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『ニッポンときめき歴史館』(NHK出版)コラム
第4巻より

『ニッポンときめき歴史館』コラム 市えん様の奈良泉 柏 文彦

 寛政二年(一七九〇)三月一七日、武州幡羅郡《はたらごおり》下奈良村の市右衛門は、江戸は大手門横の下勘定所《しもかんじょうしょ》に呼び出され上酒《じょうしゅ》醸造を命じられた。
 勝手方勘定奉行の柳生主膳正久通《やぎゅうしゅぜんのしょうひさみち》は微笑をふくみ、「その方の度々の奇特の行状、上《かみ》もよく承知しておられる。此度《こたび》のことも──。下《くだ》り酒が高直《こうじき》(高値)にて、このまま捨ておけば諸色(米以外の諸物価)にも及び、やがては下々の難儀するところとなろう。その方の蔵の酒も、なかなかのものと聞く。ならばその方、上酒を造り、江戸にてそれを安く売り捌いてはくれぬか。さすれば、下々の喜ぶことひとかたならぬと思うが」と市右衛門の気を誘う。彼は早速に承り、下奈良村に帰った。
「市えん様が、御免酒《ごめんしゅ》(公儀御用達の酒)を造るんだと」
 土地の者は市右衛門のことを“市えん様”と親しく尊敬をこめて呼んでいた。その彼の御免酒醸造の話は、たちまちに近辺に知れ渡ったのであった。
 市右衛門は元文四年(一七三九)、下奈良村に生まれた。父、初代市右衛門の三八歳の年の子である。
 初代は下奈良村の東隣り、四方寺村の出身である。村の名主六左衛門の三男に生まれ、二五歳の年に下奈良村に四町四反の田畑を与えられ独立した。これくらいの田畑になると、作人も数人は付いていよう。初代は、農作業をもっぱら彼らに任せていたのではないか。自身は熊谷宿の市で白木綿を商っていたのである。白木綿売買で財を成した初代市右衛門は、やがて質屋、金融業にも手を広げ、ますます家産を豊かにしていった。初代六一歳の年に息子が家を継いだ。その時、二四歳の二代目は父が後年任された名主の役も継いでいる。
 二代目市右衛門は父に従って農業経営、白木綿売買に精を出した。父の口癖では「贅沢はするな、無駄な費えは始末するのじゃ」であった。そして、「始末した金、物を世のため、人のために使うのじゃ」と教えた。
 安永四年(一七七五)から市右衛門は、熊谷宿や近隣の村に通ずる道の、土や木の橋を石橋に架け替え始めた。
 このあたりは、利根川と荒川にはさまれた低湿地帯なので洪水に襲われることが多く、その際、土や木の橋だと流されて各地域が孤立してしまうのである。彼が架け替えた橋は十数か所
に及んだという。
 安永五年、市右衛門は本家の六左衛門から「酒株《さけかぶ》」を譲り受けた。
 酒株とは、明暦三年(一六五七)に設定された、酒造業者に原料米量を何石と表示した木札を渡し、この木札の所有者だけに酒造を許し、その表示高以上の醸造を厳禁するという制度の下の権利である。もっとも、元禄時代の後半から米が余り加減になってくると、米を給与として貰っている武士階級が困ることになり、酒造制限は次第に有名無実のものとなっていった。その結果、「十石の株より百石つくるもあり、万石つくるもあり」(松平定信『宇下人言』)という状況になっていたという。ところが、凶作に襲われ飢饉の恐れが生じると、社会不安を防ぐために幕府は酒造制限を厳しく実施した。酒株は豊作の時には無用のものだが、凶作の年には幕府にとって酒造業者を取り締まる絶好の武器だったのである。
 市右衛門は「奈良泉」という酒を造り始めた。事業は順調に進展した。
 天明三年(一七八三)七月、信州の浅間山が大爆発した。彼は早速、被害民に救援物資を送った。その後数年、天候は不順となり、関東地方は毎年のように凶作に見舞われ、洪水にも襲われた。市右衛門は困窮した村民に金や食料を送って援助した。
 天明七年、助郷《すけごう》に苦しむ村民のために、彼は金一五〇両を上納した。助郷とは、公用で街道を通る者に人馬を提供する義務のことだが、これは農民にとって年貢よりも辛いといわれていた。

