サイズ・エヌ SIZE-Nロゴ

柏文彦の過去の作品ページ

【歴史じんぶつものがたり】

井上 伝(いのうえ・でん)


【歴史じんぶつものがたり】 井上 伝(いのうえ・でん)
柏文彦

小さな発明家
 筑後路の秋は、櫨の紅葉でまっ赤に彩られます。
 土手や田の畔に自生する柿の木も朱色の実をつけ、それを撫でる西の風がそろそろ冷たく感じられる、そんなある日。
 久留米の城下(現・福岡県久留米市)の東外れ、五穀神社の南に住む米穀商橋口屋源蔵の店先を一人の旅人が訪ねました。
 白く汚れた前垂れを掛けた源蔵が出て行くと、
「しゅみまっしぇん。あたきゃあ、博多ん堅町で、太物ば商うとります月隈屋彦右衛門ちいう者でござす。御当家に、お伝しゃんちいう、織りの上手か娘しゃんがおらっしゃるち聞いて、失礼ば顧みず、突然、訪ねたとですたい。お会いできまっしぇんでしょうか」
 商用で出かけた日田からの帰り道、田主丸の茶店で昼食をしたためていると、ふと橋口屋の娘さんが新しい織りを考え出したという話を小耳にはさみ、ぜひとも見てみたいと寄り道したというのです。
 源蔵は、にっこり笑って頷きました。
「もう、お耳に入りましたかいの。丁度よか。今、織りよりますもんの」
 早速、店の奥の伝の作業場に案内してくれました。
 ♪辛気篠巻木綿の車
  引けば我ため親のため
  紺の前垂れ松葉のちらし
  待つに来ん(紺)との知らせかい♪
 中庭では、柿と杏の木が午後の淡い陽を浴びていました。静まりかえったその中を、単調な機の音と細い歌声が流れています。
「伝、ちょっと手ば休めてくれんの」
 伝は機を止めて顔を上げました。
 色白の細面に広い額、大きな二重瞼の目をした賢そうな少女です。十一、二歳でしょうか。
「うわぁ、まだこんちか《※1――――》とやねぇ。驚きましたやな。お嬢ちゃんが、本当に霜降りば考えたと?」
 伝はキッとした目を向けました。
 彦右衛門は慌てて、
「博多んでん、たいした評判ばい。久留米に寄ったら、さっち見にゃあこてち思うて来たとよ」と、口から出まかせをいってごまかしました。
 この少女が、霜降り、霰織りと世評の高い織り方を考案したのです。
 その日、彦右衛門は、
「また寄らしてもらいますけん。橋口屋しゃんも、いっぺん博多に来ちゃんしゃい」と、愛想を振りまいて帰って行きました。

好きで始めた機織り
 伝は天明八年(一七八八年)の暮、有馬家二十一万石の城下町、筑後久留米の通り外町で生まれました。
 七歳の頃から、機織りを始めたといいます。
 当時は、日本のどこでも家族の着る物は自宅で織っていました。それが一家の主婦の務めだったのです。
 公家や上流武士、大都市の住人などは買い求めていましたが、それはほんの一部の例外です。

【歴史じんぶつものがたり】 井上 伝(いのうえ・でん)
柏文彦
 そのために、女の子は小さい時から機織りの技術を覚えさせられ、この久留米地方では日機といって一日に一反織れるようになって、はじめて一人前といわれていました。
 しかし、伝の七歳からというのは少し異例です。数え齢ですから、今ならまだ六歳にも満たぬ年齢なのです。余程好きで、自分から始めたものと思われます。
 伝はすぐに上達しました。
 十二歳の年、伝は洗い晒しの点々と脱色している布切れを見ていて、ふと、この微妙な味わいを織りで表現できないものだろうかと考えました。
 そこで、その布切れを解き、調べ、真似てみることにしました。長い糸の束の一部を括り、これを藍で染めて斑の糸を作り、これで織ってみたのです。すると、ところどころ掠ったような白い斑紋が数百点、布の上に現われたではありませんか。
 伝はさらに工夫をこらし、斑紋の形を様々に変え精巧にしました。
 これが大評判となったのです。伝はこれを“加寿利”と名付けましたが、人々は斑紋の連想から“霜降り”と呼び、“霰織り”と称えました。
 十五歳の頃には、伝の作業場に数十人の娘たちが教えを乞いに来ていたそうです。

