西暦 | 和暦 | 出来事 | 覚え |
1643年 | 寛永20年 | ・新城藩主(水野備後守元綱)流材の便を図るため、播州高砂から石工を呼び一の滝の除去する。 ・滝川宗左衛門一貞(地元代官)私費にて三の滝の除去(高さ一条三尺、 幅六間になった)以来、鮎がこの滝を越えようと水上へ飛躍するよう になりこれを捕らえる漁が始まった。 (1998・1追記) |
和歌山県有田川松原の鮎滝、高さ八尺、幅一条;日本水産補採誌より |
1646年 | 正保03年 | ・滝川家は先の功が認められ領主(設楽市左衛門)より滝元に任ぜられる。 | ・ |
1744年 | 延享元年 | ・出沢区民に滝川家より使用を許可される | ・ |
1873年 | 明治06年 | ・廃藩置県で愛知県となる。 滝元制度は廃止され、村請けのかたちとなり、出沢村民の特権として存続するようになった。 |
1998・1追記 |
1876年 | 明治09年 | ・鮎滝の漁業権の継続を愛知県令阿部保祖に提出し許可された。この時、対岸の横山村は漁業権につき出願しなかった〔庸忠篇古文書目録209号〕。これ以降、この鮎滝漁業権は出沢村の権利として認められた。 | 2000・8追記 |
1889年 | 明治22年 | 長篠鮎業組合発足 (長篠、横川、出沢の有志22名による)出沢区としては、この組合が出来ることにより、鮎滝の漁獲が出来なくなるのではないかと心配したが、組合側からこれは販売をする人はこの組合に入って、組合を通して売ってもらいたいというものであり、漁獲方法について規制するものではない。従って鮎滝に対して迷 惑を掛けるというものではない。とのことで組合の発足を許可したと のことである。 | ・ |
1911年 | 明治44年 | ・ピンコ釣り始まる。(明治43年12月〜45年2月に掛けて長篠発電所が作られたが、その時九州方面から来ていた工夫により伝えられたと言われている。 |
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1924年 | 大正13年 | ・長篠漁業組合と改称 (組合員115名) | ・ |
1925年 | 大正14年 | 寒狭川漁業組合と改称して設立 ・約定証を交わす。(組合、横川、出沢) 漁業権については三谷の水産試験課がからんでおり、琵琶湖の鮎を試験放流することで認可されたと聞いている。滝については従来の旧慣を尊重しその利益を損傷しないということで組合と横川と出沢の三者の間で約定証を交わしている。内容の一部を次に示す。 1、従来の旧慣を重んじ出沢と横川の住民の利益を損傷しないことの目的で約定した。 2、鮎滝の岩石を削るなどして現場を変えてはならない。 但し、魚道については鮎滝漁業に支障ない程度なら協議する。 3、鮎滝下の出沢地区及び対岸横川地内では友釣り以外は漁獲方法を一切認めない。 4、漁業組合は、上記地区内においては、将来水面利用権の許可を受けた場合でも地先住民の旧慣を尊重しその利益を損傷してはならない。 |
1997・1追記 |
1926年 | 昭和02年 | 琵琶湖及び浜名湖産稚鮎放流。 この結果は、予想以上の成果を得て以後全国に広まることとなった。現在も琵琶湖産の稚鮎の放流が義務づけられているような感じがある。 |
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1934年 | 昭和09年 | ・協定書作成される (豊川沿岸町村長13名及び豊川上漁業組合代表者寒狭川漁業組合代表者による) 豊川沿岸住民の反意穏ヤカナラザルニ困り『専用漁業に関する協定書』が作成されたことで治まる。 元々地元住民には迷惑をかけない(農閑期の娯楽と食生活)という 前提で作られた組合であるからそれが阻害されれば組合の存続はあり 得ないのである。尚この漁業権は『川の地先住民の権利』となってい るため、東郷村15か村の調印を得るおり、浅谷と須長、八束穂部落 より釣りに行けなくなるから調印出来ないと苦情が出され、地先では 無いけれども従来通りの慣行にならい、準会員として釣れることで調 印してもらっている。