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佐賀女性7人連続殺人事件

  被害者
失踪日
被害者
(失踪当時の年齢)
被害者の
職業
被害者の
住所
遺体発見日 遺体発見場所
1975年
(昭和50年)
8月27日(水)
山崎十三子
(12歳)
中学1年生 杵島郡
北方町
1980年
(昭和55年)
 6月27日 白石町須古小学校
プール横トイレの
便槽の中
1980年
(昭和55年)
4月12日(土)
百武律子
(20歳)
ウエイトレス 杵島郡
白石町
 6月24日 白石町須古小学校
北側校舎トイレの
便槽の中
1981年
(昭和56年)
10月7日(水)
池上千鶴子
(27歳)
縫製工場「R」
従業員
杵島郡
白石町
1981年
(昭和56年)
10月21日
三養其郡中原町の
空き地
1982年
(昭和57年)
2月17日(水)
A子ちゃん
(11歳)
小学5年生 三養其郡
北茂安町
1982年
(昭和57年)
2月18日
三養其郡北茂安町の
ミカン畑
1987年
(昭和62年)
7月8日(水)
藤瀬澄子
(48歳)
料亭従業員 武雄市 1989年
(平成元年)
1月27日
北方町大峠の崖下
1988年
(昭和63年)
12月7日(水)
中島清美
(50歳)
主婦 杵島郡
北方町
1989
(平成元年)
1月25日(水)
吉野タツ代
(37歳)
縫製工場「R」
従業員
杵島郡
北方町

1・2・・・・・

白石町・学校便槽殺人事件・・・

時効

3・・・・・・・

中原町・女性殺人事件・・・・・・・

時効

4・・・・・・・

北茂安町・小5女児殺人事件・・

時効

5・6・7・・・

北方町・3女性殺人事件・・・・・・

元被告人・Mの無罪確定(1&2審・無罪→検察側が上告を断念

死刑になる殺人などの公訴時効は2005年(平成17年)1月1日施行の改正刑事訴訟法により「15年」から「25年」に改正。さらに、2010年(平成22年)4月27日施行の改正刑事訴訟法により殺人、強盗殺人は公訴時効が廃止されたため、公訴時効が完成することがなくなった。

【 山崎十三子失踪 】

[ 1 ] 中学1年の山崎十三子(とみこ/当時12歳)の両親は十三子が失踪する3年前に離婚しており、その後は母親と一緒に北方(きたがた)町で暮らしていた。当時、母親は白石(しろいし)町のクラブ「K」に勤めていたが、十三子が授業を終える頃、車で学校まで迎えに行き、十三子を車に乗せてそのまま出勤していた。自分が働いている間は、十三子に従業員の控え室で勉強させるなどして、寂しい思いをさせないように大切に育てた。そして、仕事を終えると一緒に帰宅するという毎日だった。だから、十三子が自宅で留守をするということはめったになかった。

1975年(昭和50年)8月27日(水)、この日は十三子が夏休みの宿題をするためにたまたま独りで自宅にいた。長い夏休みの間で独りで留守番をしたのはこの日が2回目だったという。十三子は母親が出勤したあと、夏休みの宿題をしたり、近所の友達を自宅に呼んで遊んだりしていた。午後7時ごろになって、友達は帰るが、ここから十三子の行方が消える。テレビのスイッチは入ったままで、風呂に入ろうとしていたのかスカートが風呂場に脱ぎ捨ててあり、いつも履いている靴がそのまま残されていた。室内を物色した跡がなく、何者かが連れ去ったと思われた。

【 百武律子失踪 】

[ 2 ] 1980年(昭和55年)4月12日(土)、百武律子(ひゃくたけりつこ/当時20歳)の家族は6人だが、父親はこの日の10日前に仕事中にケガをして入院中で、母親はその看病で病院に行っていた。姉はたまたま知人宅に外泊していて、高校生の妹も友達の家に泊まり込みで勉強に行っていた。他に県外で働く弟がいた。午後11時半ごろ、律子はウエイトレスとして働いている喫茶店から自宅に戻っているが、律子の場合も、この日に限ってたまたま独りでの留守だったのである。その後、行方が分からなくなっている。

