文字はいったい、どこからやってきたのだろう?
2008/11/30/sun/ Ysasa
▼ Rep-6徐冰(XU BING 1955-)の文字「漢字」に、共鳴してしまいました。ここに敢えて模倣させていただきたい。徐冰 XU BINGのHP(Eng) 地球上に溢れる文字・ことば:太古より使命を与え、刮し、刻み、綴り、刷り、地下に埋めた秘文、ムセイオン、世界中のライブラリ、163億Kmの彼方から宙を閃き至る記号……。文字や記号まみれのこの星で、突如心に響く文字「漢字」に出会えた奇蹟の不思議!
●TITLE-1:和漢字絶句 徐冰の「天書」に触れて
上の詩句に見える漢字は、存在しない文字です。ですから句は読めません。「天書」は、徐冰が1987年に発表した「天書 析世鑑」を指します。彼は漢字を創り、彫り続けました。その数4000文字。実在の漢字ではなく、彼が創造した漢字です。康煕字典を元に、偏と旁を考え、偽の漢字を判に仕上げました。伝統手法で印刷し、書物に仕立てました。500冊を床に広げ、字が刷り埋められた五つの卷子で天井を垂れ被い、壁もその字で埋め尽くした、息を呑む冗談作品。しかし伝統に基づいています。偽の文字に意味はありません。しかし作字に意図が生まれます。綴れば、目に見えない「念」のようなエネルギーが生まれます。
●TITLE-2:SPLUSO 徐冰の お名前は? に触れて
左の文字は、漢字ではありません。漢字に見える、閃きの字形です。ですから読めません。徐冰1999年発表の「Your Surname, Please」に共鳴しました。アルファベットを漢字の部首に置換え、組合わせた形が漢字に見えるという方法を、コンピュータを介して視覚化する芸術作品です。偶然の字は読めないのですが、趣は興味深い漢字です。SPLUSO:拙室の英字6文字を使った試作は、漢字「響」のイメージです。
数年前、横浜市内の学校で「響」を学びました。伝統の授業は、生徒と教師が何十年もかけ共同で作り上げた、独創のゼミのようでした。根っ子を真正面に捉え、生徒と教師自らが調律し合う、気付きの授業展開なのです。土に親しみ、芸術に親しみ、学問も生活を通じて「学ぶとは何ぞや」と体感する学校でした。人と時間を大切に醸成する授業は、スピード志向の現代教育とは対向する、皮肉な軋轢でもあるようです。
「響」という体感は、一人では得られません。徐冰の「Your Surname, Please」も、コンピュータと物好きが揃わなければ徒労の大事業に終わったでしょう。芸術家は独創的だから、何を表現してもいいと思われがちですが、自分以外の人々と共鳴を求めない芸術家など、この世にいないでしょう。教育とは、教師と生徒が対峙して「響」くこと…この学校で学んだのです。デザインも同じ、相手が濁っても、自分が濁っても、響かないのです。時間が足りないなら人を、人が足りないなら時間を、物好きにする智慧を!「Your Surname, Please」は、そう助言しているのです。
●TITLE-3:龍 徐冰の 猴子撈月 に触れて
龍は実在しない生き物でが、漢字が存在するという不思議。中国皇帝のシンボルとして創られた(らしい)とあって、その徹底ぶりは万里の長城のようです。拙項「いろテナーニ」の青色レポートでも取り上げましたが、古代書に詳しく性格、風貌に至るまで記載されている龍です。試作はロートアイアンで鋳込んで、帽子掛けにいたしましょう。漢字は図絵を加えると影絵のように物語を帯び、さらに東洋神秘的になります。筆、硯、墨の持つ、文化特性がにじみ出るのです。
徐冰が2001年に発表した「猴子撈月」に感化されました。中国の古い諺をテーマにデザインした剪紙(吉祥の切り絵)風のインスタレーション。猿の子どもたちが池に映った月を本物だと思い、木の上から尻尾と手を繋いでやっとのことで掴もうと触った途端、あっ!波紋とかき消えてしまうお話。徐冰は、単なる文字を滑稽なストーリーと夢を運ぶインスタレーションに変身させるのです。文字を擬人化することは、昔から西洋の絵本等で試みられている手法ですが、漢字のもつ映像特性はやはり群を抜いているのです。龍の漢字は、風になびく雲までが見えるよう、計算されて創られているのです。音符は「立」で「月」が胴体で、文字向かって右は躍動飛行の様を表している
(大修館新漢和辞典より)と、説明が細かい。漢字には「顎の下の魔法の玉」がないけれど、試作には書き込みました。天に向って昇り鳴く龍は牡で、地に向って降り鳴く龍は牝、それに5本指が皇帝龍という原則もあるのです。中国には詩人が何と大勢いることか。
●TITLE-4:moyura 響 徐冰の 魔毯 に触れて
