第2章 生活のなかの星

1 生業と星

 生業における星の利用については、第1章でも随時ふれていますが、ここでは具体的な伝承事例をもとに整理して みましょう。

【 製 炭 業 】
 埼玉県では、星の利用が顕著に認められる生業です。一般的な黒炭ではなく、白炭の生産に伝承が集中しているの は、その製炭方法や工程が日々の暮らしと密接にかかわっていたからです。作業工程としては、まず窯造りや樹木を 伐採して原木を作るなどの準備作業があり、そこから@原木を窯内に並べる⇒A火を入れる⇒B精錬させる⇒C炭を 掻き出す⇒D消火する⇒E俵に詰めるという手順があり、通常は1〜3日毎に@からEの作業を繰り返すことになり ます。窯が造られる場所は山間地が多いため、通常は夜明け前には家を出る必要があり、そのような状況で星を利用 したケースが多く報告されているのです。
 下の図は、利用の実態を模式的で示したものですが、県内ではオリオン座の三つ星とからす座四星の利用がほとん どです。始めに、オリオン座ではTタイプの事例として吉田町に「ミツボシサマが上がったらもう起きなければなら ない」というのがあります。この場合は、夏の夜明け前に三つ星の出を見ていたことになります。また、名栗村の伝 承で「冬場はミツボシの高さを測って時を知り、朝食を食べると草鞋を履いて家を出た」というのは、図のV型の事 例を示しており、皆野町の「サンジョサマが西へ行くと夜が明ける」というのも同じです。
 一方、からす座については、
・カワハリは筵のような形の星で、この星が沢を跨ぐと夜があける〔秩父市〕
・カアハラサマが二子山付近から全部出きると夜が明ける〔横瀬町〕
などの伝承があって、いずれも図のW型に相当する事例といえます。

炭焼きにおける星利用の模式図

 こうした星の利用が近隣の都県を含めて広く行われてきた背景を考えると、一つにはこの地域における炭焼きの形 態が白炭の生産を主体として、それに適った生活誌が展開されたこと。気象や地形、植生など山地特有の環境要因の 存在。そして、何よりも人びとが星の出没や位置、動きなどに大きな関心を抱いていたことを挙げることができます。 三つ星とからす座の四星は、炭焼きのみならず山の暮らしそのものに不可欠な存在となっていたのです。

 

〈左〉炭焼きの窯 /〈右〉白炭の生産風景


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【 農 業 】
 最も基本的な生業ですが、星の利用に関する伝承は多くありません。かつての主要作物であった麦作では、所沢市 に「秋にヨツボシ(からす座)が東の空に顔を見せると麦播きを始めるが、四つの星が全部上がってからでは麦播き はもう遅い」という伝承があります。麦の栽培については、気象条件や地形、土壌などによって土地それぞれの適期 があり、旧暦の時代においては、それを自然歴などで的確に把握する必要がありました。その一つの手段として、星 の利用が行われてきたわけです。
 所沢市の播種期をみると、11月上旬から11月20日ころというのが一般的で、これはからす座が夜明け前の南東の空 に姿を見せるのと一致しています。四星のうち、最初に現れるγ星と最後に出てくるβ星の日数差は約10日間で、こ れほど頼りになる指標はありません。県外では、おうし座のプレアデス星団やうしかい座のアルクトゥルスを利用し た事例も知られています。
 稲作では、具体的な利用事例が見あたりませんが、宮代町に「秋にトマスノホシが出ると豊作になる」という伝承 がのこっています。トマスノホシはペガスス座の三星とアンドロメダ座のα星がつくる大きな四辺形で、秋を代表す る星です。伝承では、豊作になるという表現が使われていますが、おそらく星の出がたわわに実った稲の収穫時期を 教えてくれるという意味でしょう。
 ところで、麦作がさかんであった時代には、その輪作物としてサツマイモの栽培も広く行われてきました。当時は、 苗床で育てた苗を5月ころ麦の畝間に植え付けると、麦の収穫後に成長して秋には掘り出されます。所沢市には「サ ツマイモ掘りの時は、クレノミョウジョウ(金星)を目あてにした」という伝承があり、日に日に日没が早まるこの 時期にあって、西空で輝き始める金星を気にかけながら芋掘りをしていた様子が偲ばれます。県内にも、星の出を見 て一日の仕事を終えるという暮らしのリズムが存在していたことを示す数少ない事例の一つといえるでしょう。

 

〈左〉小麦の麦秋風景 /〈右〉サツマイモの苗床


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【 夜 業 】
 秋から冬にかけては、夜長の季節です。農家では、こうした時間を利用してさまざまな作業をこなしていました。 いわゆる夜なべの仕事です。こんなところにも、星が活かされていたのです。利用が集中するオリオン座の事例をい くつか挙げると、
・サンチョウサマが出たら、夜なべ仕事を終える〔八潮市〕
・サンジョウサマがおひる(真南へくること)になるまで夜なべ仕事をした〔寄居町〕
・昔は、ミツボシサマが西に傾くまで奉公人を働かせていた〔入間市〕
 最後の事例は、かつて東北地方などからの奉公人(農家の手伝い)を住まわせていたころの話で、雇い主である農 家の人びとの心情とともに、当時の社会構造の一端を窺い知ることができます。
 さらに、東松山市には次のような里謡が伝わっていました。
♪主人出てみろ ミツボシゃどこだ ちょうど夜なべの終いごろ
 これは、おそらくかつての機織り唄の一つで、機屋の織り子たちが主人に対して、ミツボシがもうあんなところま で来た、夜なべを終わりにしてもよい時分だと言っているようです。実は、これに類似した里謡が、東京都多摩地方 から神奈川県へと続いていた「絹の道」に沿って点々と伝わっています。このミツボシの唄は、どこで生まれ、どの ように歌い継がれていったのでしょうか。

 

〈左〉星の動きは時計の代用 /〈右〉藁打ち用具の槌


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【 行 商 】
 浦和市の大門で出会った90歳(明治40年生まれ)の女性から、「昔は、ヨアケノミョウジョウを目あてに野菜の荷 売りに出かけた」と聞いたことがあります。娘時代の話ですから、大正から昭和初期のころでしょうか。荷売りとい うのは、荷車に商品を積んで売り歩く行商のことですが、この場合は最寄りの駅まで荷車で運び、その後は電車で目 的地まで行って荷を背負って売り歩いたようです。
 県内では、各地でこのような行商が行われていたと考えられますが、そこに星の利用が介在していたことはめずら しいケースといえます。


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2 暮らしと星

 日常生活で星を見る目的の多くは、時を知る、方位を知るというパターンですが、県内では前者に関する記録がほ とんどです。利用の対象は、おおぐま座、からす座、オリオン座、金星などで、特にオリオン座三つ星については、 ほぼ全県的な分布を示しています。

【 時を知る 】
 夜空に輝く星々は、いつも同じ場所に留まっているわけではありません。星が動くということ、そして季節によっ て移り変わるという事象は、天文の知識などがなくても古い時代から知られていたことでしょう。特徴的な星(群) で、程よい高さを動き、人びとの目に留まり易いという条件を満たせば、利用価値が高いということになります。
 オリオン座の三つ星は、これらの条件をすべて満たす星であり、全国的にも時を知る星の筆頭に挙げられます。そ して、県内での利用実態をみると、いくつかのパターンがあることに気付きます。
A 東の空から上がるとき
B 中天にかかったとき
C 西空へ移ったとき
D 特定の位置まで移動したとき
E 任意に動いた範囲を見定めるとき
 伝承事例の利用パターンを地域別に集計した表を以下に示しました。

時を知る星の利用パターン
類 型 秩父郡 比企郡 入間郡 児玉郡 大里郡 北埼玉郡 北足立郡 南埼玉郡 北葛飾郡 合 計
     
               
           
      15
             

 また、どのような目的のために利用したのかをみると、時計の代用が11例と最も多く、夜明けや起床にかかわるも のが9例、就寝の目安としていたもの8例、その他5例となっています。これらを整理すると、県内の日常生活でオ リオン座の三つ星を利用していたのは、時の認知を基本に起床や就寝を主な目的として、三つ星が特定の位置にくる、 あるいは東の空や西の空にあるのを見定めるのが一般的であったといえます。  なお、オリオン座以外では、からす座四星の利用が6例、金星が4例、おおぐま座1例の記録があります。


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【 方位を知る 】
 海上においては、航海であれ、漁業であれ、方位の把握は最も重要な情報源の一つです。陸上においても、砂漠や 熱帯雨林など特殊な環境にあっては同じことがいえるでしょう。いずれの場合も星によって方位を知るのは容易で、 これに日月の動きを加味すれば、さらに多くの情報を得ることができます。
 ただし、埼玉県のような内陸部では、星を利用した方位の認知はあまり行われていなかったものと推察されます。 調査でも、記録できた事例はわずかで、寄居町に「昔は、ナナツボシ(北斗七星)を見て方角を確かめていた」と伝 わる程度です。北極星や北斗七星を北の方位を知る手段として利用するのは最も基本的な方法ですが、北の空を周回 する北斗七星の動きは、ほとんど動かない北極星に比べるとより注目されていたのかもしれません。

北極星と北斗七星の位置


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【 気象予知 】
 特定の星(群)によって気象を予知する伝承が、いくつか知られています。ただし、具体的な根拠は不明で、科学 的な裏付けも認められないという事情を考慮する必要があります。
 寄居町では、サンジョウサマ(三つ星)を見てその日の天気を予想していたと聞きましたが、具体的な判断の内容 は伝わっていません。これに関連して、大里村には「サンチョウサマ(三つ星)がよく出なければ雨が降る」という のがあり、おそらく三つ星の見え具合によって天気を予想していたのではないかと推測されます。
 一方、おうし座のプレアデス星団による天気予知が幸手市にありました。その内容は、「オマツルサマがよく見え ると天気になる」というものです。この星団がはっきり見えるということは、空が澄んで透明度が高い状態であり、 大気が安定していて晴れる確率が高いと考えたのでしょうか。これに関しては、何らかの裏付けをもとに伝承された 可能性があります。
 一般に自然歴と呼ばれる伝承は、永年に亘る観察や経験則に基づくものが多く、その地域の暮らしに有用と思われ る事例が少なくありません。ただし、俗信的な内容になると明らかに迷信と判断される場合も多々あり、しっかりと した見極めが必要でしょう。


