========================================= 集合住宅論 1/4====


 今回から公団住宅のもととなった西山夘三の食寝分離や親子別寝

についての芹沢俊介氏の論稿を掲載します。始めに住宅と住居の違

いについて記述があり、『小住宅の設計思想と家族についての考え

方の関連性については後に、いくらかていねいに述べよう。』とあ

りますが、みなさん御存知のように、既に住宅論の方は配信済みで

す。原論稿とは逆の順での配信となりました。


============================================2000/12/10====

       建築家の自邸に表れた家族意識

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  家族の戦後史ノート(十三)



    L+nBの思想(前)

                     芹沢俊介(評論家)


  
 これまで無造作に使ってきたけれど、家族の戦後史という場合の

戦後には、ふたとおりの意味がこめられている。ひとつは言うまで

もなく、第二次世界大戦における敗戦を出発点にした、それ以後の

自然時間をさしている。この場合、戦後は昭和二十年八月十五日を

境に、戦争、敗戦によるさまざまな影響が消失したとみなされるま

での時期によって区切られる時間である。これには幾つかの戦後を

考えることができよう。もうひとつは、第一の自然時間としての戦

後を踏まえながら、さらにその戦後が内在的に生み出した固有の価

値と意味を出発点とするものである。ここでも、戦後は一様ではな

い。戦後史はこの場合、その固有の価値と意味(複数)の転移形態

を追跡する。その固有の価値と意味が連続性を断ち切って、新しい

水平線へと飛躍したときをもって、その価値と意味を通してとらえ

られた戦後の消失点とみなそうとする。「家族の戦後史ノート」が

採用しているのは、後の方である。家族をめぐる主要な角度から、

家族にとっての戦後的な価値と意味を取り出し、記述すること。そ

の価値と意味の転移形態を追跡し、そのプロセスとともに記述する

こと。このノートは、こうした末に描き出されるはずの家族の戦後

史に捧げられることを目的に書き継がれている。



 一九四五年(昭和二十年)から一九六〇年(昭和三十五年)のあ

いだを、昭和住宅史では、「戦後小住宅」の時代と呼んでいる。(

註一)「戦後の建築家が手掛けた住宅はまず一五坪内外のものから

始まった。この狭小さはまた一方で家族構成の単純化の反映でもあ

り、これだけの広さの中に夫婦と子ども数人が住まう場をつくるの

が当面、戦後の建築家に課せられた課題であった。まず現実に建設

を行ない得ない建築家のために、『新建築』をはじめとして各誌で

住宅設計のコンペティションが行なわれた。そこでは和室はほとん

ど影をひそめ、最小限の面積のリビング・ダイニングに、これもご

く狭い個室がいくつかつくという、いわゆるL+nB(Lはリビン

グ・ダイニング、Bは寝室でnはその個数=評者註)の表現そのま

まの平面の可能性が追求されたのである。」

 右のような文章には、幾つかの註記が必要のように思われる。

 一、住宅という場合、それはいかに小住宅であっても土地=宅地

の上に立つ木造の一戸建て住居であること。

 一、したがって鉄筋コンクリートの集合住宅とは異なること。米

沢慧は、住宅と住居を分けている。集合住宅の場合、個人にとって

住宅であるより住居であり、一戸建だけが住居と住宅の分裂を免れ

ている、と述べている。(註二)

