そりゃ数えてみたこともないんで分かりませんけどねェ。きっとずいぶんな数になるでしょう。 窯といえば、わしが工夫した窯が五日市(現あきるの市)のほうでも使われて、あちこちから見に来たもんです」
 そういう自信の裏には、若い頃に知事賞を授かったという誇りが感じられます。人生の働き盛りを二度の応召で棒にふりながら、戦争 からもどれば躊躇することなく炭焼きに没頭できたのは、何事に対しても人一倍の関心を抱き、さらに地道な努力を怠らなかったからでし ょう。

 

〈左〉檜原村の炭焼き風景(白炭) /〈右〉炭俵を編む道具

 山の暮らしと炭焼きが話題になれば、やはり星のことが気がかりです。Sさんは、かつて利用していた星について語りはじめました。
「夏の間は、ミツボシの高さを目あてに山へ行ったもんです。それがどんどん西へ移って、朝方沈む頃になると、南の空からカアハリサ マが上がってくる。これはヨツボシとも呼ぶし、シコウって星だね。炭焼きのときは、カアハリが二つ出たらもう起きなければ遅いと言っ てましたよ。その頃は麦を播く時期でね、昔は星と木の芽を見て作物を作っていたから、夜明けにカアハリ丈上がってからでは麦播きは もう遅いなんてことも言ってましたね」
 カアハリというのは、からす座の四星が描く四辺形のことで、奥多摩の各地で広く親しまれてきた星の一つであり、山の生活に深く根付 いた存在なのです。カアハリは皮張りの意味で、タヌキなど動物の毛皮を天日干しする際、板などに広げた状態を想像してください。
「それからハゴイタボシとも言うし、オオクサボシというのがね、毎晩この辺りに出るでさ。星が七つ羽子板の格好をして、下が狭くなっ てね、ゴジャゴジャかたまってます」
 こちらは、おうし座のプレアデス星団のことです。クヨウノホシ(クヨウボシ)とも呼びますが、オオクサボシという星名は、東北地方 に伝承されているオクサを連想させます。以前から、プレアデス星団をなぜオクサと呼ぶのか気がかりでしたので、そのことをSさんに 尋ねると、「草がぼうぼうと生えてるのを大草っていうから、それと同じこんでしょ」という説明でした。一時は、神奈川県の箱根地方で ヤマボウシをクサということを知って、何か手がかりになるかもしれないと思ったこともありますが、水根にはクサと呼ばれる木はないの で、今のところは草に由来する星名と考えるのが妥当なのでしょう。それにしても、プレアデス星団の呼称を介して東北地方と奥多摩の地 を結ぶものの正体はいったい何なのか。その伝播の道筋をたどることができれば、オクサの正体が明らかになるはずです。
「今じゃ、60代の人が俺のことをオトウよ、オトウよと言ってね。昔は、この部落でも20人ほどの炭焼きがいました。戦後はネコもシャク シも炭を焼いて、その炭と食い物を交換して生活してたんです」
 話は、焼いた炭を背負って山から降ろし、手車を曳いて町まで運んだことから、やがて子ども時代の思い出に移りました。
「大正10年頃になると、子どももパンツをはくようになったけんど、履物は藁草履だったね。学校から帰ると足は泥まみれだから、おば あさんがぬるま湯で洗ってくれたもんです。足を洗うといえば、アシアライボシというのがあったです。旧10月のアシアライボシと言って ね。その頃は日が暮れると、東の空にミツボシザマが上がるでしょ。ちょうど、山から帰って足を洗う頃に出るので、アシアライボシ と言ったがねェ」
 新たな星名の登場に、一段と興味をそそられました。
「あの星を見ると、疲れがどっと出てきたもんです。そういやあ、昔は変りもんの炭焼きがいましたよ。名前は八つぁんといったが、毎日 朝早く出かけちゃ帰りも遅かった。その八つぁんが、どうしたわけかどこの山へ行っても必ずムジナに呼ばれたということです。なんでも ムジナが腹を撫でながら出す声が『オイッ、オイッ』って呼んでるように聞こえるっていいますがねェ。ほんとかどうか、わしゃまだ聞い たことがないんでねェ。そんなこんで、その人はヨガマの八つぁんって呼ばれてました」
 ここでいうムジナというのは、ほかでもないタヌキのことです。実は、奥さんが一度だけ夜道でムジナに呼ばれたことがあるようです。 そのときは一瞬立ち止まって振り向いたものの、なにこんちきしょうと思って相手にしなかったら、もうそれっきりだったという話です。
 Sさんの語りは、まだ続きます。
「わしら狐の提灯っていってますが、泊り込みで炭焼きなんかしてるとときどき見えるもんです。これは近くに見えるとキツネは遠くにい て、反対に提灯が遠くに見えるときゃそばにキツネがいるもんだなんて言いますがねェ。いつだったか、向かいの山に提灯が出たんで『な にくそ!』と窯の灰を撒いたらプツリと消えちまって。その晩は一人で窯場に泊まるつもりでいたけんど、どうも気味悪くてねェ。それで 近くの仲間のとこまで行こうと思ったら、なんと飯をつまみ食いしていたキツネをふんずけちゃったなんて、長い間山で暮らしているとい ろんなことがありまさぁ」
 狐の提灯というのはよく耳にする話ですが、この他にも、山中で人がいないのにギーコ、ギーコと木を伐る音がしたり、雨でもないのに 屋根がザーッと鳴ったり、とにかく不思議なものはみな天狗やタヌキの仕業にしておいて損はないようです。

 

〈左〉ハゴイタボシの見方 /〈右〉九曜紋の蔵印

 ところで、Sさんと星のつき合いにはもう一つおもしろい逸話があります。
「いつだったか、誰かが昼間でも星が見えるなんて言ってねェ。それじゃわしも見てやろうって、暇をみつけちゃ捜したもんです。そした ら、確かに見えましたよ。太陽の道筋にね、チカチカ光ってた。あんまり嬉しかったんで、年寄や子どもにも教えてやりましたがねェ」
 それからは、注意していると毎年のように見えて、これが夕方には西空で明るく輝くヨイノミョウゾウサマだといいます。すると、奥さ んがこんなことを教えてくれました。
「ここいらで見る星は、むかしからヒチヨウ、クヨウ、サンコウ、シコウと決まってましたよ」
 正に、その通りでした。ヒチヨウ(北斗七星)もクヨウ(プレアデス星団)もサンコウ(三つ星)もシコウ(からす座)も、水根の空に おいてはどれもみな炭焼き全盛の時代を生きぬいてきた馴染み深い星たちであったのでしょう。山の暮らしに星が活かされていた時代は、 それほど遠い過去ではなかったのです。このような言い回しは他の地方でも知られていて、山梨県北巨摩郡高根町では「ミツメ、ヨツボシ、 クヨウボシ」、新潟県西頚城郡能生町では「ミツボシ、ヨツメ、クヨウセイ」と伝承されているし、さらに岐阜県飛騨地方にも「ミツボシ、 ヨツメ、クヨウボシ」があるということです。これらは、いずれも炭焼きを中心とした山の生活に根ざした伝承である点が注目されます。
 Sさん夫婦からの聞き取りは数回に及び、その都度新たな発見がありました。炭焼き職人としての豊富な知識と経験は、誰にも負けない という自負を感じます。あるとき、Sさんは帰り際にひとかけらの炭を分けてくれました。それはホオ炭といってホオノキを焼いたもので あり、いわゆる研き炭としてよく知られた炭です。二人の星に寄せる想いが込められた黒い塊を大切にリュックへ収め、何度も礼を言って 家を出ると、外では短い冬ののこり陽が、早々と山の端に沈もうとしていました。

[1978年初稿][2021年改訂]
* この紀行は「炭焼きと星とよもやま話」の一部を書き改めたものです.


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ツルボの墓 【千葉県南房総市】

 房総半島から東京湾、相模湾を隔てて伊豆半島に至る漁師らの間では、りゅうこつ座のカノープスを「メラボシ」と呼ぶことが 知られています。別の名をニュウジョウボシ[入定星]ともいい、りゅうこつ座カノープスの星名のなかでも、とりわけて興味ある 意味合いをもった星です。メラは、房総半島の南端付近にある布良という地名に由来するとの見方が一般的ですが、別な見解もみ られます。布良では、かつて命知らずのマグロ延縄漁師らが度々荒海で遭難したことから、水平線近くに妖しく光るカノープスを そうした漁師らの霊魂とみた伝承が生まれています。
 いったい、布良とはどんな土地なのでしょうか。周辺は観光地化が進み、この漁村にも新しい時代の波が押し寄せていることは 十分に承知していたはずでしたが、それでもなお昔気質な布良漁師がまだ生きているようにも思えたのでした。地図を広げて、布良 から白浜付近の海岸線を辿ると、その途中にニュウジョウボシと深いかかわりをもつ墓塔があります。そこに眠っているのは西春法 師です。土地の人たちから「入定様」の名で親しまれ、この人が入定して星になったと伝えられる話は、長い間心の隅に居座ってい ました。いつか現地を訪ねて、特異な星名の舞台となった風土と人びとの暮らしにふれてみたいと思いつつ、その機会を待ちました。
 こうして、南房総を初めて訪れることになったのは1979年の夏の終わりでした。白浜の南に広がる外房の海には、そろそろ秋の 気配が漂いはじめた頃で、野島崎灯台の辺りでは多くの観光客らが、三々五々と思い思いの散策を楽しんでいました。それはのん びりとした昼下がりのひとときで、小さな浜辺の片隅にある船溜りへ行ってみると、土地の古い漁師たちが何人も集まっていたの です。その中のひとりに白浜に伝わる星の名を尋ねたところ、サンボシ(三つ星)とシソウ(北斗七星)を教えてくれました。サン ボシは東日本の太平洋側でよく聞かれる星名で、文字通り三星を意味する明解な呼称です。また、シソウは「四三」の星のことで、賽 を二つ振った時に出る数字の組み合わせを意味し、合わせると7になります。これが北斗七星の呼称につながっているわけです。話 を聞いた老漁夫は、シソウをおうし座のプレアデス星団のように説明していましたが、そうした事例は見あたらないので、おそらく 思い違いをしていたものと推察されます。

◇ 賽の目の四と三が七つ星を表わす ◇

 灯台の磯には、いつしか夕暮れが迫っていました。メラボシの手がかりを掴めないまま、入定塚も探さなくてはなりません。気に なって何人か尋ねたところ、60代の女性からすぐ近くにあることを聞いて少し落ち着きました。この人が、記憶の糸を手繰りながら 語ってくれた入定様の話は、以下のような内容でした。
 昔、隣村の原田という集落に変わり者の若者がいました。ある日のこと、その若者は急に地べた(土の中)に入ってしまい、上から そっと中の様子を窺うと鉦を叩く音がしました。それでも飲まず食わずでしたので、7日目にはとうとう死んでしまったということ です。その後、この人を入定様と呼ぶようになり、墓のある横渚地区では毎年旧暦の3月に市がたつようになったそうです。残念なが ら、この話にはニュウジョウボシは登場しません。
 翌日の朝早く、散歩がてらに入定塚を訪ねることにしました。海岸通りから右に折れて500bほど進み、さらにまた家並みをぬって 緩やかな坂道を上り詰めると、そこは小さな広場になっていて、その一角に「西春法師位、寛文七年三月十八日」と刻まれた立派な 石碑が建っていました。近年設置されたと思われる案内板によれば、西春法師は名を武田長治といい、16歳のときから漁師となった ものの、なぜか奇怪な行動が多かったといわれます。その後仏門に入り、高野山奥州にて修行の後、1667(寛文7)年3月18日、西春 31歳のときに不食行三百日を終えて地下の石室に籠りました。そして鉦の音がしなくなったら、3年後に掘り出して堂に安置してほし いと言い残した・・・・云々、ということです。ここでも、ニュウジョウボシのことは一切ふれられていません。
 毎年、旧暦3月18日に開かれていた入定市は、本来西春法師供養のため不動尊を墓に祀るものといわれ、数年前からは4月15日に 固定して行われています。古くからあったという松の大木も、今はその面影さえなく、また修行中だった近くの寺から入定塚まで 「修行の道」と呼ばれる通路があったとされていますが、宅地造成によって跡形もなく埋もれてしまいました。
 諦めと捨て所のない寂しさを感じつつ静かに合掌すると、それまで気づかなかった可憐な花が墓のそこここに咲いています。それは、 淡い紫色の花穂をスーッと伸ばしたツルボの花でした。いつの頃からか、毎年秋の初めにはこうして塚を飾ってくれるようです。 きっと、西春法師の息吹を感じとって、精いっぱい透き通った空に語りかけているのかもしれません。

 

〈左〉西春法師の入定塚 /〈右〉ひっそりと咲くツルボの花

 それから29年後の2008年8月、布良での調査が初めて実現しました。このとき、70歳(1938年生まれ)の漁師からメラボシの星名を 記録することができました。話によると、めったに見られない星だそうで、南の海上すれすれに出るといいます。ただ、港からは見え ないので、昔は沖合で船上から見ていたのではないかとのことです。
 布良といえば、かつて伊豆の稲取とともにマグロ延縄漁のさかんな土地としてよく知られていました。当時は手漕ぎの船であったため、 漁に出て命を落とす漁師が多かったといわれます。2009年には、館山市船形で、昔は布良の漁師がたくさん海で死んだので、それが星に なって現れるという伝承があると聞きました。布良の漁師とメラボシのかかわりは、今では周辺のかなり広い地域に伝播しているようです。 さらに、2008年の布良調査の折、久しぶりに訪ねた白浜町(現南房総市)で、入定塚の話題から入定した僧侶が「私が死んだらメラボシ になって現れる」と言った人がいました。本来のニュウジョウボシが、いつの間にかメラボシに置き換わっていたのです。
 白浜町ではもう一つ、新しい情報として同町内に別な入定塚(碑)があることを知りました。こちらは、実浄法師入定塚として地元の 指定史跡となっており、石碑がのこっています。現地の案内板によると、1856(安政3)年の大地震と翌年の大飢饉によって苦しむ人び とを救うために、旅僧であった実浄上人が入定を行ったとされています。西春法師の入定から約190年後になりますが、両者の距離は 2`足らずです。
 その後も、南房総には何度か足を運びました。しかし、ニュウジョウボシの伝承には未だめぐり会えていません。メラボシが、布良の 地名とともに観光資源の一つとして活かされているのとは対照的に、ニュウジョウボシはより早い時代から地元での伝承力を失ってしまった ようです。入定という修行に対する当時の人びとの思いは知る由もありませんが、非日常的という側面において、特異な出現をみせる 星(カノープス)への思いと何か通じる部分があったことは確かでしょう。

 

〈左〉メラボシのバス停(布良) /〈右〉メラボシの分布

[1980年初稿][2020年改訂]
* この紀行はタイトルをそのままに、内容の一部を書き改めたものです.


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来世への祈り 【愛知県沿岸地方】

 愛知県の漁港は、渥美半島と知多半島の沿岸、およびそれらに抱かれた三河湾の沿岸域に集中しています。3日間でど れ位の漁港を訪ねられるのか、自動車なら効率的に調査できるのではないかと思い立ったのは、2012年の秋でした。初日 は渥美半島の沿岸域、2日目は蒲郡市から西尾市にかけての沿岸域、そして最終日に知多半島の沿岸域という大まかな計 画を立て、11月下旬に出かけることにしました。
 予定していたルート上の漁港は36ヵ所ありましたが、結局訪れることができたのは27ヵ所で、このうち聞き取り調査が できたのは8ヵ所だけでした。これは、せっかく訪ねても漁師の姿が全く見られない漁港が多く、全体として漁業不振や 従事者の高齢化などによって減船が進み、また漁船からいわゆるレジャーボートへの転換がみられるなど、地域の漁業を 取り巻く環境が予想以上に悪化していたことが主な要因と考えられます。
 そのような状況下にあって、たとえわずかではあっても星の伝承者とめぐり会うことができたのは、やはり大きな喜び です。しかも、これまで報告されていない新たな星名が発掘され、深い信仰心に根差した暮らしが存在したことを知りま した。沿岸域の開発が進む一方で、農業の傍ら小船でアサリ漁に出る半農半漁という伝統的な生業を営む土地が少なから ずみられたことも意外なほどに、愛知県の調査は実に有意義な旅であったのです。
 さて、中山漁港は渥美半島の突端、伊良湖岬から北東に約5`にある半島北岸の漁港で、立馬崎と鎗ヶ崎に抱かれた福 江港の西端に位置しています。かつては、艪船3隻(1隻は指揮をとる手船)によるアグリ網漁(まき網の一種)がさか んで、イワシが豊漁でした。ただし、食用にされたのは約1割で、残りは養殖用の餌や〆粕(搾って玉にしたもの)に加 工され、肥料として利用されたようです。現在、漁港にあるのはほとんどが小型船や磯船で、アサリ漁や潜水漁が多いと 聞きました。
 話をしてくれたのは、小さな作業小屋の前にいた88歳(1924年生まれ)と80歳(1932年生まれ)の漁師で、昔はサンコ ウ(三つ星)やスバルサン(プレアデス星団)、ヒトツボシ(北極星)などを頼りにしていたそうです。特にヒトツボシ は、海上において陸地が見えなくなる気象状況などに際して、この星を目あてに船を走らせました。

 

〈左〉三河湾のアサリ漁 /〈右〉かつての打瀬船(蒲郡市博物館)

 ここから、田原市、豊橋市、蒲郡市にかけて、福江、吉田、泉、宇津江、姫島、御馬、三谷、竹島、形原とめぐるもの の、聞き取りができる漁師とは一人も出会えません。西浦で少しだけ話を聞けたのがせめてもの救いで、次に星の伝承が 記録されたのは、西尾市に入ってからのことです。東幡豆漁港では、70代の漁師から、西幡豆漁港では70〜80代の元漁師 3人から聞き取りを行い、かつての漁と星利用の一端を窺い知ることができました。星名としては、サンコウサン、スワ リサン(プレアデス星団)、ナナツボシ(北斗七星)、ヒトツボシ(北極星)、アカツキノミョウジョウ(金星)などが あり、西幡豆ではサンコウサンが西の山にかかるのを見て漁の目安にしていたと伝えています。漁の主体は刺網(東幡豆) 、底曳き網やマンガ(西幡豆)と異なりますが、サンコウサンの伝承は底曳き網漁で利用されたものかもしれません。な お、サンコウはニザダイという魚の別称ともなっていて、星のサンコウサンと同じ意味に使われています。この魚の尾鰭 付近にある黒い骨質板(3〜4個)が、三つ星を連想させることによる命名ですが、漁師によると臭みがあって美味くな いので食べないとのことです。
 知多半島では、北部の常滑市から南知多町にかけて、伊勢湾に面した沿岸に漁港が点在し、特に日間賀島や篠島などの 島嶼部を含めた師崎周辺は漁業のさかんな土地柄でした。今回の調査では、最も期待できる地域として臨んだわけですが、 結果的にはほとんど記録を得られなかったのです。むしろ、中部国際空港などで開発が進む北部の常滑市沿岸の漁港で、 意外な伝承とめぐり会うことになりました。
 常滑市の聞き取りは、南から刈屋漁港、鬼崎(榎戸)漁港、鬼崎(蒲池)漁港の3ヵ所に及び、このうち最も北に位置 する蒲池で出会った80歳(1932年生まれ)の漁師は、優れた星の伝承者として忘れ得ぬ一人です。かつて行われていた代 表的な漁は、帆打瀬漁(底曳き網の一種)で、網を横向きに曳くのを大きな特徴としていました。そのため10〜15bの風 がないと出漁できないことから、かなり厳しい漁であったといいます。もうひとつは、幅 200間ほどの網(たて網の一種) を潮流にのせて流しながら魚やエビ、カニ等をとる漁で、地元ではゲンシキ網漁と呼んでいます。当時はクルマエビが多 くとれたようで、鬼崎のクルマエビといえば高級品として名が知られていました。ゲンシキ網は、おそらく九州の有明海 で使われてきたゲンジキアミ(源式網)と同類の漁網とみられ、ヨコゼキあるいはヨコジキにも通ずる存在として注目さ れるだけに、伊勢湾のエビやカニ漁の歴史について検証する必要がありそうです。
 蒲池の漁師が伝えていた星は、ミツボシ(オリオン座)、オシャリサン(プレアデス星団)、キタノホシ(北極星)、 ヒシャクボシ(北斗七星)などで、他にもいくつかあったものの、呼び名は不明です。注目したいのはオシャリサンで、 オシャリのシャリはノドボトケと称される骨のことをいい、その形(地蔵さんが坐った姿)がプレアデス星団の星の配列 に似ているからという説明がありました。
 シャリ(舎利)は、本来仏陀あるいは聖者の遺骨のことですが、俗に死骸を火葬したあとに残る骨をさす場合がありま す。このうち「ノドボトケ」と呼ばれる遺骨は、その形が座禅をする仏や合掌する仏の姿に見えるなどといわれ、これ自 身を舎利と呼ぶこともあるようです。ただ、その正体はいわゆる喉仏(喉頭隆起)とは全く別物で、正しくは第二頸椎 (首にある上から二番目の骨)のことをさします。漁師の説明で「地蔵さんが坐った姿」とあるように、この星名の本意 は、遺骨そのものではなく、そこから連想される像形にあったことが分かります。振り返れば、西尾市西幡豆の漁師はプ レアデス星団をスワリサンと呼んでいました。他の地域でもスワリボシなどと称する事例があり、なかにはスワリジゾウ という報告もみられます〔『日本星名辞典』文0168〕。これらのスワリが「坐り」の意味であるとすれば、スワリジゾウ は正に「坐り地蔵」であり、蒲池のオシャリサンと相通ずることになります。星の見方が同じであっても、それを表現す る星名が異なるという事実は、日本の星の文化が奥深い領域に及んでいる証といえるでしょう。
 実際の星空を眺めても、プレアデス星団の星の配列と坐した地蔵の姿はなかなか結び付きませんが、人びとはこれをど のように眺めていたのでしょうか。地蔵菩薩は、釈迦が入滅したあと弥勒仏が出世するまでのこの世において衆生を救済 するとされていますが、こうした地蔵信仰が舎利(遺骨)を尊ぶ考え方と習合し、やがて夜空の星へと発展していったの かもしれません。そこには、舎利を介して来世の平穏を願う切実な思いが込められていたものと推察されます。

 

◇ オシャリサンの星 ◇
〈左〉坐り地蔵(石仏) /〈右〉プレアデス星団の図

 ところで、愛知県内の漁港をめぐった調査では、風に関する伝承も多く記録されました。風位呼称では、ベットウと呼 ばれる風が特徴的で、渥美半島の中山では北東から東にかけての方角からくる大風で、台風接近時によく吹いて海を荒ら すといわれます。また、西尾市西幡豆や南知多町師崎でも、ナライ(北東の風)より強い風の呼称となっています。
 風をめぐる言い伝えもいくつか記録されており、「朝キタ、夕マゼ」(田原市中山)というのは、朝方に船を出すとき は北寄りの風が吹き、日中はマゼ(南の風)に変わることを言ったもので、各地でよく耳にします。「ヤマゼよりヒトナ ミが怖い」と伝えていたのは西尾市西幡豆で、海が大荒れとなるヤマゼの風よりも人の噂のほうがもっと怖いという意味 です。因みに、西幡豆のヤマゼは台風が近づいてくるときに吹く南寄りの大風ですから、それよりも怖い噂話には注意し たいものです。さらに、常滑市蒲池には「伊勢のコウヤマに吉田のナライ、尾張のキタ吹きゃいつも吹く」という言い回 しが伝わっていました。コウヤマはそよそよと吹く程度の南西の風をいい、ナライは北東の風で、北に位置する尾張とい う具合に、風向きの方角にある地名を使って、この地域の風の特徴をよく示しています。
 その後、補足の調査として2013年に蒲郡市の倉舞漁港を再訪し、2019年には日間賀島と篠島へ渡りました。倉舞では、 新たにネノホシ(北極星)とシャアクノホシ(北斗七星)を記録し、昔はネノホシと地上の目印となる山を合わせる方法 で、漁場を認識していたようです。日間賀島では北斗七星を目あてとし、この星がいつもより暗く見えると天気が変わる と伝えていました。このように、愛知県沿岸部には生業と結びついた星の伝承が近年まで健在であったのです。

 

〈左〉日間賀島遠望 /〈右〉南知多町豊浜の漁港と日和山

[2021年初稿]