ウエイトレス・・・1997年(平成9年)6月18日に改正、1999年(平成11年)4月1日に施行された男女雇用機会均等法により、現在、求人誌などの募集欄では「ウエイトレス」“waitress”などの偏った性別の表現ができなくなり、「フロアスタッフ」“floor staff”などに名称が変更されている。

室内は荒らされた様子がなく、律子がいつも着ていたネグリジェがなくなっていたことや履物が残っていたことから、寝床につく頃に何者かが連れ去ったとみられるが、抵抗した跡がなかったことで、顔見知りによる犯行とも考えられた。その後の捜査で3月末に買ったばかりの時計がなくなっていることが分かっている。

律子はまじめでお店を休むことがなく評判がよかったが、その反面、男関係で悩んでいるようなところがあり、2度睡眠薬で自殺を図ったことがある。また、失踪する2週間前に誰かと旅行した形跡があった。

失踪直後の4月16日、父親宛てに「娘ハ帰ラナイダロウ、オ前モ苦シメ」という内容の差出人不明の手紙が届く。また、同じ頃、「人捜しのテレビ番組に出るな」「律子さんの写真を出すな」といった内容の電話が若い男の声で数回かかってきていた。

【 百武律子の遺体発見 】

[ 2 ] 1980年(昭和55年)6月24日午後4時ころ、白石町立須古(すこ)小学校へ汲み取り作業にきた衛生会社員はいつものように北側校舎にある汲み取り式トイレのマンホールを開けバキュームカーから引き出したホースを差し込もうとしたとき、便槽の中にあった女性の全裸死体を発見した。

捜査員がかけつけ死体を引き上げると、腐乱がかなり進んでおり、顔の判別ができないほどだったが、1時間後、親指の指紋から4月12日に行方不明になっていた百武律子であることが判明。解剖の結果、腐乱が進んでいたためはっきりしないが、外傷がなく首を絞められた可能性が強い。また、汚物をまったく飲み込んでいないことから殺害されたあと、便槽に投げ込まれたものと見られている。

【 山崎十三子の遺体発見 】

[ 1 ] 1980年(昭和55年)6月27日朝、24日の百武律子の遺体発見にともなう遺留品捜索のため、捜査員が連日、須古小学校に来ていたが、同校の教頭が18日にプールのトイレの汲み取りに来た衛生作業員に言われたことが気になり、捜査員にそのことを伝える。それは、「便槽に石がいっぱい詰まっていた」ということだった。

ここのトイレは2年に1度しか汲み取りをしないが、トイレが裏山の斜面にあるためバキュームカーが入れず、便器側がら汲み取っていたという。

捜査員がこのトイレの便槽のふたを開けると石がぎっしりと敷き詰められていた。その一部を腕を突っ込んでどかすと積まれた石の間から人間の骨らしきものが見えた。便槽の壁を壊し、死体を引き上げ、5年ほど前に失踪して行方が分からなくなっていた山崎十三子の母親に確認してもらったところ、失踪当時と同じシャツであったことから本人と判明した。

2人の被害者宅から遺体発見の須古小学校まではわずか4キロ足らずの場所であった。

便槽から死体が発見される事件といえば、1974年(昭和49年)3月に2人の園児(ともに12歳の男児と女児)が兵庫県西宮市の甲山学園の便槽から死体で発見される甲山事件があり、冤罪事件として知られているが、結局、迷宮入りとなっている。

【 重要参考人 】

[ 1 ] [ 2 ] 山崎十三子と百武律子の殺害事件の捜査を進めていく過程で1人の白石町に住む無職の男(当時29歳)が浮かび上がってきた。

男は百武律子の姉と交際しており結婚するつもりだったが、家庭の事情や男の素行問題から結婚できなかったが、また、律子とも交際していたという情報もあった。さらに、律子が失踪した直後、男は地元の新聞社を訪ねて「律子さんを捜さないでくれ」と言ったり「捜してくれ」と言ったりと矛盾したことを一方的に話したという。

