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スナックママ連続殺人事件

  殺害日
1991年
(平成3年)
被害者の職業 被害者
12月12日 兵庫県姫路市の
スナック「くみ」の経営者
正木久美子(45歳)
12月21日 島根県松江市の
スナック「鍵」の経営者
高橋文子(55歳)
12月26日 京都市中京区の
スナック「まき」の経営者
原田京(55歳)
12月28日 京都市中京区の
スナック「なかま」の経営者
村上紀子(51歳)

「連続殺人」では上記の4件だが、1974年(昭和49年)、18歳のときにも鳥取市内のスナック経営者であるママを殺害している。

[ 1 ] 1991年(平成3年)12月12日、兵庫県姫路市のスナック「くみ」の経営者の正木久美子(45歳)を殺害。

[ 2 ] 同年12月21日深夜、島根県松江市のスナック「鍵」の経営者の高橋文子(55歳)を殺害。

[ 3 ] 同年12月26日、京都市中京区のスナック「まき」の経営者の原田京(55歳)を殺害。

[ 4 ] 同年12月28日早朝、京都市中京区のスナック「なかま」の経営者の村上紀子(51歳)を殺害。

わずか17日の間に4人を殺害しており、他の連続殺人と比べてもハイペースと言える。

12月29日、警察庁はこの一連の事件を広域重要「119号事件」に指定した。警察庁広域重要指定事件

首を絞めた上に鋭利な刃物で刺していること、深夜から早朝にかけて他に客がいない間に殺害し現金を奪うなど、手口に共通点があったことから同一犯である可能性があり、京都の事件現場と松江市の駅前コインロッカーなどから検出された指紋を元に、翌30日、住所不定、無職の西川正勝(当時35歳)を指名手配した。

翌1992年(平成4年)1月5日、西川は吉本興業所属の女性落語家の桂花枝(はなし/現・桂あやめ/本名・入谷ゆか/当時27歳)の大阪府内のアパートの部屋に「隣りの部屋に越してきた者だが、電話を貸してほしい」と入り込み、突然、首を両手で絞めつけて失神させて現金14万円を奪った。一命をとりとめた桂花枝は記者会見で、「意識が戻ったら犯人がまだいて、煙草を1本喫い終わったら立ち去った」と言った。

桂花枝・・・1964年(昭和39年)、神戸市生まれ。中学生の時に学校で開かれた古典芸能観賞会で落語の世界に興味を持ち、1982年(昭和57年)、18歳で桂文枝に入門。半年後に桂花枝として初舞台を踏んで以来、“女の落語家”として活躍している。1988年(昭和63年)、24歳のとき結婚。1991年(平成3年)、離婚。1994年(平成6年)、師匠の前座名「あやめ」を襲名。1996年(平成8年)、国立演芸場花形演芸大賞銀賞、1997年(平成9年)、第14回咲くやこの花賞(大阪市)、2000年(平成12年)、大阪府女性基金プリムラ奨励賞(個人)受賞。2002年(平成14年)、38歳という高齢で第1子となる女児出産。父親を公表せずシングルマザーとなる。大阪府の人権施策推進審議会委員も務める。上方落語協会会員。著書に 『桂あやめの艶姿ナニワ娘』(東方出版/2000)というエッセイ集がある。

1月6日夜、西川は同じく大阪市天王寺区の母子2人暮らしのマンションの部屋に入り込み、殺害しようとして首を絞めたが、抵抗されたために断念した。その女性から母親のように徹夜で「自首しなさい」と説得され、観念したように、翌7日朝、母子が外出した際も残り、そこで逮捕された。ここでも母親の力が強かった。

西川正勝は鳥取県で5人姉弟の上4人が姉の末っ子として生まれた。9歳のときに母親が死亡、父親は土木作業員をしていたが、不在がちだった。中学に入ると、小学生を脅して買い物をさせたり、下級生をいじめるようになった。さらに、窃盗事件や女子生徒をナイフで脅していたずらする事件も起こして養護施設に収容、その後、何度か中等少年院にも送致された。

1973年(昭和48年)に少年院を仮退院したが、家に帰ったら父親は家を売って蒸発していた。その後、姉の家に身を寄せ、テキヤの使いぱしりになったりした。中学を卒業すると同時に溶接工として就職したが、長続きせず、店員や運転手など職を転々とした。

1974年(昭和49年)、18歳のときにも鳥取市内のスナック経営者であるママを殺害している。このときはママの営業用の態度を勘違いして、いきなり関係を迫って抵抗されたため刺し殺した。これで、懲役5〜10年の不定期刑を受け、松江刑務所で10年服役し、1984年(昭和59年)、満期出所した。仮出所する条件として身元引き受け人が必要であったが、西川にはいなかったため満期出所となった。

その2ヶ月半後、西川は松江市内の旅館女性従業員を襲い、金を奪おうとした。これで懲役7年の刑が確定し、1991年(平成3年)10月まで鳥取刑務所で服役し、満期出所した。18歳のときから合計17年間、刑務所の中で過ごし、出所したときは35歳になっていた。その2ヶ月後に4人を殺害する連続殺人事件を起こす。

西川はいつも9歳のときに死別した母親の姿を追い求めていた。街を歩いていても若い女性にはまったく興味を示さず、中年以上の女性だけに惹かれた。18歳のときから17年間も刑務所で過ごしてきたため、世の中の変化についてゆけず、ディスコとかパブなどという新しい飲み屋に入ることができなかったが、18歳のときからあったスナックだけはなんとか入ることができた。だが、そのスナックのママが若い女性だと分かると水割り1杯飲んだだけですぐに店を出た。ママが中年の女性だと腰を落ち着けて飲んだが、ママと話をするわけでもなく、カウンターの隅に座ってチラチラとママの姿を見るだけだった。西川の頭の中ではママと一緒に寝たときの妄想が渦巻いていた。しかし、それは妄想でしかなかった。西川の起こした行動はママと寝ることではなく、スナックの2階で寝ているママを絞殺して刃物で刺して金を奪って逃げることであった。

起訴されてからは拘置所で2度ほど自殺を図り、公判では「身に覚えがない」と全面否認していた。

1995年(平成7年)9月11日、大阪地裁は西川正勝に対し、求刑通り死刑を言い渡した。被告側は控訴した。

2001年(平成13年)6月20日、大阪高裁でも「生育歴の不遇さが、被告人の性格形成に悪影響があったことを考慮しても死刑をもって臨むほかはない」として、1審の死刑判決が支持され、控訴が棄却された。被告側は上告した。

2005年(平成17年)6月7日、最高裁第3小法廷で裁判長は「半月の間に4人の命を奪っており、安易に凶悪犯罪に及ぶ傾向が認められるうえ、社会に与えた衝撃も大きい」と述べ、被告側の上告を棄却した。これで西川正勝の死刑が確定した。

死刑確定後、西川は「金田」姓となったが、元の「西川」姓に戻っている。

2017年(平成29年)7月13日、大阪拘置所で西川正勝の死刑が執行された。61歳だった。

参考文献・・・
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『極悪人』(ワニマガジン社/1996)
『世界のなかの日本の死刑』(インパクト出版会/2002)
『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)
『毎日新聞』(2001年6月20日付/2005年6月7日付/2017年7月13日付)

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