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【江戸を散歩する】

1 さむらいニッポン ――経済成長ゼロ時代の処世術――


江戸を散歩する 1さむらいニッポン ――経済成長ゼロ時代の処世術

退屈男の夢物語
「ええいっ、これが目に入らぬか! 額に受けた天下御免の向疵。このわしを本所割下水に住いする直参千二百石、早乙女主水之介と知っての狼藉か!」
 と大喝一声、大刀をギラリと抜き打ち諸羽流青眼崩しの荒技で打ちかかる相手をバッタバッタと斬り倒すのは、市川右太衛門丈演ずるところのご存知旗本退屈男。
 さて、この退屈氏、われらがエンターテナー三波春夫先生の舞台衣装にもおとらぬ派手な着流し姿で日ごと夜ごと遊び廻り、頼まれもせぬのに事件に首をつっ込み、見事解決しては「うはっ、うはっ、うはははは」と高笑いする結構なご身分だが、いったい彼の職業と収入はどうなっていたのだろうか。人ごとながら気にかかる。
 早乙女氏は武士である。それも将軍家直属の旗本で、給与は千二百石であると、ことあるごとに彼は声高に自己紹介している。
 ここで簡単に説明しておくと――。
 江戸時代、将軍に臣下の礼をとり、一万石以上の禄を受ける者を大名、それ以下で将軍に謁見する資格のある者を旗本、ない者を御家人と呼んでいた。
 加賀の前田家や仙台の伊達家のような大国の主の下には、一万石を優に超える禄を受ける家臣がいたが、これらは大名とは呼ばれなかった。陪臣(家臣の家臣)だからである。しかし、小大名よりも収入の多い、家臣も沢山抱えた家老や重臣などが金沢や仙台には何人もいたのである。
 旗本の早乙女氏だが……。給与の千二百石とは家禄である。
 元々、武士とは軍人である。戦乱の時代に立てた武功によって、報奨として禄が与えられたのである。この禄は、よほどの落度のない限り子々孫々受け継ぐことができた。だから、これを家についた禄、家禄と呼んだのである。
 真田幸村、後藤又兵衛、塙団右衛門など名将豪傑が活躍した大坂冬の陣、夏の陣を経て、ついに豊臣家が亡ぶと、以後二百五十年間、日本はまったくの平和国家になった。
 世の中が泰平になると、それにふさわしい政治が求められる。戦時体制下での戒厳令が解かれて、平常の行政・司法が復活するようなものだ。
 この行政官、司法官に起用されたのが本来軍人である武士たちなのだ。なにせ百五十年間続いた戦時体制で、将軍家大名家ともどもあり余るほどの人間を抱えていた。頭数なら揃っている。ふんだんに使った。同役に何人も就かせ、交代で使った。現在の首相に当たる老中でさえも常に四人か五人いた。月番で政務を執るのだ。
 しかし、それでも人が余った。
 先の大東亜戦争でも、男は根こそぎ動員され、軍隊が異常に肥大したが、もしあれが勝ち戦さであったなら、その後の組織の縮小と人員の削減にはさぞかし四苦八苦したことであろう。江戸時代には、それが現実の問題となったのだ。

 早乙女氏は無役である。無能なのか、有能すぎて就くにふさわしい職が見当らなかったのか、とにかく無役である。
 こういう場合、彼は小普請組に入る。小普請とは、城や建物がこわれた時に小修理することである。大恩のある主家のために無役の者でも何らかの役に立たねばならないから、その小修理に人足を出すのである。のちにこれは、人足の代りに小普請金という金を出すようになった。いずれにせよ安い金である。
 この義務のみで早乙女氏は他にするべきことがない。現在の窓際族と同様と思っていただけばよい。
 早乙女氏は時折、彼らの監督者である小普請支配のところに自分を売り込みに行ったことであろう。月三回面会日があるから、役に就きたい者は

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毎回行って売り込むのである。自分の特技や希望を述べる。支配はきまって「差し含んでおく」と答える。過剰人員を抱えている状態だから、滅多にこの境遇からは脱け出せない。とうとう癇癪を起して「そう含んでばかりいないで、たまには吐き出してもらいたい」と叫んだ男がいたそうである。それはそうであろう。彼らが現在の窓際族よりも辛いのは、スタートの時点から、つまり家督を相続した時から小普請組であったことだ。能力発揮の場を与えられぬ男ほどやるせない存在はない。
 しかし、われらが早乙女氏は悠然と構えている。もうとっくに世に出る望みは捨てたのであろうか。そうはいっても氏は家督を譲って隠居でもしない限り、建て前上は軍人なのである。知らぬはずはないが、夜、勝手に家をあけたり、許可を得ずに旅に出たりなどすると脱走兵の扱いを受ける恐れがあるのだが……。
 映画やテレビで氏の活躍を見るたびに、余りの無鉄砲に切腹でも申しつけられるのではないかとハラハラするが、絶対にそうならぬところをみると……、あれは退屈男が昼寝の折の夢物語なのかもしれませんな。

