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今は、亡き父に聞かされた。
                                        
亡くなった祖父の父親兄弟が、東京の巣鴨で染色工場を、していたと言う。
主に、浴衣、手ぬぐいを染めていたらしい。
              
今は戦争の際、東京大空襲で焼けてしまい何も無いらしい。
戦後祖父は埼玉県草加周辺の染色工場を年間契約で腕を振るって居たようだ。
染色の仕事は、秋〜春までの(11月〜4月)
期間で翌年のデザインが型紙を使いハケで晒し布に色を染めていく職人です。
私の父も草加周辺で染色の仕事をしていた。
私が子供の頃よく手ぬぐい浴衣を家に持って帰り自慢下に何色かで染められた   
七福神.干支.ボタン.朝顔など見せられた。そんな時代もあったが、タオルの方が便利だ?.
との事で・・・・
手ぬぐいの需要が減り、浴衣も流行遅れとなり着る人が減り
今から30年位前に
染色職人を止め、サラリーマンに転職した
今から16年後の秋に父は亡くなったがその年の春、昔の友人から連絡があり多摩の方で
染色をしているので手伝いに来て欲しいといわれ迷っていた。(晩年63歳)
 
私も元職人 子供の頃から、私は料理が好きでよく川魚をとり鯉こく、洗い、鮒の甘露煮など作ったものだ。
高校卒業と同時に調理師専門学校へ通い卒業後学校に就職する。業務は調理実習助手約3年勤務、一番の楽しみは学生が居なくなる夏休み、冬休み、調理室にいき、冷蔵庫から食材を見つけては私個人の創造料理作り、料理の採点は先輩である栄養士の女性たちでした。回答は決まっていてどうやって作ったの?.でした.....?

仕事は楽しく、氷細工(彫刻)も勉強しょうと思っていましたが、一身上の都合で退職しました。
最近料理の達人のテレビ番組を見ていると永続は力なりではありませんが、退職しなければよかったと思う今日このごろです。


大とろの料理

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