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下関通り魔殺人事件

池袋通り魔殺人事件から3週間後の1999年(平成11年)9月29日午後4時25分ころ、山口県下関市のJR下関駅構内で、同様な無差別殺人事件が発生した。男はレンタカーで構内に突っ込み、改札口付近まで約60メートル暴走しながら7人(うち2人死亡)をはね、その後、車から降りて包丁(刃渡り18センチ)を振り回して改札口を通り、階段で1人、ホームで7人(うち3人死亡)を傷つけた。これによって死者5人、重軽傷10人の大惨事となった。

男は山口県豊浦町厚母郷(あつもごう)、運送業の上部(うわべ)康明(当時35歳)で「社会に不満があり、誰でもいいから殺してやろうと思った」などと供述した。上部は下関市内の県立高校を卒業後、1浪して九州大学工学部建築学科に入学した。卒業後は人間関係を嫌って1年間就職もせず精神科に通院しながら建設会社やコンピューターソフト会社などで働いたが、いずれも長続きしなかった。

1993年(平成5年)に1級建築士に合格し、福岡市で設計事務所を経営していたが、1997年(平成9年)には廃業状態に陥り、妻の収入や実家の仕送りで生活していた。1999年(平成11年)2月、実家に戻り、ローンで購入した軽トラックで運送業を始めた。単身でニュージーランドに渡っていた妻が6月に帰国すると離婚を申し出た。ニュージーランドは新婚旅行で訪れた土地だった。9月、台風18号の到来で軽トラックが冠水し使用不能になってしまった。上部は仕事への意欲を失うとともに、ニュージーランドへの憧れが芽生えていった。父親に車のローンと移住費用を申し込んだが、拒否された上に実家の車で運送業を続けるように説得された。

「何をやっても成功せず、いつも自分だけが貧乏くじを引きみじめな思いをしている。中卒でもできる運送業を、どうして一流大学を出た自分ができないのか。ただでは死ねない・・・」

犯行の決行日を10月3日の人通りの多い日曜日にした。そのため、9月28日、下関市内で包丁を購入し、下関周辺を下見した。翌29日の朝、父親から電話が入り、「冠水した車の廃車手続きは自分でするように」と言われ、腹を立てた上部は今日のうちに決行してしまおうと決意し、午後にレンタカーを借り、人通りの多くなる夕方に車の中で睡眠薬120錠を飲んで下関駅に突っ込んだ。

1999年(平成11年)12月22日、山口地裁下関支部で初公判が開かれた。同日、偶然にも東京地裁で池袋通り魔殺人事件の初公判があった。

2000年(平成12年)3月8日、山口地裁下関支部で第4回公判が開かれ、検察は供述調書の中で、上部が犯行の3週間前の池袋通り魔事件を意識していたことを明らかにした。調書によると、「池袋事件のようにナイフを使ったのでは大量に殺せないので車を使った」などと供述した。

3月29日、山口地裁下関支部で第5回公判が開かれ、弁護側の被告人質問で上部は「事件は自分の意志で起こしたのではあるが、(精神的に)だんだん追いつめられていくうちに、神の指示があったように思う」などと述べた。

下関での事件でコンコースで自動車ではねられて死亡した2人には自動車保険(自賠責保険)が適用され、死亡時3000万円が遺族に対して支払われるが、、ホームで刃物で刺されて死亡した3人の遺族には「犯罪被害者給付金」となり、改正前の最高額の1079万円という差が生じる問題があった。

9月27日、2周忌となるこの日、死亡した被害者4人の遺族と九死に一生を得た重症被害者1人が合計1億8500万円の損害賠償請求を上部とその両親及びJR西日本を相手方として提訴した。提訴したのは、死者4人の遺族3人と重傷者1人。死者1人当たり5000万円(うち1人は自賠責保険金3000万円を控除)、重傷者は1500万円を求めた。