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【 そ の 他 】
 小鹿野町では、少しユニークな伝承を記録しています。「若いころは、夜遊びに出るとよくスイノウボシ(プレア デス星団)を見ていた」というもので、いわゆる娯楽と星のかかわりを示す貴重な事例です。なぜ、スイノウボシを 見ていたのか分かりませんが、星の動きで時間を計っていたのかもしれません。
 そのほか、もらい風呂に行ってサンジョノホシを見た〔深谷市〕とか、二夜様(二十二夜待行事)に行く道でサン ジョサマをよく眺めた〔花園町〕などというのがあります。


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3 行事と星

 かつては、日常生活の節目にさまざまな行事が行われてきました。それらのなかには、日月星とかかわりの深いも のがあり、現在も一部の地域で細々と継承されています。また、旧暦(太陰太陽暦)を前提として成り立っていた行 事では、明治5年に新暦への移行(グレゴリオ暦で明治6年となる)後に大きな変容を余儀なくされたケースもみら れます。

【 十 五 夜 】
 一般的には、中秋の名月である旧暦8月15日夜の月をまつる行事で、9〜10世紀ころに中国から伝来したとみられ ています。本来は観月、いわゆる月見の行事として知られ、都市部などでは名所と呼ばれる地がいくつかありました。 これは、近世の浮世絵などにも描かれています。
 一方、農村部などでは、農耕儀礼としての要素をもった十五夜行事が広く行われてきました。埼玉県もその一つで、 後に行われる十三夜と併せ、さまざまな習俗が認められます。こうした十五夜の民俗を特徴づけるものとして、
・行事の象(場所、供え方、供えものの種類など)
・供えものをめぐる「盗み」の儀礼
・十五夜の伝承
などがあり、これらの項目に沿って県内の行事を掘り下げてみたいと思います。

 

〈左〉中秋の名月 /〈右〉伝統的な十五夜

 その前に、十五夜を実施する日付について、みておきましょう。そもそも、十五夜は旧暦の各15日にめぐってくる 満月(望)のことで、特に中秋がよいとされてきたわけです。したがって、近世から1872年の改暦までは旧暦の時代 でほとんど問題はなかったのですが、改暦以後は大きな混乱が生じることになりました。つまり、新暦の8月15日は 最早中秋ではなくなってしまったのです。結果的に、中秋の名月は毎年異なる日付となり、このことが新暦の9月15 日に十五夜行事を実施するという変化を生み出すきっかけとなりました。
 県内の伝承事例をみると、両者の実施比率は約7:3で、満月かどうかにかかわりなく新暦の9月15日に十五夜を 行っていた事例が3割近くあったことが分かります。こうなると、最早行事そのものの意義が見失われ、形骸化が進 行していたことになります。因みに、9月15日という日付は、旧盆などと同様に「月遅れ」という考え方に基づくも ので、この日付自体に重要な意味はありません。

◆ 十五夜の象
 この行事は、基本的に個々の家庭で行われてきました。当日の晩に、月への供えものを設えるのが典型的な象です が、どこに、何を、どのように供えるのかは、地域により特色がみられます。ただし、同じ地域であっても形態が異 なる場合があり、明確な区分として捉えるには難しい側面があるようです。
 まず、供える場所については、月を眺めることが可能であればどこでもよいといえますが、県内ではかつての民家 で多くみられた縁側の利用が一般的でした。他に庭や玄関などの事例があるものの、わずかです。
 供え方は、大方が縁側に置いた台や机の上に並べるというもので、県内全域に分布します。ところが、西部の入間 郡や比企郡、秩父郡を中心とした地域には、農具の一種である箕の中に供える慣習があり、特に入間郡では古い農家 で顕著にみられます。このようなスタイルは、周辺の都県や東北地方、山陰地方など各地に点在しています。もう一 つ、事例は少ないものの脚付き膳に供えものを載せる形態が県西部にありますが、これは主に箕の利用域において、 台や斗桝、膳などと組み合わせて使うなどの変化をみせています。
 次に、供えものの内容を整理しておきましょう。ススキは別項で扱うこととし、ここでは「作りもの」「芋類」 「他の野菜類」「果物類」に分類してみました。これらの組み合わせが、各地における供えものの実態となります。 聞き取り調査で記録された作りものは、饅頭、団子、おはぎ、うどん、餅の5種で、芋類はサトイモとサツマイモの 2種、他の野菜としては大豆や小豆などの豆類を中心にトウモロコシ、ナス、スイカ、カボチャなどが含まれます。 また、果物類の筆頭はカキとクリですが、他にリンゴやナシなども供えられます。下の表は、郡ごとに利用された 供えものの事例数(複数回答を含む)を集計したもので、いくつかの特徴が示されています。

十五夜の供えもの
内 容 秩父郡 比企郡 入間郡 児玉郡 大里郡 北埼玉郡 北足立郡 南埼玉郡 北葛飾郡 合 計
 饅 頭  14 18 64
 団 子  15   46
 おはぎ          14
 うどん               
 餅                 
 芋 類  17 23 77
 豆 類              11
 他の野菜          12
 果物類  16 10 22 81

 十五夜の作りものといえば、米粉を使った団子が一般的ですが、県内ではそれよりも小麦粉で作る饅頭を供える事 例が多く、全域に及んでいます。しかも、通常の蒸かし饅頭(餡入)だけでなく、酢や炭酸入りなど地域によってい くつかの種類があり、おはぎも含めて団子と組み合わせて供える場合も少なくありません。
 サトイモの位置づけについては、これを農耕儀礼的要素の一部と捉える考え方がみられます。残念ながら、調査で は十五夜とサトイモを直截的に結び付けるような民俗儀礼は確認されませんでした。県内では、ほぼ全域でサトイモ の事例があり、供え方をみると生のままの場合と煮物として供えるという二通りに大別できます。いずれも、それな りの理由があっての習俗と思われますが、明確な回答は得られませんでした。
 その他の野菜類では、大豆や小豆の事例が秩父、入間、比企の3郡にみられます。秩父市浦山地区や名栗村で十三 夜に供えられていたのが小豆であったことを考えると、これらは十五夜の芋名月、十三夜の豆名月という区分を示唆 しているのかもしれません。カキやクリに関しては、特に注目すべき伝承はみられないものの、これらは果実の部分 だけを盛り付けて供えるというより、枝に付いた状態で花びんなどに挿されるケースが多いようです。

◆ ススキと十五夜花
 ススキ(茅)は、十五夜(あるいは十三夜)に欠かせない植物です。県内の事例をみると、他の供えものは省略し てもススキだけは供えるというところが多くあります。ススキが日本人の暮らしに有用な植物であったことは、今更 述べるまでもありませんが、その一方で民間信仰においては魔除けの効力をもつ存在であると考えられてきました。
 実は、そのことを示す伝承を県内の十五夜行事から見出すことができるのです。それは、十五夜が終了したあとの ススキの処理にまつわる習俗に隠されていました。以下に、代表的な事例を概観してみましょう。
a 十五夜が終わると、供えたススキを自宅のクネ(垣根)にさしておく〔浦和市、川越市、行田市、所沢市、美里町〕
b 十五夜のススキは、捨てないで物置の茅葺屋根の裏にさしておく〔川本町、三芳町〕
c 十五夜のススキは、瓶にさしたまま自宅の門口や道路の辻などに置いておく〔行田市〕
d 十五夜の朝は、自宅裏の杉の木に縄を巻いておき、翌朝になったら十五夜に供えたススキをそこにさし、翌年の 小正月に取り払う〔川越市、狭山市〕
e 十五夜が終わると、ススキは川へ流してしまう〔久喜市、杉戸町〕
f 十五夜が終わると、供えたススキは畑に立てておく〔栗橋町〕
 これらのうち、a〜dについてはススキを神聖な植物として、そこに魔除けの効力を期待する信仰の名残が認めら れます。事例数としてはaの「垣根にさす」タイプが最も多く、特に入間郡の武蔵野台地で顕著な分布を示します。 同様の習俗は、関東地方の他の都県でもみられることから、ある程度普遍的な伝承に基づくものと考えられます。一 部の地域では、ススキの容器に敢えて水を入れないという事例がいくつかあるものの、その真意は不明です。
 ところで、十五夜(あるいは十三夜)にはススキといっしょに季節の花を添える地域が少なくありません。県内で は一般に十五夜花と呼ばれ、シオンを筆頭に野菊の仲間(ノコンギク、カントウヨメナ、ユウガギクなど)、オミナ エシ、ワレモコウ、キキョウなどが知られています。シオンは古くから観賞用として栽培される植物で、全国的に十 五夜花の異名をもっています。県内でもほぼ全域で利用されてきましたが、入間郡ではオミナエシや野菊の仲間など かつての里山を代表する植物が多く使われました。

 

〈左〉畑に立てられたススキ /〈右〉十五夜花のシオン

◆ 供えものをめぐる「盗み」の儀礼
 この行事における特徴的な習俗の一つに、子どもたちが主役となって供えものを盗んだり、あるいは貰い歩くとい う行為が全国各地で知られています。県内でも、図で示したように西部および北部の台地・丘陵帯や山間部を中心に 行われていました。
 本来は、こっそりと盗む行為に大きな意味があったと考えられますが、秩父郡や入間郡などでは、盗むのではなく 家人から供えものを分けて貰うというパターンが定着しています。いずれにしても、月に捧げられた供物がその場か ら他人(特にこどもたち)に委ねられるという事象を通してその年の豊作に感謝し、さらに翌年の豊作を祈願する儀 礼的な性格が表現されたものとする指摘がみられます。
 ただ、県内の南東部一帯では、このような習俗を全く記録できなかった地域があり、供えものは行事のあとで家族 が食べるものだとする伝承があります。調査年度の開きよる行事の衰退や地域コミュニティの喪失など、社会的な要 因による可能性も含めて、さまざまな視点をもった解釈が必要と思われます。