また、男は山崎十三子が失踪した当時、母親が勤めていたクラブ「K」にたびたび出入りしており、その後、母親が佐賀市に転居して同市内でクラブを経営し始めると、その店にも何度か顔を見せている。

律子が失踪した4月12日、男は「佐賀市内のバーで午後11時ごろまで飲んでいたが朝方帰宅した」と警察の事情聴取に答えているが、午後11時半ごろのアリバイは明確ではない。男は須古小学校出身で自宅も小学校に近い。

9月8日、捜査本部は3年前に起きた婦女暴行事件などの容疑で男を逮捕した。明らかな別件逮捕だった。さらに、男と親しかった友人や付き合いのある非行グループを婦女暴行や窃盗の容疑で逮捕した。男は直接の容疑の婦女暴行は認めたものの、便槽殺人事件への関与は否認した。11月に入り、再び男を逮捕した。男の自宅の家宅捜査で律子宅に送られた脅迫状と同じ便箋が見つかり、筆跡鑑定の結果、筆跡が一致したことによる脅迫容疑であったが、男はやはり否認を続けた。結局、脅迫状が殺人事件と直接結び付く確証がなく、男に対する追及は打ち切られた。

【 池上千鶴子失踪・遺体発見 】

[ 3 ] 1981年(昭和56年)10月7日(水)、池上千鶴子(27歳)は北方町の縫製工場「R」の工員として働いていたが、午後5時半に退社したまま行方不明になり、夫が白石署に捜索願いを出していたが、2週間後の21日午後2時20分ごろ、三養基(みやき)郡中原(なかばる)町の空き地で首に電気コードを巻かれて死んでいるのが発見された。中原町は勤め先の「R」からは約40キロも離れているが、国道34号線で両町はつながっている。検死の結果、死因は電気コードで首を絞めたことによる窒息死で、暴行の跡はなかった。

【 小学5年の女児失踪・遺体発見 】

[ 4 ] 1982年(昭和57年)2月17日(水)、三養基郡北茂安(きたしげやす)町で、小学5年生のA子ちゃん(11歳)は午後4時20分ごろ、友達2人と一緒に下校。途中で友達と別れてから行方が分からなくなっていたが、翌日の18日朝、学校から約1キロ離れたミカン畑の中でランドセル姿で死んでいるのが発見された。死体は下半身が裸にされ、乱暴されていた。首にはストッキングが巻かれており、死因はこのストッキングで首を絞めたことによる窒息死と判断。死亡推定時刻は午後4時半ごろで、友達と別れてから10分後のことであった。

A子ちゃんが殺害された2月17日に現場周辺を車でうろつき、女性や下校中の小中学生に片っ端から声をかけていた怪しい男がいた。昼ごろ、犯行現場から北に約1.2キロ離れた国道34号線沿いのバス停にいた主婦に対し、男はしつこく自分の車に乗るように言い寄ったが、主婦が「大声だしますよ」と強く拒否したため、男は走り去った。

同じ人物と思われる男は午後2時半から3時にかけて、バス停から西へ約5キロ離れた三田川町の小学校に現れた。校内に入り込み、下校しよう安としていた小学1年生をトイレに連れ込んだが、騒がれたために逃げている。

このあと、午後3時10分から4時過ぎごろ、男は犯行現場になった北茂安町の町道付近で、下校途中の小中学生に声をかけている。このあと、A子ちゃんを殺害したものと見られている。

【 藤瀬澄子失踪 】

[ 5 ] 1987年(昭和62年)7月8日(水)、藤瀬澄子(当時48歳)は心臓病を患っていた夫に代わって家計を支えるため、武雄(たけお)市内の自宅から歩いて5分ほどの料亭で仲居として働いていた。この日は料亭の仕事が早く終わったため、女性の同僚と3人で近くのスナックに行って飲みながらカラオケで歌った。1時間ほどで店を出たあと、澄子は「知っている人がよく来る店があるから、もう一軒行こう」と誘ったが、同僚の女性は電車の時間があるからと、断ったためその場で別れ、そのまま行方が分からなくなっていた。

