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赤報隊テロ事件

「日本民族独立義勇軍別動赤報隊」と名乗る集団が起こした事件は多数あるが、主なものはこれらである。

「赤報隊」は、幕末に実在した勤王の志士たちで官軍東征の先陣を切った部隊だったが、後に、「偽官軍」として処刑される。そうした点から、「赤報隊」は右翼的色彩を持っていると推測された。

1987年(昭和62年)5月3日午後8時15分ごろ、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局2階編集室に、黒っぽい目出し帽を被った男が押し入った。男は散弾銃を2発発射。その場にいた小尻知博記者(29歳)が出血多量で死亡。犬飼兵衛記者(当時42歳)が腹部に61発被弾し、右手の中指と薬指は散弾によりボロボロになり、小指切断の重傷を負った。

9月24日午後6時45分過ぎ、朝日新聞名古屋本社の新出来(しんでき)寮に目出し帽の男が侵入。1階居間兼食堂のテレビに散弾銃を1発発射。逃走途中、マンションの壁にも1発が発射された。このときは負傷者が出なかった。

翌25日、警察庁はこの2つの事件を広域重要「116号事件」に指定した。警察庁広域重要指定事件

この2つの事件の犯行声明が東京の共同通信、時事通信などに送られてきた。「赤報隊」名の声明には、朝日新聞を「反日」「日本民族を批判する者」として攻撃し、同年1月24日、東京都中央区築地の朝日新聞東京本社も銃撃したとあり、調査の結果、外壁に弾痕が発見された。

[ 犯行声明文 ]

(ワープロ/縦書き/改行は原文のまま)




われわれは日本人である。

日本に生まれ 日本にすみ 日本の自然風土を母とし

日本の伝統を父としてきた。

われわれの先祖は みなそうであった。

われわれも われわれの後輩も そうでなければならない。

ところが 戦後四十一年間 この日本で日本が否定されつづけてきた。

占領軍政いらい 日本人が日本の文化伝統を破壊するという悪しき風潮が 世の隅隅に

までいきわたっている。

およそ人一人殺せば死刑となる。

まして日本民族全体を滅亡させようとする者に いかなる大罰を与えるべきか。

極刑以外にない。

われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である。

一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である。

これまで反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない。

特に 朝日は悪質である。

彼らを助ける者も同罪である。

以後われわれの最後の一人が死ぬまで この活動は続くであろう。

日本人のあるかぎり われわれは日本のどこにでもいる。

全国の同志は われわれの後に続き 内外の反日分子を一掃せよ。


ニ千六百四十七年 一月二十四日



                 日本民族独立義勇軍 別動

                      赤報隊 一同

< 『ドキュメント 消えた殺人者たち』(ワニマガジン社/1999) >

特徴として、読点(、)がひとつもなく、代わりにひと文字分の余白がある。

「およそ一人殺せば死刑となる。」・・・文の流れからするとこの一文は要らないような気がするが、とりあえず死刑覚悟で「活動」しているという意志が感じられることは確かである。現在では1人を殺害して死刑判決になることはほとんどないが、この一連の事件を総合して考えると社会的影響力や殺害の残虐性から犯人(単独犯か複数犯かは分からないが、複数犯の場合は主犯格)は死刑判決となる可能性は高いように思う。

「ニ千六百四十七年」は「皇紀2647年」のことで「皇紀」は神武天皇即位の年を第1年とする日本の紀元。皇紀元年は西暦紀元前660年だから、皇紀2647年は西暦1987年にあたる。

翌1988年(昭和63年)3月11日、朝日新聞静岡支局駐車場で、時限発火装置付きピース缶爆弾が入った紙袋が発見され、その直後、静岡支局事件の犯行声明と同じ消印の脅迫状が高崎市の中曽根元首相事務所と当時の竹下首相宛てに届けられた。それはいずれも、<靖国や教科書問題で民族を裏切った>と指摘し、そうした政治姿勢を変えない場合には「処刑」をにおわせたものだった。

8月10日午後7時20分ごろ、東京都港区の江副(えぞえ)浩正リクルート前会長の自宅玄関ドアに、散弾1発が撃ち込まれた。このときの声明は、<リクルートコスモスは赤い朝日に何回も広告を出して 金を渡した>と “罪状” をしたためていた。

1990年(昭和65年)5月17日午後7時半ごろ、名古屋市内の愛知韓国会館玄関で、灯油入りのプラスチック容器と発煙筒が燃え、壁ガラスが破損した。この事件にも「反日韓国を 中国方面で処罰した」という犯行声明が出された。

阪神支局事件の遺留品は、2人が浴びた800個余りの散弾粒とプラスチック製の筒である。鑑定の結果、使用された弾丸は、米国レミントン社製ピータース7・5号弾と判った。