供えものをめぐる儀礼の分布

◆ 十五夜の伝承
 調査によって記録された十五夜(あるいは十三夜)の伝承は、主に三つの類型に分類することができます。一つは 供えものに関する内容で、
a 十五夜の供えものを盗んで食べると、よいことがある〔北本市〕
b 十五夜によその家の供えものを貰って来ると運がよい〔川里村〕
c 十五夜さまや十三夜さまの供えものを盗まれると豊作になる〔岡部町、大里村〕
d 十五夜の供えものを盗まれた家ではカイコがよくあたる〔深谷市、滑川町〕
e 十五夜の供えものを盗られると、その家には幸せがくる〔川本町〕
f 十五夜や十三夜の供えものは年寄りが食べるもので、もし若い者が食べるとなかなか嫁に行けなくなる〔羽生市〕
などがあります。多くは供えものを盗む(貰う)側も持っていかれる側も吉とする考え方が基本にあるようです。最 後の事例は、月の朔望周期のように国巡りをするとか堂々巡りをするからよくないという伝承を踏まえた見方と思わ れます。
 二つ目は、十五夜の日の天気と農作物の作柄に関する伝承で、代表的な事例を挙げると、
g 十五夜に曇りあれども、十三夜に曇りなし〔上里町〕
h 十五夜には雨が降ってもよいが、十三夜には降るな〔児玉町〕
i 十五夜に天気がよければ麦がよくとれる〔行田市、美里町〕
j 十三夜に雨が降ると小麦がとれない〔羽生市〕
k 十五夜に雨が降ると翌年の大麦が不作、十三夜に雨が降ると翌年の小麦が不作〔毛呂山町〕
などが記録されています。これらは、単に十五夜や十三夜の天気について伝承されたものと、そこに麦作の作柄を占 う内容が付随したタイプに大別できます。kの事例では、十五夜と大麦、十三夜と小麦の関係が明確に位置づけられ ていますが、背景には大麦と小麦の播種期および収穫期の違いなどが反映されているものと推察されます。
 さて、最後の主題は十五夜と十三夜を一括りの行事とみなし、どちらか一方だけの月見を忌むという伝承です。
l 片見月はいけない。十五夜を見たら必ず十三夜も見るようにする〔所沢市、入間市、嵐山町〕
m 十五夜を自宅で迎えたら十三夜も必ず自宅で迎える。もし親戚などへ行って十五夜を眺めたら、十三夜もその家で 迎えなければならない〔北本市、小鹿野町、皆野町、小川町〕
n 片月見はよくない。もしどこかへ出かけて月見ができないときは、供えたものを残しておいて帰って来てから食べ させる〔都幾川村〕
o 片見月をすると病気になる〔本庄市〕
p 十五夜が天気だと十三夜には月が見られない。反対に十五夜が曇ると十三夜は晴れるので、どちらも同じものを進 ぜる〔小鹿野町〕
 現行のグレゴリオ暦では、中秋の名月となる日は毎年9月上旬ころから10月上旬ころまで大きく変化します。日本 では、この時季に秋雨前線の活動が活発になってぐずついた天気が多くなる傾向にあり、関東地方などでは雨模様の 日が続くこともめずらしくありません。こうした状況で十五夜を迎えても、月が見られないとなれば行事としての意 味は弱く、豊作祈願は心もとない状態に陥ってしまうでしょう。そこで、比較的晴天に恵まれる確率が高い10月以降 に再度類似の行事をセットし、いずれが晴れても納得できるように、人びとが自分自身への戒めとして片見月を強く 避けてきたのではないかと考えられます。なお、伝承では片見月と称する地域が多くありましたが、本来は「片月見」 と呼ぶべきではないでしょうか。事例は少ないものの、記録はあります。


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【 タナバタ 】
 七夕といえば、織女(おりひめ)と牽牛(ひこぼし)の会合説話で代表されるように、現在ではいわゆる星物語の 行事として取り上げられることがほとんどです。しかし、日本では農山漁村の民間で行われるタナバタ行事に天文と の結び付きを示す要素は少なく、一部の地域にのこされている星の伝承(星の名や物語など)も、その起源は中国伝 来の考え方や習俗に基づくものです。
 したがって、埼玉県におけるタナバタの民俗についても、一部の伝承を除けば天文と直接かかわる行事ではないこ とを理解しておく必要があります。なお、ここでは中国伝来の説話や乞巧奠[きこうでん]などを主体とした行事を 七夕[しちせき]とし、在来の信仰や習俗をベースとした行事をタナバタと表記することにします。
 さて、県内のタナバタ行事については、既にさまざまな調査・研究報告があり、分布状況や地域的な特色を含めて ほぼ全体像が明らかにされています。基本的には、それらを踏襲した枠組みでの記述となりますが、それに加えて天 文民俗的な考察も若干行ってみたいと思います。
 調査記録によるタナバタ行事を概観すると、短冊などを付けた笹竹を立てるだけでなく、そこにマコモやチガヤな どで作った馬(タナバタ馬)を供える地域、あるいはネムノキの枝葉を添える地域などがみられます。これらとは別 に、いわゆる供えものと称して朝や昼に饅頭、うどんなどを進ぜるところも少なくありません。さらに、行事の締め くくりとして笹竹やタナバタ馬、ネムノキなどを川や水路に流すことが、ほぼ共通した習俗となっています。
 一部の地域では、タナバタの来訪神を示唆する伝承もあることを考えると、笹竹はそうした神の依代として重要で あり、最後のタナバタ流しは神を送り出す儀礼と捉えられなくもありません。ただし、この神の正体についてはさま ざまな見方があり、タナバタが盆を迎える前段の行事と位置付けられる場合は、祖霊神との結び付きが強くなります。 いずれにしても、埼玉県のタナバタは全般的に農耕儀礼的な要素をもち合わせた行事であるといえるでしょう。

 

〈左〉笹竹に付けられた短冊 /〈右〉雌雄のタナバタ馬

◆ タナバタの日
 行事が実施される日(期間)については、これまで特に注目されることがありませんでした。本来は旧暦7月7日 が伝統的なタナバタの日ですが、調査で記録されたのは秩父郡のわずか1例です。各地の実施日を集計すると、予想 外に多様な日程で行われていたことが分かります(表参照)。

タナバタの日の分布
実施日 秩父郡 比企郡 入間郡 児玉郡 大里郡 北埼玉郡 北足立郡 南埼玉郡 北葛飾郡 合計
新暦7/6-7           10
新暦7/7            
新暦7/16-17                
旧暦7/7                
新暦8/6-7 37
新暦8/6-8           11
新暦8/7             10
新暦8/7-8              

 最も多いのは、新暦8月6〜7日の日程で、8日を含んだ事例まで含めると実に8割以上が月遅れで実施していま す。これは、盆行事の日程と深くかかわっており、ほとんどの事例が8月中旬の盆迎えの一週間ほど前に設定されて いることになります。
そこで、標準形である8月6〜7日の日程がどのような意味をもっているのか、代表的な事例の内容を詳しくみて みましょう。

A 秩父郡小鹿野町蕨平
・8月6日:笹竹に短冊などを飾り付けて、夕方庭に立てる
・8月7日:朝4時に起きて近くの荒川に行き、7回水浴びをする。また、この日の朝ネブタ(ネムノキ)の枝を 取ってきてタナバタさまに進ぜるとともに、その一部を洗面器に入れて顔を洗う。そして、夕方には笹竹とネブタの 枝を取り外して川に流した
B 入間郡三芳町上富
・8月6日:午後、庭に短冊などを付けた笹竹を立て、その隣りに竹籠(ハチホンバサミ)を伏せて置く
・8月7日:朝、竹籠の上に板を置いて、そこに水、饅頭(7個)、スイカ、カボチャ、キュウリ、ナスなどを供 える。夜になると、笹竹を川へ流すかヤマ(雑木林)へ捨てた。カカシの代用として畑に立てることもある
C 東松山市宮鼻(比企郡)
・8月6日:マコモを材料として雌雄2頭の馬を作る。縁側には短冊などを付けた笹竹を立て、そこに2頭のタナ バタ馬を向かい合わせに置く
・8月7日:饅頭とうどんを作って供える。夕方になると子どもたちがタナバタ馬を引き回して遊び、その後笹竹 といっしょに川へ流した
 これらは、行事内容にかかわりなく、いずれも8月6日あるいは8月7日の朝には準備を完了し、当日の夕方から 夜にかけて早々と終了してしまう点が共通しています。つまり、行事の主体は8月7日の朝から夕方の日中にかけて であったといえます。そこには「二星説話」や「乞巧奠」が入り込む余地などみられません。中国伝来の七夕とは一 線を画した性格こそが、在来のタナバタ構造の本質であったのです。

◆ タナバタ馬とネムノキの習俗
 タナバタに作られる馬とネムノキをめぐる習俗は、県内における行事を特徴づける要素として注目されます。両者は、 一部の事例を除いて基本的に分布域が一線を画しており、周辺の都県を含めて異なる文化圏を形成していることが分か ります(分布図参照)。