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ザマタの星 【新潟県佐渡地方】

 日本海をめぐる星名伝承には、かつての伝統的なイカ釣り漁とかかわる事例が多く知られています。その中心となるの が佐渡島で、特に興味をそそられたのは、ザマタという星の存在でした。この星名は、『佐渡海府方言集』〔文0074〕や 『日本星座方言資料』〔文0167〕で紹介され、後に石橋正氏は、遠く離れた北海道の襟裳岬に近い広尾漁港で記録してい ます〔『星の和名をたずねて』文0416〕。そこに登場するザマタは、イカ釣りで使用されたY字形の漁具の一種で、おう し座のヒアデス星団にその姿を投映したものでした。
 1975〜1976年にかけて、同じ北海道の積丹半島周辺でイカ釣りと星に関する調査を行った際、各地で漁師から古いイカ 釣り具をいくつか譲り受けてきましたが、その中の一つがザマタと同じ機能を有する用具であると分かったのです。それ は、積丹の漁師らがハネゴと呼び、海の上層から海面近くに浮いてきたイカを釣るための漁具です。そのとき、ザマタは きっとハネゴのことに違いないと考えるようになりました。
 ところが、その後すぐに『改訂漁具図説』〔文0412〕を見て、ハネグというイカ釣り具の台座(持ち手)の部分を「座 股」と称していることを知りました。ハネグの図は、積丹のハネゴそのものですが、残念ながら積丹ではハネゴダイとか 単にダイなどと呼ばれているだけで、ザマタなる呼称は一度も耳にしたことがありません。漁具にしろ星の名にしても、 ザマタの新たな手掛かりを得るには、最早原点である佐渡島を訪ねるほかはなさそうです。逸る心を抑えながら、旅立つ ことにしました。

佐渡の調査地図(1976)

 こうして、初めて佐渡の地を踏んだのは、1976年11月下旬のことです。両津港に降り立つと、穏やかな日和が出迎えて くれました。1000bを超す高い山並みに目をやれば、島とは思えぬその雄大さに驚かされます。かつての流人たちも、金 北山を眺めては儚い望郷の念に駆られたのでしょうか。今はむかし、遠い過去の感覚はことば一つさえ推し量る術もあり ません。
 両津からは、まずバスで相川へ向かうことにしました。終点で下車すると、どことなく寂れた雰囲気が感じられます。 ここからほぼ北へ向けて、鄙びた漁村が点在しており、最奥は外海府と呼ばれる地域です。町中を抜けると、それからは もう単調な海沿いの道を歩き続けました。どこまで行くという当てはありません。見知らぬ漁港を訪ねて、何よりもまず ザマタの星の話が聞きたかったのです。それによって、佐渡の漁師らとふれ合う切っ掛けが生まれるかもしれません。し かし、ザマタにつながる手掛かりはただ一つ、Y字形の漁具だけが頼りです。リュックのポケットから用意しておいたハ ネゴの写真を取り出し、浜辺の漁師を探しました。
 下相川までやって来ると、ようやく最初の伝承者に出会えました。ちょうど漁からもどったばかりの老夫婦で、二人で 船を引き揚げるところでした。作業中なので、邪魔にならぬよう声をかけたところ、その小柄な漁夫は、わざわざ手を休 めて話を聞かせてくれました。
 伝承された星の名は、スバリ(プレアデス星団)、フタツボシ(ふたご座α、β)などで、ザマタという星については 聞いたことがあるというものの、どのような星なのかはっきりしません。また、ザマタというイカ釣り具があるというの で持参したハネゴの写真を見てもらうと、これはツノと呼んで別物でした。さらに詳しく尋ねたい気持ちはありましたが、 これ以上の長居は禁物と思い、老夫婦に礼を述べて先を急ぐことにしました。実は相川の町で昼食をとった折に、そこの 主人から姫津へ行けばイカ釣りの漁師が大勢いると聞いていたので、多少の心残りはあっても急がざるを得なかったので す。
 それから1時間以上も歩いて、ようやく姫津に着きました。早速漁港へ行ってみると、いくつも帰ってくる船があって 活気に満ちていました。そこここで、忙しなく働いている人びとの姿が見られます。不意に大きな声がしたかと思うと、 ゴムの前垂れを付けた威勢のいいおかみさんが、ゴトゴトと荷車を曳いて向こうの坂道を上って行くのが見えました。そ れを子どもが追いかけて行きます。どこにでもある見慣れた光景ですが、なぜか疲れを忘れさせてくれるもので、ほっと 一息つくことができました。
 暫らく歩きまわり、古い漁師の姿も見あたらないので、ひと先ず宿をとることにしました。再び漁港へ行ってみると、 先ほどの賑わいはすっかり消えて、空には厚い雲が垂れ込め、寒々とした日本海の荒波が鳴っています。それから間もな く、宿の近くで一人の老漁夫に出会いました。昔はイカつけの漁師だったといいます。きっと星を見ていたに違いないと 直感し、早速尋ねてみると、案の定次から次へと星の名が出てきました。それらは、ヤザキボシ(ぎょしゃ座のカベラ) に始まって、スンボシ(不明)、スマル(プレアデス星団)、アカボシ(ヒアデス星団)、ワボシ(不明)、カラスコ( 三つ星)、シロボシ(こいぬ座プロキオン)と続く星々でした。そして最後に「ザマタいうのは、シロボシのあとから出 る。この星が海に入ると夜が明けるっちゃ」といいます。やはり、姫津でもザマタの星が伝承されていたのです。
 もう一つ、ザマタの正体を確かめるべくハネゴの写真を見てもらったところ、ここではミズカンダと呼んでいるようで す。ザマタがハネゴ型釣り具ではないとすると、いったいどんな漁具なのでしょうか。二股状の釣り具という観点では、 海中深くに沈めるヤマデやソクマタなどが考えられ、出現条件などから星の姿を絞り込んでいくと、おおいぬ座の三角形 (δ、ε、η)に思いが至ります。少なくとも『佐渡海府方言集』や『日本星座方言資料』にあらわれるザマタとは異な る星といえるでしょう。

 

二股のイカ釣り具ハネゴ(右の写真は台座の側面)

 翌日も、外海府へ続く沿岸の漁港を訪ね歩きましたが、ザマタを含めて星の伝承は記録できませんでした。この日は岩 谷口で一泊し、最終日はいよいよ大河内川沿いに分水嶺を越えて内海府に出ました。自然豊かな道中でしたが、途中で人 と出会うことはほとんどなく、黒姫に着くと少しほっとした気分になれました。
 集落内を歩くうちに行き会った80歳(1896年生まれ)の老漁夫は、黒姫に伝わるイカ釣りのヤク星をスワルノサキボシ (ぎょしゃ座のカペラ)、スワルボシ(プレアデス星団)、スワルノアトボシ(おうし座アルデバラン)、ムツラノマエ ボシ(オリオン座ベラトリックス)、ムツラ(三つ星)、ムツラノアトボシ(おおいぬ座のシリウス)と教えてくれたの です。ザマタの星については、確かにそう呼ばれる星があり、その形はV字形に並ぶ星ではないということです。詳細は 不明ですが、『佐渡海府方言集』に記された「・・に並ぶ星」の可能性があるかもしれません。
 その後、両津港に至る海沿いの道を歩きながら、歌見、馬首、玉崎と聞き取りを続けました。歌見の76歳(1900年生ま れ)の漁師は、ザマタの星は知らなかったものの、キタノヒトツボシ(北極星)、カジボシ(北斗七星)、スバリ(プレ アデス星団)、ムツラ(三つ星+小三つ星)の星名を教えてくれました。佐渡におけるイカ漁の対象はマイカ(スルメイ カ)が主体で、夜明け前にヨアケノミョウジョウが出てから海面が薄明るくなると、これをハマジラメといって、朝イカ のナツキでした。また、陰暦の冬至頃にとれるのは冬イカと呼ばれ、身の厚いイカだったようです。
 玉崎は、両津の町に近い集落で、ここでもかつてのイカ釣り漁師から話を聞きました。特に注目したいのは、以下の2 点です。
@ 相川から来た漁師が、ザマタという漁具のことをよく話していた
A ザマタという星があることも聞いたことがある
 これらが、いずれも相川町の伝承であるとすると、2日前に下相川や姫津で聞いた情報を補完する存在となります。し かも、玉崎での伝統的なイカ釣り具はツノ、トンボ、グの3種で、グというのは深層部のイカを釣る用具です。つまり、 グと同類であるヤマデやソクマタに相当するものを、ザマタと称していた可能性がより現実味を帯びてきたことになりま す。

 

〈左〉北海道のヤマデ /〈右〉おおいぬ座のサンカク

 とはいえ、ザマタの正体は、漁具も星も依然として霧に包まれた状態であることに変わりはありません。佐渡の調査を 終えて感じることは、ザマタに関する島内の伝承が一様ではなく、地域によって異なる存在かもしれないという複雑な思 いです。少なくとも、相川町のそれは、海府地域の伝承とは一線を画しているといえるでしょう。
 すでに紹介したように、ザマタは本来ハネゴ型釣り具の台座を意味する呼称でした。それが転じて釣り具そのものの呼 称へと変化したことが推測されます。見方を変えると、台座としての座股以外に、別な釣り具あるいはその一部をザマタ と称していたかもしれません。いずれにしても、ザマタの正体を解き明かす取り組みは、引き続き佐渡島内の記録を収集 し、精査することが重要であるといえそうです。

[1978年初稿][2021年改訂]
* この紀行はタイトルをそのままに、内容の一部を書き改めたものです.


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カンムリボシのふるさと 【埼玉県入間地方】

 カンムリボシとの出会いは、1997年のことです。東京近郊の丘陵地の懐で、散策中に出会った農家の女性 が伝承者であったことを考えると、それはたいへんな驚きでした。時代が平成へと移り、地方へ行ってもそ う簡単には星の伝承とめぐり会えない状況のなかで、このようなすばらしい星の名が埋もれていたことは、 まさに奇跡的と言ってよいでしょう。
 埼玉県では、集中的な調査などによって約8割の自治体で記録があり、それぞれの地域で体系的な星名伝 承が明らかになっています。特に西部の秩父・比企・入間の各地方では、一部で地域的な特性が認められる など首都圏とは思えない星名がみられます。このうち入間地方に目を向けると、星名の多様さは失われるも のの、体系的には一貫した命名の法則性を見出すことができます。最も顕著な事例は、星の数による命名で、 ヒトツボシ(金星)、ミツボシ(三つ星)、ヨツボシ(からす座)、イツツボシ(カシオペア座)、ムツボ シ(プレアデス星団)、ナナツボシ(北斗七星)という具合に、徹底した拘りが感じられます。ただし、オ リオン座の星名としてはミツボシあるいはミツボシサマが圧倒的に優位であり、三つ星以外の星にまで関心 を寄せることはありませんでした。カンムリボシの出現は、そうした従来の特性に大きな風穴をあけるほど の衝撃をもたらしたのです。
 伝承者の女性は70歳代とみられ、所沢市に隣接する入間市の出身でした。聞きとりで教えてもらった星名 はいくつかありますが、最初に出てきたのがこのカンムリボシです。初めは、かんむり座のことを言ってい るのかと思っていたところ、星の説明が全く違うのです。それは、明らかにオリオン座の三つ星とその周辺 の星々でした。そのときの感覚では、さらにエリダヌス座の一部の星を含むような印象も受けましたが、確 証はありません。対象としては、三つ星と小三つ星、それにη星を結んだ形が基本になります。しかし、こ の形がカンムリとは、いったいどのような見方をするのでしょうか。一般に冠といえば、頭に載せる王冠の ような形状をイメージすることになります。西洋の星座にあるかんむり座は、まさにこれです。しかし、星 の配列が円形ではないとすると、全く別な思考を働かせなくてはなりません。

 

〈左〉加治丘陵からの眺望 /〈右〉カンムリボシの見方

 こうして明らかになったのは、カンムリボシが観音信仰と深いかかわりをもつという事実でした。詳しい 説明から判断すると、それは観音様の頭上を飾る宝冠と宝髻[ほうけい]であったのです。さらに、この観 音様というのは、伝承者が子どもの頃に親といっしょにお参りに行った新久の龍円寺(入間市)に祀られた 千手観音であることが判明しました。武蔵野三十三観音霊場の一つ(第二十番)として知られた龍円寺では、 毎年12月に「朝観音」と呼ばれる行事があり、まだ暗い早朝より近在の人々が参拝に訪れるということです。 このとき、西空で傾きかけたオリオン座の星々を見て、カンムリボシと呼ぶことを母親から教えられたので した。確かに、観音菩薩の顔を思い描き、そこに西空で横たわった三つ星付近の星々を重ね合わせると、二 つのイメージは何の違和感もなくしっくりと溶け込みます。まさに、これは日本人が独自に見出した東洋の カンムリにほかなりません。
 その後、龍円寺に問い合わせたところ、朝観音の様子や現在もまだ行われているとの情報を得ました。加 治丘陵の一角に位置する寺院のたたずまいを想像し、そこで眺められるであろう西天のオリオン座に思いを 馳せることができたのです。しかし、実際に現地でカンムリボシの姿を確認するまでには、さらに多くの月 日をやり過ごすことになってしまいました。
 感動の出会いから10年が経過した2007年を迎え、ようやく龍円寺を訪れる日がきました。近くにありなが ら、ずいぶん遠回りをしたことになりますが、実際に現地に立ってみると、その景観や雰囲気は、当初思い 描いていたものとほとんど変わるところがなかったのです。早速寺の住職から話を伺ったところ、以下のよ うな新しい情報がみつかりました。
@朝観音は現在も行われており、近年は12月10日と固定せず、その付近の日曜日に開催されている。
Aこの行事は、1年を締めくくる納めの時期にあたり、御札等のお焚きあげを行うものである。したがって、 早朝よりお参りをすることでご利益があると言われている。
Bいつ頃から始まったかは不明だが、少なくとも昭和の初めには盛んに行われていた。
C朝観音の当日は、早い人で4時頃から参拝に来る。寺では6時より護摩を焚き、甘酒を振舞う。
 調査で伝承者から聞いた内容によれば、暮れの12月10日と翌年の1月10日が朝待ち(朝観音)とされてい ます。母親からカンムリボシを教えてもらったのは昭和12年頃で、当時はずいぶん多くの参拝者で賑わって いたといいますから、戦後70年以上も経った現在とはだいぶ様子が異なっていたことでしょう。住職に礼を 述べてから観音堂へ行ってみると、ちょうど新しい堂を建立しているところでした。

 

〈左〉龍円寺の参道 /〈右〉朝観音の様子(2008年)

 今回の現地調査では、いったいどの場所からカンムリボシを眺めたのかという素朴な疑問がありましたの で、寺院の周辺を含めて少し散策してみたところ、方角や視界の状況などから判断して、最も可能性が高い 場所として車道から境内へ至る参道付近と観音堂脇の墓地に目星をつけたのです。次回は、いよいよ朝待ち 当日の星空を見て確認するしかありません。さらに、もう一つ気掛かりだったのは、カンムリボシのふるさ とである龍円寺周辺で、この星の伝承がまだ残されているかどうかということです。しかし、散策中に出会 った婦人からミツボシサマやナナツボシの名を聞くことはあっても、カンムリボシの伝承については全く手 がかりを得られず、残念な結果に終わりました。
 龍円寺が位置する加治丘陵の南側は、大規模な茶畑が広がり、狭山茶の一大産地となっています。丘陵内 の展望塔からは、こうした情景を一望できるほか、遠く奥武蔵や秩父、奥多摩などの稜線を見渡すことがで きます。眼前に展開されるパノラマを眺めていると、狭山茶というこの地の特産物を育んできた歴史と風土 がカンムリボシを生み出したようにも感じられます。おそらく、その時代を生きた人びとの心には、観音巡 拝という民間信仰の学びが深く根をおろしていたことでしょう。

 

〈左〉新しい観音堂 /〈右〉加治丘陵南側の茶畑

 それからさらに1年後、年の瀬が迫る12月7日に朝観音の日を迎えることになりました。幸い天候にも恵 まれ、前夜からの星空が朝まで続くまたとない絶好の機会です。まず、午前4時頃より寺院の周辺で冬から 春の星座を確認することにしました。おうし座やオリオン座、こいぬ座、おおいぬ座などの主要な星々は、 すでに西の空に追いやられ、一段と高度を上げたしし座を筆頭に、からす座、おとめ座、うしかい座などの 春を代表する星々が主役となりつつあります。また、北の空では北斗七星が大きく競りあがる姿をみせ、代 わりに低空へと落ちて行ったのはカシオペア座です。
 確認が終わると、寺院裏手の墓地を抜けて一旦観音堂の前を通り、そのまま参道へ向かいました。そこか ら西の空を眺めると、下見の際に想像したような雄大なオリオンの姿が目に入ってきます。そして、横倒し になった三つ星は、紛れもなく観音様の冠を象徴するような輝きを放っていたのです。
 その感動を写真に収めていたところ、境内から何やら人の話し声が聞こえてきます。間もなく、参道を歩 いて来る人にも出会いました。どうやら地元の世話役の人たちが、これから朝観音の準備をするのだそうで す。その後、境内へ移って観音堂の上にかかるカンムリボシの撮影をしている合間にも準備は進められ、観 音堂の前ではいつの間にか焚き火の炎が明々と揺らいでいました。その幻想的な光景に誘われて何気なく観 音堂の西側へまわると、なんとそこに建立されていた石造の大きな十一面観音像のすぐ脇の空間に、ちょう どカンムリボシを望むことができたのです。それこそ、11年越しに思い描いてきたカンムリボシのふるさと そのものを示す光景でした。
 近年は朝観音の参拝者が少なくなったという話を聞いていましたが、この日は5時を過ぎても一般の参拝 者の姿はありませんでした。かつて、ここに参集した人々がカンムリボシを眺めたことも、今は遠い昔語り になろうとしています。しかし、この観音堂の存在とそれを支える観音信仰が続く限り、カンムリボシはい つまでもこの地に生き続けることでしょう。幸運にも、その記録の一端を担う役割を得たことはこの上ない 喜びであり、改めて気の引き締まる思いがします。

◇ 十一面観音とカンムリボシ ◇
* この石造十一面観音像はカンムリボシが生まれた当時はなかったものです
〈 写真を拡大する 〉

[2009年初稿][2021年改訂]
* この紀行はタイトルおよび内容の一部を書き改めたものです.


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若狭路を行く 【福井県若狭地方】

 福井県は北陸三県で最も西にあり、近畿地方と接しています。敦賀半島から東側はかつての越前の国で、西側は 若狭の国でした。両者は、風土や文化などに相違がみられ、若狭は近畿圏、特に京都府や滋賀県と深いつながりを もっています。
 複雑に入り組んだ海岸線をもつ若狭湾のなかでも、独特の景観を有するのは三方五湖と呼ばれる地域です。五湖とは、 日向湖、久々子湖、水月湖、三方湖、菅湖をいい、このうち日向湖だけが日本海と接続しています。その狭い水路には 橋がかかり、東西それぞれの湖岸に集落が形成されるという古い漁村形態がみられます。

〈左〉日向の外海(2013) /〈右〉日向の橋と集落(2013)

 日向[ひるが]を初めて訪れたのは、1975年9月でした。三方地方にのこる「能登星」の星名を自分の耳で確かめたい というのが発端です。とにかく辺鄙な漁港を訪ねたいという気持ちが強く、小浜線の美浜駅からどのようなアクセスで 日向まで行ったのか、ほとんど記憶がありません。ただ、現地に着いて水路を境に日向湖の両岸にひしめき合って建ち並ぶ 漁師家を眺めたとき、それまで見てきた漁村の景観とは異なることがよく分かったのです。
 最初に出会ったのは若い漁師で、スンバリ(おうし座)とオボシ(不詳)の星名を教えてくれました。この人から「永井 老人が星に詳しいよ」と聞いたので早速訪ねてみましたが、生憎不在で会えませんでした。しかし、その後すぐに集落の 外れで60代の漁師から話が聞けました。それによると、プレアデス星団はやはりスンバリと呼び、この星を見て時間を 知ったということです。また、カラツキ(オリオン座)やヨアケノミョウジョウ(金星)を含めて、これらの星の出には 魚がよく釣れるといいます。そして、ノトボシの登場です。これはぎょしゃ座のカペラのことで、越前方面まで出漁 すると、9月中旬なら晩の8時頃に能登半島の方角から上ってくる星で、「さあ、ノトボシが出るで魚がよく喰うぞ」 などと言っていました。
 この日向での調査は、念願の星名にめぐり会えたという満足感だけでなく、星の伝承そのものがまだまだ健在であると いう思いを強くしたという点で、自分なりに納得できるものでした。そうした特別な場所であった日向の地に、38年の歳月を 経て再び足を踏み入れる機会を得たのは、長い空白の時を超えてもなお人を惹き付けて止まない力があったからと言えるの ではないでしょうか。そして臨んだ二度目の調査は、2013年8月中旬のことです。前日、琵琶湖北部の漁港をいくつか 回ったもののほとんど収穫がなく、気を取り直してのスタートでした。今回は、近年各地で運行されているコミュニティ バスを利用することになり、美浜駅前で乗車して日向に向かいます。途中、経由先の和田浜へ立ち寄った際、ふと窓外を 見ると広い水田の中で動き回る動物がいました。それは、ニホンザルの小さな群れだったのです。どうやら稲穂を食べて いたようでしたが、広大な水田地帯での目撃は初めての経験であり、驚きました。
 やがて、バスは早瀬の海水浴場を通過して終点に着きました。バス停は、日向の手前の浜地区にあり、眼前に広がるのは 若狭湾です。そこから、日向湖に続く水路と橋を望むことができます。懐かしい風景を思い出すように歩き始めたものの、 道路は拡張され、水路に架かる橋も随分と立派になっていました。橋の手前で左に折れ東の集落に入ると、湖岸は近代的な 護岸工事によってその姿をすっかり変えていました。かつて、細い路地にひしめいていた漁師家の家並みはなく、新しい 住宅が建ち並んでいます。船も漁具も、38年前とは比べものにならないほど近代化されていたのです。
 岸壁に係留された漁船を眺めながら歩いていると、台車の修繕をしている漁師がいました。この人は80歳(1933年生まれ) で、中学を出るとすぐに父親と一緒に漁を始めたそうです。その頃は、手漕ぎの船に二、三人が乗り込み、帆を張って漁に 出ました。したがって、出漁時の風向きの確認と、帰港時の風(逆向き)の予測は、当時の漁師にとって命を守るための 重要な技量の一つだったのです。日向の漁業は、現在定置網漁と刺網漁を主体に行われており、前者ではブリ、ヤリイカなどが、 後者ではカレイやヒラメ、アジ、カワハギ、マダイ、アマダイなどを漁獲しています。
 日向で生まれ育った漁師であれば、かつての伝統的な星の名を一つくらいは知っているかもしれないと尋ねたところ、意外 にも多くの星名が出てきました。スンバリとオボシは38年前にも記録していますが、その際不明であったオボシの正体がようやく 明らかになったのです。説明によると、この星はおおいぬ座のシリウスで、日向における星の利用体系が一部補完されました。 さらに、今回はアカボシ(おうし座アルデバラン)とシンボシ(こぐま座)、ナナツボシ(おおぐま座)が加わったことで、 その構成はより確実性を増すことになりました。それにしても、星の伝承が立派に受け継がれていたという事実を目のあたりに して、無事に再び記録できた喜びを改めて噛みしめました。このような体験は、もう二度とないかもしれません。

〈左〉おおいぬ座 /〈右〉三つ星とオボシの関係

 翌日は、若狭湾の西側に連なる漁港を歩くことにしました。まず訪れたのは高浜漁港です。JR小浜線の若狭高浜駅から ほぼ北に向かって直進すると、15分ほどで岸壁に着きましたが、辺りを見渡した限りでは漁師の姿はありません。一度西へ 行き、反転して東へ歩いて行くと、ようやく刺網の整理をしていた70代の漁師がいました。かつては小さな湾内にサバの まき網船が8組(16隻)もいたが、今は全くいなくなってしまったこと。漁はすっかり低迷し、アマダイを対象とした 延縄漁と8月限定の刺網漁が行われていることなどを聞かせてもらいました。この漁師は、漁のときに星をあてにしたこと はないと言って、星の伝承はほとんどありません。それでも、風位呼称では少し興味深いものがあり、南方から吹く風を ヘタカゼと呼んでいました。さらに南東の風をヒガシノヘタ、南西の風はニシノヘタという具合に呼び分けもみられます。 ヘタはオキ(沖)と対峙することばで陸(オカ)を意味するようです。オカからオキに向かって吹くのは、一般的にダシ カゼで、高浜では南西の風をダシと呼んでいます。おそらく、ヘタカゼの呼び分けが行われているのは、手漕ぎ船に 帆を張っていた時代の名残ではないかと思われます。出港時の風向きは重要でしたから、北から吹くオキカゼとともに 大事な風だったのでしょう。
 高浜漁港を後にして、今度は和田漁港へ向かいます。いったん駅へ戻り、列車で若狭和田駅まで移動し、再び歩いて 約20分。漁港に隣接する浜辺は、多くの海水浴客で賑わっていました。それでも、漁港にはあちこちに漁師の姿がみられ、 早速刺網の整理をしていた80歳の漁師に話しかけると、仕事の手を休めることなく親切に教えてくれたのは少し意外な 感じでした。星の伝承は、伝統的な星名こそ聞けなかったものの、オオボシ(金星)に対するコボシ(不詳)の存在が 強く印象にのこっています。
 日本海側の調査で楽しみな項目の一つに、それぞれの土地で古くから使われていたイカ釣り用具があります。和田では、 それをチョンアカシと呼んでいました。海中に沈めるタイプの釣り具ですが、腕は1本だけというのが特徴で、これに 擬餌鉤を1個取り付け、ケンサキイカやマイカ(スルメイカ)を釣っていたようです。因みに小浜市のある漁師によると、 腕が2本で二股になった類似のイカ釣り具があるといい、テンビンと呼んでいます。イカ釣り具は、いくつかの基本 タイプから時代とともにさまざまな形態が派生し、呼称も多様化した実態が知られています。
 その後も数人の漁師から話を聞きましたが、星の伝承は得られずそろそろ引き揚げようとしたところ、漁協の事務所へ 行けば、地元の漁についてまとめた資料があるから寄ってみなと言われました。せっかくなので、5分ほど歩いて漁協を 訪ねると、数人で作業中でした。それでも、目的を説明すると若い職員はわざわざ手を休めて資料をコピーしてくれた のです。突然の来訪を再度詫びつつ、礼を言って受け取りました。それはA4用紙1枚に整理された気象に関する伝承で、 天候から風位、潮流、気圧の変化など、漁師として心得ておかなければならない基本的な知識を伝統的なことばで表現 しています。残念ながら、星に関する伝承はみられませんが、貴重な資料であることに変わりはありません。


