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【歴史じんぶつものがたり】

宮本武蔵(みやもと・むさし)上


【歴史じんぶつものがたり】 宮本武蔵(みやもと・むさし)上

1584年~1645年 戦国期、江戸初期の剣豪。武者修行で各地を漂泊。熊本の地で『五輪書』を著し、死去。

最も有名な剣豪の一人である宮本武蔵。
“二刀流”“巌流島の決闘”“『五輪書』”と
武蔵に関する事柄はよく知られていますが、
果たして武蔵とはどんな人物だったのでしょうか。

名家の裔
 慶長十七年(一六一二)四月十三日巳の刻(午前十時)、豊前小倉領船島(現・下関市巌流島)で剣士による決闘が行なわれました。約束の時間に二時間遅れて島に着いた宮本武蔵は、哮る佐々木小次郎を冷笑し、膝まで波に洗われながら静かに砂地に向かいました。
 と、転瞬の間もなく武蔵は走り出し、大きく跳躍すると四尺二寸《※1――――》の木刀を小次郎の頭に打ち込みました。小次郎は少しも慌てず、膝が地に付くほど踏み込み、備前長船の住人、長光が鍛えた三尺二寸の長刀を鋭く横に払いました。
 勝負は一瞬にして決まりました。小次郎の刀の切先は武蔵の袴の裾を裂きましたが肌には届かず、武蔵の木刀は無残にも小次郎の頭の骨を砕いていたのです。
 武蔵は検死の役人に一礼すると走り去り、待たせてた小舟に飛び乗り下関に向かいました。この日から、また武蔵の足取りは杳として知れなくなりました。

 宮本武蔵の一生と彼の哲学、ものごとに対する感情はよく分かっていません。六十歳の年に書いた、剣術の実際論である『五輪書』によって、いささか知り得るのと、彼の残した絵画、彫刻によって窺うしかありません。また、不正確ながら養子や弟子の書いたものも参考にはなります。
 武蔵は天正十二年(一五八四)、播磨の国印南郡米田村(現・兵庫県高砂市米田)に生まれました。父は田原甚兵衛。その二男です。
 田原家は播磨の名家赤松氏《※2―――》の末裔で、かの家が振るわなくなって米田に移り住み、田原氏を称するようになりました。この辺りの小さな地域の土豪で、御着(現・姫路市の東部)の小寺氏に属していました。
 田原甚兵衛のような者を地侍といい、彼らはいざ合戦となると従者をを何人か連れて参陣するのです。
 日本の権力というのは、この地侍たちが集まり小寺氏のような小大名の勢力となり、その小大名たちが大大名の下に参集し形造っていくのです。徳川氏、武田氏、毛利氏などがこの形で、現在の、地方議員が集まって国会議員を擁立し、その国会議員が集まって派閥の長を押し立て、政権を狙うのと同じ手法です。
 これと全く違うやり方をしたのが織田信長でした。彼は小さな大名でしたが知略と決断で勢力を急拡大させ、有能な部下を集めました。彼らはすべて雇い人で、信長自身は独裁者でした。
 徳川氏や武田氏、毛利氏は小勢力が集まって成り立っていますから、家康や信玄、元就が無理や我儘、飛躍したことをいうと人が離れて行ってしまいます。ですから、彼らは人情の機微を心得た常識人でなければならなかったのです。それに比べ、信長はワンマンでしたから、何でも、驚くようなことが素早くできたのです。しかし、このタイプは日本ではなかなか出ず、出ても長続きしません。
 御着の小寺氏は、やがて織田方に付くか毛利方に付くかで迷い、家を亡ぼしてしまいました。この時、終始織田方に付き、やがて豊臣秀吉に属し、頭角を現わしたのが、家老の黒田官兵衛(筑前福岡の黒田家の祖)でした。
 武蔵はその後、美作の国吉野郡宮本村

