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日付 | 日付当時の 神谷力の年齢 |
結婚相手 | 結婚と死亡年齢 | ||||
1965年(昭和40年)2月19日 | 25歳 | 山下恭子 | 結婚 | 22歳 | |||
1981年(昭和56年)7月20日 | 41歳 | 死亡 | 38歳 | ||||
1982年(昭和57年)10月28日 | 42歳 | 山田なつ江 | 結婚 | 35歳 | |||
1985年(昭和60年)9月30日 | 45歳 | 死亡 | 38歳 | ||||
1986年(昭和61年) | 2月13日 | 46歳 | 工藤利佐子 | 結婚 | 33歳 | ||
5月20日 | 死亡 |
1986年(昭和61年)5月20日午後1時45分ころ、119番通報があった石垣市のホテルに急行すると、全身びしょ濡れになった神谷(かみや)利佐子(33歳)がベッドに横たわっていた。救急車に搬送し、午後2時20分、沖縄県立八重山病院に到着。5人の医師によって救急治療室で治療を受けたが、午後3時40分、死亡が確認された。死因は急性心筋梗塞とされた。
利佐子は前日から夫の神谷力(当時46歳)と那覇市のホテルに宿泊していた。2人は知り合って3ヶ月足らずの同年2月13日に結婚している。利佐子は神谷にとって3人目の妻で、前の2人の妻も同じような症状で亡くなっていた。今回、新婚旅行で沖縄にきていたが、神谷は利佐子のホステス時代の友人3人も誘い、自分たちだけ先に沖縄に入り、前日は夫婦だけで一夜を過ごした。翌日、午前10時半過ぎにホテルをチェックアウト。そのままタクシーで那覇空港に向い、東京からくる友人たちを出迎えるため、飛行機の到着を待つことになった。ここで、大阪で仕事がある神谷とは別れている。午前11時50分ころ、利佐子が友人たちと合流し、午後0時5分、石垣空港行きの飛行機に搭乗、午後0時53分、石垣空港に到着し、その後、ホテルに向かうタクシーの中で利佐子は大量の汗をかくなどの症状が出ていた。
「単なる病死ではない可能性がある」
担当した医師は医師法21条の規定によって八重山警察署に通報した。翌21日、利佐子の遺体は琉球大学医学部法医学教室の大野曜吉助教授(現・退職)の手によって八重山警察署解剖室で解剖された。このときは病的な心筋梗塞と判断したが、原因を究明するため利佐子の心臓血30CCと心臓、肝臓の一部を大学に持ち帰って保存した。犯罪の疑いのある死体(他殺体)については刑事訴訟法165条と168条に基づいて司法解剖が行われる。殺人事件のときだけでなく、交通事故、爆発事故、遺棄致死、原因不明など犯罪の被害者である可能性の高い場合にも、法医学の専門医によって行なわれる。 犯罪とは無関係のようでも死因が普通でない場合は死体解剖保存法8条などに基づいて行政解剖が行なわれる。司法解剖を行なうためには「鑑定処分許可状」という裁判所の令状が必要だが、行政解剖は令状なしで行なわれる。今回の利佐子の死体については行政解剖が行われた。神谷は利佐子の遺体解剖になかなか同意しなかったが、このままでは火葬も戸籍の手続きもできないと警察官に説得されてようやく承諾した。解剖が終わった後、神谷は大野助教授に「臓器は全部返してほしい」と言ったり、青森から駆け付けた利佐子の父親に対しては「石垣島で火葬にしてしまおう」と主張した。
医師法21条・・・医師は、死体又は妊娠4月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。
刑事訴訟法165条・・・裁判所は、学識経験のある者に鑑定を命ずることができる。
168条・・・鑑定人は、鑑定について必要がある場合には、裁判所の許可を受けて、人の住居若しくは人の看守する邸宅、建造物若しくは船舶内に入り、身体を検査し、死体を解剖し、墳墓を発掘し、又は物を破壊することができる。
死体解剖保存法8条・・・政令で定める地を管轄する都道府県知事は、その地域内における伝染病、中毒又は災害により死亡した疑のある死体その他死因の明らかでない死体について、その死因を明らかにするため監察医を置き、これに検案をさせ、又は検案によつても死因の判明しない場合には解剖させることができる。(以下、省略)