燕脂色の上に書かれた文章は、中国文ではありません。歴とした日本文、日本最古の書物「古事記」の三貴子の分治の文章:伊邪那伎命が、最後に生んだ三神(天照大御神・月讀命・建速須佐之男命)に任命する場面です。拙作は、徐冰が2006年に発表した「魔毯:Magic Carpet」に共鳴したものです。彼は前述の方法(英字で漢字を創造する)を応用し、英字で組立てた疑似漢字676字を織り込んだ、手織絨毯の仏教経典を創り出しました。偽物/本物を問わず、願いを織り込んだという事実が、眼前に展開されるのです。彼の芸術に対するエネルギーは濃密で人間味に溢れ、誰もがうなずくわかりやすさ。洒落を感じます。
タイトル「moyura 響」とは、日本の古語で「鈴の音などが揺らぎ響く様」を言います。古事記の三貴子の分治に、この原初の様子が記されているのです。「珠」が初めて記されます。珠は古来龍の持ち物、超越の秘石(宝石)です。親神である伊邪那伎命が、首に掛けていた珠を取って、自身の左目から生まれた子ども、天照大御神にお与えになった。珠の名は御倉板擧之神。この珠の持ち主は神の子であり、祭壇に祭られて然るべきその珠。首から外す時、母由良邇、通されている玉緒に揺らいでいる
と表現されています。日本のいにしえのことばです。
※辞書大言海:もゆら:緒ニ貫ケル玉ノ、相觸レテ鳴り響(ユラ)グ音ニ云フ語
;響く=響;清々しいその音、鳴る様。黙って目を閉じて、鈴や珠の触れて鳴る音を、想像してみてください。
※追記2012.0728:東大寺でダウン症の女流書家 金澤翔子氏が席上揮毫するTVを観ていて、気づきました。大勢の人々が、彼女の筆さばき、息づかい、足の運び、すべてを息を詰めて見ている…次第に形作られる文字の影を食い入って見ている…筆を持つのは女史なのに…見守るひと皆こころに同じ筆を持ち、共に目で字を書いていると。私も念力でお手伝いいたしました。漢字には読む/書く以上の何かが、きっと隠れていそうです。感謝。
2009/02/14/sat/ Ysasa
▼ Rep-7旧書体だから読めないのではない。潰れているから読めないのではない。最初から、何と書いてあるのか読めない。同じ漢字なのに読めない。え〜い、漢詩も学習するぞと腹をくくっても、ヒエログリフより手に負えない。さあ、どうする、美しい書の世界。
私淑の大先生ですら学ぶという「書」には、漢字の龍神が宿っているようです。歴史ある書道展に三万筆を超える作が集まるのも、美の筆さばきを探求する塾生が後を絶たないのも、漢字に永遠を鋳込む龍の仕業:偉大な康熙字典の49000漢字、説文解字の無尽漢字秘話……花弁より、「書」の根を見なさい!
(左書)空書実験作1 by spluso
実在の五言律詩をベジェライン化した作品。空書とは、文字を覚える時、あるいは筆で字を書こうとする時、指で空間になぞり指に覚えさせる、あの所作(漢字文化圏特有らしい)です。書作を目の前にしてもよく読めないのに、空書で書をなぞり、そのラインを可視化して変換配置してみると、あらら読める/創造できる部分が現れるのです。本当に不思議です。(元作品:明朝の傅山 作「草書五言律詩軸」東京国立博物館 名品ギャラリー)
京都新聞のコラム、石川九楊氏の「一日一書」に取り憑かれました。二玄社から出版された書物をなめるように読み耽った毎日。そこで出会った副島種臣の書は、「え〜い、読めなくてもいい!」と、思わず叫びたくなるほど、心ふるえる書でした。痛快なのです。
(上書)空書実験作2 by spluso
感激の作品から、その独自性を払拭することなど不可能です。天を巡るもくもくと台風の目のように睨みつける雲、天を打つぐるぐると駆け馳せる雨。どうです、彼の書には神來る何かがあるでしょ? 空書ベジェが、書体(漢字の外面)を剥ぎ、原点の「絵」を導くのです。勝手気ままに想像してみてください、ここに「埒」などありませんから。(元作品:副島種臣 作「歸雲飛雨」;佐賀県立美術館蔵)
副島種臣 著「精神教育」第二編「感化」より抜粋 「かまぐると云ふが、日本の古語である。神来ると云ふ事で、自分に心が有らば、天地の氣が其處に來ると云ふものである。
此の語を創めた人は、感應の理をはっきりと知って居たであらうと思はれる。」
「書は読めなくても、形色配置の妙で楽しめます」……大嘘です。文字・文章は伝え記録するためのもの。美しい書はその場で読みたい!誰かが独占して、墓場に持込むかもしれません。今日の友と明日また会えるでしょうか? (左書「神」)王羲之の「快雪時晴帖」をどうしても欲しくなっちゃった乾隆帝の書。書を学問しなくても悟っていらしたんですよね、帝なんだから。