当時、この散弾を買える者は、近畿だけで1万3000人余りいた。それらを調査し、さらに、全国に渡って調べた。記者らの目撃証言から、使用した銃は、切断銃で銃口は上下または水平2連、とされてきたが、事件当時、2連銃所持許可者は全国で19万5000人。その中には不審者は見つからなかった。

そこで、単身銃まで対象を広げ、散弾銃全般を捜査することになった。1987年、国内で許可された散弾銃は約45万5000丁、所持者は約30万7500人。国内製造の散弾銃は毎年、約12万丁、海外から2000丁余りが入ってくる。しかも、すべてが合法的に流通しているとは限らず、密輸銃や盗難銃が使用された可能性もあった。

犯行声明文に使用されたワープロは、新出来寮事件と韓国人会館事件のときの文字と用紙が同種類のもので、シャープの「WD・20(25)」と判明した。

また、阪神支局事件当日の夜、現場付近で三重ナンバーの78年型トヨタ・マークUが目撃されていた。

また、静岡事件で、破壊力を強めるために使用された釘は、太平鋲と呼ばれる家具用で、関西の一部で注文生産されていた。

だが、これらの捜査から、これといっためぼしい線が出ていない。

1991年(平成3年)3月11日、中曽根元首相事務所脅迫状事件および竹下首相脅迫状事件から3年が経過し時効が成立。

1992年(平成4年)1月24日、朝日新聞東京本社事件から5年が経過し時効が成立。

9月24日、朝日新聞名古屋本社・新出来寮事件から5年が経過し時効が成立。

1993年(平成5年)8月10日、リクルート前会長事件から5年が経過し時効が成立。

1995年(平成7年)5月17日、名古屋・愛知韓国人会館事件から5年が経過し時効が成立。

2002年(平成14年)5月3日、朝日新聞阪神支局事件から15年が経過し、殺人罪の公訴時効が成立。

死刑になる殺人などの公訴時効は2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑事訴訟法により「15年」から「25年」に改正。さらに、2010年(平成22年)4月27日施行の改正刑事訴訟法により殺人、強盗殺人は公訴時効が廃止されたため、公訴時効が完成することがなくなった。

2003年(平成15年)3月11日、朝日新聞静岡支局事件から15年が経過し、爆発物取締罰則違反罪の公訴時効が成立。

これによってすべての事件において公訴時効が成立した。

警察当局はこの間、指定事件を直接捜査した警視庁と愛知、兵庫、静岡の各県警を中心に延べ約124万人の捜査員を動員したが、「赤報隊」に迫れなかった。

新右翼の代表的理論家の鈴木邦男の著書『テロ 東アジア反日武装戦線と赤報隊』(彩流社/1988)には次のような記述がある。

<赤報隊は新右翼とは思えない>・・・<野村秋介も「赤報隊は右翼ではない」と発言していた>・・・<その理由として、あんな残酷な手口は使わないということ、もうひとつ、右翼の犯行なら必ず「臭い」があるという。右でも左でも事件を起こすのは事件そのものが目的ではなく、それを通し、自分たちの主張を訴えるための手段で、事件はいわば “肉体言語”。だから、その肉体言語を発することによって、自分たちが何者かも明かになる。いや、積極的に明かにする。特に右翼の方はそれが強い。ほとんどが逮捕覚悟で堂々とやる。ときに逃げても必ず「臭い」が残る。また、時間が経てば「あれは俺のとこの関係者だ」とか「あそこらしい」という話しも出る。ところが、赤報隊に関しては無色、無臭で、とても右翼じゃないと思った>・・・<また、赤報隊は犯行ごとに声明文を発している。しかし、これは売名ではない。いくら騒がれても、これによってメリットを得る者はいない。あるいは赤報隊に賛同する人間がいても、一緒に運動することも出来ない。むしろ、手入れや別件逮捕、尾行、聞き込みなどで迷惑をこうむっているだけである>

鈴木邦男・・・1943年(昭和18年)、福島県生まれ。早稲田大学大学政治経済学部卒業。1970年、産経新聞社に勤務。学生時代から右翼・民族派運動に関わり、1972年(昭和42年)に「一水会」を創り、「新右翼」の代表的存在になる。1999年(平成11年)12月に「一水会」会長を辞め、顧問になる。主な著書・・・『愛国者は信用できるか』(講談社新書/2006) / 『公安警察の手口』(ちくま新書/2004) / 『新右翼 民族派の歴史と現在』(彩流社/2005)

関連サイト・・・鈴木邦男をぶっとばせ!