【 中島清美失踪 】

[ 6 ] 1988年(昭和63年)12月7日(水)、中島清美(当時50歳)は自営業の夫との間に3人の娘がいる、ごく普通の主婦で近所の主婦たちがメンバーになっているミニバレーボール(5人制バレーボール)のチームに所属していた。この日、ミニバレーの練習があるからと家族に言い残して外出したあと行方不明になっている。自宅から練習会場まで1キロと離れていない。

清美の失踪から1週間後の昼ごろ、清美の自宅に中年男性の男の声で電話がかかってきて夫の忠雄が話をしている。中島宅の電話には録音装置を設置しており、捜査員も同席していた。

「もしもし、中島です」
「奥さん、見つかったそうですね」
「えっ?」
「よかったですね」
「一体どこで見つかったんですか」
「焼米(やきごめ)のほうでしょう」
(少し沈黙)
「あなたはどちらさまですか」
「あんたの知った人間だ」

ここで電話は切れる。40〜50歳ぐらいの男性の声で佐賀弁の中に関西弁が混じっていたという。忠雄は「聞いたことがあるようなないような声」と答えている。その後も、数日おきに自宅や忠雄の勤め先に、無言電話が数十回かかっていた。「焼米」という言葉はのちに遺体が発見される大峠の近くにある地名の通称で、この呼び名を使っているのは地元の人ぐらいしかいないため、この地名の北方町出身で、関西方面で暮らした経験のある男と捜査本部はみている。

【 吉野タツ代失踪 】

[ 7 ] 1989年(平成元年)1月25日(水)、吉野タツ代(当時37歳)は北方町で農業を営む夫と1年前から別居しており、同町にある実家に戻っていた。ちなみに、嫁ぎ先は遺体発見現場から500メートルしか離れていない。実家では両親と小学校4年生の長男の4人で暮らしていた。この日、タツ代は同町にある勤務先の縫製工場「R」を午後6時55分にタイムカードを押して退社し、7時15分に帰宅した。20分ごろ、タツ代宛てに電話がかかってきて、その相手や内容は不明だが電話を切ると、「友達を山内町まで送ってくる」と母親に言って40分ごろ、車(ミラ)で外出し、そのまま行方不明になった。その後、タツ代の車はロックされた状態で、自宅から約3キロ離れた武雄市のボウリング場の駐車場で発見された。そこで、タツ代を見かけたと言うOLの目撃談によると、白のトヨタ・クレスタがやってきて、タツ代を助手席に乗せて走り去ったという。

前年10月、タツ代は「だんなさんの仲間」という男から「だんなさんと別居しとるやろ。話しがあるけん、出てこんね」という電話を受けていて、タツ代は気味悪がって家に閉じこもっていたが、その後も不審な男から同じように誘い出すような電話があり、それは失踪する直前まで続いたという。

【 藤瀬澄子・中島清美・吉野タツ代の遺体発見 】

[ 5 ] [ 6 ] [ 7 ] 1989年(平成元年)1月27日、久里典子(仮名/55歳)は夫が運転する車で用事を済ませて自宅に帰る途中だった。すっかり、日も暮れた午後5時50分ごろ、暗い山道を抜けて北方町の大峠と呼ばれる地区に入ったところで、典子は夫に車を停めるように頼んだ。それは、仏壇に供えるのに丁度いいと思ったトウゴシュの花を見つけたからだった。典子はそのトゴウシュの枝を拾いに車を降りた。約2メートルのその枝は何かで切り落とされているようだった。ついでに、道沿いに咲く花を摘んでいた典子は、ふと崖下に目をやると、何か白いものを見つけた。なんだろうと思い、崖を降りその白いものに3メートルまで近づいたとき、それが女性の死体であることに気づいた。

110番通報で、警察が駆けつけ捜査が始まった。すると、その白い服を着た女性の死体からわずか2メートルのところに上半身が腐乱状態になっている女性の死体を発見した。さらにその1メートルほどのところで白骨死体を発見した。