故郷我が家の仏間に掛かる、達筆な四字の墨跡。幼い頃「何て書いてあるの?」と尋ねたら、祖母は木魚ではぐらかし、母はさ〜ね〜と目をそらし、父は忙しいと足早に、叔母は大きくなったらねって言いながら、チーンとお鈴を打つ。読まれぬまま黙って禅を組む、読めない書。あれからもうずいぶん会っていない。読んでもらえたのかなぁ、墨跡だから色は褪せないだろうけど。
2010/03/27/sat/ Ysasa
▼ Rep-8♣1981年10月、私はカメラバッグひっさげ、フロリダオーランドのマジックキングダムにいました。秋真っ盛りのパークは晴天、10周年記念で大賑わい、隣接地ではEPCOT Center建築の真最中。夢の世界の入口に立ち、まるで不思議の国アリスになった気分でした。
♣誰も快適を邪魔されない、至極当然のことを守ることでホスピタリティを叶える夢の国…並大抵ではありません。手にしたガイドブックが現実なのですから。夢の国環境が高度デザインであればあるほど、現実世界との連携プロモート&サービスに影響が及びます。ファンタジーランドに魔女はいますが公衆電話? トゥモローランドに禁煙マーク? 言葉を不要とするピクトグラムの独自性、インターナショナル性をどのように考えるかが、課題です。(写真©spluso:1981MK Guide bookの部分とPictogram)
♣夢の国の王様は魔法に忙しい。International Symbolや案内の文字にもビビデバビデブー、なさいます。初めて手渡されたガイドブックなのに、どうしたの?絵文字が変…WEDさん。1955年7月17日、アナハイムのディズニーランドへつめかけた初来園客に向かって、Walter E. Disney が述べたセリフを、どうか思い出してください。To all who come to this happy place; welcome. Disneyland is your land——
♣昭和の始め(日本は最悪の治安維持法を生み、言論を理不尽に統制する不穏な軍部台頭の時代)、オーストリアでは第一次世界大戦で粉々に砕いてしまった秩序と、歯が抜落ちるように崩れて行く経済に追いつめられ、次第にアンシュルス運動(独墺合邦)のさざ波が、ナチスを引寄せる瀬戸際にまで迫っていました。そんな時代1925年に、そんな国情のオーストリア「赤いウィーン」から、"International System Of Typographic Picture Education"は生まれました。頭文字をとり、ISOTYPE と呼ばれます。本意は「国際システム–印刷図像教育」でしょうか。ナショナリズムが激突し合う非常の時代に「インターナショナルシステム」と謳っている点が興味深いのです。
◎ISOTYPEの開発者:オットー・ノイラート Otto Neurath 1882-1945 墺ウィーン;科学哲学者、政治/経済/統計学者。ウィーン社会経済博物館館長
◎ISOTYPEの設計者:ゲルト・アルンツ Gerd Arntz 1900-1988 独レムシャイト;画家/版画家。ケルン進歩派芸術家グループ;意匠設計家。(†1)
♣当時ノイラートは、ウィーン大学哲学サークル「ウィーン学団」の中心的存在で、大哲学者ウィトゲンシュタイン(Ludwig J.J.Wittgenstein 1889-1951)とも接点を持つ世界的な科学哲学者でした。一方で、プロレタリアート(賃金労働者階級)を把握する政治学者でした。小難しい新聞ではなく、世界をわかりやすく学習する仕組み、その情報を届ける仕組みを急がねばと考えたのです。彼にとって「インターナショナル」は、至極当然の条件に過ぎなかったかもしれませんね。
アイソタイプ意匠を担当することになる版画家、アルンツの様式は「clear-cut style」と言われます。ケルン革新派芸術グループとの交流で、労働者階級の現況、社会の不平等や戦争を世に問う左翼雑誌に、抽象木版画表現で参加出版する活動を行っていました。不条理を訴える明瞭さが、ノイラートの目に止まったのです。
上図は「Gesellschaft und Wirtschaft」(1930)100枚からの抜粋。ノイラートとアルンツが中心になって作り上げた、絵記号による統計:Pictorial Statisticsを地図と図表に連動させた画期的なアトラス集です。まだ見ぬデザイン概念は彼らが「ここで」創り出したのではないでしょうか。
♣社会的課題を担った「インターナショナルシステム」アイソタイプ……時代を切り裂いて行くためのサバイバル道具にも通じます。「インターナショナル」は、はるかに根深いルーツに起因するのでしょう、「科学的世界把握—ウィーン学団」は、完璧哲学です。
「私たちは、科学的世界把握の精神がいかにして私的・公的な現代の生活、裁判、教育、芸術に一層深く浸透し、経済的・社会的生活が合理的基盤に基づいて形成されることを助けているかを体験している。科学的世界把握は生活に寄与する。そして生活もこれを受け入れるのである。」
