[ 事件 index / 無限回廊 top page ]

池袋通り魔殺人事件

1999年(平成11年)9月8日午前11時40分ころ、東京都豊島区池袋1丁目の東急ハンズ池袋店前で両手に洋包丁(刃渡り約14センチ余り)とハンマー(重さ270グラム)を持った男が「ウオーッ」という声を上げると、「むかついた。ぶっ殺す」と唸りながら、近くにいた男女3人を次々と刺した。さらにJR池袋駅に向かう歩道で男女7人に次々と襲いかかった。うち8人は病院に運ばれたが、左わき腹などを刺された女性2人が死亡、男性1人が重傷、高校生3人を含む5人も軽傷を負い、他の2人は洋服を切られたが怪我はなかった。男は通行人に取り押えられ池袋署員に逮捕された。男は住所不定、無職の造田(ぞうた)博(当時23歳)であった。

死亡したのは足立区千住桜木、無職の住吉和子(66歳)と練馬区高野台、無職の高橋真弥(まみ/29歳)。重傷は住吉和子の夫で無職の住吉直(ただし/当時71歳)。軽傷は15歳から52歳までの男性4人と女性1人だった。

1975年(昭和50年)11月29日、造田は岡山県倉敷市で次男として生まれた。中学時代、レーサーになるのが夢だった。一流レーサーになるにはカートから始めなければならないと親にせがんで数十万円のカートを買ってもらった。

3年生になると勉強するようになった。大学に入るためには高校は進学校に入らなければならないと参考書や問題集を持ち歩き、いつも勉強していた。

1991年(平成3年)、進学校として通る倉敷市の県立倉敷天城高校に合格したが、1992年(平成4年)になると、両親が競艇やパチンコに熱中し、多額の借金をつくって家出した。大学生だった兄は広島県福山市で自活を始めていた。1人残された家に毎日のように多数の借金取りが押しかけてきた。両親は深夜、密かに帰宅して千円札を置いていったりしたが、いつしか蒸発してしまった。1人で生きていかなければならなくなった造田は弁当屋などで働いたが、1993年(平成5年)3月、2年で高校を中退してしまった。担当教師には大検で進学したいと話していた。

1994年(平成6年)1月、福山市の兄のアパートに身を寄せ、パチンコ店員、さらに、8月から造船所塗装工などをしたが、長続きしなかった。

1996年(平成8年)6月、兄に保証人になってもらい京都市内の染色工場に入った。口数が少なく呼ばれれば返事をするだけだった。1ヵ月後、月給をもらうとお世話になりました、という置手紙を残して消えた。

11月末ごろ、仕事を探しに上京。職も見つけることができず所持金を使い果たして野宿生活をするうち、スーパーマーケットで食料品や衣類を万引きし、店員に押さえられ、身柄を交番に突き出されたが、所持品にコンビニで窃取したナイフがあったことから容疑に銃刀法違反が加わり、12月17日、この件で罰金10万円の略式命令を受けた。これに前後して電車やタクシーの無賃乗車を繰り返していた。

その後、愛知県岡崎市で職に就いたが、1997年(平成9年)3月から4月にかけて、市内の教会の日曜礼拝に出かけていた。造田はのちに起訴されるが、その第2回公判で、「アメリカ人はほとんどが努力している人」「キリスト教徒は全員努力している人」などと陳述している。

7月、世田谷区の新聞販売所で働き始めた。履歴書の「得意なこと」の欄には<気長に物事に取り組めることです>と書いた。だが、2ヵ月後、突然、辞めたいと言って去った。造田はいろいろと転職する間に親のすねをかじって遊び歩く都会の若者たちに激しい反発を感じていた。

また、造田はこの頃から、公の機関に宛てて支離滅裂な手紙を送りつけることを始めている。外務省には20通あまり、その他、国会や裁判所、警視庁など10ヶ所ほどの公の機関に自分の住所や氏名を書き、1ヶ所につき5から10通送りつけている。

外務省に宛てた手紙には次のようなくだりがある。

<世界中で見られる生まれながらのひどい精神障害者、奇形児の方々はすべて歌舞伎町で会ったことが原因で患者になっています。ですから私は日本で生まれることにしました。私と関係があるという理由で、この小汚い者達は○○○○さんという女性を世界中の人達、私の目の前でレイプしようとしています。国連のプレジデントに届けてください>

<この小汚い者達から存在、物質、生物、動物が有する根本の権利を剥奪する。これは存在するものでもなく、物でもなく、生物でもなく、何をやってもいい、何も許さないという意味だ>

○○○○さん・・・小、中学校のときの級友

こうした文面の手紙で造田は自らを<大統領>と名乗り、兄にまで送りつけている。

1998年(平成10年)6月24日、約200ドルというわずかな所持金を持ってアメリカ・オレゴン州のポートランドへ仕事を求めて行った。だが、これといった仕事がなく、有り金を使い果たすとパスポートを破り捨てるという理解不能な行為に及んだ。日本領事館に保護されたときは満足に人と相対できないほど錯乱し、体調も極度に悪化していたという。その後、日本領事館の紹介で教会の草むしりなどをして生活した。