まもなく、3人の身元が判明した。死後まもない遺体は2日前に失踪していた吉野タツ代、腐乱していた遺体は1ヶ月半前に失踪していた中島清美で、白骨遺体は1年半前に失踪していた藤瀬澄子であった。さらに、3人の遺体のそばにはシャツやセーター、下着、タオルなどが木の枝に通してぶら下がっていた。また、典子が見つけたトゴウシュの枝はノコギリで切られたような跡があり、それは死体遺棄現場を指し示すかのように丁度、真上に置かれていた。

2月5日、JR北方駅前の国道34号線沿いにある空き缶入れ容器からタツ代の名前が入ったメモ帳とデパートの商品券が見つかった。翌6日、死体遺棄現場から西に1.3キロの草むらの中からタツ代の運転免許証入れが見つかった。中には現金4500円入ったままだった。また、遺体発見前にも、タツ代のショルダーバッグ、メモ帳、免許証が遺体から2キロ四方にばらまくように捨てられていたが、これらの遺留品には指紋は残っていなかった。

【 7件の事件の類似点 】

(1)百武律子が失踪した土曜日以外、6件はすべて、水曜日に失踪している。単なる偶然?

(2)いずれも夕方から夜にかけて失踪している。

(3)白骨化して死因がはっきりしていない山崎十三子、藤瀬澄子を除いていずれも絞殺による窒息死である。

(4)A子ちゃん以外、暴行された跡がなかった(山崎十三子、藤瀬澄子は白骨化しているため不明)。

(5)金品を取られた形跡がない。

【 被害者の接点 】

池上千鶴子、吉野タツ代は同じ北方町の縫製工場「R」に勤務していた。また、藤瀬澄子の姪、中島清美の長女も勤めていたことがあった。また、澄子は「R」社の前身の会社に勤めたことがあった。とはいえ、「R」社は地元では大企業であり、小さな町なのでこのような接点があったとしてもなんら不思議ではない。

山崎十三子の母親と百武律子の母親は時期は重なっていないが、白石町のクラブ「K」に勤めていたことがある。

山崎十三子の母親と藤瀬澄子とは小学校と中学校の同級生だった。

だが、やはり、これらの接点も、小さな町なので同じお店で働いていたり、同じ学校で同級生であったとしてもなんら不思議ではない。

犯行現場はいずれも国道34号線の沿線。北方町大峠の崖下で3人の女性の遺体が発見された事件に関しては、その3人の被害者たちの家が半径6キロ以内にあり、さらに、失踪した地点は国道34号線を中心に半径3キロの円の中に入ってしまう。

【 その後 】

1989年(平成元年)2月3日、7人目の遺体が発見されてから1週間ほど経ったこの日、農村部で起きた凶悪犯罪に警察庁は重大な関心を寄せ、警察庁刑事局の広瀬権(はかる)捜査1課長(当時)が現場の視察に現れた。

広域事件は別として、単独事件に本庁のトップが視察するのは、きわめて異例のことだった。未解決事件を多数抱えた佐賀県警の威信が問われていた。また、地元そして周辺住民の警察、特に佐賀県警に対する不信感は根強く、住民たちの間で、公然と言われているジョークに「佐賀県警は大きな事件は“さばけんけい”」というのがあるそうである。

お互いが無関心な都会と違って佐賀の連続殺人の場合、地縁血縁の関係が強い地域社会で起きた凶悪犯罪が未解決である点で注目された。

その要因のひとつに、住民のきずなが強い農村型社会に起きた都市型犯罪というギャップがあげられる。事件後、無責任な噂やデマが広がる一方で、警察の聞き込みに対する住民の口は重かったという。うかつなことをしゃべれば、話しは雪だるま式にふくらみ、あとで “村八分”にされるという怖さがあるのか、住民からの情報は極端に少なかったようだ。

7件の事件のうち4件の事件については失踪から15年経っており、時効が成立している。

2002年(平成14年)6月11日、吉野タツ代の事件について、殺人の疑いで、北方町出身、住所不定、無職のM(当時39歳/鹿児島刑務所に服役中)が逮捕された。

捜査本部によると、Mは事件が発覚した直後から、現場に土地勘があるため、捜査線上に浮上。1989年(平成元年)10月に覚せい剤取締法違反(使用)容疑で逮捕された際に任意で事情聴取。(1)吉野のバッグは自分が捨てたと供述。(2)Mの血液型と吉野の体に付着していただ液の血液型が一致。(3)アリバイがない―ことなどが判明したが、物証がなく、立件を見送っていた。Mは鹿児島県警に窃盗未遂などの容疑で逮捕され、3月に鹿児島地裁鹿屋支部で懲役2年の実刑が確定している。