協定書は17通作成され『永久に此れを誓約実 行する為に、関係町村長、組合代表者署名する』と記され、豊川町長・ 宝飯郡一宮村長・金澤村長・大和村長・賀茂村長・舟着村長・八名郡 町村長会長八名村長・海老町長・鳳来寺村長・長篠村長・千郷村長・ 新城町長・南設楽郡町村長会長東郷村長・寒狭川漁業組合代表者・豊 川上漁業組合代表者の署名がされている。内容の一部を次に記す。 1、販売を目的とする者は加入しなければならない。 2、加入していなくても、地先の住民による地先及び対岸のみでの鮎漁は 出来る。 3、鮎滝での漁獲は、従来の慣行にならい天然と否とを問わず同部落住民 の漁獲を認むる。 |
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1937年 | 昭和12年 | ・出沢区民は最低各戸一人は組合員となる。 当時の漁業組合長(佐々木忠治氏)より出沢区に対し『滝は出沢区の ものであるが、鮎は組合員でなければ捕れない』との異議申し立てがあ り、区総会を開き、区としては『先の協定書の件は有るが、あえて組合と対立することも無いから』という事で、《全員ということではなく各戸最低一人とし、誰が行くかは任せてもらう。監視員は鮎滝には来ない》ということで加入することになった。このとき『あそこは監視員が行っても、上にも下にも行けない所だから行くことも無い』という言葉が交わされたと聞いている。 |
組合員168名 |
1938年 | 昭和13年 | ・三谷水産試験場の井上技師が大量のセメント持ち込み。 猿橋上流での稚鮎の捕獲実験の為の設備を作るためとのことであっ た。海野明、浅井栄治が急遽県水産課へ行き取り止めるよう陳情した所、三谷水産試験場の井上技師と話をするように言われる。水産試験 場に行き井上技師と会い、組合との約定書を見せ陳情した結果取り止 めることになった。 |
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1940年 | 昭和15年 | ・協定書作成される(東郷村長、長篠村長、鳳来寺村長、組合長) 組合が農林大臣より専用漁業権を得たことより協定されたものである。内容の一部を次に示す。 1、販売を目的とする者は加入しなければならない。 但し、鮎滝にて網を持って採捕する者はこの限りでない。 2、組合地区内の遊漁者による漁獲は組合員と同じ漁法による。 (放流漁場は鮎を除く) |
1997・1追記 |
1944年 | 昭和19年 | ・名称を寒狭川漁業会と変更する。 (昭和18年水産法団体法が交付された。第二次世界大戦中のことで、組合は国の統制団体とされ、従来の漁業組合は個人の出資に基づく漁業会に編成替えされた。 これを受けて名称変更したもので ある) |
1998・1追記 |
1948年 | 昭和23年 | ・水産業共同組合法が交付される。(法人格を与えられた) | 1998・1追記 |
1949年 | 昭和24年 | ・漁業法が新たに制定される。 1、漁業権の存続期間が5年又は10年に短縮された。 2、内水面漁業権が第5種共同漁業権として認められた。 これにより、漁業権は増殖のためであることを明らかにし、増 殖のためでなければ免許されないとなった。 |
1998・1追記 |
1950年 | 昭和25年 | ・寒狭川下漁業共同組合と改称する。 (玖老勢川、海老川と小松地区地先は玖老勢支部として独立) ・田口、布里地区が寒狭川上流漁業共同組合として独立する。 (地先優先主義は、旧法の取るところであったが、新法の下でもその慣行は生きており、とかく旧町村あるいはその中の集落毎の利害が錯綜している) ・出沢区漁業協同組合設立のために動く。 1、『漁業法』の制定、『協同組合法』の改正により、20名以上の 有志が集まれば組織出来ることになった。 2、近年漁業組合は、組合員が増え、鮎滝の約束を組合員に徹底出来ないようで、滝でのイザコザが絶えない。 