♣ノイラートの言う「インターナショナル」を知りたくて「INTERNATIONAL PICTURE LANGUAGE」(PDF DL式)を読み漁りました。(左:KEGAN PAUL,TRENCH,TRUBNER & Co.,Ltd.1936 London)
1934年、ナチスの介入を受けオランダへ亡命した彼は、ハーグにISOTYPE研究所を設置し、本部を「Mundaneum Institute The Hague」と名付けます。Mundaneum:ムンダネウム!(カリマコスの霊が乗り移ったか!)図書分類UDC世界十進分類法の基盤を人力で開発した書籍目録の鉄人 ベルギー書誌学者・弁護士 ポール・オトレ(Paul Otlet 1868-1943)と、ラ・フォンテーヌ(Henri-Marie La Fontaine 1854-1943;1913ノーベル平和賞受賞)、それに建築界の巨匠 ル・コルビジェ(Le Corbusier 1887-1965スイス)が深く関わる言葉です。
♣現在ベルギーのMonsモンスに所在するMUNDANEUM (左写真;HP仏語)によれば、オトレは1895年頃から「その構想」に明け暮れ、1907年には「国際連盟中央事務所」(†2)ブリュッセル」を組織し「The World city」キャンペーンを大々的に開始しますが、戦争をはじめとする多大な困難に阻まれます。
「その構想」とは、世界の情報すべてを集結させる学際的機関を中心に、主要文化機関を機能させる都市計画で、世界美術館、世界大学、世界図書館とDCC、国際会議場、各国大使館等が相互連携する「知の世界都市構想」です。1928年4月、国際連盟コンペ事件の渦中にいた前衛コルビジェに白羽の矢をたて、「世界都市構想」の設計依頼を発注するのです。全貌は1928年8月「MUNDANEUM」として、UAI国際団体連合から世界の各方面へ発信されました。
—MUNDANEUM—Destinante 目的:
1)Labor et Intellectus 労働と知識 2)Fæderatio de Cooperatio 連帯と協力 3)Pax et Progressus 平和と進歩
♣オトレの記事には、何度も「pacifist and internationalist」という肩書きが出てきます。ヨーロッパ、特にオーストリアを中心とする地域は、何世紀にもわたる多民族間の混乱に疲弊し、こころの平和を一心に求めていたにちがいありません。Palais Mondial-Mundaneum:世界宮殿-ムンダネウム。オトレの墓碑には次のように刻まれているそうです。 ——Paul Otlet. Il ne fut rien, sinon Mundanéen.(ポール・オトレ、ムンダニーンその人)——
♣1976年にNewYork Dover社から出版された「HANDBOOK OF PICTORIAL SYMBOLS:3,250 Examples from International Sources」を買い求めたのは、82年の正月でした。その頃はまだ、作者Rudolf Modleyがどういう人物なのか興味など全くなく、ピクトの意匠ばかりに目を向けていました。TDLサインワーク中に突如、あの「車椅子シンボル」が出現。その情報収集中に後述のAIGA「Symbol Sign」と出会ってピクトにハマるのです。Doverで見つけた!車椅子利用者ピクト!
♣ルドルフ・モドレイ(Rudolf Modley 1906-1976)は、米国ピクトグラムのパイオニアでしょう。シカゴ科学工業博物館の研究員を務めた後の1934年、NewYork Pictograph Corporation社の取締役に着任します。政府やメディアにビジュアルソースを提供/提案する業務が柱でした。一方で、ノイラートのISOTYPE研究員としても働いていました。彼がウィーン大学生で熱心なノイラートの生徒であり、オーストリアからの亡命者だと知ったのは、つい最近のことです。
♣赤と黒、定型ISOTYPEを米国に持込んだモドレイですが、時の経過とともにそのデザインが躍動的になっていきます。上は「USA in New Dimensions 」(Thomas Carskadon and George Soule著;NewYork-Macmillan 1957)の1ページですが、大胆な構図を取入れた絵図は、すでに言葉を補完するというより、背後の生活環境をイメージさせるにまで完成度が高まっています。
Words Make Division, Picture Make Connection.
