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『ニッポンときめき歴史館』(NHK出版)コラム
第1巻より

『ニッポンときめき歴史館』コラム「心中の時代の経済学」

 元禄一六年(一七〇三)初演の近松門左衛門の『曾根崎心中』は、昨今起きた身近な事件を、そのまま劇化し上演するという画期的な手法を使った作品であった。しかもその文章は流麗で、義理と人情のしがらみとそこから生ずる苦しさ、辛さが哀切に語られるので、当時の人の心を激しく揺さぶった。上演した人形浄瑠璃の竹本座は空前の興業成績をあげ、世間では以後、心中がブームとなった。
 享保七年(一七二二)四月二二日初演の『心中宵庚申(しんじゅうよいこうしん)』は、近松最後の心中ものである。その二年後に彼は没した。しかし、彼がたとえ元気で生きていたとしても、心中ものはもう書けなかった。享保七年六月、心中狂言が幕府によって差し止められたからである。次いで翌八年二月には、心中で死んだ者と未遂者に対する厳しい処分が決定された。
『心中宵庚申』は、四月五日の宵庚申の夜に死んだお千代と半兵衛の物語である。当時、大坂の道頓堀では人形浄瑠璃の竹本座と豊竹座が人気を二分していた。豊竹座では早速、この事件を座付作者の紀海音(きの・かいおん)に書いてもらった。『心中二つ腹帯』が彼の作である。しかも六日に上演したというのである。いくら何でもそれは速すぎる、看板だけを上げたのであろう、というせつもある。とにかく、速さではこの勝負、海音の勝ちであった。早くから興業した分、豊竹座のほうが営業成績が良かったという。
 当時の大坂では心中事件は数多くあったが、そのすべてが劇化されたわけではない。劇化される最大の条件、それは死に方であった。長い泰平の時代である。人々は刺激に飢えていた。人形の心中の場面でも、血みどろで惨たらしい、異常な死に方を求めたのである。
 では竹本座と豊竹座が飛びついた、お千代と半兵衛の死に方とは、どういうものであったのか。二人は赤い毛氈を敷いて、その上で死んでいた。お千代は喉を切り、半兵衛は腹を切ったあとに喉を切っていた。刃物は脇差しである。そして二人は、お千代の抱え帯を二つに切って、妊娠中のお千代はそれを岩田帯に、半兵衛は腹をきりりっと締めて、それを切腹用の腹帯にしていた。
 大坂は新靱油掛町(しんうつぼあぶらかけちょう)の八百屋の養子半兵衛は、じつは武士の出だったのである。彼は遠州浜松青山家五万石の家中、山脇家の次男に生まれた。そして心中事件を起こす一六年前の二二歳の年に、大坂の八百屋の養子となった。ちょうど、この年に実父が死んでいる。
 以上は、近松と海音の作からうかがえる死に方と事情であるが、心中ものは速報であり、大部分事実に即しているので、信じていいであろう。
 武家の次男は、長男が死んだ場合の交代要員であるから、ある程度の年齢まで家に留めておかれる。しかし長男が健在で家をしっかりと守っていれば、やがて厄介者となる。半兵衛も父の死を契機に家を出たものと思われる。しかし二〇歳過ぎまで武士の家で育った者が、そう簡単に商人として変われるものだろうか。その当時の武士の生活事情を考えてみたい。
 徳川家康が大阪城の豊臣氏を滅ぼして以後、国内は安定し建設の時代に入った。戦いのエネルギーと技術がすべて、建設と開発に向けられるようになったのである。当時、農民の税負担率は高く、六割六部という苛税であった。各大名は、その税収を城下町の建設と新田開発に注ぎ込んだ。荒蕪地の開発は急速に進んだ。戦国時代に発達した、城を攻めるための土木技術が、そのまま使えたからである。中には、これで耕地が二倍、三倍と増えた藩もある。
 しかし、それも五〇年ぐらいで不可能になった。四代将軍の治政の中頃のことである。乱開発のツケで自然災害が頻発したのだ。それに加え、耕地は増加したが農民の数がそれほど増えるわけではなく人手不足に陥ってしまった。
 この頃になると、農民の税負担率は減ってきている。収量は大きく増えたが、納める量があまり増えなかったからである。年貢率を高くしようと