野村秋介・・・1935年(昭和10年)、東京生まれ。1961年(昭和36年)、「憂国同士会」を結成。右翼運動家として独立。1963年(昭和38年)、河野一郎邸を焼打ちして12年服役。1977年(昭和52年)、経団連襲撃事件で6年服役。いずれも戦後体制に対するアンチテーゼとしての事件だった。1992年(平成4年)、野村は参議院比例区に「風の会」を結成して候補者を擁立した。それを受け、イラストレーターの山藤章二が『週刊朝日』の連載の中で、「風の会」を「虱(しらみ)の会」と揶揄した。野村はこれに抗議し、山藤、朝日は陳謝した。だが、これがきっかけとなり、野村はこれまでの朝日の報道姿勢に対する批判を改めて主張した。1993年(平成5年)10月20日、東京都中央区にある朝日新聞東京本社に息子を含む4人の同行者を連れて訪れ、中江利忠社長ら新聞社首脳と話し合いを持った。かねてから手厳しく朝日を批判していた野村だったが、このときは穏やかな態度だった。ひとしきり話し合いを終えた後、野村は部屋の隅で「節義を通すということがどういうことか、見ていてください」と言い、皇居に向かい「すめらみこと、いやさか(天皇弥栄)」と3回唱え、両手に持った拳銃で脇腹を撃ち、自決した。58歳だった。主な著書・・・『時代に反逆する 面白く生きようぜ!』(河出書房新社/1988) / 『塵中(ジンチュウ)に人あり 右翼・任侠・浪漫』(廣済堂出版/1986)

2009年(平成21年)1月29日〜2月19日の4週に渡って発売された『週刊新潮』(2月5日号〜2月26日号)に<私は朝日新聞「阪神支局」を襲撃した!><実名告白手記 島村征憲(65歳)>と題した記事が毎号6ページ(最後の号だけ4ページ)掲載されたが、4月15日、『週刊新潮』の編集長は誤報であったことを認め、4月16日発売の『週刊新潮』(4月23日号)で読者に謝罪と取材経緯を検証した記事を掲載した。5月1日、手記が誤報だったことに関する社内処分として、S社長やH前『週刊新潮』編集長(4月20日付で交代)ら役員9人全員の役員報酬を1日付で減俸したことが分かった。S社長とH前編集長は20%、残る7人は10%の減俸となった。

2009年(平成21年)2月22日午後5時半ころ、NHK福岡放送局の1階玄関でカセットボンベが破裂する事件が起きた。防犯カメラには黒いニット帽とサングラス姿の犯人が映っていた。翌23日午後6時ころ、東京・渋谷のNHK放送センターに差出人のない封筒が届いた。中にはB5サイズの紙片があり、「赤報隊」と印字され、銃弾がテープで張り付けられていた。翌24日、NHK札幌放送局とNHK長野放送局、NHK福岡放送局に「赤報隊」と書かれた紙片と銃弾が届いた。だが、NHKはこの一連の事件を報道しなかった。このことで国会でも問題になり、3月30日、NHK福地茂雄会長や幹部が召喚され、公明党の弘友和夫が「民放はその夜、全国放送しているのにNHKはなぜ放送しなかったのか?」との質問にNHK側は「負傷者もなく・・・」という理解できない答弁をした。この22〜24日までの一連の事件は「赤報隊」による犯行だったのか、それとも『週間新潮』の記事に便乗した模倣犯だったのかが不明のままになった。

2010年(平成22年)4月13日、北海道富良野市の資材置き場で「自分が実行犯」と名乗って『週間新潮』に手記を寄せた島村征憲(66歳)の遺体が発見された。島村は同年1月、北海道旭川市のホテルで手首などを切った状態で見つかり、市内の病院に入院したが、その後、行方が分からなくなっていた。ホテルには「お父さんはもうだめだ」などと家族宛てとみられる書き置きがあった。道警は自殺の可能性が高いとみている。

参考文献など・・・
『現代殺人事件史』(河出書房新社/福田洋/1999)

『ドキュメント 消えた殺人者たち』(ワニマガジン社/1999)
『テロ 東アジア反日武装戦線と赤報隊』(彩流社/鈴木邦男/1988)
『昭和・平成 日本テロ事件史』(宝島文庫/別冊宝島編集部/2005)

『真説ニッポンの黒い事件 真相開封 葬り去られた真実と真相、そしてタブー 』(ミリオン出版/2013)
『赤報隊の秘密 朝日新聞連続襲撃事件の真相』(エスエル出版会/鈴木邦男/1999)
『「赤報隊」の正体 朝日新聞阪神支局襲撃事件』(新潮文庫/一橋文哉/2005)
『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店/樋田毅/2018)
『二本の棘 兵庫県警捜査秘録』(KADOKAWA/山下征士/2022)
『毎日新聞』(2002年5月3日付/2003年3月10日付/2009年4月15日付/2009年4月16日付/2009年4月18日付/2010年5月18日付)
『読売新聞』(2009年5月2日付)

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