と、ノイラートは説きます。文字つまり理論や統計が「区分」をつくり、絵図が「結合」を生む、というのです。モドレイは20数年、それも米国という場所を得て、ISOTYPEを大きくノイラートの理想へ近づけたと言えるでしょう。概してデータに対しての意識が高く、科学「信号」のような存在であったISOTYPEが、Pictogramという新しいデザインへ昇華したのではないかと。その糸口も「International」という概念、自由主義世界アメリカで暮らし続けたモドレイの、心境変化による影響ではないかと推察するのです。カント言く内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である
と。実体験を経なければ、概念は語れないのです。
♣1960年、モドレイは文化人類学者マーガレット・ミード(Margaret Mead 1901-1978)と協力し、新たなインターナショナル・グラフィック・シンボルの開発、より高度な「Universal」のゲートを開くのです。
探しています。1964年 東京オリンピックで採用された?車椅子ピクトグラムを! ( 2012.05.10.追記詳細:Rep-10 ▼)
・目的1)歴史初のコミュニケーションピクトシステムとバリアフリー意識の調査
・目的2)閉会後に続く東京パラリンピックとの連携調査(当時はまだ左「国際シンボル」は存在しない)
♣1969年(左上)青い「国際シンボル」は生まれました。国際リハビリテーション協会RIが所有(国内管理者:日本障害者リハビリテーション協会JSRPD;商標登録 第1562455)、国際標準化機構 ISO-7001 に登録(同一絵図ではない)された、世界共通の「Disabled-Accessible Symbol」です。障がい者の利用を考慮した建物・施設を示す
バリアフリー標示であり、まちづくり標準への啓蒙シンボルです。交通信号同様に世界共通認識を求めますが、表現意図が正しく周知されずほころびが多く起きているのです。車椅子の人の絵図=車椅子利用者への案内と認識するため、本来の目的「すべての障がい者のため」に到達しないのです。
♣(左下)「車椅子ピクトグラム」は、グラフィックデザイナー福田繁雄創作の 大阪万博1970 システムピクトグラムの一つ。万博は左上の「国際シンボル」発表の翌年に開催されたため、専門家はその情報を正しく捉えておられるでしょう。しかしそのRI型「国際シンボル」は利用されなかった……なぜでしょう。
追記 2012.05.07:広大な万博会場内にただ1か所(モノレール東駅前)、当該車椅子ピクトが使用。凡例に「身体障がい者センター」との記述を確認。1)広報ひゅうが 1970年2月号(万博3月15日開幕の1か月前)に事前記事掲載—障がい者対応のサービスセンターを設置して、付近では職員が肢体不自由者に車椅子を貸し出し(常備400台)たり、TV電話による手話情報を提供する
—のお知らせあり。2)ライオンズクラブ国際協会の公式機関紙「LION」の情報資料室1970年の項目に1.31.日本万国博覧会に協力、『身体障がい者センター』竣工。」「3.15.日本万国博覧会の会期中、地元会員がヘルパーとして奉仕。
と記録あり。車椅子トイレの設置程度は不明。;調査の結論:当該ピクトグラムは施設/サービス案内用標示の仕様開発。建築基盤に関わる「国際シンボル」は使用不可能だったと推測;今後の課題:モチーフ「車椅子」が、バリアフリー証明の意図と、特定施設/サービス案内の意図と、二極混在で利用者混乱を誘発するだろう。
♣1974年、DOTアメリカ運輸省とAIGAアメリカ・グラフィック・アーツ協会は、旅行者のための道案内シンボルレポート「シンボル・サイン国際統一化への34の提案」をまとめ上げます。その二年後には日本語版「Symbol Signs」(CoCoMaS委員会編訳;宣伝会議発行1976.9月)が早々に出版、移動ホスピタリティの共通化が急がれていたのです。しかし「国際シンボル」掲載ページは、シンボル+コメント「ワシントンDC障害者雇用大統領委員会へお問合せを」とあるだけ。詳細調査は一向に進まぬまま、定規とコンパスで作図割出しを行いました。
AIGA/DOTの提案は、世界に交通機関の安全・快適を統一標示設計で高めようと呼びかける行動です。一方、RI国際リハビリテーション協会による"International Symbol of Access"は、その標示案内統一を超えて、障害者の物理的環境改善のために使用しよう
とより良いまちづくりを世界に訴え普及するキャンペーンのシンボルと化したのです。上記AIGA評価基準に「国際シンボル」、当てはめていいものやら。
「International」は20世紀の人々にとっての桃源郷だった? ユートピア、ノーマライゼーション、バリアフリー、ユニバーサル…。公平を盾に戯言をぬかすな。それよりまず先に「障害者」という表現をバリアフリーなさい、青い車椅子の主が泣かないように。
2011/06/02/Thu/ Ysasa
▼ Rep-9なぜだ? どうしてだ? 気になって仕方がないものの、泥濘のような鬱陶しさに気もくすむのです!「ヶ/ケ」姫さま。幼い頃、夢にまで現われていた「琴姫七変化」の琴姫さまとは、今だに挿入歌メロディがハミングできちゃったり、訳もなくウキウキ・ルンルン気分でいられるというのに、全くのド対極…。落込む、イライラ、どうでもいいけど、どうでもよくない!「ヶ/ケ」姫さま、一体どうすればいいのですか?
♣字を小さく書くといえば拗音/促音です。きゃ・きゅ・きょの類が拗音、つまる音「っ」が促音。小さく書くように、そう小学校等で教わりました。「正しい現代仮名遣い」は1946(昭和21)、改訂が40年後の1986(昭和61)7月内閣告示…ずいぶん新しいのです。「拗/促音小書き」はさらに平成になってからの法令で「なるべく小書きにする」(†1)と控えめです。他と同じ大きさに書いても間違いではありません。「正しい」はフォーマル形式への相づちでしょう。
♣でもこの小振りの「ヶ」は、拗音でも促音でもない。?じゃあ誰?
