佐倉の山車 歴史編


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祭礼の歴史
3代目 仲 秀英作「小野道風」人形
はじめに  「老中の御城」

戦国時代、千葉氏が下総を支配していた頃、その居城は現在の酒々井町本佐倉にあり、そこ一帯を「佐倉」と呼んでいました。現在「佐倉」と呼ばれている所は「鹿島郷」と呼ばれ集落が点在する程度の所でした。戦国時代末期になると、千葉氏は佐倉城(現在は本佐倉城)が手狭になっていた事から鹿島川沿いの鹿島山(現在の佐倉城址)を新たな拠点とするべく鹿嶋城の築城を始めますが、完成する事はありませんでした。

やがて1603年(慶長8年)徳川家康が江戸幕府を開き、1610年(慶長15年)幕府老中の土井利勝がこの地に移封されます。そして、土井利勝は「江戸を取り巻く要衝の1つ」として7年の歳月をかけて鹿島城の改築を始めました。また、改築と同時に城の東に続く台地の馬の背に弥勒町へと続く鍵の手の道を作り、道の両側に新町(横町、上町、二番町、仲町、肴町、間之町)六町を造成、田町、新町、弥勒町、本町、本佐倉を城下町とする新しい「佐倉」を形成しました。
その後佐倉は、西の「小田原」や北の「川越」などと共に東の「佐倉」として徳川譜代の有力大名が次々封ぜられ「老中の御城」といわれるようになりました。

このような経緯により「佐倉」は江戸とのつながりが太く、江戸の祭礼文化を取り入れていたのではないかと思われます。
享保二年(1717)から享保八年(1723)頃の佐倉について記述したと言われている「古今佐倉真佐子」には、氏子町会による山車や屋台の引き廻しや「ねり祭り」の記述が残っていますが、当時江戸では、山王祭や神田祭が一年おきにおこなわれていて、氏子町会が山車を仕立て練り歩き、当番町が「ねり祭り」(今で言う「仮装行列」、歌舞伎の演目などの「出し物」を屋台で仕立て行列を成す)をおこない賑わっていましたが、その形態をまねて祭礼をおこなっていたと思われます。
 また、明治12年から13年にかけて新町六町は、江戸の名工と呼ばれた「原 舟月」「仲 秀英」「横山 朝之」等の依代(人形)が載る3層せり出し構造の江戸型山車を買い揃えましたが、これも江戸とのつながりの太さを物語っているのではないかと思われます。
その当時の祭礼は、3年に1度を大祭とし山車、御神酒所を引き廻し、それ以外の年は御神酒所のみを引き廻したと言われ、神社御神輿の渡御とあわせ、その祭礼の華やかさは「佐倉新町江戸まさり」という言葉で表された程でした。

 その後、昭和時代になると新町六町の山車は次々と車輪故障等により引き廻しが出来なくなりますが、新町六町以外の氏子町が御神酒所を新調し佐倉の祭礼は御神酒所引き廻し中心の祭礼となっていきます。唯一仲町だけが山車の引き廻しを続けていました。
 平成時代になり、倉庫に眠っていた新町六町の山車は、各町会の働きかけで市や国の補助金を活用して復元、または新調しその内の2本が復活し、現在3本の山車が佐倉の祭礼に引き廻されています。

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安政6年 三代目 仲 秀英作「小野道風人形山車」

 この時代に引き廻されていた山車は佐倉には残っていませんが、酒々井町下宿の麻賀多神社に所蔵されている「小野道風人形山車」の山車人形が収まる木箱には「出シ人形 安政六未九月 肴町」の墨書きがあり、頭の収納箱には「小野道風人形 法橋仲秀英作」と書かれています。このことから新町六町の「肴町」が安政六年に「三代目仲秀英」に制作を依頼し、江戸時代後期、佐倉の祭礼で引き廻され、後に酒々井町下宿の麻賀多神社に譲られたのではないかと考えられています。