大野曜吉・・・1978年、東北大学医学部卒業後、東北大学大学院医学研究科博士課程医学系法医学専攻入学。1981年、日本学術振興会大学院博士課程特別研究員、1982年、東北大学大学院医学研究科博士課程社会医学系法医学専攻終了後、東北大学助手(医学部、法医学教室)。1985年、琉球大学助手(医学部、法医学教室)を経て、琉球大学助教授。1990年、日本大学医学部助教授(法医学教室)。1992年、日本医科大学教授(法医学教室主任)。2002年、日本医科大学大学院医学研究科法医学分野 大学院教授。2019年、日本医科大学定年退職。1999年に起きた山口母子殺人事件では被害者の鑑定を上野正彦医学博士とともに担当している。山口母子殺人事件
利佐子が死亡する約半年前の1985年(昭和60年)11月14日、神谷力は大阪府寝屋川市内にマンションを借り、池袋にある分譲マンションと寝屋川の賃貸マンションの2ヶ所を神谷経営経理事務所の東京・大阪事務所と記した名刺を新たに作成した。
11月18日夜、神谷は池袋にある高級クラブAに入ると、3人のホステス相手に「今日は妻の四十九日(実際、神谷にとって2人目の妻・なつ江は同年9月30日に死亡しているので命日を1日目として数えるとちょうどこの日が四十九日となる)なんです。よろしかったら供養だと思って一緒に飲んでいただけませんか」と言い、訊いてもいないのに4日前に作成した名刺を差し出すと自分が経営コンサルタントをやっていることや経理事務所を開いていることをしゃべった。このとき、接客したホステス3人のなかに工藤利佐子がいた。それ以降、神谷は連日のように高級クラブAに足を運ぶようになり、利佐子と出会ってからわずか6日ほどで結婚を申し入れている。その後も高級クラブAに通いつめ、結婚を決意した利佐子にダイヤの指輪やミンクのコートをプレゼントしていた。これを機に利佐子が高級クラブAをやめる。
翌1986年(昭和61年)元旦早々、神谷は利佐子の青森県南津軽郡にある実家を訪れ、親類縁者が集まる中、仮の結婚式を挙げている。1月20日から大阪市城東区にあるマンションで新婚生活が始まった。だが、神谷はこのとき、5年前に業務用空調機の製造販売会社を退職して失業中の身だった。2月13日、結婚。
マスコミ主導で事件が発覚。一報を報じたのは写真誌の『FOCUS』(現・休刊)、スポーツ新聞の『日刊スポーツ』(1986年7月18日号)で「三人の妻が死んだ!」というタイトルで緊急連載を行った。以来、新聞、週刊誌、テレビのワイドショーが一斉に疑惑の男・神谷力を追いかけた。『日刊スポーツ』の緊急連載にはジャーナリストであり、作家でもある坂口拓史(たくし)が関わっていた。坂口はクラブAの常連客Bから神谷に関する話を聞き、保険金殺人の確信を得る。『日刊スポーツ』の記者が大阪の神谷の自宅を訪ね、記者の説得で神谷はそれまで否定していた生命保険加入の事実を認めた。
坂口拓史・・・1942年、熊本県八代市生まれ。法政大学文学部中退。セコム初代訓練担当を経て、29歳で日本平和警備保障設立。著書にこの事件を扱った『トリカブト事件』のほか『ザ・シゴキ 実録応援団』などがある。
住友生命4500万円・三井生命(現・大樹生命)4500万円・明治生命(現・明治安田生命)5000万円・安田生命(現・明治安田生命)4500万円、計1億8500万円もの死亡保険に入っていた。神谷は利佐子が急死した際の八重山警察署の事情聴取では日本生命2300万円・太陽生命2000万円の保険に加入していると答えているが、受取人は利佐子の実母になっており、自分が受取人になっている生命保険はないと嘘を言っていた。
1939年(昭和14年)11月6日、神谷力は宮城県仙台市に生まれた。父親は東北大学工学部教授だったが、のちにレッドパージで教官職を追われ、某私立大学教授になる。小学5年のとき、母親(38歳)が神谷の目の前で服毒自殺した。以後、仙台から40キロ離れた田舎町の下駄製造工場に預けられた。働きながら学校に通う生活を中学3年まで続けた。その後、仙台高校に進学。理数系に強く、大学は東北大学工学部を2度受験したが、失敗。