数えるための漢字「个」(†2)が、手書き(上代は筆書き)のため「ヶ」の字形に収れんしていったようです。日本語読みは:箇[ka]/個[ko]。中国語ピンイン[gè](クォに聴こえる)です。日本で単に1ヶ、2ヶと書かれる場合は個数の個[ko]です。片仮名ではないので、決して「ケ」と読まないこと。
漢字「个」:中国伝統の字形辞書「説文解字」(紀元100年)に「竹」の半分の象形;禮記 月令(参照:Rep-5「緑と青の、摩訶不思議な関係」別ウィンドウで開きます)に孟春 天子居靑陽左个 季春居右个
とあるのも、半左半右の関係を示すもの;辞書群(†3)巡ると(1)箇·個に同じ物の數にいう(2)つつむ(3)ひとり(4)ひさし:母屋の四面にある旁舍(5)介に通ず…分かれるの会意字形;字形が似て書き損じ云々は、洒落たいがための先生才覚自慢でしょ、ケと个と丁(†4)と介と十と下でしたっけ?現役日常漢字「个」ですね、中国では。
♣ではなぜわざわざ小書の「ヶ」なのか? 漢文訓読の影響? 宣命体(漢字仮名交じり文の源泉)の影響?
京都御室の仁和寺所蔵書跡、重文「日本図」の奥書きにしっかりと「五ヶ國」「十五ヶ國」と「ヶ」書きが見えます。書写年代1305(嘉元3)は鎌倉後期。現存最古の書き写し地図「行基図」に、すでに小書きで使われているのです。書き留めた数値が主で、その助数詞「个」はすでに漢字ではないのかもしれない。
按續世說一丁作一个、因篆文个與丁相似。傳寫譌作丁より
♣(上図)京都古地図「花洛往古図」(平安末期との解説)に地名「鷹ヶ峯」の記載を発見!かい川(紙屋川)沿いの風景、今昔物語に幻の寺と記述が残る霊岩寺と石門の字も認めて万歳!!京の俳諧師(現代コピーライター)秋里籬島と、浮世絵師 下河辺拾水のコンビ出版京都ガイドブック「京の水」のオマケ「花洛往古図」は、500年前の京都の様子を復元で作り込んだ江戸寛政1791製の木版絵図でした。つまり、書き損じ(思い違い)の可能性があることに気づいたのです。内容は平安後期でも、文字の形態までレプリカしたかどうか、確証などないのです。
♣怪我の功名です、上図出版より数年前、京・江戸で大ヒットした大作シリーズ「都名所図会」に出会い、同じ「鷹ヶ峯」文字を比較(左図)できたのです。「ヶ」書きではなく、丁寧な濁点付き変体仮名「が:可+てんてん」での筆跡でした。あれ?!発声の字起こし……和語の意識……。実は両絵図ともに、同じ俳諧師 秋里籬島の手による構文なのです。しかも先作が「小書き+濁音変体仮名」の筆、漢字とは異なる意識(時の俳諧師としての文学プライド)を示す明らかな証拠でしょう。製作に数年をかけた当該出版(京の豪商 吉野家為八企画スミ刷り6冊の京都総合観光マガジン)は大都市圏販売、多方面にわたる厳しい歴史校正必須の大商いなのですから。
♣和語の清濁音研究を拓いた本居宣長の愛弟子、石塚龍麿はこうおっしゃっております。
かたはらに濁りをさせども あるはきえうせなどもし(濁点という方法もあるけれど、小さいからどこかで消え落ちることだってある)
度重なる京の風雨大災害は高岑寺仏像移設の祟りと記録されたのです(日本三大実録巻25、貞観16年8月24日の条)。西へ鷲ヶ峰、天ヶ峰と連なり峯三山と言われる神々しさ。それを「兀山」やて京都市さん、またバチ当たりまっせ。
♣吾輩は猫先生の案内で文学小径を彷徨うと、いろいろ「ヶ」の地タイトルが隠れておりました。泉鏡花:龍神が棲む「夜叉ヶ池」、岡本綺堂:沼に沈む鐘の奇談「鐘ヶ淵」、太宰治の「猿ヶ島」に、あぁ情景浮かぶ北原白秋「城ヶ島の雨」……、まだまだ菊池寛:大河ドラマか「賤ヶ岳合戦」やロマン呼ぶ芥川竜之介の「槍ヶ岳紀行」、徳田秋声自然大パノラマ「霧ヶ峰から鷲ヶ峰へ」、国木田独歩の「湯ヶ原ゆき」等々、「雑司ヶ谷」の路地裏はヶラヶラ煌めく文豪「天ヶ瀬」のようです。
♣ところで「天ヶ瀬」は地勢の曲瀬からの好字化で、嘉名の「天ヶ瀬」になったと学者推察されています。(†5)「天」の嘉字より、漢字(个)変体の「ヶ」を選ぶ何かに私は興味を持つのです。好字化は制、畿内七道諸国郡郷名着好字
(続日本紀 七一三年五月二日条)を端とする、現代の地名学です。「六ヶしい」話で素人の手には負えません。しかし万葉仮名の「音」に和訓で字を当てた先人の知恵は理解できます。器用に才覚男子が洒落「音」借字を編み出せるのも、隙あらば経文片カナ「音」埋めする始末も、合理で理づめる男坊主の性分なのです。「が→ヶ」も「音」変体の類かもしれないのですから。
日本で現存最古の書き物「古事記」と歴史書「日本書紀」に登場する佐渡について