との区民の苦情を聞き入れ、出沢区だけで独立しようと云うことになる。 内田定次氏が中心となり必要書類の作成に移りそれが出来上がり、県の窓口は原田茂次氏と云うことで、 明日2月27日に県へ出向くという事になった26日の晩、長谷川佐吉氏と内藤忍氏(組合役員では無いので当時の顔役かと思われる)が突然訪れ『今まで滝のことで問題を起こしたことは無いし、今後も起こさないから取りやめて欲しい』 『出沢に独立されると、良い所を殆ど持って行かれてしまう。組合としては大変困る』との申し出が有り、そう言う事ならと、急遽反故となった。 《この頃はピンコ釣りは新滝から上へは来ないことになっていた 》 |
組合員414名1998・1追記 |
1953年 | 昭和28年 | ・豊川上漁協との共同漁場について協議される。 1、有海地区の組合員の取り扱いについて。 2、その他の組合員については、相互に10名以内の鑑札を交付する。 |
1998・1追記 |
1958年 | 昭和33年 | ・新城文化財の指定を受ける。(4月1日) | 組合員540名 |
1960年 | 昭和35年 | ・新滝での稚鮎の捕獲開始される。 組合長山本六氏より6月1日前に新滝での稚鮎の捕獲の申し出が有 り、区としては鮎滝で捕るのでなければ、特に反対して組合ともめる ことも無いということで了解する。 《この頃のピンコ釣りの上限は新滝上の高岩になっていた》 |
組合員557名 |
1963年 | 昭和38年 | ・同年2月、寒狭川上流漁業共同組合解散。 ・同年8月、寒狭川上流漁業共同組合設立。 寒狭川中部漁業共同組合設立。 分離の理由は明らかではないが、 地先優先主義の利害関係と思われ る。 ☆宇連ダムの鳳来湖に漁協が出来た。 |
1998・1追記 |
1968年 | 昭和43年 | ・豊川用水事業完成 1、大野頭首工の魚道設置しない損失補償 三輪川下漁協;329万円 大滝漁協;190万円 2、大野頭首工下流部のの掬い上げ施設廃棄補償 三輪川下漁協;45万円 3、減水補償 豊川上・下豊川・三輪川下・寒狭川下漁協;1450万円 ・佐久間ダム放水補償 大滝漁協;700万円 ☆宇連ダム建設に伴う漁業補償は全くされていない。 |
1998・1追記 |
1975年 | 昭和50年 | ・玖老勢・布里支部復帰 ・新滝での稚鮎の捕獲中止となる 《この頃のピンコ釣りの上限は新滝上の最初の曲がり角で、鮎滝から直接見え ない所までということになっていた》 |
組合員824名 |
1977年 | 昭和52年 | ・長楽導水ダム建設反対請願書(組合員972名)鳳来町議会に提出。 | 1998・1追記 |
1981年 | 昭和56年 | ・長楽導水ダム建設現地調査地元同意する。 ・長楽導水ダム建設反対請願するが、紹介議員の手で握り潰されたと言 われている。 |
1998・1追記 |
1984年 | 昭和59年 | ・長楽頭首工建設本決まりとなる。 内田定次(市会議員)鮎滝の補償問題で県農林水産省・その他関係 関に出向き交渉する。 (当初漁協は動いていない) 交渉のなかで、 漁協を通じて支払う形を取るのでそちらから貰うよう に、 尚金額は130万円という事であった。 それでは、 組合から恵 んで貰うようで嫌だから、 直接鮎滝保存会の方に貰えないかと交渉 したが、 財布が一つのところから出る関係で、 そうも行かない。組合いにはその旨話しをして置くからとのことであったので納得する。 |
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1985年 | 昭和60年 | ・鳳来町が寒狭川頭首工・導水路建設に対し同意し協定が締結される。 この時大島ダム・設楽ダムを含めた建設と引き換えに次のような約束を取り付けている。 暫定措置 (1)、6月1日〜9月30日この間一定条件を満たしたとき、緊急放流として0.3立方メートル/秒 の放水をする。 (2)、寒狭川頭首工からの導水を0.7立方メートル/秒 を限度に大野頭首工下流に放水する。 恒久措置 豊川総合用水事業全体計画(寒狭川頭首工・導水路・大島ダム・設楽ダム)完成時には、大野頭首工下流に常時0.7立方メートル/秒 を放水する。 |
