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杉並少年陰部切り魔事件

1963年(昭和38年)3月14日から東京・西北部で6〜14歳の少年の陰部などにケガを負わせる通り魔事件が発生。

翌1964年(昭和39年)12月26日、都立高校2年生のA(当時17歳)が通り魔事件の被疑者として逮捕された。事件は発生以来、約1年9ヶ月ぶりに解決した。

Aは小・中学では成績優秀で上位、両親も健在な中流家庭。Aには中学3年の弟がいた。Aの犯行は計13件で、陰部などを刃物で切りつけたのが4件(うち切断が1件)、相手の顔や腕にケガを負わせたのが7件、その他は窃盗、脅迫であった。

陰部などを刃物で切りつけた4件は次の通り・・・

(1)昆虫採集をしていた少年B君(当時11歳)の両手をひもで縛り、さつぐつわをかませて押し倒し、ナイフで下腹部、右そけい部を切りつけて2週間のケガを負わせる。

(2)路上を通行中の少年C君(当時13歳)の両手をひもで縛り、さるぐつわをかませて押し倒した後、ナイフで陰部を切りつけ、陰部切断、外陰部にケガをさせ、2ヶ月の重傷を負わせる。

(3)1964年(昭和39年)8月30日朝、神社で遊んでいた少年D君(当時14歳)の両手をひもで縛り、さるぐつわをかませて押し倒した上でナイフで切りつけ陰嚢切創で3週間のケガを負わせる。

(4)1964年(昭和39年)10月10日(東京オリンピック開会式当日)午後、武蔵野市吉祥寺の市営総合競技場で近くの小学3年生の少年E君(当時9歳)の両手を少年が着ていたシャツで縛り、押し倒した上で下腹部を切りつけ小腸が飛び出すほどのケガを負わせる。

Aは性器への関心があり、イギリスで有名な切り裂きジャック≠ノ刺激されたと語っている。

切り裂きジャック・・・1888年にロンドン東部で発生した性犯罪で、計6人の売春婦が殺害された。犠牲者はいずれも全身を刺された上、腹を裂かれ肝臓や腎臓など内臓や子宮を切り裂かれたり、持ち去られたりしていた。殺しを続けるという意味の手紙を報道機関に送りつけ<切り裂きジャック>という署名がしてあった。この事件はイギリス中で騒がれたが、犯人が分からず迷宮入りとなっている。

Aは犯行後、警察やマスコミに投書を送りつけていた。Aが出した手紙は13通で警視庁広報課、被害者の少年宅、野方警察署などのほかに事件を批判した大宅壮一、大浜英子などにも送りつけており、中には英文のものもあった。

大宅壮一・・・1900−1970年。ジャーナリスト。ノンフィクション作家。毒舌の社会評論家として有名。三女はジャーナリストの大宅映子。

大浜英子・・・1901−1982年。1930年、婦人同志会を結成。1939年、人事調停法に基づく調停委員になる。家庭制度婦人問題の評論家としても知られる。

1964年(昭和39年)3月8日、警視庁広報課宛てに届いた脅迫状は次の通り(<>内)・・・

<私は小学生の下腹部を切った犯人だ。私は変質者ではない。デハナゼ私ガ彼ラニ傷ヲ負ワセタカトイウト、ソレハ、杉並警察署員及ビニ警視庁ノ刑事タチヲアヤツリ人形ノヨウニ動カスタメダ。ナゼソノヨウナコトヲスルカトイウト日本<m警察ハ良クナイカラデアル・・・・・・私ハコレカラモドンドン私ノ計画ヲ実行スルツモリデアル。アナタ方ハ私ニアヤツラレテクタビレロ!・・・・・・>

文中には日本の警察官が朝鮮人を差別待遇した事例がいくつか書いてあった。脅迫状の大半は定規状のようなものを使って書いて筆跡をごまかしていたため、筆跡の特徴がつかみにくかったが、英文のほうは中に関係代名詞が出てくることから、中学3年生以上と推測された。

1997年(平成9年)に起きた神戸須磨児童連続殺傷事件で、神戸新聞社宛てに第2の犯行声明文が届くが、その犯行声明文はA4サイズの罫線が入った集計用紙2枚に赤い文字で横書きに書かれていた。のちに逮捕されることになる「酒鬼薔薇聖斗」(当時、中学3年生で14歳)はそのほとんどの文字を定規を使って書いたと供述している。