古事記より 左上画像「校正 古事記 徳川氏蔵版」p15/86;永田調兵衛 出版明治8.4;国立国会図書館デジコレ
……次生佐度嶋……
次ニ佐度嶋(サドノシマ)ヲ生ミタマフ
日本書紀より 左下画像「日本書紀 30巻-1」舎人親王編p6/45;国立国会図書館デジコレ
……次雙生隠岐洲与佐渡洲……
次ニ隠岐洲(ヲキノシマ)ト佐渡嶋(サトノシマ)トヲフタゴニ生ム
♣原文に「ヶ/ケ」に相当する字はありません。ところが共に、その解釈を寄せた述者が記すと嶋/洲の前に「ノ」が現われます。読みによる「音」の字。想像ですが、上代日本の漢文訓み下し(和訓)の流れなのでしょう。日本古来のことば風習かどうかは専門が過ぎますので…。あるいは賜姓同様、国生みにも天を影響させるものかもしれませんし…。
現実の佐渡について、佐渡市教育委員会にある佐渡学センターに詳しく解説されていますが、佐渡島:サドシマ、佐渡ヶ島:サドガシマ、共に地名として存在しています。
・サドシマ派=国土地理院と海上保安庁と文科省
・サドガシマ派=国交省と外務省
どこから「ヶ」が現れなぜ「が」と読むのです?
♣佐渡を例に挙げただけでも、一筋縄ではいきません。地名はどこまで遡っても地名のはずですが、何かのはずみで無いはずの字が突如現れ、また何かの弾みで変身するとは、まるで山彦のような神遊びを感じずにはいられません。「ノ/ヶ/ケ」は言霊の残像…日本和字の影なのかもしれませんね。
♣横浜保土ケ谷区のはなし。
ホームページ区の概要トップに「保土ケ谷区」の「ケ」は大きな「ケ」です!ときたもんだ。どこをどう読んでも「ほどがやく」の「け」はおおきな「け」です?
保土ケ谷区という地名中の「ヶ/ケ」サイズだけが、なぜか正誤の土俵に上げられたためです。
区側は「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例(条例第1号:昭和34年3月14日制定)を根拠に、大きい「ケ」宣言をしました。
条例本文をネット版で読むと、確かに大きい「ケ」の印字でした。市内のすべての「ケ」のつく住居表示も同様です。但し「ケ」表記すべて大きい「ケ」で記すこと!との付帯文は見当たりません。
大きい「ケ」が公称と発表された後も、ご意見箱「市民の声」には、小さい「ヶ」がまだ残っている、ここにも、そこにもほらま〜だあそこにもと、指摘が続いていたことご苦労様です。昔を知る人たちは、どんな思いでしょう?地名ってそんなもの?由来ですら「諸説あるが…」です。「ヶ/ケ」のサイズに白黒つけることで、先人たちが蓄積してきた「保土ヶ谷」に、新たな何かを付加することができたのでしょうか? 広重さんも、さぞ困り顔でしょう。
♣横浜市営地下鉄「三ッ沢上町駅(みつざわかみちょうえき)」「三ッ沢下町駅(みつざわしもちょうえき)」は、小さい「ッ」書きが正式駅名です。本部営業で当時の経緯をご記憶の方に、次のようなお話をいただきました。
・「駅計画当時にJRやら、東京営団地下鉄(現在のメトロ)の各駅名等を参考に熟慮に熟慮を重ね、小さい『ッ』を正式駅名に決定したんですよ」
・「小さく『ッ』書きすることが、当時正しいとされる書式でした」
・「住所表記は「三ツ沢」と大きい「ツ」なんですよね。読みもカミマチ/シモマチでしょ」
・「住居表示と混同させないよう、案内サインでも十分に注意しています」
♣その時すでに車内駅名表示-ネット上駅名-地図上駅名-みんな「大きいツ」…。歴史を知る駅舎の「ッ」だけが、静かに威厳を放っています。
♣文字のこと「知らなかった」では済まない事情も、インターネット時代に起こりつつあるようです。文字が記号として組み込まれ、瞬く間にモニター再現できるのも、規格コードの恩恵を受けているからです。でも小さな「ヶ」が「小書き片仮名ケ」(JIS-X0208の05-86)として、カナ群の最終点に小さい「ヵ」と並んで格納されたことには混乱しています。
この小さな「ヶ」が最近差別されているようで可哀想です、特に地名に見える小さな「ヶ」は。暮らしに関わりが深く、時代変化を余儀なくさる地名です。一刀両断のデジタル記号と複雑な歴史の重みは、比べようもありません。「ヶ」小さくても「ケ」大きくても、共に地名に生きてきたのですから。
♣オニガシマのことを子どもの頃、お伽噺だと信じて疑いませんでした。それが「鬼ヶ島」と書くのだと知って一気に怯えました。漢字と漢字を、たったひとつの小さな「ヶ」で繋いでいるように見えた地名は、実在するかのように恐ろしい孤島イメージへ変貌したのです。「ヶ」は文字ではなく、明らかに装置に見えたのです。「鬼」と「島」を摩訶不思議に反応させる、宇宙の触媒のように見えたのです。小さいとか大きいとかではなく、ウルトラQの渦巻きの入口に立たされたように、子どもの私には思えたのでした。