〈左〉高浜漁港の刺網漁船 /〈右〉和田漁港のタコ壺

 若狭湾の調査で、一度は訪ねておきたい場所があります。それは小浜市で、この日最後の漁港となりました。駅に到着 すると、観光案内所で自転車をレンタルし、中心部から少し離れた西津漁港へ向かいました。しかし、午後の漁港は閑散と していて、釣り人以外は人影がありません。係留されている船をみても、本来の漁船ではなく釣り船などのレジャーボート が目立ちます。自転車を押しながら少し歩き回って、ようやく電動車椅子に乗った元漁師(80歳)という人から少し話を 聞きました。祖父、父親と続いた漁師の家系で、長い間底曳網漁に従事してきたようです。ただし、星のことは聞いた おぼえがないということですから、この漁家ではもともと星の伝承が継承されていなかったのかもしれません。
 西津の漁師はずいぶん少なくなってしまったと寂しそうに呟く漁師の横顔を見つめながら、38年間という自分自身の 空白にも思いを馳せつつ、心なしか重くなったペタルを踏んで帰路につきました。

[2020年初稿]


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飛騨と美濃をみつめて 【岐阜県飛騨・美濃地方】

 岐阜県内に伝承された星との本格的な出会いは、1984年に当時名古屋市在住の方からいただいた資料がきっかけでした。 それは、脇田雅彦氏がまとめた『岐阜のミツボシ』〔文0052〕で、県内に伝わるオリオン座三つ星の呼称が伝承者自身の ことばを通して詳細に記録されていたのです。
 その後、脇田氏は2008年に『岐阜県の星の方言』〔文0311〕を著し、星名伝承の集大成を遂げています。自身の調査記 録に加えて、かつて野尻抱影氏に星名の報告を行った香田まゆみ氏、広瀬永治郎氏、玉垣弘八郎氏、桑原淳行氏という4 人の先学者たちの記録を併せて「岐阜県 星の方言一覧表」が作成されました。
 さらに、この資料では月にまつわるさまざまな伝承や日月食、流星、彗星の伝承、三日月や月待に関する行事・伝承な ども収録されており、いわば岐阜県の星の民俗について集約した貴重な報告書となっています。北部の飛騨地方と南部の 美濃地方という二つの地域圏を有する岐阜県において、星名の一つにも各地の特性が明確に表れていることがよく分かり、 豊かな文化を育んできた内陸県としての魅力を感じさせてくれます。
 さて、調査の開始は2014年の夏で、このときは飛騨南部の下呂市と揖斐郡池田町を歩きました。下呂市では、JR高山 線飛騨萩原駅付近の萩原町上村地区、そこからバスで30分ほど山間に入った萩原町山之口地区や尾崎地区で聞き取りを行 い、延べ5人(男性2人、女性3人)から話を聞くことができました。このうち、最後に出会った75歳(1939年生まれ) の農家の男性から聞いた星の名にマグワボシがあったのです。
 マグワは馬鍬のことで、かつては農業に欠かせない用具の一つでした。カラスキで田の荒起しを行ったあと、その土を 均すのに牛馬に曳かせて使いますが、柄が付いた鍬状の道具もマグワあるいはマンガなどと呼ばれることがあります。本 来の馬鍬は台形をした木枠の底部に大きな鉄の釘を多数有し、これで土を掻く構造をしています。マグワボシというと、 通常はからす座の四辺形に対する呼称であり、馬鍬の形状をそのまま星の配列に見立てたものにほかなりません。ところが、 岐阜県の場合は脇田氏の資料によると、オリオン座三つ星の呼称として伝承されています。しかも、その分布域はほぼ西 美濃地方に限られ、飛騨での記録はありません。これは、いったいどういうことでしょうか。

〈左〉萩原町山之口の集落 /〈右〉田を均す馬鍬

 まず、順当に考えるなら、西美濃地方で伝承されていたマグワボシが人的な交流を介して飛騨地方の一部に伝わり、そ れが定着したとみるのが適当です。しかし、なぜ三つ星に馬鍬の姿を重ねたのか、その疑問は残されたままです。そこで、 少し別な視点から考察してみましょう。
 三つ星から馬鍬を思い浮かべるのは困難としても、仮に小三つ星やη星を加えて四辺形になれば、それなりの根拠が見 出せます。実は萩原町では、一般的なカラスキと同類の用具をバグワと呼んでおり、マグワとたいへんよく似た呼称であ ることを知りました。カラスキボシは三つ星+小三つ星の代表的な星名ですが、これをバグワボシと称した可能性は否定 できないと思われます。やがて、伝承の真意が失われるようになると、バグワはマグワに転訛し、単なる三つ星の呼称と して定着が図られるようになったかもしれません。ただし、今のところ西美濃ではカラスキをバグワと呼ぶ事例がないこ とから、あくまでも星名が飛騨で発生したとする前提条件が必要になります。
 脇田氏の記録を詳細に検討すると、マグワボシの転訛形としてマゴワボシ、マガ、マングサマなどがあり、伝承者の一 人が「マグワハ三ツジャナイガ」と話していることから、三つ星以外の星も対象とする見方が存在していたと判断できま す。因みに、西美濃地方ではカラスキボシとマグワボシが併存していたことを記しておきます。
 萩原町でマグワボシ以外に記録された星名は、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、チカボシ(月に接近した星)など 一般的なものばかりです。三つ星については、かつて伝統的な星名としてカセボシの記録があり、その正体を探ることが 今回の調査目的の一つでもありました。男女二人の聞き取りを整理すると、この地域でいうカセは、いわゆる管巻[くだ まき]のことで、これを使用した作業をカセ繰りと称していました。おそらく、飛騨地方のカセボシのカセは用具全体で はなく、糸を巻取る細い管を三つ星の並びと見たのではないでしょうか。


〈左〉オリオン座の三つ星付近 /〈右〉萩原町でカセと呼ぶ管巻

 バスで飛騨萩原駅にもどると、高山本線を北上して飛騨小坂まで足を延ばしてみることにしました。帰りの列車まであ まり時間がないので、歩いたのは駅周辺に限られましたが、少し聞き取りができました。一人は、高山市の久々野出身で 小坂へ来てから40年ほどになるという80歳(1934年生まれ)の男性で、シャモジボシ(北斗七星)の星名とともに、十 五夜に関する興味深い情報を教えてくれました。
 十五夜の行事そのものはごく一般的な内容ですが、久々野には「ころがり月」と呼ばれる伝承があるというのです。そ れは、久々野の奥、宮峠の手前にある山梨地区の話で、同地では十五夜の月(望月)の出を眺めると、月が転がるように 上がってくるそうです。これが、月見の里にある転月の丘をさすことは後で知りましたが、その由来は、宮峠から駕籠で 下る際、山端を移動する満月が転がるように見えたことに依ります。さらに、満月は三つの光明を放ってくず葉のように 変化したとのことです。最後の部分は三体月の伝承にも通じる展開ですが、残念ながらこの伝承は、十五夜や月待などの 行事とは直截かかわりがないようです。いずれにしても、転がり月という発想は現代人にはない心の豊かさを感じさせて くれます。


〈左〉満月(望月) /〈右〉芋名月のサトイモ

 翌日は、大垣から養老鉄道で美濃本郷まで行きました。ここから、田園地帯の集落を廻ろうという計画です。駅を出て 間もなく、庭で草取りをしていた84歳(1930年生まれ)の女性と行き会い、少し話を聞きました。旧暦8月15日の十五 夜には、三方に団子と里芋を載せ、花びんにさしたススキとともに供えたといいます。何とも簡素な十五夜の象でしょう。 信仰の原点をみる思いですが、三方を使う事例は全国的にも希少です。
 西に横たわる山麓に向かって進むと宮地の集落があり、地域の一の宮である熊野神社が鎮座しています。その先の集落 は般若畑で、道端で出会った80歳(1934年生まれ)の女性は、めずらしく日食に関する伝承を話してくれました。この 地へ嫁いで60年になるとのことですが、昔は日食があると「どうか世の中を明るく照らしてください」などと唱えながら 太陽を拝んでいたそうです。
 この人が、地区の長老の一人として84歳の農家の男性を紹介してくれました。わざわざ自宅まで案内くださり、土間の ある玄関でゆっくりと話を聞くことができたのです。いちばん気がかりであった星の伝承では、この地域の伝統的な星名 であるハゴイタボシ(プレアデス星団)が今も継承されていることに驚きました。それは「ハゴイタボシが西の山へ入る ようになると霜がおりる」といわれるように、暮らしに深く根付いた存在であったからです。
 般若畑は、月をめぐる行事もさかんだったようで、三日月さんや十五夜には旧来の習俗がのこされています。旧暦8月 15日の十五夜は芋名月と呼ばれ、供えものはススキと丸盆に盛った生のサトイモだけです。このように団子よりもサトイ モが重視されているのは、数百年にわたる里芋の産地という背景が関係しているのでしょう。現在も約8割の農家が里芋 を栽培していることを考えれば、まさにサトイモの里と呼ぶに相応しい土地柄です。
 一方、三日月さんの習俗は子どもの頃の話で、今はもう行われていないようです。旧暦の毎月3日には、夕方になる と西空に三日月がかかり、父親が家族を呼び集めて全員で三日月に手を合わせて拝みました。このとき「元気でマメに暮 らせますように」と願掛けをしたそうです。
 かつて、般若畑の山麓には昭和25年頃まで桑畑が広がっていました。当時は年3回の養蚕がさかんで、とれたマユは 組合を通して出荷されたといいます。春蚕や秋蚕のときは室温を上げるために木炭を使いますが、それも自前で焼いてい ました。ヤマには山之神が祀られ、毎年1月9日はその例祭日です。後に麓の神明社境内へ移されましたが、例祭は毎年 当番宿が決められ継続されています。
 この年は、たまたまこの男性の家が当番宿であったことから、祭日に奉納された物品の一部が残っていました。奉納品 は当番の家で準備することになっており、大注連縄、腰蓑、へのこ、穂掛け、草履、草鞋、神酒、笹竹、笹用〆縄、注連 紙垂などがあります。こうした行事は、コミュニティの維持には不可欠の要素ですが、山之神講の組織が今後も変わらず 維持されるという保証はありません。実生活から乖離してしまった習俗には、最早新しい伝承の力が生まれることがない のです。岐阜県の調査は、それが星の民俗にとっても避けて通れない現実であることをより強く心に留め置く恰好の機会 となりました。


般若畑の山之神への奉納物

[2021年初稿]


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由利のホシガニ 【秋田県南部沿岸地方】

 秋田県の調査といえば、1976年に早春の仙北郡西木村上戸沢(現仙北市)を訪ねたことがあります。北海道の調査を終 えて下北半島へ渡り、各地の漁港をめぐりながら八戸市や盛岡市を経由しての訪問でした。戸沢地区は、かつてマタギ集 落として知られたところで、その特殊な狩猟集団が利用していた星の伝承を探ろうというのが主な目的です。
 宿で紹介された門脇さん宅を訪ねると、夫婦であたたかく迎え入れてくださり、山の生きものから川魚の獲り方などを含 めて、かつての暮らしぶりについていろいろと話を聞くことができました。門脇さんは職業人としてのマタギではなかった ものの、尋常小学校4年生のとき父親の村田式鉄砲を持ち出してバンドリ(ムササビ)を仕留めるなど、マタギ(狩猟者) としての長い経験の持ち主だったのです。しかし、いざ星の話題になると、傍らにいた奥さんが、
「星といえば・・・・・・、そうそう確かホウキボシというのがあったすなぁ。星がいくつも集まってるから、ちょうど雲のよ うにみえるんでしょう」 と言って、星の名前はこれひとつきりと、申し訳なさそうに頭を下げたのです。外ではいつの間にか雪が舞い始め、部屋 のストーブがパチパチと鳴って、薪が弾けていました。結局、西木村の猟師から星の伝承を聞くことはありませんでした が、今となっては貴重な聞き取りであったと思います。

ホウキボシ(プレアデス星団)の見方

 それから36年ものブランクを経て、秋田県の調査が再開されました。今回は、海の漁師を求めての旅です。前年より本 格的な全国調査を展開することになり、その手始めとなった山形県沿岸域に連なる調査ということで、県境付近のにかほ 市象潟町小砂川漁港からスタートです。
 酒田から国道7号線を北上し、山形県最北の女鹿漁港を見送ると、間もなく県境を越えて秋田県に入ります。少し走っ てから細い道を下ると、岩礁に囲まれた小さな漁港に着きました。生憎、聞き取りができる漁師はおらず、高台にある集 落へ移動して農作業をしていた70代の男性に声をかけました。小砂川は、かつて秋田県最南部の辺境であったため、山形 県遊佐地方とのつながりが深く、ここへ嫁いできた女性は遊佐の出身者が多いそうです。したがって、暮らしや文化など の面でも同地方と共通点が多いと聞いて、なる程と思いました。
 旧道から7号線に合流して暫らく海岸線を北上すると、象潟の中心街があります。海にせり出した街並みを囲むように いくつかの漁港や船溜りが点在し、このうち最も大きな漁港(新港)では多くの漁船がみられ、活気がありました。ここ で、70代の漁師から風の伝承やイカ釣りの話を少し聞いたあと、さらに北にある船溜り(旧漁港)で80代の漁師と出会い、 ようやく星の伝承を記録することになったのです。
 象潟の星は、ヒバリ(プレアデス星団)、モッコボシ(ヒアデス星団)、マスボシ(三つ星+小三つ星)、ヒシャクボ シ(北斗七星)などで、特におうし座とオリオン座の星々は、かつてのイカ釣りのアテ星として利用されていました。当 時は、手漕ぎの船で夕方出漁し、トンボやハネと呼ばれる釣り具を使って夜通しスルメイカを釣ったそうです。ただし、 商売でやる人は少なく、ほとんどが自家消費のための漁でした。こうした零細的なイカ釣り漁のお蔭で、星の伝承も細々 と受け継がれてきたのかもしれません。
 ヒバリはスバルの呼称が転訛したものと考えられますが、モッコボシというのはなかなか興味深い星名です。モッコと いうと、通常は縄で編んだ担ぎ畚を連想しがちですが、星名の由来となったモッコは、背負い籠梯子というタイプの運搬 具のことをさします。この型の特徴は、籠部分の開口部から底部にかけて次第に窄んだ形状となっており、横から見ると V字形をなしてヒアデス星団の星の配列とよく符合することです。一般的な背負い籠は全国各地でみられますが、枠を有 した鳥の巣状の籠が背負い梯子と一体化し、さまざまな形態に分化したと考えれば分かりやすいでしょう。東北地方や新 潟県、西日本の一部などで使われ、モッコ以外にも地域特有の呼称がいくつか知られています。また、利用される材料も まちまちで、作り手による工夫が活かされた用具といえるでしょう。

〈左〉モッコボシの見方 /〈右〉にかほ市のモッコに近い事例

 ここで、にかほ市内のモッコについて注目すると、
・木の枝などでV字形の骨組みを作り、そこに縄などを巻いた籠状の背負い具で、主に農家の人たちが堆肥の運搬に利用 していた(小砂川)
・ヤマからよく撓る木の枝を採取して枠(骨組み)を作り、周囲をアケビの蔓で編んだ籠状の背負い具で、農家の人が堆 肥の運搬に利用した(象潟町)
・太いフジ蔓で骨組みを作り、そこに縄を巻いたV字形の籠状の背負い具で、かつては水揚げされたハタハタなどを運搬 していた(金浦)
など、総じてV字形の背負い籠に近い形態であることが分かります。少し離れた男鹿半島では、類似の籠をゴスと呼んで いますが、やはりモッコボシが伝承されている山形県には、タラカゴ、ハコモッコ、スナショイなど多彩な呼称と形態が あり、タガラ系やオイコ系の背負い籠梯子も各地にみられます。
 象潟をあとにして、金浦へ向かいました。漁港の一角に方位石があることを知っていたので、まずはそれを探します。 目印となる灯台は港内の小島にあり、岸壁と歩道橋で結ばれていました。にかほ市内では、多くの日和山と方位石の存在 が確認されており、その中でも代表的な方位石のひとつです。本来は日和山に設置されていたはずですが、想定される場 所がいくつかあって特定できなかったのは残念でした。
 近くの船溜りにいた80代の漁師は、別な場所でも方位石を見た記憶があると教えてくれましたが、詳しいことは分か りません。この人が伝承していた金浦の星は、シバル(プレアデス星団)、サンコウ(三つ星)、ヒシャクボシ(北斗七 星)、ヨアケボシ(金星)で、手漕ぎの船に帆を張って、飛島近海へ出漁していたかつてのタラ漁で利用していた星でし ょうか。元来、イカ釣りよりも底曳き網漁がさかんであったという事情を考えると、広範な利用も想定されます。

〈左〉象潟の日和山伝承地 /〈右〉金浦の方位石

 翌日は男鹿半島をめぐり、その帰路、2日前に立ち寄った由利本荘市の西目漁港を再訪すると、意外なものを見つけま した。それは、俗にワタリガニと呼ばれるガザミです。獲れたばかりのガザミを見るのはこのときが初めてで、さらに同 じ仲間のジャノメガザミをホシガニと呼んでいることを知りました。いずれもワタリガニ科ガザミ属の蟹で、ジャノメガ ザミのほうはガザミよりも小型で、甲羅に3個の斑紋を背負っているのが大きな特徴です。これがジャノメ(蛇の目)と いう標準和名の由来ですが、漁師らの間ではモンガニやモンツキガニの呼称で親しまれ、さらに3個に因んで、これをオ リオン座の三つ星に見立てた呼び名が各地で記録されています。ホシガニ(星蟹)もそのひとつで、秋田県から遠く離れ た宮崎県や鹿児島県でも記録されています。こうした聞き取りによる生息状況は、太平洋側で房総半島の外房より南の地 域に分布し、日本海側では北九州を経て秋田県まで点在していますが、個体の分布状況もほぼこれに重なるとみてよいで しょう。
 星とかかわる呼称には、ミツボシやジョウトウヘイなどの星名を踏襲する傾向が強く表われており、特に外房から伊勢 湾にかけて集中する傾向がみられます。由利のホシガニは、今のところ北限のジャノメガザミとなる貴重な伝承であり、 象潟のモンツキガニとともに地域の人びとから愛される存在として受け継がれることを願っています。なお、西目で聞い たカニは、他にジャリガニ(タイワンガザミ)やアカガニ(ヒラツメガニ)などがいるようです。

〈左〉西目漁港のガザミ /〈右〉ジャノメガザミの斑紋

 西目の漁師も、かつては手漕ぎの船でスルメイカを釣っており、釣り具はやはりトンボとハネゴの二種でした。サンコ ウやヨアケボシ(金星)を頼りにしていたそうで、ヨアケボシの出には朝イカが付くと伝承されていました。残念ながら、 他のイカ釣りのアテ星については思い出すことができないまま、漁港をあとにしたことが悔やまれます。
 山形・秋田の県境付近は、鳥海国定公園として雄大な山岳地形を現出しています。景勝地として知られる象潟の形成に 大きな影響を及ぼした鳥海山の火山活動にみられるように、この沿岸一帯の自然や人びとの暮らしは、鳥海山の懐に抱か れてきた歴史をもっています。県境の沖合には、日本海の孤島として知られる飛島があり、星の民俗調査の原点ともいえ るこの島で、鳥海山付近から上るイカ釣りの星について聞いたのは1974年のことです。その折に眺めた鳥海山の山容を思 い浮かべながら、今回の旅を終えることにしました。

[2021年初稿]


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ライトレールの街 【富山県沿岸地方】

 北陸三県のうち、最も東に位置するのが富山県です。能登半島に抱かれた富山湾の蜃気楼やホタルイカ、日本海に注ぐ 黒部川とその源流域である立山の峰々、白川郷と並ぶ合掌造りの五箇山集落など、県内の至る所に名所、旧跡、特産物が みられます。
 新潟県から続く沿岸には大小の漁港が点在し、さまざまな漁業が展開されてきました。そんな富山県の調査は、2012年 4月に行われています。JR北陸本線(現在一部は第三セクターの運営による)を中心にJR氷見線、そしてLRTのス マートな車両が人気の富山ライトレール(現富山地方鉄道)や高岡の万葉線など、個性豊かな列車とバスを乗り継いでの 旅でした。

富山市内から望む剣岳方面の峰々

 調査のはじまりは、魚津市からです。駅前の観光案内所でレンタサイクルを借り、まず黒部市の石田漁港を訪ねたあと、 経田漁港と魚津漁港をめぐりました。魚津市の漁師らに伝承された星は、ミツボシサン(オリオン座)、ナナツボシ(プ レアデス星団)、アオボシサン(おおいぬ座のシリウス)、オオボシサン(金星)などで、かつてイカ釣り漁で利用され た星々が主体です。魚津漁港の80歳(1932年生まれ)の元漁師は、これらの星の出を「星の出あい」と呼んでいました。 ただし、プレアデス星団をナナツボシと称しているのは魚津だけのようで、黒部市や朝日町でナナツボシといえば、一般 的な北斗七星のことです。
 石田漁港の近くで畑仕事をしていた二人の女性からは、地元で行われているタナバタ行事について話を聞きました。こ こでは、新暦8月7日に短冊などを付けた笹竹を用意し、夜になると家族で笹竹を持ち、提灯を点して浜へ行きます。浜 に竹を立て、提灯の火が消えるまで待ちました。その後、笹竹を海へ流したといいます。同じ黒部市の内陸部にある集落 では、子どもたちがタナバタ人形を作って川へ流す行事が継承されていますが、それに連なる習俗ではないかと考えられ ます。
 魚津駅にもどると北陸本線で高岡まで行き、そこから万葉線鉄道のライトレールに乗り換えて、射水市の新湊漁港へ向 かいました。万葉線は、高岡駅と越ノ潟を40分余りで結ぶLRTで、ヨーロピアンスタイルの車両が特徴です。射水市新 湊庁舎前(現西新湊)で下車し、ぶらぶらと歩き始めました。新湊は休港と新港に分かれていますが、目ざしたのは旧港 です。15分ほどで漁協前に着き、そこから漁師を探しつつ漁船の係留場へ行く途中で、歓談していた5人の漁師に出会い ました。
 新湊でも、かつてはイカの手釣りがさかんだった時代があり、昭和20年代までは行われていたようです。ある年配の漁 師は、佐渡地方のイカ釣りが新湊から伝えられたことを強調し、実際に佐渡へ指導に行ったことがあるといいます。また、 北海道方面に出漁していたことや、そのまま移り住んだ人たちがいたことも分かりました。当時は、星の出にイカが釣れ るとの伝承があり、その目標とされたのはヒバル(プレアデス星団)、カラツキ(三つ星)、アオボシ、ママタキボシ (金星)などで、いずれもこの地域の伝統的な星名です。最後のママタキボシは「飯炊き」のことで、北国に伝わるメシ タキボシと同じ意味であり、伝播の可能性が感じられます。
 現在の漁は定置網が主体で、他にヒラメやハチメの延縄漁、各種の刺網漁、ベニズワイガニの籠漁などが行われている ようで、旧港内や内川の両岸には多くの船が係留されていました。また、船だけでなく、川沿いに連なる家々は古い漁師 町の面影をよく残していて、どこか懐かしい景観を呈しています。