7月2日、Mが藤瀬澄子の殺害容疑で再逮捕される。公訴時効は6日後の8日に迫っていた。

7月9日、Mが中島清美殺害容疑で再逮捕される。

10月8日、吉野タツ代の遺体から採取しただ液のDNA型がMのDNAとほぼ一致する。

2003年(平成15年)1月16日、佐賀地裁での公判で、証拠品を傍聴人も見ることができるようにと、法廷内にテレビモニター5台が導入された。一般市民の司法参加手段として「裁判員制度」を検討される中、分かりやすく、開かれた裁判にしようと検察側が提案した。この日は、検察が提示した遺体発見現場の写真などが紹介された。

2005年(平成17年)5月10日、佐賀地裁はMに対し、無罪(求刑・死刑)を言い渡した。坂主勉裁判長は「3事件とも被告が犯人であることを積極的に推認できる証拠や事実は存在せず、犯罪の証明がない」と述べた。1審で死刑が求刑された被告に無罪が言い渡されるのは極めて異例で、判決はずさんな捜査を厳しく批判する内容になった。

5月18日、検察側が佐賀地裁での無罪判決を不服として控訴した。

2006年(平成18年)5月31日、福岡高裁で控訴審初公判が開かれたが、検察側は、被告であるMの車内で採取した物質のDNA型が被害者の1人と合致したとの鑑定結果を新証拠として請求した。一致したのは被害者の主婦・中島清美のミトコンドリアDNA。数百人に1人が同じ型を持ち、核DNAよりは精度が低い。事件当時、被告の車内にあった写真から指紋を採取した際にゼラチン紙に残った微量物質を、前年5月10日の1審判決後に新たに鑑定したという。

2007年(平成19年)3月19日、福岡高裁は無罪(求刑・死刑)を言い渡した1審・佐賀地裁判決を支持して検察側の控訴を棄却した。

正木勝彦裁判長は「M被告が3人殺害を自白して書いた上申書に任意性はなく証拠採用できない。その他の状況証拠も犯罪の証明がなされてない」と述べた。検察側が新証拠として提出した、M被告の車内の写真から中島と同じミトコンドリアDNA型が検出された鑑定結果については「ミトコンドリアDNAは母系遺伝するため、同一型を持つ者は少なくなく、証拠として価値は低い」と述べた。

4月2日、福岡高検は最高裁への上告を断念すると発表。

翌3日午前0時で無罪が確定した。

8月20日、佐賀地裁は、刑事補償法に基づいて国が無罪が確定したMに580万円を支払うことを決めた。M側は4月3日に無罪判決が確定したことを受け、殺人罪での拘置が始まってから1審無罪判決言い渡しの前日までの拘置期間(464日)の補償を請求。同地裁は本人が受けた財産上の損失や精神的苦痛などを考慮し、法定上限額の1日あたり1万2500円を補償することを認めた。

刑事補償法4条・・・抑留又は拘禁による補償においては、前条及び次条第二項に規定する場合を除いては、その日数に応じて、一日千円以上一万二千五百円以下の割合による額の補償金を交付する。懲役、禁錮若しくは拘留の執行又は拘置による補償においても、同様である。

参考文献・・・
『迷宮入り事件』(同朋舎出版/古瀬俊和/1996)
『未解決殺人事件ファイル』(廣済堂出版/田宮榮一/2001)

『西日本新聞』(2002年6月11日付/2002年7月2日付/2002年7月9日付)
『毎日新聞』(2002年10月8日付/2002年10月22日付/2003年1月16日付/2005年5月10日付/2005年5月19日付/2006年5月31日付/2007年3月19日付/2007年4月2日付/2007年4月3日付/2007年8月27日付/2010年4月27日付)

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