 木綿が日本に伝わったのは、鎌倉時代の初期ではないかといわれています。最初は少量の布地が伝わり、室町時代に入ってから大量に輸入されるようになり、やがて栽培も始まりました。
 戦国時代、栽培は盛んとなり、江戸時代に入ると、栽培可能な地方では争って作るようになりました。
 その木綿を使って織りで模様を出す技術には、縞と絣があります。
 縞とは筋模様のものですが、これは戦国時代の終わり頃、南方から伝わったもので、“島渡りのもの”、“島もの”と当時の人は呼んでいました。その島が縞の語源なのです。
 絣は最初、経糸に絣糸(斑糸)を使っただけの稚拙なものが南方から伝わり、琉球を経て日本に入って来たようです。しかし、伝が工夫した加寿利はまったくの独創で、年とともに技が精緻になり、最後には経糸緯糸どちらにも絣糸を使い、複雑な柄を出せるようになりました。
 絣の技術は、日本独自のものといってよいでしょう。

筑後を支える産業となる
 十九歳の年、伝は久留米藩馬廻り役、九百石の松田平蔵の屋敷に奉公に出ました。
 当時は、江戸をはじめどこの城下町でも、嫁入り前に礼儀作法を学び、それなりの立ち居振舞いを身につけるために、しかるべき武家屋敷に奉公に出る習慣があったのです。親は自分の家の格に合った屋敷を選び、厳しく、そして愛情をもって躾てくれそうな婦人のいる家庭に娘を送り込んだものでした。
 伝は松田方で二十一歳の年まで奉公しました。しかし、そこにも機織りを習いたいという者が慕って来ました。伝は主人の許しを得て、暇な折に絣織りを伝授していました。
 二十一歳の年、城下原古賀町の織屋の次八(明治以降、子孫が井上の姓を名乗る)に嫁しました。
 やがて二男一女をもうけ、家事に励み、そのかたわら機織りも続けました。世評はますます高くなり、“久留米原古賀織屋おでん 大極上御誂”の商標を付けて売っていました。
 二十七、八歳の頃、夫の次八はふとした病がもとで、果て無くこの世を去りました。
 三人の子供をかかえ、伝は悲しんでばかりもいられません。実家の近くに帰り、作業場を設け、機織りに精を出しました。
 その頃、伝の名は高く、絣の技術もいよいよ冴えてきたので註文は多く、弟子入りの志望者も日に日に数を増していきました。そこで伝は、工場を三棟に増築し、できるだけ多くの弟子を収容し、懇切丁寧に指導していきました。
 伝、四十歳の頃には、絣の技に熟達して開業する者が四百人にも達し、久留米を代表する産業に発展していました。

【歴史じんぶつものがたり】 宮本武蔵(みやもと・むさし)上
     ☆
 伝の一生は幸福なものでした。好きな仕事に打ち込み、機に向かっている時には、頭の中には様々な意匠《※3――》が飛び交い、豊かな創造の世界に生きることができたのです。
 工夫して得た技術を、伝は惜し気もなく、慕い来る者に教え授けました。伝の考案した加寿利は久留米絣と呼ばれ、筑後地方の経済を支える一大産業となりました。
 晩年、余裕のできた伝は、招きに応じてどこにでも教えに出かけました。体力に自信がなくなっていたので、織りの実技は孫娘のトモにやらせていたそうです。
 明治二年四月二十六日、数千人の教え子の祈りも虚しく、伝は大往生しました。享年八十二歳。


戻る