この山車は、唐破風屋根の真ん中より一本の柱が突出し、その上に八角形の高欄が付き、人形が乗り、高欄自体が上がり下がりをする仕組みになっています。

この「八角形の高欄」部材は横町にも残っており、江戸時代後期の佐倉ではこのような形の「人形山車」が引き廻しをおこなっていたのではないかと考えられます。

酒々井町下宿「小野道風人形山車」

肴町「竹生島龍神人形山車」吉田書店発行絵葉書
大正2年頃 横町「石橋人形山車」
明治12年 「皇国 御装束司 関岡長光」

新町六町の横町、二番町、肴町は「町名額」の裏書きより、この年日本橋馬喰町の「関岡能装束店」より三層構造の江戸型山車を購入したと考えられています。
依代は、横町「石橋」二番町「玉乃井龍神」肴町「竹生島龍神」と、能の演目を題材にした山車人形です。

この購入した山車人形について江戸の祭礼記録を調べてみると、「山王御祭礼番付」に
山王祭廿五番・上槇町(現在の東京都中央区八重洲一丁目 石橋人形」
山王祭廿五番・檜物町(現在の東京都中央区八重洲一丁目 玉の井龍神人形」
山王祭廿一番・田所町・通油町・新大坂町(現在の東京都中央区大伝馬町) 竹生島龍神人形」が描かれており、
横町、二番町、肴町が現在所有している人形と同じいで立ちの山車人形が描かれていました。

このことより、この3町会は江戸時代に日枝神社氏子町が所有し、山王祭(天下祭)で江戸城の城門をくぐり将軍の上覧を受けた「江戸型山車」を関岡能装束店より購入したのではないかと考えています。

「祭礼の歴史 明治時代 江戸型山車購入」参照


仲町「関羽人形山車」吉田書店発行絵葉書
明治12年 三代目 原 舟月作「関羽人形山車」

同じく新町六町の仲町は、人形収納箱に「明治十二年九月 関羽人形之長持 仲町」と墨書きがあり、山車おだまきには「明治十二年」と彫られていることから、この年に三層構造の江戸型山車を購入したのではないかと思われます。どこから購入したかは分かっていません。

依代は「関羽」人形で、作人札に「法橋 原 舟月作」とあり、三代目 原 舟月が制作したと思われます。

三代目 原 舟月は、山車人形だけではなく山車も手掛けていたと言われており、この頃から原 舟月の山車は独特な三層せり出しの構造で創られていますが、仲町の山車も同じ構造をしていることから、山車も三代目原 舟月が制作したのではないかと考えています。


上町「日本武尊人形山車」吉田書店発行絵葉書
明治13年 二代目 仲 秀英作「日本武尊人形山車」

 佐倉市が所有している上町「明治八年 祭礼並び臨時入費決算帳」明治13年の記載の中に「東京馬食町四丁目 関岡長右衞門」から「日本武尊出し一本」を購入したと書かれた文があります。
このことから上町は1年遅れで
横町、二番町、肴町と同じく日本橋馬喰町の「関岡能装束店」より三層構造の江戸型山車を購入したと思われます。

依代は「日本武尊」人形で、この人形頭の中には「戊嘉永三年戌九月」「法橋 仲秀英 藤原光信」と作人札があり、二代目 仲 秀英によって制作されたと思われます。

この山車人形も、「山王御祭礼番付」に
「山王祭廿七番・万町・元八日市町・青物町(現在の東京都中央区日本橋一丁目)日本武尊人形」
が上町所有の山車人形と同じいで立ちで描かれていることより、江戸時代に日枝神社氏子町が所有し、山王祭(天下祭)で江戸城の城門をくぐり将軍の上覧を受けた「山車人形」ではないかと思われます。


二番町「玉ノ井龍神人形山車」吉田書店発行絵葉書
二番町「玉ノ井龍神人形山車」三味線胴及び高欄
二番町「玉ノ井龍神人形山車」三味線胴裏書き
明治25年 二番町「玉乃井龍神人形山車」一部新調

二番町に残っている三味線胴の裏には、「原 舟月作 明治廿五年 第十月新調」の墨書きがあり、明治25年(1892)に三代目 原 舟月によって、この部分が新調されたと考えられます。

実は、二番町には現在、江戸時代の文化8年(1811)に制作された御神酒所が残っていますが、その破風屋根等の形が明治42年に撮影された二番町「玉乃井龍神人形山車」や吉田書店発行の古写真の破風屋根等と同じであることがわかりました。