『ニッポンときめき歴史館』コラム 市えん様の奈良泉 柏 文彦

市右衛門は一五〇両を江戸は馬喰町の関東郡代役所に納めた。役所がそれを貸付に廻し年に一割の利息を付け、その毎年下りる利息金を上納者の村の役に立つよう使わせてくれるのである。彼は、その金で村から人と馬を出す代わりに宿場で人馬を雇ってもらうことにした。
 寛政元年(一七八九)には、五〇〇両を上納。利根川堤防修理費として、毎年利息の五〇両を川沿いの四七か村に下げ渡してもらうことにした。
 こういう中で、寛政二年、彼は御免関東上酒の醸造を命じられたのである。
 これは、彼にとってまたとない機会であった。公儀の後押しを得て、技術を磨き、江戸で自分の蔵の銘柄酒を売り出せるのである。成功すれば、この地に酒造業という一つの大きな産業が栄え、樽や桶作り、酒米の栽培、精米業、運送業など付属する仕事も生まれ、雇用が創出され、それがまたいろいろな仕事を呼び、地元が活性化するであろう。
 寛政四年、市右衛門は三〇〇両を上納した。今度は、利息金を用水路の浚渫《しゅんせつ》費用に廻してもらうためである。
 八月、勘定奉行柳生主膳正は、市右衛門を褒賞した。名主となって三〇年間、一件として訴訟が無く、一村が平穏であるのは彼の功績であるとして、苗字は子々孫々まで、帯刀は一代に限り許すという。また、初代市右衛門、当時改名して加藤と称していた父親には、市右衛門が奇特の行いを成すのは親の教えが良いからであるとして白銀五枚を褒美として下げ渡した。その二か月後、初代市右衛門は九一歳で没した。その遺言に「華美を慎み、諸費を倹約して社会公共のために尽くせ」とある。
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 市右衛門の本家、四方寺村の六左衛門家は苗字を吉田という。吉田家は戦国時代まで地侍(小地域を支配する土豪)で、その末期には小田原の北条氏に属する忍《おし》(現・埼玉県行田市)の成田氏に仕えていた。やがて、豊臣秀吉の小田原征伐があり、北条氏は滅んだ。その折、最後まで抵抗したのが忍城であった。平定後の関東には、徳川家康が秀吉に命じられて移ってきた。
 吉田家は、その頃に利根川沿いの荒蕪地を開拓し、帰農したものらしい。当時の関東の地侍には、こうした道をたどった者が多かった。そして、無事に前から住んでいた土地に帰農した者、新しい支配者に呼ばれ仕えた者、この三者に地侍の行動は分かれた。しかし、その三者とも名主や農政担当の役人となり、陰に陽に進駐軍である徳川の支配から人民を守ろうとした者が多かった。何といっても、この土地は彼らの産土《うぶすな》なのだ。
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 市右衛門の御免上酒造りは一五年で終わった。上方の酒に負けないものを造り、奈良泉の銘柄で江戸に押し出し、地元に産業を起こす夢は、その時々のご都合で変わる幕府の政策に翻弄され潰えたのである。
 市右衛門は死に際して長男を呼び「祖訓を守り勤倹怠らず、家産の三分の一を公益に供すべし」と言い残したという。彼の遺言は、その後、子孫の市右衛門たちによって忠実に守られた。災害時の援助、貧窮者や病弱者の救恤《きゅうじゅつ》、用水、河川、堤防の修理の費用の負担など、あたかも幕府や大名、地頭など公権力が本来やるべきことを、代わってやっているかのようである。
 ノオブレス・オブリージという言葉がある。高い身分の者は、それにふさわしい振る舞いをしなければならない、という意味だそうである。歴代の市右衛門の行状を考えた時、この言葉を「地侍の意地」とでも訳しておきたい。
 初出『NHKニッポンときめき歴史館』第4巻(NHK出版刊)


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