〈左〉万葉線のライトレール / 〈右〉内川の漁師町景観

 翌日は、高岡からJR氷見線と路線バスで、富山湾西部沿岸の漁港を歩きました。朝一番の列車に乗り、7時前には氷 見の漁港に到着したものの、港内は水揚げ作業の只中で活気に満ちています。多くの人びとが忙しなく動きまわり、車の 往来も頻繁です。とてもゆっくりと話を訊ける状況ではないため、とりあえず北部の小さな漁港を先に訪ねることにしま した。阿尾を皮切りに、薮田、小杉、宇波、大境、女良と歩き、聞き取りができたのは宇波漁港、大境漁港、女良漁港で、 いずれも定置網主体の漁業構造となっています。何とか漁師の姿を探して聞いた話は、かつてのイカ釣り漁を中心として、 太陽や月の伝承、風位呼称などに及びました。ただし、星名や星の利用に関する伝承は希薄で、伝統的なイカ釣り漁が比 較的早い時代に衰退してしまったか、あるいは元々そうした伝承者が少なかったのかもしれません。
 この沿岸一帯は、能登半島の付け根にあたり、天気が良ければ湾を隔てた中心市街地の背後に立山連峰を望めるはずで すが、この日は空が白く霞んで見ることができませんでした。バスで再び氷見にもどり、そのまま漁港を訪ねると朝の賑 わいはすっかり消えて、人の姿もまばらです。港の外れまで来ると、網の修繕をしていた85歳(1928年生まれ)の漁師 と出会いました。この人は、かつての伝統的なイカ釣りの経験者で、当時はスバリ(プレアデス星団)、カラツキ、アオ ボシサン、ママタキボシなどを目あてにイカを釣っていたそうです。アオボシサンは文字通り青味がかった星で、「ほう、 アオボシサンが出たぞ。もう夜明けが近いぞ」などと言っていました。
 富山湾沿岸の伝統的なイカ釣り漁では、佐渡から北国にかけて利用された二種の釣り具が使われました。一つは海中の イカを釣り上げる用具で、地元では広くガッカリと呼ばれています。この古いタイプ(木製)をヤマデと呼び、さらに深 い場所にいるイカを釣るトンボもありました。もう一つは、海面近くに浮いたイカを釣る用具として、北国のハネゴに相 当するものがあり、氷見の宇波漁港ではツデレッポウと呼んでいたのです。手釣りの漁法でみると、富山県は二種の釣り 具を主体とする北国型の典型的な分布域であることが明らかです。
 実は、氷見は今回が初めてではなく、37年前(1975年)に一度足跡を残しているのですが、当時の調査記録はなく、聞 き取りは行われていません。そうした状況を考えると、氷見における星の伝承記録には37年越しの思いが込められている ことになります。時代は移り、さまざまな情勢が変化するなかで、たとえ一人ではあっても星の伝承者が健在であったこ とに感謝しなければなりません。
 高岡で三日目の朝を迎えた最終日は、小雨がちらつく生憎の空模様です。まだ調査していない富山市の漁港を訪ねるこ とにしました。富山駅の北口から富山ライトレールで連町駅まで行き、そこから路線バスに乗り換えて四方漁港へ向かい ました。昔ながらの漁師町を抜け、漁港に着いたものの、日曜日で休漁だったせいか漁師の姿がありません。少し歩きま わって、ようやく若い漁師を見つけて声をかけましたが、星の伝承はおろか風位呼称も聞き取りできなかったのです。仕 方がないので、港の東側にある公園へ行くと、重く垂れこめた雲の下に遠く雪をかぶった剣岳や立山連峰の一部を望むこ とができました。
 一旦連町駅までもどり、ライトレールで終点の岩瀬駅へ。ところが、こちらは漁の水揚げが既に終了し、港内はどこも ひっそりとしていました。その後も少し集落内を歩いてみましたが、結局朝から一人の聞き取りも叶わないまま、調査は 終了です。伝承者とはめぐり会えなかったものの、魚津から高岡、射水、そして氷見、富山とライトレールが走る街を中 心に歩いた三日間は、いつになく充実した調査の旅であったと感じます。
 最後に、帰りの列車まで時間があるので、富山城址公園へ行ってみました。ここには、石垣と掘割の一部が遺されてお り、その石垣の特別な面に刻まれた星印(五芒星)を確認するのが目的です。事前に収集した情報から場所の概要は把握 していたつもりでしたが、いざ現地に立ってみるとそう簡単には見つかりません。何度か行ったり来たりしているうちに、 郷土博物館の下に積まれた石垣でようやく確認し、予想外の大きさに驚かされました。事前情報ではもう一ヵ所あるはず ですが、こちらは掘割の中で近づけないため諦めました。いずれにしても、こうした星印は城を護るための魔除けの意味 があるといわれ、他にもいくつかの城郭や城址で見られるようです。

富山城址の石垣に刻まれた星印

 ところで、この掘割に面した通りにもライトレールが走っています。富山地方鉄道が富山駅南口を起点に運行する セントラムで、駅を挟んだ北側の富山ライトレール(旧JR富山港線)とともに、市民の大切な交通手段として親しまれ てきましたが、北陸新幹線の開業に伴う駅舎の改修によって二つのライトレールは1本につながりました。2020年春以降 は、すべての運行を富山地方鉄道が担っています。
 因みに、北陸本線も新幹線の開業によって、金沢と直江津間が三つの第三セクターとして再出発しており、このうち富 山県内の倶利伽羅−市振間(約 101`)は、あいの風とやま鉄道の管轄となりました。あいの風というのは、北海道から 島根県の日本海沿岸域に伝承された風位呼称の一つで、主として北あるいは北東寄りの風をさします。魚津市では、怖い 風だが昔のイカ釣りはこの風を帆いっぱいに受けて、四方の沖合まで出漁していたと伝承しています。また、朝日町の宮 崎漁港では、アイノカゼに関する俚諺を聞きました。
○アイのこば吹きゃ雨となる
 夕方になってアイノカゼがそよそよ吹くと、やがて雨が降ってくるという意味。
○婆さまたちの長いお喋りとアイの長吹きゃ雨のもと
 年寄りが集まるとその果てることのないお喋りで涙を誘われ、アイノカゼが長く吹けば雨降りのもとになるという意味。
 富山湾の漁師らにとって、あいの風はさまざまな場面で暮らしと深いかかわりをもった存在であったのです。だからこ そ、鉄道の名称にまで採用されたのでしょう。街の姿は変わっても、そこに暮らす人びとの心に生き続けて欲しいと願う のは、先人から受け継がれた文化に他なりません。

[2021年初稿]


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ヌケボシが飛ぶ夜 【長野県中部地方】

 信州の星を求めての旅は、1975年から始まっています。日本で生まれた星の名に興味を抱き、できることなら自分の耳 で直接確かめてみたいという思いが強くなっていた頃です。しかし、当時は旅のついでに何か星の話題が拾えたらという 程度の考えで、本格的な聞きとり調査とはほど遠いものでした。
 それでも、見知らぬ土地で実際に星の伝承にふれてみると、むしろ想像以上に奥深い世界であることが分かるのです。 この旅では、諏訪湖や小谷村、伊那谷、木曽路などを訪れていますが、星の名を記録できたのは下諏訪と高遠町(現伊那 市)だけでした。
 6月中旬の信州は、既に梅雨入り後の季節でしたが、幸い雨に降られることもなく旅を続けていました。諏訪から伊那 谷へ入るには、通常JR中央線と飯田線を乗り継いで行くのが順当です。ただ、当時は茅野駅から杖突峠を経て高遠へ至 るJRバスが運行しており、それを利用することにしました。高遠というと、今では城址公園の桜で有名ですが、その頃 は南アルプスの雄大な懐に抱かれた静かな町でした。バスを降りて、町内を散策しながら三峰川の畔に出ると、そこで草 取りをしていたのは80代の女性です。邪魔をしないように声掛けをしたところ、初めは控えめで重かった口調が、次第に 和らいできました。
 最初に出てきた高遠の星は、ミツボシサマ(オリオン座)です。宵の明星はキンボシと呼ばれ、いかにも金星らしい星 名だと感心しました。次に出てきたのはヌケボシで、これは流星の呼称です。おそらく、夜空の星が抜け落ちて流れ星に なるとみたのでしょう。実は、このヌケボシには、話者である女性の経験談が大きくかかわっていたのです。それは、戦 後間もなくの1947(昭和22)年頃でした。その年の1月に母親が亡くなり、美篶(現伊那市内の地名)にある叔父の家ま で出かけたときのことです。以前からそこの奥さんとは相性が合わなかったため、その晩は泊めてもらうことができず、 暗い夜道を歩いて高遠まで帰ることになりました。もちろん街灯などはなく、生憎月もない晩に、女ひとりで一里もの道 を帰るのは、どんなに心細かったことでしょう。ところが、途中の道で前方の山に突然青白いヌケボシが流れたのです。 その後も、同じように三つ、四つと星が流れたので、もう大変です。急に怖くなり、大急ぎで歩いて行くと、ようやく行 商の人と行き会い、ほっとすることができました。ヌケボシの話は、まだ続きます。地元では、ヌケボシの正体について、 尾長鳥が飛ぶからだと伝える人がおり、また、この星が家の屋根に流れると悪いことが起こるとも言われています。
 なお、ミツボシサンは下諏訪の街中でも伝承されていました。ここでは、「宵の口に東から出て、夜中には高くなり、 夜明け頃西へ入る」と伝わっています。三つ星の位置や動きで、時間を計っていたようです。

ヌケボシ(撮影:青木昭夫氏)

 長い空白期を経て、再び信州の地を歩いたのは、2014年の夏でした。調査地として選んだのは、富士見町です。このと き、農家の男女5人から聞きとりを行い、ミツボシサマ、ムツボシサマ(プレアデス星団)、ヒシャクボシ・ナナツボシ (いずれも北斗七星)などの星名を得ました。昔から養蚕がさかんな地域で、各地区内にはコダマ神を祀った石碑があり、 秋蚕[しゅうこ]が終わると、繭の豊作に感謝するコダマ様の行事が行われました。
 その後、再開から5年を経て、この間に調査で訪れた地域は、3市4町村(松本市、塩尻市、伊那市、辰野町、朝日村、 山形村、宮田村)になります。星名体系は、いずれも一般的な構成で、伝統的な星名はまだ記録されていません。松本市 を中心とした地域には、タナバタ行事に伴ってタナバタ人形を飾る習俗があり、また伊那市やその周辺地域では、現在も 二十二夜の月待行事が継続されています。こうした星や月をめぐる行事について、少し詳しくみてみましょう。
 信州の中部から北部地域におけるタナバタ行事については、多くの報告や研究があり、地域的な特性をもった多様な行 事形態や習俗が知られています。ここでは聞き取り調査の内容をもとに、供えものや伝承、習俗などの一端を紹介します。 先に挙げた3市4町村のタナバタ行事は、すべての事例で新暦8月7日を中心とした時節に行われており、軒下や庭に竹 を立てています。そこに夏野菜を供えるのも、ほぼ共通する要素ですが、一緒に作りものを供えていたのは、タナバタ饅 頭の塩尻市上西條と松本市島内、ホウトウの朝日村西洗馬、丸餅の宮田村北割などに限られています。
 タナバタ人形については、松本市島内古宮地区で 300年前の古い人形(タイプは不明)を飾っていた以外は、いずれも 人形を飾らない地域であることが分かりました。また、朝日村西洗馬で話を聞いた松本市出身の70代の女性は、本来であ れば実家からタナバタ人形が贈られるはずのところ、西洗馬では人形を飾る慣習がないため贈ってもらえなかったといい ます。いずれにしても、この地方のタナバタ人形には四つの形態が知られ、このうち紙雛タイプと着物掛けタイプは現在 も継続して飾られています。
 行事に関する伝承としては、塩尻市に「タナバタに雨が降ると天の川が溢れて男神と女神が会えない」という言い伝え がありました。このような考え方の基盤として、タナバタには雨が降らないほうがよいという姿勢がみられ、中国由来の 七夕説話による影響を垣間見ることができます。
 ところで、伊那市にはタナバタに付随する行事として「さんよりこより」の祭事が継承されています。伝承地は、かつ て高遠町の女性が語ったヌケボシの思い出話に登場する美篶という地域です。ここの川手地区と三峰川対岸の冨形桜井地 区には二つの天伯社があり、川手側で行われる神事の後に実施されるのが「さんよりこより」というわけです。このとき、 子どもたちは飾り付けをしたタナバタ竹を各自持ち寄り、これを皆で振り回しながら円陣を組んで周回し、合図があると 中心にいた鬼を一斉に打ち払います。旧来のタナバタ行事に虫送りや精霊送りなどが習合し、やがて水と深いかかわりを もつ天伯社の祭事と一体化したのではないかと考えられます。このように、さまざまな要素を包含した旧来のタナバタ行 事に外来の七夕習俗が取り込まれて、より複雑な構図へと変化したのが日本のタナバタであるといえるでしょう。

〈左〉タナバタ人形(着物掛け型)/〈右〉伊那市のさんよりこより

 月をめぐる行事といえば、十五夜がよく知られていますが、月待行事も全国的に行われてきました。長野県では、ほぼ 全域で二十三夜待がみられ、1975年に小谷村千国で聞いた二十三夜講は、旧暦の毎月23日の夜、当番となった宿に集まっ て月の出を拝していました。1919年頃までは続いていたようで、街道沿いには大きな二十三夜塔が遺されています。また、 山形村小坂の清水地区でも、女性年配者の講として二十三夜待がありました。やはり、旧暦の毎月23日に当番宿で掛軸を かけ、鉦を鳴らしながら念仏を唱えたのです。その後、月の出を拝して解散しました。
 さて、月待の基本である二十三夜待とは別に、産神信仰を主体とした月待も県内各地にみられます。このうち、伊那市 では少なくとも3ヵ所において旧暦7月22日の二十二夜行事が継続されており、2019年にその様子を取材することができ ました。この年の旧暦7月22日は現行暦の8月22日にあたり、奇しくも1ヵ月遅れの日程となり同時に開催された高遠町 島畑地区の二十二夜さま、そして坂下地区の二十二夜尊祭を見てまわりました。
 先に訪ねたのは高遠町のほうで、三峰川の河岸上にある二十二夜堂では、地元島畑町内会の人たちが、午後になって準 備を始めていました。お堂の隣には祭壇が設けられ、垂れ幕、提灯(一対)、灯明台(一対)、ロウソク台(一対)など がセットされると、ひな壇には手鏡、徳利(一対)、その他の供物などが置かれます。行事の開始は18時からで、真言宗 の僧侶による読経があるということです。この間、参拝者は祭壇にお参りし、ロウソク台に点されたロウソクを持ち帰り ます。また、昭和の時代までは、目の前にある天女橋でオタチマチを行い、東方の月蔵山から上る二十二夜の月に願かけ をしていたといいます。
 時間的な制約から、早めのバスで伊那市内に戻ると、常円寺の丸山公園へ急ぎました。17時過ぎの到着でしたが、広場 では既に多くの人が集まっていました。こちらの祭壇は、二十二夜塔が設置されている場所に設けられ、高遠町のように 特別な飾りものはほとんどなく、広い灯明台だけが目を惹きます。周囲には夜店などもいくつか出ており、夏祭りのよう な雰囲気が感じられるなか、時間が経つにつれて三々五々と参拝者が訪れるようになりました。安産祈願という性格から、 ほとんどは女性ですが、時折同伴する男性の姿もみられます。
 常円寺の二十二夜尊祭では、参拝者が新しいロウソクを持参して献灯し、代わりに短くなったロウソクを持ち帰る習わ しがあり、このロウソクは、短ければ短いほどお産が早く済むと言われています。昔は、やはりオタチマチと称して二十 二夜の月の出を待って願掛けをする人が多かったそうですが、だいぶ以前に廃れてしまいました。それでも、18時までの 取材中に40〜50人の参拝者があったということは、今でも安産祈願の信仰として根付いているのかもしれません。
 広場は次第に夕闇に包まれ、子どもたちのはしゃぐ声が境内に響き渡ります。まだ顔をみせない二十二夜の月に思いを 馳せ、伊那谷に別れを告げました。

〈左〉高遠町の月蔵山 / 〈右〉常円寺の二十二夜尊祭

[2021年初稿]


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海鳴りとナリの記憶 【宮城県沿岸地方】

 宮城県内を訪ねる初めての現地調査は、2014年の夏でした。東日本大震災から約3年半が経過し、各地で復興に向け た歩みが続いていた頃です。沿岸域の大規模な工事によって、漁港の整備や巨大な防波堤の建設が進むなか、人びとの 暮らしもようやく落ち着きをとり戻したように見受けられました。しかし、更地となったかつての市街地や多くの仮設 住宅、復旧半ばの交通機関など、まだまだ不自由な日常生活を余儀なくされている地域は少なくありません。足を運ぶ その先々で、震災のつめ跡がのこされていたのです。
 思えば、星の民俗調査が全国へと拡大されたのは、2011年の大震災が大きな契機となっています。誰もが予測できな かったあの未曾有の災害が、近い将来に日本の各地で発生し得るという危機感を生み、時間的にそして経済的にも実現 可能なギリギリの状況で調査に臨んできました。各地をめぐるうちに、まだ多くの伝承者がいることに気付かされ、よ うやく宮城県への調査を思い立ったのです。
 最初の調査地として選んだのは、松島町から石巻市、そして女川町にかけての地域で、レンタカーを利用した正味1 日だけの短い調査となりました。東松島市の宮戸島では、仮設の道路を辿って里浜まで行き、81歳(1933年生まれ)の 漁師から話を聞く機会を得ました。この浜では、幸いにも多くの家が流されることなく、漁港の被害も他所より少なか ったといいます。確かに集落を見渡しても、大きな被害の痕跡は見られません。ただ、地震による家屋の倒壊は発生し たようです。一方、漁業では大きな被害を被り、震災前に約80軒あったのり養殖は12軒に減少してしまいました。改め て、さまざまな課題を抱えての復興であることを思い知らされたのです。
 宮戸島での星の伝承は、ミツボシやナナツボシ(北斗七星)など一般的な呼称ばかりで、伝統的な星名は記録できま せんでした。ただ、かつては星の話を聞いた記憶があるということで、早くに伝承が途絶えてしまった可能性がありま す。今回の調査目的の一つでもある背負い運搬具については、一般的な背負い梯子(有爪タイプを含む)をヤセウマと 称し、背負い籠のほうはタンガラと呼んでいました。
 宮戸島をあとにし、途中石巻の日和山に立ち寄ってから、牡鹿半島の漁港に向かいます。西側沿岸の入り組んだ地形 には小さな漁港が点在していますが、港が残されても漁船が全くなかったり、多くの住宅が流出した漁港では復旧工事 中で立ち入りができないなど、とても調査ができる状況ではありません。大津波の直撃を受けた東側沿岸はさらに深刻 で、現状を確認して回るのが精一杯でした。それでも、女川町の飯子浜で小さな加工場にいた70代の漁師から少し話を 聞くことができました。自宅が流されたため現在は石巻市に住んでいて、ここまで通っているそうです。以前はカキ養 殖業を営んでいましたが、震災後はホタテの養殖に切り替え、今年からようやく出荷できるようになったと言います。 念のため、星の伝承について尋ねてみると、ナナツボシは北の空にあるので方角を知る目あてになったと教えてくれま した。そこから塩竈への帰路、女川の市街地では道路網の整備や土地の嵩上げなど、大規模な工事が進行していました。

 

〈左〉里浜の漁港 /〈右〉石巻日和山からの眺望

 その後、2015年に塩竈から定期船で浦戸諸島の寒風沢島と桂島を訪ねていますが、サンダイボシ(三つ星)やタナバ タ、十五夜などの行事について情報を得た程度で、依然として県内の伝統的な星名やその利用に関する伝承とめぐり会 う機会は訪れません。そこで、今度は北部の沿岸域に目を向け、少し時間をかけて歩くことにしました。
 こうして迎えた2017年の初秋。前日に仙台市郊外で三日月不動尊などの調査を終えて石巻市に宿泊し、いよいよ南三 陸町から気仙沼にかけての沿岸域調査と向き合う日がきました。まず、JR石巻線で前谷地まで行き、そこからBRT (バス高速輸送システム)に乗り換えます。本来なら気仙沼線の列車が運行しているはずですが、震災後は気仙沼と岩 手県盛駅間の大船渡線とともに、一部区間を除きBRTへの転換が図られました。これらの路線の一部は、旧線路跡に 整備されたバス専用レーンを走り、一般的な路線バスとは異なる運行形態が導入されています。
 最初の目的地は歌津地区で、歌津駅から沿岸を歩いて泊浜まで行く計画です。前谷地から歌津までは84分ほどかかり、 その間陸前戸倉や志津川、清水浜などの漁港を通過します。震災から既に6年半が経過しているにも拘らず、いずれの 地も未だ復興半ばの状況でした。
 BRTの歌津駅周辺でも大規模な工事が進行中で、歩く人の姿はほとんどありません。よく見ると、BRTの駅の背 後には、旧気仙沼線のホームがそのまま残されています。その後2019年には撤去され、BRTの専用レーンに切り替え られましたが、当時は二つの駅が併存する姿にふれ、在りし日の歌津の街並みを想い描いてみたのです。

 

〈左〉BRT歌津駅と旧歌津駅ホーム /〈右〉イカ釣り具のガッカラ

 駅前の国道は工事中で歩道が整備されておらず、行き交う大型車両に注意しながら進むと、10分ほどで歌津崎方面へ の分岐に着きます。ここから海沿いの道を歩き、最初に現れたのが館浜漁港です。港内に漁船は少なく、人影もないた め聞きとりはできませんでした。その先、小さな鼻を越えると道は緩やかに下り、稲淵漁港が近づいてきます。すると 左手に一軒の民家が現れ、少し離れた作業小屋では漁具の手入れをしている漁師の姿が目に留まりました。この85歳 (1932年生まれ)になる漁師との出会いが、県内で伝統的な星名体系に接する最初の機会となったのです。
 歌津館浜に伝わる星は、ジャクボシ(プレアデス星団)、ジャクノアトボシ(アルデバラン)、ムヅラボシ(オリオ ン座)、ムヅラノアトボシ(シリウス)、ナナツボシ(北斗七星)、ヨアケボシ(金星)で、これらの多くはかつての イカ釣り漁で利用された星々でした。具体的には、「秋になって、ジャクボシが出たらイカ釣りをやめて引きあげる」 などと伝承されています。当地では、昭和30年代までスルメイカを対象とした手釣り漁が行われており、その際に一連 の星の出を頼りにしていたのです。当時は10月に入ると本格的な漁期を迎え、二丁艪あるいは三丁艪の船に子どもを含 めた家族が乗り込み、皆でイカを釣ったそうです。前の晩に大漁だった場合は、翌朝3時頃に再び出漁し、ヨアケボシ が出る頃に帰ってきました。このような漁をアサズルメと称しています。
 使用した釣具は、まずガッカラ(北国のトンボに相当するもの)の擬餌鉤で始め、イカが深場へ移動するとトンボ (自作品)に餌を付けた鉤に切り替えます。現在は、ワカメ、カキ、ホタテ、ホヤなどの養殖漁業がほとんどで、代々 受け継いでいる水田稲作とともに半農半漁の暮らしが昔から続いてきました。しかし、そうした平穏な生活も震災で一 変しました。そして、老漁夫は思い出したようにこんな話を聞かせてくれたのです。
 この辺りの風位は、キタ(北)、ヤマセ(東)、イナサ(南東)、ミナミ(南)、ハマゾイ(南西)、ニシ(西)、 ナレェ(北西)で、最後の北西の風は山から吹いてくるのでヤマカゼと呼びます。昔は、浜の近くに「ナリ(鳴り)」 を聞く場所があったそうで、そこに立つと山の方角からナリが聞こえてくるときがあります。それは、ナレェの強い風 が吹くという前兆でした。そのため、漁師らは「山が鳴ると、ナレェが吹く」と言って警戒したのです。また、この場 所は海鳴りを聞いて、天候や潮の状況等を判断するための大事な役割を担っていました。
 ナレェの風に対する関心の高さは、「雨三粒に風千石」という諺にもよく表現されています。これは、南の風が急に 北西(ナレェ)の大風となって荒れることを意味し、雨が三粒も落ちぬ間に嵐になるという譬えです。昔は、出漁して いれば艪を押して帰れなくなる天気の急変でしたので、ナリを聞くことがいかに重要な仕事であったか、よく理解でき ます。かつて、自然物のさまざまな情報を頼りに、そこから災害に連なる異常を察知してきた人びとにとって、自らの 力では回避できない自然の脅威とどのように向き合うべきかが問われているのです。
 老漁夫は、ときおり手を休めては実に多くのことを語ってくれました。ナリや海鳴りを聞いた場所がどこであったの か、詳しい位置は分かりません。老漁夫に礼を述べて別れを告げ、先を急ぐことにしました。稲淵漁港周辺の復旧工事 を眺めながら歩いていると、ふと頭に浮かんだのは、浜で聞いたというナリがどのような音であったのかという思いで した。そして、震災後の今もナリを聞くことができるのかどうか、老漁夫に確認できなかったのが残念でなりません。

〈左〉泊から歌津方面を望む /〈右〉ジャクボシとそのアトボシ(α)