タナバタ習俗の分布

 タナバタ馬というのは、この行事に付随して作られる馬の総称ですが、地域によっては盆など他の行事に際して作ら れる場合もあります。多くは雌雄2頭を作り、縁側や笹竹に横渡した竹竿などに向かい合わせに飾ります。県内で馬を 作っていたのは、武蔵野台地から本庄台地を結ぶ台地・丘陵帯を境として、それより東部の特に稲作が盛んな地域で、 一部は畑作を主体とする地域にも及んでいます。古い資料〔『埼玉民俗第2号』文0411〕でもほぼ同じような分布を示 していますので、この特性は変化なく伝承されてきたようです。
 馬の形態は地域によって違いがみられるものの、基本的な製作方法は多くの共通項があります。まず、材料として優 占利用されていたのがイネ科のマコモです。この植物は、主に川や用水路などの水辺環境に生育するため、その自生が 見られない比企郡や入間郡の一部では、代わりにチガヤや藁を使いました。
 タナバタ馬とマコモの関係は県外においても密接ですが、その背景について少し考えてみましょう。それは、単に稲 の仲間であるという事実以上に、マコモ自身がもつ植物としての形質が大きくかかわっているからではないかと推察さ れるのです。実は、マコモは大型の多年草で、その種子は9_前後もあって十分食用になる大きさです。北アメリカで は、同じマコモ属の種子を食材として利用していたことが知られており、日本では縄文遺跡からマコモの種子が出土し ています。その特徴的な色(赤紫)からは、赤米を使った赤飯よりも古く、マコモの赤飯が存在した可能性を感じさせ てくれます。なお、マコモの利用はタナバタに限らず、その後の盆行事においても広く行われています。

 

馬の材料となるマコモ
〈左〉自生の状況 /〈右〉大きく細長い種子

 もう一つの習俗である笹竹にネムノキを添える地域は、分布図の武蔵野台地−本庄台地帯から西側の主に山間部にお いて顕著です。このネムノキは、いわゆる眠流しの習俗に連なるもので、タナバタの朝にネムノキの葉で眼をこすると 眠くならないとか、ネムノキの枝葉を入れた水で顔を洗うと眼がわるくならないなどの伝承があります。マメ科の植物 であるネムノキは、暗くなると葉を閉じる性質をもつことから、人の睡眠と関連付けられて利用されるようになったも のと考えられます。
 地元では、ネブタをはじめとしてメブタ(秩父市)、ネブッテ(江南町)、ネブリコウカ(深谷市)などと呼ばれ、 その飾り方にはいくつかの形式が認められます。
A 庭にタナバタの笹竹を立て、その根元にネムノキの枝を立てる〔秩父郡を主体に比企郡や大里郡の一部〕
 * 秩父市浦山地区では、ネムノキの枝にも短冊を付ける
B 縁側の柱に、笹竹といっしょにネムノキの枝を結わい付ける〔秩父郡東部、大里郡の一部〕
C 玄関の柱に笹竹を立て、ネムノキの枝を縛り付ける〔児玉郡〕
D 庭に笹竹を立て、根元にネムノキの枝を置く〔大里郡や児玉郡の一部〕
 また、特殊な事例として大里郡江南町では、主屋の外柱に笹竹を立て、そこに水を張ったバケツを置いてネムノキと 大豆の株を浸してよく冷やしておくと伝えています。こうした設えは通常タナバタの前日に行われ、翌日朝の睡魔を祓 う習俗へとつながっていくわけです。
 ところで、タナバタ馬とネムノキの習俗をめぐる分布特性には、注目すべき重要な意味を見出すことができます。一 つは星名伝承の分野で、オリオン座の三つ星に対する代表的な2種の呼称分布が、やはり東西を分ける類似の傾向を示 しているという点です。つまり、北西部のネムノキ地域ではサンジョウサマ系の星名が優占し、東部のタナバタ馬地域 ではサンチョウボシ系が主流を成しています。さらに、月待信仰においても二十二夜待の信仰圏と十九夜待の信仰圏が これらにほぼ重なるという結果を得ています。いずれも、単なる偶然の一致ではなく、明らかに共通の意味を有した文 化圏の存在を示唆しているとみてよいでしょう。しかも、これらの民俗文化圏は、一部で県外(特に群馬県や栃木県) にも広がる傾向が認められることから、それぞれのベースとなる民俗学的な関係を解き明かす必要があり、今後の大き な課題の一つです。

 

〈左〉タナバタ馬の処分 /〈右〉ネムノキの花

◆ タナバタの供えもの
 県内のタナバタ行事で何らかの供えものを行っていたのは、調査事例の約53%に及びます。その大部分は饅頭で、一 部うどんや米飯、団子などがあります。
 饅頭は、小麦粉を材料とする典型的な作りものの一種ですが、地域によって多様性豊かな一面がみられます。作り方 においては、調理法によって蒸かすあるいは茹でるの違いがあり、また餡の有無や生地に酢(自家製)や炭酸を入れる など、さまざまなバリエーションをもっています。秩父郡の酢饅頭や児玉郡の炭酸饅頭は地域特性が顕著な事例で、そ れ以外では餡入りの蒸かし饅頭が一般的です。ただし、これらの中には本来酢饅頭であったものが後に変化したか、ある いは作り方として茹でていた可能性もありますので、詳しい実態は不明です。
 饅頭の供え方は、皿などに盛るのが基本的なスタイルです。特異な事例として、三郷市では笹竹とともに飾る2頭の 馬とは別に少し大きな馬も作り、その腹の中に饅頭2〜3個を詰めていました。この馬は、子どもたちが遊ぶためのも のです。また、朝(午前)は饅頭を供え、昼(午後)にはうどんを供える事例が入間郡や比企郡を中心に少なくありま せん。さらに、北埼玉郡の一部でマコモ馬の背中にうどんだけを載せて供えるという事例があります。
 作りもの以外では、比企郡や入間郡でスイカ、キュウリ、カボチャなどの夏野菜が供えられており、このような地域 においては、畑への立ち入りに関する禁忌や行事終了後に笹竹を畑に立てるなど、畑作農耕そのものと深くかかわる傾 向がみられるようです。

◆ タナバタの伝承
 各地のタナバタにまつわる伝承は40例ほど記録されていますが、これらは以下のような類型に分けられます。
@タナバタの日の雨に関する伝承
A禊や祓に関する伝承(水浴、眠流しなど)
Bタナバタ馬の処理に関する伝承
C畑への立ち入りと禁忌に関する伝承
Dその他
 下表は、郡別の分布状況をまとめたものですが、@のタナバタの日の雨については秩父郡と比企郡の3例を除いて、 他の8例は「タナバタにはたとえわずかでも雨が降るもの」とか「雨が降ったほうがよい」とされています。行事を行 うのは多くの地で8月7日を中心とした日程であり、農家にとっては暑さと水不足による農作物への影響が懸念される 時節にあたります。たとえ少量であっても、降雨への期待が切実なものであったことは容易に推察できます。空が晴れ て天の川が見られるかどうかは全く問題にされず、ひたすら恵みの雨に期待をかける姿勢を貫いていたということでし ょう。
 Aの禊・祓にまつわる習俗では、眠流しの伝承が主体です。具体的には睡魔を祓ったり、眼の健康を祈願するケース が多く、これらは笹竹にネムノキを添える地域に限ってみられるものです。
 Bのタナバタ馬の伝承では、夏に多発する水難事故に際して、馬がもつ神聖な力にすがりたいという素朴な願いが込 められているようです。行事が終了した後の馬の処理については、笹竹とともに川へ流す事例が多いなかで、これを屋 根へ投げ上げたり、柱に縛り付けるなどして残しておくという地域があります。そして、もし川や沼などで誰かが溺れ るようなことがあったら、この馬を燃やすことで溺れた人を助けられるというのです。かつては、水難事故が発生する と実際に行われていたそうで、水と深いかかわりをもつタナバタならではの習俗といえるかもしれません。
 Cは、畑への立ち入りに関する禁忌で、少ない事例ながら内容を紹介しておきましょう。
A 8月7日の午前中は、馬が小豆畑に入って暴れるので2頭の手綱をしっかり結んでおく。この間は、人が小豆畑に 入ってはいけない〔比企郡吉見町〕
B タナバタの夜は、馬がキュウリ畑や豆畑を歩き回るので、人間は入ってはならない。もし入ると、驚いた馬が蔓に 絡まってしまう〔川越市〕
C 8月7日はタナバタさま(男星と女星)がササゲ畑で逢うことになっているので、この日はササゲを収穫してはい けない〔所沢市〕
 以上は、いずれもタナバタの日に畑(特に豆類)へ人が立ち入ることを戒めたものですが、先の2例では畑を歩き回 る馬に迎え入れた神の存在が感じられ、最後のタナバタさまも、実は夜空の二星に姿を変えた農耕神を暗示しているよ うな気がします。

タナバタ伝承の分布                  
類型伝承項目 秩父郡 比企郡 入間郡 児玉郡 大里郡 北埼玉郡 北足立郡 南埼玉郡 北葛飾郡 合計
@雨が降る            
雨は降らない              
A水浴をする              
眠り流しをする             11
髪洗いをする                
B畑の禁忌              
C馬を燃やす            
Dその他      