【歴史じんぶつものがたり】 宮本武蔵(みやもと・むさし)上

美作の国吉野郡宮本村(現・岡山県美作市宮本、旧・岡山県英田郡大原町宮本)の新免無二之助の養子となりました。
 この新免家も地侍で元々は平尾と称し、やはり赤松氏の末裔でした。平尾氏がこの地方の小大名新免氏に仕え、新免の姓を名乗ることを許されていたのです。無二之助は、やがて主君の新免伊賀守と仲違いして離れ、宮本村に移住しました。地侍といっても名ばかりで、たいした財産は持っていなかったようです。ここで無二之助は、土地の名、宮本を姓としました。

(小見出し)漂泊の武芸者
 武蔵は養父の無二之助から武術を厳しく仕込まれました。無二之助は剣術と十手術に優れていたらしく、無二という名も戦いで無二の働きをしたので与えられたものだといいます。
 武蔵十三歳の年、有馬喜兵衛という旅の兵法者と果たし合いをして倒しました。その後、故郷を出奔したようで、十六歳の年に但馬の国(現在の兵庫県北部)で秋山という強力の兵法者と勝負して打ち勝った、と『五輪書』に書いています。
『二十一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし、其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ、六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず、其程十三より二十八、九迄の事也』(五輪書)
 武者修行の旅に出ていたというのです。この時代、剣や槍の武術者を芸者といっていました。余り尊敬した言葉ではありません。
 人間の社会に争いがある以上、武術は古代から存在していました。しかし、武者修行の旅に出るような熱心さは、戦国時代も末からの現象です。この少し前頃に、現在にまで伝わっている剣や槍、鉄砲、弓の諸流派の源流が起こっていました。戦場に出た時、手足が自由に動き、足腰がしっかりしているように、日頃から鍛錬しておくために創始されたのです。戦になれば鉄の棒を振り回したり突いたりするようなものですから、剣術や槍術は実際の役にはさほど立たないと思われていました。
 ところが――。戦国時代も末期になって世の大勢が定まってくると、鎧兜を身に付ける時よりも素肌に平服という時のほうが多くなります。すると、武術が恐るべき威力を発揮し始めたのです。有名な勇者が、名もなき若者と喧嘩の末、一刀の下に斬り捨てられるということが起こりました。また、戦に負け武士を廃め帰農していた地侍たちは、自らのアイデンティティを守るために武術に熱中しました。こうすることで、再仕官の道も拓けると思ったのです。
 こういう情勢になって、武者修行の旅が容易になってきていたのです。
 武芸者は諸国を歩き廻り、武者修行に熱心な武士の屋敷や地侍の家に泊めてもらい、教えたり教えられたり、情報をやり取りしたりして生活していました。時には宿泊先の者たちと共同して野盗と戦ったり、水争いの際の用心棒になったりしました。
 戦国時代にも連歌師や絵師などの往来はかなり盛んで、彼らは得意芸を持っていましたから行く先々で歓迎されていたのです。戦国時代末期から江戸時代初期になると、武芸者もその仲間になっていったようです。
     ☆
 武蔵は、後年の達意の文章による『五輪書』の執筆といい、絵画、彫刻に才能を発揮したことといい、しっかりした基礎教育を身に付けていたと考えられます。また、晩年の政治の面での献策を見れば、若い時代に諸国を廻り、見るべきものはしっかりと見ていたことが分かります。
 武蔵が旅をした時代は、戦国時代が終わって新しい時代が始まる、しかし未だ混乱がくすぶり続けていた時代でした。十七歳の年には、天下分け目の関ヶ原の戦いもありました。この時、どうやら武蔵は、負けた西軍の側に加わっていたようです。
 戦後も危機は、ふくらんでいました。敗戦による大量の失業武士たちは乱を望んでいました。

【歴史じんぶつものがたり】 宮本武蔵(みやもと・むさし)上

勝者の徳川氏も大坂の豊臣氏の息の根を止めるまでは枕を高くして寝てはいられません。世情は緊張し、一人旅をするには危険きわまりない状況であったのです。
 その中を一剣に身を託し歩き続け、命がけで修行し、内面を豊かにする教養を身に付けていったのですから、後年の武蔵にとってこの時代は豊穣の時以外の何ものでもありませんでした。
 そして、佐々木小次郎との決闘に勝利をおさめ一躍天下の有名人になって、またも修行の旅に出たのです。二十九歳の武蔵は何を目指していたのでしょうか。(続く)


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