1998・1追記 |
1986年 | 昭和61年 | ・寒狭川頭首工・導水路建設に対し同意し協定が締結される。 (地元が同意した以上止む無しとの事だったという) ☆これより、組合としては漁業補償金と河川の維持水量についての補償問題で動く。 |
1998・1追記 |
1988年 | 昭和63年 | ・豊川許可標示板設置 漁獲区域標示用架空線設置 鮎滝保存会会長 森 田 鉄 雄 《 この頃になると、滝番が網を持って行くと、 直接鮎滝の滝壺でピンコ をしているということも有った。 このまま黙っているとどこまで来る か解らないとの危機感が出て、 組合役員立ち会いの下で架空線の取り付けを行う。 出沢区としては、本来ピンコについては新滝までで、 友釣りに限り滝番に迷惑がかからなければ良いという約定のはずであるが、 今更組合としても徹底しにくいであろうからということで、話し合い、張ったものである 》 ☆飛んでいる鮎も、 滝の上で手を洗っただけで飛ばなくなり、 また、 滝の下の高 台の所で夕日に照らされて、 人影が川面に写っても飛ばなくなる。 |
1997・1追記 |
1989年 | 平成01年 | ・夏季、鮎の大量死発生 県水産試験場の検査結果「ビブリオ族又は運動性エロモナスによる細菌感染症」であり、焼くなど熱を加えて食べれば害は無いとのことであった。(出血性の赤い斑点が出る病気) ☆琵琶湖の稚鮎にも感染が認められ、猿投川等県下だけでなく、他府県に まで被害が及んでいることが解った。 原因 (1) 連日の真夏日と渇水で、水温が鮎の生息水温を越えた事。 (2) 硅藻・藍藻などの食用藻類が枯死腐敗(アカ腐れ)。 (3) 硅藻・藍藻から他の藻類への遷移・置換 (4) 餌を食む事が出来ず、体力・抵抗力が弱まった(細菌感染)。 ・冷水病と思われる稚鮎の大量死発生 元は北米の鮭の疫病で、グラム陰性の菌による流行性の病気。 (体が白濁する。油ヒレから尾ビレにかけてビランや出血斑点が出る。エラの内側の色が薄くピンク色になる) 初めて鮎に見つかったのは1987年(昭和62年) 徳島県に移された琵琶湖産稚鮎。その後全国で病気鮎が見つかっている。 ☆対応策;水温24〜25℃の池に7〜10日畜養すれば病原菌は死ぬとされている。(この施設を持った養殖業者から稚魚の購入をすることである) |
1998・1追記 |
1990年 | 平成02年 | ・谷村監視員鮎滝にて滝番をしていた女性二人を違反行為として上げら れる。 (過年度女性一人が子供一人といて上げられていた) 出沢区としては、 区民各戸一人必ず組合に入るとなった時、 手伝いや 娯楽で行く場合も有り、 誰が行くか解らない。 従って、 運営は任せて貰うということで話をし、 そのおり、 「あそこには監視員は降りない、 なぜなら降りても上にも下にも行けないから」 と言う話し合いになっていたはずである。 納得が行かないが、 組合長もいること で任せることになる。 尚、 いっそ組合から全員抜けたらどうかという意見もあった。 ※その時の様子を谷村氏本人より聞く 女性一人と子供一人の時; 監視で横山側を下から行き、ちょうど渇水期で境界線の下が浅かったのでそこを渡った。上を向いたらいたので上がって行った。 女性二人の時; (増水した時で、上から直接下りた。やり取りの中で、 理解出来ずに感情的 になったことは確かである) 出沢区と鮎滝の関係は組合から聞いているか。(聞いていない) ・寒狭川頭首工・導水路建設に対する漁業補償金決まる。 総額;1億3450万円 |
1997・1追記 |
1991年 | 平成03年 | ・寒狭川頭首工建設に対する保証金降りる。 鮎滝保存会には100万円となる。30万円は放流費の負担金との名目で召し上げられた。出沢区として納得したものではない。ゴタゴタするのが嫌で譲歩したものである。 ・豊川許可標示板設置更新 漁獲区域標示用架空線設置 鮎滝保存会会長 森 田 鉄 雄 |