◆ その他の習俗
 県外のタナバタ行事に目を向けると、タナバタ人形や紙衣と呼ばれる構成要素の報告が各地にあります。残念なが ら、県内の聞き取り調査では具体的な伝承が記録されていない状況ですが、秩父郡両神村で聞いた話のなかに重要な 手がかりを確認することができました。それは、伝承者の実家(秩父郡小鹿野町)の母親が、かつてタナバタの日に 裁縫が上手になるようにと自分で仕立てた着物を軒先に飾っていたというのです。
 タナバタに着物を飾ることは、近世には各地で行われていたようで、これは貸し小袖の習俗とされ、タナバタさま に着物をお貸しする行為と考えられています〔『七夕の紙衣と人形』文0116〕。やがて、貸し小袖は一部でタナバタ 人形や紙衣へと変化していくことになりますが、埼玉県では本来の古い習俗が秩父郡吉田町・東秩父村、大里郡川本 村、入間郡越生町などでも報告されています〔文0411〕。また、川本村には紙衣の報告もあり、いずれも貴重な伝承 といえるでしょう。
 タナバタ行事にかかわる習俗としては、もう一つ取り上げておきたいことがあります。それは、秩父郡皆野町で継 承されている虫送り行事です。文字通り耕作地の害虫除けを目的として旧盆に行われ、皆野町の場合は大きな梵天を 高く掲げながら集落内を練り歩くのが特徴となっています。実は、この梵天には、タナバタに立てた笹竹の飾りが素 材の一部として使われているのです。梵天は、最後に川へ流されますが、このとき害虫もいっしょに送り出すという 意味合いがあるようです。県内には、タナバタの笹竹を虫除けと称して畑などに立てておく慣習が各地にありますが、 これも虫送りに連なる習俗の一環と考えられます。
 以上のように、タナバタというのは古来の儀礼的な行事をベースに、外来の二星説話や乞巧奠などの七夕要素を取 り込む一方で、祖霊信仰や水神・竜神にまつわる信仰、さらにはさまざまな農耕習俗らが複雑に絡み合った様相を呈 しています。したがって、多様な切り口から丁寧に解きほぐしていくことがその本質に迫る近道かもしれません。
 聞き取り調査の内容は断片的な伝承が多いという結果を踏まえると、県内のタナバタにまつわる全体像を把握する には、まずのこされた資料を十分に精査し、基盤となる信仰を支えている構成要素の再検証が必要でしょう。

 

〈左〉皆野町の虫送り行事 /〈右〉畑に立てられた笹竹


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【 月 待 】
 十五夜が生業とかかわる儀礼的な行事とすれば、月待は民間信仰をベースとした行事です。いずれも、月を直截的 な対象物としていますが、それを受け入れる姿勢は基本的に異なります。
 県内で確認されている月待は、聞き取りや石造物などの分布から十九夜待、二十二夜待、二十三夜待、二十六夜待 で、最も広範な信仰がみられるのは二十三夜だけです。十九夜待と二十二夜待は、既述したような分布特性を示すほ か、二十六夜待はごく一部の地域に限定されるようです。
 月待は、本来日の出を拝するのと同様に月の出を拝する素朴な行為であったと推察されますが、中世には本地仏を 祀って板碑を建立するような宗教色の強い信仰がみられるようになります。これは、基本的に旧暦23日の月を祀ると いうことで、月待といえば二十三夜待が主流でした。近世に入ると、各地で月待供養を目的とした石塔が造立される ようになり、特に東日本から北日本に広く分布しています。こうした造塔に深くかかわっているのが、いわゆる講と 呼ばれる組織です。もちろん、個人での信仰もありましたが、多くは講を単位とした地縁集団によって運営されてい たのです。
 月待の形態的な違いは、対象とする月齢が変化することに依ります。たとえば、十九夜は旧暦の各19日に上がる月 という具合に、それぞれ実施日が異なるわけです。さらに17日から23日については、七夜待という信仰があり、それ ぞれに祀られる主尊が定められています。また、「三十日秘仏」といって特定の日に本尊を配置する考え方があり、 ここでも各日付に対応する仏が設定されており、月待にはそうした教義が大きく反映されているのです。
 しかし、ここで注意しなければならないのは、確認された四つの月待すべてが本来の月を祀る行事ではないという 点について理解しておく必要があります。特に十九夜待の場合は、産神信仰との習合によって安産祈願を主目的とし た行事であり、月待の本質がかなり薄らいでいるといえるでしょう。二十二夜待も安産祈願を行う女人講を主体とし ていますが、同時に月への祈願もみられます。
 いずれの月待も、現在継承されている事例はわずかで、実態として大きな変容を余儀なくされています。かつての 行事内容についても詳細な記録は得られていませんので、以下にその概要を紹介しておきます。

◆ 二十三夜待
 県内には、講などの集団が月待を行っていたとみられる堂宇が1980年代から90年代にかけて数ヵ所確認されていま す。一般に勢至堂あるいは二十三夜堂などと呼ばれ、主尊である勢至菩薩を祀り、日常的な信仰の場としての役割を 担っていたものと推察されます。かつての月待の様子は詳らかではないものの、いくつか事例を挙げると、
○二十三夜堂は、江戸末期から明治の初めころに再建されたもので、以前は旧暦の1月23日と8月23日の年2回、月 待が行われていた。当日は地区の男女が堂に集い、男は御神酒をあげ、女たちは団子を作って供えた〔名栗村〕
○勢至堂には勢至菩薩が祀られており、新暦10月23日に講が開催されている。ただし月待ではなく、講の人たちがお 参りをして帰るだけの形式的な行事に変化している〔小川町〕
○1960(昭和35)年ころまでは、茅葺屋根の大きな三夜堂があり、その脇に立つ杉の古木は二十三夜杉と呼ばれてい た。月待は旧暦の11月22日に行われ多くの人びとが参加したが、特に念仏講の人たちは月が上がってくるときに全員 が輪になって念仏を唱えていた。そして、翌23日に勢至菩薩を祀る行事を行った〔寄居町〕
など、断片的な状況を知ることができます。県外の事例では、輪番制で宿をめぐり、掛軸を下げて念仏や御詠歌など を唱和していた地域が多くみられることから、おそらく県内においても各地域で類似の講が営まれていたものと思わ れます。
 こうした信仰の証となる月待塔は、すべての郡部で少なくとも35以上の自治体で確認されており、多くは自然石に 「二十三夜」などの文字を陰刻した石塔です。像容を刻んだ事例では、主尊である勢至菩薩以外に地蔵菩薩の二十三 塔があり、念仏信仰との習合を示す要素も認められます。

 

〈左〉寄居町の二十三夜堂 /〈右〉小川町の勢至堂内部

◆ 二十二夜待
 地元では、二夜さまの愛称で親しまれていた行事です。多くは女性だけで行う女人講が組織され、産神信仰との習 合が認められます。したがって、月への祈願は安産を主体としたもので、二十三夜のように堂宇などにこもって念仏 を唱えるケースもありました。各地の聞き取り結果は、以下の通りです。
○地区内には、かつて個人が所有するお堂があり、そこで10月半ばころに二十二夜のオコモリが行われていた。お堂 の前には、二夜さま、観音さま、地蔵さまの石塔があった。1990年ころには、近くの寺院跡で10月20日に女衆(17人) が集まって講を営んでいたが、会食が中心である〔小川町〕
○1980年ころまでは、毎月22日夜に行われていた行事。塚田地区の20軒ほどを輪番制で宿とし、掛軸をかけ、線香を 供えて拝んだ〔寄居町〕
○二夜さまは女の神様といわれ、旧暦の毎月22日に輪番制で行われた。当番の家では、掛軸をかけてお金を供える。 皆で会食するが、念仏などは唱えない〔花園町〕
○毎月22日夜に輪番制で行われた年配女性だけの行事。当番家に集まると、二夜さまの掛軸をかけ、炒った豆の作り ものをして食べるのが古い仕来りであった。昔は犬や猫が死ぬと、近くの三本辻に線香をあげて供養した〔児玉町〕
○輪番制で毎月22日に行われた女性の講。二夜さまに安産を祈願した〔本庄市〕
 また、二十二夜塔は秩父郡、比企郡、大里郡、児玉郡、北埼玉郡の31市町村で確認され、特に児玉郡、比企郡、大 里郡の一部では濃密な分布を示し、少なくとも 500基を数えます。二十二夜塔の主尊は如意輪観音で、像容塔にはさ まざまな形態があり、観音像自体にも六臂と二臂のタイプがみられます。なお、時代が下ると次第に文字塔が多くな るようです。

◆ 十九夜待
 本来の十九夜念仏に産神信仰が習合し、血盆経の如意輪観音を介して安産祈願に特化した行事といえます。県内で は、北埼玉郡や北葛飾郡など利根川流域が主な信仰圏となっており、隣接する千葉県から茨城県、栃木県、さらには 福島県に及ぶ広大な分布域が認められます。
 多くは組を単位とする女人講が組織され、年に数回の輪番制による運営が主流でしたが、二十二夜待のように月の 出に安産を祈願するという話はほとんど聞かれません。各地の行事の様子をいくつか紹介します。
○毎年春3月と秋9月の2回、輪番制で行われる女性だけの行事。十九夜念仏と呼ばれ、全員で念仏を唱えて安産を 祈願する〔加須市〕
○十九夜さまはお産をする若い人たちの講で、組合は15軒あって輪番制により毎年1〜2回行われる。当番の家では、 掛軸をかけて食物を供え、ロウソクや線香などもあげる。お産が近い人は、短くなったロウソクを持ち帰り、自宅で 使うとお産が軽くなるといわれている。かつては念仏や和讃などが唱えられていた〔大利根町〕
○十九夜さまは女性だけの行事で、近くの寺へ集まって念仏を唱えていた。オトキと呼んでいる地区もある〔幸手市〕
 十九夜待の主尊もほぼ如意輪観音が選択されていますが、七夜待の教義や三十日秘仏のいずれも該当するモデルが ありません。行事で唱えられる和讃の多くは、血盆経由来であることが知られており、そのあたりに重要な接点があ りそうです。
 また、十九夜塔は近世初期から造立されていますが、この時代の銘文は「十九夜念仏」が多く、その後は次第に念 仏の文字が消失する傾向を示しています。また、県外の一部で十九夜講に犬供養を行い、二股の卒塔婆を立てる習俗 がみられるものの、今のところ県内では明確な事例は記録されていません。

◆ 二十六夜待
 各地で行われた月待のなかで、最も遅い月の出を拝する行事です。実際の月の出は、旧暦26日ではなく27日の夜明 けに近い時間帯で、辛抱強さが求められます。東京都や神奈川県などでは、かつて海沿いの地域でさかんに行われて きましたが、県内では具体的な聞き取りの記録がありません。
 ただし、月待塔の分布からみると、二十六夜塔が南部の志木市と北東部の大利根町、北川辺町に存在しており、か つては行事として存在した可能性があります。二十六夜待の主尊である愛染明王は、愛が藍に通じることから染色関 係の人びと、さらには紡績全般にかかわる人びとの信仰が篤かったともいわれ、本来の月待信仰と異なる側面をもっ ています。