 稲淵からは、海岸線をひたすら歩き、やがて泊浜に着きました。漁港では、漁師の姿が結構みられ、少し活気がある ようです。通りがかりに見かけた船に親子の漁師がいたので、80代の父親に声をかけて少し話を聞きました。伝承して いた星名は、ジャグ(プレアデス星団)、ムジラ(三つ星)、ヨアケボシで、館浜の星とほぼ同じです。ここでもやは り、かつてのイカ釣り漁でこれらの星々を利用していました。
 漁港から坂道を上って高台に出ると、農地や林の中に住宅が点在しています。この一帯で最も高いと思われる地点の 細い畑道を入って行くと、仙台藩唐船番所跡があり、その一角に小さな灯台が建っていました。案内板を見て、歌津崎 の灯台と分かりましたが、意外な場所だけに少し戸惑いを感じたのも事実です。暫らく見上げていると、上空を風が渡 り、周辺の樹々の枝が揺れています。来た道をもどり、途中から北へ向かって歩くと、やがて泊集落の生活センターに 着きました。そこから町民バスに乗車して、歌津駅に帰ったのは午後1時半頃です。ちょうど居合わせた気仙沼行のB RTに乗り換え、次に進むことができました。
 翌日は、気仙沼の唐桑半島を歩けるということで、大いに期待していました。ところが、残念なことに朝から本降り の雨に見舞われてしまったのです。雨具を着用し、さらに傘をさしての調査は久しぶりのことです。それでも、予定し た通りに星の伝承者を求めて、小鯖漁港から鮪立漁港へと訪ね歩きました。一人岸壁に立つと、人気のない空間に雨音 だけが空しく響きます。漁港を諦めて、暫らく集落の中を歩き回りましたが、やはり人には出会えません。相変わらず 降りしきる雨の中、近くのバス停で雨宿りしながら思案した結果、唐桑での調査を打ち切ることにしたのです。
 帰りのバスに揺られながら、いつかきっと歌津や気仙沼を再訪し、埋もれた星の伝承を掘り起こしたいと心に誓いま した。今回の旅は、まだ終わっていません。新たな伝承者との出会いを求めて、さらなる北の漁港を目ざします。

[2021年初稿]


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能登の海とキシュウ 【石川県能登地方】

 ノトボシの由来となった能登半島への旅は、1975年に遡ります。若狭から福井を抜け、最終的に越中(富山県)五箇 山に至る途中で、2日ほど滞在しました。輪島市と穴水町では聞きとりの記録があり、カジボシ(北斗七星)やオオボ シ、ヤマネボシ、オオメボシ(いずれも金星)などの星名を聞いています。
 能登は、いろいろな面で心惹かれる地です。日本海に大きく突き出した地形や北陸の歴史、風土、文化によって育ま れた暮らしは、一部で特有の習俗や行事などを生み出してきました。北前船が往来した時代には、交易や風待ちの重要 な中継地となり、日和山や方位石が遺る港も少なからずあります。いつかは、ゆっくりと能登半島を歩いてみたいとい う思いは、長い間心の片隅でくすぶり続けていたのです。その間には、能登の広い地域で継承されてきたキシュウとい う行事の存在を知り、強い関心を抱くようになりました。
 日本の沿岸各地で行われる「船祝い」の行事について、奥能登を中心とした地域では、これをほぼ一様にキシュウと 称しています。一部でフナオコシや起舟などとも呼ばれ、新たな年の始めにあたり、オカへあげていた船を水にもどし て漁の準備をし、その年の安全な操業と豊漁を祈願するというものです。そして、何よりも注目したいのは、開催され る日程についてです。『石川懸鳳至郡誌』〔文0284〕では、「きしう」が毎年1月11日(旧暦)に行われ、年頭に鬼宿 星を祭ることから転訛したと伝えられると記されています。つまり、きしう(キシュウ)は鬼宿星を祭る行事と捉えら れていたことになります。
 さて、鬼宿星というのは古代中国やインドの星座である二十八宿の一つで、鬼宿(かに座のγδηθ)のことです。 二十八宿中で最も善い宿とされていることから、旧暦で鬼宿日にあたる日は、多くの祭礼や行事などが行われてきまし た。奥能登のキシュウも、そうした縁起の善い日に実施された行事であったようです。果たして、能登地方のキシュウ は、鬼宿星とどのようなかかわりをもっていたのでしょうか。各地で行事が存続しているとすれば、何か手がかりを得 ることができるかもしれないということで、38年振りの調査行が決まりました。
 能登島を含む能登半島沿岸には、80ヵ所を超える漁港があり、これらを効率よく回るにはレンタカーの利用しかあり ません。それでも、3日間で全てを訪ねるのは困難であり、奥能登を中心とした調査ルートを計画しました。初日は能 登島をめぐり、2日目は輪島市から珠洲市、能登町、穴水町にかけての沿岸域を調査、そして最終日は再び輪島市を出 て、志賀町までの沿岸を訪ねるコースです。出発は2013年5月下旬と決め、沿岸域にのこる日和山や方位石についても 主要な調査項目としました。
 能登空港を出ると、間もなく七尾北湾に沿って南下します。海は穏やかで、初夏の陽射しが降り注ぐ水辺には、大き な櫓が築かれていました。この地方の風物詩として知られるボラ待ち漁を行うための櫓で、高い場所から網を操作して ボラを獲ります。道路に並行して走るのはのと鉄道七尾線で、2001年までは輪島まで運行していましたが、今は穴水が 終着駅です。1975年に訪れたときはまだ国鉄路線の時代で、穴水から能登線の列車に揺られて旅したことを思い出しま した。

 

〈左〉七尾湾のボラ待ち櫓 /〈右〉七尾湾の定置網

 深浦まで来て、最初の中島漁港へ立ち寄りましたが、ほとんどが遊漁船で漁師はいません。そのまま能登島を目ざし て走り始めると、道路脇の水田で草刈りをしていた女性の姿が目に留まり、車を停めて声をかけてみました。農家の人 かと思っていたところ、この辺りは半農半漁が基本で、主体は農業とのことです。海では、かつて刺網漁が盛んに行わ れましたが、今は漁に出る人も少ないと言います。念のため星について尋ねると、意外にもミツボシ、ヒシャクボシ (北斗七星)、ヒトツボシ(北極星)などの星名が伝承されていました。ヒトツボシは、海上で霧が出た際に目あてに したということです。おそらく、昔は夫婦で漁に出ていたのでしょう。
 少し走ると、すぐに大きな橋を渡ります。いよいよ能登島に入りました。まず、三ヶ浦漁港に寄り閨町でキシュウの 聞きとりを済ませたあと、いくつか小さな船溜りを過ぎて向田漁港へやって来ました。この港には、イルカウォッチン グの観光船が何隻もあります。70代の元漁師と出会って少し話をしましたが、星の伝承はなく、漁業や風のこと、キシ ュウや火祭りなどの行事について教えてもらいました。
 暫らく走ると、能登島北端の祖母ヶ浦[ばがうら]という所に着きました。小さな船溜りに沿って集落があり、その 周辺に農地があります。典型的な半農半漁村の佇まいは、かつてのこの島の暮らしを感じさせてくれます。生業の主体 は農業で、昔は背後の台地上にあった畑地で桑を栽培し、それをカイコに与えて繭をとり、出荷していたようです。 また、副業であった漁業においては夫婦で出漁し、サンジョウアミ(刺網の一種)を使ってタイやクロダイ、メバルな どを獲っていました。その際、霧が出て陸地が見えないときは、北極星を見て方角を定めたということです。この浜に も、逞しい女性の姿があったのです。こうした話を聞かせてくれたのは、87歳(1926年生まれ)の女性です。また、キ シュウ、エビス祭、オンバサマの行事に関する貴重な情報もありました。その後、F目と野崎でそれぞれ漁師から聞き とりを行い、今度は能登島大橋を経由して輪島へ向かいました。
 翌日の早朝、宿から歩いて輪島港日和山の調査に行きました。日和山は、漁港の背後にある高台に位置し、すぐ近く に竜ヶ崎灯台があります。広場から階段を上って行くと、周囲は雑草が繁茂し、どこが日和山なのか判然としません。 それでも何とか方位石を探し出し、ようやく確認ができました。方位石の隣には妙見大菩薩の石塔があり、ここにも北 極星や北斗七星に対する信仰があったことを偲ばせてくれます。
 宿に戻ると、二日目の調査へと出発しました。まずは、白米の有名な千枚田を見学したあと、名舟漁港で69歳(1944 年生まれ)の漁師から話を聞きました。当地に鎮座する奥津姫神社は、沖合に浮かぶ舳倉島の神(奥津比女)を祀って おり、夏の祭礼でこの神を迎え入れるための鳥居が海中に建っています。日本海に面した外浦一帯は、冬期に強風と高 波に見舞われるため、12月から翌年3月の間は、基本的に休漁を余儀なくされますが、名舟ではミツボシやスバリ(プ レアデス星団)、ナナツボシ(北斗七星)が伝承されていました。

 

〈左〉奥津姫神社の鳥居 /〈右〉高屋港日和山

 さらに外浦沿岸を走って、珠洲市の真浦、長橋に立ち寄り、高屋港を訪ねました。ここでは、海辺の小さな岩山が日 和山になっており、港はかつて北前船の風待ち港として利用されたようです。禄剛崎を見送って寺家を過ぎ、森腰辺り にさしかかったとき、道端に佇んでいた年配の男性が目に留まりました。早速声をかけたところ、この日は地元の駅伝 大会が実施されており、その応援をしていたようです。父親は漁師で、かつては北国へニシン漁などの出稼ぎに出かけ ていたそうですが、本人は漁師ではありません。ところが、星の話題になると、いきなりキタノオオカジとミナミノコ カジがあると言うのです。他にもサンコウ(三つ星)、スバリ(プレアデス星団)、オオボシ(金星)などを伝承して いました。キタノオオカジは「北にある大きな舵星」の意味で、おおぐま座の北斗七星です。これは北行する北前船が 目あてにした星とされ、その対極にあるのがミナミノコカジ(夏に出るいて座の南斗六星)ということになります。と いうことは、北前船が南行する際の目標の星だったのかもしれません。それにしても、能登を代表する星名が今なお埋 もれていたことは、たいへんな驚きです。その貴重な星名を伝えていた男性とのめぐり会いは、さらに信じ難い出来事 であったと言えるでしょう。
 能登町に入ると、小木の日和山公園へ直行しました。小木漁港の東の高台にありますが、方位石はなく、一帯が公園 と化しているためかつての名残は見られません。その後、高倉漁港でキシュウの話を聞き、穴水町の古君に至ってよう やく聞きとりができました。道路沿いの空き地で草取りをしていたのは70代の元漁師で、かつてのスルメイカ漁は11月 から翌年2月にかけて行われ、サンコウなどの星の出を頼りにイカを釣っていたようです。釣具はガッカラ(いわゆる トンボのこと)で、海面近くにイカが浮いてくると、長い柄の先端に3、4本の金属鈎を取り付けたクマデを使いまし た。この方法は、他所ではほとんど耳にしない事例です。結局、この日は26ヵ所の漁港をめぐったものの、聞きとりが できたのは8人という状況でした。

〈左〉北の大舵(おおぐま座)/〈右〉南の小舵(いて座)

 最終日は、輪島市から西側の沿岸を訪ねます。最初の光浦漁港で東方を望むと、太陽に見事な日暈がかかり、海上に 浮かぶ小さな岬のシルエットを一際輝かせていました。その先端には、昨朝訪ねた輪島の日和山があります。光浦から 鵜入、大沢と続く漁港では、いずれも運よく漁師と出会う機会に恵まれ、聞きとりができました。同じ輪島市に属する 地域で伝承された星は、ヒトツボシ(北極星)、カジボシ、ヒシャクボシ、ナナツボシ(いずれも北斗七星)、スバル サマ(プレアデス星団)などで、大沢ではかつて七ツ島へ出漁した折に利用した星があったとのことですが、詳細は不 明です。また、鵜入では北斗七星を見て船を走らせたと言います。この80代の漁師は夫婦で海に出て、ちょうどワカメ 採りから帰ってきたところだったのです。船には多くのワカメがあり、カマと呼ばれる採取用具なども積まれていまし た。
 ところで、大沢の集落は住宅のすぐ前が浜になっており、強風や高波の影響を受けやすい土地でした。そこで人びと は、マガキと呼ばれる竹の垣根で家の前を覆い、風と波を防いでいたのです。これらの風は、主にタカカゼ(北の風)、 シカタ(西の風)、アイノカゼ(北西の風)で、冬期の厳しい暮らしが偲ばれます。
 いったん海岸線を離れ、再び海辺に出ると鹿磯漁港があります。ここで、82歳(1931年生まれ)の漁師から風の伝承 やキシュウの話を聞き、やがて志賀町に入ると、すぐに赤崎漁港でも漁師から聞きとりを行いました。そして、最後に どうしても訪れたい場所へと向かいました。そこは天然の入江で、古くから帆船の風待ち港として栄えた福浦です。入 江を俯瞰できる高台は福浦日和山として知られ、1847(弘化4)年に造られた方位石が遺っています。この場所は、日 和山としての要件をほぼ満たした適地と言えるかもしれません。
 今回の調査で、キシュウに関する記録が得られたのは10ヵ所に及びました。実施日は、いずれも2月11日が多く、一 部で1月11日となっています。本来は旧暦の1月11日が鬼宿日ですから、いわゆる月遅れの日程が主流を占めているこ とになります。内容は、どの地域においても漁師の行事であり、船祝いや船おこしに通じるものです。しかし、鬼宿星 との関係については、ほとんど情報を得ることができませんでした。果たして、能登の空に鬼宿星が祭られた時代があ ったのかどうか、明確な判断はできません。少なくとも、聞きとりのなかで漁師らが伝承していた星には、手掛かりを 見出せないのが実状です。それでも、あのキタノオオカジのように、鬼宿の星に関する伝承がまだどこかに埋もれてい るような気がしてならないのです。

 

〈左〉日暈と輪島日和山 /〈右〉大沢集落の間垣

[2021年初稿]


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街角に眠る星 【神奈川県東部沿岸地方】

 関東地方で沿岸域を擁するのは1都3県で、このうち神奈川と千葉の両県は、漁業の盛んな地域として知られていま す。特に東京湾の内湾域では、早くから開発の波に洗われながらも、多くの漁港が存続しています。神奈川県の場合は、 川崎市から横浜市、そして横須賀市の観音崎辺りまでが該当する区域となり、これまでの開発によって大規模な港湾施 設やコンビナート、工場地帯、軍用基地、レジャー施設などの出現を見届けながら、都市との共存が模索されてきまし た。これは、対岸の千葉県内房地域においても同様の経過がみられます。
 このような著しい変貌を遂げる湾岸域は、かつて江戸前の海として人びとの暮らしを支えてきましたが、果たして、 今でも星の伝承は健在なのでしょうか。時代を少し振り返り、『日本星座方言資料』〔文0167〕などの記録をみると、 川崎市幸区から横浜市久里浜にかけて、こぐま座、おおぐま座、おうし座、オリオン座、さそり座、りゅうこつ座の5 星座と金星を対象とした30種余りの星名を確認することができます。漁師を中心とする漁業関係の伝承ということを考 慮しても、かなり多様な星名体系が存在していたことが分かります。なかには、製塩業とのかかわりが推測される星名 もあり、西日本からの伝播の影響がみられます。また、対岸の内房地域と共通する星名が含まれていることから、漁業 者の往来に伴う伝播もあったことでしょう。
 さて、このような背景を念頭におく以前の1983年夏には、一部の地域で既に現地調査を実施しています。地元の研究 者である横山好廣氏の案内で、横須賀市の鴨居地区と走水地区を訪ねました。鴨居では、73歳(1910年生まれ)のSさん からサンゲンボシ(三つ星)、スバルボシ(プレアデス星団)、メラボシ(りゅうこつ座)、オオボシ(金星)などの 伝統的な星名を記録し、スバルボシについては、当地で使われている漁具のスバルに由来していることを聞きました。 メラボシは、この辺りで南のごく低空に出現するカノープスのことで、本来は千葉県で生まれた星名と考えられます。 鴨居の漁師はよく房総方面に出漁していたとされ、反対に房総側からも漁師が来てメラボシの呼称を使っていたようで すから、そうした交流を介して伝播したものでしょう。
 鴨居へは、その後2009年に再訪していますが、そこで聞きとりを行った数人の漁師の中に、何とSさんの子息にあたる 人がいたのです。26年を経た偶然の出会いでしたが、縁の不思議さを感じます。しかも、サンゲンボシやメラボシ、オ オボシなどの星名が見事に受け継がれてきたことを知り、嬉しくなりました。Sさんは代々タイの延縄漁を専門とする漁 師でしたが、近年は延縄ばかりでなく刺網漁を行う漁師も4人ほどになってしまったようで、専業の漁師は姿を消し、 漁業の衰退が一段と進んでいることが分かります。
 観音崎の北西に位置する走水漁港は、鴨居のような漁師町とは異なり、昔から兼業漁師が多いとされてきました。こ こでは、75歳(1908年生まれ)の漁師を訪ねて話を聞きました。伝承していた星名は、サンゲンボシ、スバルボシ、ヒ チケンボシ(北斗七星)、オオボシなど、鴨居とほぼ同じ体系が確認されました。この辺りでは、南東の風をイナサと 呼んでいますが、例年二百十日(9月1日)頃が吹き始めで、それより早い8月24日頃の一番風を「盂蘭盆の荒れ」、 そして8月27日か28日頃の二番風を「諏訪の荒れ」と称しています。いずれも海が荒れる前兆となる風だったのです。

 

〈左〉横須賀市の鴨居漁港 /〈右〉鴨居の漁具スバル

 走水から西へ向かうと、横須賀市の中心街に至りますが、その一角にあるのが新安浦漁港です。ここを含めて、2009 年になってようやく横浜市内の漁港調査が実現することになりました。先の調査からは26年が経過しており、沿岸の開 発はさらに進行しているはずです。この間の漁業の衰退や漁師の減少などを考えると、星の伝承をめぐる状況は、より 厳しさを増していることが予測されました。
 新安浦漁港は、かつての安浦、三春、小川の各漁港が集結したもので、1989年竣工の埋め立て地に造成されました。 聞きとりを行った70代の3人の漁師らによると、東京湾の漁場環境は年々変化しており、それに伴って漁業の形態や漁 獲種も変化していると言います。昔は帆掛け船による打瀬網漁が主流でしたが、現在は底曳網やまき網、刺網等の網漁 を主体に、タコツボ漁やアナゴ筒漁、ワカメやコンブの養殖などが行われています。星の伝承については、スバルボシ とオオボシの星名を記録したものの、具体的な利用の事例はみられません。
 次は、横浜市金沢区の三つの漁港巡りとなります。まず訪れたのは、シーサイドラインの野島公園駅付近にある船溜 りで、78歳(1931年生まれ)の漁師から話を聞きました。星名の伝承はアケノミョウジョウだけでしたが、月と潮の関 係について、
「月が東から上ると下げ潮(引き潮)となり、真上に来ると下げ止まりで上げ潮(満ち潮)へと変わる。そして、月が 西へ落ちると潮が上げ止まる」
と話していました。ここでは、現在も底曳網漁やタイ、アナゴなどの延縄漁、ワカメやコンブの養殖などが細々と継承 されているようです。
 野島から、海の公園方面に 500bほど進むと、金沢漁港があります。すぐ沖合には八景島があり、大きなレジャー施 設が遠望されました。かつて、金沢の漁師は木更津や富津の沖合を主な漁場とし、久里浜や城ヶ崎方面にも出漁してい たようです。当時は木造船が多く、タイやアナゴの延縄漁を主体に、スズキやタイ、アイナメ、メバルなどの一本釣り も行われました。現在は、ワカメやコンブの養殖、アナゴの筒漁などを中心とした構成ですが、一方で遊漁船の増加も 顕著です。
 ここで出会った70代の漁師は、わずかに金星の呼称を記憶していただけでしたが、房州の白浜町へ行った折に聞いた メラボシの話をしてくれました。それによると、布良ではかつて海で亡くなる漁師が多かったといい、自分が死んだら ギラギラと光る星になって出ると言われるようになったとのこと。その星はメラボシと呼ばれ、これが現れると大風が 吹くという内容でした。そして、金沢では使わない呼び名だと言います。メラボシは、今や漁業者の伝承から離れ、地 域の伝説となって独り歩きを始めたかのようです。
 金沢漁港を後にし、海の公園に沿って北上すると、八景島への分岐道路を過ぎて、すぐに柴漁港が現れます。都市部 の漁港らしくよく整備されており、岸壁にずらりと並んだ底曳網漁船の光景は壮観でした。一部刺網漁の船も数隻あり、 クルマエビやマコガレイなどを獲っているようです。その数少ない刺網漁師(1935年生まれの73歳)から聞きとりを行 うことができました。
 この人が継承していた星は、サンギ(三つ星)、ジャンジャラ(プレアデス星団)、スバル、オオボシ(金星)で、 かつては小柴と呼ばれた土地の伝統的な星名体系の一部とみてよいでしょう。サンギは、計算や卜占で使われる算木の ことで、小さな角柱の棒を三つ星の並びに見立てた呼称です。対岸の千葉県木更津市や富津市などと共通する星名であ り、漁業を介した伝播が考えられます。ジャンジャラのほうは、全国的にもめずらしい星名で、小さな星の集まりから 連想された音にまつわる命名でしょう。たとえば、小銭をたくさん掴んだ時の「ジャラジャラ」であったり、いくつも の鈴が触れ合う「ジャンジャン」あるいは「シャンシャン」などがベースになっているものと考えられます。ともかく、 埋め立てによる工場群や住宅団地、さらに海上のレジャー施設などに囲まれた街角の漁港で、生業とともに活かされて きた星々にめぐり会えた喜びは、聞きとり調査の醍醐味でもあります。
 その後2014年に再訪した折、80代の元漁師は、かつての柴町(小柴)の様子を次のように語ってくれました。昔の海 岸線は、現在の道路辺りにあったようで、集落の背後(高台)には畑地が広がり、低地は水田となっていました。漁に 出られない日は、農作業を行うなどして半農半漁の暮らしが基本だったのです。漁の主体は手繰網漁で、当時は三丁艪 の船で出漁していました。また、ベカ船と呼ばれる小さな船でワタリガニ(ガザミ)を獲っていた時代があり、その際 使われた用具は独特のものです。それは、棒の一端に船を漕ぐための板を取り付け、反対側にはワタリガニを捕獲する ための掬い網を装着した構造で、全長が2bほどありました。その頃は、ウツボを食す慣習もあり、生のままあるいは 頭の下から開いてブツ切りにして煮て食べたと言います。このような変遷の過程を改めて振り返るとき、そこで受け継 がれてきた星の伝承が、いかに貴重な存在であったかを思い知らされました。

 

〈左〉ワカメの天日干し /〈右〉算木(下段の二種が計算用)

 ところで、横浜の中心街に今なお漁船が居並ぶ景観を残している場所があります。漁港ではない水路の船溜りですが、 かつて子安浜と呼ばれていたところです。明治期からすでに埋立てが始まり、元の浜通りは狭い道で、浜と海が接して いました。それでは、現在の子安浜はと言えば、何とも不思議な光景を見せてくれます。浜通りの一方は都会の家並み が続き、どこにでもある街中の道路と変わりはありません。しかし、反対側に目を向けると水路に沿って漁港のような 作業小屋が軒を連ねているのです。
 ここで漁師を探すのが容易でないことは十分承知していましたが、それでも何か手がかりがあればという思いで歩い ていると、偶然に声をかけた人が84歳(1924年生まれ)の元漁師でした。その場で聞きとりの承諾を得て話をしたもの の、星名として伝えていたのはオオボシだけでした。おそらく、大規模な埋めて事業によって漁業権を放棄した1971年 以前には、伝統的な星名体系が継承されていたことでしょう。40年近くも忘れられた空白の時間であったことが惜しま れます。
 子安浜では、古くから打瀬網漁が行われており、最も盛んだった頃には茨城県などの農村部から若者を呼び寄せて浜 に住まわせ、漁のやり方を教えていました。そのまま漁師として居付いた人も少なくないと言います。ウタセというの は、帆掛け船で網とケタ(馬鍬のような漁具)を曳く漁法で、和船本体は大小の二種類があり、大きいほうは幅3b、 長さ約10bでした。昔は、湾内のどこでも自由に漁をすることが可能でしたから、網入れに適した漁場にはバンズ(姉 ヶ崎沖)やセビチ(木更津沖)などの呼び名がありました。1回の網入れで4〜5時間曳くことになるため、セビチで 開始した場合は、浦賀付近まで曳いて網を揚げます。こうした漁場における位置の確認は、山アテが基本だったようで す。
 現在、子安浜で行われているのは筒を使ったアナゴ漁ですが、こちらも最盛期に比べると漁師の数は大幅に減少して います。東京湾沿岸の急速な開発は、地付の漁業に多大な影響を及ぼしたばかりでなく、そこに育まれた文化や習俗に もさまざまな変化をもたらしました。
 遠い過去の暮らしぶりを知る人たちに出会える機会が減るなかで、たとえ一部の伝承であっても生業と星とのかかわ りを記録できたことは、有意義な体験でした。

