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【江戸を散歩する】

2 内職ざむらい  ――サイドビジネスから知る時代の流れ――


江戸を散歩する 2 内職ざむらい  ――サイドビジネスから知る時代の流れ―― 柏 文彦
表札のない武家屋敷
 ベース・アップのないサラリーマン生活にあなたは何年耐えられるだろうか。そんな状態、ちょっと想像してみただけで、気が萎えてくるのを感じはしませんか。
 二百五十年間、……それに耐えたしぶとい連中がいる。江戸時代のさむらいたちだ。
 この時代、経済はゼロに近いといっていいほどの成長しかみせなかったが、それでもやはり物価は少しずつだが上がっていった。収入は固定して、支出は漸増――そういう状態の下で、かくも長年月生き抜いてきたのだから、考えようによってはえらい連中だが、彼らは一体どんな工夫をこらして凌《しの》いでいたのだろうか。

 さむらいの住居は官舎である。出世して大きな邸宅に屋敷替えを命じられたり、その逆であったり、またしくじりからさむらいを辞めさせられたりしない限り、二百五十年間、彼らは同じ邸宅に住んだ。従って、さむらいの家に表札はない。ここが誰の家か、世間周知の事実だったからである。
 人口が少ない時代のことである。土地は余っていた。また、さむらいが絶対的な権力を握っていた時代でもあった。だから、官舎の敷地は現在からは想像しにくいほどの広さがあった。下級武士でも三百坪、四百坪の土地を拝領していた。
 日々の生活で、さむらいが野菜を買うことはほとんどなかった。敷地内に畑を作っていたからである。自家用はいうに及ばず、八百屋に売っていた者もあったほどだという。彼らが買う食料品といえば、魚と酒、醤油ぐらいのものであったろうか。現在のサラリーマンとは、このあたり大いに異なっている。
 ところで――、一口に生活の工夫といってみたが、これは江戸に住む者と地方に住む者とでは条件が大いに違っている。江戸の二百石と地方の二百石では、かなり、というより大幅に違っているのだ。現在の月給二十万円の日本のサラリーマンと、同じ額を取る韓国、台湾のサラリーマンとの差ぐらいはあったろうか。
 また、豊かで質素な藩もあり、貧しいが出費の多い藩もありで、単純にはいえないのである。
 加えて、現在のサラリーマンの感覚からは理解しにくいのは、二千石と三千石のさむらいの生活を比べ、どちらが楽なのか、ちょっといえないという点であろう。
 それは、さむらいの家禄とは、収入だけではなく格式をも表わすものだからなのだ。何石のさむらいなら、従者を何人つれていなければならないと決っているし、生活の内容もある程度規定されてしまうのだ。
 たとえば、二百石のさむらいが戦さに出かける時には、さむらい一人、甲冑持ち一人、槍持ち一人、馬の口取り一人、小荷駄一人を引きつれて行かねばならなかった。だから、いざという日に備えて常日頃からこれだけの人数を養っておかねばならなかったのだ。といっても、年々生活に追われていった彼らのことである。治にいて乱を忘れたわけでもあるまいが、これだけの、規定だけの人数を抱えた人物は、まったくといっていいほどいなかった。皆無であったろう。しかし、それでも辛かったのは、どれだけ生活に追われても使用人をゼロにすることができなかったからだ。平時の登城に際しても、槍持ちと草履取りは欠かすことができなかった。
 七百石のさむらいの登城ともなれば、さむらい四人、槍持ち二人、挟箱持ち一人、中間一人、草履取り一人、馬の口取り一人の計十人は引きつれた。
 このように規定によって必要な人数が決っていたし、服装、武具、生活内容、付き合いもそれ相応のものが要求されたから、禄が高くなれば、それなりの苦労があったのだ。
 一万石の大名と八千石の旗本を比べてみれば、明らかに八千石の旗本の方が生活は楽である。それは大名の方は大名の格式を保つために出費が多いが、旗本の方にはそれがないからである。千石の旗本と八百石の旗本を比べれば、同じ理由で八百石の方が楽である。八百石と五百石ならば、……これは断然八百石が楽。収入と格式のバランスがとれていたり、いなかったり、さまざまだったのだ。