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【 弓射儀礼 】
 新年に弓を射る行事は全国にあり、現在も継承されている地域が少なくありません。馬を走らせながら騎乗した射 手が弓を射るヤブサメは有名ですが、多くは射手が立って(あるいは坐して)弓を射る神事が各地の寺社で行われて きました。
 宮中においては、古くから射礼[じゃらい]という祭祀儀礼が行われ、これを由来とする行事が近畿地方の結鎮[ けっちん]や四国地方の百手[ももて]などとして伝承されています。中世西日本の一の宮や地方の中核寺社におけ る弓射儀礼が、宮座の行事として広まるなか、17世紀初めになると関東地方へも伝播したと考えられています〔『宮 座における歩射儀礼』文0278〕。
 こうした行事は、関東でオビシャ、弓祭、的祭、弓ぶち、天気祭、日の出祭などと呼ばれ、ビシャには歩射、奉射、 武射、備射などの語が充てられています。いずれにしても、行事の本質は単なる弓の儀礼というわけではありません。 地域の信仰や祭事などにおいて中心的な役割を担う頭屋の交代という重要な節目にあたり、過ぎし年を送り出して新 たな年を迎えるという意味が込められているのです。したがって、本来は天地四方に矢を放つことによって空間(場) を浄め、さらに特定の的を射抜くことによって時間(暮らし)の更新を図ってきたのではないかと考えられます。
 それは、各地の行事にみられる12という数字に関係する習俗をみるとよく分かります。つまり、弓や矢、的、射手 といった要素で12の意味付けが多くあり、射手の人数と各人が射る回数との関係も含めて、最終的に的を12回射る必 要があったのではないかと推察されます。
 たとえば、吉川市の香取神社で毎年1月7日に行われるオビシャは、直径約1bの的が重要なポイントです。表面 には烏をデザインした絵が描かれており、2枚の和紙を貼り合わせた間に12枚(閏年では13枚)のユズリハの葉が収 められていました。烏の絵は、本来三本足の烏であったと考えられ、中国では古くから太陽の象徴であったのです〔 『熊野の太陽信仰と三本足の烏』文0059〕。また12枚のユズリハの葉は、明らかに1年の時間軸を示しています。こ れを弓で射るということは、おそらく太陽のよみがえりとして時の再生を意図したものでしょう。
 三本足の烏の的は、茨城県や千葉県など利根川下流域において顕著な分布を示していますが、さらに兎を描いた的 とセットで弓を射る事例も特定の地域で集中的にみられます。この場合は、太陽(烏)と月(兎)を射ることになり、 日天や月天をめぐる信仰との習合も考えられます。
 一方、鴻巣市滝馬室の氷川神社で1月12日に実施される的祭では、拝殿内においてお祓い、献饌の儀、祝詞奏上、 玉串奉奠、拝礼、撤饌の儀などの神事があり、その後弓射が行われます。的は、網代編みしたヨシの下地に12枚の半 紙(横向き3枚×4段)を繋ぎ合わせて貼り付けたもので、描かれているのは同心円です。弓はエゴノキと麻紐で作 り、矢は篠竹に紙の矢羽を付けたものを12本用意します。射手は、現在地元の小学6年生に依頼していますが、本来 はその年に満12歳となる氏子の長男(跡継ぎ)だけに資格がありました。最終的には、神社から許された者が射手を 務め、古式に則った正装といういで立ちであったようです。いずれにしても、的祭では至る所で12という数字へのこ だわりが認められます。
 県内の他の事例では、川越市下老袋の弓取式、八潮市鶴ヶ曽根の弓ぶちなどが行事として継承されていますが、的 の絵は同心円あるいは鬼の文字などが主体です。ただ、一見して意味不明な同心円や鬼に因む意匠も、実は太陽を示 すのではないかとの見解〔文0059〕があり、的に描かれたデザインをどのように捉えるかは、弓射のあとに見られる 習俗にも注目する必要がありそうです。たとえば、
・弓を射終えると、残された矢あるいは放った矢を手に持って的を打ち破る
・的の一部や射抜いた矢を競って持ち帰る
などの行為がどのような意味をもっているのか、それらを明らかにすることで的の意匠を解明する手がかりとなるか もしれません。
 なお、現在継承されている弓射儀礼が、本来の姿から変化を余儀なくされている状況は鴻巣市の事例で既に紹介し ました。しかし、それ以上に残念なのは、行事そのものがもつ意義や弓射に際して奉納される弓、矢、的などの由来、 そして弓を射る各所作の意味などが悉く忘れ去られてしまったことです。それでもなお、地域の伝統行事を守り、将 来へ継承したいという人びとの思いに対しては、素直に心強さを感じます。

 

〈左〉烏がデザインされた的(吉川市) /〈右〉弓を射る子どもたち(鴻巣市)


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【 妙見信仰 】
 密教の妙見菩薩は、『七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪経』に説かれていますが、日本へは仏教とともに、あるいは仏 教伝来からあまり時を前後しない時期に伝来したのではなかとの見方があります。この妙見菩薩を北辰、つまり北極 星として崇拝したのが妙見信仰です。
 伝来初期には、北辰に灯明を献ずるという祭事が民間で行われ、やがて朝廷においても天皇自らが北辰へ献灯する ようになり、これは御灯として定着し、その後も継続されました。
 平安時代末期ころになると、武士や地方豪族の間で妙見崇拝の風潮が高まり、東国では平良文を祖と伝える千葉氏 や平秩父氏などが妙見を勧請し、北辰や北斗七星を守護神として信仰するようになります。当時は北辰と北斗が混同 され、その後は日蓮宗による布教などと相俟って、妙見と北斗七星の結び付きはより一層強固な関係になっていった ようです。
 秩父の妙見は、伝承によると花園妙見(高崎市)からきたことになっていますが、まず祀られたのは宮崎山と呼ば れる丘陵地、あるいは音窪と呼ばれる丘陵内の窪地ではないかと考えられています。その後、七つの井戸がおかれた 地を伝って秩父神社に合祀されました。こうして武甲山を妙見山とし、地域が一体となった妙見信仰へと発展するこ とになります。
 ただし、民間信仰という側面で捉えると、近世以降に北辰(北極星)や北斗七星を祭ったり、祈願の対象とするよ うな行事や習俗などはみあたりません。それは、信仰の中心が宗教的な教義に説かれた妙見という神仏に向けられた ものであり、夜空の北極星や北斗七星を直接拝するという行為に結び付いていないという点が大きく影響しているも のと考えられます。
 民間で、信仰の痕跡を探る手掛かりとなるのは、各地にのこされた石造物が最も有力な遺物となります。その代表 的なものが妙見塔と呼ばれる石塔類で、単なる文字だけの塔から妙見の神仏を彫像したタイプまで多様です。いくつ か事例を挙げると、飯能市上赤工の妙見塔は1831(天保2)年の造立で、玄武に乗る妙見像を有し、「村々信心講中」 の銘があります。仮に、これが妙見を目的とした講であるとすれば、どのような信仰が営まれていたのか、興味深い ところです。像容塔は、名栗村浅海道(現飯能市)の洞雲寺裏にもあり、こちらは1864(元治1)年に個人が造立し たものです。上部に妙見の文字が刻まれているものの、玄武はありません。
 また、富士見市水子の甲子大黒天にある倒伏した石灯籠の竿部には「北斗星 妙見霊神」の銘が刻まれています。 1681(天和1)年の造立ですが、大黒天との関係や信仰の実態は分かりません。その他にも、県内では妙見由来の社 寺や石造物などが知られています。

 

〈左〉亀石がある斎場と武甲山(妙見山)/〈右〉妙見の石灯籠


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4 日月星の信仰

 ここでは、主に突発的な天象に対して人びとがどのような意識をもっていたのか、各地の伝承をまとめておきます。 最も関心が高かったのは月で、暮らしと深いかかわりがあった天体だけに伝承も多岐にわたります。また、日食や月 食の際に行われた習俗、彗星や流星にまつわる俗信にも目を向けてみましょう。

【 月をめぐって 】
 月をめぐる伝承や俗信には、さまざまなタイプが知られていますが、いわゆる民間伝承としての月の民俗を考えた 場合、埼玉県内では三つの代表的な類型を取りあげることができます。一つは、全国的にもよく知られた月暈と気象 に関する伝承、二つ目は三日月の傾きによる卜占、そして三つ目は月と星の接近に関する俗信です。
 これらは、いずれも天文や気象現象に関するものであり、月を生活の拠り所としていた時代の人びとが、いったい どのような視点でこうした現象を捉えていたのか、単なる民俗資料にとどまらず、日本人の自然観を探る上でもたい へん重要な意味をもつものと考えられます。