9月23日、ピザが切れ帰国せざるを得なかった。3ヶ月の短い滞在だったが、アメリカが気に入ったらしく、学歴に関係なく真面目に働けばそれだけ評価してくれるいい国だ、と友人に話している。

帰国後、愛知県内のブラウン管組立工場などで働いたが、1ヶ月半ほどで辞めた。

1999年(平成11年)4月25日から足立区内の新聞販売所で新聞配達員として働き始めた。仕事は真面目で遅刻することもなく評判はよかった。

9月1日、朝寝坊をしてしまい遅刻した。所長の勧めで造田は連絡用の携帯電話を買い、電話番号は所長だけに伝えておいた。

9月3日、同僚の1人から携帯電話の番号をしつこく訊かれ、渋々教えた。造田が内心で「努力しない人」と烙印を押し嫌悪している同僚であった。同日午後10時4分、携帯電話が鳴り、出ると無言のまま切れた。同僚のイタズラに違いないと思った。

努力しない人間からの嫌がらせに腹が立った。それがきっかけで自分の価値を認めない社会に復讐してやる決心をした。

9月4日午前3時ころ、アパートの自室の扉の外側に<わし以外のまともな人がボケナスのアホ殺しとるけえのお。わしもボケナスのアホ全部殺すけえのお><アホ、今すぐ永遠じごくじゃけえのお>と書いたレポート用紙を貼り付け部屋を出た。この部屋に戻るつもりも新聞販売所に出勤するつもりもなく、デイパックにしまった携帯電話の電源は切った。部屋には<努力しない人間は生きていてもしょうがない>という走り書きも残した。

その後、造田は赤坂のカプセルホテルに泊まって、池袋の繁華街をぶらついたり、ゲームセンターで遊んだりしていた。

9月6日午後、池袋で包丁とハンマーを買った。社会に復讐する用意はできたが、事件を起こすことによって会社員の兄(当時27歳)に迷惑がかかると思い決心がつかないでいた。

9月8日午前10時、赤坂のホテルを出て地下鉄で池袋にきた。サンシャイン60などに行ったあと、午前11時40分ごろ、東急ハンズ池袋店の前に出た。そこで造田は路上に下ろしたデイパックから洋包丁とハンマーを取り出した・・・。

12月22日、東京地裁で初公判が開かれた。検察側は冒頭陳述で、自分の努力が報われず、豊かな社会や恵まれない人々に反感を募らせた被告が無言電話されたことをきっかけに無差別殺人を決意した、と述べた。また、起訴前に行なった簡易鑑定で「人格障害の範囲内で精神病とは認められない」とする診断が出ているので刑事責任が問える、とした。

弁護側は「犯行当時は心神喪失、または心神耗弱だった」として、正式な精神鑑定を求めた。

2001年(平成13年)1月24日の公判で裁判長は精神科医による鑑定で刑事責任能力を認める結果が出たことを告げ、公判は再開された。

第2回公判で、誰を殺そうとしていたのかと訊かれて、造田は次のように供述した。

「日本に大勢いるような人・・・・・・携帯電話にかけてきた人も実際には分からないということもありましたけれども。それで、そのまま頭にきてたということもありますけれども。それで、日本に大勢いるような人を・・・・・・その同僚の人ですけれども、日本に大勢いるような人だと思っていたので、それで、頭にきていたままだったので、日本に大勢いるような人に殺意が生まれました」

2002年(平成14年)1月18日、東京地裁は造田に対し死刑を言い渡した。

大野市太郎裁判長は「目に映った人物を手当たり次第に攻撃する様はまさしく通り魔。自らの不満を世の中に訴える手段として、努力しない人間は殺しても構わないというゆがんだ考えは、とうてい人として許されない」と述べた。

即日、弁護人が判決を不服として控訴した。

2003年(平成15年)9月29日、東京高裁は1審での死刑判決を支持し控訴を棄却した。

9月30日、弁護側は東京高裁での判決を不服として上告した。

2007年(平成19年)4月19日、最高裁第1小法廷(横尾和子裁判長)は被告側の上告を棄却し死刑が確定した。弁護側は「統合失調症を患っており、責任能力はなかった」と無罪を主張したが、判決は「通行人を手当たり次第に襲った犯行は極めて悪質で、無差別通り魔事件として社会に与えた影響も大きい」と退けた。

池袋での通り魔事件の3週間後には下関市で5人もの死亡者を出す下関通り魔殺人事件が起きる。

参考文献・・・
『池袋通り魔との往復書簡』(小学館/青沼陽一郎/2002)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『事件 1999−2000』(葦書房/佐木隆三+永守良孝/2000)
『殺ったのはおまえだ 修羅となりし者たち、宿命の9事件』(新潮文庫/「新潮45」編集部/2002)
『新潮45』(2002年3月号)
『毎日新聞』(1999年9月9日付/1999年12月22日付/2002年1月18日付/2003年2月3日付/2003年8月1日付/2003年9月29日付/2003年9月30日付/2007年4月19日付)

[ 事件 index / 無限回廊 top page ]