 

〈左〉子安の船溜り /〈右〉漁船に積まれたアナゴ漁の筒

  [2021年初稿]


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沼津の富士百景 【静岡県沼津地方】

 駿河湾を中心とした沿岸域には、富士山の景観を楽しめるポイントが各地にあります。特に海と富士が織り成す構図 は、静岡県ならではの魅力と言えるでしょう。狩野川河口の我入道辺りから、江浦湾や内浦湾を経て大瀬崎へ至る海岸 線には多くの漁港が点在し、二度、三度と足を運んで聞きとり調査を行ってきました。その時々に表情を変える富士山 の姿は、季節や地形の変化と相俟って、まさに富士百景を現出してくれるのです。
 静岡県では、『日本星座方言資料』〔文0167〕や『静岡県の星の方言』〔文0076〕などにより、多様な星の伝承が記 録されており、星名の種類も全国屈指の多彩さを誇っています。沿岸域から内陸の山間地まで、広範な地域に及ぶ調査 の結果と考えられます。
 漁業との関係では、伊豆半島沿岸域で多くの星名が記録されており、東海岸の宇佐美、伊東、稲取、下河津、白浜、 下田や西海岸の我入道、内浦、西浦、土肥、宇久須、田子、仁科、妻良などが主要な伝承地となっています。これらの 大半は、既に現地での聞きとり調査を行っていますが、伝統的な星名を伝承する漁師から話を聞く機会は、なかなかあ りません。それでも、伊東市については幾度か通うなかで、忘れ得ぬ漁師との出会いがありました。
 その調査は、2010年の早春です。魚の干物を商いするSさんは84歳(1925年生まれ)になる元漁師で、戦争から復員し た1948年より漁を始めました。当時は半農半漁の暮らしが基本であり、農閑期に手繰網漁を行ってアマダイやキダイ、 ヒラメ、タカアシガニなどを獲っていたようです。1955年頃からは、棒受網漁に従事するようになり、近海では観音崎 から稲取にかけての海域、そして遠くは新島、三宅島、八丈島の沖合まで出漁しました。よく利用した漁場は、大島と 利島の間にあるオオムロダシと呼ばれる瀬で、サバやムロアジ、マアジなどが獲れたと言います。また、最も遠い漁場 は、八丈島の先にあるシンクロセという海域で、3ヵ月ほどの間小型のサバ漁を行ったことがあります。このような出 漁のことを「デェナンバラで商売してきた」などと言ったそうです。デェナンバラというのは、大海原を意味する言葉 でした。
 Sさんが伝承していた星は、ミツボシ、スバル(プレアデス星団で別名をナナツボシ)、ヒトツボシ(北極星)、ヒシ ャク(北斗七星)、トビアガリ(金星)などで、新島方面から帰港する際には、北の方角を知る目安としてヒトツボシ を利用していました。また、同市湯川で話を聞いた80歳前後の漁師からは、ヒシャクボシ、オオボシ(おおいぬ座シリ ウス)、キンボシ(金星)などの星名を記録し、古い漁師から聞いたことがあると教えてくれました。過去の記録と照 合すると、符合する星名は3割にも満たないことから、本来の伝統的な星名の多くが忘れられた存在となっていること が分かります。
 さて、舞台は伊豆半島の西の付け根にあたる地域に変わります。狩野川の河口を基盤に、駿河湾のいちばん奥まった 地区では、旧沼津町が1923年に楊原村との対等合併により沼津市に生まれ変っています。その後も幾度かの合併を重ね、 現在は2005年の戸田村との合併によって、約60`に及ぶ沿岸域を有する自治体となりました。このうち、旧村であった 楊原から静浦、内浦、西浦と続く海岸線は、風光明媚な景観に恵まれ、富士の山容を望む恰好の土地柄です。
 この地域における調査の始まりは2010年の師走で、河口左岸の我入道から獅子浜までを歩きました。我入道の場合は、 漁港というより船溜りですが、70代の3人の漁師から話を聞いたところ、星名として伝わっていたのはオオボシ(金星) だけでした。この星が出ると間もなく夜明けになるといい、地元では夜明けのことを「ヒガシがきた」と表現していま す。
 背中に三つの班紋をもつカニとして知られるのはジャノメガザミで、我入道ではジョウトウヘイと呼ばれますが、近 年はあまり獲れなくなったようです。残念なことに、星名としてのジョウトウヘイは記録されていませんが、カニの紋 に星を見出した感性はすばらしいと思います。
 沼津御用邸を眺めながら海沿いに進むと、馬込の静浦漁港に着きます。ここでは、71歳(1939年生まれ)の漁師から さまざまな項目に関する聞きとりを行うことができました。静浦は、昔からまき網や底曳網の漁が盛んで、イワシやサ バ、アジ(5〜6月)、ヒライワシ、セグロ(カタクチイワシ)などを漁獲しています。5〜7月頃にはスルメイカ漁 も最盛期となり、他にシラス漁などが行われました。

〈左〉我入道の富士 /〈右〉静浦の富士

 星の伝承は、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、オオボシ(金星)、それにトンキョボシで、最後の星名にはこの 土地ならではの見方が継承されていたのです。トンキョボシは、オオボシと同じ夜明け前の東天に上る金星のことで、 「トンキョボシが出たから、早く網を上げなければ」などという具合に、漁の目安として利用されてきました。漁とい うのは、静浦の伝統的なまき網漁のことで、イワシの群れが浮上するという午前3時頃に網を入れる必要がありました。 間もなく夜明けを迎えますが、その頃にはせっかく群れになったイワシが散ってしまうため、夜明け前に網を上げなけ ればなりません。そこで、漁師らは東天に現れる金星に注目し、網を上げる時期を見定める指標として利用してきまし た。
 トンキョの意味については、明確な説明がなかったものの、漁師は漁港の背後に見える鷲頭山( 392b)を指して、 その山の近辺に突如として姿をみせることが、次第に注目される要因であったことを示唆してくれました。これで、ト ンキョの意味が明らかになったのです。俗に「すっとんきょう」という言葉があるように、トンキョは頓狂の意味であ り、予期せぬ時にだしぬけに現れるという思いが込められた命名であったのです。伊東市で記録されたトビアガリとい う星名も、類似の発想によるものと考えてよいでしょう。なお、『星の方言』〔文0308〕には、静浦に近い多比で若い 漁師が金星をトンキョと呼んでいたことが紹介されており、旧静浦村においては一般的な星名であったのかもしれませ ん。
 星名以外でも、「ツキマル(月暈)とったから雨になる」とか「西空に火の塊(太陽ではない)が見えると、1日か 2日あとに雨が降る」などの俚諺があり、星空への関心は総じて高かったようです。こうした傾向は、生きものとのか かわりにおいてもよく表われており、伊東でジョウトウヘイと呼ばれていたジャノメガザミの呼称は、ミツボシです。 さらに、ヒライワシ(マイワシ)をナナツボシと呼ぶことが分かりました。こちらも体側の斑紋に由来する命名であり、 夜空の三つ星や七つ星(北斗七星)に通じています。

鷲頭山とトンキョボシ(イメージ)

 静浦の先、内浦から西浦地区に点在する漁港を訪ねたのは、1年後(2011年)の冬でした。重寺漁港では、80歳近い 漁師からミツボシ、ナナツボシ、トンキョを記録し、小海漁港でも70代の漁師がミツボシ、オオボシ(金星)、トンキ ョボシを伝承していました。その際、トンキョとは「すっとんきょう」の意味であることを確認しています。また、同 じ小海で70代女性からの聞きとりでは、ミツボシ、ナナツボシ、アケノミョウジョウ、ヨイノミョウジョウというごく 標準的な星名体系が義父から嫁へと受け継がれてきたのです。この場合は、同じ船で夫や義父とともに漁を経験した女 性の存在が重要な鍵を握っていると言えるでしょう。トンキョボシは、内浦においても健在でした。
 内浦から西浦の一部にかけては、みかんの産地として知られ、集落の裏山は大半がみかん畑となっています。そうし た果樹栽培と海の漁を主体とした半農半漁の暮らしがこれまでの基本でしたが、近年は生産者の高齢化と後継者不足 によって、いずれも衰退の一途を辿っている現状が気掛かりです。
 次に訪ねたのは長浜で、漁業関係の仕事をしていた70代の男性から少し話を聞きました。星に関する伝承はありませ んが、富士山にかかわる観天望気が残されています。一つは「笠雲は三日後に雨」で、もう一つは「富士山に西から雲 がかかると西風が吹く」というものです。ここでは、北西の風をフジオロシと呼んでいるように、日々の暮らしと富士 山の深いかかわりを感じます。内浦湾の一帯から眺める富士山は、少し場所を変えるだけでさまざまな景観を見せてく れますが、そのような立地が古くから富士に親しむ慣習へと繋がっているのかもしれません。

〈左〉長浜城址の富士 /〈右〉重寺の富士

 その後、西浦まで足を延ばしてみましたが、星の伝承者とめぐり会う機会はありませんでした。さらに先の西伊豆に 近い戸田地区については、既にこの年の秋に調査を実施しています。漁港で、70代の二人の漁師から聞きとりを行い、 ミツボシ、スバル、キタノミョウジョウ(北極星)などの星名を記録しました。戸田にも「富士山が笠(雲)をかぶる と雨が近い」との俚諺があり、富士の方角(北北西)から吹く風はオオカワラと呼ばれています。沼津の漁師らは、北 乃至北西からの風に関心が高かったとみえて、我入道をはじめ馬込、内浦、西浦、戸田にかけて、オオカラあるいはオ オカワラ、オキベットウ、フジオロシ、セイケンジなど、多彩な呼称がみられます。
 セイケンジというのは、おそらく静岡市清水区にある臨済宗清見寺のことと考えられますが、沼津市からは西方にあ たりますので、本来は西寄りの風をセイケンジと呼んでいたのかもしれません。
 もう一つ記しておきたいのは、内浦から戸田にかけての地域で、ウツボを食する文化が根付いているということです。 いくつか例を挙げると、
・ウナダ(ウツボ)には黄色と赤色の2種類があり、生のままブツ切りにして、醤油、砂糖、みりん等の味付けで煮て 食べる(内浦長浜)
・神社の秋祭りで、特別なウツボ料理を食べる(西浦足保、久料)
・ジャウナギには黄色と赤黒の斑模様をもつ2種類がいて、背開きで干したものを焼いたり、煮物などにして年配者を 中心に食べる(戸田)
 沼津の富士百景には、星や風の伝承はもとより、ジャノメガザミやウツボの食文化に至るまで、実にさまざまな暮ら しの知恵が反映されていたのです。

〈左〉久連の富士 /〈右〉平沢の富士

[2021年初稿]


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目盛が刻む尺の星 【茨城県中・南部地方】

 茨城県で最も印象的な星名といえば、シャクゴボシをおいて他には見あたりません。1992年の冬に、茨城県最初の調 査で訪れた土浦市宍塚で、75歳(1917年生まれ)の男性から記録して以来、2012年秋の古河市恩名での調査まで、18の 事例を確認しています。さらに栃木県南部で7例、千葉県北西部にも4例があり、利根川下流域を代表する星名である ことが分かります。
 シャクゴは現代の定規、つまりモノサシのことです。それも目盛の単位がメートルやセンチメートルではなく、かつ て使われていた尺や寸という単位のものが原形となります。江戸時代の方言について記した『物類称呼』〔文0198〕に は、常陸でしゃくごというと紹介されており、茨城県では一般的な呼称でした。したがって、シャクゴボシの分布の中 心は茨城県内にあります。

シャクゴボシの伝承分布

 シャクゴボシは、オリオン座の三つ星を対象とした星名で、この点はいずれの伝承も一致しています。ほぼ等間隔に 並ぶ三つの2等星は、まさしくモノサシそのものと言えるでしょう。実際に夜空で眺める感覚においても違和感はなく、 的を得た命名です。とは言え、モノサシにもいくつかのタイプがあります。人びとが見出した夜空のモノサシが、どの ような特性をもっていたのか、各地の聞きとり内容を振り返りながら整理してみたいと思います。
 まず、土浦市宍塚の星名伝承は、シャクゴボシ、ジョウトウヘイボシ(これも三つ星)、ヒシャクボシ(北斗七星)、 アケノミョウジョウ、ヨイノミョウジョウ(いずれも金星)を基本的な構成としています。ジョウトウヘイボシは、戦 時中に外地で使われていたそうで、この辺りの三つ星はシャクゴボシが一般的でした。この男性は、三つ星の長さを1 尺5寸とみていましたので、それは同様の長さを有する曲尺(長辺側)を想定したものと考えられます。
 1993年から翌年にかけては、つくば市の3ヵ所で記録されました。伝承者は男性2人、女性ひとりの計3人です。こ のうち、金田の80歳(1913年生まれ)男性は、シャクゴを長さ1尺のモノサシとし、そこに刻まれた目盛の印が、ちょ うど三つ星の配列と符合することから、シャクゴボシと呼ぶそうです。上ノ室の77歳(1916年生まれ)の男性も同様で、 長さ1尺のシャクゴに刻まれた印が、三つ星の配列になると言っています。しかし、栗原で出会った90歳(1904年生ま れ)の女性は、シャクゴを2尺のモノサシとし、両端と中心の目印を三つ星に見立てていたのです。このように比較的 近い土地であっても、伝承者によって見方が異なるということは、各個人の暮らしにおいて、それぞれが慣れ親しんだ シャクゴをそのまま夜空へ投映しているのかもしれません。
 つくば市では、シャクゴボシの他にミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、クレノミョウジョウ(金星)などがあり、 月暈や三日月に関する伝承を聞きました。また栗原の女性は、かつてこの辺りで行われていた「オムヅラサマ」の習俗 についても語ってくれました。それは、プレアデス星団の呼称であるオムツラサマとの深いかかわりを示唆する重要な 情報であったのです。
 1996年冬には新治村(現土浦市)を歩き、女性2人、男性ひとりの3人からシャクゴボシを聞いています。小高地区 の女性は、シャクゴのように点々と星が三つ並んでいるとの認識を示していましたが、大志戸地区の82歳(1914年生ま れ)の女性と小野地区の70代男性の場合は、シャクゴの意味については説明がありませんでした。

 以上のように、当初はつくば市や土浦市を中心とする地域に限定された星名と捉えられてきましたが、その後の調査 によって伝承域は次第に拡大しています。まず1999年秋には、藤代町(現取手市)の88歳(1911年生まれ)の農家の女 性がシャクゴボシを伝えていました。ただし、星名だけでモノサシという見方は確認できていません。その1年後には、 谷和原村(現つくばみらい市)で82歳(1918年生まれ)の農家の男性が、モノサシの目印のように星が三つ並んでいる ことを説明してくれました。同村の86歳(1914年生まれ)になる農家の女性も、「シャクゴボシは、モノサシのように 三つ並んだ星」と伝えています。先の男性と出会った平沼地区は、他ではほとんど見られない特徴的な地形を有し、か つてのすり鉢状をした水田を中心に畑地が広がり、さらにその周囲には馬蹄形のような集落が形成されていたのです。
 2002年春の牛久市では、80歳(1921年生まれ)の農家の女性が、久し振りに三つ星とシャクゴの関係を詳しく話して くれました。つまり、三つの星が5寸間隔で並んでいる様子を、モノサシに見立てたというのです。この場合は、紛れ もなく1尺のシャクゴということになるでしょう。
 その翌月になると、西端域に位置する三和町(現古河市)と猿島町(現坂東市)でも記録が相次ぎます。三和町のほ うは、小立野地区に居住する86歳(1916年生まれ)の男性が、モノサシのように三つ並んだ星をシャクゴボシと呼んで いました。また、猿島町下新田地区では、70代の農家の男性が「シャクゴというのは、1尺5寸のモノサシのこと」と して、三つ星を捉えていたのです。この見方は、土浦市の伝承に連なり、興味深いものがあります。
 これらの地域には、シャクゴボシ以外にも極めてローカル色の濃い星名が伝わっています。それはタマンジャクと呼 ばれ、おおぐま座北斗七星のことです。タマンジャクとは、通称お玉で知られた汁物を掬う調理用具ですが、本来の玉 杓子から転訛した言葉と考えられます。なお、オリオン座三つ星の呼称分布ではサンチョウボシも記録されていますの で、利根川流域の代表的な星名である両者の伝承域は、一部の地域で重複していることが予想されます。
 やがて2009年になると、常総市で久しぶりにシャクゴボシが記録されました。伝承者は80代の農家の女性で、シャク ゴを「2尺ざし」と呼ばれる竹製のモノサシとみています。かつては裁縫などでよく使われ、日々の暮らしと縁の深い 存在でした。これも、中央にある大きな目印と両端を三つ星に投影した見方と思われます。
 西部地区における最後の記録は、2012年秋の古河市(旧三和町)で、N家を訪ねたときでした。当地の旧家で、6代 目となる当主(81歳)より聞きとりした星の伝承にシャクゴボシがあったのです。モノサシのように三つ並んだ星であ り、ここではモノサシの類はすべてシャクゴと称しているそうです。さらに注目されるのは、正月の供え餅の中にオム ツラサマの餅が含まれていることでした。これは6個の小餅で、星の神として祀られたオムツラサマ(プレアデス星団) に供える餅なのです。残念ながら、現当主は本来のオムツラサマにまつわる信仰について記憶していませんでしたが、 祖母から受け継いだ行事の一環として続けていると言います。たとえ形だけの行事ではあっても、星の神への供え餅が 毎年作られてきたという事実は貴重です。
 N家では、正月の注連縄飾りやカミの膳などの伝統が生きており、三箇日における食事の献立や食物に関する禁忌な どが古い慣習としてのこされています。鍬入れやトリマデなど、新年から小正月にかけての行事や三日月餅、三日月神 社に関する情報も聞きとることができました。

〈左〉古河市恩名の旧家 /〈右〉霞ヶ浦と筑波山

 さて、2011年から翌年にかけては、県中部から中西部地域の3ヵ所でも、シャクゴボシの分布が確認されています。 2011年の初秋に霞ヶ浦北部を歩いた折には、小美玉市の下玉里で夫とともに漁を続けてきた86歳(1925年生まれ)の女 性から、シャクゴボシがモノサシを原意とすることやミツボシとも呼ばれていたことを聞きました。ここでは、ゴロ( ヌマチチブ)を始めとしてコイ、フナ、ワカサギ、シラウオ、ウナギ、エビ類など、実に多様な漁が行われていました。
 筑西市では、自宅に三日月さまと呼ばれる自然石を祀っている82歳(1929年生まれ)の農家の男性を訪ねたときに、 シャクゴボシを採集しています。モノサシのように星が三つ並んでいると伝わっており、栃木県の分布域へと連なる事 例とみられます。そして、笠岡市(旧岩間町)の記録は、小美玉市に続く中部地域の貴重な事例となりました。伝承し ていたのは、旧友部町から嫁いできた90代の農家の女性で、昔はシャクゴボシの動きを見て時間を計っていたと言いま す。この女性が使っていたモノサシには尺ざしとメートルざしがあり、いずれもシャクゴと呼んでいたそうで、星名の ほうはそうした用具の総称という位置づけであったかもしれません。
 ところで、南東部から北東部にかけての沿岸域については、これまでの調査でシャクゴボシの伝承は確認できていま せん。水戸市より北の内陸部についても、未調査のため不明です。仮に、シャクゴ自体が常陸地方の共通語であったと しても、星名としてのシャクゴがどこまで分布を広げているかは、別な視点で捉える必要があるでしょう。少なくとも 沿岸域での調査結果を見る限り、海の漁労にかかわる人びとには伝承されていない確率が高いのではないかと思われま す。
 いずれにしても、基本的な課題としてシャクゴの真意を理解しておく必要があるでしょう。一説には「尺五」との解 釈があり、したがって単純に1尺5寸を示すとの考え方がみられます。しかし、これまで見てきたようにシャクゴには いくつかのタイプがあって、長さもまちまちです。例えば、同じ1尺でも曲尺[かねじゃく]と呉服尺、鯨尺では計測 される長さが異なります。女性に馴染み深い裁縫用の場合、本来は呉服尺が用いられたと推察されますが、呉服尺は明 治期に廃止されましたので、その後は鯨尺目盛の2尺ざしというモノサシが一般的であったようです。この他にも、栃 木県小山市の一部を含めた結城地方特産の結城紬の生産で使われたシャクゴは、長さを測る用具に止まらず、型紙的な 役割を併せ持った特殊な道具でした。おそらく、シャクゴボシが誕生した背景には、このような多様性も少なからず反 映されているのではないでしょうか。

〈左〉さまざまなモノサシ /〈右〉紬生産用のシャクゴ

  [2021年初稿]


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むじなと一升の星 【山梨県北部地方】

 信州と接する山梨県は、名立たる峰々に囲まれた山国です。静岡県とともに、霊峰富士山のお膝元として富士五湖を擁 し、甲州ぶどうの産地としても知られています。
 星の民俗学を世に著した野尻抱影氏も、青春時代の5年間を甲府中学校の英語教師として過ごしました。この間、1909 (明治42)年夏に白峰三山の北岳に登頂するなど、山岳人としても知られた存在でした。その山行きの折、広河原の小 屋で道案内の漁師から聞いた「むじな話」というのが『星まんだら』〔文0243〕などに紹介されています。そこに登場 するムジナノカワハリという星は、東京都や埼玉県の山間地に広く分布しており、一部は山梨県の北東部にも伝播して いたのです。

〈左〉白峰三山(最奥の白い峰々)/〈右〉北岳の山容

 1978年の春、奥多摩湖(小河内ダム)の上流にあたる丹波山村の小袖集落で73歳(1905年生まれ)の炭焼き経験者と の出会いがあり、山梨県における本格的な調査の始まりとなりました。小袖は、奥多摩湖に注ぐ小袖川右岸の尾根斜面 にある小さな集落です。湖畔の青梅街道から細い林道を辿らなければ、行き着くことができません。かつては炭焼きが 盛んに行われ、そうした暮らしのなかで利用された星が伝承されていました。ミツボシ(三つ星)、クヨウボシ(プレ アデス星団)、カワハリ(からす座)、アサボシ、ヨイノミョウジョウ(いずれも金星)、チカボシ(月に接近した星) などを記録したものの、本人は「あまり星は見なかった」と言います。チカボシというのは不吉な星で、それが見える 方角では人が死ぬという俗信があり、またホウキボシ(彗星)については、「鍋底に火がついたようだ」と興味深い見 方をしていました。
 丹波山村の南に接しているのは小菅村で、やはり山里の暮らしと結びついた星の伝承が遺されています。1982年から 翌83年にかけては、同村在住の知人の紹介で数人の炭焼き経験者から話を聞く機会がありました。そのうちの二人のO さんから記録した星の伝承にカアハリという星名が出てきます。これは、カワハリが転訛した呼び方で、原意は「皮張り」 そのものです。その他にミツボシ、ナナツボシ(プレアデス星団)、ヒチヨ(北斗七星)などがあり、子どもたちはプ レアデス星団をゴヂャゴヂャボシと呼んでいたことも分かりました。ミツボシについては、星の動きをよく観察してい て、「夏のミツボシは、昼通りと言って昼間のうちに空を通り抜ける」と伝えています。星空への関心は星名に止まら ず、次のような伝承や俗信にも及んでいました。
・月の近く(1〜3尺)にツレボシが見えると、星が出た方角では人が死んだり不幸がある
・三日月が立つと日照りになり、寝て見えると雨が多い
・夕方の日暈は雨が降ると言って嫌った
・流れ星を見ると人が死ぬ
・日食は、お天道さまが病気になったものだ
・ホウキボシ(彗星)が出ると何か異変(戦争など)がある
 まだ電灯などがなかった時代の山の暮らしでは、普段とは異なる光に対して研ぎ澄まされた感性を発揮していたのか もしれません。
 もう一つの事例は、1983年5月に同じ小菅村の長作集落における聞きとりです。伝承者は74歳(1909年生まれ)のM さんで、14歳頃から60年近くも炭焼きに従事してきました。星名はやはりカアハリで、この星は動物の皮を張った形に似 ているからだと言います。いったい、どのような動物の皮なのでしょうか。別な人から聞いた小菅村の主な生きものは、 タヌキ、ムジナ、ササグマ(穴熊)、ホングマ(月の輪熊)、バンドリ(むささび)、コバンドリ(ももんが)などで、 ムジナとタヌキは異なる生きものとされています。どちらかと言えばササグマに似ていますが、それよりも足が短く毛 が柔らかいそうです。また、ムジナはよく岩穴に二つずつ入っていて、毛皮は鍛冶屋で使用する鞴に最適でした。
 タヌキとムジナが同じか否かという話は、野尻氏のエッセイにも記されていますが、東京都や埼玉県の山間地でムジ ナと言えば、一般的にタヌキのことと考えてよいでしょう。カワハリという星名は、本来ムジナノカワハリが出発点と なっていますので、これはタヌキの毛皮を広げた姿ということになります。ただし、小菅村の場合は特定の動物ではな かったのかもしれません。
 Mさんが伝える星名は、他にミツボシ、ゴヂャゴヂャボシ、ヒチヤノホシ(北斗七星)、ミョウゾウボシ(金星)など があります。このような自然との接し方は、身近な鳥や草木にも生きていて、例えば真っ赤なビンドロ(アカショウビ ン)が鳴くと雨が降るとか、ヒンヒョン(トラツグミ)が鳴くと人が死ぬと言って、別名をホトケドリと呼んでいまし た。他にカッキントン(コノハズク)、エボ(ミゾゴイ)など、鳥の特徴的な生態を捉えた命名が多くみられます。
 植物では、カッポウバナ(ホタルブクロ)やイワナあるいはミズナ(イワタバコ)、ユキワリソウ(有毒のハシリド コロ)、ズサ(アブラチャン)、ヤマクワ(ヤマボウシ)、マメンブシ(キブシ)、オッカドあるいはカッツンボウ (ヌルデ)など、日々の暮らしとかかわりの深い種を中心に識別が行われています。最後のヌルデは、小菅村で1月14 日のヤブヨケと称する行事に利用されますが、いわゆる小正月に際して道祖神を祀る信仰のことです。ここでは、直径 2〜3寸のヌルデの木を2尺ほどの長さに切り、上部を一部分削り取って人の顔を描きます。これを2本(男性の顔と 女性の顔)用意し、集落内の辻などに立てておくのです。今では見られませんが、調査当時はまだ細々と継続されてい たようです。