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1992年 | 平成04年 | ・コエグリトビケラ異常発生 寒狭川中部漁協が特に大きな被害を受けた。 原因 (1) 水質の適応(水温が適度に低く、きれいな清流であること) (2) 餌となる硅藻・藍藻が豊富(鮎の餌でもある) (3) 天敵(水蜂)が少ない ・豊川上漁協の導水路・頭首工建設に対する漁業補償金決まる。 総額1億2000万円 |
1998・1追記 |
1993年 | 平成05年 | ・河川維持水量について決着する。 長楽頭首工地点で 3,3 立方メートル/秒 牟呂松原頭首工地点で 5,0 立方メートル/秒 ☆導水量は、豊川の流量がこれを越えている時、越える部分が小さい方の範囲で行う。 ・河鵜による食害について問題視されるようになる。 河鵜;ペリカン目ウ科に属する大型の海鳥 全身黒褐色 全長; 約90p 翼開長; 約150p 菜食量; 200〜500g/日 (1日位食べられなくても平気でいるという) |
1998・1追記 |
1994年 | 平成06年 | ・組合より区に対し「覚書(申し合わせ事項) 案」示される。 区総寄り合いを開き「鮎滝問題対策委員会」を作り対応して行くことになった。 ・鮎滝問題解決金として海野久栄・内田定次両氏が農林水産省に働きかけ130万円降りる 保存会60万円、組合70万円と言うことで分配する。 ・下豊川漁協の寒狭川頭首工・導水路建設に対する漁業補償金決まる。 総額7000万円 |
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1996年 | 平成08年 | ・豊川許可標示板設置更新 漁獲区域標示用架空線設置 鮎滝保存会会長 森 田 鉄 雄 ・長楽頭首工完成(平成8・3) |
1998・1追記 |
1997年 | 平成09年 | ・組合より区に対し「覚書(申し合わせ事項) 案」示される。 ・区総会にて、鮎滝問題対策委員会に任せることで総意とする確認。 |
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1998年 | 平成10年 | ・漁業組合総代会において、組合長より説明と報告があった。 先の出沢区に対する組合からの申し込みに対して回答があった。内容は、「今回の組合からの申し出は一切受け入れることはできない。これまで示されてきた協約書のとおりでお願いしたい」というものであっった。役員会で再三検討をしたが、よい結論を出すまでには及ばず、出沢区のいう「協約書に従い、今まで通り」ということで行くのでそのようにお願いする。 |
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1999年 | 平成11年 | ・出沢区総会において、架空線(ピンコ釣り境界線)を今一度取り付けるか否かの話し合いが出る。架空線設置更新の問題もあるが、先年度組合に「協約書に従い今まで通り」と申し込んであり、協約書には「鮎滝から下は友釣り以外の漁法は一切これを認めない」となっている、境界線にはピンコ釣りの名があるので区としてピンコを認めたことになり、矛盾が生じるので「取りやめることが筋を通す事になる」と結論を出した。 | ・ |
2000年 | 平成12年 | ・漁業組合総代会において、「行使規則」・「遊漁規則」の中の「竿釣り」の中に「ピンコ釣り」を加えることになった。 これに伴い、ピンコ釣りの範囲が「新滝から下流宮淵尻」と明記される。 |
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2003年 | 平成 15年 | ・漁業組合更新(10年ごと更新)の為の“臨時総代会”開かれる。 | |
2022年 | 令和 4年 | ・ | |