まだスッキリしないのです。「が=ヶ」証明の旅、出かけますか「ヶ/ケ」姫さま。そより そよそよ イヨッ!「琴姫七変化」いいよなあ(つづく)
2012/04/03/tue/ Ysasa
▼ Rep-10♣1964年東京オリンピック閉幕の後、東京パラリンピックが続き開催されました。進行・設備案内などオリンピックからの連携準備について調べたのですが……驚きました、無知でした。
・1964年当時、パラリンピック機構とオリンピック機構とは全く無関係の別組織であること
・日本では1961年、「車いす」スポーツリハビリテーションが始まったばかりであること
・車いすに対する知識の発芽が、この東京パラリンピックからであること
♣ああ、何たることか。これでは「1964東京オリンピックで採用された?車椅子ピクトグラム」は存在しないでしょうね。競技外の一般インフォメーションピクトは39種類(JOCに問合わせ中)あるのですが、現在30種しか確認できていません。障がい者に明るい環境が内向き、閉鎖的印象です。イギリス身障者の社会復帰率は95%、日本は50%にも届かない
と当時の新聞は揶揄したのです。大会に参加した競技者の次の言葉も危惧を象徴しているようです。
(前略)一番コンプレックスを意識しなかったのは選手村の中を車椅子でぶらぶら散歩している時であった。あの中では全く意識しなくとも良かったのであった。そこでは我々が主役なのであった。将に我々の世界であった。水を得た気持であった。あの気持ちを一瞬間だけでも感じることが出来たことは、パラリンピックに参加した最大の喜びであった。私は競技よりむしろその方に意義を感じたものだった。日本に於て身障者が、いつになったらあのような気持で社会生活を送れる日が来る事やら。一日もその日が早く来る事を祈るかぎりである。
(国際身体障がい者スポーツ競技会 東京パラリンピック大会報告書より抜粋:(財)国際身体障がい者スポーツ大会運営委員会:1965年8月1日)
♣パラリンピックを開いた当時の日本人の勇気は並大抵じゃない。東京パラリンピックこそ、人間の尊厳を日本に呼び覚ませてくれたと、私たちは気付かされたのです。ポスター(上図:二科会員 高橋春人デザイン)がそれを語っているではないですか。
♣世界の移動と公共サービス利用を円滑にするため、各国が協力してピクトグラム(絵図)で、文字を使わず統一的に案内する国際システムに取組んでいます。「すべての障がい者が利用できるバリアフリー環境」の実現は、公共サービス向上の必須要素です。街で見かけることが多くなった青い車いすの「国際シンボルマーク」も、そのシステムに登録されました。しかし残念ですが、本来のこの標示案内は正しく認識されていないようです。なぜならこれは「車いす」の絵図標示だからです。公式「すべての障がい環境解放の象徴=青い車いす」を成立させるには、すべての個別障がい環境の意識バリアフリーが必要です。きっとできるはずです。パラリンピックを成功させたのですから。
♣2010年10月、JIS認可の「Z8210標準案内図記号」について以下二点項目が改正。(検討委員会設置2015.4月;改訂公開2017.7月)
1)5.1.9(国際シンボルマーク)身障者用設備 → 障がいのある人が使える設備 Accessible facility
2)5.1.10(左図)車椅子スロープ → スロープ Slope
♣拙稿Rep-8「絵文字:Internationalという希望」(2010.03.27)で指摘した不安は、交通エコロジー・モビリティ財団にも共通していたようです。上記の改正で情報標示文言のみ改められましたが、絵図はそれでも依然、案内記号「ピクトグラム」扱いの改正文です。「国際シンボルマーク」の現実ままのISO記号なら、青い車いすシンボルの目指す理念は見た目との溝が埋まることはないでしょう。
♣何気ない日常の風景です。バス、列車、タクシー…。交通バリアフリー法(2000.11.15)がバリアフリー新法(2006.12.20)になり、いたるところに青い車いす「国際シンボルマーク」があふれます。昇降口のステップの高さ、出入口の幅員や明かり、手すりに座席間通路幅、車内の細かい部分にまで設計が配慮され、だれにも快適な移動/外出ができる社会を目指します。今までの偏った環境を脱しましょう。この「青い国際車いす」を貼るためではなく、私たちの心のバリアを剥がしていく作業にならなければ、何の前進もありません。
1964東京オリンピック採用の?「車椅子ピクトグラム」はやっぱり、ないのかなぁ…。