2002年(平成14年)9月20日、山口地裁下関支部は上部に対して求刑通り死刑を言い渡した。

最大の争点だった被告の刑事責任能力について「完全責任能力」を認めた。被告の刑事責任能力を巡っては、起訴前の簡易鑑定で「責任能力に欠けるところはない」とされた。しかし、公判に入って裁判所の判断で行われた2回の精神鑑定のうち、福島章・上智大名誉教授(犯罪心理学)は「善悪の判断能力や判断に従って行動する能力は著しく減退していたが、完全に喪失していたとは言えない」として、責任能力を限定的に認める「心神耗弱」を示した。その後行われた保崎秀夫・慶応大名誉教授(精神医学)の鑑定は「著しい障害があったとまでは言えない」として、完全な責任能力を示唆した。

9月25日、弁護側は死刑判決を不服として控訴した。

9月26日、軽傷の4人と現場に居合わせてPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症した1人の計5人が上部とその両親らを相手に、総額1700万円の損害賠償を求める訴えを山口地裁下関支部に起こした。今回提訴したのはうち3人は「駅の管理責任に問題があった」として、被告にJR西日本(本社・大阪市)を含めた。

2004年(平成16年)11月1日、山口地裁下関支部は遺族やけがをした被害者ら9人が上部とその両親、JR西日本に計2億200万円の損害賠償を求めた訴訟の判決があり、上部に約1億6200万円の支払いを命じた。両親とJR西日本に対する請求は棄却した。原告側は「両親は被告を精神的に追い詰め、JRは安全対策に落ち度があった」などと主張し、両親とJR側はこれらの責任を否定していた。原告側代理人によると、成人が犯した事件で両親を訴えるのも、通り魔事件で犯行現場の施設管理者の責任を問うのも異例。

11月12日、原告側は上部だけに計1億6200万円の支払いを命じた判決を不服として控訴した。

2005年(平成17年)6月28日、広島高裁は上部に対し、最大の争点の刑事責任能力について「犯行時、完全責任能力があったことは明らか」と述べ、死刑を言い渡した1審・山口地裁下関支部判決を支持、上部被告の控訴を棄却した。

7月1日、被告側が広島高裁での死刑判決を不服として上告した。

2006年(平成18年)3月13日、広島高裁は上部や両親、JR西日本に約2億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審で上部にのみ賠償を命じた1審判決の賠償金額を変更し、約1億7200万円とする判決を言い渡した。JRの安全管理責任について草野芳郎裁判長は「一企業が多種多様な犯罪への対策を取るのは困難で、事件を防ぐ法的義務があるとまでは言えない」と述べ、請求を退けた。判決は、事件の突発性を挙げ、駅員が防犯ベルを押すことができなかったことなどについて「時間的、心理的な余裕はなく、過失があったとまでは言えない」と指摘。歩道や駅コンコースに車の進入を防ぐポールなどがなかった点についても「上部被告の行動は通常を逸脱しており、これをもって駅の構造に欠陥があったとは言えない」と述べた。そのうえで、一部原告のけがの程度を再考するなどして、賠償額を1000万円増額した。両親の責任については「被告への言動に過失があったとは言えない」とした山口地裁下関支部判決を支持し、請求を退けた。

2007年(平成19年)1月25日、最高裁第1小法廷(横尾和子裁判長)は遺族や被害者らが、JR西日本(大阪市)に対し、安全体制を確立する義務を怠ったとして、約2億円の損害賠償を求めた訴訟で、原告側の上告を棄却する決定を出した。JRの賠償責任を認めなかった1、2審判決が確定した。

2008年(平成20年)7月11日、最高裁第2小法廷(今井功裁判長)は上部に対し「残虐、非情で動機に酌量の余地はない」と述べ、被告側の上告を棄却。これで死刑が確定した。

2012年(平成24年)3月29日、広島拘置所で上部康明の死刑が執行された。48歳だった。

参考文献・・・
『池袋通り魔との往復書簡』(小学館/青沼陽一郎/2002)
『事件 1999−2000』(葦書房/佐木隆三+永守良孝/2000)
『毎日新聞』(2000年3月8日付/2000年3月29日付/2001年9月29日付/2002年9月20日付/2002年9月26日付/2004年11月1日付/2004年11月12日付/2005年6月28日付/2005年7月1日付/2006年3月13日付/2007年1月25日付/2008年6月27日付/2008年7月11日付/2012年3月29日付)

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