江戸を散歩する 2 内職ざむらい  ――サイドビジネスから知る時代の流れ―― 柏 文彦
明らかに八千石の旗本の方が生活は楽である。それは大名の方は大名の格式を保つために出費が多いが、旗本の方にはそれがないからである。千石の旗本と八百石の旗本を比べれば、同じ理由で八百石の方が楽である。八百石と五百石ならば、……これは断然八百石が楽。収入と格式のバランスがとれていたり、いなかったり、さまざまだったのだ。

趣味が身を助ける……
 生活に追われていたさむらいたちが、敷地内に畑を作って自給自足を図ろうとしたことは先に述べた。それでは、それ以外にはどのような工夫をこらしていたであろうか。
 まず、内職だが……。これは、広い敷地を利用した植木、草花の栽培、鈴虫、こおろぎなど虫類や金魚の養殖、小鳥の飼育などが多かった。また、手工業的なものとしては、傘張り、提灯張り、凧張り、竹細工、木版彫工。変わったものでは髪結い。これは戦いに行けば、男同士で髪を結い合うわけだから、さむらい相手である限りよしとされていた。
 さむらいの社会は戦国の世の軍事体制の持ち越しである。過剰な軍人をそのまま召し抱えていたのだから、人間の数の方がどうしても仕事の数よりも多かった。だから必然的に役に就けない者が生み出された。また就いたとしても閑散な役が多く、彼らには余暇がたっぷりとあった。本業に就いているよりも内職に勤しんでいる時間の方が多かったのも無理のない話だ。
 そういうところから、江戸といわず地方といわず、さむらいも下級の方になると、刀を二本差してはいたが実態は職人そのものであったと史家にいわれることにもなるのだ。ただ、彼らは気位高く生きていた。人間として品格があった。貧困にめげない道徳律は、この国には昔から確乎としたものがあったのだ。
 世間体のいい内職もあった。刀の鑑定、刀磨き、刀の柄巻き、魚釣り。いずれも趣味が身を助ける好見本だ。そして剣術、柔術の師範、学問教授ともなれば、上の覚えもめでたくなってくるというものだ。
 内職と並行して行われたのが、質素倹約の励行、生活の切り詰めだ。
 まず、これは人減らしから始められた。主人の登城の供廻りの者は減らすことはできないから、下男、下女の類から減らす。そのかわり、供廻りの者に下男の仕事もさせるのだ。下級武士の間では、数軒共同で下男、下女を雇うこともあった。
 一般に、さむらいの俸給には知行取りと蔵米取りの二種があった。五百石の知行取りといえば、米五百石の穫れる土地の徴税権を与えられているということで、これは上級武士に多かった。百俵の蔵米取りといえば、これはまるまる百俵蔵から出して渡されるもので、現在のサラリーマンと同じことである。
 この知行取りのさむらいの場合、人件費はかなり安く上げることができた。知行所から人を連れてくることができるのである。田舎の娘にとって、江戸の旗本の屋敷に奉公することは行儀見習いとなって、現在の女子大進学くらいの価値があったので希望者が多かったのである。給金を貰うどころか、親元から屋敷へ季節季節の作物の付け届けがあったくらいである。
 また、下男、中間、若党も、安い給金でも、江戸で楽で綺麗な暮しがしたいという金のある百姓の二、三男がきたから困らなかった。こういう下男が敷地内の畑で熱心に働いたから、知行取りは大いに助かったのである。
 ところで、江戸時代、武家の妻や娘が町を一人歩きするということはほとんどなかった。食料は家の中にあったし、魚は売りに来たし、酒その他の必要品は下男が買いに出たからである。外出するとすれば、盆暮に実家へ行くこと、親戚の吉凶見舞い、墓参、寺社の参詣ぐらいのことであり、これには必ず女中、家来が供についた。
 上級武士はそれでもいいが、下女を数軒で雇っているような階級、それさえもできない連中、そういう彼らがよんどころなく外出しなければならなくなったら……、一体どうしたであろうか。――その時には、隣近所の妻女、娘さんに供を頼んだものである。