9月4日、野方署に特別捜査本部を設置。

(4)の犯行と同日の午後2時40分ころ、国電(現・JR)荻窪駅北口の交番前に大学ノートが落ちているのを警官が見つけたところ、表紙に<音楽部レコード台帳>とあり、中には男の裸体の下腹部に刃物を突きつけている絵が張り付けてあり、四隅には<松田>という割印までしてあった。

さらに、午後7時ころ、捜査本部のある野方警察署に近い中野駅南口交番の休憩所の回転窓に野方警察署長公舎宛ての封書が差し込んであった。中には横書きで<前ニ 予告シタヨウニ 634ノ4(「武蔵野市」と判読できる)デ 私ノ計画ヲ キョウ(1964・10・10)ノ オリムピック 開会式中ニ 実行シタ 切リサキ−ジャック ヨリ>とあり、マジックインキで<Jack>と署名した上で<脅迫状は関係>という新聞切り抜きまで貼ってあった。これは前日の『朝日新聞』にあった<連続傷害事件と脅迫状とは無関係と思う>という野方署長の談話の見出しから<無>一字を切り取ってつなぎ合わせたものだった。

すぐに捜査本部の陣容が強化されることになり、警視庁捜査一課、少年課、野方、杉並両署の他、荻窪、高井戸、石神井、武蔵野など、これまで管内で通り魔事件が起きた各署から刑事が36人動員された。

その後、大学ノートについては同年の夏休み中に杉並区第○小学校のガラス窓が割られ、松田校長の印鑑と一緒に盗まれたものと判明した。犯行の手口から推測して、通り魔は同校の卒業生と思われた。捜査本部は卒業生623人を含め、付近の非行少年など1500人の人相、特徴やアリバイを調べ、容疑の濃いものは英文のメモなどを入手し、神奈川県座間の米軍キャンプの鑑定官に依頼した。

(4)の犯行以降、警視庁の刑事は阿佐ヶ谷地区を中心に杉並第○小学校の卒業生で中学3年から高校3年までの子どもがいる家をしらみつぶしに当たっていった。聞き込みを始めてすぐにA少年の家を訪ねたが、Aは「僕は何も関係ない」と言って後は答えなかったという。リストには約90人の少年が記されたが、Aだけを残して全員シロとなった。

12月21日、Aの英語の答案用紙を持って座間キャンプに行き、脅迫状の筆跡がAのものに間違いないことを確認。

12月26日、再び、Aの家を訪ね、<松田>という印を捺したレポート用紙や脅迫状を出した被害者宅の住所を下書きした紙片などの証拠品が見つかり、Aはその日のうちに9件の犯行を自供、30日までにさらに2件を自供した。

少年Aは警視庁の取り調べ官に犯行の動機を次のように語った。

「1963年(昭和38年)3月14日は高校入試の合格発表の日だったが、長い受験勉強が報われたその日、解放感から無性にあばれたくなり、小学生の顔を切りつけた。事件はすぐに新聞で報道され、自分でも新聞に出るようなことができる≠ニいう妙な自信から次第により強い刺激を求めるようになった。同じ切りつけるなら、下腹部を狙った方が新聞に大きく出ると思った。自分にはサディズムの性質があると自覚している」

Aは普段は無口で内向的、学校でも友人らしい友人はなく、スポーツには無関心だった。成績は中くらいで、授業が終われば、すぐに自宅に帰り、2階の個室にこもっていた。

Aの弟は兄とは正反対に健康で快活な性格。肉体的にも弟は身長が170センチ近くあって兄(161センチ)より背が高かった。Aはそのことを気にして身長を伸ばす器具を買って訓練していたという。

1966年(昭和41年)8月3日、東京家裁はAに対し、懲役3年以上4年以下の不定期刑を言い渡した。その後、少年刑務所に服役。

1969年(昭和44年)8月18日、仮釈放。

1970年(昭和45年)8月2日、Aが放火・傷害容疑で再び逮捕された。放火は武蔵野市の米軍宿舎内の車3台を全焼させた件で、傷害は通行中の中学3年生の頭をいきなり金づちで殴りつけて3週間のケガを負わせた件だった。

この事件でAは懲役12年の刑となった。

参考文献・・・
『異常殺人カタログ 驚愕の200事件』(作品社/下川耿史+CIDOプロ/2010)
『犯罪の昭和史 3』(作品社/1984)

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