〈左〉カワハリボシ(イメージ) /〈右〉ヌルデの道祖神

 さて、一旦ムジナから離れて、プレアデス星団に目を向けてみましょう。丹波山村や小菅村では、比較的変化に富ん だ星名を記録していますが、さらに西側の地域にはイッショウボシという呼び名が分布しています。イッショウという のは一升の意味で、プレアデス星団の集まりを一升ほどの量とみたものか、それとも一升桝の大きさとみたものか、真 意は分かりません。
 この星名を初めて聞いたのは、1982年春の塩山市(現甲州市)二之瀬でした。この辺りは丹波川の上流、つまり多摩 川の源流域にあたり、一之瀬高原と呼ばれています。ミツボシサンとともにイッショウボシを伝承していたのは75歳 (1907年生まれ)のTさんで、やはり炭焼き経験者です。
 それから3ヵ月後、再び二之瀬を訪れると、今度は93歳(1889年生まれ)のTさんと出会い、前回と同じような星の 伝承を聞きました。さらに、1992年の夏には三度目の二之瀬調査を実施しています。そこで出会った70代の女性からは、 ミツボシとイッショウボシの星名を記録できたばかりでなく、イッショウという言葉の意味について、重要な示唆を得 ることができました。つまり、星が集まっている状態をちょうど一升桝に入る位の大きさとみていたのです。星団その ものを特定の容器に入れるという発想はたいへんユニークであり、素直に頷けます。
 ここで、舞台は高根町(現北杜市)へと移ります。1983年6月に清里へ出かけた折、須玉町(現北杜市)との境界近 くに位置する浅川という集落を訪ねる機会がありました。古い歴史があり、当時は40軒ほどが農業を営んでいましたが、 かつては炭焼きも盛んに行われた土地です。しかも白炭が中心であったと聞いて、ぜひ経験者に会いたいと探したとこ ろ、83歳(1900年生まれ)のSさんと、86歳(1897年生まれ)のFさんから聞きとりを行うことになりました。
 そのFさんの記憶によると、浅川で本格的に白炭が焼かれるようになったのは1907年頃で、他所から来た人が山を買 って始めたそうです。当地の製炭は窯場まで馬が入っていたということで、焼けた白炭は馬の背に4俵(大俵)あるい は6俵(小俵)づけし、丸一日かけて須玉町の若神子まで運ばれました。こうした炭焼きの暮らしで利用された星が、 ミツボシ、イッショウボシ、ナナツボシあるいはヒチヨウセイ(北斗七星)だったのです。また、Fさんが子ども時代 に聞き覚えていた星名として、ミツメ(三つ星)、ヨツボシ(からす座)、クヨウボシもありました。イッショウボシ を除けば、いずれの星名も丹波山村や小菅村、さらには東京都山間域へと連なる特性がみられます。
 ところで、イッショウボシの分布については、野尻氏が長野県諏訪地方および南佐久地方、山梨県北巨摩地方、愛知 県北設楽地方からの情報を『日本星名辞典』〔文0168〕で紹介し、内田武志氏は静岡県の大部分と神奈川県横浜市など の事例を報告しています〔『日本星座方言資料』文0167〕。事例数では静岡県が圧倒的に多く、おそらく分布の中心と みてよいでしょう。しかし、これまでの山梨県の記録はいずれも北部の山間域で、静岡県との接点は見出せずにいまし た。
 ところが、1998年になってJR中央本線沿いの上野原町(現上野原市)においてイッショウボシが確認されたのです。 ただし、伝承者の87歳(1911年生まれ)の女性によると、当地のイッショウボシはプレアデス星団ではなく、夕空の金 星でした。ヨイノミョウジンサンとも呼び、子ども時代には夕方の一番星を見つけて、「あっ、イッショウボシが出た」 などと言っていたようです。因みに、プレアデス星団はホウキボシと呼ばれています。果たして、これが伝承者の思い 違いなのか、それとも誤った内容で伝播したものなのか、真相については分かりません。いずれにしても、上野原の記 録が分布域の広がりを示す貴重な事例であることに変わりはないでしょう。

 むじなの皮干しから生まれたカワハリと、食生活にかかわる一升の星は、奇しくも山梨県東部で互いに異なる文化圏 の境界を示してくれました。今後も分布域が拡大する可能性はありますが、カワハリに関しては他の都県を含めてほば 確定していますので、注目はイッショウボシの記録次第ということになりそうです。
 山梨県の調査は、西部域と北部および南部の一部を除いて星の伝承記録を得ているものの、まだ埋もれたままの伝統 的な星名も少なくないと思われます。さまざまな行事や信仰に関する取材を通して、星の民俗全般の構図を明らかにし たいものです。

[2021年初稿]


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ウツボ食の海道 【三重県南部沿岸地方】

 太平洋沿岸域に定着している黒潮文化に連なる習俗として、ウツボの食文化があります。ウツボはウナギ目ウツボ科 の生物で、本州中部以南に分布するとされ、浅海の岩礁帯を主な生息域としています。日本沿岸では、他に多くの仲間 が知られており、ウツボはそれらを代表する種として馴染み深い存在です。漁業面における利用価値は総体的に低い生 物ですが、肉は食用や加工用に、また皮膚についてはなめし皮などに利用されています。各地でさまざまな呼称が知ら れ、厳めしい外観とは裏腹に、隠れた味覚が豊かな食文化を育んできました。
 ウツボを食する慣習は、元来西日本が中心であり、漁民の出稼ぎ漁や移住等に伴って次第に東日本へ広まったのでは ないかと考えられます。これまでの聞き取り調査から、ウツボを食材として利用する、あるいは過去に利用していた地 域を整理すると、関東から九州にかけての太平洋岸に広く分布している状況が明らかになってきました。とりわけ、房 総半島や三浦半島、伊豆半島、紀伊半島南部、九州の大隅半島や天草地方などで伝承事例が多く、また地域による呼称 の変化も多様です。


 西日本の太平洋沿岸域では、ウツボを食用魚として認識している地域が多く、ハレの日や行事の食材に位置付けてい る土地さえみられます。一方で、東日本では伊豆半島の一部でみられる特殊な事例を除けば、日常食として利用してい るところは少ないようです。とくに三浦半島や房総半島の沿岸域については、現在のウツボ食にかかわる担い手が高齢 者中心であることや、戦後は急速に利用価値を失っていることなどを考慮すると、関東地方ではウツボが補完的あるい は非常時の食材として捉えられていたのかもしれません。
 さて、紀伊半島の南部、三重県と和歌山県にまたがる沿岸域では、南九州や四国南岸域とともに、かつては黒潮によ ってもたらされる種々の恵みを活かした暮らしが継承されてきました。これらの地域では、ウツボを求めて東海や関東 近海へ出漁していた漁民も少なくありません。それを目の当たりにした地元の漁業者が、試しにウツボ漁を始めたとい う話を聞いたこともあります。漁業を介した西日本から東日本への文化の移入は、星の利用という観点からも重要な課 題のひとつですが、それを裏付ける慣習としてウツボの食文化に目を向ける必要があったのです。紀伊半島南部で継承 されているウツボ食とは、いったいどのようなメニューなのか、関東地方との関連を探ることにしました。三重県南部 の調査では、そうした視点を踏まえた聞きとりが大きな特徴となっています。
 調査は2013年秋に実施され、南西部の紀北町から尾鷲市、熊野市にかけての漁港を対象としました。この沿岸域は、 入江が複雑に入り組んだ地形のため、主な漁港を巡るだけでもかなりの時間を要します。最初に訪ねたのは紀北町紀伊 長島区の海野浦漁港で、70代の漁師から話を聞くことができました。当地の漁業は、10月から翌年4月にかけてイセエ ビを対象とした刺網漁を中心に、定置網漁(夏場)やタコカゴ漁(4月〜9月)などが行われます。
 星の呼称は、ミツボシ、オオボシ(おおいぬ座のシリウス)、ヨアケボシ(金星)ですが、具体的な利用に関する伝 承はありません。ウツボに関しては昔から食されており、冬だけでなく夏にも干物を作るそうで、日常的な食材である ことがよく分かります。

〈左〉ウツボの天日干し /〈右〉干物を刻んで揚げた加工品

 次の白浦漁港と島勝浦漁港でも、70代の漁師から話を聞いたところ、漁の主体はやはりエビ網で、キタッポ(北風) が吹くと漁に悪影響を及ぼすとのこと。また、手漕ぎ船時代の定置網漁は、六丁艪の船5隻に各12〜13人が乗り込んで 網あげを行っていたようです。ウツボの食べ方は、海野浦とほぼ同じですが、干物作りはまず身を背開きにして塩漬け し、これを天日に干すという手順であることが判明しました。
 いずれの漁港も熊野灘に面していますが、さらに小さな峠のトンネルを抜けると、尾鷲市の須賀利漁港があります。 尾鷲湾に突き出た細い指のような岬に抱かれた地形で、先には道がない袋小路の土地柄です。ここでは、80代の漁師か ら聞きとりを行い、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、フタツボシ(ふたご座)、ヒトツボシ(金星)などの星名を 記録できました。そして、夜明け前にヒトツボシが出ると、前日に仕掛けた網上げに出漁したのです。イセエビ漁にお ける星の利用事例と、ようやく出会えたわけです。
 須賀利には、かつて1300人ほどが暮らしていたそうですが、今はその半数以下まで人口が減り、最近まで運行されて いた尾鷲港からの渡船も廃止されて、代わりに一日数便のバスが通うようになりました。ウツボの調理法は紀北町と同 じで、開いて干したものを焼くのが定番です。ただし、太い(大きい)個体は煮つけなどにしていたと言います。
 須賀利からは、県道を引き返して再び紀宝町に戻り、尾鷲湾に沿って南下すると、引本の漁港に着きます。集落の背 後には、標高 100b余りの尾根が横たわり、そのどこかに引本港日和山があるはずですが、山容からは特定できません。 岸壁を歩くうちに80代と70代の二人の漁師と行き会い、少し話が聞けました。伝承されていた星名は、ミツボシ、スバ ル(プレアデス星団)、ナナツボシなどで、いずれも一般的な呼称ばかりです。
 気になっていた日和山について尋ねると、どうやら尾根筋一帯を指しているようで、特定の場所ではないことが分か りました。昔は眺望がよかったので、尾根に登って日和を観ていたようです。方位石などの石造物は、見たことがない とのことでした。実は、この尾根の西側末端付近にも渡利港日和山が存在しているはずですが、確認できません。周辺 域では、先に訪れた須賀利の南東側にも標高 301bの日和山が知られており、熊野灘沿岸の複雑な地形を反映して、本 来はもっと多くの日和山が設けられていた可能性があります。
 さて、一旦海岸線を離れてJR紀勢本線に沿って進むと、間もなく尾鷲の街に入ります。尾鷲港の船溜りで、70代の 漁師から少しだけ話を聞き、その後対岸にある大曽根浦の漁港に向かいました。小さな港ですが、ここでも昔のエビ網 漁で目あてにした星があると聞きました。残念ながら、呼称はなく記憶も曖昧なため、星の正体は不明です。ウツボの 調理法は、開いた身を塩水に浸してから天日に干します。焼いて食べるのが一般的ですが、生の身を味噌汁に入れると 美味いとのことです。

〈左〉エビ網を手入れする漁師 /〈右〉熊野灘の夜明け

 翌日は、隣接する和歌山県南部を調査し、そちらでも各地でウツボ料理の伝承を聞きました。さらに、串本でウツボ の加工品が販売されていることも分かり、日常生活に根付いたウツボとの深いかかわりが見えてきたのです。そして、 三日目に三重県の調査が再開され、真っ先に訪ねたのは新鹿湾に面した熊野市の遊木漁港です。80代の元漁師から少し 話を聞けたものの、その後の甫母漁港と尾鷲市の梶賀漁港では思うように聞きとりができず、賀田湾に面した古江漁港 で何とか星の伝承と出会えました。80代の漁師が覚えていたのは、ミツボシとナナツボシ、アケノミョウジョウ、ヨイ ノミョウジョウだけでしたが、同じ漁師であった父親は星で時間をみていたそうで、かつては伝統的な星の利用が行わ れていたものと推察されます。
 古江から賀田湾に沿って回り込むと、最奥部に位置するのが三木浦の漁港です。しかし漁師の姿はなく、そのまま先 へ進みます。少し長目のトンネルを抜けると、そこは熊野灘に面した早田漁港となります。ここには多くの漁師がいて 活気に満ちていました。ただし、ほとんどが漁の準備で忙しく話を訊ける状況ではないため、やむを得ず次の九木漁港 を目指すことにしました。
 細長い入江の南岸からJR九鬼駅前を通って北岸沿いに進むと、行き止まりが九鬼の集落で、漁港の一角には九木神 社が祀られています。その神社の背後に続く尾根付近にあるはずの九木港日和山を調査する予定でしたが、道が分かり ません。少し歩き回るうちに81歳(1932年生まれ)の元漁師と出会ったので、早速日和山について尋ねてみました。す ると、九鬼で昔から日和山と呼ばれているのは、九木神社に連なる尾根が集落を取り囲む別な尾根へと分岐する鞍部の 一帯を指すと言うのです。そこへ行くには、集落内の細い道を辿るのがいちばん早いと丁寧に教えてくれました。念の ため、星の伝承について訊くと、ほとんど知らないという返事です。また、ウツボは2種類生息し、トラウツボ(いわ ゆるウツボ)とコメウツボ(こちらが本来のトラウツボ)という具合に呼び分け、いずれもウツボカゴで漁をする漁師 がいるそうです。ただし、食用となるのは一般的なウツボのほうで、開いた身を30分ほど塩漬けしてから天日に干し、 焼いて食します。さらに、味噌炊きにする場合もあるようです。
 風の伝承も含めてひと通りの話が聞けたので、いよいよ日和山へ登ってみることにしました。教わった道順で、人ひ とりが歩けるほどの狭い道を何度か折れて高度を上げると、最後の民家の脇を抜けて鞍部へ着きました。周辺には樹木 がないので、振り返れば集落を一望できますが、漁港は神社の叢林に隠れて見えません。反対側に目を移すと、漁港か ら続く入江が熊野灘へと広がっていく様子を見通すことができます。道は左右の尾根道と小さな岬へ下る道に分岐して いますが、神社から続く尾根の終端部が気になり、行ってみることにしました。山道を10ほど登って着いたのは割と平 坦な広場で、忠魂碑や四阿などがあり、樹木がなければ熊野灘を一望できそうです。ここは三思ヶ丘公園と呼ばれ、さ らに先へ進むと灯台や岬神社があります。

〈左〉遊木の集落と漁港 /〈右〉九木漁港と背後の日和山

 歴史を遡ると、この地は近世初期に遠見番所や烽火場が設置された場所であり、その目的達成の役割を担っていたの が日和山ではなかったかと推測されます。また、九鬼は戦国時代に活躍した九鬼水軍発祥の地としても知られています。 そう言えば、道を教えてくれた漁師が、第二次大戦中は日和山に兵隊がきていたと話していました。近世の遠見番所の ように、あの鞍部から熊野灘や上空を監視していたのでしょうか。今は呼称だけが残る日和山にも、数百年に及ぶ時の つながりがあることを実感したひとときでした。
 熊野灘沿岸の漁港を巡った今回の調査では、地域に根差した星の伝承を記録することは叶わなかったものの、食文化 に占めるウツボの普遍性を再認識する格好の機会となりました。おそらく、当初は干物の加工に代表される保存食とし ての位置づけであったと思われますが、その後次第に生身をさまざまに調理する方向へと拡大したのでしょう。四国や 九州地方で、紀伊半島ではみられない食べ方が伝承されているのも、地域による食文化の多様性をよく物語っています。

[2022年初稿]


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雷神と風神に学ぶ 【群馬県】

 群馬県南部から埼玉県北部にかけての地域では、「御荷鉾の三束雨」という俚諺を伝承しているところが多くみられ ます。御荷鉾は、北の鏑川と南の神流川に挟まれた主稜線上に位置する山で、西御荷鉾山(1286b)と東御荷鉾山 (1246b)があります。西上州という地理的特性や遠方からもよく目につく山容によって、天候を予知する際の指標と して注目されてきました。
 この伝承を初めて聞いたのは1996年秋で、埼玉県上里町の農家の男性(72歳)です。当地からは、南西方向に御荷鉾 山、北西方向には榛名山を望むことができますが、これらの山から同時に雲が湧き上がると、往々にして雷雲が発達す ることが多いそうです。すると、刈り取った麦を三つも束ねないうちに雨が降ってくると言い伝えられてきました。三 束雨の正体は、麦刈りの作業にあったのです。因みに、土地が変わると指標となる山も変化し、埼玉県南西部の三芳町 では「大山(神奈川県)の三把ガミナリ」と伝わり、同県北東部の大利根町では「浅間山の三把稲」となります〔『埼 玉の天気占い』文0420〕。
 その後、2008年に群馬県玉村町を調査した際、70代の農家の男性から「御荷鉾の三束雨」を記録しています。同町 は、利根川を介して上里町と隣接する土地柄ですから、同様の伝承があるのはよく頷けます。また、同じ玉村町の81歳 になる農家の女性は、「西風が強いと三日目には雨が降る」と教えてくれました。この「三日目に雨」という言葉の使 い方は、月暈の伝承においてよく耳にする文言です。この町でも、月の周りに白い輪が見えて、その中に星がひとつあ れば次の日、三つあれば三日後に雨と言っていますので、いずれも天気は西からくずれてくることを予知した諺なのか もしれません。
 こうした天気俚諺は、北部の沼田市でも別な形態で伝承されていました。上川田で出会った60代の農家の男性は、父 親から聞いた話として、遠方の山を指さしながら語ってくれたのです。それは春の初め頃、西にある奥山の平らな稜線 上にいくつかの星が見えると、翌日は入道雲が出て雨になるという内容でした。奥山とは、上川田の西方約 2.5`から 3.5`付近に連なる標高 800bほどの稜線と推測されますが、そこに現れる星の正体が気になるところです。翌日の天 気を予測している状況を考慮し、仮に星を確認するのが前日の夕刻から夜の初め頃とすれば、西天にはプレアデス星団 の姿を捉えることができるはずです。西日本では、この星団が西に入ると風が吹くあるいは天気がくずれるという伝承 が各地にみられますので、それに連なるような見方をしていた可能性があります。

 

〈左〉玉村町の標エノキ/〈右〉星伝承の山並み(沼田市)

 玉村町や沼田市に伝わる星名は、ミツボシ、ナナツボシ(北斗七星)、ヨアケノホシ、ヒグレノホシ(いずれも金星) などで、一般的なものでした。群馬県では、オリオン座三つ星の呼称として、サンジョウサマの系統が普遍的に分布し ており、南東部でサンチョウボシ系の分布域と接しています。たとえば、栃木や埼玉両県との境界に近い板倉町の三つ 星はサンチョウボシと呼ばれ、昔の人たちが星の動きによって時計代わりに利用してきました。さらに、おうし座のプ レアデス星団には、オモツラサマの呼称がのこされています。星名の意味は「お六連さま」で、茨城県や埼玉県、千葉 県など利根川流域に点々と分布がみられます。伝承者は85歳(1913年生まれ)の女性で、十九夜さまや二十三夜さまの 月待行事とともに、下五箇における天気予知についても話してくれました。それは、「この辺りで汽車の音が聞こえる と北東の風が吹き始めた証拠で、そんなときは雨になる」というものです。
 同じ南部の邑楽町で「木の葉が青いときに西風が吹くと雨が降る」というのも観天望気のひとつですが、これも御荷 鉾方面からの雷雲と西風の関係を伝えているようです。なお、同町で記録された星名には、サンチョサマやサンジャサ マ、サンジョウサマなど、多様な三つ星の呼称を確認することができます。
 そして、2011年夏の高山村中山地区の調査では、いずれも炭焼き経験のある86歳(1925年生まれ)と81歳(1931年生 まれ)、80代の男性3人と、70代および80代の農家の女性の計5人から聞きとりを行い、それぞれからサンジョウサマ やサンジョウボシの星名を記録しました。他に北斗七星としてナナツボシとヒシャクボシを、また月の近くに現れる不 特定の星はチカボシという具合に伝承されています。高山村は、かつて冬期に白炭や黒炭の生産が盛んでしたが、残念 ながら生業において星を利用したという話は聞かれませんでした。
 それでも、80代の女性の話で興味をそそられたのは、十五夜の習俗です。中山では、座卓の上に置いた箕の中にぼた もちや里芋、枝豆を供えますが、これらを盗りに歩くのは子どもたちではなく、学校を出たばかりの若者が行うという のです。このような形態はほとんど例がなく、何か重要な意味を示唆しているものと思われます。中山地区の天体にま つわる伝承は、チカボシや月暈に注目が集まっていたようで、なかでも多くの人がチカボシは不吉な星と説明していま した。天気予知でも、「10時頃に雨があがって晴れると、四つ晴れといって天気が長続きしない」と伝えています。四 つは江戸時代の時刻を表す言葉で、現代の午前10時(朝四つ)か午後10時(夜四つ)のいずれかですが、昔から「四つ 晴れに傘放すな」の諺があるように、朝四つのことを指しているようです。
 ところで、上州と言えば冬期に北から西寄りの強風が吹き下ろすことで知られています。そのような伝承をいくつか 取り上げてみましょう。まずは、赤城山に関する事例です。この山域の南側は関東平野の北縁にあたり、冬期の卓越風 は日本海側から乾燥した風となって吹き下ろしてきます。いわゆるアカギオロシと呼ばれる風です。前橋でも、この風 が冬の気候を象徴する要素のひとつですが、一方で「小野子山と子持山の間に雲が出ると風が吹く」とも言われます。 前橋からは北北西の方角となり、これも冬期に吹く風の一種でしょう。
 同じ赤城山を対象とした日和見でも、地域によって見方は全く異なります。みなかみ町の羽場地区は赤城山の北西に 位置しますが、ここでは「天気がくずれて、赤城山の上が空く(晴れ間が出る)と強い風が吹く」と伝えていました。 それを別な表現で語ったのは、中之条町赤岩の農家の男性で、冬に日本海から山を越えて雪交じりの強い風が吹くこと があり、それをフッコシと呼ぶそうです。そうすると、寒さがやってくるとのことでした。また、再びみなかみ町の伝 承で、後閑地区に伝わっているのがタニガワオロシです。こちらは、降雪時に谷川岳から利根川に沿って吹き下る強風 で、たいへん寒いそうです。また、夏期には「バカと雷は西入から来る」との諺があり、同地でも雷雲は西からやって 来ることを示しています。

 

〈左〉高山村の炭焼き風景(黒炭) /〈右〉小野子山と十二ヶ岳

 みなかみ町や中之条町のいずれも、冬期の卓越風が雪雲とともに越後山脈を越えて来る様子を後世に伝えているわけ ですが、星の伝承についてはどうでしょうか。みなかみ町の場合は、サンジョサマ、ヒシャク、アケノミョウジョウ、 クレノミョウジョウ、チカボシなどで、ごく一般的な星名体系です。一方の中之条町には、三つ星の呼称としてサンジ ョウサン、オサンジョサマ、ミツボシがあり、北斗七星もナナツボシ、ヒシャク(ボシ)とやや多様性がみられます。 このうち、三つ星はその動きで時間を知る(計る)星として利用されました。
 星名以外では、みなかみ町羽場地区に「天の川がきれいに見えると翌日は晴れる」という観天望気があり、比較的め ずらしい伝承となっています。興味深いと言えば、中之条町赤岩の十五夜も他所ではみられない形態です。赤岩神社の 近くで出会った80代の女性によると、この家で行っていた十五夜行事は、小麦粉で作った直径10aほどのオソナエを丸 盆に載せて2階の月がよく見える場所に供えるという、至って簡素なものでした。ススキも含めて、他に供えものはし ないという姿勢は、赤岩における収穫儀礼の原点を表現しているのかもしれません。
 耕作地が少ない集落では、周辺の畑地で大麦や小麦、大豆などの主要な食料を生産し、背後の傾斜地では桑を育て年 4回の養蚕を営んできました。ただし、春蚕の桑だけは畑地の縁辺域で栽培するなど、土地の有効的な利用に苦心して いたようです。穀物の主力が麦ですから、小麦粉のオソナエを作ることが精いっぱいの感謝の証であったと推察されま す。

