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佐倉の祭礼
 山車人形
 山 車
 活動履歴
祭礼の歴史
1 明治時代の祭礼

この時代、祭礼についての記録は、山車の絵はがき写真数枚と日清戦争時の「明治二十八年十月二十四日佐倉練兵場ニ於ケル歩兵第二連隊招魂祭」の写真が残っています。
  明治28(1895)の歩兵第二連隊招魂祭写真には、新町六町の横町「石橋人形山車」・上町「日本武尊人形山車」・二番町「玉ノ井龍神人形山車」・仲町「関羽人形山車」・肴町「竹生島龍神人形山車」・間之町「猩々人形山車」と弥勒町の山車が写しだされていることから、新町六町と弥勒町は当時祭礼にも山車を引き廻していたと考えられます。


 時代は明治になり、佐倉城は解体され、そこに陸軍歩兵第2連隊が移駐されたころ、新町六町は、江戸型山車を東京から購入したとされています。そのうち、現在引き廻しができるものは、横町「石橋人形山車」、上町「日本武尊人形山車」、仲町「関羽人形山車」の3本ですが、二番町・肴町・弥勒町には山車人形や三味線胴、上段四方幕等化粧部材が残っています。


佐倉の祭礼の歴史 明治時代 江戸型山車購入
 また、祭礼について書かれている文献は『佐倉堀田邸宅家扶日記』があります。

 明治維新後、佐倉藩主の座を失い、華族として東京に移住していた「堀田正倫」が、明治23年(1890)11月より、家族を連れて、佐倉に戻ってきました。これは、佐倉堀田邸の家扶(執事長的な役職)が、日常的な出来事を記録した日記です。
佐倉の祭礼がわかる写真展 展示パネルより
「明治二十八年十月二十四日佐倉練兵場ニ於ケル歩兵第二連隊招魂祭」拡大図
日記によれば、堀田邸は明治23年11月に完成しますが明治28年まで渡御の記述はありません。
明治29年10月14日の記述に
  麻賀多神社員の小島忠蔵が参殿した、本年の御祭典の節に神輿が御門前まで渡御しても差し支えがないか
  との申し出があったので、差し支え無いとの旨を返答したので、御門前へ盛砂を用意した。
   ( 中  略 )
  午後八時過に神輿が御門前へ鎮座したので、(堀田家の)方々様御玄関よりお出でになって拝まれた。
      一 御初穂金 三百匹
      殿様は風邪気味のため拝まれなかった
  神輿へ随行してきた者へ酒二樽を鏡抜きして、御門前へ差し出してふるまった。
とあり、麻賀多神社御神輿は明治29年の祭礼ではじめて堀田邸に渡御したことがわかります。
また、その時大神輿の担ぎ手たちへ酒2樽をふるまったことも記述されています。
 明治30年、31年、32年の日記は残っていなく、明治331014日の記述には
  夜に入って神輿が御門前へ渡御になったので、御初穂をお渡しになった。
  利貞(家扶)が代りに拝んだ。和子様(堀田正倫娘)が次に拝んだ。間もなく退散した。
  御門前にて神酒二樽を一同へふるまった。これは恒例の通り。
  一 御初穂金三百疋
 明治34年、35年、36年も日記が残っていなく、明治371014日の記述には
  麻賀多神社 十四日 十五日 例祭なので
  一 金拾円 神酒料 献備した
  本年は時柄(日露戦争のためか)神輿渡御が無かった。
と続きます。欠年が多く断定はできませんが、明治29年より以降祭礼にはおおむね堀田邸に渡御していたと考えられます。
旧堀田邸 玄関棟
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明治44年11月3日 肴町山車  小林久居堂発行絵葉書
2 江戸型山車の購入

 新町六町の内、横町「石橋人形山車」の町内額には明治を代表する書家「巻菱潭」が「横町」と揮毫(毛筆で書く)され、裏には「明治十二年九月納入 皇國御装束師 関岡長光」の墨書きがあります。また、現在山車は運行していませんが、二番町と肴町にも横町と同じ書家が揮毫し、裏にも同様な墨書きがある町名額を所有しています。このことより横町・二番町・肴町の三町会は同じ時期に「関岡長光」を通じて江戸型山車を購入したと考えられます。
 ではこの「関岡」という人物について調べてみると、明治134月に版権した「東京商人緑」によると装束師之部に「日本橋區馬喰町四丁目八番地 關岡長右衛門」とありました。
装束師とは、衣装や道具を拵える仕事のことで、横町・二番町・肴町の山車人形は、能の演目「石橋」「玉井」「竹生島」の能の一場面を表現した人形で、衣装も全て能装束でつくられています。このことからも、3町会は同じ「関岡」から山車を購入したのではないかと考えられます。
明治29年渡御推定図 「佐倉の祭礼」より転写

 仲町の「関羽人形山車」は、人形収納箱に「明治十二年九月 関羽人形之長持 仲町」と墨書きがあり、明治12年に購入したのではないかと考えられます。購入先についてはわかっていません。

 上町の「日本武尊人形山車」は、明治13年に「馬喰町四丁目 関岡長右衛門 日本武尊だし壱本」と上町台帳に記録が残されており、上町も「関岡」より江戸型山車を一年遅れで購入したと考えられます。

 残る1町内の間ノ町には現在、山車と人形は存在しませんが、口伝で「猩々人形山車」を所蔵していたといわれています。

 弥勒町は、山車人形「八幡太郎義家」を所蔵している町会です。明治28年の招魂祭の写真には「八幡太郎義家」とは形がちがう山車人形が写っていますが当時山車、山車人形を所有していたことがわかります。
3町会の「町名額」 「佐倉の祭礼」より転写
明治44113日 上町山車、御神酒所  小林久居堂発行絵葉書