 一、したがって公団住宅の2DKの住居を論じることと、極小の

一戸建住宅を論じることとは区別が必要であるということ。

 一、集合住宅の戦後の展開は、L+nBというプランの規範が家

族の生活を根底から規定してゆく過程であった。他方、小住宅の展

開はプランニング面のみに限って見ても、戦後家族の自己生成の原

理に極めて柔軟に対応していたと言うことができるということ。言

いかえれば、集合住宅の住居は量産化され、その面から家族に根源

的な影響を与えたのに対し、小住宅の設計は質の面から家族につい

ての考え方に無視しえない影を落としたということ。

 一、ともに都市の住居であるという共通性。

 小住宅の設計思想と家族についての考え方の関連性については後

に、いくらかていねいに述べよう。ここにその水路だけを出せば、

清家清によるワンルームによる住宅空間の構成の提案(一九五三、

四年)、菊竹清訓によるスカイハウスという思想の現実化(一九五

八年)、黒沢隆の個室群住居という考え方の提案(一九六八年)等

々――、これら注目すべき設計思想にあらわれている、かれらの家

族観をたどることである。私たちはそこで、興味深い事態に遭遇す

るはずなのだ。だがまず、集合住宅について話をすすめよう。

 ここで言う集合住宅とはこれまでの記述から、次のように定義す

ることができる。すなわち鉄筋コンクリートで建てられた非一戸建

ての都市住居であり、その中心思想はL+nBと表現されるプラン

ニングにある。一九五五年(昭和三十年)から、戦後の家族の前に

大量に出現する公団住宅は、基本的にこのL+nBのプランニング

を核にしている。

 L+nBが語っているのはなにか。これは簡単である。食寝分離

という思想である。だからLはDKと書き直す方が実態に即してい

る。いまでも2DKとか3DKとか4LDKというように間取り(

プラン)を呼びならわしているが、どう展開してもこうした呼称の

中心に置かれているのは、食寝分離の思想なのである。

 日本住宅公団によって規範化される以前に、2DKという概念の

創出に関与した鈴木成文によると、「五一L型」と名づけられた公

共住宅の間取り設計の中心的なテ−マはふたつであった。第一が食

寝分離であり、第二が親子別寝であった。これらふたつのテーマを

二室住宅という条件下で実現しようとした結果生み出されたのDK

という発想であった、というのである。

 ところで、この食寝分離という住居に関する命題ほ西山夘三が提

出したものである。この命題は「適正就寝」という命題とともに、

一九三六年から行なわれた西山夘三を中心とする「住み方調査」の

なかから創案された。当然、食寝分離、適正就寝という考え方は、

住宅ないし住居の規模にかかわっていた。鈴木成文が食寝分離およ

び親子別寝というふたつのテーマを2DKという概念にまとめあげ

たことは、西山夘三の命題の統一を意味していたのである。食寝分

離や親子別寝という発想は、間取りを、家族についての問題意識に

結びつけたのではなく、「住み方」と結びつけたとき生まれたもの

なのである。    


               L+nBの思想(後)に続く

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  ■ 建築家の自邸に表われた家族意識 (月1回発行)

     発行者  :武田稔

  発行システム:まぐまぐ http://www.mag2.com/ ID:0000017583

     MACKY http://macky.nifty.ne.jp/index.htm

  HP:http://www.alpha-net.ne.jp/users2/mirutake/serizawa00.html

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============================================2001/01/08====

       建築家の自邸に表れた家族意識

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    L+nBの思想(後)


                    芹沢俊介(評論家)


 西山夘三の『住み方の記』のなかの2K体験を読むと、集合住宅

つまり都市住居についての基本的な観念を手に入れることができる。

西山夘三は京都の人である。その西山が東京代官山の同潤会アパー

トに移ってきたのは、昭和一六年に住宅営団ができることになり、

その研究部に入ることになったからである。同潤会は、関東大震災

の後の住宅政策推進の中心になっていた財団法人で、代官山アパー

トは昭和二年に建てた本格的な鉄筋アパートである。部屋は六帖と

四帖半、それに台所。当時、新婚であったので、「当時の『国民住

宅』標準からいっても最低の極小住宅だが、二人ぐらしの家族構成

にピツタリとした家」であった。このアパートの二階に二年八ヵ月

のあいだ、西山は住む。



 代官山アパートは、総計三十八棟二九八戸、敷地面積四千八百余

坪の団地である。住戸は六帖+四帖半、八帖+三帖が主で、その他

に若干、六帖+四帖半+四帖半、八帖十四帖半+三帖という三室住

戸もあった。中心には食堂、店舗、浴場等があった。以下、西山夘

三の記述から、関心の引かれるところを適宜、引き出してみる。



今でいうと「二K」の極小住宅であるが、四帖半の方に炊事場がつ

いているので、補室=食堂型の「食寝分離」がしやすい型である。

(「間取り」)



 六帖四帖半には、家財道具が多いと困るが、四帖半を食事室にし

て食寝分離をしても二・五人までは充分住める。但しそのためには、

極度に家財家具を吟味してへらす努力が必要である。私は住宅の間

取りの研究を住み方の研究におきかえていろいろ考えた末、京都か

らもっていく大家具(固定して配置し、大きくスぺースをとる家具)

として、洋タンス、整理タンス、ラジオ、組立本棚だけに限った。

(「家具の配置」)



 寝室は無論この北六帖である。鉄筋コンクリートなのですきま風

がないから、寒いと思ったことはない。夏はマドにスキマをあけて

ねた。二階だからそういうことができた。二人の床をとるのは問題

なくできるのだが、わが家の蒲団はすべて関西風で四布五布の掛、

三布四布の敷蒲団で、両脇にイスセットと置床があるから少しせま

くなり、掛蒲団は当然重なりあった。(「ね方」)