レッドパージ・・・連合国軍占領下の日本で、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令で、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放され、当該期間に公務員や民間企業で日本共産党員とその支持者らを解雇した動き。1万を超える人々が失職した。
22歳のとき、音響メーカーに就職した後は職を転々とした。
1965年(昭和40年)2月19日、神谷が25歳のとき、看護婦をしていた山下恭子(当時22歳)と知り合い、結婚。この頃、神谷が経理事務に興味をもち、某大学商学部通信教育課程に入学し、日商簿記検定の2級、1級に合格している。
看護婦・・・保健婦助産婦看護婦の一部を改正する法律(改正保助看法)が2001年(平成13年)12月6日に成立、12月12日に公布、翌2002年(平成14年)3月1日に施行された。これにより、保健婦・士が「保健師」に、助産婦が「助産師」に、看護婦・士が「看護師」に、准看護婦・士が「准看護師」となり、男女で異なっていた名称が統一された。
32歳のとき、台東区上野の中古バイク販売店に転職。そこで、2番目の妻となる山田なつ江が経理課の上司として働いていた。やがて神谷が課長になり、立場が逆転する。ここは半年で退職。その後、墨田区にある税務会計事務所を経て1973年(昭和48年)9月、空調機器製造販売業の会社に入社。経理課長になった神谷は愛人関係にあったなつ江を入社させ、同じ経理課で机を並べて仕事することになる。社内で2人の関係を知る人はいなかった。1980年(昭和55年)12月に退社。1975年(昭和50年)から1980年(昭和55年)にかけて当時働いていた会社で経理の知識を悪用して1億8000万円を横領し、豊島区、新宿、草加市などのマンションを次々と購入していった。利佐子にかけられていた保険金1億8500万円とほぼ同額だった。
1981年(昭和56年)7月19日午後6時ころ、妻の恭子が吐き気と胸の痛みを訴えたため、神谷(当時41歳)が恭子を病院へ搬送。病院では心電図で調べた結果、心筋梗塞と診断され、処置をしたが、翌20日午後6時、死亡。38歳だった。奇しくも神谷の母親の死亡年齢と同じだった。
9月21日〜11月25日まで、神谷が福島の高山植物店からトリカブト15鉢を購入。
トリカブト・・・日本では古くから暗殺に用いられた有毒植物。『日本書紀』にもその記述が認められる。1メートル近い茎の上に青または紫の花が付いている観賞植物で、この全草に毒があるが、特に種子や球根は猛毒であり、アコニチン、ヤパコニチンなどの猛毒成分がある。アコニチンは胃の粘膜から素早く吸収され、興奮が始まり、嘔吐、呼吸困難、舌の麻痺、続いて手、足、指と麻痺していく。そして、わずか0.002〜0.004グラムを食べると、口から泡をふいて瞳孔が散大し、視聴覚に異常をきたし、呼吸麻痺となり死亡する。
11月4日、神谷が根岸のマンションを3200万円で売却。
1982年(昭和57年)7月1日〜9月22日まで、神谷が福島の高山植物店からトリカブト54鉢を購入。
10月28日、神谷(当時42歳)が2番目の妻となる山田なつ江(当時35歳)と結婚。
1983年(昭和58年)2月20と9月20日、最初の妻・恭子の実姉から合計545万5801円を借り入れ。同年4月25日から6月9日にかけて武富士、レイク、アコム、プロミス等のサラ金4社から借り入れ。10月28日、日本信販から1000万円(60回払い)を借り入れ。
1984年(昭和59年)1月20日、シティ・コープクレジットから池袋のマンションを担保に1000万円を借り入れ。7月27日、アイク信販から池袋のマンションを担保に1000万円を借り入れ。
1984・5年(昭和59・60年)、神谷は神奈川県横須賀市の漁師に大学教授の助手を装い、研究用と偽り、強い毒素をもつクサフグの捕獲を頼み、計600〜800匹を1匹1000円で購入。さらに、毒素を濃縮・分離する装置や毒素を試すマウスなどを入手した。
フグ毒・・・人の体にしびれや麻痺の症状を起こすが、解毒薬はなく、症状が出た場合は人工呼吸等の対症療法を行って回復を待つしかない。フグの毒はテトロドトキシンと呼ばれ、毒力が大変強く、青酸カリの約1000倍、致死量は0.0005〜0.002グラムと言われている。