◆ 月暈と気象
 月暈による天気予知は、日暈とともに最も一般的な伝承です。これら暈(ハロ)の発生は、月や太陽に巻雲や巻層 雲、巻積雲など氷の粒でできた高層の雲がかかるときに起こり、このうち薄く広がる巻層雲において最も発生し易い とされています。物理的には、氷の粒(六角柱)がプリズムの働きをして月光や太陽光を何度も屈折させるために、 内側が赤く外側が青い虹の暈が形成されます。
 暈の大きさは、内暈で視半径が22°、外暈では46°と決まっていますが、月の場合は暈とは異なる月光環という現 象も発生します。これは水粒によって作られる雲、特に高層雲が月を覆ったときに幻想的な環を現出させるもので、 月暈よりも小さく、その見え方は月齢や雲の種類、雲のかかり方などによってさまざまに変化します。
 一般的に、巻層雲などの出現は低気圧の接近を知らせるサインとされ、そのため暈の発生が降雨の予兆として捉え られてきました。昔から観天望気の代表として、全国に広く分布しています。ただし、実際には巻層雲などが現れて も、低気圧が進むコースや雨雲の状況などによって必ずしも降雨があるとは限りません。たとえば、東京における日 暈の調査記録(1961〜1967年)では、降雨確率が64%であったというデータがあり、一般に暈による予知が的中する 確率は50〜70%といわれています。
 日暈の場合は、雲の条件さえ整えば見る機会が多いと思われますが、月暈では望(満月)を中心とした限られた期 間の現象で、しかも夜間という制約から、これを目にするチャンスは意外に少ないと考えるべきでしょう。むしろ、 高層雲による月光環のほうがより多くの人に見られていたかもしれません。
 ところが、県内の月をめぐる伝承では、月暈の発生とその後の降雨予知に関するものが広く分布します。伝承内容 も、単に雨が降るという基本型よりも、月暈の中に星があるかどうか、さらにその星の数がいくつであるかによって 雨の降り始めに変化が生じるという形態をとっているのです。これらを、各地の伝承事例によって詳しくみてみまし ょう。

A 基本的なタイプ
・月のめぐりに環ができると雨が降る〔児玉町〕
・月が暈をかぶると大雨が降る〔上尾市〕
・月のまわりに暈があると2〜3日のうちに雨が降る〔騎西町〕
・月が暈をかぶると3日以内に雨が降る〔飯能市〕
B 暈の中の星によって判断するタイプ
・月が暈をかぶると天気は曇りで、その中に星があると雨が降る〔小鹿野町〕
・月が暈をかぶると3日のうちに雨が降る。ただし暈の中に星が入っていると雨は降らない〔皆野町〕
・月暈の中に星があれば、その星の数だけ天気がもつ〔菖蒲町〕
・月暈の中に星があると、少したってから雨が降る〔江南町〕
・月が暈をかぶり、その中に星がなければすぐに雨が降るが、もし暈の中に星があればその星の数だけ先へいって から雨が降る〔寄居町〕
・月が暈をかぶり、その中に星が一つあると1日おいて雨、また星が二つあれば2日おいて雨が降る〔桶川市〕
・月暈中に星が二つ見えたら2日後に雨が降り、三つ見えたら3日後に雨になる〔吉見町〕
・月暈の中に星が一つあれば一晩、二つあれば二晩、三つあれば3日は天気がもって雨が降らない〔幸手市〕
・月が暈をかぶり、その中に星が三つあれば3日目に、五つあれば5日目に雨が降る〔三芳町〕
・月が暈をかぶり、その中に星があると「日がさ」といって天気はもつが、星がなければ「雨がさ」といって 雨が降る〔所沢市〕
C その他
・月暈が月の後ろ側(東の方向)へ抜けると晴れ、また月の前側(西の方向)へ抜けたら雨が降る〔秩父市〕
 伝承全体からみると、AのタイプよりもBのタイプが主流を占めています。そこで、暈の中の星について少し考察 してみましょう。まず、月暈の中(内側)にある星を肉眼で確認できるかどうか、実際に夜空での検証ができていな いため、気象の専門家による見解を示しておきます。巻層雲は比較的薄い雲なので、明るい星であれば月暈の内側、 外側のいずれでも見られる可能性があり、散乱光の影響を受けない内側のほうがより見やすいのではないかとのこと です。地域の夜空の状況に左右されるのは必然としても、金星や木星などの明るい星であれば、確率は高いと思われ ます。
 それでは、星の数についてはどうでしょう。県内の伝承においては、月暈中の星は1〜3個というのがほぼ定型化 されたパターンとして定着しており、一部の例を除いて星の数が多いほど雨の降り始めが遅くなるとされています。 おそらく、星の数が多いほど雲が薄いという発想があるのかもしれません。さらに、雲が薄い=低気圧はまだ遠くに あるという思惑もみえてきます。ただし、低気圧の移動は1日平均で約1000`とされており、巻層雲の出現時に低気 圧の本体はその後方 800〜1000`にあることを考えると、雨の降り始めが2〜3日もおそくなることはほとんどない ようです。つまり、月暈の中の星の見え具合は単に雲の濃淡によるものであって、降雨の遅速とは結び付かないとい えます。したがって、暈による降雨確率を調査する場合には、その現象を観測した翌日に雨が降るかどうかを判断す るのが適当です。
 いずれにしても、自然暦を生業の拠り所としてきた人びとが、暈による観天望気を利用したことは自然の成り行き であり、地域ごとの変化の多様性とともに、自然認識に関する民俗知識の伝播と分布を考察するうえで重要な手掛か りを与えてくれるものです。

 

〈左〉見る機会が多い日暈/〈右〉月光環は小さい

◆ 三日月の傾きによる卜占
 三日月の傾き具合が季節によって変化することは、西欧や中国などで古くから注目されていました。『星座春秋』 〔文0094〕には、「三日月物語」と題して古代バビロンの太陽暦が春分のころに仰向けに寝た三日月を西の空に見て 新年の始まりとしていたことが紹介されています。
 日本でも、文学や信仰面などでは三日月とのかかわりが知られていますが、三日月の傾きが変化する事象に注目し た事例はほとんどみられず、民間伝承における卜占にかかわる俗信が一般的です。
 このような現象は、天の赤道に対する黄道の傾き(約23°)を主な要因として、さらに黄道に対して約5°の傾き をもつ白道の交点が約18.6年の周期で移動することも影響しています。このため、黄道の傾きが天の赤道よりも地平 に近い秋は、太陽と月の位置関係からより立ち上げった三日月となり、春は天の赤道と黄道の関係が逆になるためよ り横に寝た三日月となります。月ごとの変化量はそれほど大きくありませんが、春秋の状況を比較するとよく分かり ます。
 さて、県内では三日月の傾きによって、いくつかの判断を行う伝承が広く分布しています。それらは、主として四 つの類型があり、天候を予測するタイプ(A)、景気の動向を判断するタイプ(B)、穀物相場を予測するタイプ (C)、穀物の作況を判断するタイプ(D)に分類されます。分布図に示したように、総体的な傾向としては南西部 の秩父郡や入間郡ではAやBが優占であるのに比べ、北部や東部の地域ではCが一般的です。ただし、米相場の判定 は降雨予測を基にしていると考えられるため、CはAを基盤として発展させたタイプとみることができるでしょう。 稲作を主体とした地域では、米の収量と品質が最大の関心事であっただけに、畑作を主体とした地域とは異なる伝播 経路の存在も十分に考えられることです。

三日月の傾きによる伝承分布

 ここで、それぞれのタイプについて、代表的な伝承内容を確認しておきましょう。

A 天候予測型
・三日月が立つと水が零れるので雨は降らない。また、横になると水が溜まるので雨が降る〔吉田町〕
・三日月が横に寝ていると水が零れないので天気は照り、反対に立っていると水が零れてしまうので長雨になる 〔両神村〕
B 景気動向型
・三日月が立ってると景気がよく、横に寝ると景気が悪くなる〔所沢市〕
・三日月が立つと物価が上がり、横になると下がる〔飯能市〕
C 相場予測型
・三日月の傾きが緩やかだと米の値が安く、反対に立つようになると値が高くなる〔小川町〕
・三日月が立つと米の相場が上がり、横に寝ると下がる。だから「米を売るには三日月の傾き具合を見てから売 れ」という〔桶川市〕
・三日月がたてに見えると、小麦の値段が高くなる〔本庄市〕
D 作況判断型
・三日月が立っていると、作物がよくとれる〔美里町〕
・三日月がまっすぐに立つと作物がよくできる〔日高市〕
 具体的には、三日月の傾きによって雨が降るか降らないか(A)、景気が良いか悪いか(B)、米の相場が高くな るか安くなるか(C)、そして作物の出来が良いか悪いか(D)といった選択を行うわけですが、個々の伝承につい てみると三日月の状態と卜占の結果は必ずしも一致していないことが分かります(表参照)。

三日月の状態と卜占の関係
三日月の状態  雨が降る  景気がよくなる 相場が上がる
 仰向けに寝る  12
 右端が起き上がる  14

 三日月の傾きは、横になった状態(仰向けに寝る)と立った状態(右端が大きく起き上がる)を基本としているの で、地域によっては全く正反対の内容が伝承されているケースがあります。一般的なAのタイプでは、事例数の比較 で仰向けに寝た時に降雨が約63%、起き上がった状態で降るのは約37%と分かれています。これは、三日月に水が溜 まることを想定した発想の違いから生じた結果といえるでしょう。つまり、仰向けに寝た三日月には水が溜まり、そ れが雨となって降ってくるという見方があり、したがって、立ってしまうと水がないので降らないという発想です。 ところが、一方では三日月に溜まった水は立ち上がると零れるので雨になるという見方も可能なわけです。本来は基 本となる見方があったはずですが、伝播の過程で変化が生じたものと推察されます。
 予測の結果に統一性がみられるのはCのタイプで、これをもとに三日月の傾きと相場予測の判定プロセスを探って みると、下図のような考え方を見出すことができます。相場が高騰する要因を辿ると、作柄不良←雨が少ない←三日 月が立つ、という現象に至ります。CがAの発展型とすれば、仰向けに寝た三日月によって降雨が生じるという見方 が基本の発想かもしれません。