 長男と次男が東京にいる問に生れたが、両回とも大事をとって青

山の日赤病院に入院させた。(当時としてはまだ一般的でなかった、

と西山は別の箇処で記している。)(中略)子供が生れたので、小

判型の行水たらいを買い、赤ん坊の行水は玄関イタマをつかった。

(「出産」)



 私は半グツでなく、あみ上げグツをつかっていた。家を出る時、

クツのひもを結ばねばならぬ。すると、このアパートの土間と床面

との高低差がわずか十五センチくらいという、段のない上り口は具

合がわるい。(中略)ここの玄関でもう一つこまったことは、暗い

ことだ。(中略)電灯をつければいいが、そういう設計になってい

ない。(中略)こんな所が案外「泣きどころ」になっていて、一般

人に鉄筋コンクリートアパートのうとましさを感じさせているのか

もしれない。(「玄関」)



 とはいうものの、私はこの家にすんではじめて不燃性家屋の有難

さがわかった。(中略)水洗便所についても同様のことを考えた。

(中略)体の調子はよくわかるし、流してしまうと清潔である。(

中略)不燃住宅、水洗便所・・・・こういったものは一旦経験して

みるとそのよさがわかってきて、本当の住宅はこうでなければなら

ないと思うようになる。(「鉄筋コンクリート構造」)



 極小住宅では「置き場所」=空間の絶対量は、動線=つかい勝手

よりもはるかにつよい要請なのである。だから家具も何もおいてい

ない間取りだけでプランのよさを判断することなどは、小住宅では

見当ちがいになることが多い。(「動線よりも置き場所」)



 家が狭いので、空箱、古道具、ムシロ、炭、そしてどうしても家

の中に入りきらない家財道具はひじかけ窓やパルコンにはみ出して

くる。洗濯ものもパルコンのほかに南面の窓にサオをつって干す。

窓の前にものをつりさげるとへヤに入る日光など邪魔になってまず

いと思われるのだが、住み手の方はその手軽さの方をはるかに重宝

がる。こうしたことで、この住宅地に一見不良住宅地的景観を呈す

るが、せまい家にすんでいる必然の結果ともいえよう。私は、オム

ツや浴衣や蒲団の色彩・デザインをよく考えて、これらさまざまの

干し物が、団地の景観に生気をあたえるような調子にならぬものか

と考えたりしていた。(「団地生活」)





 林昌二は、「日本の『モダン・リビング』をつくる」と題した吉

村順三論のなかで、「モダン・リビング」について以下のように述

べている。



「モダンリビング」は、戦後の住宅設計を主導して一時期の住宅像

を確立した基本概念でした。それはまず、(1)使用人を使わない

で維持管理できる、(2)したがって、主婦が家事の中心となり、

台所が重視され、裏口が消失する、(3)対外関係より家族生活が

優先し、玄関は最小限、客間は廃止、「リビング・ルーム」が登場

する、などであり、これに食寝分離の推進、家事労働軽減、動線最

小化、さらに電気器具の普及、材料・工法の工業化の背景が加わっ

て、「モダン・リビング」が定形化されたのですが、(後略)



 西山夘三の同潤会アパートの2K生活と林昌二のいう「モダン・

リビング」は同じように見えて、微妙にずれていることが、読み較

べてみて分る。西山夘三の2K体験の方が、戦後の住宅公団の2D

Kにずっと近いと言える。2DKは、「モダン・リビング」の思想

と表面上一致しているけれど、現実にはコスト面からのきびしい制

約からくる不可避性を背負わされている。使用人は使わないのでは

なく、使えないのであり、台所は重視されていない。にもかかわら

ず出入ロは一箇処に限定される。玄関は最小限に削られ、客間など

は論外であり、かろうじて「リビング・ルーム」の萌芽がDKのな

かに出現しているにすぎない。けれど、この極小住宅に浴室が加味

されたとき、それははっきりと若い夫婦の視界にと浮上してくる。

西山夘三が言うように、「二人ぐらしの家族構成にピツタリとした

家」として。食寝分離や親子別寝よりもなによりも、極小住宅は、

一対の男女しか受け入れないそのエロチックなイメージにおいて、

まさに戦後的であったのである。




(註一)「昭和住宅史」(「新建築」一九七六年十一月臨時増刊号 )

( 二) 米沢慧『都市の貌』(冬樹社)

( 三) 註一と同じ。



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  ■ 建築家の自邸に表われた家族意識 (月1回発行)

     発行者  :武田稔

発行システム:まぐまぐ http://www.mag2.com/ ID:0000017583

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HP:http://www.alpha-net.ne.jp/users2/mirutake/serizawa00.html

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集合住宅論 2/4へ続く