『ニッポンときめき歴史館』コラム 心中の時代の経済学

しても、農民も簡単には応じなくなった。血にまみれていた江戸時代の当初ならいざ知らず、畳の上で生活する当時の武士では、もはや強制力などなかったのである。
 こうして年々農民に余剰が生まれると、商品の流通が盛んになってくる。商工業に活気が出て、経済成長の時代に入ったのである。
 耕地が増やせなくなってきてから、最も進歩したのは農業技術である。農具、肥料、栽培技術に工夫が加えられ、生産は大いに上がった。しかし税率は下がる一方である。こうして、元禄時代前半までの経済過熱の条件が生まれた。四代将軍の晩年から五代将軍の時代のことである。この頃になると、才覚を働かせ勤勉に励めば、庶民相手の商売でも大商人になれる道が見えてきた。それまでは、唯一の金銀所有者である大名を相手にしなければ富は手に入れられなかった。したがって大商人といえば特権商人であり、御用達の材木商や米穀商、呉服商などは、手にした金銀を大名相手に貸して、なおも利をあげていた。
 武士の経済は悪化する一方であった。幕府は諸大名に金を使わせるために、参勤交代の制を設けたり、公共事業を押しつけたりした。また、体面を保つことを武士の第一の要件とした。金が無くとも、格式に従って体裁を飾らなければならないのである。各大名は年とともに窮乏化し、税収増は望み薄なので、京、大坂、江戸の大商人から金を借りてしのいでいた。
 庶民相手の商人は、さほど工夫しなくとも物があれば売れるので、在庫を増やすことに力を注いでいた。そんな状況が元禄時代の中頃まで続いたが、とうとう一部の大名がたまりかね、借金の返済に応じなくなった。不良債権が発生したのである。これで倒産する大商人が続出した。
 こうなると、不景気の風を感じ取って金のある者も庶民も財布の紐を締めにかかる。その結果、在庫増に力を注いでいた商人が大打撃を受けた。
 幕府も財政難であった。そこで貨幣を改鋳して急場をしのいだ。つまり、貨幣の金銀の含有量を減らし、その分、通貨量を増やしたのである。これで世の中は不景気ながらも小康状態を得た。
 やがて六代、七代将軍の時代となった。この時に現われたのが新井白石である。彼は将軍の学問の師で、制作ブレーンでもあった。その彼が、前代の貨幣改鋳を批判し、元に戻した。貨幣の質を上げる、つまり金銀含有量を高めたのである。しかし幕府の持つ金銀量が増えたわけではないので、通貨供給量は減少した。これで景気はどん底となった。そんな時代に八代将軍が登場し、年号は享保となるのである。
 元禄六年(一六九三)に亡くなった井原西鶴は、その作品の中で才覚と勤勉とで大成功する商人の姿を多く描いている。しかし、元禄一六年に心中ものを書き始める近松門左衛門の作品では、どうあがいても現状を打開できない男女の姿が哀切に描かれる。
 窮乏化した小大名の家臣の家の次男に生まれた半兵衛は、少年時代から貧に苦しみ、青年時代には武士の体面を守りながらも内職に励んでいたことであろう。何かの縁あって八百屋の養子になった時には、町人になりきって生活を守ろうと堅く心に誓ったはずである。それが不幸にも人間関係のきしみで、義理と人情のしがらみから抜け出せず、救いを死に求めることになったのである。
 彼にとって切腹は、何も考えないで虫や魚を追っていた武家社会の子供の頃に帰ることのできる、唯一の方法だったのであろうか。
 
初出『NHKニッポンときめき歴史館』第1巻(NHK出版刊)


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