 

〈左〉碓氷川と浅間山 /〈右〉風神札(長野県)

 さて、山と風の深いかかわりについて、もうひとつの事例を紹介しておきましょう。最後の舞台は、中部の安中市で す。北野殿地区は、安中駅の南方で碓氷川と柳瀬川右岸の河岸段丘上に位置する小さな集落で、西方に浅間山の姿を望 むことができます。ここで、二十二夜行事の聞きとりを行った70代の農家の女性から、「浅間山に雲がかかると風が吹 く」という伝承を記録しました。いわゆるアサマオロシと呼ばれる風で、やはり冬の卓越風の一種とみられます。これ は、旧松井田町の上後閑でも確認されており、碓氷川流域では広く共有された伝承かと思われます。
 群馬県の調査を振り返ると、雷や風に関する俚諺、言い伝えなどが意外に多くのこされていたことに気づかされます。 大半を山に囲まれた地域ならではの特性でしょうか。夏期には、西方の山に雷雲が湧き出て風が吹き、通り雨をもたら します。そして冬になれば、日本海から寒気が流れ込み、乾燥した卓越風となって吹き下ろします。そこには、星にま つわる伝承も僅かながら存在することが分かりました。栃木県では、雷をライさまと呼ぶ土地があり、北関東の各地で 雷神や風神を祀るなど、この地方特有の気象条件が、さまざまな観天望気を生み育てる風土となっていたのです。

[2022年初稿]


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延縄に星の声を訊く 【山形県沿岸地方】

 山形県の飛島行は、星の民俗調査と本格的に向き合う原点となった旅でした。それから37年後には山形県の沿岸域を 訪ね歩き、これを契機として調査は一気に全国展開されることになったのです。そこには、東日本大震災の発生が大き な影響を及ぼしていました。今このときに、未踏査の地をできる限り歩いておきたいという思いは、その後の調査に臨 む強い決意を示すものであったのです。
 3日間の予定で調査に出たのは、2011年秋でした。初日はJR羽越本線のあつみ温泉駅から、国道7号線に沿って南 下し、新潟県境の鼠ヶ関まで歩き通しました。この間、鶴岡市の温海釜谷坂、大岩川、小岩川、早田を訪ね、最後の鼠 ヶ関では、古参の漁師宅に伺って聞きとりを行っています。
 飛島や酒田などでは、かつてスルメイカを対象とした伝統的なイカ釣り漁が盛んでしたが、沿岸の南部地域でも同様 のイカ釣りが行われていたようで、その後はヤリイカ漁が主流となった経緯があります。大岩川の80代の漁師によると、 現在の漁は冬イカ(ヤリイカ)漁、マダイの延縄漁、タラ漁などで、新潟県の粟島近海にオオセと呼ばれる好漁場があ るマダイ漁の場合は、山形県ばかりでなく新潟県からも多くの漁船が出漁するとのことです。この延縄には、海底に縄 を入れるソコナワと海中に浮かせるウキナワがあり、いずれも餌は小エビ類を使います。
 漁は夜通し行われるということで、星を利用していた可能性が考えられますが、鼠ヶ関では次のような話を伝えてい ました。それは、夜明け前にアサノミョウジョウ(金星)が現れると、どの船も横一列に並んで一斉に最後の縄入れを したと言うのです。明けの明星の輝きと整列した漁船が織りなす光景は、思い浮かべるだけで身が引き締まります。し かし、具体的な星の伝承はこれひとつきりで、他には星の名も含めてほとんど伝わっていない地域であることが分かり ます。かつてのイカ釣りと星に関する伝承もなく、わずかにナナツボシ(北斗七星)と金星の呼称を記録しただけでし た。これらの地域では、比較的早い段階で伝承が失われてしまったのかもしれません。
 イカ釣具については、小岩川の漁師からスルメイカ漁でトンボとハネゴを利用していたと聞き、やはり佐渡から北国 へ連なる伝播域の一部であると納得しました。ただし、ヤリイカの場合は鉛の錘と番線を組み合わせた別な釣具があり、 イカ鉤も細い竹串に鉤を付けた専用の擬餌鉤が使われます。以前は6月から8月にかけて夏イカ漁が行われ、日本海を 北上するスルメイカを釣り上げていました。
 生産用具と言えば、山形県や秋田県にはモッコと呼ばれる背負い運搬具があり、これが星の名にも繋がっているとい うことで、いくつか情報を収集することができました。モッコには、一般的な縄モッコの他に背負いモッコというのが あり、後者が星とかかわりをもつ用具です。まず、温海釜谷坂で70代の男性二人から聞いたのは、開口部が広く下部は ほそく窄んだ形状の背負い籠で、モッコと呼ぶものがあるそうです。いわゆる逆円錐形の籠で、山仕事へ行くときに道 具などを運んだと言います。さらに、浜辺から砂を運搬する目的で作られたスナショイと呼ばれる背負い具は、木製の 箱型をしており、紐を引くと底板が開いて背負ったまま砂を落とす仕組みになっていました。小岩川でも、釜谷坂と同 じようなモッコを使っていたようですが、呼称は一般的なショイカゴです。通常は畑仕事に使われるほか、漁師の間で も水揚げしたサメを出荷所へ運ぶのに利用しました。
 ところで、沿岸域南部に伝わる風の伝承を整理すると、風位呼称では北の風がアイノカゼ、ヤマセ、シモカゼで、東 の風がヒガシ、ヤマシなど、南東の風はダシで、南から南西の風をクダリ、シカタなどと呼びます。北西の風について は、タマカゼあるいはシタカゼと称しています。マダイの延縄漁では、粟島の方角からクダリが吹き始めると、海は大 シケになると言い伝えられてきました。また風と星の関係では、夜空の星がチカチカ見えると天気が変わる(大岩川) とか、冬に星がチカチカすると天気が変わる(小岩川)など、上空の風の状態を星の瞬き具合で推察していたようです。

 

〈左〉ヤリイカの釣具 /〈右〉鼠ヶ関漁港を望む

 さて、2日目の調査は再びあつみ温泉駅から始めることにしました。今度は、北側の沿岸域を歩きます。駅を出て間 もなく、ポツポツと雨が落ちてきました。最初に現れた温福という小さな漁港に立寄ってみると、係留されていたのは 小さな磯船ばかりで、漁師の姿はありません。この先に改修された米子漁港があるはずなので、そちらを目指します。 集落のある旧道を抜けて7号線に合流すると、前方に漁港の緑地が見えてきました。しとしと降る雨に傘をさしながら 歩いていると、向こうから小さな手押し車を押して来る年配の婦人の姿が目に留まったのです。互いの距離が次第に狭 まり、いかにも庄内人らしい雰囲気を感じたところで声をかけてみました。
 その人は、少し先の暮坪という土地の出身で、84歳(1927年生まれ)になるウメさんです。父親は漁師で、亡夫(1921 年生まれ)も漁師であったことから、長い間マダイの延縄漁に従事した経験があるそうです。ウメさんは夫とともに船 に乗り、いつも一緒に漁を行ってきましたが、こうした夫婦漁師は米子で2組だけだったと言います。既に記したよう に、マダイの漁場は粟島の近海にあり、通常は日暮れに出漁して一晩に3回ほど縄を入れ、翌朝帰ってきました。延縄 漁に使う縄は、かつてアオソ(からむし)の繊維を撚った糸を素材としており、ナイロン糸に比べて海中でも光りにく い特性がありました。したがって、天然素材の糸作りは延縄漁にとって大切な仕事のひとつであったのです。こうして 漁獲されたマダイは、1回の出漁で50〜60箱(250〜300`)になり、1`あたり1500円の浜値がついたこともありまし た。ウメさんの話を聞いていると、漁に出る不安や辛さは感じられず、夫婦でマダイを獲ることを天職と捉えているよ うな気概がみられます。しかも、ウメさんはたいへん優れた星の伝承者でもあったのです。
 夫とともに海上で指標としていた星(群)は7種に及び、以下の通りそれぞれの星について特性をよく認識していた ことが分かります。
◇サンコウあるいはミツボシ:同じような星が三つ並んで出る(オリオン座三つ星)
◇ガヂャガヂャボシ:いくつもかたまった星で、これが出るようになると漁にいろいろな影響が出る(プレアデス星団)
◇モッコボシ:逆円錐形のタラカゴ(背負い籠の一種)によく似た星で、サンコウの前に出てくる。昔は漁のときに 「モッコボシに出会うと西風が吹く」などと言われていた(おうし座ヒアデス星団)
◇ナナツボシ:これらの星たちが上ってくると、そのキラキラした光でタイが迷い一ヵ所に集まってくる(北斗七星)
◇オヤカタボシ:北の空で親方のようにどっしりと構えて動かない星。もし、この星が動けば漁が大きく変わる(北極 星)
◇オヤコボシ:入梅の頃に出る三つの星。真中の星は赤くて大きくオヤボシと言い、その両側に小さなコボシがある。 このオヤボシが強く光ると、その日は大漁になる(さそり座三星)
◇オオボシ:夜明け前に出る大きな一つ星(金星)
 これらは、イカ釣りの星ならぬ「タイ縄漁の星」と呼んでよいかもしれません。21世紀を10年余りも経過したこの時 代に、これだけ詳細な星の伝承を語ってくれた人は数えるほどしかいません。84歳という年齢を考えても、確かな記憶 に基づいたことばの重みは、おそらく漁労を通して培われ必然的に身に付いた感性であったのでしょう。
 聞きとりが終わると、ウメさんはこれから町の病院まで知り合いの見舞いに行くところだと言います。雨の中を引き 留めてしまったことを詫びると、彼女は丁寧に頭を下げて歩き出しました。雨に濡れたことなどは全く苦にもせず、ゆ っくりと力強い足取りで去って行く後ろ姿に、浜で生きてきた女性の逞しさを垣間見る思いでした。
 その後は羽越線で北上し、小波渡駅に近い小波渡漁港を訪ねて、84歳の漁師から話を聞きました。伝承されていた星 名は、ミツボシ、ナナツボシ、ヨアケボシだけでしたが、かつてスルメイカを手釣りしていた時代の釣具として、ハネ ゴとトンボ、ヤマデの3種が使われていたようです。また、タイ縄漁で利用される小エビをアズキエビと呼んでいるこ とや逆円錐形の背負い籠をモッコと称していることなど、新たな知見を得ることができました。

 

〈左〉温海より望む粟島 /〈右〉オヤコボシの伝承

 そして、最終日の調査は、さらに北上して秋田県境に近い吹浦まで足を運ぶことになりました。吹浦は鳥海山の懐に 抱かれた漁港で、入江を利用した旧港の他に新港が整備されています。しかし、いずれも漁船は少なく活気がありませ ん。岸壁で70代の漁師から少し話を聞きましたが、風位呼称や月暈の伝承程度で、星の利用については知らないと言い ます。そこで漁港を諦め、吹浦の集落を歩くことにしたのです。
 暫らく行くと、ある民家の前で出会ったのは、船大工で80歳位の元漁師です。吹浦では、現在サケの定置網や刺網、 ヒラツメガニやワタリガニなどの刺網、それにマダイ、サワラ、トラフグなどの延縄漁が主体で、延縄に使用する餌は アカエビ(約5a)をはじめ、イイダコやイソギンチャクなど漁期によって使い分けられていました。また、子どもの 頃に行われていた伝統的なイカ釣り漁では、ハネゴとトンボという2種類の釣具があったそうです。しかし、星の伝承 に関しては、漁で星を見ることはなかったと言います。星の名も、わずかにアケノミョウジョウとヨイノミョウジョウ を覚えていただけでした。それでも、ひと通りの聞きとりができたことは、大きな収穫であったと思います。
 山形県の沿岸を巡った今回の調査では、何と言ってもウメさんとの出会いが心に響きました。何の前触れもなく現れ、 多くの伝承を残して静かに去って行った姿に、目には見えぬ不思議な力を感じずにはおれません。

 

〈左〉延縄の一種(神奈川県) /〈右〉吹浦の町と鳥海山

  [2022年初稿]


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連絡船の海峡はいま 【北海道渡島地方】

 津軽海峡を挟んで本州と対峙するのは、北海道の渡島半島です。海峡に沿って東に亀田半島があり、西には松前半島 が迫り出しています。かつては、青森港と函館港を結ぶ連絡船がこの海峡のメインルートでしたが、現在は津軽半島と 松前半島が青函トンネルによって結ばれ、交通の要となっています。
 北海道で本格的な星の民俗調査を開始したのは、1976年秋のことでした。当時は、東京発の夜行列車と青函連絡船、 そして道内の列車を乗り継いで移動するのが、若者の一般的な旅のスタイルだったのです。もちろん、宿は各地に点在 するユールホステルを利用しました。1976年1月から2月にかけての旅では、厳寒の北海道内を半月余りかけて廻った こともありましたが、まだ不慣れな調査で本格的な聞き取りには至らず、ほとんど記録を残せませんでした。各地で目 のあたりにした冬の厳しさだけが、深く心に刻まれています。結局、星の伝承を記録できたのはその年の秋以降で、地 域も積丹半島周辺と増毛地方の一部に限られ、その後は北海道そのものが調査地として遠く離れた存在となってしまっ たのです。
 東日本大震災を契機とした全国展開の調査が始まって以来、北海道での再調査は大きな課題の一つとなっていました。 少なくとも、伝統的なイカ釣り漁が盛んであった道南地方の星の伝承に対する関心は、いつの間にか大きな期待へと変 化していたのです。そこには、かつて函館の漁港を訪ねた折に、聞きとり調査ができなかった苦い体験が影を落として いました。津軽海峡を望む渡島半島沿いの漁港を訪ね、イカ釣りと星に関する伝承を何とか拾い集めたい、その思いが ようやく実現したのは、2017年6月になってからです。
 調査は、3泊4日の予定で半島南岸を巡る計画を立て、星の民俗だけでなく社寺境内などに奉納された方位石も対象 としました。40年近い歳月によって調査をとり巻く環境は一変したものの、そこに向かう心はあの頃と少しも変わりま せん。冬の松前町やかつて函館本線の車窓から幾度となく仰いだ駒ヶ岳の山容、青森県の調査で深浦の漁師が出稼ぎに 行っていたという亀田半島の臼尻など、そうした懐かしく興味深い土地を訪れるのが待ち遠しいと思えてならなかった のです。

 

〈左〉大沼と駒ヶ岳 /〈右〉昭和のイカ釣り漁師

 初日の調査は午後の半日だけで、まずは函館空港からレンタカーで函館山に直行しました。展望台に立つと、眼下の 函館市街から東に恵山方面、西は木古内方面へと続く海岸線を望むことができます。明日からの聞き取り調査で、どの ような伝承者とめぐり会えるのか、期待はふくらむばかりです。その後、市内に現存する3ヵ所の方位石を調べました。 これらは、函館漁港に近い実行寺と隣接する称名寺、さらに数百b離れた厳島神社の各境内や墓地にあり、いわゆる日 和山と呼ばれる地形ではない場所に集まっている状況は、たいへんめずらしいと言えるでしょう。ただし、二つの寺院 は当初別な場所にあったようで、方位石の設置も本来は日和山に似た環境であったかもしれません。
 ところで、実行寺には妙見堂があり、北前船の廻船業で名を馳せた高田屋嘉兵衛と深いかかわりがみられます。また、 厳島神社の方位石は地元の廻船問屋によって寄進されており、北前船と日和山(方位石を含む)の関係をめぐる背景に は、妙見信仰あるいは北辰(北極星)や北斗に対する篤い信仰心が隠されているようです。
 2日目は、函館から江差までの行程で、海岸線を西へ辿ります。最初に訪ねたのは、茂辺地漁港でした。岸壁では、 漁を終えて船の片付けをしていた夫婦がおり、仕事が一段落したところで話を聞くことにしました。この人は77歳( 1940年生まれ)の漁師で、現在は夫婦でホタテの養殖をやっているそうです。かつては、伝統的な手釣りのイカ漁に従 事した経験があり、当時利用していた星の伝承を語ってくれました。それは、ムジラ(プレアデス星団)の出に始まり、 アカボシ(アルデバラン)、サンコウ(三つ星)、アオボシ(シリウス)と連なる冬の星々でした。夜中に、これらの 星の出を見てイカを釣っていたということで、特にムジラやサンコウ、アオボシの出にはイカがよく釣れたと言います。
 当時のイカ漁は、手漕ぎの木造船に4〜5人が乗り込み、夕方から翌朝までトンボとハネゴと呼ばれる2種の釣り具 を使い分けながら、ほぼ一晩中スルメイカを釣りました。船の中央付近には仄暗い灯火があり、船首と船尾付近はその 陰になるためイカが浮上してきます。そこをすかさずハネゴで釣り上げていたのです。釣り手は船主に雇われたノリコ と呼ばれる人たちで、多くは地元で船を所有しない漁師でした。ノリコは、各自が釣ったイカの3割を船主に渡してい たと言われます。
 風の伝承については、アイ(北の風)、ヒガシ(東の風)、ヤマセ(南東〜南の風)、ヒカダ(南西の風)、ニシ( 西の風)、ホクセイ(北西の風)という具合に呼び分けており、このほかにヤマセの一種で、秋口になると吹くヨイチ と呼ぶ特別な風がありました。これは夕方から吹き始める強風で、津軽方面から黒い雲を発生させ、西から北へ次第に 風向きが変わって海上は大荒れとなります。
 次の当別漁港では、漁師の姿はあったものの聞きとりができず、木古内に入って82歳(1935年生まれ)の漁師から話 を聞きました。星の伝承は、ムジナボシ、アカボシ、ミヅボシ、アオボシ、ヨアケボシで、これら目あてにした星の出 が時間の経過を示し、それによって潮目が変わるのでイカが釣れるということです。この辺りのイカ釣りは、8月から 夏イカ漁が始まり、10月から秋イカ漁の最盛期となり、11月〜12月にかけてはゴドリイカ漁が行われます。使われた釣 具は、やはりハネゴとトンボの2種です。
 釜谷を出て泉沢、札刈、中の川、涌本へと進みますが、いずれも小さな漁港で漁船がなかったり、漁師と出会えずに 終わりました。3人目の聞きとりができたのは、福島町の福島漁港で、やはり70代のイカ釣り経験者です。利用された 星は、北斗市や木古内町とほぼ同じで、その呼称も変化がみられません。星の出とイカ漁の関係では、釜谷の漁師と同 じように星の出によって潮の変化を見ていたことが分かります。トンボやハネゴのイカ釣具も数十年前まで使われてい たようで、積丹半島での調査時にはまだ現役であったのかもしれません。
 調査は、やがて松前町へと移りました。最初の白神漁港でひと通りの聞きとりを行ったあと、町の市街地にある法華 寺を訪ねました。日蓮宗の寺院で、高台にあるため緩やかな参道を上り詰めると、木の間から港を遠望することができ ます。ここには、山門の近くに方位石があるはずで、それを探しました。しかし、重要な目印となる山門は既になく、 新しい住居も建てられていて方位石は見つかりません。寺の人に尋ねるなどしてようやく探し当てたものの、物陰で笹 薮の中に埋もれていました。盤面や側面の一部で剥落が認められたのは、残念なことです。全国的にも貴重な文化財だ けに、何とか良い状態で保存されることを願うばかりです。
 松前では、その後札前漁港と原口漁港でも聞きとりを行うことができました。札前の70代の漁師は、かつてのイカ釣 りにおいてカップと呼ぶ星を利用していたと教えてくれました。カップというのは、プレアデス星団の形を食器に見立 てたもので、この星がかしがって(傾いて)きたら潮が変わり、イカが釣れると伝承されています。原口漁港でも、83 歳(1934年生まれ)の漁師が、ウヅラ(プレアデス星団)、ミツボシ、アオボシ、アケノホシと続くイカ釣りの指標星 を伝えていて、津軽海峡沿岸域には予想以上に星の伝承がのこされれていることを知りました。なお、松前でのマイカ (スルメイカ)漁は、概ね6月に入ると夏イカ漁が始まり、10月からの秋イカ漁を経て12月以降のゴドリイカ漁まで3 回の漁期が設定されています。このあと、上ノ国町の小砂子漁港で少しだけ話を聞いてから江差へ行き、この日の調査 を終えました。

 

〈左〉函館山からの眺望 /〈右〉沿岸域の漁師村

 3日目は、早朝に宿から歩いて鴎島の厳島神社にある方位石を見に行きました。島と言っても、今は新港の岸壁によ って陸続きとなっており、周辺の岩礁帯から小高い平坦地にかけて遊歩道が整備されています。方位石は、島の東岸か ら港を遠望する位置にあり、手水石と方位盤が一体となっためずらしいタイプです。1859(安政6)年に「村上客舩中」 の銘で奉納されたもので、寄進者はその関係者とみられます。江差は、北前船が寄港する最北の湊でしたので、鴎島の 東岸には、かつて多くの北前船が停泊に利用した係船杭の跡が遺されています。往時の賑わいを偲びながら漁港に立寄 ってみたものの、生憎漁師の姿はなく聞き取りはできませんでした。古い歴史をもつ江差の街だけに未練はありました が、松前半島の調査はここで区切りをつけ、一気に東進して亀田半島を目指すことにしました。
 途中、大沼公園で小休止したあと、鹿部町の鹿部漁港から調査開始です。全体によく整備された漁港で、船も多く見 られましたが、昼を過ぎた時間帯で人影はほとんどありません。暫らく待っても漁師が現れる気配がないため、やむな く先を目指します。 278号線を南下するとすぐに函館市に入り、小さな大舟漁港に出ました。小船がたくさん係留され ていますが、漁師の姿はやはりないようです。次の臼別漁港でようやく漁師に出会えたものの、聞きとり可能な伝承者 とはめぐり会えず、なかなか記録を残すことができません。それでも、次の川汲という小漁港で漸うその機会を得まし た。
 漁港の一角で出会った人に誰か古い漁師さんがいないか尋ねたところ、近くに住む85歳(1932年生まれ)の元漁師を 紹介してくれました。早速訪ねてみると、調査の依頼を快く承諾し、1時間ばかり話を聞くことになったのです。川汲 では、昔からイカ漁を主体としてスケソウダラやマスなどを対象とした漁を行ってきましたが、近年はいずれも不漁続 きとなっているようです。イカ漁の主体はマイカ(スルメイカ)で、6月から夏イカ漁が始まり、10月からは秋イカ漁 となります。さらに、11月末から12月にかけては正月用のゴドリイカを獲っており、西部地域(松前半島)とほぼ同じ です。往時のイカ釣りは、カワサキと呼ばれる手漕ぎの船に4〜5人が乗り込み、昭和30年代まではトンボやハネゴな どのイカ釣具が使われました。ノリコは大方地元の人たちですが、青森県から出稼ぎに来る漁師もいたようで、以前聞 いた深浦の漁師の話と重なります。こうしたノリコたちは、自分が釣ったイカの3割を船主に納めるのが習わしであっ たとされています。
 イカ釣りの際に指標となった星は、ムヅラボシ、アカボシ、ミツボシ、アオボシ、アケノミョウジョウで、他にヒト ツボシ(北極星)やナナツボシ(北斗七星)も伝承されていました。こうしてみると、渡島半島南部沿岸域において伝 承されてきた星は、その利用形態や呼称に関して、ほぼ一様な分布特性を示しているようです。特にプレアデス星団に ついては、いわゆるスバル系の呼称がほとんど記録されていない点を考慮すると、ムツラボシ(六連星)系の伝承が優 占する地域とかかわりがあるのかもしれません。

 

〈左〉江差・鴎島の方位石 /〈右〉北前船の係留跡

 川汲から先は、尾札部、木直、古部に立ち寄り、さらに恵山岬手前の椴法華漁港での聞きとりが、最後の調査記録と なりました。ここでは、60代の若い漁師から「スルメイカ漁では、サンコウの出やアオボシの出を待ってイカを釣った」 と聞き、比較的遅い時代まで星の伝承が生きていたことを改めて認識させられたのです。
 恵山岬に立寄ると、灯台が初夏の陽光を受けてキラキラと輝き、すばらしい景観をみせてくれました。この岬の右は 津軽海峡で、左に向かえば内浦湾(噴火湾)へと至ります。調査時間も残り少なくなるなか、函館までの沿岸域に点在 する漁港をできる限り訪ねて、今回の旅を閉じることにしました。

 

〈左〉亀田半島の昆布干し /〈右〉恵山岬の灯台

[2022年初稿]


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