1985年(昭和60年)9月30日、神谷(当時45歳)の2番目の妻・なつ江が発作を起こし、病院に搬送されるが、死亡。急性心不全と診断された。38歳だった。奇しくも神谷の母親そして最初の妻・恭子の死亡年齢と同じだった。11月、なつ江の保険金1000万円が神谷に支払われる。
1986年(昭和61年)2月23日、神谷(当時46歳)が、3番目の妻となる工藤利佐子と結婚。5月20日、利佐子が死亡。同年暮れに都内の自転車部品製造販売会社に入社、経理部に所属した。やがて経理部長に昇進し、同社の株券などの資産管理を任されるようになる。
8月上旬、神谷は保険会社4社に対し利佐子の保険金の請求を行ったが、「3人の妻が死んだ疑惑の男」神谷力に対し、保険会社は支払いを拒否した。
11月、神谷がマスコミ数社に手記『マスコミの中傷にさらされて』を送付。
12月、神谷は保険会社4社を相手に1億8500万円の保険金支払い請求訴訟を東京地裁に起こす。
1988年(昭和63年)4月21日、自分が勤めている自転車部品製造販売会社が所有する株券20枚(時価2800万円相当)と代表取締会長から預かった自社発行の株券20枚(時価1800万円)を担保に質店から1700万円借り入れ。
6月から1990年(平成2年)7月まで5億9000万円相当の株式を横領し、借金の担保に差し入れ、3億2300万円を手にした。
1990年(平成2年)2月19日、東京地裁での保険金請求の民事訴訟で保険会社4社に対し支払い判決になった。保険会社が判決を不服として控訴。
10月11日、東京高裁での保険金請求の民事訴訟での第3回口頭弁論で当時、琉球大学医学部助教授で利佐子の監察医だった大野曜吉・日本大学医学部助教授(現・退職)が利佐子の死因はトリカブト中毒と判明したと証言した。11月14日、大野助教授の証言で神谷は突然、訴訟を取り下げる。
12月、TBSテレビのワイドショーで福島の高山植物店の店主が「神谷にトリカブトを売った」と証言。
1991年(平成3年)6月9日、神谷力(当時51歳)が業務上横領の容疑で警視庁に逮捕された。さらに、7月1日、利佐子殺害と詐欺未遂の容疑で再逮捕されたが、警察に利佐子殺害の確証がなかった。7月4日、神谷にクサフグを大量に売ったことがある漁師がそのことで警察に通報。
10月25日、東京地裁で「トリカブト事件」の初公判が開かれた。弁護側は殺人と詐欺未遂の罪で無罪を主張した。これに対し、検察側は冒頭陳述で神谷が妻・利佐子に毒入りカプセルを渡した日時を1986年(昭和61年)5月20日午前8時40分から那覇空港ロビー到着までの約3時間に手渡したものと主張した。神谷は普段から利佐子に栄養剤と称して白いカプセルを手渡していた。クラブAのホステスたちも利佐子が白いカプセルを服用しているのを知っていた。
11月14日、東京地裁で第2回公判が開かれ、大野助教授が証言に立ち、利佐子の死因はトリカブト中毒による急性心不全とした上で、発症に時間がかかったことについて「トリカブトとフグ毒を併せて服用すると毒物効果を抑制しあい、結果、発症が遅れることが実験で確認できた。さらに毒を入れたカプセルを二重にしたりすれば死亡時期を操作できた」と言った。その後、裁判長から依頼を受けた東北大学の薬剤部長らが鑑定書の中で同様の結果が得られたことを明かした。
1994年(平成6年)9月22日、東京地裁で判決公判が開かれ、神谷力に対し無期懲役を言い渡した。神谷が判決を不服として控訴。
1995年(平成7年)5月、神谷が『被疑者 トリカブト殺人事件』(かや書房)を刊行。
1998年(平成10年)4月28日、東京高裁で1審判決の無期懲役を支持し控訴棄却。
神谷が判決を不服として上告。自ら作成した200ページ超の上告趣意書を最高裁に提出した。
2002年(平成14年)2月20日、最高裁で上告棄却で無期懲役が確定。
5月、神谷が『仕組まれた無期懲役 トリカブト殺人事件の真実』(かや書房)を刊行。
『仕組まれた無期懲役 トリカブト殺人事件の真実』(かや書房/2002)
2012年(平成24年)11月17日、大阪医療刑務所(堺市)で神谷が病死。73歳だった。
参考文献など・・・
『営利殺人事件』(同朋舎出版/岡田晃房/1996)
『トリカブト事件』(新風舎文庫/坂口拓史/2004)
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