家格を意識していた封建の世
 ところで早乙女氏の家禄の千二百石だが、これはまるまる氏の懐に入ってくるものではない。幕府から千二百石の米の取れる土地の徴税権を与えられているということなのだ。しかし、彼が千二百石すべてを取り上げると百姓は餓死する。ほどほどにしておかなければならない。苦しめて一揆でも起されると、責任を問われ改易(家禄を没収して士籍から外されること)処分に遭うことにもなるからだ。
 それでも、やはりギリギリまで取り上げることが多かったようだ。そのせいで農村は疲弊し、再生産に廻す力が乏しくなって、江戸時代の土地生産性は余り上がらなかった。従って、二百五十年間を通じ武士の収入はほとんど向上しなかった。低下したところさえあったという。
 早乙女氏は悠然と構えているようだが、それを心を労することなく生きていけたのだろうか。生活程度は年を追って上がっていき、支出は増えるばかりだ。しかし、収入は固定している。
 小普請組の面々が何とかして役に就きたいとあがくのはここのところなのだ。役に就くと役職手当てが支給されるのだ。
 まず御役高、これは格式を整えるための手当てだ。家禄五百石の武士が五千石高相当の役に就けば、体裁を整えるよう四千五百石、在職期間中支給してくれるのだ。また御役料、これはその役の運営経費として支給されるものだ。
 他にも二、三役職手当てはあるが、いずれもその役から外れると元の木阿弥になってしまう。それに、張り切って勤めればかえって持ち出しになってしまうこともあったという。
 それではなぜ、小普請組の面々は役に就こうと運動したのだろうか。
 ――それは、役に就いていれば昇進の道が開けたからだ。また手柄を立てれば加増の恩典に浴すことも考えられる。家禄が増えるのだ。
 現在に置きかえていえば、月給二十万円の平社員が抜擢されて課長職に就く。するとその就任期間中だけ、月給を五十万円にしてくれるということなのだ。課長を辞めれば、また元の二十万円に戻る。しかし、就任期間中、何か手柄を立てて認められると基本給が三十万円に上がり、平社員に戻ってもそれが受け取れるという仕組だ。それに課長になっていないと部長にもなれないだろうから、課長になれば出費が多くなると分かっていても、なりたがるわけだ。それに、役に就いていれば付け届けという副収入もあった。
 とはいえ、人員過剰に加え経済はゼロに近い低成長の時代である。抜擢され、出世するということは滅多になかった。さむらいも辛かったのである。

 ところで、早乙女氏の「……直参千二百石……」というセリフ、おかしいとは思いませんか。喧嘩

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相手に、「大蔵省主計局勤務、月給○○円の早乙女だ」と大声を上げれば、これはまず間違いなく頭の中身を怪しまれる。
 しかし、氏ほど声高に名乗って廻ったかは疑問にしても、これは当時としてはとっぴな言動ではないのである。家禄とは、収入だけではなく家格をも表わしたからだ。氏は、旗本でこういう格にある自分に何用だと訊いているのである。
 現在のサラリーマンならば、月給がいくらであろうと、不正なことでもしない限りどのような生活を送ろうと勝手だが、封建の世はそうではなかった。常に家格を意識していたのである。
 こういうことをいうのは、NHKの大河ドラマ「峠の群像」を二、三度見て(大石内蔵助の妻の言動が)余りにひどいと思ったからである。
 武士の役職は世襲制である。幕府の場合、巨大な組織であるため過剰人員の処理がうまくいかず、常に無役の連中が生まれた。そして、この連中が役を求めて熱っぽく運動したから、いささかではあったが人事の交流が生まれた。それに比べ、各藩の場合は小廻りがきくこともあって、江戸時代初期からかなり巧妙に過剰人員を配置・処理することができた。これが、かえって人事を固定化したのである。家老の子は家老、足軽の子は足軽と、二百五十年にわたって身動きのできぬ体制にはめ込まれていた。
 こういう社会で、身分の高い人間が取る態度といえばどういうことが考えられるであろうか。
 それは、容体を整えることであろう。服装を立派にして、挙措動作を重々しくする。ものの言い方も、音吐朗々として上品になるよう工夫することである。難しいことではない。武家では幼児の頃から漢文の素読を習い、やや長じて謡曲を練習するから、お手のものなのだ。
 それから古い城下町に行ってみればすぐに分かること、それは職住接近だ。位の高い者ほどお城近くに住む。使用人の多い時代のことである。彼らの口から漏れ、人の口の端に上るようなことは避けなければならない。家人は主人に恥をかかさぬようどこにいても身を慎んだものである。そして妻は、夫に対する感情がどうであれ、夫のあとを自分が生んだ子が継ぐのであるから、お役目に遺漏のないよう内助に励んだのである。
 試みに、あなた方の会社で世襲制が行われ、職住接近であると仮定してみてはいかが。社内の雰囲気、各家庭の婦人方の言動はどうなるだろうか。

世の中は、左様、然らば、ごもっとも
 身分の固定化した社会では、下位の者は上位の者を常に厳しい目で見ているものである。嘲笑し、憫笑しようと待ち構えている。そこでは能力よりも尊厳、人間の重みが何よりも必要とされるのではあるまいか。
 万葉集が平家物語が、そして近松の戯曲が現代人の心を打つのは、人間の本性には変わりがないからではないのか。環境や置かれた条件が違うから、言動に差が出てくるだけのことであろう。現代っ娘も家老・大石内蔵助の妻の立場にあれば、わきまえた言動をとるはずである。

 武士とは元来軍人である。だから勝手に辞めることはできない。飛び出せば脱走兵として扱われ追手がかかるのである。
「すまじきものは宮仕え」というが、そうつぶやく時の武士の言葉には、重い気分が籠められていたのだろう。
 人間の本性は変わらず、環境、条件によって表面に出てくる言動が異なるだけ、と先に述べたが、四十代、五十代のサラリーマン諸氏よ、あなた方と江戸時代の武士と、どこが違っていますかな。
 低成長下の固定化した階層社会に生き、辛いといって辞めることもできず、下位の者からは厳しい目で見られ、上位の者からは無理な注文をつけられ……。妻女や家の子郎党が立場を理解していないだけ諸氏たちのほうが苦しいかも……。
「世の中は、左様、然らば、ごもっとも、何とでござるか、しかと存ぜず」
 これ、さむらいの処世訓だったという。


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