このことより、二番町は明治12年に購入した山車とは別に、現在の御神酒所に「関岡 長光」から購入した山車人形を載せ山車に改造し引き廻しをおこなっていた。
その後、この山車を御神酒所のつくりに戻したと考えられます。
現在の御神酒所を、いつ山車に改造したか、また、いつ山車のつくりから戻したかの記録は残っていませんが、昭和8年の古写真には、現在の御神酒所の形で祭礼を行う様子が写っています。

昭和8年 二番町御神酒所
昭和8年 仲町「関羽人形山車」
昭和8年 二番町「玉乃井龍神人形山車」御神酒所となる

「麻賀多神社 大年番帳」によると、当時の麻賀多神社の祭礼では、満3年目に大祭があり、その時は山車と御神酒所を引き廻し、それ以外の年は御神酒所を引き廻していたようです。
ただ、明治時代初期に買い揃えたと言われている佐倉の山車ですが、この時代になると山車の引き廻している写真が減っていきます。

 昭和8年の大祭では、二番町の「玉乃井龍神人形山車」は、依代をなくし、山車ではなく御神酒所の形で写っています。


昭和11年 上町「日本武尊人形山車」
昭和11年 仲町「関羽人形山車」
昭和11年 上町「日本武尊人形山車」昭和時代最後の引き廻し

 昭和11年の大祭には、上町の「日本武尊人形山車」の写真が残っていますが、上町はこの年以降、平成時代になるまで山車の引き廻しをおこなうことはありませんでした。


昭和29年 横町「石橋人形山車」
昭和29年 仲町「関羽人形山車」
昭和29年 横町「石橋人形山車」昭和時代最後の引き廻し

 昭和29年の大祭には、横町「石橋人形山車」の写真が残っていますが、横町の山車は車輪故障により平成時代になるまで山車引き廻しを再開できませんでした。


昭和48年 仲町「関羽人形山車」
昭和52年 仲町「関羽人形山車」
昭和48年 仲町「関羽人形山車」唯一引き廻しを続ける

 日本の社会は「高度成長期」に入り世の中は変わっていきました。
昭和40年代の佐倉では毎年おこなわれていた麻賀多神社御神輿の渡御が5年に1度となり佐倉の祭礼自体が衰退していきます。
ですが昭和48年「若潮国体記念大祭」を機に徐々に祭礼は復活していきます。

しかし、この時代に山車引き廻しをおこなっていたのは仲町だけで、他町会の山車は解体され山車小屋に眠っていました。


平成8年 横町「石橋人形山車」
平成6年 横町「石橋人形山車」車輪を修復新調し引き廻しを再開

 横町「石橋人形山車」は昭和29年以降も山車小屋に保存されていて、昭和48「若潮国体記念大祭」の時は御仮屋を建てて展示している写真が残っていますが、構造材がゆがんでしまい、車輪も割れていて山車を引き廻すことはできなかったそうです。

そこで、町会の人たちが市に働きかけ、車輪を修復新調し、上段をせり出す「やぐら」を修理調整し、高欄や彫刻を補修し洗い出し、金具を補充し金メッキ仕上げをおこなうなどして40年ぶりに引き廻しを再開しました。


平成26年 上町「日本武尊人形山車」
   昭和11年古写真と同じ場所で撮影
平成26年 上町「日本武尊人形山車」車輪、構造材を新調し引き廻しを再開

 上町「日本武尊人形山車」は、昭和11年以降解体され山車小屋に保存されていましたが、昭和40年代に山車人形や幕類、彫り物、漆塗りされた化粧部材以外の車輪や車軸、構造材が全て失われてしまったそうです。

 平成22年に再結成された、新町六町と弥勒町の祭礼用具保存管理団体「佐倉山車人形保存会」は文化庁に働きかけ、この失われてしまった部材を新調し、80年ぶりに引き廻しを再開しました。


平成26年 仲町「関羽人形山車」 昭和8年古写真と同じ場所で撮影
平成28年 仲町「関羽人形山車」

 明治12年より祭礼で引き廻されていた仲町「関羽人形山車」は、平成時代になると経年劣化により山車がぐらつき始めました。
そこで町会の人たちは文化庁に働きかけ、平成12年に下段構造材の一部修復新調をおこないました。

その後、山車下段幕の修復新調、漆塗り替え、彫り物、金具の金箔押さえ、下段幕板、高欄の新調復元等をおこない現在も引き廻しを続けています。

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平成28年 横町「石橋人形山車」 上町「日本武尊人形山車」 仲町「関羽人形山車」