江戸を散歩する 2 内職ざむらい  ――サイドビジネスから知る時代の流れ―― 柏 文彦
そういう彼らがよんどころなく外出しなければならなくなったら……、一体どうしたであろうか。――その時には、隣近所の妻女、娘さんに供を頼んだものである。主とお供という塩梅で、ついてきてもらうのである。これは相身互身であるから頼まれた相手も気軽に承知してくれる。
 こうして下級武士の妻や娘も外出する時には、きちんと供をつれた姿で出かけたのだ。

(小見出し)雑司谷エレジー
 武家の内職といえば、夫婦共稼ぎもあった。妻が勤めるといっても、この場合、武家であるからいい加減なところには出られない。やはり武家奉公になった。勤めは厳しい。休みといえば年に数回、夫婦は天の川の織女と牽牛のようになってしまうのだ。
 八代将軍吉宗の時代のことだ。
 大奥に勤めに出た人妻がいた。夫は関東郡代配下の手代であったという。手代とは百姓、町人の出身で郡代役所に採用された者で、仕事に就いている期間中は二本差しのさむらいとして待遇されるという軽い身分の者だ。俸給は年間二十両五人扶持であったらしい。一人扶持とは一日玄米で五合、毎月まとめてくれたものだ。五人扶持なら年に九石となる。二十両と九石、これが裏長屋の八さん熊さんなら大威張りで暮していけるのだが、さむらいの生活ともなればそうはいかなかった。そこで妻が大奥の軽い勤めに出たのだ。
 その女を吉宗が見初めた。普通なら将軍の目に止まるような場所にはいない下級職員だが、その日は係りで湯殿の次の間に控えていたらしいのだ。吉宗は早速、大奥取締りの御年寄に意を伝えた。御年寄は女を呼んで、「何というしあわせ者……」と祝福した。
 女は拒んだ。夫ある身と断ったのだ。しかし……、一旦口に出した以上、御年寄は後に退けなかった。老中と同格だといわれる御年寄である。すぐに関東郡代の上司である勘定奉行を呼んだ。
 数日後――、夫である手代がしたためた三行半《みくだりはん》が関東郡代、勘定奉行の手を経て御年寄の手に入った。御年寄は女にそれを見せ、いいきかせた。この時、女は青ざめた顔を上げて一言夫の口からそれを聞きたいと願ったという。
 困惑した御年寄も渋々ながらそれを認めた。とはいえ、簡単には外出が許されない大奥であるから、御年寄は自分の雑司谷鬼子母神参詣に女を同道するという形式をとった。
 ちなみに、鬼子母神は日蓮宗で特に尊崇する女神で、大奥には日蓮宗の信者が多かったのである。また、浄土宗の信者も多く、この二派はひいきの寺社とも結びつき陰湿な勢力争いをしたものだ。
 その日――、夫婦は涙の中に顔を見つめるばかりであった。茶店で休む妻と参道脇に控える夫は、数間の距離を隔てたまま、御年寄の監視の下に声を呑んで対したのである。時は一瞬に過ぎ、女は無情に連れ去られた。
 吉宗の閨《ねや》の人となったこの女は二十二、三の歳であったらしいが、ついに子供は一人もなさなかった。後宮に朽ち果てたのである。
 夫の手代は、のちに出世して二百石の身分を得たという。広い屋敷に移り、果たして彼は何を考えていたものであろうか。ただ、妻を奪った吉宗が後世、風俗を矯正し人倫の道を説いた名将軍として称えられようとは、夢にも思わなかったことだけは確かであろう。

 下級武士、無役のさむらいは哀れなものであった。だが、……無役で貧しいながら爽快な生き方をした男たちの一群もあった。江戸時代末期、本所あたりに住んだ“悪”の連中である。粋な黒羽二重の着流しに刀は落し差し、さながら眠狂四郎スタイルで大江戸の街を闊歩する彼らは、開き直り、屋敷を賭場にし、ゆすりたかりで生き抜こうと決意したのだ。親代々の無役という因果の蔓が爛熟した泰平の世という好土壌を得て大輪の悪の花を咲かせたのだ。彼ら、粋で颯爽とした悪旗本こそ、江戸の美しい夕映えであった。
 サイドビジネスの傾向とそれに取り組む姿勢――

江戸を散歩する 2 内職ざむらい  ――サイドビジネスから知る時代の流れ―― 柏 文彦
 これを見ていると、時代の趨勢が私たちにも読み取れるのではないだろうか。


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