三日月の傾きと卜占の関係

◆ 月と星の接近による俗信
 秩父郡や入間郡の山間を中心とした地域では、月の近くに普段は見られない星が現れると、これを不吉な出来事の 前兆と捉えていました。多くは、星が出現した方角で人が死ぬという俗信を伴っていますが、このような見方は山地 に暮らす人びとの伝承にみられる特徴の一つです。
 月が惑星や明るい恒星と接近したり、時には星を隠してしまう現象(星食)は、洋の東西を問わず古い記録にもの こされているように、政や宗教なども絡んで相当に関心の高い現象であったようです。日本における民間伝承として は、全国的な分布をみせており、アイヌ民族にも同じような事例が認められます。
 俗信の内容は、人の死の前兆と捉えたり、他の凶事の前触れとするもの、そして天候の変化を招くとする見方がほ とんどで、各地にさまざまな星名が伝わっています。下表は、秩父、入間、比企の各郡内において星名と俗信内容の 関係を整理したものですが、不特定の星に対してこれだけの星名が発生しているということは、人びとの関心がいか に高いかをよく示しています。

月に接近した星の呼称と伝承
星 名 秩父市 横瀬町 小鹿野町 両神村 大滝村 荒川村 東秩父村 飯能市 名栗村 小川町 都幾川村
ショイボシ                  
ソエボシ                  
チカボシ                  
ツキボシ              
ツキソイボシ                    
ツレボシ                
(呼称なし)                  

注)●(人死の前兆)/ ▲(凶事の前兆)/ ◆(天候の変化)を示す

 

〈左〉仰向けになった三日月 /〈右〉西空のチカボシ(金星)


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【 日食と月食 】
 日食あるいは月食は、人びとの暮らしに深くかかわる天文現象であり、また一方では太陽や月を対象とした信仰と も絡んで、古くから大きな関心をもたれてきた非日常的現象の最たるものです。史料的には、過去の天文史料や古文 書等に記録されているばかりでなく、近世の農書や日記等にも個人的な記録として見出すことができます。
 県内では、聞き取り調査のなかで得られた日食や月食についての情報が少なからずあります。ただし、現象そのも のの記録ではなく、人びとが日食や月食をどう捉え、またその際にどのような行動をとっていたのか、いわば民俗的 な知識とその認識に基づいた処置行動の関係といえます。
 伝承者(35人)の属性についてみると、生年が明らかなのは33人で1900年代から1930年代に集中しており、時代背 景としては明治時代から昭和10年代を想定するのが適当と思われます。そして、聞き取りの内容は以下の2点に集約 しています。
@日食あるいは月食という現象について、どのような認識をもっているか
Aその現象が発生した時、何か行ったことがあるか
 また、自己の体験に限らず、他人から伝え聞いた事例も含んだ記録ということになります。集計結果からは、現象 に対する認識として三つのタイプの存在が明らかとなり、これらを郡別の事例数で示したのが下の表です。

現象に対する認識の伝承分布
現象の認識 秩父郡 比企郡 入間郡 児玉郡 大里郡 北埼玉郡 北足立郡 南埼玉郡 北葛飾郡 合計
 タイプT  22
 タイプU                 
 タイプV                 
タイプT:太陽あるいは月が病気になった状態とする見方
タイプU:太陽あるいは月が怒った状態にあるとする見方
タイプV:太陽あるいは月が厄払いをしているとする見方

 分布としては、ほぼタイプTに集約されていますが、こうした見方は日本だけでなく海外の一部においても共通するテーマとな っているようです。一般的に、アジア大陸の諸民族の説話では、太陽や月が架空の生きもの(天狗、悪龍、魔物等)によって食べ られたり、かじられたりするために日月食が起こるとする伝承が多く知られています〔『太陽と月と星の民話』文0110〕。
 県内のタイプTでは、太陽あるいは月が人間(自分自身という見方もある)の身代わりになって病気を患うという伝承が全体の 約6割を占めています。したがって、人びとが特異な現象を自分たちの身近な存在に置き換えて対処しようとした姿勢を窺うこと ができます。
 タイプUは1例しか記録されていないものの、おそらく天岩戸神話と日食のかかわりを指摘する考え方に影響された伝承とみら れます。栃木県にも、「日食というのは、お天道さまが天岩戸に隠れてしまうから」という事例があります。
 次に、現象に対する処置行動についてみてみましょう。主な行動パターンは四つあり、太陽あるいは月を拝む(a)、供えもの をする(b)、井戸の口を塞ぐ(c)、その他(d)となっています。基本はaで、これにbやcなどが組み合う形態がとられて いるわけです。こちらも郡別の事例数(複数回答を含む)を集計すると以下のとおりです。

現象に対する行動の伝承分布
現象への対応 秩父郡 比企郡 入間郡 児玉郡 大里郡 北埼玉郡 北足立郡 南埼玉郡 北葛飾郡 合計
    26
       
         
           

 これらの行動パターンは、いずれも病気になったと認識された太陽あるいは月への具体的な対処法を示したもので、特にcに みられるような井戸の口を筵や蓋、傘などで覆うという発想は、生活の生命線である安全な水の確保を目的としたものであるこ とは容易に推察できます。これは、ある意味で疫病への対処法と通じています。なお、都幾川村では井戸を塞ぐほかに、家によ ってはその代用として井戸端に火を焚きつけるための「つけぎ」を置いていたという事例もあり、日食や月食時の井戸の管理に 関しては、このほかにも各地でさまざまな取り組みが実施されていたかもしれません。
 bの供えものについては、具体的に灯明、線香、水、米飯などが記録されていますが、いずれもこの現象に特有な要素はみら れず、他の行事と同様に祈願に伴う供物と考えて差支えないと思います。
 dのその他として、深谷市の事例をみると「堆肥場などの汚いものに筵をかけて見えないようにした」と伝承されていますが、 おそらく、伝承の過程で意味が変化してしまったと考えられます。本来の意味は決して汚いものではなく、むしろ農作物の栽培 に欠かせない堆肥を安全に保持したいという人びとの切実な思いであったと推察されます。
 現代のような科学的知識を得る術がなく、極端な情報閉鎖社会に身をおいていた人びとにとって、太陽や月に大きな異変が起 こるということは、現代人が想像する以上に精神的な苦痛を背負う現象であったに違いありません。今日からみれば考えられな い認識や対処法も、当時の暮らしや習俗を知る重要な手掛かりであることを忘れてはならないでしょう。

 

〈左〉金環食後の太陽(2012)/〈右〉皆既食前の月(2011)


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【 彗 星 】
 肉眼で見られる彗星の出現は少なく、またどこでも見られるというわけではありません。まして、長く尾をひいた大彗星とな ると、かつては生涯で一度めぐり会えれば幸運という状況でした。歴史を遡ると大彗星の記録がみられ、その中でよく知られて いる一つに約75.3年の周期で回帰するハレー彗星があります。直近の1986年の回帰時は、期待に反して明るくならなかったもの の、その前の1910(明治43)年の回帰では長い尾が現れました。しかし、それ以上に世界を騒がせたのは、彗星の尾の中を地球 が通過し有害物質に晒されるかもしれないという不確実な情報によって、社会的な混乱が生じたことです。結果的には何も起こ らずに済みましたが、多くの人びとが彗星に対して負のイメージを強く抱いたことは確かでしょう。
 その後、ヘールホップ彗星(1997)までの87年間は、7個の大きな彗星が出現する華やかな時代を迎え、5年から29年という 比較的短い周期で夜空を賑わせてきました。聞き取り調査では、子どものときに大きなホウキボシを見たという人が少なからず いますが、おそらく1910年のハレー彗星ではないかと思われます。なかには、二人の日本人が発見して世紀の大彗星となった池 谷・関彗星(1965)の目撃談が含まれているかもしれません。いずれにしても、大彗星の出現は一般に凶事をもたらす存在とし て認識されていたのです。
 各地の俗信をまとめると、ほぼ五つの類型に整理され、そのうち最も多いのがホウキボシの出現によってよくないこと(災い 事、不吉な事など)が起こるという事例(14)です。さらに少し具体的な見方として、変わり事がある(6)、戦争が起こる( 5)、凶作になる(2)、天候不順になる(2)などがあります。これは埼玉県にかぎらす、ほぼ全国的な傾向といえるでしょ う。


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【 流 星 】
 流星は、突発的な現象でありながら目撃される機会は多く、見る人にさまざまな想いを抱かせる存在であったようです。短い 時間で輝いては消えるその儚さもさることながら、一方では、その光に希望を託すという姿勢がみられます。凶事と吉事、これ ら二つの側面こそが流星の俗信を形成する本質かもしれません。
 まず、流星の出現を凶事と結び付けた見方として、
・流れ星が飛ぶと人が死ぬ〔飯能市〕
・流れ星が飛ぶと縁起がよくない〔両神村〕
などがあります。このような不吉な予兆としての捉え方は、彗星の場合と同じです。さらに、信仰的な要素が加わると、
・流れ星は人の魂だという〔小川町〕
・流れ星を見て、人魂が飛んだという〔寄居町〕
・流れ星を20歳前に見ると、その後は人の魂が流れるのを見ることができる〔行田市〕
という具合に変化します。最後の事例はどのような真意かよく分からないものの、人の生命を星に託すという点では一致してい ます
 次に、流星の出現に希望を見出すという事例がいくつか記録されています。内容的に二つのタイプがあり、一つは願い事を叶 えようとする事例です。
・流れ星を見たら、それが消えないうちに願い事を唱えると叶えられる〔東松山市、小川町〕
 もう一つは、さらに具体的に表現したもので、
・流れ星が自分のほうへ向かって飛んでくればお金が入る〔所沢市〕
・流れ星が消えないうちに「何々一升」といえばお金が入る〔名栗村〕
となり、いずれも流星を幸運の星として捉えていたことが分かります。
 星にまつわる非日常的な現象は、その不可解さ故にさまざまな憶測をよび、さらに増幅され伝播したものと思われます。多く は迷信とみなされ、民俗知識の一部として扱われてきました。しかし、たとえ科学的な根拠を見出せない迷信であっても、それ ぞれの時代において、人びとが宇宙とどのようにかかわり合ってきたかを理解するために大切な情報であることに変わりはあり ません。星の文化に込められた価値観は決して特別な存在ではなく、私たちの暮らしと常にかかわりをもちつつ継承されてきた のです。


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